訓練中
King Vermilion
#1
キング・バーミリオン



 日の出の後を日暮れが追うように、繁栄の後には衰退が訪れる。
 未だ誰も知らぬその時は、きっと全てが日暮れ色に染まっているだろう。



「手を抜くな、シュウ」
 訓練用のルディス(木剣)で組合うふたりの内、金髪の青年がその相手に言った。六月、そろそろ日射しも強くなって来た最中、長時間の剣の訓練はじわじわと体に堪えて来る。
「手を抜いてる訳じゃ…、…腹が減って来た」
 もうひとりのシュウと呼ばれた青年、否少年は、些か力の入らない理由をそう返した。
 日がな繰り返される戦闘訓練。ここでは五十人ほどの人間が、淡々と日々の訓練メニューをこなしている。多くの者はろくに会話もせず、ただ課せられた日課を消化して行くのみだ。楽しみも何もありはしない。その行動には特に理由や大義もない。「やれ」と言われたからそうしているだけだった。何故なら彼等はここに奴隷として連れて来られたからだ。
 奴隷と言っても、このローマに限っては様々な背景を見ることができる。従来犯罪者や出自の賤しい者、投降した敵兵などが奴隷とされ、特に前者は最底辺の扱いを受けたが、ここには何らかの事情で流れて来た者など、あやふやな理由で奴隷化された者も多く居り、その所為か生活待遇も悪くなかった。彼等は傅く立場に置かれることなく、一定レベルの世話を受けながら大事にされていた。
 何故そんな特殊な奴隷が、ローマ帝国の領内に大勢集められているか。何故なら、ここには市民が熱狂する大イベントが存在するからだ。グラディアトル、即ち剣闘技会である。
 ローマ帝国の建国以前から、ローマ周辺で盛んに行われて来た闘技会。起源はギリシャのオリンピア競技とされ、嘗てはスパルタクスなど名を馳せた地方集団も存在し、国対国の戦いが楽しまれて来た。現在ではローマ市民の娯楽として興行的に運営されており、その人気から五万人収容可能な、大理石張りで屋根もある、白亜の大会場コロッセオが建設されたところだ。
 それ故奴隷達は、最低でも恥ずかしい死に方をせぬよう、日々の訓練を欠かさず続けている。無論良い戦い振りを見せられれば、市民だけでなく皇帝からも喝采を得ることができる。単なる奴隷から英雄に変わることができる。自由民として身分を解放してももらえる。誰もがそれを目標に、真面目に剣技の訓練を積むのは当然のことだった。
 英雄になりたいかどうかはともかく、誰も奴隷として生きたくはないのだから。
「フフ。もう少しの辛抱だ」
 金髪の青年はセイジと言ったが、シュウよりふたつ年上であり体も大きかった。更に、ここに来る以前に幾らかの戦闘経験があり、シュウに対しては常にアドバイスを与える立場だ。けれどそんな彼にも、シュウの生来の明るさから来る呟きは、真剣さの中でも許されるユーモアが感じられるようだ。セイジはシュウにはしばしば笑顔を見せた。そして彼だけでなく、同じチームのメンバーは皆シュウに和まさせていた。辛く厳しい日々の生活の中で、ほんの僅かな息抜きとして。
 この日も夕暮れ前の、訓練の最終盤にはこんなことを言いながら剣を打ち込み、彼は周囲の者を失笑させていた。
「あ〜夕陽が恨めしい!」
「腹が減って来る頃、ローマの空はいつもオレンジ色だ!」
「オレンジが食いたくなる!」
 出て来る言葉は常に馬鹿馬鹿しいが、素直で憎めない彼の存在は、鬱屈とした奴隷達の間では一種のオアシスのようだった。
 その内、訓練を見守っていたマギステル(教練士)が、
「全員止めーーー!。道具整備の後は速やかに宿舎に戻れ!」
 との号令を響かせると、疲労した奴隷達の動きが一斉に止まり、それぞれに漸く安堵の時が訪れた。勿論訓練を終えた後に、豪勢な食事や娯楽が与えられる訳ではないが、それでも厳しい日課を乗り越えた後の、穏やかな休息時間は嬉しいものだった。
「ふぅ…、やっと今日の訓練が終わったか」
 額に流れる汗を拭いながらシュウが言うと、
「暑くなって来ると段々とキツくなるな。夏はまだこれからだ」
 二年目の夏を迎えるセイジがそう返した。彼等はほぼ同時期にこの剣闘士団に連れて来られた為、この国の夏が厳しいことを既に知っている。殊に北部出身のセイジには辛い季節だった。
「早く消耗しちまうんだよな。せめて休憩の時に、パンくらい出してくれればいいのによ」
「私は食物は要らん、冷たい水をくれれば嬉しいが」
「あー、汲み置きの温い水はイヤだな、俺も」
 するとそんな遣り取りからセイジは、
「世話役に相談してみるかな」
 と言い出した。前途のように剣闘士団の奴隷達は、ある程度の生活待遇が守られている。不快に思うことは思い切って提案してみると、意外に通してもらえることもあるようだ。するとシュウも、
「そうだなぁ、おやつは無理でもそれくらい聞いてもらえるかもな?」
 と、笑顔で相槌を打って見せた。さて世話人の答は是と出るか否と出るか。
 石畳の広場から徐々に人の姿が消えつつあった。奴隷達は訓練を終えると、やはり淡々と各々の部屋へ戻って行く。部屋と言ってもそこは牢屋とあまり変わりない、小さな窓があるだけの石造りの小部屋に、チームの人数分の寝台が据え付けられただけの、ごく簡素な共同住居だ。それでもそこに戻り、屋根の下に身を隠していられる時間を、皆何よりの安息に感じている。
 一度闘技場に出れば生きるか死ぬか、或いは大怪我を負うことになるか。その何れかの結果の為に、終わりの見えぬ訓練をさせられ続ける毎日だ。道はただそのひとつしか無い。その逃げ場のない感情を慰めてくれるのは、日毎変わらず静けさを運んで来る夜だけだった。
 だから夕暮れ時はいつも、誰の心にも仄甘さを感じさせた。
「あーあ、今日もやっとメシにありつけるー」
 ルディスを道具箱に戻すと、シュウは勢い良く伸びをしてそう言った。彼の場合はもう仄甘いと言うレベルを通り越して、蜜の夢でも見ているかのような明るさだ。
「食うことばかりだな、おまえは」
「それくらいしか楽しみねぇだろ、今ンとこ。まあ大したメシが出る訳でもねぇけど」
 そんなシュウの太平楽な様子を、多少羨ましく感じていそうなセイジは、広場のアーチを潜る前に一度足を止め、シュウの言葉を借りてこう返す。
「だが本当だな、今日も夕陽が美しい。恨めしいほどに」
 美しいと感銘することはあれ、実質的には何も与えてはくれないローマの空。自由に出歩くことを許されない彼等には、それが今現在の世界の全てだ。
 この広場から見える夕焼けを飽きる程見ている。いつかこの狭い世界を抜け出そうと切望しながら。そしてセイジもシュウも、また同じ一日が終わった幸いと口惜しさを、無言で空に見詰めていた。



 水浴の後は医師兼マッサージ師のチェックを受け、夕食までは暫し部屋で休憩となる。ふたりが宿舎の廊下を歩いていると、ひとりのドクトレ(訓練士)がセイジの腕を取って言った。
「おい、お前達、五番隊だな?」
「そうだが?」
 するとドクトレは、その背後の人物が見えるように体を傾け、
「一昨日出た負傷者の代わりに彼を補充する。一年の実績があるから顔見知りだろうが」
 と、年の近そうなひとりの青年を紹介した。浅黒く日焼けした肌に、鋭く大きな瞳が印象的な彼は、地中海周辺に馴染む黒い目と黒い髪をしていた。
 ひと目相手を見るなりシュウはすぐにこう言った。
「ああ、おまえよく訓練で対戦したよな?」
 すると相手もそれを認めるように、余計な言葉は省略して自己紹介を始めた。
「宜しく、リョウだ」
 中途の時期にひとり別チームに加入するのは、連携の面でも、人間同士の付き合いの面でも負担が大きい。まして今はコロッセオが完成し、闘技会のシリーズ戦が開催されようと言う時だった。短時間で新しい環境に慣れなければならないことを思うと、何故こんな時に怪我人など、と不平を言いたくなる場面でもある。
 けれどリョウと言う青年は物おじせず、気持く胆の座った印象をふたりに与えた。嫌々移動させられることは当然あれど、それを前向きに捉えられるなら頼もしい。なのでセイジも、このメンバー変更は良い流れになりそうだと、相手に希望を持って続けた。
「私はセイジ、こいつはシュウ。キャリアは君と同じぐらいだと思うが」
「俺もそう思う、同期の仲間として足を引っ張らないよう努力するよ。もうすぐ闘技会が始まるし、何とか息を合わせて行こうな」
 案の定リョウも、現状での移動を慎重に考えていることが窺えたが、それ以上に友好的な態度がシュウは気に入った様子で、
「おう、おまえいい奴そうだな!。勝ち抜いて一緒に自由の身になろうぜ!」
 そう言って抱き着きがてらに背をパンパンと叩くと、リョウも明るい様子で応えていた。
「ああ!」
 ここにはろくに口をきかない者も居る。同じチームでもほぼ会話しない集団もある。そもそも協調しようと言う意識のない者も居る。その中でこの五番隊は、シュウのお陰か異質なほど家族的なチームだった。そこにまた理想的な新兵がやって来たことは、チームにも有難いことだったろう。
 するとシュウは、必ず誰にも聞くのだが、
「それでさ…」
「ん?、何だ?」
 リョウの耳許でコソッと話を始めた。何故ボリュームを下げるかは、聞かれるとまずい話が出て来た時の用心だ。
「ついでの話だが、おまえは何で奴隷になったんだ?」
 ところが、その話題は逆にリョウの目をパチクリさせた。何故なら、
「そっちの方こそ疑問だ、俺より年下じゃないのか?」
 リョウは以前から、若い自分より更に若い、子供のような奴隷が居ることを気にしていたからだ。リョウとセイジは既に一度社会に出ているが、シュウは最初の頃はどう見てもただの少年だった。それについてまずシュウが、
「俺は十七、ここに来た時は十六だった。一族でローマに商売に行く途中でな、ギリシャでスパイに間違われて奴隷にされちまったのよ」
 と、ここに来た経緯を簡単に話して聞かせた。
 実はシュウのような例もこのローマでは多く見られる。勃興以来隆盛を続けるローマ帝国は、それだけに警備状況も厳しいものがある。国を出入りする商人や旅人などは、少しでも怪しいと疑われると、安易に奴隷化されてしまうことがあった。
 シュウは、古代ヒッタイト王国の存在したポントス地方の、ハットゥシャと言う町の出身で、家族は代々伝統的な機織りをする一族だった。近年民族文様の織物に需要があるのを知り、父母兄弟、伯父伯母と共にローマへ行商に行こうとしていた。しかし運悪くマケドニアのテッサロニケの辺りで、ローマ兵に入国証を持っていないと詰め寄られ、判断が曖昧なまま家族はそれぞれ、何処かに散り散りになってしまったと言う。
 その時シュウは恐らく、小柄ながら体力のありそうな見た目から、剣闘用の奴隷にお誂え向きだと見られたのだろう。まだ独立して働いた経験のないまま、剣闘士養成所に入れられてしまったのだ。
 それを聞くとリョウは、
「商人だったのか?、災難だな。どうりで兵隊にしちゃ若過ぎると思った」
 そう返してシュウの成り行きに同情した。ここでは誰もが、大なり小なり苦い経験をしている筈だが、シュウのケースは特に不憫に思えたのだろう。そしてリョウは、比べれば大したことはないと言うように、落ち着いた様子で自分の経緯を語った。
「俺は元々警備兵だったんだ。そのギリシャのキテラ島に住んでいた。今十九だ」
「ローマ兵と戦ったのか?」
「いや、戦うまでもなく降伏したんだ。小さい島だから元々抵抗する力なんてないし」
 キテラとは、かのスパルタが存在したラコニア地方の島で、ギリシャの中心的な文化圏からも近く、ある意味ではリョウは生っ粋のギリシャ人、と言えた。
 そしてスパルタと言えば、とにかく強く厳しい戦闘民族と知られている為、シュウはローマと果敢に戦うギリシャ兵の姿を想像したが、現在のギリシャ一帯にはそんな勢力は残っていない、と言う話らしかった。今はとにかく強大なローマ帝国の力に、地中海沿岸のどの地方も屈服した後だ。他聞に漏れずギリシャの一地方などは、あっさり降伏するしかなかったのだろう。
 するとシュウはチラと後ろを振り返り、
「セイジと同じだな」
 と続けた。話題に出されたセイジとリョウの目が合い、
「そうなのか?。おまえは地中海の人間じゃないみたいだが」
 と、リョウは続けてセイジに尋ねる。同じ年令のふたりは実は、良く似た境遇であることが判った。
「ああ、私はブリタニアから来た。ロンディニウムと言う町の兵隊だったが、同様にローマの侵攻に遭って投降したんだ。その時ここに連れて来られた。だが、」
「だが?」
「新規兵だったので、数カ月しか兵隊の経験はないんだ。もうここに居る方が長くなってしまった」
「ああ、俺もそうだ」
 ブリタニアはガリアの北西に位置する大きな島国だ。ロンディニウムはその南部の都市で、そこを中心とする中南部が、現在はローマ帝国属州ブリタニアとなっている。
 ブリタニアは抗戦していたが、ローマ帝国の圧倒的兵力に押され、戦線はどんどん北上して行った。これ以上負けられないと言う所まで来て、遂に難攻不落の城壁を建設し、最北部だけは何とか占領を逃れられた。だがそのように抵抗した国の兵隊は、投降すれば有無を言わさず奴隷にされた。セイジはその中で容姿の良い青年だった為、剣戦士団に連れて来られたのだろう。
 前途の通り現在の闘技会は、観て楽しむ興行として行われている。剣闘士達には単に強さや技だけでなく、華やかさやキャラクターも求められていた。つまりセイジに限らず、皆ある程度の資質や魅力を備えているが故、こうして剣闘士団に所属しているのである。
 それが幸か不幸かは、今のところ何とも言えない状態ではあるけれど。
 そうして三人の自己紹介が大体終わると、シュウは小さな溜息を吐いて見せながら言った。
「何だかなぁ?、みんな運が悪ィよなぁ?。捕らえられたって全員奴隷になる訳じゃねぇだろうし」
「全くだ」
 シュウの言葉にセイジは頷いている。否、奴隷とならなかったら与えられるのは死かも知れない、と思うと、嫌な選択だが仕方のない面もある。ところがリョウは意外に明朗な様子で、
「でもまあ、結果的にいい経験になるならそれもそれさ」
 と、ふたりに力強い言葉を聞かせていた。
「お!、いいこと言うな!」
「命を落とさなければな」
 一応セイジは、シュウがあまり騒がないよう釘を刺していたが。
 これでシュウだけでなく、もうひとり場を明るくする人間がチームに加わった。これは本当に幸先良い出来事かも知れないと、今はシュウも確信してリョウを受け入れていた。後はチームの他の三人が、彼を認めてくれればこの上ない。三人とも少し年上で、多少癖のある人間もいるが、全体の統制が取れるよう自分も努力しようと、シュウはそれも前向きに考えていた。
「俺達五番隊にはあと、ラジュラって奴と、ナアザと、アヌビスって奴が居る。そいつらは俺達よりもう少し経験長いから、まあ胸を借りるつもりで大丈夫だぜ!」
「ああ」
 こうして、共に戦う新メンバーとの簡単な交流を終えると、ふたりは早速リョウを五番隊の部屋へと案内した。実はわざわざ案内するまでもなく、訓練広場をぐるりと囲む塀状に宿舎は建っており、一番から順に部屋番号が打ってある為、誰でも判り易い造りだった。けれどそこは初めて訪れる新入りの、多少なりとも緊張する心理を考えてのことだ。特にシュウはドアの前に立つと、肩まで組んでリョウを気遣っていた。
 リョウの引越しが無事に済んで何よりだった。後は食事の時間となるまで、穏やかに心と体を休めるのみだった。

 と、そんな休憩時間の途中、
「姿の見えない者はいるか?、脱走者はいないか?」
 と言う、巡回する世話人の声が聞こえる。毎日必ず回って来るそれに、ドアの近くに居たアヌビスが一言、
「いいや」
 と返した。訓練のあまりの厳しさに、ついて行けなくなり脱走する者、自殺する者は後を断たなかった。奴隷の中には元より戦闘に向かない、精神の脆弱な者も居るだろう。脱落者が出るのは仕方のないこと、と、ここでは冷淡に割り切られている。
 そんな中に在ってこの五番隊は、日が浅い割に良い成績を積むチームだった。若手有望株が揃っていると見られることから、これから行われる闘技会での活躍如何により、パロス(筆頭剣闘士)に昇格できる者も出るかも知れなかった。だからこそ怪我人の補充は速やかに行われた。
 一番隊、二番隊には既に自由民となって、興行で大金を稼ぐパロスが居たが、そこまで上り詰めると個室が与えられ、プロの剣闘士として不自由なく暮らすことができる。勿論剣闘士を続けるか辞めるかも、自由民となれば個人の自由だ。
 故に誰もがまずそれを目指し、日々の辛い訓練に堪えている。
「今日は無事一日が過ぎたな、我が五番隊は」
 と、世話人が通り過ぎた後にラジュラが呟く。彼とアヌビスはこのチームの年嵩で、現在二十二才だ。次に二十一才のナアザ、そして十九才のセイジとリョウ、十七才のシュウと言う構成に今はなっている。
 そこでリョウが、
「誰か負傷者が居たんだろ?」
 と尋ねると、それについてはやや困った様子でラジュラが話してくれた。
「ああ、シュテンと言う男がいたんだが、騎馬の訓練中に落馬して骨を折ってな」
「それは長期離脱になるな」
 実はそのシュテンこそ、パロスに最も近い人物かも知れなかった。だからラジュラは困った様子なのだ。優れた統率力を見せた彼の代わりに、誰かが全体の統率をしなければならない。年齢的な序列では自分かアヌビスになるが、それでうまく行くかどうかは怪しいと踏んでいるようだ。
 剣闘士としての能力は問題ないとしても、人には生まれ持った性質があり、リーダーを務められるかどうかはまた別の話。実際シュテンはナアザと同じ年で、年長者ではなかったが、それでも纏め役に向いた性格は誰にも信用されていた。
「だからおまえには期待してるよ」
 と、ラジュラがふたつの意味を込めてそう言うと、新顔を快く受け入れてくれそうな雰囲気を歓迎し、シュウがすぐ続けた。
「俺も!、明日からの訓練が楽しみになって来たぜ!」
 ただ、流石にあのきつい訓練を「楽しみ」と言える神経は、リョウにも誰にも解らなかった。
「おいおい、正気かよ?」
 アヌビスの茶々が入り、部屋の全員が噛み殺すように苦笑している。五番隊のそんな和やかな様子を肌に感じると、リョウは一層気楽になったことだろうが。
 その時、不意にこの部屋のドアが開いた。
「おまえら、闘技会の第一戦の日取りが決まったぞ?」
 朗報と共に飛び込んで来たのはトウマと言う青年で、この剣闘士団を所有するラニスタ(興行師)の息子だ。この五番隊の世話こそ彼の初仕事なので、今度の闘技会は彼に取っても期待と緊張の舞台だった。知らせを受けるとまず傍に居たアヌビスが、
「いつだ?」
 と間髪入れずに問う。トウマもまた間を置かずに返した。
「一週間後の午後三時だ。第一戦でいい結果を残せば、後のシリーズにも進出できる」
 闘技会のシステムは、中央と地方では多少の違いがあるが、大概は正午から新人や弱いチームによる、野生動物との格闘などから始まり、その後中堅の剣闘、最後に英雄的なパロスの登場する剣闘と続く。開催期間はまちまちだが、今はコロッセオの落成記念シリーズに向け、各地で予選的な闘技会が盛んに開催されていた。
 そのひとつにこの五番隊もエントリーできた。これは名を売るチャンスである。
「その為に大々的な宣伝も頼むぜトウマ!、この五番隊の!」
 と、シュウが調子良く言うと、
「やる気があっていいことだ」
「そりゃそーよ。こんな所に何年も居ても意味ねぇし、自分の自由は自分で勝ち取らなきゃな!」
 トウマもその意気を買って、彼の肩をパンと叩いて見せた。ところが、
「空回りしてヘマしなきゃいいが」
 チームの中には、常に冷静に嫌味を言う男も居た。
「うるせぇな!」
 シュウは即座にそう返すが、ナアザの指摘が的確であることも知っていて、本気で怒った訳ではなかった。逆上せ易い人間が居るのに対し、そうでない人間が居てバランスの取れたチームだと、トウマも既に知っているから微笑ましく見ていた。すると、
「大丈夫大丈夫、シュウのことは私が守ってやるからな?」
 今度はラジュラがそんな冗談を続けた。
「キモチワリィんだよ!!」
 因みに、この時代のローマは性的嗜好も自由な気風があった。パレスチナから流入したカトリック教が、徐々に信者を増やしてはいるが、まだまだこの国は土着的な多神教が根強く支持されていた。特に人々に好まれたのは、ギリシャで言うバッカス、ローマで言うディオニソス、酒と享楽の神だ。そんな神がもてはやされていると言うのも、このローマ帝国の豊かさを象徴する例だろう。
 後に人々は、この時代のローマ帝国を「パックス・ロマーナ」と呼ぶ。その平和で奔放な時代には、同性愛者も幼児性愛者も近親相姦者も、特に迫害されることなくローマ市民を名乗れていた。故にラジュラの冗談は本気とも取れるので、シュウはいつも嫌がっていた。
「まあ、ローマは今現在最も自由で平和な国だ。そして最も豊かで進んだ国だ。勝ち取った物を保障する法律が整備されているし、だからこそ闘技会も成り立つ。みんな大いに頑張ってほしい」
 続けてトウマが話すように、思想の自由も無論価値はあるが、豊かで進んだ国だからこそ奴隷が英雄になることができる。これこそ今最も重要なことだった。パロスとなれば一般市民より贅沢な暮らしも保障される。そのシステムを生かせるかどうかは、個人の努力と資質に掛かっている。シュウは今一度それに対する意気込みを語った。
「だよな?。俺ら運悪く奴隷になっちまったけど、逆に運良く英雄になれるかも知れねぇんだぜ?。やってやろうと思って当たり前じゃんか」
 そしてまたナアザに嗜められていた。
「やってやろうはいいが、おまえはとりあえず慎重にな」
「わかってるよ!」
 すると今度はトウマもそれに乗って、
「俺としても、自分が世話するこの五番隊が、実力通りの力を見せてくれれば本望だが、ま、ちょっとシュウだけは不安の種だな」
 と言った。シュウはこの通り元気で明るいのは良いが、年も若くお調子者なのが気に掛かる。チームメンバーだけでなくトウマもそう言い出して、遂にシュウは降参するように叫んでいた。
「わかってる!、わかってるって!。ひとりで飛び出したりしねぇようにホント気を付けるから、もうそんな弄んねぇでくれよ〜!」
「ハハハハ!」
 部屋に再び笑いが生まれた。本当に、こうした光景が日常的に見られるのは五番隊だけだった。ここには他の奴隷達には見られない何かがある。だからトウマはこのチームを気に入り、父親から五番隊の世話人になることを許してもらった。
 嘗てトウマには別の夢が存在したが、今は身を入れてマネージメントに努めている。チームの補充にリョウを選んだのも、彼の戦力分析から来る答だった。夢は夢だ。そう割り切れたのはもしかしたら、この五番隊に出会えたからかも知れない。豊かなローマに魅力的な物は数々あれど、惚れ込む程のものに出会えたことは幸いだった。それが彼の生業なのだから。
 自由な国と言えども、市民の身分は剣闘士のように自由ではない世の中だ。ラニスタのような低い身分の家から、いきなり国の役人には取り立ててもらえない。それを思うと自由民とは、特権のあるローマ市民より本当に自由なのだと、最近トウマは痛感している。だからと言って自ら市民権を放棄する訳にも行かず、彼は豊かさの中のジレンマに悩み続けていた。
 奴隷は奴隷であることを悩み、市民は市民であるが故の悩みを持つ。そこから解放される日がいつか来るのだろうか?、と。
 ところで、先程からの会話にセイジは全く参加していなかった。彼はと言うと、鉄格子のある窓の横でずっと風に当っていた。否、外の何かを見ているようだと気付いたリョウが、
「何を見てるんだ?」
 と尋ねた。セイジは特に振り返らずに、
「別に、何も」
 と返しただけだった。
 ただその遣り取りを見て、トウマがふと窓の外を見ると、そこには彼の知る人物が従者と共に立っていた。トウマは早速声を掛けようと、この部屋を後にすることにした。
「それじゃ、このあと一週間気を入れて過ごしてくれよ?。つまらん怪我をしないように」
「了解」
 そう言ってドアを潜ると、扉を閉める前に振り返り、シュウが喜びそうな一言を付け加えておいた。
「あと、食事は少しいい物が出るからな、闘技会の前は」
「おお〜!、有難てぇ〜!!」
 思惑通りシュウの明るい顔を見ると、トウマは満足そうにその場を後にした。



 トウマの父が運営する剣闘士訓練所は、現在のローマの中心から西にあり、建設されたばかりのコロッセオとは、ティベリス川を挟んだ川向こうに在った。市庁舎へもコロッセオへも徒歩で移動できる、この辺りは商人には恵まれた立地と言える町だ。
 そんな場所に訓練用の広場と、五十人もの奴隷やパロスが住む宿舎を持ち、勿論自宅も持つトウマの家は、ローマの中でもかなり裕福な家庭と言えた。職業的身分は低くとも、非常に豊かな暮らしができている意味では、人に羨まれる対象だった。
 また、人気のあるパロスを近くで見ようと、或いは新たなスター候補を探そうと、剣闘ファンが日々立寄っては、広場での訓練風景を見物にやって来る。特に食事時の後、午後二時から三時頃にはいつも、広場の鉄柵の外に人集りができていた。それ程剣闘はローマ市民の人気を集めていた。
 今日は、もうその時間はとうに過ぎている。
 訓練を終えた後の空の広場を眺める者は居ない。だが、トウマの友人であるひとりの青年が、奴隷宿舎の前に従者と共に佇んで居た。
「学問所の帰りか?」
 と、トウマは声を掛けながら走り寄った。すると気付いた相手が振り返り、変わらぬ少女のような顔を向けて応えた。
「ああ、そうだよトウマ。仕事は順調かい?」
「まずまずってとこかな」
 青年の名をシンと言った。トウマと同じ十八才で、ふたりは十五の時に同じ学問所で知り合い、以後学友として付き合って来た間柄だ。そしてトウマは今年から仕事を始め、シンはまだ続けて学問所に通っている。ローマ貴族であるシンの生活は、トウマより更に余裕のある暮らし振りだった。
「俺が初めて世話したチームが来週剣闘に出るんだ。いいチームだから楽しみだよ」
 トウマが現在の状況を説明をすると、シンはふと思い当たることがあるように、奴隷宿舎のひとつの窓を指し、
「そう…、あのグループ?」
 と尋ねた。シンが指し示したのは間違いなく五番隊の部屋だ。つまり彼の予想は当った。
「ああ、年の近い連中だから話も通じるし、実力通り観衆を沸かせてくれるといいけどな」
 そしてそう返しながら、トウマは何故シンが五番隊に注目したかを考えていた。今さっき自分がその部屋に居て、話し声が外に聞こえたのかも知れない。それなら何を疑うこともないのだが、ただ、
「たまにはシンも観に来いよ?」
 と問い掛けると、シンはトウマに取って意外な返事を聞かせた。
「あ、うん、そうするよ」
 実は、出会った頃からシンと言う人は、剣闘などには関心の薄い青年だった。トウマと知り合わなければ、そのシステムさえろくに知らないままだっただろう。彼は極端に争い事を嫌っていた。例え興行だとしても人が傷付き、時には命を落とす場面など見たくない。何故そんな事に市民が熱狂するのか解らない。そんな考えを持つ気の優しい人間だった。
 それ故彼が、今年に入りしばしばここを訪れるようになったことが、トウマにはやや不可解に思えるのだ。勿論去年まで共に机を並べていた自分の仕事に、関心を持ってくれたなら嬉しいことだ。だがシンの様子はそれ以外に、何か気掛かりなことがあるように思えてならなかった。何故なら彼は、一般市民の集まって来る時間を外し、朝や夕方にここを訪れるからだ。
 シンは剣闘士達の戦い振りを見たい訳ではないようだ。また単にトウマへの挨拶なら、家の玄関の方に回って来る筈だ。なら彼は何をしにここへ来るのだろう?。
「関心なさそうに見えて、最近よく寄ってくれるな?」
 トウマが言うと、
「え?。ああ…、いや、剣闘の魅力について勉強してみようと思って。多くの市民が熱狂するには、熱狂させる何かがあるってことだし、それを知れたらいいんだけど」
 シンは些か辿々しくそう話した。やはり彼には何かあるんだなと思わせる様子。だが、トウマはここでは敢えてそれを問い詰めなかった。それよりこうして、時々顔を見せてくれることが嬉しかったからだ。
「そうか、そう言うことならラニスタとしては有難い」
「あはは、君の家の商売を卑下するつもりはないよ」
 するとトウマの吐いた小さな溜息を聞き漏らさず、シンは相手を気遣うように返した。
「おや、どうかした?」
 そう、そんな優しい人間だからこそ、彼は貴重な貴族の友人だった。市民から貴族から圧倒的な人気を誇る闘技会だが、それを支えるラニスタは人に敬われる職業ではない。後世で言うどさ回りの役者のようなもので、文化としては認められても、その身分を認められることは決してなかった。あくまで奴隷商人の進化型と考えられていた。
 それだけに、分け隔てなく接してくれる人がどれ程有難いか。そしてできることなら、その優しい友人と共に学び舎に留まりたかった、と言うのがトウマの諦めた夢だった。
「正直、俺はシンが羨ましい」
「前にも言ったね」
「俺ももっと勉強を続けたかった。算術だけじゃなく他の勉強もしたかったのに、こんな家に生まれちゃしょうがないな」
 その話の通り、トウマが学問所へ通っていた理由は、商売上に必要な算術を学ぶ為だった。だがそれすら、一般のローマ市民には贅沢な行為であり、トウマの家がどれ程裕福かを示す例である。算術はおろか文字を読み書きできない者が、この国の半数以上を占めている。だから、本来は不平を言うべきではないと、トウマも解っているのだが。
「こんな家ってことはないだろ、ローマの中でも恵まれた家だ」
「家族に文句はないんだけどな。地位や名誉に興味はないし」
 ただ、トウマの持つセンスや才能が、ひとつの職業、ひとつの町に収まるには勿体無いレベルだった、と言う現実が悲しい。シンもその点を認めているので、自分などよりトウマの方が余程頭の出来が良い、と、日頃から口にしているくらいだった。けれど出自と言うものが、多くの人の人生に暗い影を落としている。ここは自由の国である筈なのに、どうしても外せない足枷があり続ける。
 ひとり荒野に放り出される以外に、真の自由は存在しないのかも知れない。そう覚った時、トウマは漸く家業を継ぐ決心をしたけれど。
 そしてシンは、
「みんなそれぞれ、不自由なことはあるから仕方ないね。僕だってひとりじゃ出歩けない身だし」
 トウマの気持を察してそう言った。また自らも決して自由ではないと、連れている従者を示して見せた。自由都市であるローマは当然人が多く、人が多ければそれを狙う犯罪も多い。シンのような身なりの良い貴族は狙われ易く、ひとりで出歩くことは決してしなかった。
 特に彼のように若く線の細い姿は、遠目からはまるで女性のように見える。女性と見られれば尚更危うい。或いは、男色を好む者に追い回されるなど、迷惑な事態も起こるからだ。
 誰も決して自由ではない。それに加え、
「そこに居る彼らだって、」
 と、シンが奴隷宿舎を見据えて言うと、
「ああ…」
「同じくらいの年なのに奴隷になって。…どうしてなんだろうね?」
 それもまた、自分達以上に身の詰まる事情だと、トウマは噛み締めながら頷いた。
「そうだな、そうなんだよな」
 日々身近に接しているトウマだからこそ解る、彼等の悲しみ、彼等の怒り、彼等の「ここから抜け出したい」と言う強い思い。嫌でも闘うことを強いられる精神の緊張。何かひとつ運命の石畳を踏み外し、奴隷へと転落してしまった若者達は、ここでの毎日を汲々として過ごしている。
 ローマにさえ関わらなければ。ローマ兵に出会うことさえなければ。そう考えると彼等の人生は、この国に踊らされているようなものだった。ローマ帝国とは他人の自由を侵した上に成り立つ、虚構の自由の国なのだと切なく思えた。
 虚構の自由だからこそ、我々も苦しむのかも知れない。
 そして今自分にできることは、そんな奴隷達を最悪から脱出させることだけだと、トウマは改めて、これから始まる闘技会への意思を強くした。彼等の夢は自分の夢なのだと。自由を求めて止まない心は自分と何ら変わらない、と気付いた。
 そんな発見をさせてくれた友人に感謝を。だからシンは大切な存在だともトウマは思った。
「じゃあ…、また様子を見に来るよ」
 シンは肩に掛けていたストールを頭に被り直すと、今や深いオレンジ色に染まった町に向け、踵を返して歩き出した。それをトウマは、今は清々しい顔をして見送る。
「ああ、気を付けて帰れよ。今週中に闘技会の切符を取りに来てくれ」
 夕陽の町に消えて行くふたりの後ろ姿を、目に染みる思いで見詰めていたトウマ。いつか、この暮れ行く夕陽を昇る朝日に変える為に、自分に何かができたら良いと強く念じるように思った。地位はなくとも、人々の熱狂的支持を集めるラニスタの息子として、運の悪い奴隷達が何らかの価値を手にするその日まで。



つづく





コメント)前作に続き、この話は秀の見た夢のお話です。
このシリーズはいちいち時代背景を考えなきゃならなくて、書き進めるのに時間が掛かるので、今回も「えいやっ」と気合を入れて書き始めたところですが…。
前作より少し話が長くなりそうなので、いつ頃書き終えられるかな〜と少々心配です(- -;。間に夏コミ合わせが入ったりして、中断が長くなりそうなのはごめんなさい。先に謝っておきますm(_ _)m
ただ、第一話に主要な人物を全部出せたので、構成は予定通り進んでる気がします。物凄く暗い話になるかも知れないと思ったら、秀がよく喋るのでそうでもなかったのは、私には嬉しい誤算でした♪



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