無言の出会い
King Vermilion
#3
キング・バーミリオン



 年少組には初めての剣闘試合があった翌日、ラニスタのトウマの家には、昨夜からの賑わいの中シンが訪れていた。今日は珍しく昼食時にここにやって来た。
 しかしシンの顔にはこれと言った喜びも無く、寧ろ思い詰めたような表情が際立っている。本来学問所に居る筈の時間に、こうしてわざわざ出向いて来たのだから、それ相当の何かがあるのだろうとトウマは心配になる。もう剣闘など観たくないとでも言いにきたのだろうか?。それともこんな仕事は辞めろとでも?。
 真面目で優しい友人なだけに、そんな可能性も考えながらトウマは彼を部屋に通した。昨日観戦した剣闘試合が恐らく、彼の心に何らかの影響をしていることは、深く考えずとも判ることだった。

 そして、机を挟み向かい合って座る、シンの口から辿々しく語られた相談事は、トウマには衝撃的な内容だった。
「無理を言ってごめん…」
 とシンは謝る。否、謝られるようなことではないと、トウマはすぐにフォローした。
「そんな、無理なんてことはない…。剣闘士はそう言うシステムだって、前に話した通りさ」
 つまりシンは、法規通りのことをしようとしているだけだが、本人の気持として申し訳なく思うようだった。実際誰に迷惑が掛かる事でもない。ラニスタとしては寧ろ有難い申し出なのだが、そんな背景を知らないシンは、何処か複雑な心境を抱えて居るのだろう。まさか自分がこんな立場になろうとは、と言う思いもあるのかも知れない。
 話が一段落するとトウマが、
「だが本当にいいのか?」
 と尋ねる。意思を確認されたシンはまだ、色々と戸惑っているようだが、
「うん、まだ、僕が勝手に決めただけだけど、近い内家族にも話すよ」
 現状の説明だけは明確にそう話していた。シンがこの時何を話しに来たかは、この後すぐに知れてしまうこととなるが、トウマは慎重に相手の話を聞き、それで良いのかどうか、それがシンの為になるのかどうかと熟考する。何しろトウマにも初めての出来事だった。
「そうか…。しかし…」
「しかし、何だい?」
 するとそこで、トウマはやや崩した表情を見せ、
「意外とシンは、こういう時の行動力があるんだな?。知らなかった」
 と相手を評した。どちらかと言えば大人しい、気の優しい人物であるシンが、個人でこんな相談を持ち掛けて来るとは思わなかったのだ。人は必ずしも表面と内面が一致する訳ではない。意外に大胆で思い切ったことをするものだと、今のシンには俄な感動すら憶えていた。それを、
「いや…」
 と返したシンは、先程からただモジモジと手足を揺するばかりだった。事態をまだ把握し切れない不安感もあり、友人に誉められたこそばゆさもありと言ったところだろう。否、その他にもうひとつ、彼を落ち着かなくする最大の理由があった。それは最早トウマにも易々と指摘できた。
「それ程まで、あのブリタニア人は魅力的に映ったか?」
 ブリタニア人と言えば、この訓練所にはただ一人しか存在しなかった。無論セイジのことだ。そのトウマの発言を耳にするとシンは、思い掛けず頬を赤らめ身を固くした。まさか自分がこんな立場になろうとは、とはつまりそう言うことだったのだ。未だ名前も知らぬ奴隷のひとりを、自分が欲していることを人に明かすことになるとは、彼の人生の中の一生の恥とも感じられただろう。
 けれど今行動を起こさなくてはならなかったのだ。それが自分の為にも、彼の為にもなるとシンは既に迷わなかった。だからトウマに笑われても、怒りや反意を表すことはなかった。
「ククク、いや、からかうつもりはない。気を悪くしたんなら謝る」
 だが、シンにはシンなりの、殊に真面目な考えがあることを今日は、トウマに是非聞いてもらいたかった。彼はその為に早くからここにやって来たのだ。
「僕は…、僕はこの一年ずっと考えてたんだ。どうしたら奴隷となった人を助けられるかを。毎日の祈りの中でも答を探して、神々の教えにも耳を傾けて来たよ」
 シンはそう話し始める。セイジやシュウがここにやって来たのは、丁度一年程前のことだった。そしてトウマがここにシンを連れて来たのも丁度一年前だった。全てはその一年前から始まった。トウマがラニスタとしての修行を始めたのも、シンがトウマを通して大衆的な娯楽に触れるのも、皆同じスタートラインから始まった出来事だった。
 その経過の中でシンが知り得たことは、
「でも奴隷と言っても、ここに居る人は殆ど、本来奴隷になるような立場じゃない。忌むべき身分の者でもなければ、犯罪者でもない。もし最初からローマに生まれてたら、みんな普通のローマ市民だった筈なんだ」
 と言う、生まれと身分に関する不条理だった。勿論彼とトウマの間にも、見えない垣根のような身分の違いは存在するが、トウマは少なくとも拘束されている訳ではない。それに比べ剣闘士の奴隷達は、例え余所では格のある人物だとしても、容赦なくその身分を奪われてしまう。そんな暴力的な行為が許されていることに、シンはまず心を傷めているようだった。
 それについてはトウマも、
「そうだな」
 と真面目な態度で相槌を打つ。職業柄様々な奴隷を見て来てはいるが、優れた人間と思える者に出会う度、その身分を居たたまれなく思うことはあった。それより何故もっと人材を有効に使わないのかと、腹立たしく感じることが多かった。それ程ローマの剣闘士には、贅沢な条件を持つ奴隷が多かった。
「戦争捕虜になってローマ兵に変わるなら、みんな立派な兵隊になれる人ばかりだ。そう言う人々がどうして奴隷なのか、結局今もよくわからないけど…」
 シンもまたトウマの考えと同様のことを言うと、トウマは最も端的な答としてこう話す。
「ローマは市民の為に、良質な奴隷を必要としているとしか言えないな」
「必要と言っても、見世物にして楽しむ為だろ?。そんなに優秀な人である必要はないのに」
「そう言う、世の中なんだ、今は。洗練された戦いでなければ観衆は喜ばない」
 トウマの話が、多分に諦めのような色を帯びて来ると、シンもそれを仕方なく受け取るように言った。
「そうだね…、僕は貴族に生まれたけど、元老院の議員の考え方には反発するよ。この国は戦争ばかりして、そこまで必要じゃない土地までどんどん侵略してる。みんな戦争や争いが当たり前のことだと思ってる。そんな考えが本当にローマの為になると思う?」
 そしてシンの悲しみは、ローマ市政に毒された市民へと向かった。
「人の命や人生を犠牲にした娯楽なんて、それを喜んで観る市民が多く居るなんて、みんな何処かおかしくなってるんじゃないかと思うよ」
 そう、市民が求めなければこんな制度も存在しないのだ。そもそも闘技会とは、嘗て国同士の強さを競うものだったと言う。それぞれの国の精鋭部隊が、模擬戦争を見せることで逆に戦争抑止を計る、重要な意義ある戦いだった筈なのだ。それがいつの間にか、他人の人生を駒のように楽しむ娯楽となった。ローマが何故そうした国になったのか、シンは理解に苦しんでいるようだ。
 その点を理解できないのはトウマも同じだった。
「まあ、本来はプロの剣闘士だけで行うべきかも知れないと、俺も思うことはあるんだ。無駄に弱い剣闘士を傷付ける必要はない」
「そうだろ?。人が傷付くのを喜んで観るなんてどうかしてるさ」
 彼等はまだ若く、ローマの成立期のことなど知らない。果たして現在が、アウグストゥスの掲げた理想通りなのかどうかも、政治家ではないので知りようがなかった。ただ、
「でもそれがローマの現実なんだ。豊かさが無闇な好奇心を煽り、新たな劇薬を次々求めるようになって行くんだ」
 トウマがそう続けたように、現実はそうなってしまっている。今も物質的に膨れ上がって行くローマでは、この流れは当分止まらないだろうと予想もできた。それ程にこの国は豊かで、人々は更なる娯楽を求めて続けていると判るのだ。
 けれどあえてシンは問う。
「必要以上の豊かさなんて罪だ。他の国から奪った豊かさが、このローマに集中してるだけで、じゃあ奪われた土地の人はどうしたらいいんだ?。僕らにそんなことをする権利があるんだろうか?」
「シン…、そんなことを言ったら、」
 彼の発言が遂に自らを断罪する方へと向くと、トウマは一言挟んでその勢いを和らげようとした。今話した通りこんな世の中だから、人は流れに乗るしかない面もある。あまり自分を責めるのも良くないと思ったからだ。するとシンはその意向を受け、柔らかく頷きながら続けた。
「わかってる。わかってるんだ。僕らの今の生活だって、その流れの中で支えられてるものだ。今急にローマが陥落して、何処かの属国にでもなったら、こんなことは言えなくなるよ。でも、この国のお祭り騒ぎのような一面と共に、影で虐げられる人の現実もあるんだ。僕は、君の仕事を知って初めてそのことに気付いた。僕らの豊かさは他人の人生を奪ってるだけなんだと」
「確かにそう言う面もある」
 そして、シンは一度真直ぐにトウマに向き直すと、
「今僕には世の中が見えるようになった。君には感謝してるんだ」
 殊に真面目にそう話した。
 そんなシンの言葉には嘘はないだろう。トウマに出会うまでは、貴族社会の中に守られ何も知らなかった己を、今は悔恨するより、前向きに振り返ることができている様子だ。自分も仕事に関し日々成長していると思うが、シンもまた自分を通して大人になって行く、と感じられたトウマは、思い掛けず良い行いをしたような気がして嬉しかった。
「シンが、そこまで奴隷達のことで、心を傷めてるなんて知らなかったな。俺には日常的に顔を合わせる家族のようなものだが」
「そう言えることが僕には羨ましい。僕の周囲では誰も、奴隷達を家族とは呼んでくれないだろう」
「そう…だろうな」
 シンの抱える問題は、まだそんな所にも存在している。奴隷の権利回復だけが論点なのではなく、日常的な身分差別がこの国には存在するからだ。例えばシンの家族は知人として、このラニスタ一族と付き合いがあるけれど、トウマの家が貴族や権力者の会合に呼ばれることない。前途の通り一般的な市民に比べ、かなり裕福な家であるにも関わらず。市民に絶大な支持を受ける家であるにも関わらず、だ。
 現在の帝政ローマは世襲的な政治体系を否定している。にも関わらず、人は生まれた家の身分の呪縛から逃れられない。その不公平についてシンは、トウマに会う以前から強い疑問を感じていた。そしてその最たる奴隷達に出会ってしまうと、シンは立場の心苦しさから逃れられなくなった。
「でも僕は、みんな同じ人間だし、いつも傍に居る人は家族と呼びたいんだ。せめて僕だけは、不運な身の上の奴隷達を差別しないであげたい。神様だって人は皆同じだと言ってるよ」
 シンはそう訴えた。身分を区別するより、分け隔てなく暮らせる方が本来は幸福な筈だと。するとそれにはトウマも同意して、
「うん、そうだな、俺もそう思う」
 と気持良く返事する。社会がもしそんな理想的なものになったなら、この胸の閊えも取れて無くなることだろう、と、夢の自由に淡い希望を見た。
「だから僕は…」
 そこでシンは何かを続けようとして、不意に黙ってしまった。ここまで真剣に社会の問題を論じて来たが、ふとセイジの顔でも思い出しただろうか。そんな相手の様子を暫し眺めると、トウマは、
「後は、シンの思いが無駄にならぬよう、俺のチームが勝ち上がってくれることを祈るだけだな」
 そう言って話を切り替えた。
「それだけは、祈るしかないんだね」
「ああ。祈るしかないんだ、本当に、俺でも」
 ローマには様々な問題が存在する。だがその前に、奴隷達が今の制度上での自由を勝ち取れなければ、結局何も始まらない現状。その袋小路からどうにかして、彼等を救ってあげたいと思う人々の思いは、神々に縋ることでしか解決できないこの切なさ。
 彼等の平安はいつになれば訪れるだろうか?。

 シンとその従者が立ち去った後、トウマはひとり部屋で考えていた。
『家族か…』
 身の周りでは誰も家族とは呼んでくれないと、シンは苦々しい様子で話していた。確かに自分はまだ、この訓練所に集う奴隷達を、取り分け五番隊のメンバーを家族の内と考えることができている。それがそんなに幸福なことだとは思わなかったと、トウマはシンの苦悩を改めて思った。
『意識したことはなかったが、確かにみんな家族だ。今はみんな俺の家族だ』
 誰も生まれる家は選べないが、人の集う場所には自然と仲間意識が生まれ、家族的な繋がりが出来て行くものだと思う。そんな過程を味わえない、隔絶した身分など邪魔なだけかも知れないとは思う。シンが自分に羨むことも、自分がシンに羨むこともあるのだと知ると、トウマの意識は酷く落ち着いて行った。
 誰も皆持ち得ないものに憧れ、少しでもそこに近付こうと努力するが、憧れは憧れだからこそ良いのかも知れない。それがあるからこそ人間は向上する。手にしてしまった途端に目標を無くしてしまうなら、憧れなど意味がないのだ。
 どうか、自分の世話する五番隊の面々が、自由を勝ち得た後にも良き人生を歩めるように。と、今トウマは穏やかに頭を回転させ始めた。家族が家族の心配をするのは当然だ。それ以上に彼等には、これまでの苦悩が報われる未来が用意されているよう、祈る。



 その日も、訓練所の広場では、日々変わらない訓練メニューが淡々と進んでいた。
 夕暮れ時が近付くに連れ、誰もが疲労感と空腹感に悩まされるようになるが、特に五番隊の訓練は、教えるドクトレやマギステルの側からも力が入り、以前より更に疲労感を感じさていた。
 もうシュウの口からも、あまり冗談めいた言葉は聞こえない。ただその分、体の動きについてはより熟練した様子が端からは感じられた。剣の使い方、盾の使い方、チームの他のメンバーとの位置の入換えなど、指導される要素はまだ多くある段階だが、訓練に集中する中で研ぎ澄まされた意識が、様々な面での向上を促しているようだった。
 ひとつ勝てばまた次へ。勝利の喜びが訓練の真剣さに繋がるなら、やはり勝負事は勝たなくてはならない。
「全員止めーーー!」
 空が一片の欠けもなくオレンジに染まる頃、漸く訓練終了の号令が聞こえた。本当に、時間の最後まで集中していたらしきシュウは、ただ荒い息を聞かせるばかりの状態だった。
「ハァハァハァ…、…」
 そこに、ほぼ同じ様子のリョウが来て、シュウの背をポンと叩くとこう話す。
「でも、シュウは本当に、すごいな。ぶっ続けでこんなに、動けるのは羨ましい」
 苦しい息に、言葉は途切れ途切れだったが、そう言うリョウも充分訓練には着いて行けていた。だがそんな彼から見てもシュウは、まだまだ余力がありそうな状態で、その特徴はここでは輝いて見えるようだった。正確な技と気力を保つ為に、体力のあるなしは重要な要素だ。それについてシュウは、
「体力だけは自信があんだ。戦う技術ってのが、イマイチ身に着いてねぇけど、そこはみんなが助けてくれるから、どうにかなってるな」
 と笑う。決して自身の能力を驕ることなく、真面目に訓練を受けている彼に、リョウも気持良く返事した。
「ああ、俺もできるだけ、サポートするからな!」
「頼む!」
 シュウが相手の肩を叩き返すと、自然とふたりの間に笑顔が零れた。ほんの少し前、メンバーがひとり交代した五番隊だが、その後はまた順調にチーム力を上げているようだった。チーム戦の剣闘士は、単純な戦力の足し算ではその実力は測れない。こうしてひとりひとりの意思が纏まり、ひとつとなって戦えることが理想だ。その意味で、今はとても充実して来たところだろう。
 勝ち抜く為に、良い仲間を得られるかどうかは正に運だった。
「ハハハ、はあ、水、水がほしい」
「あっちーよな、毎日毎日…」
 その幸運なふたりに、終了の合図をしたマギステルが近付いて来てこう言った。
「お前達今日はいい感じに形ができてきたな」
「おっ、そう思うか?」
「前より随分息が合って来た。今度の闘技会での実戦が楽しみだ」
 訓練士が言うのだから、その評価は間違いないものだろう。ふたりはその言葉に、一気に疲れが吹き飛んだように明るい声で応えた。
「よっし!」
「ありがとうございます!」
 これは嬉しいことだ。まだたった一戦を勝利しただけのチームだが、次からも増々レベルアップして行ける自信が漲って来る。だがそこで、
「ああただリョウ、君はディマカエリに変えて行くといいかも知れないな」
 マギステルはそんな提案をした。
「ディマカエリって?」
「二刀闘士のことさ。以前少し訓練したことがあるんだ」
 剣闘士にはいくつかの種類がある。例えばこのチーム内なら、ラジュラはレティアリイと言って、剣の代わりに銛を持つ闘士だ。怪我をしたシュテンも槍を持つレティアリイだったが、エクイテと言う騎馬闘士としても活躍していた。現在のところあとの五人は、セクトルと言う通常の剣闘士で、グラディウス剣と盾を持つスタイルだった。
 それをリョウだけは、盾を捨てて剣を両手に持てと言う訳だ。
「そうか、それなら話は早い。このチームの攻撃力をより引き出す為には、セクトルの五人をひとり攻撃専念型にするべきだと思う。君が攻撃面を担当するといい」
 リョウにその経験があると知ると、マギステルはそうすることのメリットをこう語る。成程、全員が盾を持たなくては防御できない訳ではない。他がカバーすることによって、より攻撃力の高いチームに変えられるのだ。
「わかりました。やってみます」
 良さそうな提案にリョウが素直に答えると、横でシュウは声を上げ、
「いいなぁリョウ!、二刀流かよ!」
 と、彼の闘士タイプの変更を羨ましがった。無論リョウにはここに来る前に軍隊経験があり、シュウに比べれば器用に戦い方を変えられる面がある。ただ他のチームメンバーに比べ、何故リョウが選ばれたかのかは、偏に適性を考慮した結果だろう。
 マギステルやドクトレ達は、過去に剣闘士だった者が殆どで、その中でも戦術眼に長けた存在だからこそ、指導者としてここに雇われている。そのアドバイスはほぼ間違いのないものだけに、シュウも駄々を捏ねることはできなかった。それどころか、
「代わりにお前達は、彼の分も防御に注力しなくてはならん」
 と言われ、多少むくれるようにシュウは返した。
「わかってるよ!。そんなモン任せろ、俺とセイジが着いてりゃどうにかなるだろ!」
 ただ、シュウには面白くない出来事のようだが、要はこのチームの防御力は、リョウが居なくとも成り立つと評価されたことになる。暗にシュウの能力を誉めているのだが、まあ気付かない内が華かも知れない。それに胡座をかいては足元を掬われ兼ねない。
 そこをマギステルは、
「五番隊はアマチュアの中では、今は一、二を争う実力と見られている。真面目に努力するように」
 チーム全体を誉める言葉で纏めた。角の立たない良い言い回しができるのも、指導者として信用される能力かも知れない。
「はい!」
「おお!、了解だ!」
 話すふたりは口々に切れの良い返事をし、場を離れて行く彼の後ろ姿を暫し無言で見送っていた。誰しも誉められて悪い気はしない。まして実力以外何も頼りにならないこの場所では。
「へぇ〜、俺達実力者と見られてんのか。ちょーっと嬉しいよな?」
 シュウが言うと、リョウは口端でクスっと笑いながら返した。
「トウマの売り込みが成功してるのかもな」
「ハハハ!、そうかも知んねぇ!」
 何が理由にせよ、チームが注目されている事実を知ると、その中での構成などどうでも良くなった。誰が何を担当するなど、後になってみれば全く些細なことだろう。これが勝てる形だと言うならそうすべきなのだ。目標はプロの剣闘士になることではなく、自由を得てここを出て行く為なのだから。
 改めて希望が沸いて来た。若い剣闘士達は自らの今後の成長に、夢を持っていられるのが幸いだ。そしてそれがチームの成長にも繋がれば、連戦連勝も現実となって行く筈だった。ふたりは今、着実に目標へ向けて歩んでいることを実感し、酷く満足な気分を味わえたこの夕方だった。
 するとその時、
「あれ…?」
「どうした?」
 シュウがふと鉄柵の傍に立つセイジを見る。そのセイジの前には、以前から話に上がっていたトウマの友人、シンが立っているではないか。
「あいつ、知らねぇって言ってたのに何なんだ?」
「ああ、前にそんな話してたな」
 ただ、そのふたりは特に楽しげな様子でもなく、間を置いては一言二言、何らかの言葉を交わしているようだった。何処か不思議な様子にリョウは首を傾げるが、シュウは閃いたように勢い付いてこう話す。
「もしかして?、あれセイジのファンだったりすんのかな?」
「それにしちゃ何だか変な雰囲気だ」
「まあ普通は訓練中を観に来るモンだしなぁ…?」
 結局その後すぐセイジはそこを離れてしまい、それが何だったのか知ることはできなかったが、
「シュウにも熱心なファンができるといいな?」
 とリョウが振ると、シュウは戻って来た陽気さで明るく答えた。
「そりゃ自然にそうなるようにして見せるぜ!。観衆が沸くパフォーマンスを見せてこそ、市民のヒーローになれるってもんだ!」
 勝ち続けさえすれば、人気も上がり自由の身に近付いて行ける。実力こそがこの剣闘士の世界の価値観だ。単純で潔い世界だからこそ、観衆はそれを見て喜ぶ面もあるのだろう。勝利者の歓喜を共に味わい、敗北者は屈辱的な罵声で見送る。剣闘士達はそんな厳しい現実に晒されながら生きている。
 だから今日も、明日も、代わり映えのしない石畳を見詰めながら、日々の訓練に汗を流すのだろう。目指す場所へと必ず辿り着けるように。確実に手にしなければならない未来の為に。それしか彼等の道は存在しないのだから。
 誰かに、大衆に、ローマ皇帝に注目してもらうしかないのだから。



 もうあと少しで夕食の時間と言う頃、
「セイジ!」
 暫く姿を見せなかったメンバーが部屋に戻って来た。前の訓練後の一件もあり、待ちかねたようにシュウが声を掛ける。
「おまえ今まで何処行ってたんだ?。訓練の後随分経つが」
 そう、セイジは訓練場の鉄柵の所で何かをしていた後、何処へ行っていたのか誰も知らなかったのだ。だが当人はそれを、特に抑揚のない様子で淡々と答えた。
「ああ、ちょっとな。トウマに呼ばれてラニスタの部屋に行っていた」
 セイジに取ってそれは、特別なことではないと言う意思表示だろうか?。けれどチームのメンバーは興味津々で、まずラジュラが、
「ラニスタの部屋に?。何があったんだ?」
 と尋ねると、続けてナアザも、
「何か文句を付けられたか?」
 半ば笑いながらそう言った。通常、訓練所の親方であるラニスタから、個人個人に注文が付くことはない。余程の事情がない限り、個人が呼び出されるようなことはない為、ナアザは勘繰り半分、冗談半分のつもりでそう言ったようだ。ただ、文句を言われたにしてはセイジが落ち着いているので、恐らくそれはないだろうと予想は付いていた。案の定彼は、
「いや文句などではない、個人的な契約の話だ」
 と返した。ところが、それが今度は新たな物議を醸す。
「契約?。まさかおまえこんな時期に、別の訓練所に移ったりしないだろうな!?」
 ラジュラは契約と言う言葉を耳にすると、俄に顔色を変えてそう捲し立てた。以前この訓練所でも、その場合はプロの剣闘士だったが、余所からの引き抜きがあり、ひとつのチームが解散する羽目になったことがあるのだ。この五番隊は、ひとりメンバー交代をしたばかりだが、その後それなりに良い状態で来ていることを思うと、更なるメンバーチェンジは御免被りたいところだった。
 無論それでも、ラニスタがそう決めたなら従うしかない。運が悪かったと受け入れるしかない。ラジュラを始め年長の三人は、注意深くセイジの返答に耳を傾けている。だが、
「流石にそれはない」
 と、彼が簡単に否定するので、ひとまず余計な心配に終わったようだ。考え得る最悪の事態を回避できて、胸を撫で下ろす様子のラジュラは、
「なら何なんだ?」
 そう返しながら溜息を吐いていた。それ程チーム編成の問題は、今は敏感に反応せざるを得ない話題だった。誰しも上手く事が進んでいる時に、その形を変えられたくないものだ。
 さて、チームに取って重大な問題ではない、と知ると、後は穏やかな気持でセイジの話を聞くばかりだ。部屋の中の誰もが注目する中、彼は多少話し難そうにしていたが、まず、
「この先の将来のことで…」
 と一言切り出した。まだ剣闘士としてデビューしたばかりの段階で、将来と言われてもピンと来ない様子のシュウが、途端に目をパチクリさせて尋ね返す。
「将来?、っていつのことだ??」
「その…、何と言うか」
 すると、如何にも答え辛そうなセイジの様子を見て、年長のメンバーにはある事例が思い出されていた。こうした訓練所ではよくある事だった。否、それが剣闘士の制度を支えていると言っても過言ではない、大事な契約システムのことだ。
 ラジュラは暫しセイジを観察すると、途端に含み笑いを見せて言った。
「フッフッフ、判ったぞ?。貴様パトロンができたのだな?」
 するとそこでまたシュウが、聞き慣れない言葉に即座に反応する。ヨーロッパではよく見られる契約形式だが、ギリシャ以東に暮らしていたシュウは、その言葉を全く知らなかったようだ。
「パトロンって何だ?」
 と尋ねると、笑っているラジュラに代わりナアザが説明してくれた。
「個人支援者のことだ。我々は例え奴隷の身でも、その活動や後の生活のことをサポートしてくれる誰かに、色々助けてもらう契約ができるんだ」
 因みに何故セイジがそれを話し難かったかは、場合に拠っては愛人契約なども含まれるからだ。単純に有望な剣闘士を支援したがる者も居るが、パトロンの半分くらいは、個人的関係を結びたい意思あっての支援なのだ。だからと言って、法的に悪いことをしている訳ではない。人気があることを恥じる必要はないのだが、まだそこまでの実力を見せた訳でもない、現段階でのパトロン契約は複雑な心境に至ったようだ。
 他に実力者と目される者は多く居るのに、それを差し置いて契約してしまうと言うことが、セイジには身の丈に合わぬと思えたのだろう。
「えーっ、何なんだ、そんなことがあんのかよ!?」
 説明を聞くとシュウは、正に驚いた様子で大声を上げた。その身の乗り出し加減を更に笑いながら、ラジュラはもう少し補足的な話を続ける。
「知らなかったのか?。上級の剣闘士の多くは決まったパトロンが付いてるものさ。ま、俺達にも段々お声が掛かるようになるだろう」
「へぇ〜!、面白ぇ!」
 するとそこで真面目なリョウも、
「そう聞くと、剣闘士のシステムって本当に人気商売なんだな」
 と話に加わった。彼はパトロン契約を知っているが、どちらかと言うと芸術方面のものだと思っていたようだ。それについて、
「確かにそうだな、画家や音楽家と大して変わらんことだ」
 ラジュラがそう言うと、アヌビスは冗談めかして続けた。
「剣闘もひとつの芸術なのさ」
 成程、言われてみればそんな面もあるかも知れない。美しい肉体の動き、無駄の無い殺傷技の数々は、生きた芸術と言えないこともなかった。その一瞬一瞬を止め置くことができたなら、間違いなく最高の壁画や彫像になりそうなものだ。
 だが現実は、
「そうなら身分をもっと引き上げてほしいもんだ」
 とナアザが言うように、あくまで大衆文化の域を出ない下賤な興行と見られている。奴隷達には正に命の駆け引きの場だけに、そこは辛い現実だった。
 絵を描く、音楽を奏でる、それらのことに果たしてそこまでの価値があるだろうか?。人の命以上に高尚なものが存在するだろうか?。けれどローマでは奴隷の命など破格に安い。それが例え他の国の優れた人材だとしても、剣闘を行う奴隷と言うだけで下に見られる。その遣る瀬なさを知る一部の者が、パトロンとして支援してくれることが多いが、前提として勝ち上がれる力のある者だけが、その恵みを受けられるだけのことだった。
 だから奴隷達はどうしても勝たなければならない。
「で…、セイジよ?、どんな奴だった?、そのパトロンって?」
 そんな会話の中、シュウは早速興味を持ってセイジに尋ねる。だがそこでもまた、彼は言い難そうな様子で口籠っている。
「ああ、まあ…」
 それをシュウはどう受け取ったのか、
「まあって??。こいつみてぇな気持悪ィ男だったとか?」
 と言ってラジュラを指差す。それには本人も大笑いしていた。
「ハッハハハ!」
 だが的外れな予想をする者も居れば、何となく勘が働く者も居る。リョウは先程の訓練場での光景をを思い出し、やや慎重な様子で言った。
「もしかしてあの…?。トウマの知り合いだって言う、貴族の」
 そしてセイジがそれを認めると、誰より最も驚いたのはやはりシュウだった。
「まあそうなんだ」
「えぇっ!?」
 尚、パトロンと一口に言っても様々な者が居る。典型的な剣闘ファンであることもあれば、商売として良い人材を支援する者、或いは豊かな家の御婦人であることも多い。シュウはそんな多様性も知らないようで、あのほっそりした貴族の青年が、剣闘士の面倒を見る構図が想像できないのだろう。
 それについてアヌビスが、
「ああ、よくその辺をウロウロしてた女だな」
 と話すと、ナアザはその間違いを訂正して続ける。
「女じゃない、あれはトウマの学び舎の友人だ。ラニスタの知り合いでもあるみたいだな」
 まあ、他のメンバーにもあまりはっきり認識されていない、大人しそうな一人物が突然話題になり、シュウが目を白黒させるさせるのは仕方がない。すると、
「何なんだよー!?、いつも全然関心なさそうだったのによ!。本当は何かあったんじゃねーのかよ!?」
 悔し紛れのように彼は大声を上げた。確かにセイジは、よく窓の外に居るシンについて尋ねられても、いつも素知らぬ様子で流していた筈だ。その点はここで弁明しなければ、シュウの気持も収まらないだろう。そしてセイジは、
「済まないシュウ。お互い知ってはいたが、それだけで、何がどうなるとも予想できなかったからな」
 とまず謝っていた。そう聞けば成程、宿舎の中と外でろくに言葉も交わさぬ内から、知人とも支援者だとも言えない状況は見えて来る。それをアヌビスが、
「そうさ、外を歩いてるだけの奴が、何を考えてるかなんて解る訳がない」
 と言い換えると、ただそれでもこんな状況になったことを、リョウは不思議そうに話した。
「でも、それでもパトロンになりたいってくらいの気持にはなったんだ」
「まあ…、訓練場でもここに居ても、いつも見ているなと思ってはいたのだ。その内それとなくコンタクトを取るようになったのは、半年程前からのことだ。その頃から今までに、彼がそんな決断をしているとは私も思わなかった」
 セイジはリョウに向け、これまでの極小さな変化の経過をそう聞かせる。半年もの間、ふたりの関係は他人が気付かない程度のものだったようだが、それでも恐らく何か、言葉以外のものが通じていたのだろう。それに拠って遂にシンが動き出したと言う訳だ。不思議だが、そんなこともあるのだとリョウは感心するばかりだった。
 対してシュウの反応は、
「ヒューヒュー!。何だよ、本当にファンだったんじゃねーか」
 あくまで面白そうに茶化している。まあ端から見れば、役人のスキャンダルような面白さはあるかも知れない。本来なら縁のないローマ貴族と、隠れて交流していたと言うのだから。ただ奴隷達に取ってパトロンの存在は、全ての未来を左右するほど重要なものだった。
「ファン…?、と言えるのかわからないが、この剣闘士のシステムをトウマから聞いて、私がここを出た後の保証人になると申し出てくれたそうだ」
 茶化されようと気にせず、セイジが落ち着いてそう話すのを見ると、
「何だ、割と真面目な話なんだな?。もっとミーハーなことかと思った」
 さすがのシュウもその意味に気付き、大騒ぎするのを止めていた。漸く理解が進んで来たらしき彼を見ると、ラジュラも、
「真面目な話さ、パトロンが付くと言うのは。場合に拠っては一生ものの契約だ」
 そう付け加えて更に真面目な顔をして見せた。個人支援者が現れる、それ自体は喜ばしいことだが、それに伴うリスクも当然存在するのだ。よく知らない者同士の契約には様々な問題も生じるだろう。それを踏まえて決断をしなくてはならなかった、セイジの複雑な心境をシュウも、これから少しずつ学んで行くことになる。
 どう転んでも我々は現在奴隷として扱われている。奴隷には奴隷に適用される法律の中でしか、生き方を選択することができない。その中のパトロン制度がそこまで、喜びに溢れる出来事である訳がない。だがそれを選択するのも、それぞれの未来を決める要素となるだけだ。
「さっき門の所で話してるのを見たぞ?」
 と、リョウが鉄柵の前に居た彼等について尋ねると、セイジはそこで初めて表情を崩した。
「ああ、さっきはこれを貰ったのだ」
 彼が見せた左腕には、大型の獣の歯らしきものを紐で繋いだ、素朴で荒々しい腕輪が付けられていた。リョウがその歯のひとつを摘み、
「何だこれ?」
 と顔を近付けると、セイジはそのものでなく全体を指して言う。
「御守りだそうだ。私が無事自由民となれるように」
 御守り。そんな優しい響きのする物を貰えた征士は、やはり良い選択をしたと誰もが思った。少なくとも剣闘士を、取り替えのきく道具と見ている人物ではない、と判るからだ。
「ほおー、羨ましいことだ」
 とナアザが素直に話すと、シュウはそれ以上に正直な気持を表し、
「いいな!、いいな!、そんなの俺も貰ってみてぇよ」
 また俄に騒ぎ出した。確かに、パトロン契約には様々な問題点もあるが、誰かに支えられている喜びは間違いなくあるだろう。その良い面は他の何にも変えられないかも知れない。そこでラジュラがシュウに、
「まあ今後を楽しみにするんだな、お前にもいいパトロンが付くように」
 と話すと、今はまた明るさを取り戻したシュウが答えた。
「よっし!、俺もいい戦いを見せて、御守りをくれるパトロンに付いてもらうぞ!」
 人は皆、全て望むようにはならない人生を歩んでいるが、その上に落ちて来る恵みの雫を、確実に取り零さぬようにしたいものだ。言葉は無くとも気持を通じさせることはできる。見ているだけで相手の背景を理解することができる。そんな事実を知ると、例え閉じ込められた奴隷の生活にも、機会と言うものは巡って来ると信じられた。
 後はその時まで如何に生き延びるかだけ。如何に勝ち上がって行くかだけだった。



つづく





コメント)予告で書いた通り、この話は結構征伸らしい征伸が入ってますね。秀の見た夢なのに何故!?、と言うことは取り敢えず考えないで下さい(笑)。
ところで、剣闘士の種類について、ラジュラとシュテンについてはちょっと考えてしまった。元々の武器が剣闘士にはないものなので、取り敢えず銛と槍ってことにしましたが。
ちなみにもし伸が剣闘士だったら槍のレティアリイかベスティアリイ、当麻の場合はサジタリイと言う射手闘士ですが、主に馬に乗っているようです。



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