タイガー・バーのシン
現 の 人
(うつつのひと)
#1
THE REAL



 空白だ。
 幾ら探しても、何の風景も何の感情も思い出せはしなかった。嘗て己が何処で何をしていたのか、己は何処で生まれ何と名乗っていたのか、己は何なのかまるで判らなかった。
 ただひとつ頭の中に残っていたのは名前。自分のものか誰のものかも判別できない名前。意味があるのかどうかさえ判らない。
 それ以外は、限りなく空白に近い記憶空間が広がっていた。



 金星の衛星軌道に造られた人工惑星。
 デルタ・エンジミオンには年中、これと言った季節の変化がない。常に安定した快適な気候で、温度、湿度、日照など、全てをコントロールされた気象条件を持ち、開発した金星政府から民間に譲渡された後は、極平均的な階級をターゲットにした、住み易い居住惑星として分譲されて来た。そこは下手な小惑星などよりずっと、条件の良い新天地だった。
 人間は変わり行く季節、厳しい気候の変化を乗り越えるからこそ、豊かな精神を養えると科学的にも言われるが、地球史しか存在しない時代の謂れは、最早気に留められるものではなくなっている。それだけ地球以外の環境とは、地球人には厳しく過酷なものだったからだ。夢を抱いて他の惑星へと移住しても、誰もが常に他の住み良い土地に憧れている。
 本当は誰もが地球に住みたいだろうが、人口増加に対する政策は他には無かった。
 そんな意味で、人工惑星は資源的には全く無価値だが、地球環境に似ているだけで住むには人気がある。工業生産等は他の惑星に任せれば良い、と普通に考えらる程、亜空間航法での輸送も発達している昨今。この星での主だった産業と言えば、農業と商業、情報産業などに限られるが、ベッドタウン惑星構想の許に開発されただけに、それで住民が不便することもなかった。
 過去、人々はただ普通程度の豊かさと、より良い住環境を求めてここにやって来た。パイオニアとも言える最初の移民達の理想は、極ささやかな個人の幸福だったに過ぎない。しかし今ここに住む彼等の子孫が、快適で幸福に暮らしているかと言えば、むしろ全く逆だった。
 地球の月からIPPOがここに移転して来るまでは。
 デルタ・エンジミオンの二百年程の歴史に対して、IPPO、即ちインテリジェント・ポリス・オブ・プラネッツ・オーガニゼーション、惑星間情報警察機構の歴史は古い。金星よりもう少し手前、火星の開発が漸く一定時期を過ぎて、惑星と言う区分ができた頃に地球で設立された。その名の通り情報犯罪を管理する機関であり、デルタ・エンジミオンに移転するまでの約千二百年の間、その本部は月に存在し続けていた。
 尚開発は火星の次に木星の主な衛星、次に金星の順に進んで来た。現在は土星まで一般的な開発が進んでいるが、通信アンテナ等の設置だけなら、太陽系の最も外側の冥王星、海王星にも既に人の手は伸びていた。又観光や調査の目的で、系外宇宙へ出ることも今は珍しくない。
 そして惑星の開発が進んで行く度に、IPPOの重要度、貢献度も増して行ったが、それが健康に機能していたと言えるのは、三百年程前までのことだ。長く権勢を誇るものはいつか腐ると言うが、設立当初のメンバーが皆引退し、その理想や定義が忘れられた頃に至っては、ただ権力に集る者ばかりになって仕方がない。今はそんな、名前ばかりの警察的機関でしかなかった。
 元よりIPPOは暫定的な公社団体であり、後に正式な惑星間警察ができてからは、それに協力する民間組織として運営されて来た。そして民間である以上は、誰の手に渡っても文句は言えない。今は良からぬ方へと転じてしまった、それだけのことだった。
 全ての惑星、全ての人間、あらゆるデータを収集できる組織の意味でも、『良からぬ』変革だったのは間違いない。
 今やデルタ・エンジミオンの住民の大半は、宇宙的な基準で言えば下層階級になり下がっている。嘗てIPPOがここに移転する条件のひとつに、地域住民から組織への雇用を要求されたが、彼等は基準以上の大量雇用を約束して、現在までそれが守られているのは確かだ。但し、それはIPPOの狙い澄ました計画でもあった。
 結局彼等のしたことは、末端の作業人のみを大量に雇い入れ、それ以外の特権的な立場を住民には全く与えなかった。つまり世話人と使い走りを雇っていたに過ぎない。それでも賃金は充分に支払われていたので、当時の住民達はそれで満足していたようだ。
 やがて時が過ぎ、彼等の権力が惑星の隅々まで影響を及ぼす頃には、彼等は自治権をも掌握し、結果的に住民は組織の奴隷と化してしまった。第一次移民法により、新規開拓地への第一次移民は、以降十世代に渡りそこに住み続けなければならない。その法律を上手く利用して、統一し易い小規模な人工惑星の私物化を計った、と言うことなのだろう。
 今は農業も商業も、惑星の中のあらゆる産業と労働も、殆どがIPPOの権力者の為に、或いは彼等の権力を支える為にあるようなものだった。以後年月を重ねる毎に住民は無気力化し、多くの町がスラム化して行った。特に荒んだ地域では、大した意味もない破壊行為や闘争が絶えず起こり、住民達は見えない圧政状態に、無闇にストレスを抱え込んでいるようだ。
 ここにはもうユートピア的な理想を抱かせる物は、何もなくなってしまった。地獄なら地獄らしく、暗くじめじめとした穴の中のような環境なら、ただ納得し平伏して暮らすこともできるだろう。けれどこの人工惑星はあまりに快適過ぎて、己が何処に放り込まれているのか、日々何をしているのか、何が良いのか悪いのかさえ判断をし難くさせていた。
 物質的には豊かである。働く口もある。汚染のない土地から充分に作物が収穫できて、餓えに苦しむこともない。風土病の流行もない。なのにここで生き続けるのはとても苦しい。
 現在八、九世代目が中心の住民達は、悪夢の中を必死で藻掻き続けている。
 悪夢を覚ます時計のベルが鳴るのを待っている。

 IPPOの職員が集まって住む高級住宅街と、高級店が立ち並ぶ市街地のドーム。その華やかな目抜き通りを真直ぐに進むと、上層階級と下層階級の居住地域を区切るように、大きく威厳のある門が存在する。太古の城壁都市の様に、塀で仕切られた内側の地域は、その外側に住む多くの住民の現実とは、まるで掛け離れた別世界だった。
 しかし初めてこの惑星に降り立って、初めてこの道を歩いた者には、そこまでの状況を感じ取れはしないだろう。格式のありそうな店鋪や洒落れた外灯、豊かで文化的な雰囲気の感じられた町から、騒々しい音が引っ切りなしに聞こえる、閑散として見るものも無い町へ移動した、と言うだけのようだった。
 今正に門の下を通過した男は、暮れ行く黄味掛かった空の下に、特徴のない建造物のごみごみと群れる町が、道路沿いに丘の下へ続いているのを見ている。所謂下町と言って差し支えない景色だった。そして騒音が聞こえる程度に人の気配も感じるが、うら寂れた印象とは反対に、町中は奇妙に片付き過ぎている気がした。理想と現実の不均衡を垣間見るような。
 そこは一体どんな町なのだろう、と思う。
「IDマタハ ミブンショウメイショヲ イレテクダサイ」
 門を出て一歩足を踏み出すと、足元に通行管理の小型ロボットが寄り縋って来た。セイジはコートのポケットから身分証明書を取り出すと、ロボットの前面にあるトレイに差し込む。
「ドウゾ オトオリクダサイ」
 僅か二、三秒の認証行動を終え、ロボットは彼の傍から離れて行った。
 そう言えば、門の中にも町の至る所にロボットが居た。そして眼下に広がるくすんだ市街地にも、僅かな人間より、多くのロボットが稼動しているのが見える。町が妙に綺麗なのは、彼等が常に掃除や修理をして回っている所為だろう。とセイジは考えながら歩き出していた。
 人に好まれぬ労働にはロボットが従事して、人間達は快適に暮らせている筈なのだ。けれどこの町に漂う無力感は、むしろ快適さを否定するような虚ろなものだった。
 まるで己の現状のように。
「おい、おまえ」
 その時、十字路の横の道から現われた青年が、訝し気な口調で彼を呼び止める。ノスタルジックな黒のテンガロンハットとブーツ、皮のホルスターには大口径の銃を差していた。悪く言えば昔のギャングのようだが、良く解釈すれば保安官と言った風情に見える。セイジは特に怯えるでもなく彼の方を向いた。
「何しに来た?」
 その声を注意して聞いてみると、かなり若い男のようだと感じられた。そしてセイジの返答を待たずに、彼はすぐ傍まで歩み寄って来る。並んでみればかなり小柄な人物でもあった。
「俺は知ってるぞ、おまえIPPOから出て来ただろ。情報屋の人間が何の用だよ?。スパイか?。それとも何かの抜き打ち調査か?。ここには何にもありゃしねぇんだぜ」
 しかし、そのどれにも当て嵌まらない身分の上、矢継ぎ早に質問されるので、セイジは何処から答えて良いか迷っている。迷いながらこう答えていた。
「今はIPPOの社員ではない」
 無論その妙な答に、青年は食って掛かるように問い返す。
「今はって?、じゃあ今は何なんだよっ?」
「今は、何でもない」
「何でもないって何だ!、からかってんのか?」
 けれど下手な挑発に乗る程馬鹿でもなければ、事実そうなのだから仕方がなかった。
「からかっているつもりはないが…、とにかく、解雇されたのは確かだ」
「解雇!?。そんな事があるんだかなぁ〜?」
 確かにこの惑星では、IPPOから解雇されたなどと言う話は、殆ど耳にすることがなかった。前途の通り彼等は雇用機会を約束している為、例えひとつの職種に合わなくても、次々に合いそうな部門へと回してくれる。余程の問題を起こさない限り解雇は有り得なかった。犯罪者にさえ、刑務所内での作業をきちんと用意してくれる程だ。
 但しそれは一般市民の場合の話で、IPPO内部の社員については判らない。今目の前に居るのはその類の筈だと、町に詳しい青年には知れていた。
「じゃあそれまで何してたんだ?。それとあんたの名前は?」
 すると単純な質問に対して、暫し考える様子の後にその答は聞かれた。
「名前は『セイジ』、と呼ばれていた。仕事は恐らく…、工作員だったと思う」
 誰もが思うだろうが、こんな自己紹介では疑われるだけだ。
「あんた何言ってんだ?、自分のことが分かんねぇのかよっ?」
「いや、確かに工作員だ。身分証明書に書いてあった」
 セイジがそれを思い出したのは幸いだった。何故ならIDにはない移民歴や職歴のデータが、証明書には全て納められているからだ。それを調べればすぐに彼の素性は判明するだろう。
 だがもし、疑わしい人物なら素直にそれを貸してはくれまい。と思いつつ一応青年は言った。
「何だよ、その方が話が早いぜ。身分証明書を見してくれよ」
 するとやはりセイジは何の躊躇いもなく、先程使ったカードをあっさり青年に手渡す。何の心暗さも持たないと表すような動作だった。青年は胸のポケットからカードリーダーを取り出し、早速その身分証明書に書き込まれた内容を改め始める。
 確かに、彼の話は間違っていないことを知った。
 名前はセイジ・ダテ。地球で生まれている。IPPOでは長く工作員として働いていたが、任務中の事故で記憶喪失になり、任務の継続が不可能となった為『解雇』とあった。又それに対して二百年の障害保険が降りている。彼は優秀な工作員、諜報員などがよくする生体改造を行っていた為に、以降の余命がまだ百年以上あるらしい。既に四百年も生きていながら。
 その他の部分を閲覧しても、特に彼の様子に合わないデータは見付からなかった。ただ口述とは一致していても、このデータ自体が偽物の可能性もある。簡単にカードを見せてくれた事実から、それを疑わない訳にもいかなかった。
「返すぜ。まぁ、おまえのことは大体分かったけどよ、」
 そしてもうひとつの疑問を明らかにしなくてはならない。
「それで、記憶喪失になった元工作員のセイジさんが、ここに何しに来たんだ?」
 改めて問われるとセイジは、別段この町を選んで来た訳ではないと言う、ぼんやりとした事情を彼に説明するしかなかった。
「人を探している」
「…はぁ?、記憶喪失なのに?。何にも憶えてねぇんだろ?」
「顔は思い出せないが、名前だけは憶えている人がいるのだ」
「へっ、そんな都合のいいこと…」
 青年がそう言って呆れる身振りをした時だった。
「どうした、秀」
 秀と呼ばれた青年と同じ方角から、もうひとり同様の格好で背の高い青年が現われ、彼等の元に駆け寄って来るのが見えた。彼もまた、遠目からでも余所者と判るセイジを警戒しているようだ。と言うより町全体がそんな雰囲気に感じられなくない。
「あぁ、当麻。…それがこいつ、何だか分かんねぇ奴なんだよなー」
 秀はまずそう返すと、当麻の質問には簡潔に報告した。
「分からないって、何がだ」
「こいつがIPPOから堂々と歩いて来たから、ずっと着けてたんだけどよ。身分証明書を貸してもらったら、事故で記憶喪失になって、解雇された元工作員ってなってんだ。名前はセイジ・ダテだが、自分の名前も覚束ねぇ感じで、どうしたもんかなぁと…」
 すると、余計な言葉や動作が多い秀に比べ、当麻と呼ばれた方は酷く落ち着いて話した。
「証明書は確かなものだったんだな?」
「ああ、それは間違いねぇ。月に本部があった頃に発行されて、金星政府の更新済みになってたぜ?」
 当麻はそれだけ確認すると、答を急がずに、まず自分達の自己紹介をセイジに聞かせた。
「俺は羽柴当麻と言う。このA市街の自警団のブロック長をしている。こいつは秀と言って同じく自警団の一員だ。不愉快かも知れんが、ここいらの町では見慣れぬ者には、執拗にその素性と目的を尋ねるのが習慣なんだ。何故なら町同士の抗争や、余所モンの犯罪が絶えなくてね。警察にいちいち頼っていられないから、こうして自主的に見回ってるんだ」
 すると如何にも不思議そうな顔をして、セイジは初めて自ら質問をした。
「その割には、整然としているようだが」
 それについては秀が尚呆れるように答えた。現代に於いては常識的なことだったので。
「そりゃなぁ、家が壊れりゃ『ウタ』が来るし、ゴミが落ちてりゃ『サー』が拾うし、自動的に元に戻ってくれるからな」
 やはり多く居るロボットが、破壊や汚染から町を回復させているらしい。ウタ(UTA)、サー(SIR)と呼ばれるロボット達は、IPPOのリハビリ室でも見られたので、セイジはその説明で充分納得できたようだ。因みにウタは中型の作業用ロボット、サーは小型のインテリジェントロボットで、各家庭のセテキュリティなどにも使われている。セイジの身分証明書を読んだのもサーの一種だ。
 ところで、あまりにも余所者らしい振舞のセイジに対して、当麻は少し思考時間を必要としていた。この町には喧嘩や破壊行為をする者の他に、もっと厄介な来訪者がしばしば現れる。IPPO絡みの人間とすればそれに違いないが、もし本当に記憶喪失ならその用向きではないだろう。むしろ彼から有利な情報を得られるかも知れず、暫くここに置いて様子を見たいところだった。
 彼の目的が危険なものでなければ、だが。
「で、解雇されてフラフラしていたと言うのか?」
 一段落して当麻が尋ねると、
「人を探してるんだとよ」
 秀は関心もなさそうにそう答えたが、当麻には違った趣きに聞こえたようだ。
「何故だ?。いや、そもそもおまえさんには、この辺りに知り合いなど居そうもなく見えるが。是非理由を聞かせてほしい」
 そうして真摯な態度で聞かれれば、セイジも丁寧に説明しようと言う気になった。そしてやや眉を潜めながら、彼は些か苦し気な表情を以って答えた。
「今…、私は殆どの記憶を失ってしまったところだ。自分が誰だかも、過去に何をして来たかも、正しくは何も思い出せていない。知っているのは後から教えられたことばかりだ。だが、ある人の名前だけは憶えていて、思い出せた。だからもしその人に会うことができたら、一部でも記憶が戻るかも知れないと思っている。…そう思って、その人を探すことにした」
 嘘を吐いているようには見えなかった。
 確かに、長く生きた筈の記憶が消えたとなれば、それは心細く感じて然りだ。そんな心境は想像するに余る絶望だろうと、良心的に考えてやることもできた。殊に彼の表情が切に訴えていたので、当麻は取り敢えず彼を引き止める方に、対策を考えて行くことにする。
「そうか、それは大変だな。何ならこの町の住人を当って、心当りがあるか調べてやろうか。俺達はここで知らない人間は居ないからな」
 表面上、愛想良くそう返して見せた当麻に、セイジは全く素直に反応して返した。
「頼んで良いのか?、それは有り難い話だが」
「勿論だとも」
 間髪を入れずに引き受ける当麻に続けて、
「情報収集が終わるまで保護者を付けてやるぜ、ここらはまるごしの余所モンにゃ危険だからな」
 と秀も続けた。ふたりの間で議論はされなかったが、当麻の決定を秀は暗に了解しているようだ。そして監視役を付けることを確認した、と言う訳だ。
「じゃあこれで交渉成立だな。…ん、それで何て名前なんだ?、捜索人は」
 セイジが黙って話を聞き入れているのを見て、当麻は彼にも了解済みとして、早速情報を出してもらおうと促す。すると思い掛けず、彼の口からは聞き覚えのある名前が出て来た。
「『シン』。シン・モウリと言う名前だ」
「・・・・・・・・」
 無言で、思わず顔を見合わせてしまった当麻と秀。否、彼等だけでなくこの惑星中、もしかしたらその外にも知られた名前かも知れない。
「へぇー、シンだってよ」
 やや困ったような口調で呟く秀を見て、セイジも受取り様に困った風だった。協力すると言い出した手前、当麻もまた妙な展開に困りながら言う。
「あー、シンって奴には…、まあ心当りがないでもないんだが…」
「本当なのか…?」
 けれど必死の様子で尋ね返すセイジの様子からも、背後の暗さは何ら感じられないままだ。当麻にはそれがどうも引っ掛かっている。『シン』と言う人物を探しに来たにしては、この男は目立って善良過ぎると感じていた。
「まあ、とにかく着いて来いよ。自警団長の店で一杯奢ろう」
 当麻はそう返していた。引き続き暫く様子を見ることにしたようだ。そして彼の言う『シン』に会ったとしたら、どんな反応をするか確かめておきたかった。
 そもそも、シン・モウリを探していると言う目的は危険だ。



 A市街のほぼ中心に位置する歓楽街の中に、そこそこ繁盛している様子の飲食店があった。正午から営業している『タイガー・バー』は、比較的怪しい客の少ない酒場兼軽食屋だった。自警団長の店と言うくらいだから、町の交番のような存在でもあるだろう。後ろめたさがある者には、あまり近付きたくない場所でもあった。
「よぉ!、俺達の団長は戻ってるか?」
 その店のドアを思いきり開けるなり、秀はカウンターの方を向いて威勢良く声を掛ける。
「やあ秀、まだ戻ってないけど。今日もいつものでいいのかい?」
「おう、頼むわ」
 カウンターの中では雇われマスターが、早速冷蔵庫から食材を取り出して、秀のお決まりのメニューを作ろうと動き出す。彼より遅れて入って来た当麻は、既にカウンターの席に座る秀の向こうを指差して、後を着いて来たセイジに声を掛けた。
「彼がシンだが?」
「…え?」
 突然の紹介に目を丸くするセイジ。
 名前だけは忘れずにいたが、その人の姿を正に初めて目にしていた。緩いウェーヴのある茶色の髪、大きな緑色の瞳、これと言って厭味のない顔立ちはしかし、少々印象が薄くも感じられた。記憶とは別に何処かで見たような、見ないような妙な感覚を覚えていた。
 拠って、そこまでの感動はなかったようだが、セイジはひとりカウンターの傍へと寄って行くと、
「君が、シンなのか?」
 と、レンジの蓋を閉じて振り向いた彼に言った。すると呼ばれた本人は、
「あ、ああ…。あれ、君の顔は憶えがあるよ?」
 そう言いながらセイジの顔を凝視し始める。
「へえ?。どっかで会ったとか言うか?」
 と秀が口を挟むと、
「…さあどうだろう。僕の記憶データにある顔なんだ。んーと、名前はセイジって言うんだろ?」
 問い掛けに答えながら、カウンターに立つシンはそんな説明をセイジに聞かせた。
「何を言っているのか分からない」
 しかしセイジは混乱している。それも無理はなかった。
「まあ、おまえが探してるシンじゃないとは思うがな」
 秀の隣の席に掛けながら、無情にも当麻はそう言い切っていた。
「どう言う意味だ…?」
「彼はロボットなんだよ。IPPOが製造して、惑星中に配ってる働き手さ。ウタやサーとは少し扱いが違うが、このシン型ロボットだけでも町中うようよしてる。さっきも俺達の横を通り過ぎたが、おまえが本当にシンの顔を知らないのは分かったよ。記憶喪失の所為かも知れないな」
 そう、セイジは全く気付いていなかった。そしてここに来るまでの間に見るともなく見ていた、町中のシン達のイメージが頭に残っていた為に、初めて会った新鮮さが失われたようだ。
 それにしても、言われなければロボットとは気付かない精工さだった。彼と人間を別の存在として、わざわざ区別する意味さえ感じられない。
「失礼だよ当麻、僕らは湧いて出る鼠じゃないんだ。ちゃんと道徳権もあるロボットなんだからね」
 シンは当麻の言い様に反発して、やや不愉快そうな顔でそう返していた。
 尚『道徳権』とは、人権に代わるロボットの生存権である。独立してそれぞれの意思を持ち、それぞれ違った行動をするヒト型ロボットの、労働条件や基本的存在に関する、不当な行為が行われないよう定めたものだ。彼等だけでなくウタやサーについても、全て市政を行うIPPOの給付品なので、破壊や盗難は厳重に処罰されることになっている。
「はい、お待ちどう様!」
 秀の前には特大ミートローフの皿が現れた。その湯気の向こうから当麻が、
「とにかくそこに座れ。バーボンと、それから何か適当なものを彼に」
 と、セイジとシンの両方に言った。
「ロボットなのか…。だが、ロボットにしても…」
 セイジはまだカウンターの前に立ったまま、現状を呑み込めないでいるようだ。
「君は食べないの?」
「俺はさっき食ったばっかりだろ。流石にもう食えないから酒だけでいい」
 シンの方は気にせず当麻と話しているが、セイジは彼の一挙一動を目で追っていた。そのただただ必死な様子をチラと見て、秀は夕食にありついた至福を楽しみながら、横でいつまでも落ち着かないセイジに話して聞かせた。
「ヒト型ロボットがそんなに珍しいか?、IPPOが造ってんのに、本部にはいねぇのかな?。…居たとしても忘れちまったのかも知れねぇが、シン型だけでも何種類かあんだぜ?。ん、そうだ、見分け方を教えてやるから、まあ座れよ」
 そうけしかけられれば、幾らかの関心がセイジの心を揺さぶった。彼が漸く秀の横の席に着くと、既にカウンターには琥珀色が注がれたグラスと、見慣れない紫の木の実やチーズの皿が、彼を待っていたように置かれていた。折角の配慮を無下にするのも何なので、セイジは遠慮なくグラスを口に付ける。
「…まずヒト型は今、ロバート型とシン型の二種類がいてな、ロバートの方が古い型なんだ。そいつはパッと見て、皮膚が人工物っぽいからすぐ分かるが、まあ、もうあんまり残ってねぇな。この町にもひとりしかいねぇんだ。それからシン型だが、02前期型と02後期型、それと03型って三種類あって、デルタ・エンジミオンのあちこちに沢山いるんだ」
 秀はまずそこまでを話すと、皿洗いをしているシンに目配せをしてから続けた。
「で、ロボットには必ず非常停止スイッチがあってな、それで型の見分けができるんだぜ?。02前期型は首の左側に付いてるから、服で隠れてなきゃすぐ分かる。それから02後期型は、左耳の中にスイッチがある。前からじゃ分かんねぇが、横から見れば一目瞭然だな。ただシン03型だけはパッと見じゃ分からねぇ。髪の中にスイッチが隠れちまってるんだ」
 秀の丁寧な解説を聞きながらも、セイジはカウンターの中のシンを見ていた。彼の左耳には赤い物が詰まっているのが見える。つまり彼は02後期型と言うことだろう。
「ま、それでも長く見てりゃあ、人間との違いははっきり分かるぜ?。ロボットは何も食わねぇし、トイレにも行かねぇからな!。エネルギー源は光なんだと」
 余談だがそれらの説明をしている間に、秀は皿の上をすっかり空にしていた。
「そんなところだ」
 最後にオニオンスープを口にしながら話し終えると、
「ありがとう…、勉強になった」
 セイジは困惑しながらも秀にお礼を言った。自分が探している『シン』とは一体誰のことなのか、と考えていた。
 当たり前に人間の名前だと思っていたが、ロボットのシンはこの惑星に多く住むと言う。もしかしたらその中の一体と言うこともあり得る。それともモデルになった人間が存在するのだろうか。その場合、今も生きて存在しているだろうか?。もし探しているシンが存在しないとしたらどうする。或いは、生きている人間を模したロボットを量産する意味はあるか。そんな事があり得るのか。
 そしてロボットの『シン』には、己を助けてくれる記憶があるのだろうか…。
「ただいま、おう来てるな」
 その時再びドアが開いて、もうひとり馴染みらしい青年が店に入って来た。
「店長さんのお帰りだよ」
「おっ遼、取引の方はどうだった?」
 シンが真っ先に雇い主の姿を見付けて言うと、秀はすぐさま振り返って報告を聞きたがった。そう、遼と言う彼はこの店の店長であり、自警団の団長として知らない者は居ない存在だ。昼の間は自警団と店に必要な物資を買い付けに、夜は団員を集めて会議と見回り、一日中忙しく動いているが、事実上、色んな意味に於いて実力者だと誰もが認めている。
「武器の調達はまずまずさ。…誰だ?」
 彼は秀の問いに答えながら、しかしその隣に座る見慣れない人物に目を止める。
「ああ、セイジって言うんだそうだ。A市街の入口付近で捕まえたんだが、何かシン・モウリの知り合いらしいぜ?」
 そう聞いただけで、遼は特に表情を変えはしなかったが、
「そうか、知り合いが来るなんて珍しい事もあるんだな」
「詳しく話す、遼、ちょっと来てくれ」
 穏やかに返した彼に、当麻は声を掛けて立ち上がると、店の奥へと続くドアの向こうにふたりは消えて行った。未だ慎重にセイジを扱っているのは明らかだ。
 ふたりの姿が見えなくなった後も、セイジはシンを見詰め続けていた。
「シン・モウリとは君の名前か?」
「そうだよ、僕のフルネームさ。まあ誰もがみんなシン・モウリなんだけど。僕らが君を知ってるのは、元々バンクにあった記憶なんだろうね。きっとオリジナルの脳モデルの記憶だよ。その人がシン・モウリなのか、新しく付けられた名前なのかは知らないよ」
 そしてそんな説明をされてしまうと、増々シン・モウリとは非現実的な、存在しない人のように感じられてしまった。否、ロボットの記憶バンクにモデルとして残る、頭脳だけのシン・モウリはそこに居る。果たしてそれで彼に会ったことになるのだろうか…。
「…そうか」
 それまで理解しようと精一杯だったセイジは、ここに来て始めて溜息を付いて見せた。その様子を見ると、シンは些か不憫さを禁じ得ない気持になった。ロボットと言えど、人間の頭脳を精密に写し取って乗せたヒト型は、極自然で繊細な心を持っている。記憶を失って、ただひとつだけの希望を探している彼の気持は、シンにも共感できなくはなかった。
 独立して生きるロボットに取っても、仲間や友人は大切な存在だから。
「あ、そうだ。君、」
 そこで、ふと思い付いたようにシンは言った。カウンターの奥の引き出しから、一冊の紙束を持ち出して再び戻って来た。
「他のロボット達にも会ってみるかい?。もっと情報を持ってる奴がいるかも知れない、03型とか。僕の名簿を貸してあげるよ」
 シンは言いながらその紙束をセイジに差し出す。
「他のロボットの…、名簿を作っているのか?」
「『A市街ロボット権利組合』の名簿さ」
「組合…」
 無論そんな団体名は初めて聞くものだった。
「そう、僕らはロボットだからって、色々不利な条件を押し付けられることも多くてさ。だから組合を作って、道徳権を守る活動をしてるんだ。僕はその組合長だよ」
 シンが『組合長』と言う言葉に、やや誇らし気になって説明すると、
「ま、ロボットも苦労がない訳じゃねぇってコトだ」
 横から秀もそう付け加えた。行政プログラムで動くウタやサーと違い、自由に独立して生活する彼等は、ある意味では人間と同じ扱いでなければならない。しかしその境界線を定めるのは難しい。そんな権利問題は人間同士の間でも、よくよく議論されることだろうが。
「大変なんだな」
 セイジは一言だけ感想を漏らすと、その名簿のページをパラパラと捲り始める。似たような、否、殆ど同じ人物のデータばかりが連なっていた。

「じゃあ、俺は東と南ブロックの見回りに行くからな」
 窓の外に陽光の勢いが感じられなくなった頃、奥の部屋から店に戻るなり、当麻はそう言って出掛ける支度を始めた。
「気ぃ付けてな」
 秀は彼の方を向かずに言った。自警団のメンバーそれぞれは、常に同様の行動をする訳でもないらしい。当麻の後から歩いて来た遼は、カウンターのすぐ傍のテーブル席に着いて、
「頼んだ。明日は俺も見回りに出る予定だが、事情が変わることがあれば連絡する。今日は棚卸しをさせてくれ」
 と声を掛ける。普段表に見える仕事はシンに任せ切りだが、団長もそれなりに店の仕事をしている様が窺えた。自警団のメンバーが毎日ここに訪れては、報告がてらに美味しい食事で胃袋を満たしている。「同じ釜の飯を食う」との言葉があるが、そんな場を維持するのも大切なことかも知れない。
 すると、カウンターを離れた当麻はセイジの傍へと近寄り、耳打ちするように告げる。
「シンを、殺すなよ」
 思い掛けない警告。無論行動を抑制する為の手段に他ならない。ただ、当麻が案じる行動の意味も、己がその警告を受ける意味も、セイジにはまるきり理解できなかった。記憶に唯一残る人を探している、自分が何故シンを殺すと思われるのだ、と。
「な、何のことだ?」
「おまえがハンターだったとしたら、俺達は容赦しない」
 当麻は歩き出しながら言って、そのまま外の町へと出て行ってしまった。不親切にも意味不明の言葉を残して。
「ハンターとは何だ?」
 そして話す相手を失った後も、征士は疑問を口にして戸惑っていた。当麻の代わりに、食事をしようとしていた遼が答える。
「時々現れるんだ。シン型ロボットを破壊しに」
 そう、最も厄介な来訪者とはそのことだ。自警団の活動も今は専ら、ハンター対策の為にあると言って良い程だった。時折ロボットが一晩に数体破壊される事件が起こる。ハンターは大概腕の良いスナイパーで、必ずシン型だけを狙い撃ちして去って行く。惑星中で最も親しまれているシン型は、既に何処の町でも大切な住民だけに、深刻な事情だった。
 ふらりと現れる見知らぬ人間が、それを疑われるのは仕方がないことだが、
「何故だ?。ロボットを壊して何の意味がある?」
 勿論そんな疑問も浮かんで来るだろう。
「さあ、俺にも分からない。ただ町に取っては大事な労働力だから、勝手に壊してもらっちゃ困るんだ」
「それはそうだろう、だが私は…」
「その上壊した責任は俺達に負わされる、その分を課税されるんだ」
 遼の返事には、何ら歯向かいたい点はなかったが、セイジは尚も疑われる理由を知りたがっている。何故なら己の意識には、殺すなどと言う言葉が浮かんだことはない。この町を訪れたのも故意ではない。そして武器らしい武器も持ち合わせない。それが何故危険人物に取られるのか?。
 突然秀が口を開いた。
「おまえがIPPOから来たからさ!」
 確かにそれが最大の理由だった。
 嘗て第一次移民達が、安易に誘致を受け入れた過去のツケ。IPPOと言う団体は、今も正に何でも与えてくれる大企業だった。必要な物も必要でない物も、忌わしき物まで次々に送り込んでくれる。上層階級の人間は別として、その他の住民は誰もが少なからず、彼等の『食わせ者』的な在り方に辟易し、次第に憎悪を向けて来たからだ。
 彼等は元より、警備やメンテナンスを行うロボットを製造していた。その最新型がウタやサーに当たる。そしてヒト型が現れ、ロバートからシンの世代へと発達して来た。常にそれら最新鋭のロボット達を、この惑星中に蔓延らせ続けた。つまり彼等に取ってデルタ・エンジミオンとは、ロボットの実験場として存在するに過ぎない。
 そして住人達は彼等に踊らされるだけの駒だった。あらゆる意味で人間により近く、『人間の友人として長く付き合えるロボット』と称しておきながら、裏では勝手な都合で破壊して行く。
「…分からない」
 セイジは呟いた。己の立場についても、この惑星の現状についても。
「そうだろ、IPPOはてめぇが作ったロボットを殺しに、ハンターを寄越すんだからよ。訳分かんねーよな!」
 秀は呆れた口調で言い放っている。何か目的があるに違いない。シン型ロボットには、何か特別な秘密があるに違いないと、セイジには思えていた。
「その為にも組合が必要なんだよ」
 言いながら遼のテーブルに肉料理を運ぶシンを、セイジは無言のまま目で追っていた。もし彼に何か秘密があるとしたら、それは己に必要なものだろうか、と。



 店の外はまだ暗いと言う程ではなかった。
 A市街の煤けた家屋に反射する鈍い光が、斜めに射して目には煩く感じられる、ありきたりな夕方の様子を呈していた。これが人工的にプログラムされ、管理されている現象のひとつだと言う。どうせなら目に優しいものにしてもらいたいと、セイジは不粋に思いながらその店を出た。
 右か左か、どちらに足を向けようか迷って、その道端に暫し立ち止まっていた。
「どうするんだ?」
 彼の後に続いて店を出た秀は尋ねる。店に居る間に話し合ったのか、監視役には彼が着くことになったようだ。そしてセイジは懐から、先程借りて来た紙束を取り出すと、
「ああ、折角彼が貸してくれたから、誰かに会ってみようと思う」
 と妥当な返事をした。まあ、そのくらいしか行動の当てもないだろう。
 すると彼が歩き出す前に、秀はその行く手を阻むように立ち止まり、セイジに対し確と正面を向いて口を開く。
「なあ、俺からも一言言っておくが、」
 重々しく念を押すように続けられた。
「タイガー・バーのシンに手を出すなよ。同じロボットはあちこちに沢山居るがな、あのシンは俺達の大事な仲間なんだ。何かあったら許さねぇからな!」
 そして秀の見詰める瞳は、それが正気の思考で出された答だと、淀みなく訴えているようだった。
 確かに、彼等は「ロボットを壊すな」とは言わない。まるで普通の人間を指すように、「シンを殺すな」と言う。それだけ彼等の日常の中に、或いは町の自警団の結束の中に、『タイガー・バーのシン』と言うロボットの存在が、貴重なものになっているのは判る。それは判るけれど、
「何故そんなに私を疑うのだ…?」
 彼等の説明からすれば、己はハンターらしい特徴を持ち合わせていない。それより、誰よりシンと言う人に会いたがっているだけだ。唯一無二の記憶を取り戻す為に。
 セイジはそう考えながらも、黙って秀の返答を待っていた。そして、
「別におまえだからって訳じゃねぇよ。誰だったとしても、知らない人間は信用できねぇってだけだ」
 素っ気なくそう言って、彼は止まっていた体を返して歩き始める。
 その内容なら少なくとも、無駄に相手を傷付けることはないだろう。セイジに対する疑いが消えた訳ではないが、今はその程度の気遣いをしてもいい。秀はそんな心境に至ったようだ。自分達にも苦悩があるように、彼にも苦悩する事情があると知って。
 だからセイジも、秀の良心を信じることはできた。
「そうだな…」
 常に危険から町を守る為の活動に、迂闊な油断や同情をするべきではない。その程度のことは誰にも理解できる話だった。




つづく





コメント)初めてSFらしいSFを書いてます。と言うか、自分は元々SF好きなんだけど、細かく状況設定を作るのが大変な分野なので、これまで敢えて書かないでおきました。結局あんまり半端なものを書くと、自分が書いててつまらなくなって、続けるのに苦しむのが落ちですからね…(苦笑)。うーん、今のところわくわくして書いてます。


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