意外な話
King Vermilion
#4
キング・バーミリオン



 訓練は日増しに熱が篭り、また高度なものへとなって行く。
「それでは駄目だリョウ!。両手で同じ動きをするな!」
「はい!」
 特に闘士タイプを変更したリョウには、マギステルの声が幾度も響いていた。だからと言って特に落ちこぼれている訳ではない。このチームをより機能するように、より洗練されたものになるように指導されている。
「もう一度、始め!」
 次の剣闘試合が二日後に迫っていた。繰り返しになるが、ひとつ勝てばまた次へと、試合を重ねることが今の彼等には何より重要なことだ。順調にその機会を得て行く為にも、目前の試合を着実に勝ち進まねばならない。誰もがその重要さを意識し、訓練時も戦う意思は統一されていた。
「もっと柔軟に!、場合によって剣を盾にするんだ!」
「はい!」
「もう一度、始め!」
 訓練の相手は彼等より経験の浅いチームだが、それでも試合を意識すれば体に緊張感が走る。リョウの手はルディスが汗で滑るほどになり、集中的な訓練の緊張を如実に現していた。そして彼に関わる者達、
「そのふたり!、もっと間隔を詰めろ!。それではリョウを守れないぞ!」
「あいっ!」
 シュウとセイジにもドクトレの声が飛んだ。結局誰にも気を抜けない訓練が、今日も変わりなく行われていた。勝ち上がれる見込みのあるチームだからこそ、熱心に声を掛けられ、厳しく指導されるのだから、これを堪えなければどうしようもない。
 ただ、あと数日で七月に入るこの国の陽気が、毎日少しずつ日射しを強くしている。それに伴うように訓練も辛くなって行くのだから、少しばかりの愚痴や文句も言いたくなるところだ。だが今はチームの誰もが、それを飲み込み必死に訓練を続けている。それ程に迫り来る試合の、結果への期待と後に続く希望的未来が、彼等を確と惹き付けているのだろう。
 しくじれば次は無いが、今は勝ち上がる自信が無い訳でもなかった。だから努力する。
「五番隊は休憩ー!」
 午後一番の訓練が漸く一段落を迎える頃には、
「ハァハァ…」
「・・・・・・・・」
 誰もがすぐに言葉を発せない状況となっていた。それでも、誰の顔にも不安や悲愴感は見えない。チームの状態はとても良いと言える様子だった。
「…ハードだ、な…」
 暫しの間の後、一口水を飲んだリョウがセイジに言った。彼を中心にした年少組のユニットは、前途の通り集中的に指導を受けていた為、後に残る疲労感も殊更だった。セイジもまた息の整わぬ様子で、
「熱心な指導を、受けられるのは、いいことだが」
 と返すと、「いいこと」と言いつつ辛い体を労るように、彼はすぐ日陰の壁に寄り掛かっていた。その横で既にしゃがんでいたシュウは言う。
「勝つ為となりゃしょうがねぇか」
 そう、その思いだけが今の彼等を支えるもの。誰も動作や表情には表さないが、暗黙の了解がそれぞれの息上がる胸に、熱く満たされているようだった。これから試合の始まる二日の間は常に、一秒一秒、一挙手一投足、そんな互いの気持に触れながら過ごすことになるだろう。そうして戦いの意識が鋭く研ぎ澄まされ、最高のパフォーマンスを出せれば本望だ。
 だがそんな風に、剣闘士としての良好な緊張を高め合う中、シュウは常に緩和の話題も忘れなかった。
「いいよな、いいよな、セイジはよォ」
 横に立つセイジの臑を掴むと、シュウは彼の腕に巻かれた例の御守りを見上げて言った。その出来事がシュウには余程羨ましかったようだ。否、辛い時こそ陰で支えてくれる存在があるかないかは、心理的に大きな差を生むかも知れない。しかしセイジは、
「は…?。パトロンがいるからと言って、訓練が楽になる訳じゃない」
 と、意に解さない様子で汗を拭っていた。まあ彼の言うことも一理あるが、シュウはどうしてもその優越性が気になるらしく、
「そうだけどよォ、先のことがある程度決まってるって、色々安心じゃねぇか」
 と続けて、掴んでいた相手の脚に寄り掛かって見せた。自分も何か確かな安心が欲しいと言う、思いを動作で表現するようだった。
 今現在の我々は、与えられた試合をひとつひとつ勝って行くことが現実。だがその先に如何なる未来が待っているか、確かな物は何も無い。喝采を浴び、市民の英雄となって、さてその次には何ができるのか判らない。そんな不安がシュウにはあるのだろう。
 だがそこでリョウが話に加わる。
「安心もあるだろうが、逆に不自由もあるんじゃないのか?」
「そうかぁ?、例えば?」
 シュウが彼の方を向き尋ねると、リョウは落ち着いた思考を披露するように話した。
「俺は、一生ローマに留まれって言われたら、パトロンは断るしかない」
「ああ…、言われてみりゃ、そんなこと言われたら困るな」
 そう言えばラジュラが言っていた、パトロンとは場合に拠り一生ものの契約だと。生涯をその契約で縛られることもあると知れば、必ずしも有益なものではないとシュウは考えてしまった。
 そもそも己を気に入ってくれた人間が、この土地を離れることを簡単に許してくれるだろうか?。特に女性の場合は、傍に置きたくてパトロンになる者が殆どだ。或いは剣闘ファンなら、剣闘士を辞めることを許してくれるだろうか?。人気商売であるが故の、面倒な様々の状況が考えられる。そのメリットとデメリットを秤に掛け、より良い条件を選ぶしかないところだ。
 セイジの場合も、偶然条件的に納得できただけのこと。奴隷である彼等には、元々そんな自由な契約が舞い込んで来る筈はなかった。ならばもしかしたら、パトロンなど居ない方が良いのかも知れない…?
 そこまで考え、シュウはふとリョウに尋ねる。
「リョウは何か考えてるか?、ここを出た後のこと」
 すると、彼の落ち着きが何処から来るのか、確と判る話を彼はしてくれた。
「ああ、俺は、いつか故郷のキテラ島に帰って、町作りをしたいと思ってるんだ。どうしょうもない田舎町だから、どうにかもっと文化的に暮らせるようにさ」
「…真面目なんだな」
「だからある程度の年までは、ローマで働きながら色々勉強したいと思ってるんだ。それだけなら身分は特に必要ないし。だが時が来たら帰らせてくれないとな」
「へぇー…」
 リョウの話す言葉の端々に、彼の故郷を愛する気持が伝わって来る。恐らく彼はこんな共同宿舎に居ても、戦場に居ても、常にその景色と共に生きているのだろう。地に足の着いた人間には余裕があるものだ。それに比べ自分は…と思うと、現状の己の曖昧な状況が些か淋しかった。
「もしかして、あんま考えてねぇのって俺だけかな??」
 未来がまだ何も見えていない、シュウは焦る気持を自ら茶化してそう言うが、リョウはそんな相手の様子をどう受け取ったのか、
「ハハ、シュウにも大事なことがあるじゃないか」
 と、穏やかな眼差しを向けて続けた。すると途端に勢い付いてシュウは捲し立てる。
「あ、ああ!、家族を探すことが第一なのは確かだぜ?。でもその後どうするかまでは、何か想像できねぇんだよな、今ンとこ」
 シュウはリョウとセイジよりふたつ年が若い。それを考慮すると、確かにリョウの言うように、未来を焦る必要はないかも知れない。一度兵役を受けたふたりに比べ、現実的な未来を考えられないのも無理はない。だからリョウは、
「いやそれも大事な未来の目標さ」
 と言って、シュウには優しい言葉を掛けていた。そこでセイジが、
「家業を継がないのか?」
 と口を挟むと、
「希望としては、ローマで商売してぇんだけどな!」
「家族みんなで?」
「勿論そうさ!。家族みんなで、この大都会で商売ができたら楽しいだろうな。色んな国から来た色んな人と出会って、色んな物をやり取りしてさ。うちの伝統の織物が評判になったら最高だな!」
 それまで怠惰だったシュウの口調に活力が戻り、その瞳がキラキラと輝き始めた。訓練の疲労を一時的に忘れたように、身振り手振りまでが饒舌になっていた。それを見て他のふたりはすぐに判った。シュウに取っての未来の希望は、何よりまず家族と共に暮らすことから始まるのだと。それさえ叶うなら彼はきっと、如何なる未来も幸福に暮らせる筈だと。
 胸に秘めた夢や思いはそれぞれだ。それをどう実現して行くか、今は最も不自由な状態から考えている。だが道を開こうと言う強い意思がある限り、いつかここを出られるのではないかと思う。それだけ充実した日々を送っていると、実感できているからこその予感だった。
 シュウの身の上に幸運を、そして我々の上にも幸運を。少し年上のふたりは、最年少のシュウの思いを暖かく受け止め、それがチーム全体の家族的調和を生んでいるとも知った。誰かがその繋がりを望むから、ここにそれが存在するのだと。
 我々は本当にチームには恵まれた。



 そして二日後、開催された剣闘試合は彼等の望む結果に終わった。

 客席から拍手や喚声が上がる中、闘技場から控えの間へと、揚々と引き返して来る五番隊の剣闘士達。まだ興奮覚めやらぬ面々にトウマはひとりずつ声を掛けて労う。
「よくやった!、お前達は本当に強い!」
 この一時だけはいつも、どの奴隷達も皆華々しく明るい顔をして、身の上の恥ずかしさを忘れているものだった。勝利の喜びだけが彼等を誇らしく飾り、先への希望を見出せる出来事だからだ。それだけでなく勿論、世話人やラニスタも喜んで彼等を迎えてくれる。自らの喜びと祝福される喜びが交じり合い、今は最高の時だった。
 列の最後尾からシュウが、
「間違いねぇトウマ!、俺達は強い!!」
 と、かなり調子良く返すが、この時ばかりは歓喜の場を壊す発言を控え、トウマも彼等と共に浮かれるように言った。
「今日は最高だ!」
 そしてシュウの肩を思い切り叩いて歓迎した。そう、今日は前回より纏まりのある相手だった割に、五番隊の戦い振りは前回以上だった。新たなチーム構成と、それに伴う訓練が目を見張る程うまく体現できていた。結果鮮やかな戦闘で圧勝した彼等には、観客も思わぬ掘り出し物を見付けたように喜んだ。まだ客席の半分程度しか埋まらないクラスであるが、この分なら増々名を上げて行けそうな予感が確実に感じられた。
 それをトウマが喜ばない筈もなかった。今自分は素晴しいチームと共に居る。素晴しい可能性を持ったチームと共に闘っている。今は彼に取っても手放しで騒ぎたい時だった。
「みんな、この調子でこれからも行けよ!」
 彼の意欲はまた、次も良い試合を組むことに真直ぐ向かって行った。
「またもうひとつ積み重ねて行きたいな?」
 汗と土に塗れた体を拭くリョウが、疲労など微塵も感じぬ様子でそう言うと、シュウはそれ以上に力強く、
「行きたいじゃねぇ、次も必ず勝つんだ!」
 そう返した。次も必ず勝つ。そのまた次も必ず勝つ。それを続けていければ全く最高だと思うが、口先だけで決まるなら苦労はしないと、
「意気込みはいいが、常に冷静でいることを忘れるな」
 いつものようにナアザが口を出した。無論彼も、この勝利を喜ばない訳ではないが、どうしてもシュウのお調子者振りには一言言いたくなるようだ。それを、
「わかってるよっ!、こんな時に水を差すなよ!」
 やはりいつものように返したシュウだが、ふたりは顔を見合わせると、そんな遣り取りの中にも明るくはしゃぐ気持が見えて、結局笑いへと転じて行った。日頃落ち着いた年長グループでさえそうなのだ、シュウが浮かれ騒ぐのも無理はない。そして、
「今日は観衆もかなり沸いていた。これはコロッセオに近付いて来たと見ていいんじゃないのか?」
 普段は物静かなアヌビスが、珍しく声を張ってそう話すと、すぐにトウマが続けてこう言った。
「その通り!、あとひとつかふたつ勝ち上がれば、コロッセオの剣闘シリーズに出られるかも知れない。今掛け合ってる最中なんだ」
 あとひとつかふたつ。具体的な数を示されれば、五番隊の士気は否応なく上がって行った。コロッセオの舞台に立つことができれば、それこそ自由への扉は目前だと思えた。途端に色めき立つ気持が、誰の心にも光を帯びて舞い降りる。
「大したものだトウマ、おまえはもしかしたら、今のラニスタより優れた興行師になるかも知れん」
 ラジュラがそう誉めると、些かこそばゆそうにトウマは返す。
「おだてるなよ」
「おだててなどいない、事実だ」
 因みにラジュラは同訓練所に最も長く居る世代だ。その間に見て来た興行師、乃至世話役の人間の、それぞれの行動ややり方を見て来た立場だった。故に彼の評価は見当違いなものではないだろう。するとそれを受けてセイジも、
「おまえには才能があるんだと思う」
 と、穏やかに同意していた。恐らく前回の試合、そして今日の試合が、対戦相手も期間も丁度良くセイジには感じられたのだろう。複数チームを兼任できるかはまだ未知数としても、少なくともコーディネート能力については、疑う点がないとの評価だった。そしてセイジの言に反論する者も誰も居なかった。
 するとシュウが、先程のお返しとばかりにトウマの肩を叩き、
「へっへっへ、良かったな?。俺達も上り調子だが、トウマも一緒に駆け上がってる気がするぜ?、俺は」
 盛大に破顔しながらそう言った。この屈託のない様子を見せられると、五番隊と言う家族が自分を認めてくれていることを、トウマは心から有難く思った。例え代々続く家業とは言え、最初から自信満々でそれを継げる訳ではない。どんな奴隷達と出会うかも判らなかった。他の道を諦め戻って来たこの場所に、確かなものを見付けられたことが今はとても嬉しかった。そんな気持から、
「そうだな…、お前達と共に俺も日々成長してるのさ」
 慎ましくお礼するようにトウマが言うと、リョウはその控え目な様子に続けて、
「今は色々いい状態なんだな。状態のいい内にどんどん勝ち進んで行ければいいな」
 と話した。それはまるでトウマの代弁をするかのようだった。このチームは思い遣りがある、この家族は意思が通じている。そして正にそうだと思える面子が、口々に声を上げた。
「おお!、勝って行こうぜ」
「自由の為に!」
「俺達の自由な未来の為に!」
 ここまでは確かに酷く状況が良かったが、これからどうなるかは判らない。怪我人が出る時も、対戦相手が厄介な時もあるだろう。だがいつも、この五番隊のことを必死に考えてくれる世話人と、明るい意思を持つメンバーが揃う限り、苦しい時も乗り越えて行けるのではないか、と誰もが希望を持って考えられる今。
 この今が、頂点に上り詰めるその日まで続けばいい。心からそう願う気持も共通した彼等の気持だった。



 五番隊が二度目の祝杯を上げた翌日、剣闘の訓練は変わらず行われていたが、その終了後、ラニスタの部屋にひょっこりシュウが顔を出していた。
「よっ!トウマ、昨日の剣闘の評判はどうだった?」
 珍しいことだが、何かを話したそうにソワソワしているのを見ると、机に向かっていたトウマも面白そうに顔を上げる。
「上々さ。今日の訓練で分かっただろ?、訓練場を覗きに来た客の数が倍増していた」
「だよな!、あれ、俺達を観に来たんかな?」
「そりゃそうだろ?、昨日剣闘があったのは五番隊と、初心者クラスの数人だけだ」
「だよな、だよな。何か女の奇声が飛んだりして妙な感じだったぜ」
 正に人気と評判を上げている五番隊。シュウの態度と口振りはそれを酷く喜んでいるようだった。実力もさることながら、人気も伴わなければコロッセオへの出場は難しい。これからもっともっと、訓練場の鉄柵前が騒がしくなってくれるよう、良い訓練と良い試合を積み重ねたいところだ。
 だからトウマは一応、
「このくらいで浮つくなよ?、次の試合が十日後に決まりそうなんだ。気を入れてな!」
 と、シュウに釘を差しておいた。周囲が騒がしく、気が散りそうな状況に堪えることも、真の強さを示すひとつの評価点となる。周りがどう騒ごうと戦闘に集中し、結果を出し続ける忍耐力もこれからは必要なのだ。そうでなければコロッセオの五万人の観衆の前で、落ち着いて行動することもできないだろう。
 果たして、それをシュウは身に着けることができるだろうか?。すると、
「おうよ!、俺はまだまだこんなモンじゃ満足しねぇぜ!」
「ハハハッ、そうだな」
 それなりに頼もしい答が返って来て、トウマは思わず笑った。見込み違いでないことが嬉しかった。
 あくまでシュウの、五番隊の目標は自由民の身分を勝ち取ることだ。その障害になりそうな物事に、わざわざ首を突っ込むことはなさそうだった。無論市民の誰かと良い関係を結べることもあるが、騒ぐばかりの烏合の衆をいちいち、構っていられないのも人気商売だ。そんなことより剣闘に集中してくれそうな返事が、トウマに取って何よりの朗報だった。
 これから試合を重ねる毎に、恐らく訓練所の周囲は賑わって行くだろう。そうすることが彼の仕事であり、またその騒ぎから剣闘士を守ることも、彼の仕事の内なのだ。トウマはこれからも自らの家業に、身を入れて奔走する意識を強くした。世間を騒がせ、盛り上げるだけ盛り上げた上で、五番隊が望む結果を手に入れるには、どうすれば良いだろうかと考える。
 初めての仕事でそこまで考えられると言うのも、トウマと五番隊の幸運かも知れない。
 するとそこで、先程から落ち着かない様子のシュウが漸く、
「で、さぁ…」
 と切り出した。
「何だ?、何か聞きたいことでもあるのか?」
 トウマが尋ねると、それまで入口付近に立っていたシュウは、そろそろと彼に近寄りながら言った。
「俺の家族のこと、何か判ったか?」
 そう聞けば、シュウには一等大事なことだったと、トウマはすぐに頼まれ事を思い出す。ただ現時点では、特に新たな情報はない状況だった。
「うーん…、いやまだ何の連絡もなくてな。調べるのに少し時間が掛かるらしい」
「そうなのか。まあまだ俺が自由民になるまで充分時間はあるし、それは構わねぇんだけどな」
 残念ながら、シュウの最も知りたいことはおあずけのようだ。けれどシュウが「それは構わない」と言うので、何か他にも尋ねたいことがあるらしいとトウマは知った。案の定、シュウは何処かモジモジとして、やや言い難そうな様子で再び口を開く。
「それとよぉ…」
「何だ?」
 シュウが今日ここにやって来た、一番の理由はこんなことだった。
「俺にパトロンの申し出とか、来てねぇの?」
 何かと思えばそんな話かと、トウマは一笑して現状を考える。五番隊の人気が上がって来た様子を見て、早くも支援者からお声が掛かることを夢見たようだと。
「ハハハ!、気が早いな」
 トウマは言った。シュウは知らないことだが、多くの場合大会場の試合に出場するようになると、徐々にそうした話が上がるようになる。まだ中規模の試合にしか出ていない五番隊には、気の早い話と言われても仕方なかった。ただシュウは、
「何で気が早いんだよ?。セイジにはもう、」
 と、身近に居る前例を参考に話している。その答をトウマはシュウにこう伝えた。
「あれは特殊なケースなんだシュウ。普通剣闘ファンは、それぞれの戦い振りをじっくり観てるだろ?。その中のひとりを支援するとなったら、選ぶにもそれなりの時間がかかる。だがシンは、実は剣闘にはそこまで関心のある奴じゃなくてね」
「え?、関心ねぇの?」
 そこでシュウは目をパチクリさせる。確かに、剣闘が好きでもない人間が、剣闘士の後援者になることは特殊な事情だと、そこまで聞いただけで素直に思えた。では何故シンは、こんな早くからパトロンになったのだろう?。それについてもう少しトウマは話してくれた。
「だから訓練は滅多に見に来ないだろ?。あいつは剣闘士としてじゃなく、ひとりの人間としてセイジを気に入ったらしいんだ。俺も話を聞いた時は驚いたが」
「えっ??、それって何?、恋しちゃってるってこと?」
「それはどうか知らんが…」
 話が思わぬ面白い方向へ向きそうだと、シュウは小躍りしながら食い付いている。だがそれを見ると、あまり個人的な話題を茶化すのは、シンにもセイジにも良くないとトウマは考えた。なので少し矛先の違う話に切り替えて続ける。
「シンがいつもここに来る時、従者を連れてるのを知ってるか?」
「ああ」
「その従者がもういい年で、体を張ってシンを助けることが難しくなって来てるんだ。貴族は町中でスリや盗賊に遭い易い。できれば護身の為に誰かを傍に置きたいんだ。その従者の代わりを探そうと言う時に、丁度ここでセイジを見付けたと言う訳さ」
 そこまでを聞くと、一時は野次馬的に盛り上がった好奇心が、俄に落ち着いてシュウも状況を考えられた。つまりそれは職業的スカウトであり、将来の契約としては特に珍しいものではないようだと。セイジさえ納得すれば、気に入ってくれている支援者なら、嫌なことを無理強いされるでもないだろう。
「フーン…?。前に話したことがあるが、パトロンになる条件が合ってたってことか」
 とシュウが話すと、トウマは納得してくれた様子に安心して、
「そうなんだ。能力的には誰でも良かっただろう。ただ従者は四六時中行動を共にするからな、気の合わない奴や、落ち着かない奴では困るだろうし」
 最後にそう説明した。成程元剣闘士なら、警護の仕事は打ってつけだと誰もが考える。その中でより自身の希望に合った人材を、と言う段で、シンが選んだのはセイジだったと言う訳だ。そこにはもしかしたら、仄かな恋心も含まれるかも知れないが、例えそうであってもふたりがここで出会ったと言う、巡り合わせの運が大きいと思えることだった。
 それを知るとシュウは、自分にもそんな運が巡って来るよう祈りつつ言った。
「なーるほど。たまたま早く条件が揃うこともあるんだな」
 世の中には必然的な幸福と、幸いな偶然が存在する。前者は努力でなんとかすることだが、後者を上手く掴めるかは幸運を祈るのみだ。やはりセイジが少し羨ましいとシュウは思った。
「ああ。但しセイジがこの先死んだり、大怪我したりしなければな」
「それは大丈夫だ!、俺達五番隊はそんなヘマする奴はいねぇ!」
「そうだな、まあシュウ以外はそこまで心配してないさ」
「おいっ!」
 そうして一頻りその話題で盛り上がった後に、突然トウマは、ジョーカーとも言えるような話をする。
「しかし…、お前達はパトロンが付く間もなく自由民になれるかも知れないな」
「えっ!、マジ?」
 これまで話して来た流れは何だったんだ?、と思わせる意外な発言だが、否、本来はこのルートは使えないと、トウマは後にこう続けていた。
「ああ。今は実にタイミングのいい時なんだ。コロッセオが完成して、皇帝主催のシリーズ戦が多く開催されるだろう?。ポッと出の剣闘士だろうと、そこで気に入られれば自由民の身分が与えられる。これまでダラダラ戦って来たベテランに比べたら、超スピード出世ができる時期さ」
 つまり一般剣闘士からパロスへ、パロスから自由民へ、と言う従来の手順を踏むことなく、短期間で自由民になれるチャンスがあるのだ。そしてパトロンに未来を左右されることもない。こんなに良いことはないとシュウが思わぬ筈もなかった。
「それがいい!、そうなったら最高だぜ!!」
 思わず声に力の入った彼に対し、トウマもまたその路線を狙っているらしく、
「だな。ティトゥス帝は剣闘を好んで観戦する皇帝だ。コロッセオに出場できれば機会は充分にある」
 シュウと目線を合わせて確認するように返した。
 そう、シュウを始め今の若手の剣闘士達は、その世代と言うだけで運が良いかも知れない。例えば二十年程前のネロ帝時代は、殆ど剣闘試合が行われなかった。切っ掛けは闘技場内での乱闘があった為だが、ネロ帝自身が剣闘を好まなかったことも理由のひとつだ。そんな時代に奴隷にされた者は、何に希望を見い出すこともできず哀れである。だが今は違う時代の流れを確と感じられていた。
 現代の剣闘はエンターティメントである。平和に暮らす人々を楽しませるものである。だからこそ奴隷達にも、その戦い振りに見合った栄光が齎される。運と実力と戦士としての魅力を持つ者が、富と自由を勝ち取れる壮大なゲームである。
 ならば、今と言う時を逃して何になる。
「よぉし!、あといくつ勝てばいいのか知らねぇが、俺は必ずやってやるぜ!。その為のお膳立ては頼んだ、トウマ!」
 力強く拳を握り締め、シュウはこれぞ我が道と言うものを見付けたように、声高になって捲し立てた。何事もシンプルなままで済めば、結果もシンプルでクリアなものになるだろう。余計な柵は要らない。ただ目指す物の為に真直ぐ進んで行こう、と、シュウはここで思いを新たにしていた。そしてトウマも、
「ああ、勿論俺も努力する。少しでもいい試合に出させてもらえるように」
 シュウの明朗簡潔な意欲を肌身に知り、改めてそう約束してくれた。それぞれの努力がこの先の未来を決定するのだとしたら、五番隊の全員、そして世話人としての初仕事の彼にも嬉しい結果が、未来には待っていることだろう。必ずそうなってほしい、必ずそうなるようにしたい。彼等の思いは紛れもなくひとつだと、確かな感触を得られたこの夕暮れだった。

 その時ラニスタの部屋にもうひとり、
「こんな所にいたのかシュウ」
 とセイジが現れた。姿の見えない彼を探していたようで、その顔を見ると、もう用が済んだとばかりに体を反転させようとしていた。
「おっ、もうメシの時間か?」
「ああもうそろそろな」
 そしてさっさと行ってしまいそうだったが、シュウはそれを言葉で引き止めた。
「おいおい、隅に置けねぇなセイジ?。やっぱりその地中海系とは違う見た目が、人の興味をそそるんかな?」
 突然そんなことを言われ、何事かと思ったセイジは足を止める。
「何のことだ」
「おまえのパトロンの話だよ。今トウマから聞いたんだが、おまえ滅茶苦茶好かれてるんじゃねぇか。今日だって柵の外から、女の黄色い声が飛んでたぞ?。何でそんなにモテるかねぇ?」
 しかし、おちょくり半分のシュウに対し、セイジの表情は酷く冷徹に見えた。既にパトロンが決まっている彼には、その他の観客などどうでも良いのかも知れないが、そうしたこととはまた違う、何かを考え尽くしたような様子だった。そして、
「観客に人気でも、後の幸福に必ず繋がる訳ではない」
 と話すと、シュウはこう答えるしかなかった。
「そりゃそうだけどよォ」
 何故セイジがそうであるのか、今のシュウには全く理解できなかった。何故ならローマは彼の知らない、特殊な事情のある国だからだ。剣闘で得られる物だけでは、望む通りに生きて行けない。ローマの恩恵を充分に受けることができない。それを調べた上でセイジは、自身の将来を決める契約をした。
 その事情をセイジは、丁度良い機会だと思ったのか、或いは場所がラニスタの部屋だからかも知れない、ここで初めてシュウに明かすことにした。
「私がパトロンを受けたのはな、シュウ。私にはローマの市民権は取れないと覚ったからだ」
 それこそが、自由民となった後の最大の障害だった。
「えっ…?。何だよそれ?」
「一度奴隷として連れて来られた者には、余程のことがない限り自由民以上の階級は与えられない。自由民となれても、ローマ市民並の権利が与えられることはなく、それどころか元剣闘士と言うだけで蔑まれることもあるのだ、ここでは」
 つまり自由民の自由とは無責任なもので、国を出入りする行商人以上のことはできない立場なのだ。ローマに数ある町の施設は皆ローマ市民専用で、自由民は闘技場の客席にすら入れない。働けば当然納税の義務が生まれるが、自由民はその税金で行うサービスを何も利用できず、何の恩恵も得られないと言う仕組みだった。
 これでは、自由民となってローマに残る意味が無い。プロの剣闘士であり続けるなら、支援者に支えられた豊かな生活の中で、一般市民の権利など気にならなくもなろうが、そんな考えは今のところ誰も持っていなかった。当然セイジも、自由民となって解放されたい意識を持つのだから、避けては通れない問題だった。
 そしてシュウも、これまでの明るい態度を一変させトウマに問い掛ける。
「そんな…、本当か?」
 するとややバツの悪い様子でトウマは答えた。
「ああ、まあ、残念ながらそんなところだ。俺の身分が上がらないのも同じことさ」
 折角新機軸の展開に盛り上がっていた所に、気の沈む話題を持って来たものだと、トウマの口調はやや恨み節でもあった。だがそれを知ってか知らずか、セイジはシュウに更に話を続ける。
「例え英雄となっても、大手を振って歩ける立場にはなれない。国の家族が名声を聞くこともない。それなら私はどう生きる?、と思った時、自由であることだけが財産だと私は思ったのだ。だから私の意思で、私の好きなようにすることにした」
 そう語るセイジには、もうひとつの決断をした清々しささえ見えた。話す内容はある種の落胆を齎すものだが、それでもその中で、最善の選択をしたと言う自信なのだろう。
 奴隷達には輝かしく映る自由民と言う存在。それがシュウにも途端に色褪せて見えた。家族と再会し、自由な商売をして家を盛り立てて行こうと考えていた、彼の未来の計画が途端に揺らいでしまった。ではどうすればいいと言うのだろう?。大した落ち度なく奴隷とされてしまった自分は、どうしたら幸福な未来を臨めるのだろう?。俄に迷いながらシュウは話を続けた。
「英雄になっても、何の特権もねぇのか…」
「市民の英雄ではあっても、社会的に認められるものにはなれないのだ」
「セイジはそれでいいのか?」
 すると、彼はそれまでの固い表情を少しばかり崩し、シュウには思い掛けぬことを話し始めた。
「ああ…。私は、ブリタニアに戻りたいとは特に思っていないからな」
「えっ?、そうだったのか」
 誰でもいつかは自分の国に戻ることを、考えているのだと思っていた。ローマのような大都市は若い内には刺激的でも、何れ年を重ねた後には望郷の念を感じるだろうと、シュウは自身の考えの中で自然に思っていた。無論それが一般的な思考かも知れないが、それ以外の考え方も存在することをセイジは教えてくれた。
「家業の牧場を継ぎたいとも思わんし、元々ローマに憧れ、いつかここに来たいと思っていたのだ。こんな形で来るとは思わなかったが、まあ、後は成り行きのまま、良い仕事に従事できればいいと思う。貴族の家に仕えていれば、後に何らかの道が開けて来るかも知れない」
 そんなセイジの思いが結果的に、パトロンを申し出たシンの希望と合致した。世の中にはそんなこともあるのだと、巧妙な巡り合わせにシュウはただ目を見開いている。
「そんなのもアリなのか…。リョウは、いつかは地元に戻るって言ってんだぜ?。暫くの間はローマで働きながら、国の為に勉強してぇんだってさ」
 ふと前の会話を思い出し、シュウがそんなことを口にすると、横でトウマが軽く頷きながら続けた。
「地道で良い選択だな。リョウらしい」
 因みにローマ市立の学問所には、当然自由民は通えないが、仕事を通じて社会・技術を勉強することや、民間の私塾には自由民でも誰でも参加できる。リョウはその道に進もうとしているようだ。何れにせよ、自由民からのスタートには色々な制約が付く。決して始めから楽ができる道程ではない。剣闘試合を勝ち上がっても得られるものは、ほんの僅かと言う事実をシュウは今思い知った。
 思い知った上で、これからどう意欲を繋いで行くか考えるしかなかった。
「何かローマは、もっと考え方も豊かで、自由な成功のある国だと思ってた」
 シュウがそう口走ると、トウマは自身についても言える苦々しい事情を話す。
「それは、そうであるといいと言う理想さ。ここはそんな理想だけの都なんだ。みんな夢を抱いてローマにやって来るが、自由な成功など元々、市民権を持つ豊かな者にか授けられない。否、市民である俺だって思うように生きられない。貴族だってそこまで自由とは言えない。つまり真の自由など何処にも無いんだ、このローマ帝国には」
 理想だけの都。そんな実態を知ってしまえば増々切なかった。それについてセイジも、
「そうかも知れぬ」
 と同意すると、トウマはもうひとつ例を挙げて言った。
「あるのは物質的な豊かさだけだ。まあ豊かさも自由のひとつの側面だからな」
「そう、だったんだ…」
 確かにローマの豊かさは、他国とは比較にならない程群を抜いている。この時代の最大の物流都市という意味では、誰もその事実を疑うことはなかった。餓えや乾きの無い世界と言うのは、成程最低限の幸福を与えてくれるだろう。まだこの時代は食うや食わずの農村などが、世界に多く存在するからだ。
 だが物質的豊かさと言うのは、人間の最も基礎的な尊厳を守りはするが、それ以上の幸福を約束するものではない。物質的自由とは、人の平等性を尊重するものではない。ここにはあらゆる成功を求める人間が、常に犇めき合っているが、彼等の望みが達成されるか否かは、まずその身分である程度振り分けられてしまう。そんな不公平な前提も自由の内、と言う話だった。
 それを聞いてシュウが、どう理解し飲み込むか迷うのは当然だ。まだ若い彼には、この巨大なローマと言う都市が、噂通り富と栄華を生み出す場所だと言う、希望的イメージで捉えられていたに違いない。少し年上のセイジやリョウは、何事にも表と裏が存在することを始めから、理解してローマにやって来た様子なのに対し、シュウのここでの驚き様は居たたまれなく感じる程だった。
 思い描く自由な未来を得られないとしたら、何の為に戦えば良いのだろう?。この先何を目標に剣闘を続けなければならないのだろう…?。
 けれど、黙ってしまったシュウにトウマは敢えて言った。
「まあまあ、気を落とすなシュウ。少なくとも奴隷と自由民では全く立場が違う。拘束される身かされない身かでは、前者の方がいいに決まってるだろ?。その先のことは、まず自由民となってから考えればいいんだ」
 明日のことは明日考えろと、最近幅を利かせて来たカトリック教の教えにもある。どの道剣闘試合を勝ち進まなくては、何を得ることもできない現在の境遇だ。考え過ぎるな、今に集中しろ、と、シュウには常に言い聞かせなくてはと、トウマは思った。すると多少大人しい態度になったが、
「ああ…、…そうだな!」
 シュウはそう言葉を返していた。まだ充分な理解はできていないようだが、テンションの下がった気持を自ら切り替えよう、前を向こうとはしているようだった。
 それなら大丈夫。自暴自棄になりさえしなければ、これからも順調に進んでいけるだけのポテンシャルがあると、トウマは五番隊のメンバーを信じている。
「ひとつ終えたらまたひとつ、だ。今は勝ち続けることだけが美徳なんだからな」
 彼が最後にそう念を押すと、その声の揺るぎなさに鼓舞され、
「ん!、ごちゃごちゃ考えても始まんねぇか!。とにかく皇帝主催の闘技会に辿り着かなきゃな」
 シュウの生来の明るさも徐々に戻って来る。セイジもまたトウマの言に寄せ、
「それが成功しなければ何も始まらない」
 と続けると、三人の間には再び一体感が生まれ、例え茨の道でも前に進もうと言う意思の交流が、言葉にせずとも感じられるようになった。未来がどうであろうと、その扉を開く条件は結局変わらないのだ。ならば今はただその扉を叩ける場所へと、無我夢中で邁進するのみ。
「そうだ、俺達の自由な人生はまだ始まってもいねぇんだな!」
 シュウがそう覚る頃には、夕食時を迎え宿舎の中が忙しなくなっていた。これからも毎日ここで、食事をし、訓練をし、夜は眠ると言う生活を当面続けることになる。だがいつかはそのサイクルから解放される時が来るだろう。それが死や大怪我でなければまず幸いだ。そしてできれば、剣闘士としての最高の結果を出したいと誰もが望む。それが自由への最初の一歩だからだ。
 今はその為に生きている。それで充分じゃないか、と、シュウの心には新たな炎が灯った。



 だが気分は何処か淋しくなった。

「さあ、今日もやってやろうじゃないか!」
 試合前、ムードメーカーのラジュラがそう声を挙げると、
「おう!、俺達は負けねぇ!」
 シュウは変わらず反応良く、誰よりも力強い気合を見せていた。
「俺達の自由の為に!」
「コロッセオへと辿り着く為に!」
 続けて口々に高らかな宣言を放つ面々に、
「しっかりな!。全ての観衆がお前達の戦いに注目するよう祈る」
 トウマは冷静ながら奮い立たせる言葉を送った。そして、
『…あの人を守って、彼等のチームを守って…』
 観客席の片隅では、シンが震えながら手を合わせ祈っていた。どうかこの五番隊に破格の恵みあれと。どうか彼等が望む出口に立てるようにと。



つづく





コメント)今回は話が暗いっす。最初からそういう流れになることは判ってたんで、予定通りですが、書いてる自分も色々辛くなります(^ ^;
しかしシュウが一番年下と言うのはハマリますね。やっぱりトルーパーの初期設定がそうだからなのかな?。と言うところで続きへどうぞ。



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