祭の夜
歌 垣
#3
Feast the Encounter



 氏上の館もこの夜に溶け込み、ひっそりと静まり返っていた。
 セイジは今ナステイに教えられた裏門に立ち、その番に当たる奴に、氏上館で使われる特別な挨拶の言葉を聞かせている。ここでは挨拶にも特殊な作法があるのだと、彼女に会った際に教えてもらったのだ。いつか友人として招かれる時の為の知識を、それとは関係ない今使ってしまっている。だがこの時セイジは、何か得体の知れない気持に突き動かされ、罪悪感も何も感じてはいなかった。
 門番の奴には、普段見慣れぬセイジにやや妙な顔をしたが、それでも簡単に通してもらえた。だがその門を潜り抜けたすぐ後、
「何者じゃ」
 と、ひとりの老奴がその行く手を阻む。この老人は齢六十近くに見えたが、外に立っていた奴も五十前後と言うところで、成程この氏上館でも、今宵は若者は歌垣に出てしまっているようだった。単純に人が少ないのも有難いが、若い衆に興味本位で着いて来られたり、力づくで追い出されるようなことがないのは幸いと言えよう。セイジはその様子に多少安心し自己紹介をした。
「伊達のセイジと申す。ここに仕える女官のナステイに話があって来た。私は彼女の弟の友人でもある」
 ナステイに用が、と言うのは勿論作り話だが、そう話すと老奴は暫しセイジの顔やなりを見回し、真っ当な氏人らしさが感じ取らると、それ以上の警戒感は抱かなかったようだ。その後はすんなり道を開けてくれた。
「そうじゃったか。呼んで来て差し上げようか?」
「いやいい、押し掛けて来たのだから私が行く」
 セイジも決して悪人ではない。一から十まで模範的ではないにしても、一般的な若者の真直ぐでひた向きな潔さが、見た目から伝わったなら本望だと彼は思う。形式的な審査でなく、このように人を見て判断してくれるなら、無謀な侵入などしなかったのに、とも思う。
 まあこんな場所まで来て、国の政治に文句を垂れても仕方がない。セイジは早速館の居住区の方へ踏み入れようとした。大体お屋敷と言うものは、風水学の関係上何処も構造が似通っている為、聞かなくとも居住区の方向くらいはわかるものだった。すると、
「ナステイ様のお部屋はそっちの庭を回った南端じゃよ」
 と、老奴は親切にも行き先を案内してくれた。目の前には大きく三棟に分かれた住居群があり、北、北西、西にそれぞれ配置されている。その西の棟の南端がナステイの部屋、つまり西の棟は女官達が暮らす棟、と知ると、セイジは事を簡単にする為に、それ以外の棟も確かめようと思い付く。本当の目的はナステイではないのだから。
「ちなみにこっちは?」
 セイジが手前の、最も部屋数の多そうな棟を指して言うと、
「ここは儂ら奴の部屋じゃ。ナステイ様や高きお方々は皆向こうのふたつの棟。神官様方は今は歌垣に出払っているがな」
 老奴はそう答えた。そしてセイジはその返事を推理しながら、
「そうか、有難う」
 と返し、ゆっくりとした動作でまた歩き出した。間違いなく西の棟は全て女人の部屋だ、何故なら奴の若い衆と、年頃の女官や巫女が近くに暮らすのは良くない。手前の奴の棟と、女人の棟の間に、男の神官と長が暮らす棟を配置している筈だと思った。
 ならばゆるりと西に回る振りをし、壁の陰に隠れたら壁伝いに潜み、北西の棟の廊下にこっそり入ることにしようと、セイジは考え通りに歩を進めて行く。焚かれた薪の明かりに伸びた陰で、行き先がばれないよう気遣いながら、彼はその目的の棟に辿り着く。
 北西の棟は静かで、全くと言って良いほど人の気配はなかった。
 神官達は出掛けていると知っているものの、もしかしたら長も何らかの事で不在かも知れぬと、セイジは身に運があらんことを祈りつつ、ひとつひとつの部屋を確かめて行った。
 この時代の住居内にはまだ戸と言うものはない。間口には簾を掛けているだけなので、中に人が居るかどうかは目視ですぐ確認できる。北西端の部屋、不在。そこは誰かの居室ではなく、館の人々が集まる部屋のようだった。その隣の部屋、不在…。
 しかし、更に隣の部屋の御簾の向こうには、敷かれた布団に横たわる誰かが居るのを見付けた。外からの明かりで影となり、どんな人物かは全く判らない。セイジの予想ではこの棟に居るのは、今夜は氏上主である長ただひとりの筈だが、例え誰であったとしても失礼のないよう、弁えた振舞をしなければと身を改める。不法侵入の上に不作法では、自ら余計な悪印象を与えかねない。
 今後もしかすれば、友人として会う機会を許されるやも知れぬ。神官の耳に要らぬ不祥事が伝わらぬよう、氏上館の住人には印象良くしておかなければ…。
 セイジはその部屋の前で膝を着き、頭を深く下げ、絞った声でまず一言声を掛けた。
「氏上主様…」
 すると、まだ夜に入ったばかりの頃であったせいか、部屋の主がごそごそと身動きしている音が聞こえた。そのまま様子を窺っていると、その内動きは止まり、
「誰です…?」
 と微かな返事が聞こえた。それは若々しい少年らしき声だった。神官達の正確な年令は知らないが、こんな鈴の鳴るような声をしているとはあまり思えない。如何にも体の弱い長らしい様子だと、セイジは判断し思い切ってその場を立ち上がると、その御簾を身の丈まで持ち上げた。
 手に汗の滲み出す行動に出たセイジ。驚き身を固くするシン。
「失礼を承知で…」
 しかしその途端、セイジは言おうとした挨拶すら中途で止めた。御簾が外され外の明かりに照らされた部屋に、薪の朱に染まる衣を纏ったその人は、想像していた長の姿とはかなり違っていた。何故なら彼は、美丈夫であるセイジから見ても麗しく、少女と見紛うような顔立ちをしていた。顔の輪郭や首筋が光に縁取られ、神々しくも、また艶かしくもあり美しかった。
 だがそれを言葉として、頭で考えている訳でもなかった。セイジは今、息をするのも忘れたように止まっている。相手もまた目を見開いて止まっていた。
『え…?』
『誰…?』
 そうして暫く、お互いに驚き見合っている内に、何とかセイジは一言用向きを伝えた。
「お、お話ししたきことが…」
 否、伝えようとしたのだが、もうまともに議論することなどできそうもなく、ただただ胸の詰まるような思いを感じるばかりになった。頭は既に真っ白で、理論的思考は何も浮かんで来ない。必要以上に高鳴る鼓動の音が妙に身に響き、耳許に煩く鳴り続いている。この無言の拘束を生んだ状況、こんな状況になるとは予想できなかった。全てはこの国の長である氏上主のせい…。
 セイジは、まさかこんな所に来て、己に取って魅力的な人物に出会うことがあるとは、その偶然に、或いは奇跡に喜ぴ始めていた。言葉で意識するより前に、既に血肉が熱く騒ぎ出しているのを感じた。その情熱は今にも皮膚を破り、外に飛び出してしまいそうだ。そして目の前に座る人を搦め取るだろう。この夜の出会いから生じた流れは、神のお導きとして止められないと思った。
 彼はもう恐れを忘れて近付き、相手の肩に手を伸ばした。それからは数を数える程の間もなく、あっと言う間に相手を抱き竦めてしまった。
 腕の中で息衝く別の鼓動が、強く早く今の心境を伝えて来る。驚きと戸惑いと、好奇心のような一抹の喜びの沸き上がる中で、シンは命の危険だけは感じないことに息を吐く。身動きは取れぬが、相手の動作にはそれなりの配慮が感じられた。逆光で、姿形が如何なる人物かもまるでわからないが、気分を害する相手だとも思わなかった。
「あ…、の…」
 と、漸く言葉を発すると、セイジはそれを聞き付け少し腕の力を緩める。それで、相手が言うことを聞いてくれると知ると、シンは少し相手の顔の方に自らの顔を向け、
「あなたは誰…?」
 と尋ねた。セイジもまたその声に顔を傾け、シンの頬に自分のそれを押し当てるようにして、今、素直に感じる気持のままに答えた。
「伊達の、セイジと言う、…山の神に導かれて来た者」
 祭の夜の幽玄に恋のさざめきを感じ、堪らず動いた結果、出会えた偶然は正に神の業だとセイジは思う。髪の毛一筋についても知らなかった、理想的な相手がこの国の長であったとは、と、彼の言葉は只管驚きと感動に溢れている。
 するとシンは不思議とその言葉を自然に受け入れ、再びセイジを驚かせた。
「ああ…、今夜は歌垣の祭だから…」
 否、本当は不思議でも何でもなかった。氏人達の歌垣への憧れは、いつの時代も割合普遍的なものなのだ。セイジの同僚のシュテンでさえ、型通りの品行方正な人物でありながら、その古代的で奔放な恋の祭を羨んでいる。国の社会に縛られる経験をした者は皆、自由で自然な営みに憧憬を抱く。例えそれが氏上主であったとしても、寧ろ氏上主であるからこその、強い束縛が心をそう動かすことは、自然な成り行きかも知れなかった。
 私達は歌垣に憧れている。私達は山の神に触れ、そのお導きの力を感じる時を切望している。
「僕はあなたと縁があったんだね…」
 シンはそう言うと、それまでだらりと垂れていた両手で、控え目ながらセイジの背を抱き止めるようにした。言葉と共にそれは何よりの許容の合図だった。もう何があろうと、彼は許してくれるだろうと感じ取ると、その後は祭の盛り上がりのままに、或いはセイジの抱く切なる欲求のままに、床に倒れ込む以外になかった。

 歌垣の祭は妖しき夜。全ての本能的な恋であり、欲であり、愚であり、猥雑であることを包含し、人としての尊厳を忘れながら燃え尽きる夜…。

 そして明日への新たな命は明るく輝くのだ。



 翌日の朝。
 セイジは眩い朝日の中で、初夏の透き通った新しい一日を迎えていた。まるでこの朝が世界の始まりのような、ある種感動的な寝覚めにも思えたせいか、任された集落の見回りも気持良く務められた。人家は昨夜の祭など無かったかのように穏やかで、また平坦な日常がこれから続いて行くことを思わせた。部民も奴の衆ももう誰一人、浮かれ騒ぐ者は居なくなった。
 平坦な日常、或いはそう見えて火種の燻る日々の始まり、かも知れない。何故ならこれからあちらこちらで、生まれ来る子供の産声を聞くことになるだろう。
 そしてセイジも、気持の良い朝の情景とは対照的に、心の中には奇妙な思いが渦巻き、とても晴れ晴れとした状態ではなかった。昨夜、望んでいた話は何もできなかったけれど、望んでいた人には会え、話す以上の出来事があった。その体験は人生観を大きく変えてしまうものかも知れないと、彼自ら意識するものだった。それはそうだろう、この国の治世的要である長に、こんな形で交わることになるとは思ってもみなかった。
 あの人は美しい。あの人は優しい。この手の中に感じた暖かさや柔らかさを、国の政治と同一に考えることはできない。目的は何だったにせよ、歌垣の夜にひとつの恋が芽生えた。それが私に取っての真実であり事実だと、セイジはゆらめく気持をただ見詰めている。
 それとも全て、歌垣の見せたの幻だったのだろうか?。山の神が与えた一夜の贈り物、祭への熱狂が生んだ幻想だったのだろうか…?。
「どうしたんだ?、惚けた顔をして」
 セイジがある民家の前に立ち、些かボーっとして立っていると、そこに通り掛かったトウマが声を掛けた。そんな普通の呼び掛けにすら、機敏に反応できずいたセイジは、
「あ…。ああ…」
 殊にゆっくりとした動作で頭を下げる。当然トウマはそのおかしさにすぐ気付いた。覇気のない語調だけでなく、自分に頭を下げたことなどない相手が、人違いでもしたような様子で会釈する。そしてセイジの顔は何処か夢見心地にも思えた。はっと息を飲むと、
「おまえまさか、本当に歌垣に参加したとか言わぬだろうな?」
 と、慌てたようにトウマは言った。
「いや…」
 そのセイジの一言で、ひとまずホッとしたトウマだったが、返事の割に何か踏ん切れぬような、すっきりしない態度は余計気になった。セイジと言う人間は昔から人当たりがはっきりしており、例え悩み事でも歯切れ良く話す人間だと、トウマは子供の頃から知っている。彼の異変を感じずにいられる訳もなく、もう一言深く尋ねてみるかと思ったが、その前にセイジが、
「それはないが、聞いてくれるかトウマ」
 神妙そうな様子でそう話し掛けていた。それを快くトウマは受け入れ、
「聞こう。何か問題になることでも起こったか?」
 そう返してセイジの事情を聞き出すことにした。彼がこんな風に変容してしまうほどの事態だ、余程の事があったに違いないと、トウマは至極真面目な態度で耳を傾ける。そして、
「私は昨夜…、とても不思議な体験をしたんだ」
「不思議な体験?」
 セイジは昨夜の出来事を、感情的な部分は省略しながらも、事細かに話して聞かせた。歌垣の仕組みに着いて長に話したかったこと、ナステイから長の様子を聞いたこと、そのナステイを口実に夜中に氏上館を尋ねたこと、そこの老奴が通してくれたこと、神官達は歌垣に出て居なかったこと、そして氏上主のシンに出会ったことを…。
 だが、
「馬鹿な!、押し掛けて行って長に会っただと!?、そんな勝手なこと…!」
 トウマはそのあまりにも唐突な内容に、思わず声を荒げて驚く。それをセイジは取り敢えず、
「しーーーっ!。大声を出さないでくれ」
 と言って落ち着かせた。そこまででは自身の感じた不思議の本質に、まだ辿り着けていない為、セイジは何とか穏やかに話を続けようと必死だ。またトウマも彼の態度を見ると、話にはまだ続きがあると知って、今一度襟元を正すように返した。
「ああ…、…それで?。会ってどうなったんだ、話はできたのか?」
 トウマはそう、至極当然の質問をセイジに返すと、
「話もまあ、できたが…」
 セイジもまた、特に包み隠さず事の経過を話した。即ち館に忍び込んでシンに会い、その姿を初めて見て、途端に言葉を失うような恋を感じたことを。長として敬うべき相手に失礼かも知れないが、その気持は押さえようがなかったこと。そして触りだけその後の情事についても話し出すと、
「なっ…、貴様そんな無礼な!。いや!、よくそんな事が許されたな!?」
 トウマは声こそ絞っていたが、表情、身振り手振り、全てでその驚愕の事実を表現していた。否、驚くだけでなく憤りの震えさえ感じ、顳かみに汗が浮き出す程だった。勿論そうなるだろう、あまつさえ会うだけで敷居の高い相手と、いきなり肌を触れ合わせたと言うのだから。セイジは何たる恥知らずだ、否、それ以上に長は何故それを受け入れたのだと。
「そう、だから不思議な体験だと…」
 しかしセイジが改まってそう続けると、その大人しい様子には怒りを収め、
「う〜〜〜ん…」
 トウマは暫し、文字通りに首を捻って考えた。長がセイジを不審者と看做したなら、警備の奴を呼び付け対処した筈だ。そうしなかったのはまあ、征士の礼儀正しさや人柄に拠るところかも知れない。呼べぬような酷い扱いをしたなら、今ここにセイジは存在しないだろう。ただ、初対面の人間に突然触れられるなど、長でなくても普通は不快な事の筈だ。何故そう感じなかったかは恐らく長の中にある、某かの…
「もしかしたら、長はお淋しい思いをされていたのかも知れぬ。そうでなければ貴様なんぞを、そう易々と受け入れはせぬだろう…」
 セイジの話を、トウマはまずそのように解釈した。確かにそんな面もあるのは間違いなかった。シンは館の外に友人らしき人は誰も居ない上、結婚などの話も全く聞かれない身だからだ。するとセイジは、
「だから私は、山の神のお導きではないかと思っているんだ」
 一連の出来事についてそう述懐する。どう考えても神憑かり的な流れにしか思えぬと、本人が言うのだから正にそうだったのだろう。それについてトウマは、
「祭とは別の『ふたり歌垣』か?。面白いことを言う」
 フンと口先で笑った。だが笑いつつも、セイジの心境は理解できなくもない様子で、もし本当に神の力を感じる事があれば、そんな驚きと戸惑いに満ちるものだろうな、などと考えていた。
 しかし、セイジ側のことはともかく、シンについては本当に理解できないとトウマは言う。
「それにしても…。長は神官のひとりに加わる神聖な存在、しかも男だと言うのに、何故そんな…」
 そう、女人ならともかく、何故長はそんな気になったのだろう?。トウマは無論、長がどんな容貌をしているかなど詳しくは知らない。セイジが言うほどに魅力的な人物だったとしても、男には違いないのだから、同じ男に組み敷かれるなど堪えられないと思うのだが。男と女ではそもそも体の作りが違う。情事と言えどそう簡単なことではないと思えた。
 或いは、神と同列に語られる立場を穢されたと、怒りはしなかったのかとトウマの疑問は続く。その難解な問題に対し、セイジは更にもう少し話をした。
「それも不思議な話なんだ」
「何が?」
 トウマが尋ねると、セイジはやや躊躇いつつも、相手の耳の傍に口を寄せ小声で伝えた。
「それが…、まるで女人のように、すんなり分け入ることができてな…」
「分け入るって、…あのこと?」
 それで理解できるだろうと、セイジは敢えて答えず、その最も不思議な体験を最後にこう纏めた。
「実は長は、男だと言われているが本当は女なのではないかと、どうも腑に落ちないままなんだ。一体昨夜は何が起こったのかと…」
 腑に落ちないと言うのは、シンの体が普通でないことを知ってしまったからだ。そう、母親に忌み嫌われている理由、滅びの象徴と言われる理由が正にそこにある。シンは一見男性のようだが、女性の体も持っているようだと、セイジは後になって思い返している。その時は明るくない場所でのこと、確と目に捉えられた情報はあまりなかったが。
 ただ、そんな氏上が表舞台に立つのは難しいと、セイジもトウマもが想像ができた。しばしば性別の怪しい子供が生まれるとは聞くが、成人してもどちらとも言えない者は稀だと言う。そうした場合は大抵、生殖機能自体が働いていないことが多い。つまり滅びの象徴、と言う訳で、国には不吉な後継者となってしまったようだ。恐らくそれがお淋しい理由なのだろうと、トウマは納得して答えた。
「ふーん…」
 けれど、衝撃的な話をしたつもりが、意外に落ち着いているトウマを見て、
「…そこは驚かぬのだな」
 とセイジが尋ねると、まさかそんな展開になるとは、と言う話をトウマは後に続けてみせた。
「おまえ、それこそ神の業かも知れんぞ?。いや長は本当に神の力を持つのかも知れぬ」
「どう言うことだ」
「亡き長、カオスはシバイ神の生まれ変わりと言われていた。正に破壊的な力と、説得する言葉を持って君臨した長だった。そしてその息子は、天竺の言い伝え通りだと、アルダナリ神と言うことになる」
 まだ書物などはないこの時代、木簡に書かれた文書や伝聞により、少しずつ伝え聞くことができる遠い異国の神の話。その神がこの日の本に渡来し、カオスと言う優れた国長として降臨した。だからシンはその息子の神である可能性が高い、と、トウマは大真面目な顔で話す。
「アルダナリとは?」
 初めて耳にする名称に、セイジが関心を持って尋ねると、トウマはそれこそ得意そうに説明してくれた。
「半身は男で、半身は女と言う神さ。シバイ神の分身とも言われている」
「半身は女…」
「それはつまりどちらでも使い分けられると言うことだ。神としてその時必要な方に、姿を変えると言うことだろう」
 どうもトウマは仕入れた知識から、無性の長を神格化したがっているようだった。まあある意味性が無いと言うのは、動物的穢れを知らぬ清らかさを感じさせる。俗世とは縁遠い所にひとり、高い心を持って座している神を想像させる。ただ、
「そんな、それでは長は正に…」
 セイジが漸く恐れと言うものを感じ始めると、トウマはずばりその言葉を口にした。
「本当の神の子だ。だからおまえは引き寄せられたんだ」
 神のお導きを感じたい。ただその一心で歌垣の祭を語ろうと出向いた、その場で神そのものに触れてしまったとしたら、今はどう考えて良いのか判らない。昔話の女神達は、地に溢れる子供を産み落としたと言うが、誰かと交わらなくとも子を産むのが神と言うものだ。では昨夜の出来事は何だろう?。単なる恋の遊戯、恋の祭の中でのお戯れに過ぎない、のだろうかとセイジは悩んだ。
 何故なら、決してあの時の気持は遊びではなかった。長に取ってもそうであったと信じたかった。
『夜が明け切る前に出られませ。見付からぬ内に』
 情事の後、火照る体が涼むまでの時の経過を楽しみながら、ふたりは床の上で抱き合っていた。遠く微かに楽の鳴る音が聞こえ、祭の夜の楽し気な様子が伝え聞かれた。その中でいつまでもこの、満ち足りた幸福感を手放したくないと感じた。永久に祭が続けば良いのにと思った。だが長は私の身を案じ、空が白む前に館を出るようにと促した。
 白の寝巻の乱れた襟から伸びる、細い首と細い手足。潤んだ緑の瞳に赤らんだ頬。その別れ際の彼が何より最も美しかった。そしてとても優しかった。優しさが痛々しく感じられる程に、長はお優しい方なのだと知ると、その別れは一層辛いものになった。
『もうすぐ歌垣の祭も終わります。巷に出ても怪しまれぬように』
 セイジはそう回想して思う。決して歌垣の一夜を楽しむだけの、無責任な遊興ではなかった。少なくともその時だけは誠だとを誓える、置かれた立場をも忘れる、身も心も溶かす恋をしていたと。
 だから忘れ難い、忘れられない。神のお導きとはそんな強烈な思い出を残して行くものだと知った。但し良き思い出が残るだけなら、誰も神を恐れはしない。
「恐れ多くもおまえはそんな人、いや、そんな氏上主と通じてしまって、この後ただで済むと思うなよ?」
「そんな馬鹿な、こと」
 トウマが多少脅すように言ったのは、当然この国の長であり神である存在に、軽々しく近付いた罰があると考えるべき、との助言だ。神々からか、国の大臣などからか、誰からの罰とは正確に言えぬが、それだけの事をして太平楽にされても困る。通してくれたと言う老奴が告げ口するとも限らぬ。自らの心配はしておくべきだと、怒りながらも親切心で話した。
「全く何てことをしでかしてくれる。これが大臣や神官の耳に入れば、本当に唯事では済まされぬぞ。こんなことなら、歌垣に参加するよう勧めれば良かった」
 もう済んだ事を案じても仕方がないが、トウマはとにかく事の重大さを伝えたかった。奈良の都の大君ほどではないにしても、国の長たる者を手込めにするなど、本来あってはならぬことだ。氏人同士の力関係が乱れることあらば、内乱の火種となり、部民以下の人々をも不安にさせることになるからだ。
 取り立てて優れた人物ではない、ひとりの氏人の感情的行動が、そうした問題を引き起こすこともあり得ると、無論セイジは考えもしない話だった。
「済まぬ…。他言無用にしておいてくれ」
 と、今は唇を噛み締めるようにしてセイジが言うと、
「当たり前だ!」
 トウマはその怒声の中に、絶対に口外できないと言う意思を見せてくれた。それで、今は一度安心できたようだが、セイジにはまだずっと、この不思議な体験が尾を引いて残るだろうとも、トウマには解っていた。何故なら、否、何故と言う前に、神は全ての人間の求めて止まぬ憧れだからだ。
 もし神と言う存在に会えたなら、神に触れられたとしたら、それを日常茶飯事の如く忘れることができるだろうか?。
「しかし…」
 最後にそう呟きながらトウマはその場を後にした。しかし、と言って、後は彼の頭の中だけでの問答になるが、恐らく彼が最も得心し兼ねる点は、長は何故セイジを許したのだろうか、と言う辺りだろう。祭の為に人が出払い、警備が緩かったのは判る話だが、長が一言言えば例えセイジでも、無謀な行いはしなかったろうにと。
 ともすればそれが歌垣の与える運命の恋。正に山の神のお導きだったのかも知れぬ、と、トウマもまた不思議な思いに包まれていた。



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 その後、二週間程経った頃だった。
 セイジの元に氏上からの伝達があり、望みは薄いと思っていた、長の友人としての面会が許されることになった。ナステイがうまく推薦してくれたのか、意外に神官が心の広い方だったのか、と思うが、セイジの中でそれらの考えはすぐに打ち消された。何故なら自分は長に名を名乗っている。恐らく長はその名を憶えていて、許可してくれたのではないかと感じた。
 否、もしかしたら勝手な想像かも知れぬ。都合の良いように解釈しているだけかも知れぬ。トウマから聞かされたように、本来はあり得ぬ出来事なのだから、呼び出してお咎めを受けさせるつもりかも、と、警戒した方が良いのかも知れぬ。
 だが、無理にそう悪い方へと考えても、心の何処かで気持が浮き立つ己を、セイジは素直に受け入れてもいた。あの夜は衝撃的な出会いだったけれど、後には日に日に募る想いが残った。この恋心はそれこそ歌垣の神の賜物だ。神のお導きなら少なくとも、私達に悪運を齎しはしないだろうと。
 だから今は、如何なる形でも彼の人に会いたい。そんな時に舞い込んだ面会の許可は、天にも昇るほど彼には嬉しかった。
 あの魅惑的な面差しの氏上主に会える。今度は公明正大に光の中で会える。白昼に見る姿もきっと素敵なお方だろう、などと考えながら、セイジは喜び勇んで支度をし、昼休みも取らずに出掛けて行った。その様子を他の兵士達が、何事だろうと振り返るくらいに、セイジには何らかの力が漲っていた。即ち一縷の望みを強く、太く、より確かな結び付きへと変えたい意思が、今の彼を前へ前へと進ませていた。
 そうして再び、セイジは氏上館の門の前に立った。
 この度も特別な挨拶を。すると今日は若く大きな門番の奴が、セイジの事情を聞いて内部の者と連絡を取っていた。門の奥に頭の白い老神官の姿が見え、どうやらそれが、現在神官の中で最も権威ある人物らしかった。連絡役の奴の女がその人の前に、膝を付き深々と頭を下げお伺いを立てると、老神官は幾度か頷いてその場を後にした。女はそのまま門の方へとやって来て、
「お通ししていいそうです」
 と、セイジには有難い言葉を伝えてくれた。後はその、浅黒く健康的に日焼けした女人の後に着き、面会を許された間に行くだけだった。
 北の棟、北西の棟と歩いて行くと、セイジが通された部屋はあの夜、誰も居なかった北西端の部屋だと知った。その時は暗くてよく判らなかったが、今見ると大きな鹿革の敷物に猫足の椅子、部屋の隅に珠や織物が飾られた、立派な来客室と言う趣だった。そこへ正式に通され、座って待つ間のセイジは、何も考えず無心にその時が来るのを待っていた。
 俯いていた耳に複数の足音が聞こえる。こちらに近付いて来る時を、高鳴る心臓の鼓動もまた待ち焦がれている。初めに簾を潜ったのは先程の老神官だったが、その後に、その人は酷く優し気な瞳を向けながら姿を現した。その後にもうひとり誰かが入って来たが、最早セイジの目には入っていなかった。
 そして三人が席に着くと、まず老神官から、
「伊達のセイジ殿、シン様の友人にと名乗り出て下さり、心から感謝致します」
 そのような挨拶があった。既に食い入るように相手を見ていたセイジは、うっかり返事すら忘れそうだったが、どうにか意識を現実に引き戻して返した。
「いえ…、こちらこそ不躾な申し出をお聞き下さり、ありがとうございます」
 返事を忘れそうになる程、他の何も目に、耳に入って来なくなる程、その再開はセイジには感動的なものとなった。何故なら長は、セイジが思い描いていた姿とはやや違う、上品で可愛げのある顔立ちに、豊かに血の通った薔薇色の頬が、健康的な輝きをありありと見せ付けていた。健康上に問題があると聞いていたが、とても信じられなかった。
 また、そうした想像と実際との違いが、逆にこの場の現実感を強くしていた。これが現実、これが紛えることなき現実の恋だと、セイジは自らの思いに嵌まって行くようだった。
 すると、何も言い出さないセイジに、
「僕はこの館から殆ど出られませんから、周辺の季節の移り変わり、集落での出来事など何も知りません。どうか色々なことをお話し下さい」
 シンがそう話した。勿論そんなことは容易い、形式的な言葉に過ぎなかったけれど、セイジはもう全てを許したように力強く答える。
「はい、私でよろしければ何なりと」
 そしてふたりは、気安くとは行かないまでも、会って会話をできる間柄になった。当事者もそうだが、周囲の者にも喜ばしい出来事だったようで、左右に座る神官達も笑っているようだった。
 ただ、セイジが再び顔を上げると、シンは微笑みながらも縋るような目をしていた。その微妙な表情を見てセイジは瞬時に気付く、彼には何らかの助けが必要なのだと。何への助けかは判らない、或いは彼も自分と同じように、自由な恋をして自由に生きたいと願っているのやも、と考える。お互いに何らかの欲望を、お互いの中に見ている。そんな相手になれたのは間違いなく、歌垣の晩があったからこそだった。
 ふたりを見守る老神官ともうひとりの男、即ち神官のリョウだが、彼等にはこのふたりの交わす言葉が、ただ言葉通り厳粛に聞こえているだけだった。だがセイジとシンは、言葉とはまた別の交流をしていた。瞳と瞳の間で交わされる言葉の無い言葉。ただあなたが好きだと、言いたくとも言えぬ単純な気持を乗せ、上辺の会話は午後の神事が始まる間際まで続いた。
 だが今はそれでも良かった。漸く慈しみ合える場を持てるようになったのだから。
 あれからセイジは、もう二度とあの夜が巡って来ない淋しさに、日を追って悩むようになった。ただ会うことさえ侭ならぬ己の身を、辛く噛み締めることさえあった。これまでそれなりの格のある氏人の身分に、特に不満を感じたことはないが、より有力な氏であれば良かったと思うほどだった。そうでなければ長と直接話すなど、簡単には許されぬ筈だった。
 だが今、恐らく長の意向でその夢が叶えられた。長の意向、その内容を考えると、もうある意味この恋は成就したとも言える、そんな幸福感が胸に到来した。だからセイジは、今はこれだけでも満足だった。そしてこれからも、逢瀬を繰り返すように会話を重ねて行きたいものだと思った。

 他の誰より愛しいと思える人と、私は一夜の契りを交わした。その事実が私達から消えることはないのだから。



つづく





コメント)話の中の時間経過の関係で、このページは少し短いけどここで切りました。次のページで終わりなので、まああまり結末をお待たせすることはないですよ(^ ^)。
それにしても、ここで急に一夜の逢瀬だの恋だのボーボー燃え上がっちゃって、意外とこういうストレートな恋愛は書いてなかったな、と、楽しく書いてます。それと、ボーボーと書いて思い出したけど、征伸に炎と言う言葉を使うのも珍しいかな。何にせよ古代の時代の激しさが伝わるといいと思います♪



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