酔っぱらいの伸
トロイメライ
#6
Traumerai



「嘘つきーっ!、今日は早く帰るって言ったじゃないか!」
 狭い車の車内で、征士の耳元でがなり立てる伸の声。こうなるだろうと予想はしていたものの、溜め息を吐きながら征士は返した。
「だから…、急に決められても無理なものは無理だ。週の始めに予定を立てるのだから、その前に決まった事でないと…」
「じゃあ、来週からは早く終わるね?、だったら今日は許してやろう」
 金曜日、午後八時半。窓の外はとっくに日が暮れて、今は冬場の冴え冴えとした冷気が、街の隅々までを満たし始めた夜。
 征士の勤務先の定時は、確かに二時間半も前だった。単純に言えば二時間もの遅刻だが、それでも、征士は馬車馬のように仕事をこなして、見るからにへとへとになりながら、口約束を無碍にすることなくここにやって来たのだ。その上で伸の態度はあんまりだと思う。
「あのなぁ、何様のつもりなんだおまえは。私が何の為に予定を繰り上げて、一日分以上働いていたと思ってるんだ!」
 思わず言葉を荒げた征士。を見たのは、伸は初めてだったけれど、
「…そっか、明日、明後日は休みなんだ。ごめんね」
 相手がすぐに機嫌を直して謝ると、征士の感じていた苛立ちは、不思議と何処かへ抜けるように消えて行った。と言うより魂ごと抜けるような感覚だった。最近の内では珍しく、相当に疲れていたらしい。

 出だしはそんな状況だったが、気を取り直してアクセルを踏み出すと、銀座の中央通りの、何処となく品のある町並みを背景に、イルミネーションの装飾が気持良く車窓を流れて行った。十二月に入った街はクリスマス一色といった感じで、特別それに関係のない者にまで、明るく華やかなイメージを投げかけていた。
 街行く人の、何処となく浮かれたような軽い足取り。手にしたショッピングバッグの赤と金の装飾が、それに合わせて夢見心地に揺れている。何か楽しい事が起こりそうな予感に、ベルを振って自ら手招いているような、幸せそうな顔をした人々。
「もうすぐクリスマスだねぇ」
 窓を眺めながら伸が言うと、
「こういう商店街は、異国の神を祝っていると、理解してやっているとは思えんな。高揚した気分に当て込んでいるのが見え見えだ」
 征士はそれをさらりと批判して聞かせた。すると伸は笑いながら、
「それでもいいじゃないか」
 と言った。
「寒くて嫌だなーと思うより、今年の電飾はきれいだなーと思う方がいいよ」
「…それもそうだ」
 伸の説明は全く理論的ではないが、意外と納得させられている征士だった。
 大体、日本の冬のイメージは暗い。特に雪の多い地域の冬を思い浮かべると、明るい説話や風習が僅かしかないことに気付く。クリスマスだのスノーボードだの、海外から入って来た物のお陰で、近年は明るいイメージが定着して来たような気もする。伸の言うことも一理あると思う。
 そう思って再度街を見渡してみると、誰が居る訳でもないのに、家族的な団欒に包まれているような、暖かい雰囲気を感じなくもない。都会に集まる淋しい人々には、クリスマスは打ってつけの宣伝効果なのが解る。征士は車を走らせながらそんなことを頭に巡らせていたが、伸はそこで唐突に話題を変えた。
「でもさぁ、何でダンヒルのネクタイなの?、おっさん臭くない?」
 気に入らない、という顔をしている伸に、ベンツの説明同様に「好きでしている訳では」と、改めて説明するのは面倒に感じた。結局は車から何から同じ理由に過ぎない。
「それもイメージというものだ」
 征士が簡単に返すと、
「う〜ん、僕はそんなイメージは嫌だな。働くにしてもそーゆー会社には入りたくない」
 聞こえた呟きは、大人には何処か懐かしい響きだった。
「若い内は皆そう思う、その内合わせなければならない意味が分かる」
「あっ、何だよ、先輩風吹かしちゃってさ」
 すると伸は、カチンと来ながらも楽しそうにしていて、こんな風で良いのかな、と征士も朧げにその心情を掴むことができた。
 先日聞かされたばかりの伸の背景。特に変わった事情を持つようには見えない彼が、背負っている苦悩は意外に深いものだった。だから彼は、現在に於いて繰り返される、日常を楽しく過ごすことに重点を置いているのだろう。簡単には消せない悲しみと孤独を忘れ、普通のレベルで幸せに過ごすことこそ、彼には重要なのだと思えた。
 それは理解できたけれども。
 しかし何故それに、自分が付き合わされなければならないのか。その点だけが征士にはさっぱり判らなかった。伸の話では、今現在の家族代わりの存在も友人もあり、それに不満もなさそうなのだが…。
 今日もまたそうして、思考を振り回されながら征士は話に付き合っていた。
「それより、そんなに着膨れて暑くないのか」
「寒いんだ!、僕はあったかい所で育ったから、関東ってものすごく寒く感じるんだ」
 ウールのジャケットの上に、フェイクファーの襟と裏打ちが付いた、茶色のキルトコートを着たまま助手席に座る伸。理由を言い放って、確かに寒そうに体を縮こませた彼は、小動物が丸まっているような姿に似ていた。形容するなら『かわいい』とも言える場面だが、征士は、
「茶色い雪だるまみたいだぞ」
 と笑って、中央通りの突き当たり、靖国通りを右折する。
「失礼だなっ、これラルフローレンだよ?、アメリカまで行って謝ってこい」
 膨れっ面をして見せた伸は、けれどやっぱり、それでも楽しそうだった。
 予定よりと言うか、予定通りと言おうか、随分遅くなってしまったがこれから、夕食に出掛けようというところだった。予約を入れている湾岸のフレンチレストランは、以前取引先の人間を招いて好評だった店で、伸の機嫌を損ねることもないだろう。取り敢えず以前のように、自分の分しか注文できない事情もないので、征士にしてみれば気が楽である。
 そこに居る間に明日の予定を聞いて、今日は終わりになってしまうだろうけれど。



 …と思われたのだが。
「しっかりしろ、調子に乗るからだ」
 食事を終えて店から出て来た伸は、
「うん…、そんなことないよ」
 と返事をしながら、征士のコートの背に掴まって歩いていた。否、掴まっていると言うより、ぶら下がっていると言った方がしっくり来る。端からでも判る覚束無い足取り、首の座らない様子、ぼんやり宙を泳ぐ目は座っていた。彼は明らかに酔っていた。
 特に注文した訳ではないが、店で出されたディナーには、本場シャンパーニュ地方のシャンペンが一本付いていた。クリスマスシーズンに合わせたサービスだった。征士には少々甘過ぎる飲み口だったが、伸はこれがとても気に入ったらしい。元々そこまで飲めない体質なのに、出された瓶の半分以上を彼が空けてしまった。
 食事の間はただ、伸は只管陽気なお喋りをして、顔を紅潮させていただけだったが。
「子守りに来た訳ではないんだぞ、私は」
 背中に負ぶさって来る伸にそう言って、征士は車のドアに手を掛ける。
「んー、僕は、子供じゃないよ…」
「同じだ」
 言いながら、征士は自分の右肩を下げて、崩れるように前に倒れる伸を車に押し込んだ。
 ふと、似たようなやり取りが過去にあったことを思い出す。大学の頃、コンパだ飲み会だと言う度に、酔い潰れた当麻や他の友達の、面倒を後で見る役が必ず回って来た。別段世話好きな性格でもない征士だが、仲間達はそれに安心して、羽目を外していたような節もあった。征士は潰れる程飲んだことはないし、そこまでいくには相当な量が必要だからだ。
 そんな風に、人に当てにされたり、頼りに思われることはそれなりに嬉しかった。今もそうだが、己の能力や価値を認めてくれる場だからこそ、企業に身を置く自分に納得ができている。けれど、いつの間にかそれだけになってしまった、その他の世界を失くしてしまった気がする。それで良いのか、それで満足なのか、この先も満足していられるか。
 そんなことを考え始めた頃から、征士は今の状況に至っているのだけれど。
「まったく、世話の焼けることだ。これで明日、朝から出掛けようなんて無理だろう」
 後部座席に横になっている伸に、言い聞かせるように話した征士。けれど、
「ううん、行くよ…。勝手に中止にしないでよ…」
 と返した、伸の意識は割合正常を保っているようだった。
 明日は柏崎の方へ行くと彼は言った。この寒い時期に、本人も相当寒がりな様子なのに、「冬の海を見に行きたい」と言い出していた。伸はベスパを一台所有しているが、流石に冬場はそれで遠出をしないそうだ。確かに冬の海岸沿いをバイクで走るのは、あまり気乗りがしない感じだ。
 ただ海ならここでも、神奈川でも見られるだろうと征士が言うと、「日本海が見たい」と彼は言った。恐らくそれは望郷の念なのだろう。
「今日、眠ったら大丈夫…」
 言いながら、伸はそのまま眠り込んでしまいそうだった。
「おい、こんな所で冬眠するなよ」
 征士の困り顔も、目を瞑っている伸には判らないままだ。
 さて、これから彼を茅ヶ崎まで送って行ったとして、何やら面倒な事になりそうな気がした。当麻から貰ったデータによると、彼はどうやら高層マンションの十一階、最上階に住んでいるらしい。無論エレベーターはあるだろうが、住人が酔っ払っている状態で、集合ロックのエントランスを通過するなど、非常に苛々しそうな作業に思える。
 そして部屋に着いたら、彼を放り込んで帰るというのも非情な気がした。元々の友人や会社の同僚ならいざ知らず、相手はまだ学生なので。
「悪いが、おまえの家には行かないぞ?」
 シートベルトを掛けながら、征士は後ろに横たわる人に声を掛けたが、返事はなかった。既に心地よく眠っているのか、面倒だから無言で承諾したのか、どちらにしても、と判断して征士はハンドルを握る。始めから予定の行動ではなかったが、最後までおかしな事になったものだと、呆れながら溜め息を吐いた。征士の車は、神楽坂の自宅マンションへと向かうことになった。



 それほど重いとは思わない。が、人一人背負って歩くのは楽ではない。
 征士の住むマンションの駐車場に着いた頃、案の定伸はすっかり熟睡状態で、呼んでも揺り動かしても、自ら起き上がろうとする気配がなかった。このまま車内に置いて行くのも忍びない、仕方なく征士は彼を背負って、八階の部屋まで、今漸く辿り着いたところだった。
 背負うにしても、もう少し本人が意識してくれれば、征士がそこまで苦労することはなかっただろう。力の入らない手足をだらりとされたままでは、全体重がそのままのし掛かって来る。
 そんな苦労をしながら、兎にも角にも部屋に戻れた征士は、すぐにセントラルヒーティングのスイッチを入れ、伸を居間のソファに寝かせておいた。玄関で靴を脱がせた際に、一度目を覚ましかけた様子の伸だったが、今はまた静かに寝息を立てている。そのままにしておいて心配はなさそうだった。
 もう暫くすれば部屋は充分に暖まる、彼は服の上にコートを着たままだから、ここで風邪をひくようなこともないだろう。前途の通り、征士が寝室で使っているもの以外に布団がないので、そんな気遣いもしなくてはならなかった。
 ところがそれから三十分程経って、征士がシャワーを使って居間に戻ると、ソファで寝ている筈の伸が見当たらなかった。突然具合が悪くなった、とも考えられ、征士は慌ててその姿を探そうとする。と、一度振り返っただけでその緊張感は解けた。伸は玄関に近い廊下に寝そべっていて、暗い廊下に白く浮かび上がる水槽を眺めていた。
「眠っていたんじゃなかったのか」
 そこに近付きながら征士が言うと、はっきり呂律が回らない調子で伸は答えた。
「魚がいる…、見えたんだ」
 恐らく玄関からここに入って来た時のことだろう。
「ああ、魚は逃げないから明日にしろ」
 しかし暖房が効いてきたとは言え、廊下に放置しておくのは決まりが悪い。酔っ払っている所為か子供のような態度の伸を、征士は、横になっている体を仰向けにして、抱え上げるとまた居間の方へ歩き出した。何とも世話が焼けると思いながら。
「餌をやってもいい?」
「明日やればいい、今は駄目だ。今朝私がやったから」
「んー…」
 伸は一応征士の進言を聞き入れたが、水槽の存在が気になって仕方がないようだった。それは征士には解らなくなかった。みどりは放っておくと一日中水槽を眺めていると、清掃ヘルパーが書き残して行った程だ。元は同じ人格なのだから、酷似している点があって然りだろう。
 寧ろ反対に、明らかに違う所を見付ける度に、征士はぎょっとさせられている。生きている存在の与える印象はそれだけ強く、鮮烈に記憶に残るのだ。人の都合を考えない行動、物事に細かく文句を付ける言動、なのに妙な形で摺り寄って来る態度…。
 再び居間のソファの上に伸を戻した。すると彼のコートの金具が、征士の着ているバスローブの襟に引っ掛かり、離れようとした体から、裾がずるずると上がって行くのに気付いた。見れば大したこともなく金具はすぐ外れたが、袷が広がってしまったものを、征士は腰紐を解いて着直そうとした。
 その一部始終をぼんやり眺めていた伸。
「僕がほしい?…」
 と言った。ほらまた、征士はぎょっとするしかない。
「…馬鹿なことを言っていないで、早く寝なさい」
 言葉通り考えたこともなかった。
「僕はいいよ…、別に、気にしない…」
「そうかい。分かったからもうお喋りはやめろ」
 そう返して、征士は手を伸の口の上に乗せて黙らせる。すると漸く、薄く開けていた目蓋を閉じて、彼は安心したように眠ってしまった。
『何故こんなことをしているのやら…』
 その平和そうな寝顔を見ていると、あれこれと恨み言が口を突いて出そうだった。
 言ってしまえば迷惑なのだ。けれど、心の何処かで突き放すことを躊躇っている。彼の身の上に思いも寄らず、悲愴感を感じたこともある。彼がみどりのオリジナルであるということもある。そしてそれだけではないことも、征士は自分で気付いていた。
 この世で実現可能な、最大限の夢とは何だろう。それは単純に欲求が満たされること、望むことを望まれること、望まれることを望むこと、その完全な循環の中に生きることだと思う。大地に愛される者には土地の恵みを、天に愛される者には空の恵みを、取り分け幸福に見える者は必ず、その理に適った循環の中で生きている。
 征士がそれを知ったのは、勿論みどりに出会ってからだけれど、その後に残されたのは、自分に取っては最早、今の生活は望みではないという思いだった。
 ひとつの夢が叶った後に、夢見ること自体を忘れてしまった。同じ土台の上で向上しようとは考えても、その他の可能性を見付けようとはしなかった。お陰で脇目も振らずに昇り詰めた、現在の社会的立場があるけれども、それは単に、実家に対する反発から生まれた方向性に過ぎない。
 自由を、どれほど望んで来たか判らない。なのに本当に自由であったことは、殆どなかったのだと今は知れた。それに繋がる切っ掛けを手に入れ、独立したと言うだけで満足していた。無論それで永久に不満を感じないなら、ひとつの生き方として構わないけれど。
 自分はもっと自由を求め、自由に愛されなければいけない。でなければその恵みを受け取ることができない。今は、このままでは駄目だと征士は気付いていた。
 そして伸が現れた。
 故郷の家もなく家族もなく、一定の良いイメージを繕おうとすることもなく、持て余す程の自由を持ちながら、孤独に喘いでいる彼を見ると考えてしまう。天から分配される各々の条件は、そのまま持ち続けても意味がないのかも知れない。取り引きをしてこそ価値が出る、株のようなものにも思えて来る。
 密かに、征士は笑った。
『未知数のものは、可能な限り長く持つ』
 運用家の鉄則だが、実際何にでも当て嵌まるような気がした。だから今はまだ、伸をここから追い出さずにいる。何かとアピールして来る割に、未だ見出せない彼の理由、彼の希望。果たしてそれらを知った時に、新しい世界が開けるとも今は思えないが。



 翌朝、平日より三十分遅い午前七時頃に、目を覚ました征士が居間へとやって来ると、伸の方はまだ昨夜のままソファで眠っていた。恐らく殆ど身動きもしなかったのだろう、まるで置き物のように、彼は見覚えのある格好で横たわっていた。
 そしてこの様子では、起こしてすぐ出掛けるなど無理、と征士は判断して、音を立てないよう静かに洗面所の方に向かった。
 洗面台の横の、小さな埋め込み窓からは透き通るような、冬の日射しが柔らかく辺りを照らしていた。このところ一向に雨が降らない。代わりにからっとした冬の晴れ間が、呆れるほど毎朝続いていた。出掛けるには良い日和のように思えるが、まあ、自分が出掛けたい訳でもない。どうするかは伸が起きてから決めればいいと、征士はのんびり考えていた。
 取り敢えず、出掛けられる支度だけしておくことにした。

 午前九時を過ぎて、漸く伸は目を覚ました。
「よく眠れたようだな。おい、頭が滅茶苦茶になってるぞ」
 コーヒーを飲みながら、毎週届く金融雑誌を捲っていた征士は、その手を止めて伸に声を掛けたが、
「ん…、うん」
 と、まだ昨夜の続きのようではっきりしなかった。のろのろ起き上がった彼の髪は、元々細いくせっ毛の所為か「鳥の巣」状態だった。またこの暖かい部屋で、外出用の上着に包まれて眠っていた、彼の顔は些か赤味を帯びて、一見熱があるようにも見えた。
 が、暫くぼんやりしていた目を擦りながら、
「よく寝た…。あ、魚に餌をやってもいい?」
 開口一番にそんなことを言った。寝起きが優れない訳でもないらしい。
「はは、好きなようにしたらいい」
 半睡状態で見聞きした事を、よく覚えているものだと征士は笑いながら返す。そこまで水槽の魚が気になるのかと、とても奇妙な気分だ。すると伸は、途端に溌溂とした動作で立ち上がり、玄関に続く廊下へと出て行った。
 首を横に捻るだけで、征士の居る場所からは廊下の様子が見える。伸がそこに置かれた飼料の瓶を逆さに、中身を手に取って水面にばら撒くと、小さな黄色の生物は一斉にその方へと、上がっては沈む運動を繰り返した。その様子を伸は大人しく見入っていた。無言で何かを話し掛けているように。
 そして「成程」と、征士にも少しその理屈が解った気がした。魚、海、水のある風景、それらは全て伸の家族に繋がる記憶なのだと。恐らく彼はそれを通して、過去の、何気なく過ごしていた幸せな時を見ている。二度と戻って来ない時を映した、アルバムを捲るようにそれを見ているのだと。
 一見和やかな日常の光景も、そうして見ると何だか悲しい。
「今日は出掛けるのか?」
 そこで征士が声を掛けると、
「…海には、今日行かなくてもいいや。次にする」
 意外に伸はあっさりそう答えた。昨日の様子では、「意地でも行く」と言いそうな意志を見せていたが、ともすれば水槽を見たことで気が済んだのか。
「なら何処か別の所にするか」
 そして誰かと同じように、いつまでも水槽の前から動かない伸を知って、征士は、もうその思い出への執着を止め、ひとりで歩き出す訓練をするべきだ、そういう年令だと感じざるを得なかった。自身のルーツは大切なものではあるが、過去を通さなければものを考えられない、などと言うことはない。丁度そこからの転換期に出会ったのだとしたら、少しは気を遣ってやろうと征士は思った。
 しかし、
「あぁ、だったら水族館に行きたいな。僕しながわには行ったことないんだ」
「…ついこの間行ったなぁ、そこは」
「えっ、何で?。もしかしてデート?」
 征士がひとりで行くにしては不似合いだ、と言う意味らしい。確かに彼が自ら行きたがることは、まずない場所だと思う。そして、
「話しただろう、『トラウメン』を連れて行ったのだ」
 征士が答えると、伸は何故だか急に、不満げな顔を作ってがなり立てていた。
「僕はしながわに行きたい!。八景島も、葛西も、サンシャインももう行ったし。しながわ水族館だけは行ってないんだ」
 どうでも良さそうな事柄に於いて、突然現れた頑なな態度。またこの調子か、と思いつつ、
「まあいいだろう、近いから」
 征士はそう返答するしかなかった。元が同じ人格なのだから、同じような場所に行きたがって当然かも知れない。
「うん、じゃ決まり〜!。ごはん食べてから行こう」
 意見が通ると途端ににこにこし出す、これも既に征士の知るパターンだった。
 伸は早速その場を立ち上がると、何処かへ行きたそうにきょろきょろ辺りを見回した。廊下から一旦居間まで戻ると、目的の場所を見付けて、さっさと奥へと入って行った。普通、余所の家では勝手に入らない場所だけに、征士も「おや」という顔をする。すると程なくして、頓狂な叫び声が聞こえて来た。
「なにこの台所〜〜〜!」
 何が起こったのかと、征士は覗いてみたが至っていつも通りだった。伸は無機質なステンレス扉の、あちこちを開けては中を確かめている。相手によっては失礼な行為だが、殆ど何も入っていないのでどうと言うことはない。征士はその、確認作業の手間を省かせるように、
「使わないからな」
 と笑いながら告げた。
「信じらんない!、いくら何でもやかんぐらいあったっていいじゃないかっ!」
 尽く生活感のない部屋、に合わせるように、何も無いと言っていいキッチンルーム。征士は外で摂る食事以外口にしない為、食品の買い置きらしきものは皆無だった。冷蔵庫の中の飲料と氷、棚に並んだバーボンや焼酎の瓶、その他は、カウンターに乗せられたコーヒーメーカーと、その横に豆等のコーヒーセットがあるばかり。並み以上の設備を備えた、立派なシステムキッチンがありながら、水道以外使った試しがなさそうだった。
「でも…、掃除はしてるみたいだね」
 妙に小奇麗なガス台には、目立った埃ひとつ見当たらない。けれどその種明かしは一言で済んでしまった。
「清掃ヘルパーが来るから」
 それを聞くと伸はまた呆れるように、
「だったら家政婦を雇って、御飯も作ってもらえばいいのに!」
 と、入口に立っている征士の方を窺った。このマンションの作り、車、身なりの立派な感じから、それくらいの稼ぎはあるだろうと予想できた。けれど、
「そこまでする必要はない、これで用は足りている」
 何の躊躇いもなく無駄を切り捨てる、征士のそんな価値観も、全く理解できなくはないけれど。
 伸には淋しさを感じさせていた。何故なら人は必要だけで生きる訳ではないから。合理主義も良い、目の前の現実が大切なのも判るけれど、人の歴史はそう整然としたものではない。無駄こそが人間らしさだ、無駄の積み重ねこそ人生なのだと、伸は過去の誰かに教えられた記憶があった。
 大志を持って何かに情熱を注ぐこともなく、或いは熱病のように、ひとつの主義主張に傾倒することもなく、自分のように、流されながら生きている人間が居たとしても、誤りでないことを知った。こんな自分でも生きていて良いのだと、救われた記憶を伸は思い出している。
「うーん…」
 そして今は、それを否定する意味を考えている。無駄こそが人間と言うものの、時として「逃げ口上」にもなってしまう哲学とは、本来弱者の為の便宜として存在するのかも知れない。だとすれば、世の中にはそれを必要としない者も居る。恐らく強靱な精神を持つが故に、苦しみの中に在っても堪えられてしまう人だ。
 自己の存在に弁護を必要としない、自ら希望して厳しく生きる人には、誰が口を挟むことができるだろう。社会活動は別としても、その人は自分ひとりの意志で完結するから、余計な物は何も要らないと言えるのだ。ある意味では羨ましいこと。
 そして、状況を甘受しようと言う意識も見えない。だから君は遠く感じるのか。
 そこまで考えて、消沈するように肩を落とし、黙ってしまった伸に、
「まともとは思えないか?」
 と、彼が何を思っているのか知らない征士は尋ねた。その思い掛けない問い掛けに、ふと伸は顔を上げて彼の方を見る。すると、
「そうかも知れない、自分でもここに住んでいるという気はしない。それで普通だと、感覚が麻痺しているようなものだ」
 目に映った征士の瞳は、偽りなく真直ぐ自分に向けられていた。何かを強く訴えようとする時、相手を正視する征士の癖だった。恐らく本人は気付いていないが、純粋に感情の現れと受け止められる。
 なので伸は、その言葉の意味を間違わぬように、幾度も心の中で反芻していた。
 一見突き放しているように見えるけれど、決して今に満足している訳ではない。もしかしたら、自分が未来を待っているように、君も未来を待っているのかも知れない。僕と君は掛け離れている、持てるものがあまりにも違う立場だけれど、同じ何かを探そうとしているのかも知れない。そう考えても良いかも知れない…。
 すると、伸はそれまでの雰囲気を取り消すように、明るい口調で言った。
「あーあ、折角何か作ってあげようと思って来たのに」
 人間は皆同じ淋しさや愛情を持つものだと、自分の信じることをほんの僅か、征士にも見出せたので、伸は安心して笑顔を見せていた。征士の方は逆に、その発言に少々引っ掛かっていたが。
「何だ?、予定の行動か?」
「あはは、そうだね。大した理由もないのに、君の家に行きたいって言ったら変じゃないか。変だと思うだろ?」
 何食わぬ顔でそう話した伸は、やはり征士には理解し難い存在だった。
「変で済むか、目的は何だ」
「そりゃあね、早く仲良くなりたかったからさ!」
 他意のなさそうな、けれど強かな笑みを浮かべている、伸はこれで結構、世渡りが上手いタイプなのかも知れない。ただ口から出る言葉と、態度がやや合致していないのが問題だ。だから征士は混乱する、対等な友人になりたいにしては人に甘える、恋人になりたいにしては批判ばかりする。何が彼の真意なのかを見出せないでいる。
 だがそれでも確実に、自分の生活の中に彼が入り込んで来ていると思うと、征士は溜息を吐くばかりだった。

 結局遅い朝食は、普段征士が休日の朝に利用している、日仏学園のカフェテラスで摂ることにした。
 日本的な美観の集まる神楽坂の中で、この日仏学園の周辺だけは、フランスの町並みをそっくり持って来た印象だ。過去から留学生等が多く住み着いて、この異国風の雰囲気を作り上げて来たそうだ。そこには本格的なフレンチレストランもあるが、それより気軽に入れるカフェテラスやランチの店の方が、征士には利用頻度が高かった。何しろ部屋では一切食事をしないのだ。
 朝食の場所を決めると、そこから水族館へは直接向かうことになった。始めから車で出てしまう方が楽だからだ。そうと聞くと伸は、早速外出前の自分の身なりを確かめ始める。鏡を見て、そしてはたと気付く。髪はすぐに直せるが、ジャケットの下に着たレーヨンのシャツが、そのまま眠った所為で酷く皺になっていた。
「あっ、まずっ。…あの、もしかして、アイロンも無いとか言う?」
 そんな伸の様子を見ていた征士は、
「いやそれはある」
 と即座に返したが、取りに行こうと一歩踏み出して、何故か動作を止めた。
「…どうせなら着替えて行けばいい、おまえが着られる服なら幾つもある」
 そう言われ、不思議そうな顔をしている伸に、
「クロゼットの一番左の方だ」
 と、征士は居間の隣の寝室を指して促した。
 そこへ行って見てみれば、事情はすぐに伸にも理解できた。他に下がっているスーツ類とは明らかに、色使いやデザインが違う何着かの衣類。手に取ってよく見る程に、生地や仕立はどれも上質で、殆ど袖を通していない物ばかりだった。話に聞いたように、ごく短い間しかここに居られなかった自分の『分身』。けれどとても大事にされていたのだと、こんな所からも知ることができた。
 だが複雑な心境だった。それに到れないことが悔しいのか、それを快く貸してくれたのが嬉しいのか。少なくとも、自分が『トラウメン』に成り変わることはできない。同じように付き合うことは到底できないと、理解しているつもりの伸だけれど。征士の中で、毛利伸とトラウメンの区別がどう付けられているのか、とても気になった。
 消えてほしい、過去の不必要な記憶。過去から生まれる悲しみ。
 彼の中からも、僕の中からも。
 クロゼットの中から伸は、自分が最も好きな色の一着を選んだ。奇しくもそれは、みどりが同じ水族館に出掛けた時の物だった。無論伸には知り得ないことだ。



 大通りに出れば問題ないが、神楽坂の幾分細めの路地を走る、銀のポルシェは浮き上がるように目立っていた。
 休日の学生や主婦、老人、何でもない住人達がのんびり歩く冬晴れの午前、車が横を擦り抜ける度に、人々が「わぁ」と驚く顔をするのを、伸は車内から満足気に見送っていた。
「見てる見てる、やっぱりこういう町中だと目立つね」
 いつか、初めて一緒に出掛けた時にみどりが着ていた、水色のシルクの上下を着ている伸は、征士には殆ど区別できずに映ったが、
「でも車はいいとしても、君の生活態度はどうかと思うよ、僕は」
 と再び説教が始まると、流石に同じものとは思わなかった。
「どの辺が?」
 ハンドルを切りながら、征士が一言だけ返すと、
「仕事が好きなのはいいけどさ、あれじゃ家に帰る必要ないじゃないか。高い家賃払って、掃除してくれる人を雇ってさー、それこそ無駄だと思う。会社に住んでた方がいいんじゃないの?、よっぽど時間と経費の節約になるよ」
 伸はいつも通り愉快そうに、またずけずけとそんなことを言った。征士は笑ってそれを聞き流していた。
「極論すぎやしないか?。まあ当らずしも遠からずだが」
 伸に取っては小言も世間話の内なのだろうと、彼の話し方を大分理解して来た征士は、今は軽やかにそう返せた。ところが、
「…嘘だ」
 と、伸は突然真顔になってそれを否定した。
 つい先刻まで機嫌良く喋っていたかと思えば、こんな場面は気を付けなければいけない、と征士にはそれも既に読めていた。何らかの言葉や行動でスイッチが入ると、途端に態度がプラスかマイナスに変わる。今は何か、本音らしきことを切り出そうとしている前兆だ。そして伸は、触れてほしくない傷に触る言葉を、敢えて彼に投げ掛けていた。
「君は仕事人間のままでいいと、思ってる訳じゃないんだ。だから『トラウメン』みたいな物に、心を惹かれたりするんだよ」
「・・・・・・・・」
 どう答えて良いか判らない。しかし征士に面白くないのは確かだ。
「おまえに何が解る」
 そう言って、また突き放す態度に出た彼に、けれど伸ももう怯みはしなかった。
「はは、図星だ、そうだろ?」
 まるで切り札を得たかのように、伸は笑ってそう返した。そう、確かに切り札かも知れない、トラウメンは人の心の弱い所に作用する物体だ。その有り様を明かしてしまった為に、征士から見ればまだ子供の部類の、伸にやり込められている事実が情けなかった。彼に当たる訳にもいかない、言われなくとも己の何処かで解っているけれど。
「見事な推察力だ、おまえは弱味を握ったという訳だ。それで?、これからどうしようというのだ」
 開き直りの言葉は何処か刺々しい。
「私がおまえの言う通りにしたら満足なのか?」
 けれど、
「別に、そんなつもりはないよ」
 さらりと伸は返した。それが嘘ではないと言うように、彼は穏やかな微笑みを征士に向けていた。そして続けて、
「みんな色んな形の生活をしてて、色んな形の心を持ってるけど、人が求めてることはそんなに変わらないと思うんだよ。だから君は、君の好きなようにするのがいいと思っただけ。…僕が言うことじゃないけど」
 そんな話を聞かせた伸に、感慨深い様子で、
「解らんなぁ…」
 と征士が返す頃、車は丁度目的地である日仏学園の前に止まった。
 今はとても重要な話をしていたように思う。もう少しこの会話を続けたかったが、そんな時に限って途切れてしまった。実際征士の返事にはふたつの意味が混ざっていて、是非それについて明らかにしたかったが、ここではできなくなってしまった。
 即ち、押し付けるつもりがないなら何故付き纏うのか、好きにしろとは何を指しているのかを。

 余所では見られないフランスの町並みと、古き良き日本が調和した珍しい風景に、伸は車を降りて、心を弾ませるように走って行ってしまった。すっかり枯れ落ちた庭の木の葉が、紅葉の色と淡い朽葉色に染め分けられ、彼の水色の服を際立たせていた。止めた車の前から、遠目でその光景を見ていた征士は、そのたったひとりが辺りを明るくしているように見えた。
 単純な物質は所詮、その所有者を喜ばせることしかできないが、命ある存在は他の全てに影響する力を持っている、と感じる。
 無論本人にそんな意識はないだろうが、そうでありながらきっと、「食事は家で食べるのが基本だよ」とでも苦言を呈して、彼は楽しそうに食事をするだろう。伸の口から出る不満は一種の潤滑剤かも知れない、と、そんな想像に行き着いて、征士は一頻りそこで笑っていた。車の前を中々歩き出そうとしない彼に、伸は大きく手を振って拱いている。遠くからでも判る、屈託のない笑顔を浮かべて。
 そんな時ふと征士は気付いた。目に着く身近な物事には文句を付けても、条件取引のような要求を持たず、基本的には人の行動に寄り添っている。その上で巡り来るそれぞれの状況の楽しさや悲しさ、幸福や絶望を見い出している。伸はそんな風に生きているようだと。
 そして、そんな彼の在り方を知ってしまうと、「それほど変わらない」と征士は自ら納得してしまった。環境の違いで枝葉が変わる程度に、オリジナルとコピーは離れていないのだ。
 では、今自分が見ているのは誰なんだろう?。
 漸く歩き出した征士を確認すると、伸は先を急ぐように奥へと走って行く。彼の軽やかな足取りは、何か楽しいものがその先に待っているような、明るい予感を感じさせていた。ずっとこんな時間が続いてほしいと、思ったのはどちらの心だっただろう。



つづく





コメント)直しても直しても思うようにならないので、今ちょっと音を上げて来たところです(- -;。ページ毎の容量の問題で、思うように加筆できないのが辛い。ページを増やすとカットも変えなきゃならないので、妥協面がどうしても出て来ます…。
 さて2番のページに書こうと思ったら、容量が足りなくてこっちに書きます。
 この話を書く少し前、しながわ水族館には行って来たばかりでした。私個人は近場の水族館は、八景島以外は行ったことがあります。遠い所では、やっぱりちゅら海水族館には行ってみたいですね。
 あ、それともうひとつ、征士とみどりがその後に行った湾岸の町は、青海のヴィーナスフォートです。こっちは同人イベントの帰りに寄った(笑)。でも2000年頃の風景だから、今とはちょっと違うかも知れませんね。




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