哀れみのシン
現 の 人
(うつつのひと)
#3
THE REAL



 普段と何ら変わらない様子のタイガー・バーは、その日もいつもと同じように、昼時の開店を前にシンが忙しなく仕込みをしていた。まだ出掛ける前の遼は、カウンターから離れた入口のドアに立ち、ガラスの覗き窓を丁寧に掃除していた。
 その足元で細かな塵を集めるサー1108は、最近購入したばかりの新型モデルだったが、例え便利で利口なロボットが居ても、全ての用向きには足りないのが実情だった。
 遼が父親から譲り受けたこの店の看板の、釣り下げ金具が腐って、片側が落ちそうになっているのを見付ける。残念ながら小型ロボットのサーでは手が届かないので、役所からウタを借りて来るか、人間が修理する他になかった。
 過去、父親が飼っていた虎から名前が付いたこの店は、遼に取っては一人と一頭の形見のようなものだった。しかし今は呑気に修理などしていられない。今日事が起これば、運が良くても戻りは一週間後になるだろう。町の自警団と呼ばれる彼等の計画は、もう既に進行しているのだ。
 この人工惑星に関わる全ての人間の為に。
「そろそろ昼飯時だな」
 店の中程へと戻りながら、遼は変わらずカウンターに伏せるセイジに声を掛けた。
「なぁおまえ大丈夫なのか?、昨日から何も食ってないだろ」
 開店準備に、決して静かではない作業をしていたシンの前で、しかし気にも留めず大人しくしている彼は、今は流石に眠っている風ではなかった。窓からは眩しい程の人工的な光が射し、眠りたがる意識を否応なく目覚めさせるようだった。
「何か入れないと体に悪いよ?」
 ぼんやりと取り巻く視界を映している、その無表情な薄紫の瞳を覗き込んで、シンも作業の手を止めて尋ねる。すると、不思議にも感じられたが、セイジは煩そうな態度のひとつも表さず、
「…じゃあ、飲み物だけ」
 と返していた。
 彼個人の身の上に何が起こったのか、何が彼を酷く落胆させたのかは、まだシンの耳には届いていないことだった。けれど彼が探している人物がシン・モウリである限り、何を差し置いてもシンの名前を持つ者には、一定の柔和な態度を示し続けるようだ。シンにはそんな様子が観察できていた。
 彼が何をしにここへやって来たのか、仲間達には未だ判り兼ねている状況だった。だが少なくともセイジと言う人格には、厭な印象を与える歪んだものは感じられないままだ。記憶喪失と言う異常事態を考えても、自暴自棄にもならず、彼はひた向きに誰かを探すことで、己の心理状態を支えているように見えた。
 明らかに周囲に気を遣っているのが判る。決して彼は性根の悪い奴ではないと判る。
「スピリットラクトを作ってあげよう」
 シンはにこやかに言って、壁に下げられたミルクパンのひとつを手に取った。
「…何だ?」
「牛乳だよ。金星産のスパイスを入れた牛乳。元気が出るって評判だよ」
 聞き慣れない名前を問いかけるセイジに、シンは簡潔に説明をしながら、てきぱきと必要な材料を揃えて歩いている。
「ちょっと鼻に付くかも知れないが」
 横から遼がそう付け加えて言った。元々スピリットラクトは滋養の薬として飲まれるもの、「良薬口に苦し」と言うように、まず美味しく味わえるものではなかった。
「ふーん…」
「うんと甘くする方が飲み易いんだけど?」
 よく判らないとの返事をするセイジに、シンはフォボス産蜂蜜の瓶を抱えてそう尋ねた。フォボスは嘗て荒涼とした火星の衛星だったが、現在は家畜系食料生産の中心的な場所、そして星系でも知られるフォボス産の蜂蜜は、有益な糖類が豊富で濃厚な味だと評判だった。
 そして穏やかだったセイジの眉間に、微妙に皺が寄るのをシンは面白そうに見ている。
「やめてくれって顔だね」
 記憶喪失の彼の頭にも、既にそんな食品情報は存在するらしかった。
「ハハハ」
 遼も笑った。何が可笑しく感じたかと言えば、人の存在に理由や価値は様々あれど、結局存在する為には食料を摂取しなければならず、それに関する情報は優先されると知ったからだ。失われた記憶を切に求めるセイジに取って、ミルクの味など重要なことではなかろうに。
 まあ、動物なら当たり前かも知れないが。

 時計が午前十一時を随分過ぎた頃、暫く店を離れていた秀が再び顔を現した。
「今日は行かねぇのか?」
 彼は一度入口ドアの傍に立ち止まったが、カウンターから漂う臭いに吊られるように、そろそろと歩み寄って、結局セイジのすぐ傍までやって来ていた。このメンバーの中では唯一昨日の事情を知っている、自分とは話し難そうなセイジの様子を察し、秀は離れた場所から、それとなく話し掛けるつもりだったのだが。
 全く食品の誘惑には勝てない彼だった。
「・・・・・・・・」
 案の定セイジは黙り続けている。予想通りと言う風に、秀は特に嫌味ではない態度で続けた。
「何で答えねぇんだ?。俺が疑ってると思うからか?」
 聞かなくとも間違いのないことだろう。
「疑って、いない訳がない。…だが私は、…」
 無論疑われるのは解るとセイジは告げながら、辿々しい調子で更に何かを言おうとして、また黙ってしまった。
『殺したのは己の意志ではないと知っている』
「何だよ?」
「いや、話しても信じてもらえまい」
 自から確認しようのない状態を話しても、意味を為さないとセイジには感じられていた。
 何故なら事実は隠しようもなく物語っている。己の手によって罪のないロボットが破壊されたこと。例え自らの意志でなくとも、端から見て理解してはもらえないだろう。己の他に内なる声を聞く者は無い、己には確固たる記憶も、記憶から証明できる立場すらない。何もかもが不利に働く状況下では、下手な弁解などしない方が良かった。
 すると、諦め切ったようなセイジの様子を見て、
「そう言うなら仕方ねぇけどな。だが、おまえがやったって決め付けちゃいねぇんだぜ?。俺は自分の目で確認してねぇし、それより今のおまえの態度の方が気掛かりだ」
 秀は最上の心遣いを以ってそう返した。やけを起こす訳でもなく、現状を受け入れて淡々としている、少なくともセイジの良識的な在り方には、敬意を払えると考えたからだった。
「何に草臥れて、何を恐れて戻って来たんだかな、ってよ」
 そしてそれが最大の疑問である限り、秀が敵意を露にすることはないのだろう。
「・・・・・・・・」
 再び黙り込むセイジにぽつりと言った。
「もうシン・モウリを探すのは諦めるか?」
 無論それはないだろう。今すぐには無理だとしても、いつかは再開するだろう。しかし、
「…いや、行こう」
 意外にもセイジはそう答えていた。
 昨晩の事件に、強烈なダメージを受けたのは確かだった。求めていた筈のものを手にかけるなど、悪い夢であってほしいと願った。しかし全てを解決する近道は結局、シンを探し出すことだと覚ったのだろう。自らが動かなければ始まらない、もう一度シン・モウリに近い人物に会って、己の行動を確かめる他にないと、セイジは腹を据える覚悟をしたようだった。
 そうでなければ誰の信用も勝ち取れないだろう。
 じりじりとしながら様子を見る自警団グループ同様、彼もまた事の真相を究明したがっている。
「ハハ、そう来なくっちゃな」
 そして秀は快く彼の決意を受取っていた。そう、彼が動かなければ何も見えては来ない。今はこのセイジと言う、奇妙な来訪者を中心に自警団は動いている。 否そもそもシンが現れた時から、彼と自警団とは一蓮托生の命運に繋がれていたのだけれど。
 そうしてふたりが一通りの話を終えると、
「03型に会いに行くのかい?」
 シンはカウンター越しにコーヒーを手渡しながら、秀には無邪気な様子で尋ねた。すると、途端に愉快そうな口調になって彼は言った。
「おう、そう言えばよう、シンの言った通りだったぜ?。03型はこいつのことをかなりよく憶えてるみてぇでよ、会った途端に抱き着いて来たぜ」
「へえー…」
 秀の説明に、シンは素直に驚いた様子で返していた。旧式である02型には、03型の行動全てを理解できないと言うことだろうか。そして更に秀は勘繰るように続ける。
「なあなあ、もしかしてシン・モウリはただの知り合いじゃなくて、恋人だったんじゃねぇの?」
 けれど当然ながら、記憶に無い事情を説明できる筈もなく、困ったような顔をしてシンは答えるだけだ。
「うーん…さあ…。僕には分かんないな」
「それこそ03に聞いてみろよ」
 すると遼が助け船を出すように言った。確かにそれが最も手っ取り早く確実だろう。03型の持つ記憶データは、少なくとも後から弄られたものではない。
「ああ、そうだよな!、早速聞いてみよっと」
 秀がそれを知りたがっている理由を、遼は既に知っていた上での助言だった。
 ある頃から自警団グループのターゲットとされていた、『セイジ』と言う名の重要性。それはシンの記憶から齎された情報であり、シンとセイジが親しかったことは誰にも窺い知れた。けれど誰も真のふたりのことを、秀には教えてくれなかったからだ。否実のところ、それを知っているのは遼ひとりだった。彼は偶然知った事だが、重要でないと思えることは、逐一話さなくて良いと考えているだけだ。
「恋人だったらどうだって言うのさ」
 シンが些か不服そうな声色でそう言うと、
「へ?、別に。事実関係が分かったらこいつが助かるだろ?」
 確かにそれも一理あるような、秀の返事には理論的な含みもあった。が、
「そうかなぁ?、それより大事なことがあるんじゃないの?。野次馬的だよ」
 あくまでシンはそれを否定してみせた。
「そんな事実は要らんと言いたそうだな」
「トホホ、何からも独立したロボットだからなぁ、シンは」
 遼と秀がそう続けて笑うのを彼は、その通りだと言う顔をして受け流している。もし03型ならそんな反応はしないと思えるが、タイガー・バーのシンには、記憶にもプログラムにもない恋愛的感情など、生活の上では煩わしく感じるものらしい。世代によって個性が違う、ロボットの特徴を垣間見たようだった。
「…迷惑だろうか?」
 すると、セイジも感情的と思える一言を初めて口にしていた。その挙動に含まれる意味も、彼のぼんやりした記憶野から言えば、何の為なのか解らないものだったが、
「ほれほれ、傷付いてるじゃねぇか」
 秀は見たままの様子を面白可笑しく実況した。シン・モウリを探している者が、シンに否定されたらそうなって然りだと思う。今セイジには他に知り合いが居ないことを考えても。
 けれど、
「傷付かれても困るよ、僕はシン・モウリのコピーじゃないし、君に答えられる記憶もない」
 シンは無感覚に切り捨てるばかりだ。
「そう言う意味じゃないんじゃないか?」
「まーま、このシンに恋を語っても無駄だぜ」
 ある種類の話題を明らかに避けているシンに、遼と秀はからかい半分に言って笑っている。日常的にそんなシンの態度を見ている彼等には笑えても、セイジがそれを笑えるようになるには、恐らく長い時間が必要なのだろう。相互理解を確立する為には、幾度も傷付いて行くしかないのかも知れない。
「好き嫌いくらいはあるよ」
 シンは変わらず不満そうに言って、アイスクールに徹した態度を決して変えはしなかった。

 昼食時を間近にして、店が賑わい出す前に秀とセイジはそこを出た。彼等の間で話し合われた今日の予定、また別の03型に会いに行ってみようと、ふたりはのんびりした歩調で歩き出していた。
「今日はもうお膳立てして来たんだぜ?」
 歩きながら秀はそんな説明をした。
「何のことだ?」
「『ブルーワールドのシン』に話を付けてある、これから行く所に呼び出してあんのさ。因みに職業は水族館の飼育員だ」
 そう、秀が今日の外出を勧めに来たのは、既に場の準備が為されていたからだった。用意周到と言おうか、その方が時間や手間を省ける上に、昨日のようなイレギュラーな事件も起こり難いだろう。失敗を繰り返す訳にはいかなかった。自分の為にもセイジの為にも。
「水族館とは。ここにそんなものがあるのか」
 セイジはそして、今日では特殊な職業に関心を持って尋ねた。
「そうだな、ちんけな人工惑星にしちゃ珍しい施設だよな」
 まず「水族」などと言えるものは、地球と月、火星のごく僅かな地域にしか存在しない。だからこそ珍しいアトラクションとして、何処の植民星でも人気のある施設となっている。しかし植民星の場合、地球環境と同じ水質の水槽を維持するだけでも、大変な費用と技術が必要だった。通常は水道局などの併設した施設として、惑星規模で運営されているものだ。
 けれどこの人工惑星には、IPPOの技術力、資金力の宣伝活動とも思える突飛な施設がいくつか存在する。水族館もそのひとつと言って良かった。そしてその人気施設に働いていると言うことは、同じシン型ロボットの中でも幸運な個体だと言えるだろう。
「おまえのことを話したら、喜んで仕事を抜けて来るってよ」
 幸運であり、楽しそうな仕事を抜け出しても良いと言う。それだけシン03型には、セイジに関わる物事は重要だと証明するようだった。
「そうか…」
「嬉しいか?」
 秀は先程店で話していた調子で、勘繰るようにそう尋ねてみた。
「どう言う意味か?」
 しかしセイジにしても、シン02程ではないにしろ、今ひとつピンと来ない様子で返すばかりだ。
「おまえにはシン03が持ってるような感情はねぇのかな?」
「どうだろう…」
 やはり、シン・モウリの記憶を探し求めているとしても、自分自身に沸き起こる感情は殆どない。それがセイジの現実に他ならなかった。
「『裏通りのシン』から何か聞いたんだろ?。それで戻った記憶はなかったのか?」
 確かに情報は幾らか得られた筈だった。
「…はっきり記憶だと認識できたことはなかった。ただ何となく、彼を見ていると落ち着くような気がするだけだ」
 情報は情報以外の何でもなく、己の空白を埋めるものにはなっていない、それがセイジの正直な感覚だったが、彼の言う通りひとつだけ、記憶的感情に一致するものを見付けられていた。それは昨日の出来事に限った話ではない、先程カウンター越しに『タイガー・バーのシン』を見ていた時にも、ふと息を吐けるような、全てに安堵する心境を覚えていた。
 シンを見ていると安心する。
 恐らくそれだから、昨日裏通りの店を出た後、無意識にタイガー・バーへ足を向けたのではないか。既に己を知っているシンがそこに居ると、セイジは縋り付ける記憶を辿って戻って来たのだろう。
 けれど勿論、それで彼の問題が解決する訳ではない。
「シン03も結局、肝心な部分の記憶は持っていないようだ。それが分からない限り、大切な人だと言われても受け入れ難い。いや、どう大切なのかをせめて聞ければ良かったのだ。しかし…」
 必要な根幹的な記憶は見付からないままだ。
「大切だって言われたのか?」
「誰よりも大切な人だと。命を懸けて助けるとも言った」
 何故そう言われるのか、理由がなければ何もかも空々しいではないか。
「そりゃ大層なこったな」
 秀が再び面白そうに笑うのを見て、
「そう思う」
 セイジはむしろ彼の心情に共感するように、口端で小さく笑い返した。
「フハハ、まるで他人事みてぇだぜ?。そう理性的に見れんのも記憶喪失のせいかな」
「…孤独になったからだろう」
 記憶が失われると言うことは、未知の空間にひとりで放り出されるのと同じだ。誰も彼もが見知らぬ顔をして、何を語られてもよそよそしく感じられるからだ。シンと名乗る者に会っても、それがシンなのかどうかも判断できないで居る。
 セイジは言葉通り孤独な存在だった。



「セイジ!、本当にセイジだね!?」
 晴天の昼間の庭、ブルーワールドと呼ばれる水族館の青いドーム屋根を背景に、丘の公園に佇んでいた『ブルーワールドのシン』は、セイジと秀の姿を見付けるなり駆け寄って来た。昨日の夕方の記憶を俄に蘇らせるような、シン03型との出会いはいつも、衝撃的な満面の笑みから始まるものだった。
「会いたかった!」
「あ、ああ…」
 変わらず気後れしたようなセイジを余所に、シンは勢いのまま彼に抱き着いて、思いの全てを表すように生き生きとしていた。ロボットが生き生きする、との表現は言い得て妙だが、実際シンのテンションが上がっているのは確かだった。
「本当にセイジなんだね!、君はきっと何処かで生きてると思ってたけど、会える日が来るなんて夢みたいだ!」
 シンは続けて訴えるようにそう言った。セイジには二度繰り返された内容だ。
「そうか…」
「聞いたよ、どうして記憶喪失なんて…」
 するとシンが、既に聞き知った事情を確認しようと、矢継ぎ早に言葉を続けようとしたその矢先、
「あーちょっとちょっと。俺すぐ退散するからよぉ、その前にひとつ聞かせてくれよ」
 そこまでを傍観していた秀に止められた。
 このまま彼等の成り行きに付き合っていては、質問のタイミングを逃してしまいそうだった。特に重要な話でないにしても、知らないままやり過ごす気にはなれなかった。
 大事な友達であるシンが、この町から姿を消してしまう前に、本当のことを知っておきたかった。もうすぐこの自警団組織と、惑星のロボット達の有り様は変わって行くのだから。
「おまえさぁ、こいつっておまえとどう言う関係?」
 ブルーワールドのシンに向かって、遼にアドバイスされた通りに秀は尋ねた。
「どうって、そんなこと説明しなきゃいけないかい?」
「是非教えてほしいもんだな」
 若干含みのあるシンの物言いには、秀が期待する答を聞けそうな予感があった。
「そうだなぁ…、一言で言えば僕の全てだよ」
 そして明らかにタイガー・バーのシンとは違う態度。何らかの自信をやや怪し気な微笑みに変えて、ブルーワールドのシンは躊躇わずそう答えていた。シン03型に取ってはそれが、変えようのない真実だと示しているのだろう。
「ん?、んん?」
「頭悪いなー秀」
「うるせぇな!、ロボットの頭とは違う学習してんだよ!」
 間接的な言い方を取り兼ねている秀に、逆にからかうようにシンは笑っている。
「私も知りたい」
 しかしセイジも追随してそう言うと、シンは秀への態度とは変えて、抱き着いたままの相手に教え諭すように、一言一言丁寧に話して聞かせた。
「クスクス、…セイジは僕のパートナーであり、恋人であり、同僚であり、指導者であり、家族でもあったと言う意味さ。分かるかい?」
 目線を合わせて感情的に訴え掛けるシンに対して、無論セイジには、どれも実感として受け取れない言葉の羅列だったが、
「そんだけ重なってりゃ『大切』だろうな」
 部外者である秀の方には、その意味がよくよく理解できたようだった。
「そうだよ、誰よりも大切だ」
 尚自然にそんな言葉を続けるシンには、それ以上の勘繰りを差し向ける意味もない。
 例えセイジの指摘通り、己が己である肝心の部分の記憶はないとしても、それに裏付けられた感情を「紛い物」とは言えないだろう。人間も年と共に古い記憶、特に苦悩の記憶から忘れて行くようだが、痴呆となってもその人らしさは失われないものだ。
 ロボット達はロボットなりに、記憶バンクから引き出される感情を充分に表現して、日々幸福を求めて活動している。言ってみればある時点のシン・モウリを引き継いで、オリジナルとは別の可能性を見ている存在なのだ。誰が責められるだろう、彼等が不完全な記憶に誘発されて、新しいセイジとシンになろうとしていることを。彼等が偏にセイジを思うことを。
 そんなことまで解ってしまうと、興味本位が申し訳なくも感じられて来た。
「へいへい、ありがとよ。それじゃーな、好きにしてくれぃ」
 秀はもう充分だと言う風に、踵を返してその場を離れて行った。いつも、誰もが思うことだったが、ヒト型ロボットについて深く考えれば考える程、切ない感情に支配されるものだった。
「変な奴だな?」
 しかしそう思われている本人は、切なさなど感じる訳もなく、只管今現在の幸福を抱き締めていた。
「…そうなったのは、どんな経緯があってのことだ?。君は憶えているか?」
 セイジはその、抱き締められている腕を多少窮屈にしながら、昨日と同じ質問をシンに繰り返す。
「そうなったって?。君が大切だってことか?」
「そうだ」
 ただ、肯定しながら、既に聞くだけ無駄なようにも感じている。昨日シン03型には、それ以上の記憶は辿れないと知ったばかりだ。その上で自分は何を夢見ているのだろう、とセイジは思う。
「うーん…、あんまり昔のことだから憶えてないや」
 ブルーワールドのシンの返事は、やはり思った通りの無情なものだった。
 しかし彼は続けてこう言った。
「あのさ、僕はロボットだけど、人の記憶は元々二、三百年で消えて行くって言うし、シン・モウリがどれだけ生きたのか知らないけど、既に脳モデルからも消えた記憶かも知れないね。そう言う可能性もあるんじゃないかな」
「そんな…」
 今己が求めているものが、既に失われた過去の遺物だとしたら、もう手に入る機会は永遠に巡って来ない。セイジは途端に愕然とした。その可能性は否定できないからだ。持たされた自分の身分証明書には、既に五百年もの歳月が記録されており、シン・モウリは同じ年月を生きている可能性がある…。
 もし過去の記憶が、もう何処にも存在しなくなっているとしたら…。
「もしそうだとしたら私は…」
 本来の自分をも永遠に失うことになるだろう。私は過去の自分とは切り離されてしまった。この空白を埋めるものは何処にも存在しない、この孤独は死ぬまで己の中に置去りにされる…。
 そんな、いたたまれない悲愴感をセイジに窺いながらも、敢えてシンは強い調子で続けた。
「でも悲しまなくていいんだ、セイジ。昔のことを思い出せなくなっても、僕は君を忘れたことは一日もなかった。僕はずっと君が好きだよ、ずっと会いたかったよ」
 それは心理的異邦人への、心からの励ましの言葉だと理解できる。理解できるのだが、直ちにこだわることを吹っ切れはしないだろう。セイジは明らかに躊躇っている。
「しかし…」
「命を懸けて助けるよ、君が探してる記憶を僕も一緒に探すから」
 更にシンがそう続けた時、
「…本当か?」
 漸くセイジは彼に耳を傾けられた。
 一方的に身替わりになると言われても、多く存在するロボットのひとつを選ぶ意味はない。だがこんな風に「協力する」と言ってくれれば、シンの持つ希望を聞いてやれないこともなかった。
 即ちパートナーであり、恋人であり、同僚であり、指導者であり、家族でもある存在になれるように。
「僕が居る意味は全て君にあるんだ。僕は君を助けたい」
 念を押すような、確かな感情を伝えて来るシンの言葉に、
「…ありがとう」
 セイジは素直に答えられていた。

 それまで真昼の公園には、昼休みを利用して出歩く人影が切りなく在ったが、それもそろそろ引き潮に転じていた。
 彼等が佇んでいた丘の上は、人工の湖の青さが涼し気に見渡せる展望台になっていた。嘗て地球から生まれた生命には、例え赤土に囲まれた土地に育とうとも、何処かに青い色の記憶を潜ませているのだろうか。何故なら過去の記憶を失った男にも、不完全な記憶を与えられたロボットにも、この水辺の景色には和ませられ、不思議な感慨を以って捉えられていた。
 人気がなくなった公園の一角で、穏やかに寄り添いながらシンは言った。
「記憶がないと駄目なのかい?」
 それは難しい質問だった。人間の中にも記憶を失う者は居るが、以降の人生が必ず駄目になる訳でもない。要は本人の気の持ち方なのだろう。けれど、
「自分を何処の誰とも言えないのは、顔のない人間を認めろと言うものだ」
 特別な人脈もなく、支援もなく解雇されてしまったセイジには、己を建て直す記憶が必要なのかも知れない。誰の世話にもならず生きて行く為に。
「僕は君がセイジだって知ってるよ?」
「それはそうだが、客観的な話を積み重ねても主観にはなり得ない。私自身の記憶だと、自発的に認めるものでなければ」
 今は正にそんなことで悩んでいる。シン03から得られる情報は数々あれど、それが自分の記憶に繋がらない苛立ち。永遠にこのままかも知れないと言う不安な気持ち。
「でもさ、」
「でも?」
「今ここに君が居て、僕が居るんだ。今を幸せに生きることはできるだろ?」
 確かに、シンの明るく前向きな姿勢もひとつの出口だった。ただ納得が行かないだけで。
「そう…かも知れないが」
 煮え切らないセイジに対して、しかしシンは妙に積極的だった。
「今僕は君を抱き締められる」
 そう言って、セイジの首に腕を巻き付けた。
「僕は君を否定しない、君は大事な人だ。だから僕だけを見てるといいよ」
 臆面もなく真直ぐに、間近にある人の顔を見ていた。
「…強引だな」
「君の為だ」
 些細な非難は構わず、シンは思いの通りに唇を寄せた。
 同じロボットにしても、『裏通りのシン』とはかなり違った印象をセイジは感じていた。服装も普通の青年らしいものだが、その仕種も随分と男っぽく感じられた。つまり、大人しく人に縋るばかりのシンも居れば、自ら意欲的に誘いを掛けるシンも居ると言うこと。
 シン03型にはそれぞれ微妙に違う個性がある。生活環境に馴染んで行く度に変化して行く、人間並みの適応性があるのかも知れない。こうして抱き留められている、腕の感覚は昨日と何ら違わない。彼等から発している愛情も相違ないとしても。
『シン・モウリではない』
 それぞれが違うシンでは、やはり問題だろうか?。
『偽物はいらない』
 その前に、本物は存在するのか…?。
 茶色の軽い髪が風に揺れて、掬おうとするセイジの手に心地良く絡まる。そのまま優しく彼の頭を撫でると、ふとその手に異質な突起が感じられた。
 そう、それはロボットの緊急停止スイッチだ。
『偽物は否定』
「・・・・・・・・」
 その時、
「待て!!」
 声にびくりと動作を止めた、セイジとシンの周囲を囲んで狭めるように、近付いて来たのは見知った顔の連中だった。彼等は黙ってふたりを見据えていた。そして滅多に抜かれることのない拳銃を、ホルスターから出して見せながら当麻は言った。
「そこまでだ、セイジ・ダテ」
「…どう言う事だ」
 彼の背後の木立から現れた、『タイガー・バーのシン』の姿を見つけると、『ブルーワールドのシン』はその方へ避難するように離れて行く。つまりそれは、予定行動として仕組まれた罠だったようだ。そう言えばお膳立てをしたと聞いていた筈だ。
「悪ィな、おまえに恨みはねぇんだけどな」
 秀もまた、複雑な表情を浮かべながらも、構えた銃を下ろすことなく話した。
 否、考えてみれば全て秀の監視下での行動だった。一時的にこの場の人影がなくなったとしても、それを忘れていた訳ではない。又彼の良心的な配慮を忘れた訳でもない。
 そしてセイジ自身も変わらず、己の行動に合点の行かない事だらけだが、ただ、己の手が勝手に動く時があるのは事実だ。己の中に聞こえる声が、勝手に行動を起こさせるのを知っている。
「何故…」
 狼狽えるセイジの視界に、大型の熱線銃を抱えてやって来る遼が見えた。彼は落ち着いた様子で一歩一歩近付きながら、
「おまえを、殺人罪と認めて処刑する」
 と静かに言い放った。
「…馬鹿な、殺人などと…」
 無論それは言葉の綾であり、事実は殺人とは言えないかも知れない。それについて町の自警団が刑を下すと言うのも、かなり暴力的な行動かも知れない。しかし真面目なリーダーである遼の瞳に、荒んだ感情は見られず静かに澄んでいる。
 セイジには理解できないことばかり。
「ロボットを破壊しただけだ、それも私の意志ではない!」
 願うように、理解してほしい事情を訴えるしかなかった。
「…もう分ったぜ」
 それには秀が、既に大方のことを予想できていると、珍しく落ち着いた口調で返した。
「・・・・・・・・」
 つまり何もかも承知の上だと彼等は言う。セイジに、申し開きのできることは何もなくなっていた。
 セイジは思い返す。
 己はただ、シン・モウリと言う人を探していただけだ。それが何故こんなことになってしまったのか。
 今に至って考える。彼等、自警団のメンバーは鼻から己を疑っていたが、その上で親切に己を受け入れてくれた。だからその自警団自体も、真っ当な組織だと信用する気になれたのだ。従って、彼等に「悪い」と判断されたなら、仕方なく従うしかないのかも知れない。少なくとも自分で自分が知れない人間は、悪である可能性も否定できないだろうから。
 セイジのすぐ目の前で立ち止まり、銃を構えた遼は淡々と話した。
「同族を殺すのは最も重い罪だ。それを殺人と言うんだ」
『何…』

ズガンッ…

『何と言った?』
 鈍い衝撃音は一瞬の内に、昼間の明るい空気に掻き消えていた。熱線銃は音が響かないことで、場合によっては非常に有効とされる武器だった。
 合成皮膚と金属の焦げる臭いが漂っている。遼が放った銃は的を外さず、セイジの首を引きちぎるように飛ばしていた。公園内のレンガ風ブロックの歩道に、その頭部が無機質な音を立てて転がって行った。その転がる先を追って、自警団の一員でもあるタイガー・バーのシンは、小走りにその回収へと向かっていた。
「可哀想に…」
 セイジの視界には、呟きながら地面を走るシンの姿が、段々と近付いて来るのが見えていた。
『この感覚は…?、私はどうなっている?』
 そして縁石に止まっていたそれを拾い上げると、シンは深い哀れみを込めて告げる。
「自分がロボットだってことも知らなかったんだね」
 無論、配布される製品ならば有り得ないことだった。
『…ああ、今の今まで知らなかった…』
 誰かが故意に作り出した、自分を人間だと信じているに過ぎないロボット。
 しかしそんな存在だったことを知れば、これまでの異常も、異常な苦悩をもセイジは理解することができた。己が何を以って存在し、どんな限界があるのか。少なくともひとつの苦しみからは解放された、晴れ晴れとした気分だった。
 己はセイジ・ダテと言う名のロボットである、と。
「ここまで人間臭いロボットが作れるようになったんだな」
 シンの傍に駆け寄った当麻が言った。IPPOの進化は、彼等の危惧する未来を着々と建設しているようだ。つまり人間とロボットの境界がなくなった時、この世界はどうなるかと言うこと。
「まったく、酒を飲んだ時は本物かと思ったぜ」
 まず区別ができなくなるのが恐ろしいと秀も言った。
「だから可哀想なんじゃないか」
 シンは思う。ロボットが人間らしくなればなる程、モデルとなった人間の意志は空回りする。例えこのセイジが完全な記憶を持っていたとしても、人間にしか為し得ないテーマは永遠に残るだろう。本物のシン・モウリを探し当てたところで、このロボットには何ができる?。そんなジレンマを抱えた人格が、長く平穏で居られるとは全く考え難かった。
 厳密な意味で、システムは未だ意識を制御できない。
 つまり、元々大人しい性格のシン型は、たまたま上手くいった例だったのだろう。セイジの性格には、ロボットの体はあまりマッチしなかったのかも知れない。だから記憶の大半を消されたのかも知れない。シン・モウリと言う唯一の目標だけを残して。
『シン…』
 今は当麻に手渡された頭部から、セイジは見下ろしているシンの顔を見て呟いている。
「短い間だったけどね、君の気持は忘れないよ」
『…そうだ、私は名前の他にも憶えていたことがある』
 そしてシンの言葉に呼応するように、セイジは朧げな記憶を蘇らせていた。
『シンを見ていると安心する、私はシンの傍に居なければいけないのだ』
「うまく取り出せよ」
 秀の余計な助言を煩そうに、
「分かってる」
 一言で切り返しながら、当麻は記憶回路を傷付けないように、ひとつひとつ丁寧にケーブルを切断して行った。
『シンを探さなければ…』
 最後の一本を切り落とされ、セイジの頭から抜き取られた記憶バンクには、彼が生まれてから数日の新しい記憶と、最後の呟きが痛みもなく閉じ込められていた。



「なっ、記憶喪失のプログラムなんて使いモンになんのか?」
 彼等は市街地の入り組んだ街路を、決められたルート通りに走り抜けていた。もう数分前の感傷に浸ってはいられなかった。セイジの機能が停止した時から、今度は時間との勝負だと誰もが了解している。
「人為的なものだろう。まあ個人的な記憶は必要ない、IPPOの内部が分かりゃいいんだ」
 当麻がそう説明すると、
「間に合うか?」
 と遼が一応尋ねる。
「十二時間で何とかするさ」
「任せたぞ。他の段取りは全て整えておく」
 彼が取り乱しもせず、仲間達の行動を信用していられるのも、これまでに準備して来た計画があってのことだった。
 そう、彼等は町の自警団と言う隠れ蓑を利用し、武器や機材を調達していたレジスタンスだった。長い年月に渡り、やんわりと支配され続けたこの人工惑星を解放するには、その原因を齎したものを潰すしかなかったのだ。
 対外的に大層上手くやっている企業には、特別問題視されるものもなく、強硬統治を非難する者さえ滅多に現れない。けれど誰かが変えようとしなければ、この星は永遠にこのままだと予想もついていた。
 つまりそれがヒト型ロボット開発の目的。いつか全てがロボットに成り代わって、永遠に安定的に支配圏を広げて行くつもりなのだろう。
 誰かがそんな形の未来の夢を見ている。
「じゃなっ、俺は整備場に行く、後で落ち合おうぜっ!」
 A市街に差しかかる途中の路地で、秀はそう言って他の仲間達から離れて行った。
「急ぐんだよ」
 家々の低い屋根伝いに渡って行く秀の、後ろ姿に向かってシンは届かない声を掛ける。
「セイジが死んだことは反応板からすぐ伝わる。必ず二、三日の内に向こうも行動を起こすよ」
 シンにも迫る時間が気になっているようだ。だが、
「…大丈夫だ」
 するともう一度力強い言葉で、
「セイジ型ロボットが現れたら、すぐ行動を起こせるようにして来たんだからな!」
 遼は自信を持ってそう言った。
 彼が落ち着いて言葉を発する度に、計画は必ず成功すると信じられるから不思議だった。そんな一途な意志の力は恐らく、ロボットなどには発揮できないものだろう。当麻はふとそんなことを思い付いて、皮肉に笑いながら答えていた。
「神は人の上に在り、だ」



つづく





コメント)ここで話が「転」と言うところなので、後半はスピーディな展開に努めてみました。何か話のあちこちに、まだ説明されてない部分がちりばめられているので、読んでいて「?」と思う所が色々あるでしょう。勿論最後まで読んだらちゃんとわかる筈なので、後半を待ってて下さいね〜。



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