女官との会話
歌 垣
#2
Feast the Encounter



 翌日、初夏の好天に恵まれたその日は、朝から絶好の巡回日和だった。
 セイジは国境近くの林の見回りを命じられ、農兵を除く自身の部隊を連れて出掛けていた。近隣の国々は、我が国の勢力に一目置いているとは言えど、何かしら不備があると知れば攻めて来ないとも知れない。今は殺るか殺られるかと言う時代であり、日々の見回りには常に注意が払われている。
 特に権勢を誇った前長カオスも昨年亡き者となり、或いはその時から、虎視眈々と侵略の準備をする集団も居るやも知れない。今の大臣に手腕がないとは言わぬが、あまりにも偉大過ぎた前長の存在が、今の国の情勢を物足りなくさせているのは確かだった。
 そして、病弱であると言う現長が、早く適任者と交代してくれれば良いのだが…。
 セイジの一団が、仕事を終え戻って来たのは丁度昼過ぎで、多くの人々が茶や水を飲んで軽食を口にし、思い思いに休んでいる最中だった。
 セイジが馬を引いて厩に戻ると、そこには馬頭のアヌビスの姿があり、今日も軍馬の管理に勤しんでいた。彼は代々馬の世話をする家系で、部民の中では格のある方の出だ。だがそれでも氏を持つ訳ではない。官位を持つ者とは比較にならぬ生活をしている。つまり、そうでないと歌垣には出られないと言う訳だ。セイジはそれを理不尽に思いつつ、健康そうな馬頭の男に声を掛けた。
「精が出るな」
「あ?、ああセイジ様か」
 気付いた彼は、部隊長である彼にすぐ頭を下げたが、セイジがそう評する理由は判らないようだった。自身は普段と変わらず働いているつもりで、何を言われているのだろうと言う顔をする。すると、
「歌垣が明後日に迫ってるからな、こやつも浮かれてるのさ」
 厩の奥からもうひとり、よく見掛ける奴が出て来てそう言った。彼はラジュラと言って、生業は楽士だが、暇な時は友人のアヌビスの所にしばしば顔を出す。そして彼も、セイジの言う通りアヌビスは浮かれていると評した。何故なら本来、昼時は目一杯まで休憩し語らっている筈の彼が、この時間に既に馬の世話を始めていたからだ。何か良き事があって、自ずと仕事に力が入るのはよくあることだ。
 しかしそんな様子に笑い合うセイジとラジュラを見ると、アヌビスはやや声を荒げて言った。
「貴様、自分はどうなんだよ?」
 振られたラジュラもまた、確かに年に一度の祭を楽しみにするひとりだが、ここではこんな言い逃れをしてみせる。
「俺は楽を任されてるからな」
 歌垣とは名の通り、まずは歌と調べによって人々の気分を盛り上げる、本番前の大事な楽の時間がある。歌と踊りの先導役は神官と巫女が行うが、楽を奏でるのは楽士の仕事、祭の時には欠かせぬ存在だった。特にラジュラは笛の名手である為、何らかの催しの度に駆り出される。奴と言ってもそんな才ある者も居て、国にはひとりひとりが大切な財産だった。そこで、
「楽を任されると祭に参加できないのか?」
 と、セイジがラジュラに尋ねる。待望の祭で専任の仕事を任されては、思うまま祭を楽しめぬのではないかと、多少その不遇に同情する気持だった。だがそんなセイジの気遣いはまるで見当違いだと、アヌビスは憤慨するような口調でこう続けた。
「そんなことはないぞ、楽が終わればこやつは率先して誰より遊んで回る。全く不真面目極まりない調子でな」
「不真面目なんてなァ」
 続きを聞けば、セイジに取っては逆に羨ましいような存在だった。真面目か不真面目かは別にして、松明の明かりに照らされる祭の中、これと思った相手の手を次々、手当り次第に渡って行く光景がセイジの頭に浮かんだ。それはまるで数多の運命の押し寄せる夕波だ。跡に残される波形はさぞ面白い模様だろう。またその中で本当に求める相手に出会うこともある、現実的な魅力のある祭だと改めて思う。
 ただ、アヌビスの言に頭を掻いているラジュラは、多少後ろめたい思いも持っているようだ。出会いを促す祭で、多くの出会いを求めて何がいけない?、と思うセイジが、
「おまえの言い分は?」
 と、ラジュラに今一度尋ねると、彼はやや躊躇いながらも訳を話してくれた。躊躇ったのはセイジが、歌垣の現場を知らぬ氏人だからに他ならない。
「言い分ってほどの理屈はない、歌垣は元々乱交の場だと聞いたし、俺はその通りにしてるだけだ」
「乱交…?」
「そうさ、色んな者がくんずほぐれつに入り乱れる饗宴だ。山の神がそれを見て面白がり、その見返りに色んな子供が生まれて、国が豊かになるんだとよ」
 それは単なる巡り会いの宴ではない。勿論後に結び付く相手に会うこともあるが、それ以上に野性的で官能的な恋の祭だ。ある意味で人間の下劣な欲望の有様と、それでも逞しく生きている様を、有りの侭山の神に見てもらうと言う、混沌とした儀式なのだとセイジは新たに知った。否、その話が本当なのか真偽はまだ解らない。より詳しい誰かに話を聞いてみたいと、セイジの心は俄に色めき立った。
「誰に聞いたんだ、そんなこと」
 だが当のラジュラはもう忘れてしまっているようで、
「さあ誰だったかな?、年長の者だったと思う」
 と、曖昧な返事しかしなかった。もしかしたら部民以下の共通認識なのかも、と思い、セイジはアヌビスにも尋ねるが、
「誰なんだ?」
「え?、俺は知らん。ラジュラに聞いた話だからな」
 結局彼もラジュラ経由で知った話らしかった。
 古の遠き時代より人は集落を形成し、各地に段々と人が増え、新しき国と言う形を形成して行った。人は数が増えなければ発展しない。その為にも歌垣のような仕組みは必要だった。今もまだ、国力を維持する為に必要な行事なのだ。それがこんな、どろどろとした神秘を以って人を魅了するのは、正に火山に沸き立つ溶岩のように、力強い命を感じさせるからだとセイジは思う。
 正にそんな滾る情念の荒れ狂う中で、運命と言える人に出会えたら素晴しい。火の粉の舞い落ちる荒々しい自然の中で、本当の己と、本当の相手が見える恋ができるなら素晴しい。何故ならそれが人の持つまっさらな欲求ではないか。そう、素直に考えられた真昼のひと時だった。

 厩を出ると、丁度セイジの元にやって来た家の奴が、握り飯を持って来て渡してくれた。それを持ち、昨日父親と話した広場に出ると、その木陰に座り早速軽食を摂り始める。遠目にはセイジと共に見回りに出た、同じ部隊の兵士も数人居て、皆落ち着いて骨休めする様子が長閑だった。氏を持つ者の生活には何ら変化はなく、明後日を楽しみに待つ様子も全く見られなかった。
 そこへ、聞き覚えのある男の声が響く。
「伊達のセイジ、林の様子はどうであった?」
 声を掛けた主は、セイジと同じ部隊長を任される若者でシュテンと言った。セイジの家とほぼ同等の武官の家系の者だ。
「ああ、特に変わったことはなかった」
 とセイジが答えると、シュテンもまた今のところ平穏無事であると伝えた。
「そうか、私の行った川岸の方も、川向こうに不審な動きはなかったな」
「それは何よりだ」
 そうしてふたりは木陰に並んで座ると、穏やかに今日の見回りの報告会でもする風であった。否、一見そう見えたが、実はシュテンはある事を話しに、わざわざセイジの傍に寄って来たのだった。その話とは、
「ところで、嫁を取れと言われたそうだな」
 と言う訳である。シュテンも現在十八才と年頃の身である為、その手の話題に関心があるのは間違いない。自身にも何ら悩むところがあるのか、セイジのその話題を面白そうに尋ねて来た。
「何でそんなことを知っている?」
 口に含んだ水で咳き込みそうになりながら返すと、
「昨日トウマに会ってたまたま耳にしたんだよ。おまえが歌垣に参加したがっているとね」
 その経緯を聞いてセイジは、まあトウマなら面白可笑しく話したとしても不思議じゃないと、些か青褪めながら納得する。そのような話は、あちこちでぺらぺら話してほしくはない。個人的にそんな思いがあろうと、社会的に奔放と見られるのは良くないと考えるからだ。特に父の耳に入れば何と言われるか、一刻も早く結婚しろと言われ兼ねないと、俄に不安にもなりながらセイジは答えた。
「ああ、まあ…」
 けれどそんな冴えない様子のセイジとは対照的に、清々しく笑いながらシュテンはこう返した。
「フフ、そんな気持はわからなくもない」
 その言葉はあまりにも明朗快闊で、一瞬セイジには意味が取れなかった程だ。氏人の中に自分の他に、歌垣に憧れる人間が居るとは思わなかったと、セイジは徐々に目を見開き尋ね返した。
「え…、おまえもそう思うか?」
 するとシュテンは、正にセイジの思う通りのことを口にし、思想に迷う彼の気持を少しばかり落ち着かせてくれた。
「ああ、毎年民人の騒ぎようを見る度、氏人だと言うだけで、何か機会を逸している気がしてな」
「そうなんだ、私もそう思っているんだが、トウマには理解してもらえなかったようだ」
「あいつは理性的に事を構え過ぎな面があるからな」
 そう言われれば全くその通り、トウマは道理だの理念だの、社会の流れだの、そんなことばかり口にして、人の本質を見ようとしない所があるとセイジは思った。理想を語るのはいい、正しさとは何かを追求するのも良いと思う。だが人は皆その通りには生きられないものだ。また、その通り生きても必ずしも幸福にはなれないものだ。何故なら人の心の中にある獣の部分が、常に理性的思考に反発するからだ。
 人間とは不思議なものだ。野の獣ではないと自らを区別して生きる割に、かなり努力し己を律しなければ、理想的な人間で居られないのだ。或いは、しばしば息抜きとして己の獣を解放しなければ、人間の部分まで獣に毒されてしまうことがある。つまり自己の中での調和が人には必要なのだ。
 だから歌垣と言う祭は、格好の解放の場として人々が待ちわびる。その時だけは野の獣と同じに、後先考えず欲求のまま生きられる。人が人で居る為に。捌け口を用意し社会を健全に保つ為に。そう考えれば考える程大切な行事だと、セイジは増々その存在意義に魅了された。
 山の神の何と偉大なことか。人の賤しい性を嘲り笑いつつも、切に希望するものを与えてくれると言うのだから。
 そこで、笑う神の姿を想像したセイジは、ふと先程耳にした話を思い出して言った。
「そう言えば、聞いたことはないか?」
「何を?」
「歌垣とは元々縁結びではなく、乱交の場だったと言う話だ」
 真面目な人物であるシュテンに、そんな話題を振るのはどうかとも思ったが、気持を同じくする彼に敢えて尋ねてみた。すると、
「ああ、ラジュラに聞いたのか?。以前私の家に居た老奴が話してくれたんだ」
 意外にもシュテンは、曇りのない明るい調子でそう答えた。その時セイジははっと思い出したが、ラジュラはこのシュテンの家に出入りする奴だ。そのふたりが同じ話を知っているのは当然だった。なので、
「それはどう言う話なんだ、良ければ私にも詳しく聞かせてくれ」
 強く懇願するようにセイジは言った。何しろその事実を知っていて、涼しい顔をして居られるシュテンに、驚きを隠せない状態だった。元は醜悪とも杜撰とも言える乱交の祭だった歌垣が、それでも支持され容認されて来た理由が、彼の中に存在する気がしたのだ。そしてシュテンは、まずざっくりとした成り立ちの話から始めた。
「なに大したことではない、私も詳しいことは父に聞いたが、歌垣の本来の意味は、優れた子を多く残そうと言うことなんだ。決まった妻との間に数人の子しか生まれないのでは、健康で優秀な人の数はそれほど増えぬし、弱い子供はすぐ死んでしまうからな」
 そこまでは、昨日トウマに聞いた話と特に変わらない。セイジは関心を持って更に尋ねる。
「ならば氏人の子が増えた方がいいのではないか?」
 すると、その続きには正にセイジが知りたがっていたことが語られた。
「そう、だから昔は身分は関係なかったんだそうだ。部民以下の祭となったのは、四代前の長の時だそうだ」
「そうだったのか…」
 仕組みとしておかしいと思えば、百年程前には誰でも参加できたと言う話だ。それは部民以下の人間の間にも、氏人の血が入ることであり、それにより国の結束も高まって行くものだっただろう。誰もが同じ山の神の元に暮らす一員だと、お互いをより身近に感じられていただろう。その感覚が失われつつある我々氏人は、神から離れて行く淋しさを感じるばかりだ、と、セイジが考えていると、
「本来なら、神のお導きは平等に我々にもある筈だがな。いつか汚らわしいと言われ始めたことで、氏人は参加しない決まりになった」
 セイジの思いに同意するようにシュテンは続けた。その思わぬ意識の同調に、セイジは相手の気持がよくよく理解できた気がした。我々は、なにも乱痴気騒ぎをしたい訳ではない。結果的にそうなるのは単なる過程に過ぎない。我々が見ているのは山の神が齎す人生の輝きだ。導かれた強い絆によって、結ばれる相手はどれ程神掛かって見えるだろうと、神秘の力に触れたい一心なのだと。
 そして、今は民人より神から遠い己を、悔しく思いながら生きるしかない。生活水準が守られる立場になったことで、逆に氏人から失われるものもあった。それが山の神の存在。その尊いお導きを捨ててまで、官位など言うものにこだわる意味は、セイジにはやはりどうしても解せなかった。
「だが四代前までは参加していたのだろう?」
 と、セイジが食い下がるように問うと、シュテンはその状況をこんな風に説明した。
「ああ。今は品だの何だのを考える余裕ができたが、昔はとにかく人を増やすことが最優先で、身分などお構いなしだったのだろうな」
 遠く燃え盛りながら過ぎ去った古の世。その遥かな命の炎は我々の血の中に存在し、自然と神との関わりを今も教えてくれる。特に人への恋心を感じる時には、顕著にその事実が現れ、抗えぬ熱病のような情愛がこの身を包む。だのに、新しき国はそれを否定して遠ざけた。それが善き事だと思うからそうしたのだろうが、それは結局、人の進歩に神は必要ないと定めたようなものだ。
 善き事か、正しき事か。否、絶対にそんなことはないと、セイジは厳しく何かを見据える様子で言った。
「もし…、元に戻せるとしたら」
 その呟きを耳に、シュテンはまた面白そうな顔をしてセイジに返す。
「元の形に戻したいか?。大臣を通して長にお伺いを立ててみるか?」
 例え部民の祭だとしても、国の行事を改革するのは大変なことだ。特に信仰に関わる行事は、人間側の勝手な都合で変える訳には行かない。氏人が歌垣に参加しなくなったことですら、それは大層な決断の許に下された決定だろう。多くの者が幾度も協議を重ね、国が責任を持って行った改革である。
 それでもそんな前例が存在する限り、変更不可能な訳じゃないと、セイジは幾許かの希望を持って話し続ける。
「それで変えられるだろうか?」
「どうであろうな。その前に大臣がそんな話を通すかどうか。特に今の氏上主は信仰に厚く高潔だと聞く。決められた神事を変えたがりはしないだろう」
 そう言われるとセイジは今の長、氏上主が最大の問題のような気がした。現状最高の発言権を持つその人の考えが変われば、事はその方向に流れて行くのではないか。その人に話を聞いてもらえば、国としての考えも変わって行くのではないか。或いは最悪、氏上主を交代してくれれば、次には革新的な長が立つかも知れぬとセイジの心は俄に逸る。そしてシュテンが、
「しかも長はまだ若く、妻も娶っていない。まだ歌垣の祭などに考えが及ばぬのでは…」
 と続けると、セイジは盛り上がって来た意欲のまま、語気を強くしてこう言った。
「それでは困る。私は今すぐ、いや来年までには仕組みを変えてほしいのだ」
 向けられた彼の瞳は真剣そのものだった。一種の遊興として歌垣を捉えているのではない、嫁を取れと言われたことを切っ掛けに、人の熱情的側面を真面目に考えているのだと、シュテンにもありありと伝わる様子だった。そんな相手の態度を見て、
「そんな性急には…、…必死だな」
 やや圧倒されたシュテンが言うと、案の定セイジは、己の身に降り掛かった現実の解決策について、殊に真面目な顔をしてこう伝えた。
「必死だとも。とどのつまり結婚も歌垣の祭も、後に子孫を残す為の儀式なんだろう?。ならば私には歌垣の方が有難い。氏などどうでもいい」
 真面目に、近代的な結婚制度より、古代的で猥雑な出会いの祭の方が良いと訴える、セイジの態度が何やら可笑しくてシュテンは笑ってしまった。例えそう暗に思っていても、ここまではっきり言える氏人が居るだろうかと。
「ハハハ、おまえは自由人だな」
 少なくとも現代に於いては、氏人には氏人としての尊厳と責任がある。民人の上に立つ者としての自尊心を持たぬ者は居ない。セイジにしてもその生活、仕事、思想的な教育などを通し、人に示すべき何らかの風格を持ち合わせている。けれどもその中で彼は、官位があろうとあくまで心は自由、恋することは本来自由だと力説するのだ。それはある意味とても勇気の要ることだった。
 極論だが、人が人を捨て獣の地位に落ちても、至上の恋を求めて生きることを選べるだろうか?。シュテンのそんな疑問に、
「自由と言うか、私はまだ誰にも出会っていない気がするからだ」
 セイジはそう答えていた。確かに人は誰しも探し続けている、己に取って何が最高の幸福か、誰が最高の幸福を与えてくれるか、何処に行けば幸福に出会えるか、何を志せば運が開けるか、連ね始めれば切りがない。その中でセイジは特に「誰」と言うことにこだわっている。その誰かを探し出すことが、彼に取っての人生の命題であるかのように。
 だからお仕着せのような嫁取りを嫌がる訳だ。勿論体制に従うも、従わぬのも個人の生き方だが、セイジがその体制の理不尽を乗り越え、己の思う通りにできたとしたら、その時は大した意思の強さだと賞讃したい。と、シュテンは彼を大分理解できて来たので、
「…誰か、長に話を通してくれる人物はおらぬだろうか」
 セイジがそう言い出したことにも、真摯に考え助言してくれた。
「うーん…、そうだな、宛てがない訳でもないんだが」
 果たしてセイジはその切っ掛けを、上手く己の望みに繋げることができるだろうか。或いは失意に終わるだけだろうか。何事も自ら動き出さねば始まらない。今はただ走り出した感情の導くまま、蜘蛛の糸のような可能性に縋り付くのみだった。



 歌垣の祭が明日に迫った日の夕刻。
 氏上主の館には、前途の通り北に裏門、南に正門が在り、正門からは正規の手続きで公式に訪れる者、裏門からは私用で出入りする身内の者か、館で働く奴が出入りすることになっている。その裏門から出て暫し歩いた所に、神座石と呼ばれ拝まれる大岩が在り、約束通りセイジはその前で待っていた。シュテンが話を通してくれた女官に会う為に。
 実はその女官はシュテンが結婚を勧められている人物で、それだけ懇意であるから話を通せたことを、セイジは本人から直接聞いた。本来は無理難題である事をこうして、手を回してくれたことに感謝しない訳もなく、セイジはこれから会う相手に対し、誠意と礼儀を持って接しなければと頭に置きながら、有難い女神が現れるのを待ち続けた。
 この時代にはまだ時計と言うものは無い。時を知らせる鐘の音なども無い。朝日が昇り夕陽が沈む、その大体の陽の感覚で時を計るのみなので、待ち人がいつ現れるかは正確には判らない。けれど待ちわびるセイジの許に、その女官は約束通り姿を見せた。
「セイジ殿ですね、お話は窺いました。久方ぶりですね」
 現れたのはもうお判りだろうが、シンの教育役であるナステイである。彼女はそう、友人のトウマの姉でもあるが、セイジはごく幼い頃に会った切りで、その後は遠く離れた場所で生活していた。姉弟の父親が立派な女官となるよう早くから、彼女を余所に預けて教育させたせいである。故に今は実弟であるトウマより、結婚を勧められるシュテンの方が親しいくらいだった。
 現状、彼女ほど氏上主のシンに近い女官は他に居ない。セイジには大層幸運な紹介だった。ただ、例えごく身近に仕える人物だとしても、何でも可能と言う訳ではない。セイジが挨拶と共に、いきなり突拍子もない申し出をしたので、彼女は驚き思わず声を上げてしまった。
「呼び出しに応じて下さり感謝する。シュテンに聞いたんだが、あなたは長とはごく親しくされているとか。その、どうしたら長と会って対話できるだろうか?」
「そんな!、直接ご対面させることは、いくら私でも恐れ多くてできませんわ。言伝くらいならそれとなくできますけれど」
 ナステイの驚きようを見て、セイジはそこで初めて、氏上主に会って話すことが如何に難しいかを知った。考えてもみよ、父と共に天竺の神々と同列に語られる長に、それ以下の者が易々と触れられる筈もない。実際氏人である彼も、何かの式典の際に遠目で見ることがあっただけで、お側に寄れた機会など一度もなかった。会う、と言う行為は思った以上に難しいようだった。
「そうか…」
 とセイジは、同じ氏人でありながらその立場、否、身分の違いを知って溜息する。民人に対する差別に悩む場面もあれば、更に上の身分には届かぬ思いに悩む。世の中は侭ならぬものだと考えてしまう。だが、
『それでは駄目だ。どうすればいい』
 行動こそが望む道を開くと、一度心に決めたセイジは、他に何か糸口となるものはないかと、食い下がって話を続けるのだった。
「それなら、今の氏上主とはどう言う人物なのか、教えてくれ」
 考えてみれば、現状の自分はそんなことすら知らない。確かにそれで対話させろと言うのは、虫が良過ぎるかも知れぬとセイジは改まる。するとナステイは、彼の微妙な様子の変化を汲み取ったのか、差し支えのない範囲で快く話してくれた。
「ええ、シン様はとてもお優しい方ですよ。大人しく掟に従い、下々の者にも気配りをされる善き方です」
 今の氏上主は孤独であった。唯一の理解者であり後ろ盾であった父を亡くし、外部には親しい者も居らず、生存する母親には疎まれ続けている。決して本人が悪い訳ではない、今日もこの国の為に真面目に神事に勤しみ、周囲の誰のことも大切に扱っていた。つまり彼の不幸は生まれによるただ一点であり、それが全ての、あるべき幸福を遠ざけてしまっている現在に、ナステイは心を傷め続けている。
 シン様はいつも朗らかでお優しい方です。決まり事を守り誠実に国を思われている方です。彼女は少しでも彼のことを知ってもらい、理解してくれる者が増えるようにと、氏人のセイジには殊に言葉を選んで、正確なことを伝えようとしていた。ただ、
「ご病弱だと聞いたが」
 とセイジが尋ねると、その点については語尾を濁してしまう。
「あ、ええ…、今のご生活の中では特に問題はないのですが…」
「ですが?」
 ナステイは何かそこに、話し難い事情を抱えているようだった。そう、前途の通り本当のところは、健康上には特に問題が無いのだ。ただ正常とは言えぬ状態で生まれたことで、世を忍んで暮らすことを余儀無くされている。そのことを、一氏人のセイジの立場からはどう捉えるだろうと、彼女は自ずと言葉を途切らせた。
「・・・・・・・・」
 だが無論、セイジはそれでは引き下がらない。何らかの価値ある情報を得て帰りたい、その強い意思で今一度ナステイに懇願する。
「どうか是非答えてくれ」
 すると、その熱意に打たれたのか、或いは儚き望みを彼に見たのか、ナステイは慎重な言葉遣いで言った。
「これは、あなたの中で絶対に秘密にすると、口外しないと約束できましょうか?」
 そう言われれば「はい」と言うしかない。相手の様子を見れば恐らく、長に関わる重要な何かを話そうと言うのだから、セイジは有難く頷いて見せ、
「約束しよう」
 ナステイを安心させるように、明瞭な口調を意識しそう答えた。例え如何なる話が出て来ようと、私はあなたを裏切ることはない。その意思表示が確と相手にも伝わったようで、小声ではあったが彼女は、氏上一族の隠された事実をセイジに伝えてくれた。
「幼馴染みのあなただからお話しますけど…、シン様は御結婚はされませぬ。後の氏上主には、お従兄弟様のどなたかのお子がなられるでしょう」
「何故…?。それほどまでに体が弱いのか?」
「そうですね、そんな事情があり、ひたすら神に仕えるお務めをされているのです」
 それは、現段階で結婚を嫌がるセイジにも、相当気の毒に思える話だった。彼の場合は単に勝手な好みの問題で、生涯結婚しないとも言っていないが、この国の長は、氏上主のシンは、一生妻を娶ることができない体だと言うのでは。しかもただの氏人ではない、民人のひとりでもない、国を代表する位を持ちながらそれでは、ひとつの家、国の繁栄に水を差すような存在と受け止められるだろう、とセイジは息を呑んだ。
「そんなお立場だったとは…」
 他者への威厳を示す、この国一番の大きな館の中で、神を表す白き袍を纏った神々しい氏上主の、穏やかで優雅な暮らしを想像していたセイジは、例え見た目がそうであっても、内側にどれ程の苦悩を抱えていたか、今になって同情を禁じ得ない気持になった。問題は正反対だが、自分もまた同じ所に悩みを抱えている。年頃も同じくらいの筈のその人に、セイジは己を重ね見ることもできた。
 氏を守り、正しき跡継ぎを残さぬ男など意味が無い。今の長は大臣や他の官職の長老方に、陰で何と言われているかと思うと不憫だ。また自分も己の我を通そうとすれば、いつかそのように噂されるだろうかと思う。異質であることは決して悪ではないが、集団の中ではそう取られることもある。セイジは長の現状について深く思いを馳せると、尚改まった様子でナステイに言った。
「その、氏上主はどんな生活をしているのだ?」
 もう流石に興味本位と言う風ではない、セイジの真摯な態度にナステイも気負いなく応えた。
「氏上の館からはほとんど出ませんわ。朝はお社にて祈祷、お昼に書のお稽古と休憩、午後にもまた祈祷をされ、暫しお散歩の時間、夕餉の後は湯浴みをして床に着きます。それだけです」
 シンの一日はほぼそんなもので、事実ナステイは書の稽古と休憩時、食事の時しかまともに話すことはなかった。着替えの手伝いなどは奴の仕事であり、神事は神官達と共に過ごし、散歩の時は普段は老奴などが付き添う。共に暮らしていても、流石に長はいつでも会える立場でない。
「意外に忙しいのだな」
 とセイジが漏らすと、
「そうですね、神事の時間がとても長いので、それ以外のことはあまりできない状態です」
 ナステイもやや切なそうな顔をして返した。彼女にも恐らく、もっと長くお傍に居られたら、もっと腹を割って話すことができたら、もう少し長のお心を慰めることができるのに、との思いがあるのだろう。そしてセイジが、
「うーん、是非お会いしてみたいのだが…」
 と続けると、ナステイはそれにはっと目を開き、思わぬ流れを喜ぶように言った。
「まあ…、シン様に御関心がございますの?」
 誰からも敬われているが、同時に誰からも忘れられている。そんな立場の氏上主に、利害でなく、人物として関心を寄せる者が居るとすれば、それは喜ばしいことだとナステイは微笑む。セイジの思うところは、
『あるとも。子を残せない滅びの長とは知らなかった』
 と言う一点にあったが、少なくとも政治的野心を持つ訳ではなく、害を加えたい訳でもなく、ただこの国の行事について進言したいだけなので、ナステイの良心を裏切るものでもなかった。寧ろ話し相手として認めてもらえるなら、セイジはそのままに忠義を尽くそうとするだろう。そんな彼の態度を見取って、
「御友人となられる方ができたら、シン様もさぞかし心安らかになられるでしょう」
 ナステイがそう続けると、セイジは正に意欲的にその話を聞いた。
「それは私にもなれるものなのか?」
「そうですね、神官殿にお伺いを立てて、お許しが出れば機会はできるかも知れませんわ、あなたは氏人ですから。私からお話しして差し上げましょうか?」
「頼む、是非に!。是非談義したきことがあるのだ」
 但し、それにはある程度時間が必要なようだった。正式な長への面談には様々な手続きが要るものだが、個人的に会うのにはそれとは別に、神官による資格の審査のようなことがあるらしい。もしそれで駄目だと言われたらどうする?。或いは審査に一年も費やすようならどうする?。折角の有難い提案だが、セイジにはまだ多くの困難が残されたように思えた。
 何故なら己は決して素行の良い人間ではない。軍の部隊長としては満足に務められているが、国の掟を逐一守り、氏人の慣習に従っているかと言えば嘘になる。でなければ歌垣の祭に魅了され、真の出会いを求めて彷徨うようなこともないだろう。こと私生活に於いては枠から外れ、周囲の助言に従うとも限らぬ、そんな者を神官達は、長の友人に認めてくれるだろうか…?。

 模範的人物として許される自信がない。ではどうしたら良い、と、セイジは帰路の宵闇に月を見上げながら考え続けた。この月も、山に居られる神と同じようなものだ。毎夜人の拙い営みを眺めながら、白く密かに笑っているのだろうと。
 正にお笑いだ。この不条理な国の法も、己のことすら侭ならぬ私も。だから神々に取って人間を見ることが娯楽になり得るのだと、セイジもまた諦めながら笑うしかなかった。



 歌垣の夜が訪れる。年に一度の狂乱の祭が訪れる。

 いい大人達はいそいそと、若者達はそわそわと、今年初めて出掛けるようなごく若い者達は、他の祭の時と同じように浮かれ騒ぐ。夕焼けの頃には集落の中に、山へと向かう民人で人波ができていた。彼等は皆大いに明るい顔をして山の神に会いに行く。
 氏上の館からも輿が出立する。祭の序盤を取り仕切る神官と巫女が、民の為に舞と祝詞を捧げに行く。彼等は祭自体には参加しないが、その一種異様な雰囲気を知ることができる、唯一の立場の氏人だった。だがそれだけに聖別され、常に身の穢れを祓うことを義務とし、氏人の中でも特に関わり難い官職となっている。その意味では神官の一族は、氏上の神格化した存在に通ずる者達だった。
 山に吹き荒れる恋の嵐を見てみたいか?。その為に神官となる気があるか?。否、と誰もが答えるだろう。無論セイジもそうだった。ひと夜の祭の為だけに、その他一切の自由な生活を奪われるなら本末転倒。それだけ神官の官位は厳しいものだと皆知っている。
 結局、勝手で欲の強い氏人は祭から遠ざけられ、何も求めぬ神官にだけその秘密は明かされる。何を前にしても無欲で居られる、修行を果たした者にしか魂の熱狂には触れられぬ。そうでなければ社会の秩序が乱れると、いつか誰かが言い出したのは道理でもあった。位のある者の子供が巷に溢れると、その庇護を願い擦り寄って来る部民が増えるからだ。
 セイジですらそれは理解できた。だが心は理屈には収まらぬものだ。
 歌垣の夜の空気に触れてみたい。そこに求める神の御導きを確と感じたい。そう願う心は最早止められなかった。今宵は己に取っても特別な歌垣の夜。初めてまともに結婚相手を考えた年の、特別な恋の祭だと言うのに…、と。

 集落から賑わう民人達が消えてしまうと、その夜はとても静かな夜だと初めて気付く。遠くからぼんやり響いて来る、祭に賑わう声や音以外には、風の音すら聞こえない初夏の夜だった。その静けさに反し焦がれる思いを抱えたセイジは、居ても立っても居られなくなり、既に薄闇に包まれた広場をひとりうろうろしている。勿論今から部民に紛れ、無理矢理祭に参加しようなどとは思っていない。だがこの夜の内に何かをしたい、何らかの結果がほしい、そんな気持だった。
 何かをしたい、何をしたい?。
 長に仕える女官は何と言っていた?。神官に話を通して会える機会を窺ってみると?。
 その神官は今はこの集落には居ない。国の大行事である歌垣の祭に皆出払っていると聞く。つまり今、目の上のたんこぶである彼等の、余計な干渉は存在しないと言うことだ。ならば今は絶好の時、誰にも邪魔されぬ絶好の時ではないかと、セイジははたと気付いて顔を上げた。
 自分はなにも、長に悪事を働こうと言うのではない、呪いの文言を伝えようと言うのでもない。そのくらい解っているだろうに、難癖付けて機会を奪うのが政府のやり方だった。模範的でない若造には、長に会うなど恐れ多いと言われるに決まっている。それがこの国の法であり秩序だとしても、黙って従うのが幸福と言う話でもない。
 私は例え一部の法に逆らってでも、この不条理な歌垣について話したい。何故我々は平等に神のお導きを得られないのかと。何故我々は始めから平等でないのかと。今がその時、今が絶好の時だとセイジは意思を固めた。神官達が戻る明け方の頃までに、思う事を実行してしまうのが得策だと。
 そしてその決心を表すかのように、彼はまず一歩強く踏み込むと、後は逸る心臓の促すまま真直ぐ氏上の館へと歩いて行った。歩けなくなるほどの闇夜がすぐ背に迫っている。少しでも早くそこに辿り着こうと彼は必死に歩いた。
 さて、長に会ったらまず何を話そう。そこまで長く滞在はできぬやも知れぬ、こちらの要望だけは伝えておかねば。ただその前に、体の不調を訴えていたりしなければ良いのだが…。



つづく





コメント)あと少しこのページに入れたかったのに入り切らなかった。どうなるかは次回をお待ち下さいませ。
古代史と言う以前に、日本の時代物を書くとかなり気を使うのは、カタカナ語を使えないことでして。こんな時もっと語彙が多い人間だったら…と、ちょっと残念に思ったりもします(^ ^;。もっと読書して来れば良かったな〜と。
あ、但し、キャラの名前をカタカナで表記してるのは、この時代はまだ文字が広まってなくて、ほぼ話し言葉だけで生活していたことを表す為です。それと、上記の理由でカタカナが殆ど無い文面なので、名前まで漢字にすると、字面が詰まって目が滑りそうだったので。



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