兵舎の中
King Vermilion
#2
キング・バーミリオン



 午後、石畳の訓練場に今日もドクトレの声が響く。
「もう一度!、今の陣型からだ」
「おうっ」
 チームでの総合的な戦術を教えるドクトレは、個人の技術を指導するマギステルより格が高く、指導内容も高度で厳しい。特に実戦を控えたチームへの指導は、ひとつの動きが完成するまで、飽きもせず何度も繰り返させる厳しさだ。
「もう一度!」
「おう」
 そして、暑かろうが寒かろうが容赦はなかった。今はまだ楽な方だが、真夏となればチリチリと肌を焦がす日射しが、何より辛い訓練期間となる。なので剣闘士達はその時期を前に、最も苦しい局面を乗り越えてしまおうと躍起になった。この五番隊の場合は、真夏を前にひとつでも多く闘技会を勝って、チームとしての格付けを上げたいところだ。そうすれば例え訓練が厳しくとも、精神的にずっと楽になる。
「もう一度!」
「おう!」
 今は只管我慢の時だ。元より奴隷は文句を言える立場ではないが、訓練の厳しさに対する不満は飲み込み、ただ自分の為になると信じて、ひとつひとつこなして行くしかない時だ。そしてひとつひとつ段階を経て、頂点へと伸し上がって行くしかない。失敗すれば次へのチャンスが遠退く。いつまでも訓練所で燻る下級闘士になど、誰も望んでなりたくないだろう。それが日々の思い。彼等の日常の意識だ。
 誰もかもが自由と言う出口に向けて、一心に己を鍛え上げる毎日。
「あいつ、本当に体力だけはあるな」
 途中、ふとリョウがそう呟くと、すぐ横に居たセイジはやや息切れしながら返した。
「シュウのことか?。それを見込まれ、ここに連れて来られたんだろうからな。大したものさ」
 まだこの隊に配属されて二日目のリョウだが、その二日の観察で既に、シュウの体力には目を見張るものがあると知ったようだ。六人のチームの内、ドクトレの号令に一々応えていたのはシュウだけだった。そして怠ける様子もなく、自分の立ち位置へと戻って行く動作の軽さが、リョウには感動的にも映ったようだ。しかしセイジはこう続けた。
「ただ、腹が減ると途端にパワーダウンするが」
「ハハハ」
 そう、それさえなければ完璧だ、とでも言うようにセイジも微笑ましく返した。
 今はまだ昼食後の訓練中。まだシュウの腹具合も充分な時だった。これが夕方に近付いて行く程に、頻りに空腹を訴えるようになるから問題だ。前に話していた通り、彼には休憩時間にパンでも与えてほしいと、シュウ本人だけでなく五番隊の面々の、誰もが一度は考えるところだった。それほど彼の、空腹時とのパフォーマンスの差は明らかなのだ。
 しかしながら、空腹でない時の彼は本当によく動く。
「休憩まであともう少しだ!、気合を入れろ!」
「おう!」
 今度もドクトレの掛け声に、確と返事をしたのはシュウだけだった。そんな彼のお陰で、チーム全体が印象良く映る面もあるので、皆それを頼もしくは感じているようだが。

 午後二時半、午後の最初の休憩時間に入ると、
「ふーぅ、今日は一段とハードだな!」
 と、流石のシュウも大きな息をひとつ吐いて言った。その脇を通りながら、
「闘技会の日にちが決まったとなれば、身の入れようも変わるさ」
 そう返したのは、普段からシュウに何かとちょっかいを出すラジュラだった。どうやらシュウは彼のお気に入りらしい。休憩時間や夜など、雑談できるような時間帯となると、必ずと言って良い程からかい半分に声を掛けた。元々話好きで、この五番隊のスポークスマンと言ったラジュラだが、ただこの時は、彼はいい加減な戯れを与えたりはしなかった。
「ホントだな!、ドクトレの態度も何か違う気がすっぜ」
 そんな風に、誰にでも気持良く真直ぐに答えるシュウに、何かしらラジュラは和まされているに違いない。故にあくまで休息中に、ちょっとした冗談でからかう程度のことがあるだけで、訓練などでは善き先輩に努めているようだった。
 その他に、特徴ある先輩と言えばもうひとり、
「いつもより実戦らしい訓練になったし、闘技会が待ち遠しいな!」
 シュウがやや調子に乗った発言をすると、すぐにその勢いを挫くナアザ。
「待ち遠しいのも確かだが、一度の失敗で自由が遠退くだけでなく、恐ろしい事態になるかも知れないんだぞ?。現状以下の待遇に落とされ、次の試合もなかなか組んでもらえず…」
「わかってるよっ!、あんたは暗いこと考え過ぎるぜ!」
「俺は人を冷静にさせる役目なんだ」
 そう言った彼もまた、決してシュウを邪険に扱う訳でなく、使える戦力だからこそ慎重に行けと、口酸っぱく話し続けるようだった。チームをチームとも思わない人間なら、他人の行動に口を挟むこともないだろう。
「ハッハハ、さもあらん」
「まあそう言う奴も居た方がいいさ」
 最後にそう口を開いたアヌビスは、あまりお喋りはしない静かな男だったが、剣の技術には確かなものがあり、後輩達は皆教えてもらうことが多かった。そのようにこの五番隊は、年長組の面子のバランスが良いことも、チームの力となっているかも知れない。年少組は全体の調和をあまり気にせず、チームに参加していられるからだ。
 前の通り、チームによってはろくに口をきかない所もある。或いは、仲の悪い者を内に抱えた問題のチームもある。この五番隊に配属された六人は、その意味ではかなり恵まれていると言えた。それだけに、このチャンスを生かして勝ち上がって行きたいものだ。
「なあ?、闘技場の景色ってどんな感じなんだ?」
 訓練場の壁に寄り掛かりながら、水を飲むシュウは空を見上げていた。ここから見える空は常に、周囲の建物に四角く囲まれた、限定的な一部の空域に過ぎない。闘技場のような場所からは、ローマの空はどう見えるのかと思い付いて、シュウは誰にともなくそう尋ねていた。
「俺達が前に出場した時の会場は、中から小規模の闘技場だったが、それでも空に向け楕円形に広がる客席が、綺麗な山か城壁のように見えて美しかったな」
 既に三度、初級の闘技会に出場しているラジュラがそう言うと、
「へぇー、山に囲まれてるみてぇなのか」
 シュウは素直にその映像を思い浮かべ、気持の良い感嘆に浸っている。続けてナアザが、
「だが上に広がっているせいか、積み石が白いせいか意外と開放的だ」
 と言うと、その形状についてはラジュラも、
「そうだな、客席から見易い形なんだろうが、やる方もやり易い場所だな」
 そう話して同意した。何故だか理由は知らないが、ローマ周辺の闘技場は皆綺麗な白石と漆喰で、見た目も良く作られている所が多い。新造されたコロッセオなどは総大理石張りだ。ギリシャ文化の影響なのか、清々しい白の闘技場は剣闘士達の心も、魅惑的に捕らえているようだ。
「開放的でやり易いってのはいいな」
 そこでリョウがそう話に加わると、
「六人で思いきり動けるなら、この訓練場よりずっと良いかも知れない」
 セイジもそう続けて、年少組にはこれから向かう戦いの場が、良いイメージに塗られて行くようだった。そしてもうひとつ大切な要素がある。
「あとは、客席が大勢の人で埋まってくれれば最高だ」
 と、ラジュラが纏めると、シュウは目を輝かせて拳を握った。
「そうだぜ!。その観衆を沸かして人気者にならなきゃ、皇帝の観覧試合に出らんねぇし、自由の身にもなれねぇんだ」
 彼の言う通り、闘技会はただ勝ち進めば良いと言うものではない。無類の強さを見せることで成り立つ、極真面目な剣闘士も居なくはないが、基本的に人々の支持を集める人気集団でなければ、皇帝主催の剣闘に推薦してもらえない。その為の宣伝にトウマも奔走しているが、まず何より自分等が、魅力的な試合を演じ続けなければならなかった。
 さて我々は、強く、魅力的なチームに成り切れるだろうか?。
「何としても、次の闘技会は勝ちたいな」
 思うことなく零れたセイジの呟きに、リョウも同意して頷きながら返す。
「次のステップの為にまずひとつ勝たなきゃな」
 すると毒舌家の先輩が、ここでは全体の士気を見てこう言った。
「まあその点では、間違いなく意思統一ができているようだ、この五番隊は」
「あったり前だぜ!」
 こんな時ばかりは、明確な意思を持つシュウの素早い反応が、ナアザにも心地良く感じられているようだ。訓練の場ではハラハラさせられても、基本的な性質は悪くないとシュウを理解しているのだろう。そして彼がもう一言、
「目的を違えていると結果もブレ易い。全員が「まずひとつ」と意識することが大事だ」
 との助言をすると、その真摯な気持を素直に受け取ったシュウは、
「おうっ、ここは経験者の声を聞いとくぜ?」
 と、明るく胸を叩いて見せた。
 初めての闘技会まで約一週間。その間に年少組の三人は、事前に何をすべきか、如何なる心構えで臨むか、様々なことに思いを巡らすだろう。華々しく出て行った闘技場の小一時間程未来に、栄光が待つか失意が待つかは判らない。だが意思の力がほんの僅かでも欠けたら、手にできる栄光も逃してしまうかも知れない。彼等は第一にそんな意識が大切だと学んだところだ。
 まずひとつ、まずひとつ貪欲に取って行かなければならない。そして漸く次の未来が見えて来ることの、繰り返しにも堪えて行かなければならない。彼等の剣闘士としての道はまだ始まったばかりだ。
 と、それぞれがそんな思いを巡らせていた時、
「あ、あいつ…。珍しいなこんな時間に」
 ふとシュウが鉄柵の外の人集りを見て言った。鉄柵は訓練場の出入口でもあり、素通しなのでいつも剣闘ファンが集まっているが、その人は普段はそこに居ないと知っていた。
「あいつって?」
 とリョウが尋ねると、
「あいつさ、いつも綺麗なカッコしてて、お供の人を連れてるんだ。トウマの知り合いらしいんだが、いつも何となく宿舎を眺めてる感じでよ。何しに来てんだか」
「ああ、昨日も来ていたな」
 既にリョウにもその人物は思い出せていた。トウマの学び舎の友人であり、ローマ貴族の息子であるシンのことだ。そしてシュウは、
「でも今日は訓練を観てたみてぇだな?。いつも終わった後の夕方に来るのに」
 そう続けると、リョウの向こうに立っていたセイジに同意を求める。ところが、
「なぁ?」
「…さあ?、私はあまり…」
「え?、おまえ知らねぇのか?」
 シュウには意外な返事が返って来た。同じ時期から同じチームに入り、同じ部屋で過ごして来たセイジが、窓の外によく現れる人物をよく知らないとはどうしたことか?。
「ああ、見たことはあるな、と言う感じだ」
 更に加えられたセイジの言葉に、シュウは首を傾げていたが、まあ個人個人の視界の違いはあるものだと、ここでは軽く納得してみせた。
「そうかぁ、意外と関心ねぇんだな?、よく外を眺めてる割に」
 戦い方にも個性や癖があるように、その人それぞれの意識や考えがあって当然だ。それを思えばそんなにおかしなことではないかも知れない。ここではただ、戦い勝ち進む意思だけが、全てを統一する絆なのだから、それ以外のことなどどうでも良いと言えばどうでも良い。
 けれどリョウだけはその話に乗って、
「シュウは塀の外に興味津々だな。いつも外を歩く人間を見てる」
 と、シュウの日常行動を指摘して見せた。すると彼はそれにも明るく明確な言葉で返す。
「そりゃあな、俺は絶対にここを出て行きてぇからよ。それまで絶対に死んだりするもんか!」
 チームの中にひとりこんな人間が居る。何事にも意欲的で率直な、明るい魂を持った人間が居る。そのことがこの五番隊の雰囲気を決める、大きな要因になっていることを本人は知っているだろうか?。否、知らないとしても、誰もが彼の運んで来る空気に、爽やかな明日を感じることができている、それが今は何より大切なことだった。
 この奴隷生活がいつまで続くのか知らないが、彼が居てくれる間は、そう鬱屈とした日々を過ごさずに済むからだ。それこそが五番隊の幸運、何よりの巡り合わせかも知れなかった。そして、だからこそこのチームで確実に勝って行きたい、と思わせるのかも知れない。この先の五番隊に更なる幸運あれ。と、誰もが思うことなく思っているのだろう。



 五番隊に更なる幸運あれ。
「シン様、どちらにお出でですか?」
 剣闘士達の短い休憩時間が終わり、訓練場にまた激しい動きが戻って来た頃、シンは鉄柵に集まる人込みを掻き分け、ひとりその傍を離れて行ったが、すぐに彼の従者に呼び止められていた。何故なら、普段通り家に帰る方向でもなければ、学問所に向かう方向でもなく、シンの足はあらぬ方向へ向かっていた。
 その理由をシンは、やや口籠るようにこう伝える。
「あ…、神殿に行くんだ」
「神殿に?、お祈りですか?。こんな時間から?」
 普通神殿と言う時、町の各所に存在する小神殿のことは言わない。シンはこの訓練所から北へ一キロほどある、パンテオンに行くと言っているのだ。パンテオンは今から百年程前、初代皇帝アウグストゥスの腹心だった、アグリッパが建造したギリシャ式神殿で、ローマの神々全てを奉る総本山的存在である。それだけに人々は、大事な祈りが必要な時はパンテオンに足を運ぶ。
 ただ、現在のシンにそこまでの心配事があるかどうか、従者の老人は些か疑問に思うようだった。
「急に、思い付いたんだ。すごく大事なことを思い出してさ。別に午後から行ったって悪くないだろ?」
 シンがそう答えると、付き従う者としては「了解」と言う他にない。
「そうですが…」
「それが終わったら家に帰るよ」
「はい、わかりました。お供致します」
 主の気紛れに、ある程度仕方なくとい言う風ではあるが、彼はシンに着いてその場から歩き出した。だが二、三歩進んだ所でまた立ち止まる。
「そう言えば闘技会の切符をもらうことになっていたのでは?。トウマ殿に会わずに帰るのですか?」
 そう、今日は確かその用で訓練所に立寄ったのでは?、と、従者の老人はシンの行動を確認した。因みにこの時代の闘技会は全て無料で観覧でき、各地のラニスタからチケットをもらうシステムになっている。興行の為の費用は一部は国から、一部は愛好家の貴族などスポンサーから負担されており、それだけ国が豊かであることの証明にもなっていた。
 そんな理由で特に人気のある闘技会のチケットは、朝から行列を作って入手することになるが、貴族の場合は特別に設けられた貴族席があり、大会場の人気試合でもなければ、常に席数に余裕のある状況だった。なのでシンは、
「ああ、それは明日以降でいいから」
 と、状況を見た様子でそう返したが、従者はまだ腑に落ちない様子でもう一度尋ね返す。
「そんなに急いでお祈りに出掛ける必要が?」
「・・・・・・・・」
 そう言われてしまうと、シンも返す言葉が無くなってしまう。確かに今日の自分の行動は変則的だと、自分でも判っているから尚更だった。常に身近に居る従者が疑問を抱くのは当然、だが、シンにはまだ誰にも言えない秘密があった。
 まだ誰にも言えない秘密の思いがあった。その思いが強くなればなる程に、この身をあらぬ方へと動かすことにも気付いていた。これまで感じたことのない衝動と、鮮やかな高揚感がシンの中に生まれては花開く。大人しく学び舎に通う生活の中で、こんな気持に出会うとは思ってもみなかったのだ。
 けれどシンは努めて心を落ち着けている。
「いいんだ、少し黙ってて」
 彼はそう伝えると、何処か遠くの空を見ながら歩き出した。気持は既にパンテオンの天蓋の元に飛んで行ってしまったようだ。従者の老人はそんなシンを見詰め、何を思ったかは知れない。

『僕は何故貴族の家に生まれたんだろう?』
 歩きながらシンは考えていた。この豊かなローマで特権的な家庭に生まれ、何不自由なく暮らして来た自分は、ある意味現代ローマの象徴的な存在だとも思う。現在この国の人々は無尽の富と発展に喜び浮かれている。ローマの栄光と平和は、その周辺諸国にも広く伝わっている。しかし誰もがその平和の恩恵に与れる訳じゃない、と、シンはその理不尽を思い悩んでいる。
『何故庶民に生まれなかったんだろう?』
 そう、もし自分がトウマと同様の立場なら、この理不尽にもっと早く気付いたかも知れない。もっと早くこの世の不公平さを知ったかも知れない。ここが最高の都だなど、豊かなローマ市民が見ている幻想に過ぎないと、意識するのが遅過ぎたような気がして、このところシンは気が咎める毎日だった。
『もっと自由に暮らせる身なら、剣闘を観ることも楽しめるのかも知れない』
 自由とは何か。奴隷達はあらゆる行動の自由を奪われ、只管に戦うことを強いられている。だがその先の人生に選択の自由が無い訳ではない。それに比べてどうだろう。シンは出歩ける場所も制限されれば、将来何処で何をするかも、元老院の貴族議員に従うしかない身だ。身分だけは保障されているものの、これではどちらが自由かなど判らない。
 ただ、自由とはそれと引き換えに、命の危険に晒されることもあるのは確かだ。奴隷達はそんな無防備な自由の為に戦っている。その道程自体も危険を孕んでいる。果たして真の自由を勝ち取ることが良いか、組織に守られる不自由を選択するのが良いか、答を出すのは難しいことだった。
『今の僕はただ恐れるばかりだ』
 そしてシンは、今度行われる剣闘試合を身の詰まる思いで、見守らなければならないことに苦しんでいた。自由の為に戦い、傷付き、時には命を落とすこともあると言う、荒々しい娯楽が好まれ行われていること自体、シンには受け入れ難い事実であるにも関わらず。
『その結果を』
 その試合結果を知らなければならない。如何なる結果となったとしても、受け入れなければならない現状が辛い。無論戦う本人達に比べれば、直接傷付く訳でもない自分が何を言う、と、笑われるかも知れない立場だが。ただ、シンは無心に思い続けていた。
『あの人がこれからどうなるのかを』

 パンテオンの前には、今日も多くの人が参拝に集まっていた。年寄りや病気を患った者、貧しい者など、神殿だけは階級の差別なく出入りできる、真の平和の場所だとシンは溜息を吐いた。それでも権力のある貴族がそこを通れば、下々の庶民は道を空けて端に寄る。祈りの祭壇さえ、中央の良い場所には身分の高い者が陣取り、その他の者は暗黙の了解で退く始末だ。
 神は分け隔てなく人々の願いに耳を傾けるが、人々は身分によって隔てられて暮らしている。こんな状態が自由と平和であるとは思えない。何かに目覚めたシンには、このローマの風景が酷く歪んで見えている。
 けれど、一個人の思いだけではどうにもならないことだ。
 だから彼はここに祈りに来た。どうにもならぬことに対し、その一部のほんの僅かな面にでも酬いがあるように。できればそこに自分の居場所もあるように、と。
『闘技会なんてただただ野蛮なものだと思っていた。自分には関係ない、賤しい者が競って喜ぶものだと思っていた』
 跪き、手を合わせシンは祈り始める。過去の自分の無知を回想し、恥じ入り、今の己の気持を広く深く胸に満たしていた。そして自分が変わる切っ掛けを作ってくれた友人を思う。
『トウマのお陰でそうじゃないと知った』
 彼とは偶然同じ学問所で知り合ったが、もしそれがなければ、自分は未だ小さな殻の中に閉じたまま、何も見えない日常を過ごしていたかも知れない。知らぬ間に差別する人間になっていたかも知れない。そう思うとシンの心は震えた。ローマは豊かで平和な国だが、それが世界の全てではない。ローマ市民が何もかも優れている訳でもない。知ろうとしなければ他地域の良さは、なかなか見えて来ないものだけれど。
 無関心でいることはある種の罪でもある。豊かさが無関心を呼び、人を盲目にさせる事実を知ると、シンには何より、今の自分の気持が大切に思えた。
『知っただけじゃなく、あの人に会った。あんな人を見たのは初めてだった』
 訓練所の窓にいつも見えた横顔。
『僕のブリタニウス・ロサ…』
 その人は、金髪に薔薇色の肌をした不思議な人だった。アングロサクソン系の白人は、皮膚の色が白過ぎる為に、血の色が透けて赤く見える者が多く居る。殊にブリタニアにはその民族が多く、そうした特徴を持つ者を『ブリタニアの薔薇』と呼んでいる。
 今はシンも、名を知らぬその人のことをそう呼ぶが、それも、関心を持たなければ全く知らないことだった。故に無関心は愚かな行為だと今は思うのだ。
 薔薇の花は美しい。その色を纏った人間が存在するのだから、世界は広く不思議に満ちている。シンはここローマではあまり見られないその容姿に、途端に魅了されてしまった。
『僕のブリタニウス・ロサが、必ず生き延びますように。必ず自由民として解放されますように…』
 だから彼は祈る。その人がこれから臨む闘技会での安全と、その結果に幸運があるように。不運な奴隷達に必ず望むものが与えられるように。そして己の心がなるべく平和で居られるように。



 そしてその日はやって来た。
 その日は朝から騒々しく、意欲的で活気ある声が訓練所に飛び交っていた。トウマもまた五番隊の部屋を訪れるなり、
「遂に来たな!、みんな落ち着いて行けよ?」
 と、明るく士気を盛り上げる。既に気概充分と言った様子のメンバーは、口々に自身のやる気を表して応えた。
「ああ!」
「わかってる」
「落ち着いて普段通りの戦いができれば、勝利は間違いないと信じているからな!」
「おう!、必ず勝つ!!」
「必ず勝つ!」
 一見同じことばかり繰り返す、無意味な会話のようにも思えるが、何度も繰り替えし自己暗示を強くすると言うのも、競技者には常套的な準備作業だ。故にトウマは幾度となく前向きな言葉を繰り出す。
「そう、必ず勝つ、必ず勝てる相手だ!」
「おう!」
「勝てばまた次が見えて来る。そして今夜の食事は祝賀会だ!」
 するとその言葉を聞いて、シュウが一際喜び勇んで言った。全く彼らしいことである。
「よっし!、その為にも必ず勝って帰るぜ!」
 更にそれを、いつものようにナアザが嗜める。
「おまえはとにかく落ち着いて行け」
「わかってるって言ってるだろ!」
 続けてラジュラが、それもまたいつものように軽い冗談であしらった。
「よしよし、大丈夫だ、シュウが危ない時には俺が助けてやるからな?」
「気持悪ぃって言ってんだよ!」
 五番隊の本日の状態は、上がる声の小気味良さを見るに調子が良さそうだった。特別体調が悪そうな者も、試合を前に揚がっている者も居なかった。これなら少なくとも、練習して来たことを本番で出せないことはないだろう。相手がどの程度の実力かによって、結果がどう出るかは判らないが、充分良い戦いができそうだとトウマも安心した。
 後は、運を天に任せて応援するのみだ。

 その闘技場はローマの南東にあり、城壁の門を出て二十分ほど歩いた場所にある。規模としては比較的小さな闘技場だが、ローマから近いこともあり、観客の入りは常に上々の場所だった。そこへ、初めて足を踏み入れた年少組の三人は、例え小規模だったとしても、何とも言えぬ戦場の広がりを感じるだろう。試合前の静かな戦慄がそこを被っているのを感じるだろう。
 待機場の狭い出入口から、視界に広がる土のフィールドには今は何も見えない。そこで繰り広げられる戦闘を、今か今かと待ちわびる観客だけが、今はこの場の雰囲気を作っている。そして、フィールドには剣闘士達の切望する夢が、これから一歩一歩実現されて行く。正に自由への入口、それがこの闘技場だと思うと、実際以上にそこは広々と明るく感じられた。
 敵味方合わせたった十二人が、全ての観衆の目に晒される時が刻一刻と近付く。長い訓練期間を経て漸く外に出た奴隷達に、これほど興奮する事態は滅多に訪れない。誰もがその時を固唾を飲んで待ち続けた。誰もが口を噤み、意の力を溜め込むように押し黙って待ち続けた。
 そして遂に、彼等の出番が場内にコールされた。

 これまで充分に訓練を積んで来た六人は、今や最も清々しい様子で立ち並ぶ。対して向側に並ぶ六人は、試合前の荒ぶる様子だけは見事なものの、全員がやや面白くなさそうな表情をしていた。
「どう思う?」
 と、シュウが横に立つリョウにコソっと話すと、リョウは相手を一通り眺めて言った。
「油断はできないが、あまり息の合ってないチームのようだな」
 するとそれを耳に、セイジがもうひと押し前向きな言葉を吐く。
「なら我々が有利」
「よしっ、俺達には運もありそうだ!、やってやろうぜ!」
 こうして、シュウの意気揚々とした声を合図に、五番隊の最初の剣闘試合は始まった。



 その日の夜、宣言通り訓練所の食堂には、彼等の為のささやかなお祝い料理が並んでいた。そう、彼等は勢いのまま見事に初戦を突破したのだ。鶏の丸焼きに豆と子羊の煮込み、色とりどりの野菜とパンを前にして、彼等はまずなみなみと注がれたグラスを高く掲げ、食堂に響き渡る大声で勝利を祝った。
「うーん、旨い!。こんな旨いワインを飲んだのは久し振りだ」
 ラジュラが始めにそう言ったのは、普段から夕食時には一杯のワインが出されるものの、今日は格別に旨く感じると言う意味だった。「勝利の美酒」と言う言葉がある通り、何らかの競技、対戦に酒は付き物だ。今はそれを自分が味わっている、その事実が何より嬉しいと言うところだろう。
 するとナアザはやはり冷静に、
「今日は相手に恵まれていたな、出来過ぎと言っていい試合だった」
 と、今回の対戦を振り返っている。その横に居たアヌビスもまた、
「観衆受けも上々だった。思うように動けたからな」
 そう言って、取り敢えず今日は楽な戦況だったと感想を述べていた。試合前にリョウの判断した通り、相手はあまり連携の取れていないチームだった。個々の能力はそれなりにあるものの、剣闘はチームがバラバラでは思うように勝てないものだ。相手のそんな弱点を突き、五番隊は実際見事な戦い振りで勝利を収めた。願わくば次の試合も、比較的楽な相手が回って来るよう願うばかりだ。
 と、その時食堂にトウマが駆け込んで来て言った。
「みんな聞け!。今日の結果、次の試合が決まった。今度はもっと大規模な会場に移るぞ!」
「やった!」
「やったな!」
 祝いの席で、更なる喜びの声を上げた面々。最初のチャンスをものにした結果が、すぐに次へと繋がったのは本当に幸運だった。否、勿論トウマの努力の成果でもある。その嬉しい事実を踏まえ、
「この調子で名を上げて行きたいもんだ」
 とアヌビスが言うと、ラジュラはトウマの肩を掴んで揺さぶりながら、一際楽しそうに声を掛けた。
「頼むぜラニスタの息子!、俺達の評判がもっと上がるように」
「ああ、俺もやれることはやってやるさ!」
 トウマもまた、自身の初めての仕事が順調に進んでいることを、嬉しそうに笑い返していた。他の誰かではない、チームのメンバーが評価してくれている様が、彼には何よりの労いに感じたようだ。
 ただ、今は心地良い疲労に浸っていても、喜んでばかりはいられない。
「恐らく次はもっと強い相手が来るだろう。この後の訓練が大事になって来る」
 セイジが更に次の試合を思いながら言うと、その横でリョウも、
「そうだな、もっと腕を磨いて行かないと」
 と話す。何故ならこの訓練所に所属する一番隊、二番隊などのプロの剣闘士達は、もっと戦略的で狡猾な動きを見せているのだ。これからはそのレベルにどう達して行くか、個々の努力が試される時でもあった。
 プロになる希望は特に持っていないが、皇帝主催の剣闘シリーズとなると、当然それなりのレベルの試合内容が求められる。目の肥えた観衆が納得する試合を演じるには、プロになるつもりで、その域を目指さなければならないと言うことだ。
 果たして自分達はそうなれるだろうか?。しかし、
「でも希望が沸いて来たな!。俺は自由の為にどんどん闘うぜ!。毎日の訓練なんか屁でもねぇ!」
 既に料理を口一杯に頬張るシュウが、ふたりの真面目な意見を吹き飛ばすように言うと、いつものようにその楽観論を嗜め、
「おまえはとにかく落ち着けと言っている」
 とナアザが口を挟んでいた。この場では一種のお笑いでもあった。
「わかってるっつーの!」
 そしていつものシュウの遣る瀬ない返事が聞こえると、その場は賑わいつつも落ち着いた空気に纏まって行った。そこでトウマもグラスを持つと、
「とにかく今は祝いの時だ、ふたつの意味でな!」
 もう一度乾杯の合図を取った。既に食事を始めていた者も、ワインを新たに注ぎ直した者も、頼もしい世話人と認める彼の為に今一度グラスを手にして祝う。
「おう!、今日の勝利と次の勝利の為に!」
「ホサナ!」
「ホサナ!」
 訓練所の食堂の一角は、他の奴隷達の誰もが羨む盛り上がりようだった。
 その食事の途中、ナアザがふと思い出したようにシュウに尋ねる。
「しかしお前は、余程自由にこだわりがあると見える。何か理由があるのか?」
 無論ここに居る奴隷達は、誰もが解放されたいと思っている筈だが、それにしても彼は「自由」と言う言葉をよく使う、とナアザには感じられたようだ。するとシュウは当然のようにこう答えた。
「そりゃ大アリよ。俺の家は商人の家系なんだからな?、本来何処の土地でも自由に暮らせる筈なんだ」
「それはまあそうだな。兵隊に比べれば」
 聞けば成程と思える話だったので、ひとまずナアザの疑問は解決した。元々兵役のある国に生まれた自分とは、考え方が違うことが何となく解ったのだろう。するとラジュラが続けて、
「珍しいよな、おまえは。俺達は大体が占領された地方の兵隊だ。だからこんな訓練所暮らしも、こんなモンだろうと堪えられるが、おまえにしたら囚人同然の生活なんだろうな」
 ここでのシュウの特異性について話した。元兵隊ではない者も居なくはないが、それでも大概は何かしら、戦争や競技に関わっていた者がここには多い。それだけに奴隷達は始めから、ある程度似た感覚を共有する生活になっているが、シュウだけはそうではなかったのだ。彼は生来の明るさだけでなく、過去に本当の自由な生活を知っていて、それを心から求める強さが感じられた。
 彼に取って自由とは、常に当たり前に存在するものだったのだろう。そして彼が言うには、
「その通りだぜ?。こんな生活させられるとは思わなかった。まあ性に合わない訳でもねぇけど」
 とのことだった。郷に入れば郷に従えとも言うが、今はその自由への欲求を胸に、それなりに適応して暮らしているようだ。ただ、
「確かに」
 とトウマが、「性に合わない訳でもない」と言ったシュウを笑うと、
「笑うなよ!。そりゃプロにでもなれたら、こんな生活も悪くねぇとは思うけどよ?、俺は早くここを出てやらなきゃなんねぇ事があるんだ。途中で別れた親父達や伯父さん達が、どうなったのか安否を確認しねぇと。もう一年以上経っちまったし、簡単に居場所が判るとも思えねぇけどよ」
 と、シュウは反発して言った。つまり性格的には剣闘士と言う職業も良いが、その前に彼には大事な家族が存在するからだ。家族を探す以前に他の案件を吟味することは、彼の頭には無いようだった。
 しかしそこで、
「うーん…」
 と、ラジュラがやや難しい顔をして見せる。続けてアヌビスも、
「ローマに入れたなら問題ないが、そうでないと難しい話だな」
 そう言って目を伏せてしまった。この時代、ローマ市民と認められた者以外の動向など、当然誰も把握などしていない。もしシュウが剣闘士となっていることを知っているなら、向こうから接触を試みるだろうが、これまでのところそんな様子も見られなかった。それをシュウは、
「難しいのは分かってる。だが俺の一族は家族の繋がりが何より大事だからさ。何をするにもまず、どうしてもそこに戻んなきゃなんねぇんだよ」
 と話したが、文字通り簡単でないその作業に、年長のメンバー達は皆あまり良い顔を見せなかった。寧ろ今は忘れておき、奴隷を解放されたらローマで財を成しつつ、家族の情報を集めると言うならまだ解る、と誰もが言いたげだった。
 しかし誰もそれ以上のことは話さなかった。祝いの席でもある、シュウに面白くない思いをさせたくないこともあった。だがそれより、未来の可能性を「こうだ」と言い切れる、自信も証拠も誰にもありはしない。シュウが信じることを鼻から否定する理由は、誰も持たなかったからだ。
 できることなら、奴隷達全ての望む通りの未来が存在するように、と思っている。現実はそう上手くは行かないとしても、最低限の希望に沿った未来であってほしい、と誰もが願って止まない。シュウの場合はそれが困難な事件となっているけれど、そんな彼にも無上の幸あれ、と、メンバーは暗黙の内に思っているようだ。
 何故ならシュウはこの五番隊の、若く瑞々しい強さを象徴する華だ。そんな彼には相応しい栄光をと、皆悪気なく思う特別な存在なのだ。
 不運の中の不運、慚愧の中の慚愧に生きる彼が、どうか必ず報われますように。
 とその時、
「それなら、俺が役人に掛け合ってみようか?」
 トウマがそうシュウに声を掛けた。
「え?、そんなことできんのか?」
「ああ、おまえは確か、ローマ兵に怪しまれて入国拒否されたって言ってたよな?」
「そうだ。その時俺はその兵隊にここに連れて来られて、他の家族がどうなったのか判んねぇんだ」
 些か場の流れが好転して行く雰囲気を感じ、シュウは乗り出し気味になって捲し立てる。役人が探してくれると言うなら、今は動けない自分には有難いことだった。思わぬ提案にすぐ食い付いたシュウを見て、トウマも饒舌にその状況を説明する。
「それなら警備の記録に残ってるんじゃないかと思う。おまえがここに来た日付は知ってるし、照らし合わせておまえの家族が、どうなったかの足取りくらいは調べられると思うが?」
 すると、
「頼む!、トウマ。そんなこと知らなかっが、俺を助けてくれ!」
 途端にシュウは手を合わせ、神に乞い願うように頭を下げた。それほど素早い反応を見せる、それは彼に取って本当に大事な事なんだろうと、トウマも快く受け取ることにしたようだ。
「ああ、頼まれてやるよ」
 まあ、奴隷達の将来をコーディネートするのも、世話人の大切な仕事だ。トウマにはまだ初めての相談だったが、これから次々考えて行くべきことだった。ラニスタとしての新しい経験の始まりを、トウマも歓迎し、シュウに対しては良い知らせをと思う。
「良かったな、シュウ。家族が見付かるといいな?」
 リョウが精一杯励ますように彼の背中を叩くと、
「おうよ!。何か今日はいい一日だな!、こんなに嬉しい日って滅多にねぇぜ!」
 シュウはケロリと元の様子に戻り、食べかけの鶏の足を再び齧り出した。そうでなくてはシュウじゃない。シュウらしくないと思うセイジも、
「それが明日への活力になるなら尚良しだ」
 と、微笑ましく彼の様子を見ていた。



つづく





コメント)第一話からあまり内容が進んでないような文章ですが、いやそんなことはありません、淡々と進んでおります(^ ^;。
前作の「青いサンクチュアリ」のように、どんどん場所を移動して行くこともないし、次々事件が起こったりする訳でもないし、いつもいつも訓練所と闘技場ばかりで申し訳ない。奴隷の話だからしょうがないわ。まあもうしばらく付き合って下さい〜。



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