説得
King Vermilion
#5
キング・バーミリオン



 ひとつ勝利すればまた次へ。その繰り返しの日々は続く。
 季節が初夏から真夏へ、真夏から晩夏へと変わって行き、剣闘士達の訓練場の様子も少しずつ、秋の気配が感じられる変化をして行った。だがそんな風情など楽しむ暇もなく、彼等の生活は目紛しい上り調子のサイクルで動いていた。勝ち続けることだけが美徳、とトウマは言ったが、正にその美徳を満足に重ね、五番隊は日の出の勢いで勝ち進んでいた。

 ある時初めてコロッセオでの試合に出場した。前代未聞の大会場と、そこに集まる観衆の熱狂は、鳥肌の立つような緊張感を剣闘士に与えるが、却ってそれが堪らない快楽にも感じられた。そんな意識で戦えた五番隊は、動きの固い相手を難無く倒すことができた。

 ある時シュウは左足を切られた。出血が酷く傷跡は長く残りそうだったが、運動機能には問題ない怪我で済んだ。だが足の怪我など、と言ってアヌビスが自身の顔の傷を指す。剣闘士に怪我や傷など日常茶飯事だ、と、常に励ましてくれる者がここには居た。

 ある時セイジが目に怪我を負った。半狂乱になって駆け込んで来たシンは、彼の為に優秀な医者を呼んで手当させた。お陰でセイジの右目は多少視力が落ちる程度で済んだ。こんな時熱心なパトロンが居ると頼もしいと、誰もが羨ましく思った。

 ある時相手はスキッソールと言う特殊な闘士で、片手に剣、もう一方の腕には剣の着いた篭手を嵌めている、殺傷能力の高いチームだった。これを相手にするのは手こずった。盾を持たないと言う弱点を突いて何とか勝利したが、メンバーは全員切傷だらけになった。

 こうして五番隊の評判は鰻上りに上がって行き、いつしか彼等の訓練場には、その勇姿を見ようと大勢のギャラリーが集まるようになった。それだけでなく、試合が決まればチケットを求める市民が長い列を成し、すぐに席が無くなってしまう程となった。九月の始め、今や五番隊は押しも押されぬ人気チームだった。
 その中で、ナアザとアヌビスにはパトロンが付いた。ふたり共剣捌きの上手いセクトルだけに、通好みの剣闘ファンには人気があった。彼等はアマチュア剣闘士を卒業した後にいずれ、マギステルを始めとする指導者となる契約をした。長くこの剣闘士システムに携わることとなるが、下手な職業に就くよりは確実で、それで良いとふたりは割り切っているようだった。
 リョウにもパトロンの申し出があったが、彼は前の理由でそれを断った。前途のふたりのように、指導者として働けるなら良かったが、リョウに来た話はある家の囲われものになることだった。これから一生をローマで過ごし、ローマに骨を埋める契約はできなかった。彼の最終的な目標は、ギリシャにローマ土産を持って帰ることなのだから。
 それ以外にも、五番隊に関しては様々な話題が飛び交い、トウマの生活も酷く忙しいものになっていた。剣闘人気が盛り上がる最中に、人気集団を抱えている喜びがなければ、彼はとっくに破綻していたかも知れない。チームの管理と試合の取り付け、対戦相手の情報収集と分析、各闘士のファンからの連絡受け付けなど、寝る間も惜しんでこの仕事に尽くしていた。
 まあ、コロッセオ落成記念シリーズが終わり、試合の数も疎らな時期に入ると、そこまで忙しいことはないのだろう。今は最も楽しく活気ある時だと思うからこそ、存分に働きたいのかも知れない。
 そんな今、遂に皇帝主催の剣闘試合に参戦できそうな運びとなっていた。五番隊が待ち望んでいた機会が、もうすぐ目の前に迫っている。トウマは何が何でもその機会を逃さぬようにと、毎日ピリピリしながら連絡を待っていた。その舞台に五番隊を送り出す日を、無論彼も待望していたのだ。必ずその切符を手に入れたいと思わぬ筈もなかった。
 不遇な剣闘奴隷達の為に、自身のラニスタとしての経験の為に、加えて訓練所の評判を上げることにもなるからだ。

 そして、その日はやって来ることとなる。
 一丸となって目指して来た皇帝主催の剣闘試合。そこで誰もが納得する勝ち方ができれば、間違いなく自由民として解放してもらえる筈の大事な舞台。漸く辿り着いた、漸く運を引き寄せることができたこの機会を、絶対に逃すことはできない。
 五番隊のメンバーは無心に、その試合の為の仕上げに勤しんだ。最早訓練を辛いのキツいのとは、誰も欠片も言い出さなくなった。そもそも何も感じていなかった。ただ迫り来る心地良い緊張感に、自然に体が動いて訓練する状態だった。
 誰もが自然に戦えている。自然に効率の良い動き、効果的な動きができている。積み重ねられた訓練と経験が今は最高に調和し、また真直ぐに試合へと向いた精神が、全ての動作を洗練させている。この状態まで無事に到達できたのは運もある。だからこの良い気運に乗って、最後の試合も勝ち取りたいと誰もが願う。願い、祈った。他に頼れるものは無い立場の奴隷達は、ただ只管に祈り汗を流した。
 必ずこの手に自由を、栄光を…。



 その日は、まだ夏の続きを思わせる太陽が燦々と降り注ぐ、雲ひとつない快晴の空模様だった。

 石壁で被われた薄暗い控えの間には、既に観衆のざわめきが切りなく聞こえている。客席から、或いは客席に入れていない外の群集から、さざ波のように騒ぎ声が響いている。試合直前の騒がしいひと時。もうそんな中で過ごすことにも慣れた彼等だが、今日は一際その喧噪が大きく感じられた。
 何故なら、今日は皇帝がこの試合を観覧に来る。ただ剣闘を観て楽しむだけでなく、皇帝がその結果に如何なる裁決を下すか、市民は今や遅しと注目して待っている。
 その試合に選ばれたチームとしての喜び。そして自身がここまでやって来られた喜び。今はあらゆる過去の経緯が頭に浮かんでは、未だ見ぬ未来の光へ消えて行くようだった。華々しく剣闘を繰り広げる前のひとときに、こんなに落ち着いて過ごせるようになったのも、ひとつの嬉しい成長だと皆が思う。誰かの口癖ではないが、落ち着いて慎重にと言う意識を忘れず居られる、心の穏やかさは精神的優位に繋がるからだ。
 五番隊の面々は静かに闘志を高めながら、試合場の入口を守る兵隊の合図を待っていた。そしてその兵隊に、指示を伝えに他の兵隊がやって来ると、いよいよ幕が開くことを彼等は覚った。
「遂に来たな…!」
 ラジュラがそう言って立ち上がると、その横でアヌビスは、
「これが最初で最後と思って戦わなければな」
 正に真理と思えることを言って、他のメンバーを俄に感心させた。確かにそうだ、これを最初で最後にしなくてはならない。無論もう一度チャンスが与えられることもあるだろうが、そんなことを言っていては勝てるものも勝てないかも知れない。
 シュウがその意気込みに気持良く乗って、
「俺達は勝つ!、必ず勝つ!」
 と、気合を入れて叫ぶと、最早習慣のようにナアザが口を挟んだ。
「気合だけで勝てるならいいが、落ち着いて行けよ」
「わかってるよ!」
 しかしそのやり取りが、士気を下げることも既になかった。これまで行って来たことの全てが、良い結果を続けることの土壌となっているのだから、それはもう勝利の儀式と言っても過言ではなかった。なのでふたりを微笑ましく見たリョウは、
「必ず自由民を勝ち取るんだ!」
 一際力強くそう続けた。そしてセイジもリョウの意気込みに続けて言った。
「我々は必ず自由の身になれる!」
「おう!」
 試合前、こうしてそれぞれの意識を高め合う場に、ずっと立合って来たトウマも今日は酷く落ち着いた様子で話した。
「これまで通りだ。何も変わっちゃいない。これまで通りに戦えばいいんだ!」
「おう!、俺達はこれまで通り強い!」
 それに応えたシュウの変わりない様子を見ると、試合前なのにもう安堵感さえ生まれていた。ここまで来たら最早逃げも隠れもできない。結果がどちらに転ぼうとそれを受け止めるしかない。だが例えどうなっても、酷い失意は生まれないだろうと何故か自信があった。やれるだけのことはやった、五番隊には充分な力がある。もうそれで良いではないかと開き直ったような気持が、トウマの心を晴れ晴れとさせていた。
 否、奴隷達にはそれで良いとは言えない。だからこそ良い結果を持ち帰ってくれる筈だ。そう考えられる充実した今が、トウマには何よりの喜びであったに違いない。

 そして五番隊の前にはだかる鉄の柵が開かれた。それを潜ればもう戦いの始まりだ。

 見渡せば溢れんばかりの大観衆。これまでとは少しばかり違う観客の興奮が伝わって来た。楕円形の客席の丁度真ん中に設けられた、トリブナル(貴賓席)の中央には既に堂々と、ゆったり座っている皇帝の姿が見えた。それを確認すると、闘士達の体を巡る血が途端に騒ぎ出すようだった。どうしてもこの方の前で、最高のパフォーマンスを出さなければならないと。
 既に奇声を上げ始めた観客、身を乗り出し過ぎて喧嘩になっている客も居た。客席の大半が試合前の盛り上がりに揺れている。それに比べるとトリブナルに座る面々は、流石に階級の高さを感じさせる優雅さだった。誰もがどっしりと落ち着いて席に着き、婦人は扇子を片手に大人しく待っている様子だった。
 その一角にはシンと、その父親も今日は観覧に来ていた。
「シン、何をしているんだ?」
 父親がそう声を掛けたのは、シンが現れた剣闘士達をまるで見ず、下ばかり向いているからだった。膝の上に置かれた拳は強く握られ、顔色は白く強張っていた。
「え…。怖くて、とても見ていられないので」
 とシンが話すと、父親は些か呆れたように返した。
「おやまあ、それでよく闘技場に足を運んでいたものだ」
 するとシンの後ろに控えていた従者が、これまでのシンの行動をこう説明した。
「シン様はいつも、闘技場に来ては祈るばかりです。全く観ていない訳でもないのですが」 「・・・・・・・・」
 そう言われた通り、シンはこれまでまともに剣闘を観てはいなかった。そして今日も一部始終、全ての闘技内容を観ることはないだろう。元々好きでもないものを、ただひとりの安否を気遣う為に我慢して足を運んだ。そんな経過を今の様子から知ると、優し過ぎる息子の平和を望む気持が、父親にはやや不憫にも感じられた。
 剣闘は現代の娯楽である。娯楽であるからこそ如何なる殺傷が行われようと、観衆は喜んで拍手喝采をする。闘争心は人間の本能だ。けれどそんな荒々しい感覚に着いて行けないシンは、ローマの巨大な城壁に守られた、純粋培養の弱々しさをこうして見せている。平和な時代だからこそ、そんな新人類が生まれて来るのは仕方のないことだった。
 だからだ、と父親は思った。シンは人と争う意識が希薄過ぎる。それを補う人物が傍で助けてくれなければならないと。そして、
「まあ良い、おまえの気に入った奴隷が、どんな戦いをするかは私が確と見届けよう」
 彼はシンにそう話すと、すぐにでも始まりそうな試合場に視線を移した。シンに取ってはとにかく、こうして家族が己の希望を認めてくれたことに、ただただ感謝するばかりだった。初めて我侭らしい我侭を言った、その結果が吉と出るようにこれからも祈り続けるしかない。そして今は、もう二度と闘技場などと言う場所に来なくても良いように、この試合の結果を祈るばかりだった。
 どうか五番隊の望みが叶いますように。どうか皇帝の認める戦いができますように。
「今日はティトゥス帝も御機嫌のようだ。良い試合が観られるといいな」
 父親が、皇帝の様子をチラと見てそう言った。この抜けるような青空の許、目を見張る素晴しい剣闘試合になれば良い。そして気持の良い判定を下してくれれば幸いだ。

 闘技場の真ん中に、ふたつの剣闘士チームが向かい合って並んだ。
 今日の相手は到底油断できる相手ではない。同様にここまで勝ち上がって来た新進気鋭のチームだった。言わばこれは新人戦とも言える。但し新人であろうとも、即自由の身になれる特別な舞台だった。
 皇帝が、開始の合図をする為に席を立った。それを見て控え室のトウマは強く胸に念じる。
『存分に戦って来い五番隊!、皇帝にその強さを見せ付けてやれ!』
 かくして本日最大の観覧試合が開始された。皇帝がその右手を挙げると、会場からわあっと喚声が上がり、五番隊の、これで最後になるかも知れない試合は始まった。
『俺達は必ず勝つんだ…!』



 敵のふたりのレティアリィが振るう槍が脅威だった。
 後は通常のセクトルで、定石通りに動くのが却って面倒だった。
 いきなり接近戦は難しい、どう相手を崩して行くか迷った。
 これは膠着した試合になるかも知れないと、序盤の双方の動きから誰もが思った。
 このままでは駄目だ。
 その時シュウが思い切り、力任せに相手のひとりのセクトルを押し倒した。
 陣型の一角が崩れたのを見ると、リョウが一気にそこを突いて攻撃した。
 リョウのサポートにセイジも加わると、敵は押され戦線が一気に後退して行った。
 敵の槍が前線のセイジへと向いたが、そこでラジュラが上手く銛を突き、敵の腕から胸にまんまと命中した。
 ほぼ戦闘不能のダメージを与え、これで槍に対する警戒はそこまでしなくとも良くなった。
 残るレティアリィはラジュラに任せておけば良かった。
 そして数的有利が五番隊に生まれた。
 満を侍してアヌビスとナアザが、敵の側面から攻撃を仕掛けて行った。
 前方からはリョウ、シュウ、セイジ、側面からアヌビスとナアザ、敵は囲まれ増々後退して行った。
 剣と剣の交わり、或いは剣と盾のぶつかる音が長らく続いた。
 敵は防戦一方となってはいるが、その防御が固くなかなか崩れなかった。
 そこで今一度、ありったけの力を振り絞り、シュウがひとりに体当たりした。
 よろけた敵のセクトルを見逃さず、冷静にナアザがそれを仕留めた。
 敵のひとりがまた倒れ、残るは四人対六人となった。
 もう、そこまで来たら絶対に負けはしない。



 そして、五番隊の奇跡的な道程は完成したのである。
 彼等が闘技場での戦闘を終えた時、皇帝は席を立って手の親指を高らかに空へと向けた。それが解放への合図だった。会場が割れんばかりの拍手と喚声で、五番隊の六人の栄光を讃えていた。これでもう名実共にローマの英雄であり、自由民の身分を与えられたひとりの人間となれた。
 もう何も己を拘束するものはない。戦う以外の事が何もできない生活を、我慢して続けることもない。まだその実感は、すぐには沸いて来ないかも知れないが、最も大事な試合を勝利した喜びだけは、誰の胸にも輝かしく光る思い出となった。
 自分の未来は今日この時から始まるのだと。
 光のように早く駆け抜け、奴隷時代を忘れて行く希望の星になるのだと。



 その翌日。
 前夜は盛大なパーティが行われ、今朝は皆二日酔いの状態だった。いつものささやかな祝いの席とは違い、訓練所の全員が参加して、料理も酒も大盤振る舞いの夕餉となった。それだけこの訓練所に取っても、光栄で目出たい出来事だったのだろう。五番隊はプロの剣闘士であるパロス達など、あらゆる人々に祝福され、素晴しい一夜を過ごしたところだった。
 無論喜びはそれだけではない。今日からは訓練を強制されることもなくなった。もう何も自分を縛るものが無くなり、これからそれぞれの道へと歩んで行くことになる。その幸福は今朝になって、漸く実感として感じられるようになった。何故なら、毎朝五時半に起こしに来る世話人が、今朝は七時まで現れなかったからだ。もう本当に奴隷から解放されたのだと、嫌でも認める状況になっていた。
 のんびり、出された朝食の大麦を噛み締める。普段は味気ないと思われていたそれも、今日は何故だか味わい深く感じた。そして朝食を終えた後はそれぞれ、ここを出て行く準備を始めることになる。苦楽を共にした仲間が離れて行くことは、些か淋しい気持にもなるが、自由の身となれば皆また何れ会えるだろう。今はその前に、己の仕事や立場を決めなければならなかった。
 訓練所の中の小さな社会から、本当の社会へ踏み出して行かねばならない。
 そんな時、身の振り方に最も困っていたのはやはりシュウだった。彼は他のメンバーとは違い、過去に社会経験が無く、セイジ達のようにパトロンが付いている訳でもない。ラニスタからの紹介で、リョウはローマ市の城門警備、ラジュラは客船の乗組員となることが決まったが、シュウは自分が何に向いているか、何を選択したら良いのか酷く迷っていた。
 当然彼の心配事は、その仕事をしながら家族を探すことができるか?、と言う点にあった。
 朝食を終える頃、訓練所にはシンが早々とセイジを迎えに来ていた。まだ出て行く支度も整わぬ内から、喜んで待たれている状態はどんな気持だろう?。或いはその前に、昨晩の内にナアザのパロトンがやって来て、暫くの間はプロの剣闘士として競技を続けるよう伝えた。その条件は相当に贅沢な生活が保障されたもので、そんな夢のような申し出を耳にするのは、どんな気持だろうとシュウは思った。
 何れにせよ、既に何らかを期待され守られている者は、今更進路に迷うこともない。ただやって来る幸運を受け入れるだけの身に、早くなりたいとシュウも考えているのだけれど、その前に解決しなければならない問題が、彼の前には立ち塞がっていた。
 とにかく一刻も早く、家族の消息を掴まなければならない。その為に有利な仕事はないものだろうか…?。

 今朝は少しばかり、肌寒さを感じさせる風が吹いていた。住み慣れた五番隊の部屋も、もう夏の暑さは全く感じられなくなっていた。確実にあの頃から、五番隊のメンバー交代があった日から、時間が経過していることを思わせた。
 ここに来た時に持って来た僅かばかりの私物。そしてこれまでの剣闘で得た充分な支度金。それらを彼等は、黙々と小さな袋に詰めて出発の準備をしていた。時計が正午を差す頃には、各種の手続きを終え、次々にこの訓練所を後にして行くだろう。
 その時、部屋にトウマが現れて、
「シュウ、話があるんだ。来てくれ」
 と言った。闇雲な迷いの中、何か良い知らせであることをシュウは期待するが、トウマの表情は些か神妙な様子だった。これまでに紹介された仕事以外に、良さそうな話は何も来なかったのだろうか?。今日まで五番隊と共に明るく前向きだったトウマの、態度の変化が酷く気になった。
 だがシュウは大人しく彼の後を着いて行く。そしてラニスタの部屋に到着すると、開口一番、
「何なんだ、そんな顔して?」
 と尋ねた。勿論尋ねるまでもなく、あまり良い話題でないことは予想できた。するとトウマはいつも使っている机の前に着き、その上の染みを見詰めるように視線を落として言った。
「おまえの家族のことだ。…実は、ひと月前には調べがついていたんだ」
「え…?」
 聞けば途端にシュウの顔色も変わった。自由民としての先行きの悩みもある中、更にあまり嬉しくない話が舞い込んで来たのかと。否、そもそもひと月前の時点で話してくれなかったと言うことは、自分が気落ちしてしまうと思ったからだろう。だから今日まで言わなかったのだと、シュウにも大体のことが理解できてしまった。
 そしてトウマは、如何にも気乗りがしないと言った口調で、その情報をシュウに話し始めた。
「まず…、おまえの伯父と伯母の話だ。そのふたりはその後、ローマ兵の制止を振り切ってローマに向かったせいで、ブリンディシの港で拘束され処刑されたそうだ」
「な、処刑された…!?」
「貨物船に密航したんだそうだ。スパイ容疑が掛かっている上で迂闊なことをしたな。見付かったのは運が悪かったとも言えるが、ローマに近い場所はローマ兵の監視も厳しい。無理な行動をしなければ良かった…」
 そんな詳細を聞かされると、流石にシュウもローマ兵への愚痴は言えなかった。
「叔父貴…、馬鹿なことを…!」
 確かに、例えローマが横暴で一方的だとしても、更に疑われる行動をしたのは最大の過ちだった。何故そこまでしてローマに来たかったのか、否、全ての道はローマに通じると言う。ローマを目指して国から出て来たのだから、その夢を完遂させたかった伯父達の気持は、シュウにも解らなくはなかった。
 だから、だからと言って。
 まさか処刑などと言う目に遭っているとは思わなかった。そんな者が家族の中から出るとは、一度たりとも考えたことはなかった。故郷のハットゥシャでは、誰も皆気の良い商人であり機織りだった。そう思うと、ローマにさえ関わらなければ、誰もローマの存在を知らなければ、と苦々しくも思った。純粋な憧れがいつしか欲を呼び、欲は滅びを招くのだと。
 そう、最初からローマは鬼門だったのだと、今は思わざるを得なかった。
 それからトウマは、続けてもうひとつ言い難い話を切り出さねばならなかった。既に充分ショックを受けているシュウに、本当なら伝えたくもないことだったが、立場上隠しておく訳にも行かなかった。
 彼は酷く重い溜息を吐きながら、
「それと、おまえの両親と兄弟だが…」
 と、どうにか声を整えながら言った。そんな様子に却ってシュウの気持は動揺する。
「どっ、どうしたんだよ…!?」
 半ば叫ぶような声で返した、シュウには受け止められる話だろうか?、と、トウマは慎重に、淡々とした口調で残りの情報を語った。
「スパイと疑われた後、テッサロニキからガラティアに引き返すことにしたようだが、近くのデメトリアス港から船に乗って…、その船が沈没したか何かで…、乗員は全員消息不明だそうだ」
「…そんな…」
 悪夢だった。ある意味処刑されたと言うより始末の悪い話だった。それでは墓参りさえできない。
「こんな調査結果だったから、なかなか話せなかった。済まない」
 そう言いながらトウマは、机の上で拳を握り絞めていた。結果は自分のせいではないにせよ、良い知らせを届けられなかった無念さが彼には残る。奴隷から自由民へと勝ち上がった、こんなに晴れ晴れとした嬉しい朝なのに、何故こんな話をしなくてはならないと、状況の理不尽さをも感じていた。
 だが勿論、誰よりその事実を嘆き悲しんだのはシュウだ。
「そんな…!」
 目を見開いたまま身動きすら忘れていた。悲劇があまりにも度を越すと、人は何も考えられなくなってしまうものだ。シュウは今正にそんな状態だった。
「何の為に俺は戦って来たんだ!!、何の為に…!?」
 彼は叫んだ。ここが何処であるかなど考えず、ただ心のままに口走りたい言葉が零れ出る。そうだろう、他にはまだ確固とした夢はない。ただ別れた家族と再会することを希望に、今日までやって来たと言うのにそれはない、と言う気持だけだった。
「どうしたらいいんだ!?、何をしたらいいんだ俺は!?。折角自由になったのに、折角望むものを勝ち取ったのに、これから何の為に生きたらいいんだよ…!?」
 そんなシュウを、トウマもただ黙って見守るしかなかった。彼が彼なりに納得して落ち着くまで、例え時間がかかろうとも、それも世話人のひとつの仕事かも知れないと思う。まだ若過ぎるほど若いシュウには、残された時間が多くあるのだから、共に未来を探してあげることもできると思った。
「何の為に!、何の為に…!」
 今はただ、叫んで涙を流すだけの時間も必要かも知れない。溢れ来る悲しみをそのまま吐き出す、自然体の気持良さを感じていれば良い。その先に何か見出せるものがあれば幸いだ。その時が必ず来ると信じて、今は待っているしかなかった。
「俺にはもう何もない…」
 悲痛な叫びの最後には、力無く潰れたような呟きが聞こえた。何を言っても叫んでも過去は変わらない、と覚りが生まれた時、シュウの憤りは突然形を潜めてしまった。
 そんな時に、上手い助け船を出せるかどうかが、自分の存在価値だとトウマは考える。
「シュウ。気休めかも知れないが聞いてくれ。…リョウのように、いずれ故郷に帰るのもいいかも知れない。他の親類が居ない訳でもあるまい。幸いおまえに命令する者は誰も居ない。本当に、その名の通り自由民になれたんだからな」
「・・・・・・・・」
 返事は無かった。だがそれで当然だとトウマはひとり頷いていた。まともに言葉が届いているかどうかも判らない。それでも、何か語り掛けなくてはとトウマは言葉を探った。シュウが気持の整理をつける為に、何かヒントになりそうな言葉が、ひとつでもふたつでも聞こえてくれれば良いと思った。
「だがそんな気持にもなれないかも知れない。孤独に直面するのは辛いかも知れない。或いは、帰っても何もする気が起こらないかも知れない。今すぐどうするか決めろとは、俺は言わない。おまえひとりくらい、暫くここで世話しても問題はない」
「・・・・・・・・」
 まだシュウは、返事どころか頷きもしない。その虚ろな瞳には何も映っていなさそうだった。無論そう簡単に気分を切り替えられる問題じゃない。だがどうにかしなくては。せめてこの部屋を普通の態度で出られる程度に、納得させなければならないとトウマも必死だ。
 そして彼は、恐らく本当に言いたかったことをここで話し始めた。
「だから、と言う訳じゃないが、今は他の選択肢を考えてもいいんじゃないか?。先を焦ることはない」
「・・・・・・・・。選択肢…?」
 すると、故意なのか偶然なのか、シュウは耳に残ったその言葉を繰り返した。それこそトウマの心からの助言だったので、彼は途端に元気付いて返した。
「そう、他の選択肢だ」
「他の…?」
 これまで自分に何が語られたか、シュウが正確に憶えている筈もない。ただトウマが熱心に話し続けていた、その事実だけは憶えていた。「他の選択肢」。その言葉の何に自分は惹かれたのだろう?。まるで訳の判らないままだったが、シュウはそろそろと顔を上げてトウマを見た。
 すると、相手の気持を思い遣る穏やかな笑顔を向けて、トウマはこう言った。
「ここに残ってもいいんだ。プロの剣闘士として」
 それは全く思い掛けない言葉だった。これまで強制されて来た剣闘を、今度は自分の意思でやれと言うのか?。シュウは言葉に詰まった。
「・・・・・・・・」
 だが、考えてみればそれもひとつの道だった。何ら珍しいことでもなく、闘士と呼ばれる奴隷の普通の選択のひとつだ。そう言えばナアザもプロとしてここに残ることが決まっている。自分に向かない職業でもない。ならば、今は取り敢えずそれを選んでおいて、先のことは追々考えれば良いかも知れない。と、全く新たな思考が生まれて来た。
 それが「他の選択肢」。
 ただその言葉にはもうひとつ、トウマの伝えたい気持が込められていた。
「プロの剣闘士として、この訓練所の一員として、俺の家族としてな」
 家族。居なくなってしまった家族。だが生きてさえいれば新しい家族を作ることはできる。既に自分を家族と呼んでくれる人間がいる。それをシュウは目を見張って聞いていた。
「それとも、こんなまやかしの自由しかない国には居たくないか?」
 トウマは一応そんなことを尋ねもしたが、無論そうだと肯定してほしくはなかった。世界中の何処に住んだとしても、良い面悪い面はあるだろう。例え短い間でも暫くここに留まることは、決して悪くないと考えてほしかった。そしてトウマは最後に、
「おまえがプロとして名前が知れるようになったら、もしかしたら生きてるかも知れない両親が、おまえに気付いてくれるかも知れないし、な」
 そう付け加えた。望みは限りなく薄いかも知れない。だがそうなれば素晴しい。そんな夢を見ながら暮らせるのが、ここに残る一番の利点かも知れなかった。
 今すぐにはまだ、これと決断することはできそうにない。だが目先を変えることで、そこまで悲惨な生活を送ることにもならなそうだった。それは、自分のことを親身に考えてくれる存在が、ここに居てくれるからだとシュウは理解する。素早く勝ち上がれたのも幸運なら、こんな環境に恵まれたのも幸運だ。悲劇を越えて行ける力を、自分はここで蓄えられるかも知れないと。
 無心に勝ち取った自由は、決して意味のないものではないのだと。
 一度は止まった涙が、不意にまた零れて来た。シュウは再び顔を伏せると、今度は心からの感謝を表現するように、気持を噛み殺しながら言った。
「…済まん」
「何を謝ることがあるんだ」
 続けられたトウマのそんな返事が、尚シュウの口許を震わせていた。



 そしてまた季節は移ろい行く。徐々に秋の深まりを感じながらも、訓練場には日がな変わらない、アマチュア剣闘士達の訓練サイクルが淡々と続いている。それを余裕をもって眺めつつ、自分のペースで訓練と調整をしながら、しばしば華やかな剣闘に出る生活が、シュウにも段々慣れて来た。これからは如何に勝ち進むかではなく、如何に美しく戦うかが課題だった。
 訓練所と外への出入りも自由になった。初めてまともに散策したローマの町は、嘗て自分が想像した以上の大都市で、人に溢れ、商品に溢れ、当分飽きさせることのない町だと思えた。それだけでなく、道を歩けば幾度も自分を英雄と扱ってくれる人に出会い、そんな人々と気持良く語らい、酒を酌み交わすこともある。この生活が続けられる平和も悪くないと、今はシュウも自然に考えられていた。

 ただ彼は忘れない。あの訓練場から見える四角い空の、憎々し気なオレンジの夕焼けを。
 己をローマに閉じ込めて放さない、牢獄のような茜の空。
 今も、そしてこれからもそれを見続けながら生きて行く。彼の人生は常に光と陰の中間を漂うような、曖昧な悲しみに包まれていた。









コメント)お疲れ様でした…。同じような訓練の記述が多かったり、かなり地味な進行の話でしたがいかがでしたでしょうか?。シュウの見た夢ということで、中には征伸らしい部分もあるけど、最後はやっぱり当秀で終わりました。
と言っても恋人らしい話じゃないし、カプ小説とは全然言えないものですが。二千年前の話なので、一応時代小説なのかなこれは??。
ローマ帝国に関する本や映画は色々見て来たし、ローマにも行ったので、この時代の話を書くのは楽しかったんですが、町の市民の話じゃないからちょっと、ものすごく局部的で、ローマ市の全体像が書けなかったのが残念です(^ ^;
ところで、闘技場を「コロッセオ」と表記しましたが、本当はこの時代のローマでは「コロッセウム」と呼んでました。わかりにくくなるので、今呼ばれている方にして書きましたが、英語のコロシアムの語源としては、元々の呼び名の方が良かったかな〜?。

さて、これで夢の話はあとひとつを残すのみですが、この後はちょっと別のものを書いて息抜きしようと思ってます。この続きはまた来年、今度は征士の見た夢でお会いしましょう…!



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