せっちゃん
三界の光
#1
The Strange Trinity



 何と天気のいい日だろう。自分に取って輝かしい今日と言う日が、こんなに素晴しい天気に恵まれるなんて。こんな日は何気なく見ていた木々や道路、少し古ぼけた駅舎さえも格別に素敵に見える。風の音が、鳥の声が、木の葉のざわめきが、全て自分の栄誉を誉めたたえてくれているように、全て自分の未来を約束してくれるように感じられる。
 シンは足取りも軽く、駅構内のエスカレーターを一段飛びで駆け上がると、家路へと向かうモノレールに飛び乗った。発車のベルが鳴り止んだ直後でヒヤっとしたが、そんな慌ただしさは束の間の出来事として、すぐに車内の空気へと散じて行った。
 昼間のモノレールは妙にガランとして、シンはまだ誰も座っていないシートの、一列を独占してゆったり車窓を眺めていた。窓から差す暖かい春の日射しが、朝から強張っていた体をゆっくり溶かすように、彼を包んでいた。

 彼の名前はシン・モウリ。現在十八才である。彼が何故今日と言う日をこんなに喜んだかと言えば、子供の頃から憧れていた、アストロノーツ(宇宙飛行士)の国家試験に合格したからである。
 実は、試験結果など今日の世界では、当然電子メールやテレトークで確認できるようになっている。だがどうしても自分の目で見たいと言って、彼は二時間かかる発表会場までわざわざ出向いて来たのだ。しかし確かにその分、喜びもひとしおと言うところだった。彼に取っては正に春の到来を感じる、貴重な体験となっただろう。
 実のところ、彼はジュニアスクールから六年航空学校に通っている。試験に合格するのは当然と言えば当然だ。けれど「アストロノーツになる」と言う彼の頑な夢は、これまで何をして来たか、どれだけ勉強したかには関係なく、それが叶えられた時だけに喜びを齎すものだった。何故ならそれは、離れて暮らす父親の希望でもあったからだ。
 シンの父親は家族とは別の所で暮らしている。父はやはりアストロノーツであったが、シンが六才の頃に俗に宇宙病と言われる、宇宙空間で作業をする者が罹る伝染病に冒され、天王星の衛星ミランダに在るサナトリウムに入った。その病は症状を緩和させることはできるが、原因菌を体から排除できない厄介なものだ。一度罹れば一生、社会から隔絶された生活を強いられることとなる。
 ところでミランダに在る、と言う言い方は語弊があるかも知れない。衛星全体がひとつのサナトリウムになっているからだ。それ程現在は患者数の多い病気であり、またミランダの他に、同じ天王星の衛星コルデリアにも施設がある為、保菌者はこの衛星間だけは移動が許されている。まだ一般の惑星間連絡船は、木星の衛星までしか到達していない関係上、見舞いに訪れる者も殆ど居らず、過去の同業者が年に一度程度会いに来れば良い方だった。
 そう、シンはそんな所で淋しく暮らす父親に、会いに行く機会を望んでいたし、志半ばでアストロノーツとしての人生を終えた父の、意志を継ぎたいとも望んでいた。しかし選択の決め手は何より、大好きだった父が子守唄代わりに話して聞かせた言葉。それがシンの心に深く刻み込まれていたことで、幼い頃からそれを目指す子供になったのだろう。
 彼の父親が繰り返し話した言葉とはこうである。
『宇宙は広く、わからない物やわからない事が沢山あるんだ。
 きっと何かが自分を見付けてほしくて、
 おまえを待っているから、アストロノーツになるんだよ』



 シンの家は駅から歩いて十分程の所に在る。
 近隣は同じような小奇麗な家が並ぶ住宅街で、緑も多く、静かで住みやすい環境だった。彼はモノレールを降りると駅のホームに立ち止まり、自分の住む町を暫く眺めていた。子供の頃に見ていたより、ずっと小さくこぢんまりとしたこの町。地球の上のほんの一片に過ぎない土地。けれどここは、常に自分が戻って来る場所だった。
 これからアストロノーツとしての第一歩を踏み出すことは、あまり家に居なかった父から判るように、見知らぬ人々と、見知らぬ空間の中で長く生活するようになる、と言うことだ。職業への希望や意欲はあれど、それを思うと彼は自分の目に、心に、この風景をしっかり焼き付けておこうと思った。休日に父とふざけながら歩いた公園の道、毎日のように買物に出掛ける母の靴音、雨の日に傘を持って来てくれた姉、庭で居眠りばかりしていた犬のベルのことなどを。
 シンが様々なことに思いを馳せながら、普段の倍くらいの時間を掛けて歩き、漸く家の門まで辿り着くと、家族より先に庭先で彼を呼び止める者があった。
「お兄ちゃん、シンお兄ちゃん」
 淡い黄色に飛行機の絵が縫い取られたシャツ、陽の光に透けるような金髪の少年が、庭境の木製フェンスに身を乗り上げるようにして、戻って来たシンを迎えていた。
 シンの家の隣に住むこの少年はセイジ君と言って、近隣の人々の間では「せっちゃん」と呼ばれていた。産まれたばかりの赤ん坊の頃に引越して来て、今年で五年ほどになるが、シンには初めからよく懐いていた。最近では年の離れた兄弟のようだった。
 大人しい割に好き嫌いが多く、やや扱い難い性質を持ったせっちゃんが、初対面からシンに懐いたのは全く不思議なことだ。けれどシンの方も、幼い頃に父親と別れた経験から、せっちゃんに対しては家族のように可愛がっていた。そして今は、自分の夢や喜びを分かち合える存在になったのだから、人の成長に付き合うのは楽しいことだと思う。
「ただいま!」
 と声を掛け、シンが彼の頭に手をやると、せっちゃんはその切れ長の瞳を見開いて言った。
「アストロノーツになれたんだ、ねぇ?」
 誰から聞いたのか、恐らくはテレトーク画面で大喜びした母だろうが、せっちゃんは試験に合格したことを知っていた。
「うん、合格してた!。これからやっと宇宙に出られるんだよ」
 シンはそう返しながら、フェンス越しに話していたせっちゃんを持ち上げ、自分の家の庭の方に下ろす。その時確と両手で掴んだシンの服を、せっちゃんは離さずに、体をぴたりとくっ付けたまま上を向いて、
「いいなぁー」
 と、甘える態度で続けた。五才と十八才の間で交わされる遣り取りは、大体いつもそんな風だった。
「僕も一緒に行きたいよ」
「そう思ったら絶対アストロノーツにならなきゃ。ね?、せっちゃん」
 シンは少年が物心つく頃から、自分が父親に言われたことをそっくりそのまま聞かせていた。遊んでいる時も、勉強をする時も、宇宙の話が出る度に彼は父を思い出したし、その度に父の言葉を口にせずにはいられなかったのだ。故に、せっちゃんが自分と同様アストロノーツに憧れるのは、自分の影響だと認めざるを得ない。
 本当の父親よりシンの意志を受けた少年、せっちゃんがこれからどんな大人になって行くのか、誰より楽しみにしているのはシンかも知れない。いつか同業者として、同胞として、共に宇宙を飛び回れたらいいと思う。そしてそんな視線は、父が自分に思ったことと同じなんだろうとも思えて、尚更嬉しかった。
「お兄ちゃん、『スターズスクエア』って知ってる?」
 その時、せっちゃんはとある遊戯施設の話を始めた。
「ああ、宇宙体験のできる遊園地だね、知ってるよ。もうオープンしたんだっけ?」
「うん」
 すると嬉しそうに頷くせっちゃんを見て、シンは彼が言いたいことを察した。
「そうだな…?、明日も天気は良さそうだし、他に用はないから明日なら連れてってあげようか?」
「ホント!?」
 せっちゃんは今にも騒ぎ出しそうな様子で、そわそわと落ち着きがなくなる。小さい子供の反応としては極普通のことだが、シンは釘を刺すことも忘れなかった。この調子だとうっかり転んで怪我でもし兼ねない。
「うん、ただ、できたばっかりだから混んでるかも知れないよ?。あんまり乗り物とか乗れなくても駄々捏ねないこと!」
「うん、捏ねない。お母さんに言って来る!」
 すると、言うが早いかせっちゃんは兎のように走り出し、家の門を潜って行ってしまった。最早他の注意をまともに聞いてもらえる状態ではない。シンは仕方なく小さい背中に向けて、
「明日の朝迎えに行くからね!」
 とだけ伝えておいた。
 隣家のドアが慌ただしく開いて閉まる。あっと言う間の出来事の後には、急に穏やかなしじまが庭先に戻って来る。それがおかしいような、微笑ましいような気持だけがシンに残された。自分も嘗てそうだったのかも知れないが、本能に忠実な子供達は、言動にワンクッションを置くことがない。感情の露出を直に見せるからこそ、見る者を和ませるのだろうなと、シンは少し大人の目線で考えていた。
 試験に合格し、これからは社会人と言う立場の彼だが、まだあまり実感が湧かないのとは反対に、せっちゃんに対しては、自分は充分大人だと認識する不思議さ。否、そう感じられる環境で生活できたことは、彼に取って良い経験になったのかも知れない。自覚こそが人を成長させる基礎なのだから。
「ただいまぁ」
 漸く自宅のドアを開けたシンの許へ、今か今かと待っていた家族が掛け寄って来た。既に庭に居ることは知っていたのだろう、ふたり共手前の居間からすぐに、お祝いの言葉と共に顔を出した。
「お帰りなさい、シン。おめでとう」
 と、母親がにこやかに言うと、年の離れた姉はより力強く、
「良かったわねぇ、本当に…!」
 まるで自分のことのように喜んでいた。恐らくシンがこの試験に向け、どれ程熱心に勉強していたかを知っているからだ。続けて彼女は、今だから言える心配事を吐き出していた。
「試験の前は青い顔してて心配したけど、すっかり弛んじゃってるみたいね?」
「そりゃそうなるよ!。一気に肩の力が抜けたね」
「フフフ!、お疲れさまでした!」
 シンの姉は、彼がやや神経の細い所があるのを気に掛けている。実際学力的に問題のないレベルで、実技も充分な成績を取っていた。にも関わらず、試験前は非常にナーバスになったの見て、今はともかく先々大丈夫だろうかと、考えさせられたようだ。これからひとりの大人として生きて行く上で。
 まあ今は、ひとつの関門を潜り抜けたことを祝福する時だが。
「どうしたの?、お隣に何か用?」
 するとその時、何かを気にしている息子の様子に、母親がそう声を掛けた。
「いや明日さ、せっちゃんと出掛ける約束したんだ」
 シンのその返事は、なかなか庭から入って来なかった理由を明らかにする。成程、と言う様子で今度は姉が尋ねる。
「何処へ行くの?」
「『スターズスクエア』だよ、隣町にできただろ」
「ああ!。大人でも面白い施設らしいけど、宇宙に興味のある子なら尚更でしょうね」
 流石に話題の施設だけあり、子供でなくともその名称と内容は知られているようだ。大概この手のテーマパークは、人の集まる市街に建設されるものだが、用地の関係か、ベッドタウンに建設されたことも話題と言えば話題だ。お陰でシンの家からは出掛け易い場所だった。
 そして、
「入学式は明後日だからいいんじゃない?。気を付けて行ってらっしゃい」
 母親は快くそう答えたが、何故かシンは不満そうに返事した。
「入学式じゃない、入隊式!。僕はもう国家公務員だよ?、子供じゃないんだ」
「あらごめんなさい?、でもお母さんの子供であることには変わりないでしょ?」
「わかってるよ!」
 ちょっとした言葉の間違いだが、それが気になると言うことは、逆にまだまだ自分が至らない意識があるのだろう。それだけにシンの胸中は、新社会人としての意欲に溢れているようだった。勿論それは念願だった、アストロノーツとしての人生の始まりだからだ。
「そんな所で話してないで、早く中に入ったら?」
「はーい」
 先に部屋へ戻った姉が声を掛ける。家族の団欒の場である居間には、既にシンの努力を労うお茶の用意ができている。また母親が、
「今夜はお祝いの御馳走を用意してますからね?」
 と夕食について知らせると、家族がどれ程自分の夢を、或いは父親の希望を理解してくれているか、伝わって来るのがシンは嬉しかった。離れていても家族はひとつだと今も実感できる。

 特別な一日、特別な夕食と家族との語らい、恐らく今日と言う日は永遠に記憶に残る、思い出深い日になるだろう。シンは今日一日をそう振り返りながら、明日の約束に備え、夜は早めにベッドに潜り込んだ。
 机上のフォトフレームの中で、彼の最愛の父が微笑んでいる。
 写真があまり好きでなかった父親は、残念ながら僅かの映像しか残さなかった。なのでシンの記憶の父は、常にその写真のイメージに限定されていた。がっしりとした逞しい体格、大きな手、白く長い髪に白い髭。白髪は年令のせいではなく、病気に因るものだった。
 所謂宇宙病に罹ると徐々に脱色が始まり、最終的には髪や眉が真っ白になり、風貌の変化、視力の低下などが起こるそうだ。シンの父はいつ病気に気付いたのだろう、シンが物心付く頃には、既にある程度白くなっていた記憶がシンにはある。否、三、四才頃の記憶など曖昧なものだ、もしそうなら父親はもっと早く、サナトリウムに送られていた筈である。
 事実と記憶とが今ひとつ合致しない所があり、正確な経過はシンには思い出せないでいる。だがそんなことは重要ではなかった。いつも自分の心を支えてくれている父の面影、励ましてくれるメールの言葉、それが現実であればシンは幸福に生きられるのだ。
 父が、存在するのとしないのとでは、彼に取って遥かな違いがあった。これから会える機会があるかないかの問題だからだ。



 翌朝、予報通りこの町は晴天に恵まれた。絶好の行楽日和だった。
「お兄ちゃん、行こう!」
 シンが普段よりやや遅い朝食を終えた頃、玄関からはせっちゃんの嬉々とした声が聞こえた。慌てて席を立つと、シンは足早に声のする方へと向かう。
「あれっ、迎えに行くって言ったのに」
 シンの驚き顔とは対照的に、せっちゃんは今や遅しと言う様子で、そわそわと落ち着きがなかった。子供のことだから、目先の楽しみを待ち切れないのかも知れないが、もしかしたら昨日の時点で、話を聞いていなかったのかも知れない。まあそれ程喜んでくれるなら、シンに取っても嬉しい限りだが。
 するとせっちゃんの後を追い、彼の母親が姿を見せた。
「お早うございます。シン君、合格おめでとう」
「ああ、ありがとうございます」
 流石に母親は、せっちゃんのこの様子を済まなそうにして続けた。
「合格発表から戻ったばかりなのに、面倒をおかけして申し訳ないわ。この子ったらシン君にだけは、我侭を聞いてもらえると思ってるらしくて…」
「いやぁ…、これからはあんまり会えなくなるし、僕にもいい機会だから」
 そこへ、会話の声を聞き付けたシンの母親もやって来た。
「フフフ、いいんですよ、せっちゃんはシンのことを本当のお兄さんと思って、こんなに懐いてるんですから」
「いつもすみません」
 場が丁度良い具合に、奥様同士の挨拶へと変わって行ったので、シンはその間に手早く身支度をし、再び玄関へと戻って来る。「早く、早く」と急かすせっちゃんの声が、不機嫌な色に変わらぬ内に、シンはどうにか靴紐を結んで立ち上がることができた。
 かくも賑やかで慌ただしい朝。けれど明るいハプニングに遭うことは却って、快活な一日の始まりを予感させる。今日も昨日に引き続き、特別な思い出の日となるであろうから、晴天の空と共に晴れ晴れとした気持で始められるのは、シンには何より幸いだ。
 無論、まだ小さい未来のアストロノーツにも。
「それじゃあ行って来ます」
 せっちゃんの手を取るとシンは言った。
「よろしくお願いします」
「気を付けてね」
 ふたりの母親の穏やかな眼差しに送られながら、シンはできたばかりの遊園地へと出掛けて行った。



 彼等の使う駅から四つ先の駅に、そのスターズスクエアは建設された。
 今では珍しくない宇宙体験アトラクションを売りにする、遊園地と言うよりテーマパーク型の遊戯施設だ。ただここが他の似たような施設と違うのは、館内に一歩踏み入れた瞬間から無重力状態が始まる、『0Gパピリオン』と呼ばれるドームがあり、その中に全てのアトラクションが収容されている点だった。乗り物や遊具、映写設備等の全てが無重力空間で稼動しているのだ。
 入場者には、初心者でもある程度バランスが取れるよう、受付で磁力靴を貸してもらえるが、それでもドーム内を自由に歩き回る為には、少しばかり訓練が必要だった。場合によっては大変な運動量を要する。勿論それを楽しみにやって来る家族連れが多い訳だが、単なるレジャーにしてはなかなかハードなテーマパークである。
 平日が幸いしてか、その日会場は思った程混んでいなかった。そして中に一歩入ると案の定、まともに立ったり進んだりできない人々が、海に漂う海草を思わせるように畝っていた。何処かで見た光景にシンは思わず吹き出す。丁度航宙学校の新入生の授業を見ているようだった。当然自分にもそんな時期があった筈だが、それは棚に上げておくとして。
 今は充分な訓練を受けている彼は、慣れた様子で体の向きをコントロールしながら進む。キラキラと虹色のビームを振り撒く、ドームの天井に向かって真直ぐ昇って行くことができた。そして、ひと息吐いてその場所から下を見下ろすと、せっちゃんが頭を上にしたり下にしたりもがいていた。
 子供の方が大人より学習が早いと言う。放っておけばその内コツが掴めそうにも感じたが、迷子になられても困るのでシンは引き返す。彼の傍まで戻ると、せっちゃんはシンの伸ばした手を掴まえ、もがきながらも開口一番に言った。
「アストロノーツはかっこ良く動けるんだな」
 見開かれたその瞳に、宇宙を模したドームの壁の星々が映り込む。せっちゃんの見ている未来の夢が、シンにも確と見えたような気がした。僕らはきっと同じ未来を希望していると。そして、
「僕も早くアストロノーツになりたい」
 いつか遊戯施設などではなく、宇宙で君に会えるようにと、シンは純粋な願いを込めて返した。
「じゃあ!、頑張って少しでも進めるようになろうか?。教えてあげるよ」
 シンの気持に、せっちゃんは素直な笑顔で応えていた。
 但し、教えるとは言ったものの、今の段階でできることには限界がある。せっちゃんが言うように、「かっこ良く動く」ことは、まだ十才にも満たない子供の筋力では無理があった。取り敢えずこの場では、行きたい方向へ移動する為の基礎運動だけ、身に付けられれば充分だろう。
 シンは相手の両手を持って制止させると、静かにそれを放して言った。
「まず体を真直ぐに立ててごらん?、足とお腹にしっかり力を入れて、手でバランスを取って」
「う〜ん…」
 しかし、ただ直立することさえ難しいようだった。体重が軽過ぎるせいか、回転してしまう体を反動で止めることができない。本人なりに、努めて体を動かそうとしているのだが、せっちゃんは再びその場でくるくる回り出した。この不可能はどうにもできないので、シンは諦めて笑うしかなかった。
「ハハハ…」
 靴に仕込まれた磁石がある程度、床や壁面に引力を生んでいるが、床と壁面に近付くことができなければ、あまり意味もなかった。一応この施設は五才から入場可能で、正に五才のせっちゃんは保護者と共に遊びに来たが、まだひとりで行動できる年令ではないのだろう。
 なので急遽訓練は中止。シンはせっちゃんの手を自分の腕に掴まらせると、
「よし、今日の練習はここまで!」
「…もう終わりか?」
「簡単だろ?。これさえ練習すれば自由に動けるようになるからね、また来たら練習すること」
 と、子供の夢が傷付かぬよう返し、次に彼の行きたそうなアトラクションへ移動を始めていた。無理なものは無理なので仕方がない。

 それからふたりは、主にせっちゃんの言うなりにアトラクションを回って行った。実はシンはスピードコースターの類が苦手だが、せっちゃんが好んでそれを選ぶので、シンに取っては楽しく遊んでいたとは言えない状況だった。
 せっちゃんは割に落ち着きのある子供で、言動も五才と言う年にしては穏やかな方だ。しかしその反面、恐怖心を煽る遊具やスピードの出る乗り物を好み、それ以下の物事に無駄に動じない点では、少し羨ましく感じるところがシンにはあった。
 もしかしたら自分などよりずっと、アストロノーツの適性があるかも知れない。将来は軽く追い越されているかも知れない、と思う。差し当たって不様な姿を見せる訳にも行かず、シンは時には冷や汗をかきながら、乗り物に付き合っていたけれど。今日の日のこんな小さな苦悩が、後々僕らふたりの大事な思い出になるのかな、と思うと、我慢して付き合うことにも価値があるような気がした。
 過去の思い出が愛しくあればあるほど、理想の未来に進んで行けるように思う。
 さて、せっちゃんの現在の関心はそんなところだったが、全部で二十四のアトラクションがある中、シンが最も気を引いたのは、惑星改造プロジェクトの過程をCGで見せる3Dシアターだった。
 遠い過去、地球の人類は急増する人口に頭を抱え、大量の予算を組んで、居住可能な星を探しに宇宙へ飛び立って行ったと言う。しかし探索を繰り返すも、始めから居住環境の整った星は近隣には見付からなかった。そこで、以前から提唱されて来た惑星改造と言う方法が見直され、これを実現させる方に力を入れるようになった。
 惑星改造とは主に何を行うかと言うと、その星を構成する特定元素を人間に無害な別の物質、或いは別の形に再構成させることである。起爆剤となる不安定元素をほんの少し投下するだけで、後は全体に反応が行き渡るのを待てば良かった。
 と、口頭で説明するのは容易いが、様々な形で化合するひとつの元素を、そっくり他の物質に置き換えるのだから、必然的に膨大なシミレーションをこなすことになる。既存の環境に致命的な変化を起こしては、移住どころではなくなってしまう。余所の星には未知の物質が存在する可能性もあり、その時は無害でも、何世代か過ごす内にとんでもないことになった、では困るのだ。
 しかし切迫する事情を持つ地球にしてみれば、長い準備や検証の期間は足枷でしかなかった。なかなかゴーサインが出ないことに苦悩していた、当時の政府に朗報が訪れたのは、今から約三百年前のことだ。
 改造前の実地検査で火星に降り立った調査団の一行が、一年ほど火星に滞在する内に、当時どうしても適応できないと言われていた、火星の疑似大気(火星の元素を使って人工的に作った大気)の元素構成に、ある時一斉に適応したと言う怪事件があり、そのニュースを耳にした研究者達は、一定期間滞在すると適応できるものと判断、即日移住計画を進める決定をした。
 ところが不思議なことに、その後テストケースとして火星に向かった人々は、一年どころか二、三ヶ月で適応できたのだ。火星の大気の方が条件を変えたのか、とにかく地球に取っては更に都合の良い展開になっていた。
 後の経過は、数々のテストや実験が繰り返され、先鋒隊として技術者などが送り出され、遂には十億人の大移民団が地球から飛び立つこととなる。更に百三十年後には木星の衛星も改造され始め、今は三つの太陽系惑星に、六百億の人間が暮らしている。その全体を統合統治するのは、三百年前から続く地球の惑星連合本部である。
 と言う地球人類の歴史、3Dシアターでも解説された流れについて、シンは以前からひとつ疑問に思うことがあった。それは、安全面では特に慎重にこの事業を進めて来た筈が、何故「大気に適応できた」と言う一報だけで、移住計画を進めてしまったのかということ。無論人間は、呼吸する大気が無ければ生きられないが、ただ生きること以上に、『地球人』の条件を崩す物質が存在する危険性を、誰も唱えなかったのは何故だろうと思うのだ。
 当時の政治家や研究者が揃って、種の保存より新天地の開拓を重視したのだろうか。その勇み足の結果、現在地球人と移民の間では結婚や出産が禁じられ、動物レベルでも遺伝子の交配は禁止されている。また地球人の、長期に渡る移民星への滞在、若しくはその反対も制限されてしまっている。
 つまり、他星に適応した人間と地球人には、明らかな遺伝子の相違が現れたのだ。
 元は同じ人間でありながら、結果的に移民達は『亜人間』の扱いとなり、今日まで地球人とは別の社会を築いて来た。種母星である地球と地球人を守る為だと、後付けのような説明を連合は示しているが、予め地球に持ち込めない物質を検出できなかった、その責を追う団体は何処にあるのだろう。こうした凡ミスが、こんなに重要な事の中にあっていいのだろうか、と、シンは今も考え続けている。
 これまでに彼は、関係書籍を見付ける度読み漁って来たが、未だはっきりした解答は得られないままだった。ただ、全ては初代連合元首の決定と言うだけだ。



「楽しかった」
 帰り際、せっちゃんがシンを見上げて言った。スターズスクエアのエントランスホールには、四方を見渡せる大窓が嵌め込まれ、既に日が暮れかけていることを彼等に伝えていた。
 全てのことに全力でぶつかって行く子供のこと、せっちゃんは少し疲れた様子で、シンの腕にぶら下がるようにして歩く。それでも不機嫌にグズる態度を見せない彼に、
「せっちゃんが楽しかったなら、僕も楽しかった」
 シンは労うように、そう優しく声を掛けた。けれど疲労のせいか、黄昏時のせいか、せっちゃんは何処となく淋しそうな表情をしていた。そして、
「もう遊びに連れて行ってもらえないのか…」
 そんな罪のない一言から、シンは彼の態度の訳を知る。
 人は年を取る程に、いつか全ての人と別れて行かなくてはならない。なんてこと、子供に説明したところで解らないだろう。この平和な地球の小さな町から、希望を抱えて出て行こうとする自分のことを、割り切れない気持で見ている小さなせっちゃんが、昔、仕事に行こうとする父を引き止めて泣いた自分と重なる。
「そんなことないよ、仕事が休みの時は家に帰るし、そしたらまた何処かに出掛けよう?」
「本当?」
「本当だよ」
 せっちゃんに取ってそれが、最も嬉しい返事だとシンにはよく解っていた。嘗ての自分がそうであったように。
「家に居ない時が長くなるけど、帰ったらちゃんと知らせに行くから、いい子にして待ってるんだよ?。待ってられるよね?」
「うん、待ってる」
 せっちゃんはそう言いながら、シンの上着の袖を手繰り寄せるようにして、自分の頬に押し当てていた。不安げな表情の中にも、少しばかり希望の光を見付けた彼の様子を見て、シンもホッと胸を撫で下ろす気持だった。安心したのはなにもせっちゃんばかりではない。親身に思う相手だからこそ、シンの気の遣いようも半端ではない。
 そして最後に、
「それじゃ今度は何処に行くか、次に会う時までに考えといてね?」
 より具体的な未来の提案を聞かせると、せっちゃんは明るい声色に変えて答えた。
「うん!」

 丁度広い通りを挟んだ向こう側に、最近人気の木星フルーツのアイスクリームパーラーの、ストライプの廂が見えた。
「あ、アイスクリーム食べて行こうか?」
 木星フルーツと言うのは、元はただの地球産の果物だが、木星の衛星カリストの土で栽培すると、見た目も味も面白いように変化すると言うので、数年前から話題にはなっていた。但し地球人の味覚に合う、美味しい品種が出て来たのは最近のことである。
「僕はジュピターメロンがいい」
 せっちゃんのお気に入りはその、カリスト産メロンのようだ。
「じゃ僕はココナツミルクにしよっと。行こう?」
 シンがそう言い終えると同時に、せっちゃんはその場から駆け出していた。ついさっきまで俯いていた姿が嘘のように思える、彼の曇りのない笑顔がシンの胸を射抜く。
 せっちゃんは、子供なりに納得して自分に気を遣ったのだろうか。何かを買ってあげるなど、単純な代償行為で世の不条理を飲み込めるものではないと、シンは過去の経験から知っている。そして、いつか同じ立場だった自分の気持を今も憶えているように、少年の心に、これが深く刻み込まれる出来事になってしまうのかと、怖くなった。
 些細な事でも、精一杯の思い遣りで接しているつもりだが、未来がどう転ぶかは誰にも判らない。
 シンは父親が大好きだった。今もしばしばメールが届くのを心待ちにしている。しかし大好きだった父は傍に居てくれなかった。それがこれまでどれ程悲しい事実だっただろう。大好きな人を失った時の悲しみが、今も心の片隅に残っている。けれどそれがなければ、自分はここまで来ることができなかったかも知れない。悲しみは全て未来へ受け継がれ、人を成長させる土壌となる。
 せっちゃんに取っても、必ずそうであってほしいとシンは祈るような気持だった。
『どうしたんだ、何か気持悪い…、胸騒ぎがする…』
 その時、突然妙な悪寒を感じた。
 暫し遠くを見るような考えに浸っていたシンは、ふとせっちゃんの姿を見失ってしまった。前方にも、振り返った後ろにも見当たらない。有るのは見知らぬ人間の顔ばかり。何処へ行ったんだろう、ボヤボヤしている間にもう、道の向こう側に渡ってしまったのかも…
 わっ…、と、近くの人集りで騒ぎが聞こえた。続けて人々の異様などよめきが聞こえて来る。そこで何か行われていたのか、恐らく大道芸人でも来ていたのだろう、一ケ所に集まっていた大勢の観衆が、次第に散り散りになって騒ぎ出していた。
「子供が落ちたんだ!!」
「救急車を呼んでくれ!!」
 その言葉を耳にすると、シンは途端に血相を変えてせっちゃんを探し始めた。流れて来る人波を掻き分け、まだ騒いでいる集団の真ん中へと飛び込んで行った。人垣の先に、シンの目の前に現れたのは道路脇の崖だった。フェンスはあるものの、一部が老朽化して歪んでいる。小さな子供なら通り抜けられるくらいの隙間が、丁度そこにはあった。
 シンは恐る恐るフェンスに乗り出して下を見た。
『せっちゃん…?』



 辺りには救急車とレスキューの乗る消防車、更にパトカーの三種のサイレンが谺していた。転落から三十分ほど経った頃、せっちゃんは崖の麓から引き上げられた。もう息をしていなかった。



つづく





コメント)連載小説を再開しましたが。前の話と全然設定が違い、ガラッと別のものに変わってます。前の話は「OVERTURE」とした通り前節と言うか前置きで、本編はこのページから改めて始まる形です。勿論前置き部分も本編に関係してるので(当たり前か)、憶えておいてくれるとうれしいわっ。
と言う訳で、第一回目のこの話、「えっ」と言う所で終わってスミマセン(^ ^;。このまま息苦しい話になるかと言うと、そんなこともないです。謎解き的に楽しんでいただければ。




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