車内の伸
トロイメライ
#5
Traumerai



「そんじゃ、落ち着いたところで、早速話をしてもらおうぜっ」
 テーブルに点心の入った蒸籠が、白い湯気を漂わせて運ばれて来た頃、確かにこの高級そうな店に不似合いな言葉遣いで秀は言った。それぞれが僅かな緊張感を持って場を囲んでいだ。
 さて征士の「話」と言うのは、単に彼等と接近する為の口実に過ぎない。当麻から、それを期待して待たれる身の彼は、世間話程度の話題では決まりが悪い、と俄に悩み始めた。
 この場合思い切って、『トラウメン』に関する一連の出来事を話せばいいのかも知れない。しかし恥ずかしい思いをして、それがやはり世間話に終わってしまっては意味がない。話の方向性をコントロールしながら上手く話そう、と、征士は仕事の延長のように考えを纏めた。
「何処から話せば良いかな…」
 口許にグラスを着けたまま、彼は注意深く言葉を選んでいた。
「君達は、『トラウメン』という名前を聞いたことがあるだろうか?」
 反応は鈍かった。
「…何だそりゃ?、食い物か?」
 そして秀の発言に、横では大袈裟な笑い声。
「そう言うと思った!、『メン』って付いてるからね〜、絶対『ラーメン』とか『タンメン』とか、そういう仲間だと思うんだよね?」
 伸は満足気な顔で秀を指差すと、一頻り笑い続ける。それから、彼自身の持つ知識を話してくれた。
「週刊誌なんかで話題になってるやつでしょ?。超リッチな人の間で流行してるんだって。これまでに見たこともない物で、『人には掛け替えのない友達』なんだってさ」
 秀は「ふーん」と頷くばかりだったが、征士はそれに一言付け加えた。
「いや、実際はそこまで高い物ではない」
 すると、にこやかな表情を不思議そうな面持ちに直して、伸は興味深そうに質問を返して来た。
「え、そうなの?。普通の人には買えない値段だって聞いたけど、いくらか知ってるの?」
 事情を知らない者には、所有者が少ない理由は「高価だから」と考えられて当前だ。無論事実はそうではない。が、そもそも「買う者を選ぶ商品」というのは、おかしな話なのかも知れない。
「二百四十万だ」
「高いじゃんかよ〜」
 と、即座にそう返したのは秀だった。高級レストランの息子でありながら、兄弟の多い彼は意外に質素な生活をしているようだ。しかし伸の方はクスと笑って見せた。
「別に高くないよね〜?、ポルシェは三倍くらいするしさ」
 秀が目を見開いて呟く。
「何の話だぁ?」
 自分には今先刻会ったばかりの男だが、伸と征士には既に、自分の知らない交流があるようだ。と気付いただろう、秀の知りたがりな気性を煽るように、伸はわざと気を持たせる間を置いて話した。
「…ここに来る時、大学の前から乗せてもらったんだ。アークティックシルバーのボクスタースポーツだよ、しかもぴかぴかの新車!。いや〜、良かったよ〜、やっぱり車は装飾より走りだね」
 するといかにも、『羨ましい』という顔で伸を見ていた秀は、そろそろと首を回して、今度は征士の方を見ている。その表情に征士は、『強請らないでくれ』と無言で訴えたが、果たして彼に伝わったかどうかは疑問だ。
「ちぇー、あんたいい身分だよなぁ、俺も早く稼げるよーになりてー」
 結局吐き捨てるように言って、頬を膨らませながら何かを思案している秀。話があらぬ方へ行ってしまいそうな予感に、征士は繋ぎの言葉を探し始めていた。しかし、伸の話はもう少し続きがあった。
「何言ってんの秀、今頃そんなこと、見るからに分かるじゃないか。コートはバーバリー、スーツはアルマーニ、靴はトラサルディで、ネクタイは、多分ターンブルアッサーだと思うよ。それでロレックスの時計と金のタイピンをしてて、これが金持ちじゃなかったら何なんだ!って感じだ。だから『トラウメン』みたいな物も買えるんだよ」
 征士は苦笑するしかなかった。有名なブランド店のものはともかく、英国王室御用達のターンブルアッサーを見抜いたのは、大した観察力だと思う。そしてその観察力のお陰で、話が元の軌道に戻りそうでもあった。
「よく見てるな」
「そりゃだって、持ち物とかで大体分かることもあるからね。僕は怪しんでたから、よーく観察させてもらったよ!、ハハハッ」
 伸は得意そうに言って、更に続けた。
「それで?、要するに『トラウメン』を持ってるんだよね?、どんな物なのか教えてほしいな〜!。僕の周囲じゃ、実物の話を聞いたって奴すら居ないよ」
 奇妙なことだと、征士は小さく溜め息を吐いて、落ち着かない様子で答を待っている彼を眺め返す。『トラウメン』になった本人にしても、その真実は興味の湧く話題らしい。恐らく彼は知らないのだろう、自分のパーソナリティがコピーされていたことを。
『きれいに話の落ちを着ける為には、その話題を中心に据えるのが肝要だ』
 征士は改めて頭を切り替えると、これまで辿った時間を日記のように、淡々とふたりに伝え始めた。
 窓の外は寒々しい夕入り、北風に絶えず揺れる枯れ枝が、窓ガラスを掻き撫でる音がしばしば聞こえる。けれどテーブルを囲む彼等の間には、冷え込む空気が漂うことはなかった。暖房の所為ではなく、ここは確かに暖かい、と征士は感じていた。



「ふざけた商売だぜ、まったく!」
 これまでの経過と、『トラウメン』の事実を聞いた秀は憤慨して言った。当たり前の反応だと征士も思う、例え「物」でも自分のコピーが、勝手に他人の奴隷にされれば不愉快だ。否、事件に因って未来は断たれたものの、もし何事もなく『トラウメン』のある世界が続いていたら、それだけを相手に暮らす老人などが、大勢存在したことだろう。そうならなくて良かったと、思うべきなのかも知れない。
「伸もいい迷惑だよな!。あいや、あんたが悪ィって意味じゃねぇぜ?、勝手に人の情報を盗んで商売にするなんて、とんでもねぇ悪党だと思ってよ。名簿の横流しとか、盗聴とかって話の方が、気分悪ぃけどまだマシだな」
 しかし秀は怒りながらも、征士にはその憤りを向けないでいてくれた。彼は見た目のがさつさと違い、意外にも人に気を遣う性質のようだった。一通り話を聞いて、自分を哀れに感じたのだろうか、と征士は心の中で笑う。
「それより、遺伝子の問題の方が近いんじゃないの?。クローンみたいな」
 秀の発言に付け足して伸はそう言った。
 これで征士は大方の出来事を話してしまった。先に買った友人に勧められたこと、疑いながら自分も買ったこと、新宿に在った怪しい店の様子、その従業員達、その後の生活のこと、満ち足りていたこと、そして取り返しに来たことと、明かされた『トラウメン』の秘密のこと。それらの話には無論『みどり』が登場したが、ほぼ話を終えた今でも、伸は特に変わった様子を見せなかった。まだ実感として受け止められる話ではないのかも知れない。
 寧ろ今は秀の方が、納得行かない様子で首を傾げていた。
「でもよぉ、クローンっておんなじ人間にはならねぇって言うよな?」
 そう、よく言われることだが、同じ遺伝子で作られた生物も、成長過程が違えば差が生じて来るらしい。確かにそれは征士の話と矛盾した。みどりと伸はそっくりだと言ったのだから。けれど、正確に言えば『トラウメン』はクローンではない。
「恐らく時間が止まっているのだろう。生物は刻々と変化して行くが、安定した物質の中にあるものは、そこから変化しようがないからだ」
 征士はそう答えながら秀の様子を窺っている。やや理解力に欠ける所があるのか、口頭の説明だけではどうも、彼に納得してもらえないようなので。そこで征士はスーツの胸のポケットを探ると、当麻から返してもらった写真を彼に差し出した。
「…えっ?、何だよこりゃ!?、もしかして…」
「それが『みどり』だ、残念ながらそれしか写真はないが」
 不機嫌そうに眉を顰めていた秀の、表情が一変して驚愕の色に染まる。食い入るように写真に両目を寄せている秀に、征士は自嘲するように、しかし穏やかに笑って見せた。そんな物を後生大事に持っているという事実が、恥ずかしいような情けないような気持ちで。
 また、秀の大袈裟な取り乱し方を目の当たりにすると、伸は彼の横から体を傾けて、しきりにその写真を覗こうと試みていた。気付いて、秀はそれを彼に手渡しながら、
「げー、冗談にしとけって感じ。こんなのってやっぱ異常だぜ…」
 と、顰めっ面の彼は彼なりに、事実を認識した様子を見せていた。実際は目で見るよりも、感覚的な部分で相違を見分けられる『トラウメン』だが。
 渡された写真に写る人物を暫く、じっと見詰めていた伸はぽつりと言った。
「これ、ほんとに僕だね…」
 それからも彼は黙ってそれを眺めていた。本人がそう言うのだから間違いないだろう。鏡に写る姿ですら虚像と判るが、恐らくそれ以上に己に近いものを感じている。知らない服を着て、知らない思い出の中で笑い掛ける自分の顔に、伸が思うことは想像も付かないけれど。
 征士はただ、大人しく写真に見入っている彼を見守っていた。すると、
「きっと、コピーされたのはそんなに昔じゃないね。でも全然そんな覚えないな」
 再び口を開いた頃には、伸は冷静にそんな見解を聞かせていた。
 そうして彼が、割に穏やかに事を受け止めているのが、征士には何処となく奇妙に映っていた。これを「大した事じゃない」と言える人間が居るだろうか、勿論誰もかもが同じように考えるとは思わないが…。と征士が思考し始めた時、
「あっ!、そういや、前に変な事があったじゃんか!」
 と、いきなり秀が立ち上がって言った。すぐに彼の方を向いた伸にも、身に覚えのある事らしかった。
「変な事とは?」
 征士が尋ねると、秀は舌を噛みそうな勢いで訴えて来た。
「一年くらい前の事だ!。そうだ、丁度行楽シーズンでよっ、午後からバイクで出掛ける約束して、山下公園のベンチで昼メシ食ってたんだ。そしたらよ!、俺らの周りを何かうろうろしてる奴らがいて、『君達大学生かい?』とか言って話しかけてきてよ。それで…!、それで…どうしたんだっけ?」
 突然話は途切れた。しかしそれは仕方がないと、伸は補足するように言った。
「憶えてなくて当たり前だよ、多分僕ら気を失ってたんだ」
「そうだぜ!、多分あいつらが何かしたんだ!、突然目の前が真っ白になっちまって…」
 そこで一言征士は質問を入れる。
「それはどんな奴だった?」
 すると、返って来た答は征士には予想通りのものだった。
「とにかく変な奴らだったぜ?。髪型から服から、顔にでっかい傷跡があったりして、映画かドラマの撮影でもやってんのかと思ったぜ」
 そこからはまた鮮明な部分に入るらしく、序盤の勢いを取り戻して秀が続けた。
「それで気が付いたら深夜になっててよお!、慌ててベンチから起きようとしたら、起きるのもやっとなくらいフラフラになってたんだぜ!。腹が減ったなんてレベルじゃねぇ、一週間も絶食したような感じだった。ついでに寒くて凍えそうだし、俺も伸も、バイクどころか歩くのもやっとでよぉ。何とか公道に出てタクシー拾って、俺んちに来たらもーバッタリだったんだ」
 一通りを話し終えると秀に代わって、伸が自分の考えを話し出す。
「うん…、僕もその時が怪しいと思うけど、どう思う?」
 彼の目線が征士に向いていたので、
「…その通りだと思えるな。顔に傷のある男なら、私が新宿の店で見た内の一人だろう」
 と、話が噛み合うことを征士は説明した。
 異世界から来た彼等のことだから、どんな方法でそれを行ったかは判らない。今となってはもう、聞くことのできない謎の中の謎だ。しかし、と征士は思う。今はそんなことは重要じゃない。今ここで初めて知った、目の前のふたりが共に同じ事件に遭った、という事こそ大切だった。これで当麻に報告できるネタがひとつできた訳だ。
 お陰で、征士は多少気分的な余裕を持てるようになったが、その様子の変化に伸は目敏く気付いて言った。
「何か嬉しいの?」
 と尋ねた彼も、不思議と柔らかな表情で笑っている。
「ああ、事実が分かっただけでも助かるよ。仕事でも何でも、釈然としない物事を抱えたままでは、落ち着かないからな」
 征士がそう答えると、伸は何処か含みのある様子でもう一度、机の上に置かれた写真に視線を落とした。不可解な、何かを懐かしむような淋しげな眼差し。彼には何ら関係のない場所と人物を、いつまでも名残惜しそうに見詰めている。そして彼は言った。
「そうか…、だから僕に会いに来たんだね」
 確かに。と言葉にはしなかったけれど、当麻に命じられたから会いに来た、だけではないことを征士は正直に感じていた。己の中で、有り得ない虚構と現実の区別を付けたかった。そしてそれで終りにしたかった。でけなければ、心が何処までも追い求めようとするからだ。
 今目に見える世界が全て。それで充分だと理解しなくてはならない。確かに『毛利伸』という人は居るけれど、みどりではない、時間が経つ程にその違いは明白になっていく。明るくよく喋る、不平も悪戯心も持つ彼は人間だからこそ、別物なのだと理解することができる。それで良い、それで完成された一個の人間として、確かに存在しているのだから。
 考えてみれば、夢がそのまま現実になるなど、恐ろしい話かも知れない。それはつまり己に取っての、現実を失うことに他ならないからだ。それでも良い、と一時の感情では言えても、本当のところは、この生を終えてからでなければ解らない。生きて来た全ての背景を捨てて、真の幸福に到れるのかどうか。
 願わくば、この選択が間違いではなかった、と思える日が来ればいい。と征士は思った。
 するとその時、
「これ貰ってもいいよね?」
 伸はそう言って、何故か征士が持参した写真を強請った。どう言う心境だかまるで解らないが、別段必要な物でもないので、
「構わないが…」
 と返した後に、征士はその理由を聞こうとした。が、
「ありがとう!。じゃあ代わりに僕が友達になってあげよう!」
 先に伸が、半ば押し付けるように言った。
「っ、アに言ってんだよおまえは〜!」
 先程まで、勢い良く話し続けて空腹を感じたのか、秀はふたつ目の粽を口にすっかり納めていた。しかし伸の思いも拠らない発言に、口を挟まずに居られなかったようだ。そして「とんでもない」という顔をして、無言のまま伸に訴え掛ける。けれど伸はしゃあしゃあと言ってのけた。
「だって、この人運用のプロなんだよ?。僕は将来自分の会社を持とうと思ってるんだから、こういう人は友達にしとかなきゃ。ね?」
 何とも明瞭で現金な態度、で切り返すのを見て、征士は笑わずには居られなかった。
「フフ、まあ、私の専門なら何でも聞いてくれ」
「ほら、そう言ってるじゃないか!」
 妙に上機嫌になった伸と、それに合わせてくれたような征士。大丈夫、と念を押された秀にこの状況は解らなかった。否、訪ねて来た男の側からすれば、理由あって親しくなりたいのかも、と思えるが、それより近付きたがっている伸の心境は、友達の自分にも理解に苦しむものだった。
 この馴れ馴れしさは何なんだ?、先刻会ったばかりの人間に対する態度か?。それに、自ら危険に飛び込むようなことを言って、何だか普段の伸とは違う感じだ。と、首を傾げている秀を余所に、既に伸はかいがいしく紹興酒のポットを持って、征士にお酌をしようとしていた。
「あれ、もう入ってないや」
 持ち上げてみて、軽く感じたポットの蓋を開けると、その底を僅かに浸す程しか中身は無かった。話に熱中していて気付かなかったが、その間に全て征士の胃袋に消えてしまったらしい。伸と秀はきょとんとして征士を見るが、変わらず涼しい表情で顔色も変えない。
「お酒強いんだねぇ」
 素直に感嘆している伸に、何故だかみどりがダブって見えた。
「ん?、私の実家の方では、酒が呑めないと一人前と認められない風潮があってな。そういう環境で育ったからだろう」
 征士がそう説明すると、
「あ!、あんた北の方の人だろ?。どうりで外人みたいに色が白いと思った!」
 と秀がすぐに反応した。十才の頃から、日本全国を旅して回っている秀には、それぞれの地域性に関する知識はあるらしい。
「家は仙台に在るが…、もう十年近く帰っていないから、無いも同じかもな」
「どうして?、帰りたくないんだ?」
 そこで伸の投げ掛けた素朴な疑問。普段は滅多に口にしない話だったが、不思議と征士は隠さずに答えた。
「そうだな、帰りたくなかったのだ。家では窮屈で身動きが取れなかった。東京の大学に来てから、一気に家に対する反発心が出て来て、こっちで勝手に独立したままになっている。そんなところだ」
 初対面の者にすらすら身の上話をしている、自分を変だと征士も感じている。思いの外、自分は伸のペースに乗せられているようだと気付いた。彼が知りたがっている事、彼が要求する事に何故だか逆らえない、そんな気がして来た。
「ふーん…。でも在るのと無いのとじゃ全然違うよ、今が幸せすぎて気が付かないだけさ」
 しかし伸は突然不満そうな口調に変化した。またその言葉は少し前にも聞いた、『在るのと無いのとでは大きな隔たりがある』と、事に当たる前に当麻は言っていたけれど。確かに、彼の理論も現実味を帯びて来た。見えている物体に心を動かされることがある以上。
「そうだ、昔の私はそうだった。今は認めているよ。ただ、これが習慣になってしまって、今更戻れないというだけだ」
 征士がそう返すと、伸は途端ににっこり笑って、
「そうか、そうだよね」
 と答えていた。彼は元の調子に戻ったが、何に賛同しているのか、征士には今一つ掴めなかった。

「おねえさん、これもうひとつ持って来て」
 調理場との境に立っていた、アルバイトのウエイトレスの女性に向かって、伸は空になったポットを掲げて見せた。と同時に、反対側の店の入口では、自動ドアから二組の客が入って来て、そろそろ夕食時であることを彼等に伝えた。徐々に夜の活気が漂い始めた店内。
「ああ、ついでだからメニューを持って来るように言ってくれ」
 征士が伸にそう伝えると、秀が横から、
「おう、メシ食ってくんだったら、『料理長のおすすめコース』がいいぞ?。よし、今日のところは俺に免じて無料奉仕だ!」
 と妙に調子良く言った。
「…いいのか?」
「随分気前がいいじゃないか、どうしたの秀」
 些か呆気に取られているふたりに、けれど秀は当然というように、
「伸が言ったんじゃねぇか、こういう奴は友達にするべきだって。俺だってなぁ、近い将来自分の店を持つつもりなんだ!、あてにさせてもらうぞ?」
 そう言って、征士に有無を言わせなかった。
 まあ、彼等の信用を得られたのは良かったが、この取り引きは高い方に付いたと、征士は苦笑いをするしかない。けれどそれでも、空虚さに打ち拉がれたこの数日を思えば、それは損でもないと何処かで感じている。例え思うようにならなくとも、無いより在った方がいい、と素直に感じている。
 今日、ここに来て良かったと感じていたのは、何よりも心だ。
 始めから在る筈のない存在に決別を。子供のように、見境いなく夢見ることに終止符を。我を忘れる、麻薬のように甘美な記憶に封印を。取り留めのない欲求の流れ着く場所で、全てを一手に引き受けていた幻の人に、さよならを。『みどり』にさよならを。

 食事を終えて店から帰宅する際、征士は再び伸を自分の車に乗せて、茅ヶ崎の彼のマンションまで送って行った。海沿いの夜の道路を走る間、伸はずっと窓の外の、暗い波打ち際を眺めていた。
「海が、好きか?」
 と征士が聞くと、伸は振り返らずに、
「うーん、好きも嫌いもない。ずっと海を見て育ったから、どこか安心するんだよ」
 と言った。そう言えば、自分の実家の話はしたが、彼等のことは特に何も聞いていないと、
「君達はこの辺りで育ったのか」
 征士がもう一言尋ねると、
「秀はね。…僕は山口県に住んでたんだよ」
 伸はそう答えて、窓の外の景色に沈むように、それきり何も話さなくなった。海に繋がる彼の記憶、否、伸とみどりの記憶が、彼等を魚のように無口なものにする。征士にはそう思えてならなかった。



 翌日、いつも通り慌ただしい雰囲気のオフィスで、一応の定時である午後六時に終業チャイムが鳴ると、いつも通り忙しなく仕事をこなしていた征士の、机上の電話が合わせるように鳴り出した。
『お電話ですが、そちらに回しますか?』
 オペレーターの声に、ふと当麻のことを思い出した。またもや征士は、彼に報告するのを忘れていたようだ。仕事以外の事にはいい加減になっている、最近の征士の悪い癖だった。
 ところがそれは当麻ではなかった。
『もしもし、僕だよ、わかる?』
 街のざわめきを背後にした携帯電話の音。判らない訳がない、昨日はずっと聞いていた声だ。
「ああ…」
 昨日出会ったばかりで、向こうから連絡を入れて来るとは思わなかった。征士はややたじろぐような声を発したが、伸は構わず話を続けた。
『ねえねえ、今日これから暇?。今神保町にいるんだ、教科書買いに来たんだけど、君の会社から近くじゃない?。何処かで会えないかなぁ、色々教えてほしいことがあるんだ、何でも聞いていいって言ったよね?。…クス、嘘だよ、何でもってことない、君の仕事に関係ある事だよ』
 受話器の向こうで楽しそうに捲し立てる、伸の気持ちは解らないでもない。嘗て自分もそうだったように、社会人の真似事をしていた大学時代は、何でも自分達のやり方で物事を通していた、恐いもの知らずだったと今は思える。それを「学生気分」と人は言う。
「今すぐは無理だ、まだ当分終わらない」
 至って平坦に答えた征士。電話を肩で受けながら、手は資料の整理に余念が無い。
『えー、残業なんだ〜。じゃあ明日はー?』
 がっかり、という心情が声色にはっきり現れている。けれど征士にはどうすることもできなかった。
「明日は今日より遅くまで予定が入っている」
『えー?、明後日は…』
「同じようなものだ」
 それ以上尋ねても埒が開かなそうだと、伸は質問の仕方を変えてみる。
『じゃあいつならいいの?』
「いつ、と言われてもな。いつもこの調子だ」
 征士にしてもそう返す他はない。事実今週の仕事のスケジュールは一杯一杯だった。特に昨日休んだ皺寄せが来ている。
『でも土日は休みでしょ?』
「法律上そうなっているが、必ず休みとも限らん」
 すると、
『そんなのおかしいよ!』
 伸は急に怒り出していた。あまりの剣幕に征士は驚いて、受話器を落としそうになった。
『労働基準法に反してるよ!、そんなに働いちゃいけないって決まってるだろ!。どういう企業なんだよ?、君だって、何で大人しく従ってんの?』
 何やら誤解をしているらしきその内容に、征士は、
「強制されている訳ではない、自分で決めた予定をこなしているだけだ」
 と返すが、それで伸が収まることはなかった。むしろ余計に煽ってしまった。
『尚悪いよっ!、自分でそうしてるなんて信じらんない、何考えてんの?。仕事をする為に息をしてごはん食べてるの?。自分でおかしいと思わない?、変だよ』
 しかしそこまで言われると、流石に征士もカチンと来てしまう。人の事情を知りもしないで、言いたいことを言ってくれると。
「私が好きでやっていることだ、人に意見される筋合いはない。とにかく明日も明後日も遅くなる。用はそれだけか?、学生と違ってこっちは忙しいんだ」
 すると、突き放した言葉の後に、あっさり電話を切られてしまいそうな予感。一抹の不安が、突然伸の頭の上に降りて来た。それまでさして気にもならなかった、道を行き来する人の雑踏や話し声が、己を掻き消してしまいそうに耳に響く。
 征士はまだ知らない彼の一面。
 ひとりは嫌だ。
 と伸は、日頃思うともなく思っている。そして誰もがそうだと信じたがってもいる。今は、自分にも非はあるだろうが、冷ややかな態度で返されたのが酷く辛かった。何故、誰の意見も聞かないなんて言うのだろう。何故、わざわざ自分に会いに来てくれたのに、迷惑そうに返す…。
『ううん、まだ終わってないよ』
 伸はそれまでの口調に変えて、畏縮したように静かに話し始めた。
『じゃあ、やっぱり今日がいい。…いつになったら帰れるのかな?』
 自ら折れて、しおらしい態度になった彼の様子に、些か自責を感じた征士は腕時計を眺めながら、暫しの間黙り込んでいた。
「…早く終わっても九時頃だぞ」
 そう答えて、征士もまた溜め息を吐いた。それ迄にはまだ三時間もある。しかし、
『うん、分かった、何処かで待ってるよ。何処に居たらいい?』
 伸は穏やかにそう返した。「信じられない」のはむしろ彼の方だと征士には思えた。そこまでして会わなければならない理由が、あるのだろうかと。
「ああ、そうだな…」
 けれど解らないながらも、征士は待ち合わせ場所を思案し始める。何だか妙だ、と昨日から思い続けていることがあるからだ。彼は征士のよく知る『トラウメン』ではない筈なのに、自分に纏わり着いて来る感じがある。否、最初はそうではなかった。昨日の内の何処かで趣きが変わったのだ。
 その理由を知りたいと征士は思った。



「あれ、今日はベンツなんだ」
 征士が指定した大手町のビル街の一角、深夜近くまでビジネスマンが集う喫茶店で伸を拾った時、車の時計は既に九時半を回っていた。
「これは仕事用だ。特に好きでもないが仕方ない」
 そう言った征士は、確かに昨日とは違う顔をしているように、伸には感じられた。着ているスーツ、車の内装や備品、素っ気ない高級感に纏められた、企業人の顔そのものの様子。それらはまだ伸の知らない世界に属する、馴染みのないイメージだった。ラフな普段着の自分が、それらとひどく不吊り合いに思え、生きている世界が違うようにさえ感じさせた。
「さっきはごめんね、怒った?」
 ゆっくり走り出した車の、窓の外には外灯やビルの明かりが煌めいている。都会の夜は昼間のそれとは違い、別世界のように静かできれいだ。苛立っていた気持ちも、そこに吸い込まれるように穏やかになる。
「まあな。仕事中毒なのは認めるよ」
 そして嘘を吐いていないのも判る。征士と言う人はきっと、趣味的な他の何かよりも仕事が好きなのだと、伸には理解できた。そうでなければ、本当の自分を完全に殺すような、型通りの体裁に己を収めようとは思わないだろう。しかし、
「そんなに面白いの?、君の仕事」
 と聞くと、征士は芳しくない様子でこう答えた。
「どうかな。始めの頃は面白くて仕方ない時もあったが…」
「今は違うの?」
 当然、それでは合点がいかない伸は問い続ける。好きでもないなら、何故今もそれに生きているのか解らない。そして征士はその答を躊躇った。己の弱味を見せてしまう気がして。いい大人である自分が、まだ学生である彼に愚痴を零すのでは、余りに情けないと感じた。
 そうして答えない征士の横顔を見ていた、伸はふっとその視線を外して、掴めない無力感を抱き締めるように、シートの上で膝を抱える。
「僕には分からないな。好きでも、必要でもない事で、もっと大事なものを犠牲にするなんてさ。社会に出るとみんなそうなるのかな…」
 呟くようにそう話した、伸はこれまでと違う、ひどく弱々しい印象を征士に与えていた。電話口で怒鳴り散らし、目上の者に平気で説教をした彼と、今は同一人物とは思えなかった。
 昨日もそうだった。理由があるのかないのか、ころころ豹変する伸に振り回されそうだと征士は思った。彼はまるで、雲の上で振られる賽の目に、一喜一憂して時を過ごしているようだ。何処かから来る不安定さで、やたら陽気になったり不貞腐れたり、攻撃的になったりもする。そして今は消え入りそうに沈んでいるのだ。
 厄介な性格だと思いながらも、征士は気になる様子を窺うように話し掛ける。
「もっと大事なものとは?」
 すると暫しの間考える様子を見せて、伸はこう答えた。
「人の繋がりとか。ううん、仕事にも付き合いはあるだろうけど、そういうんじゃなくて、家族とか、友達」
 征士はフッと笑う。
「友達はともかく、家族は居ないも同じだと言っただろう」
 けれどその言葉が、伸を豹変させるひとつのキーワードだったことに、征士は漸く気付いた。
「嘘だよ!、居ても居なくても同じなんて絶対ないよ、そんなことは言わせない…」
 突然身を乗り出して訴える彼に、征士も、その核心にあるものが何かを覚り始める。
「…君の家族は?」
 征士が尋ねると、一度いきり立った態度を自ら冷ますように、静かな動作でシートに座り直してから伸は話した。
「もう居ないよ、五年前にみんな死んだから」

 漆黒の空と物言わぬ木々の先、均等に並んだランプと反射板、高速道路に入るとより一層の静寂の世界が続いていた。揺れの少ない大型の車体が、その世界の中の小さな、大切なふたりの空間を守っていた。そしてそのしじまを乱さない音楽のように、密やかな会話は流れていた。
「…それは悪かったな、気付かないで」
 無論聞かなければ知りようもないが、確かに無神経な発言だったと征士は思う。またその所為で彼は情緒が不安定なのだと、大体理解することもできた。
「ううん、僕もどうかしてる、そんなにむきになることじゃないのに。…もうかなり前だし、普段はすっかり忘れてるんだ」
 けれど伸は伸で、自分の言動に疑問を持っている様子だった。何か、己の中にある形のないものに揺さぶられ、衝動的に心が駆り立てられるような、闇雲な不安を常に感じていた。
「今はね、秀の家が僕の家族のようなものなんだ。あいつの家、兄弟五人と伯父さんと伯母さんと、お婆さんと、まだ他に海外から来てる従兄とか、店の従業員とか、色んな人がいつもいっぱい居てさ。すごい賑やかだし、区別もなくてみんなごちゃ混ぜになってるんだ。こっちに出て来た時、秀しか知り合いは居なかったんだけど、居場所が在って良かったって感じだったよ」
 そこまで、伸が自ら語ることを大人しく聞いていた征士だが、
「それまではどうしていた?」
 とそこで質問していた。伸がこだわる「家族」とは、どんなものだろうと征士は思う。そして伸は遠くを見るように顔を上げて、思い出される幾つかの場面について話し出した。
「僕の父は、企業を営んでいた。そんなに大きくはないけど、地元では知られていたよ。母はとても優しい人だった。いつも家族が居心地良いようにしてくれていた。僕が高校二年になる時、姉が結婚して家にはお義兄さんも一緒に住んでた。しっかりした頼れる人だって、父の会社でも評判の良い人だったよ。僕も好きだった。
 その年の夏に…、僕は水泳部の合宿に行った。その間家族は先に、北海道に在る別荘に向かって、僕は合宿が終わったその足で、そこへ行くことになってたんだ。そうしたら、何日目だったかな、学校に連絡が来て、専用機が墜落して、みんな死んだって言うんだ。
 それから暫くは、何も考えられなかった。学校にも行かなかった。ただ家に居て、父の会社の人や弁護士や、親戚の人がうろうろしてる中でぼんやりしてた。みんな、父の会社と僕をどうするか、色々話してたみたいだけど、僕はどうでもよかったから、生返事ばっかりしてたよ。ほっといてほしかった。何もやる気をなくしてたし。
 それで、たまたまパソコンを開けたらメールがたまっててさ。秀はネットで知り合った奴なんだけど、僕がずっと返事をしない間に、何通も送って来てたんだよ。だから彼に聞いてもらおうと思って、その時の状況を色々、まとまらない変な文章で書いてさ。そうしたら、冬休みにはわざわざ会いに来てくれたんだ、バイクで山口まで来たんだよ、あいつ。まだ免許取ったばっかりだったのにさ。
 それで僕も踏ん切りが付いたんだ。今更よく知らない親戚の世話にもなりたくないし、来年には高校も卒業だから、秀の近くに引っ越そうと思って。秀の家族はみんな大歓迎だって言うし、それで神奈川の大学を受験したんだ。ああそれと、神奈川は海が近いから」
 一見、何でもない風を装って話した伸だが、その悲しみの深さが、或いはその傷が癒されていないことが、確と握られた拳の震えに現れていた。溢れて流れ出してしまいそうな、心の奥底に沸き上がる嘆きの声。けれど喉元に込み上げて来る、弱音を見せまいと彼は唇を噛み締めている。恐らくそうして、己の内側を蝕む悲しみに耐えながら、彼は日々生きているのだろう。
 健気ではないか、だから彼は故意にはしゃいで見せる。故意に陽気に話す。ふと黙ってしまうと、暗い記憶が蘇って来るからだ。
 けれど不自然だ、無理をしていると征士には感じられた。それらの感情表現は皆彼の内から来るものだ。ならば素直な感情を常に抑制しなければ、普通の人々の中にさえ居られないのかと。悲しみを、痛みをただ泣き叫ぶばかりの子供のように、どうにもならない心の振動を時には、体の外側に出したい時もあるだろう。それを平常の顔とそうでない顔が入れ代わることで、補っているような状態だと思う。
 人生のアクシデントによって分離された感情。
 傷付いた分だけ、伸は異常に明るくも、酷く気弱になりもする。
 そんな事情を知ってしまうと、征士は最早夕方の電話の、非常識を責めることもできなくなっていた。それより寧ろ、彼に残された傷を癒す何かが必要だ、とぼんやり考え始めていた。
「お父さんの会社はどうなったんだ」
 何気なくそんなことを聞くと、
「さあ、知らない。そんなものいらないって言っちゃったから、ハハ」
 と、伸は冗談のように返した。
「騙し取られた、とか言うんじゃないだろうな」
 ここまでの話から推察するに、当時は相当投げ遺りになっていた様子でもある。征士は一応心配してそう尋ねたが、
「それはないと思うよ?。僕は一生お金には困らない、遊んで暮らせるくらい遺産を持ってるからね」
 成程、弁護士達は良心的に考えてくれた訳だ。
「ああそれで…、自分の企業を持ちたいと言うのだな」
「…そうだね」
 それで彼の気が済むのなら勿論、協力してやっても良いと征士は思った。ただ可哀想な身の上だと、哀れみを感じてのことではなく、彼が本来の彼に戻れるようにと願う気持が今はある。何故なら征士は知っているのだ、彼が満ち足りた状態で笑う時は、自分をも幸福に包んでくれることを。
 毛利伸が居なければ、『みどり』も存在しなかった。

 車は平塚のインターチェンジを降りた。高速の静寂の流れを離れると、一般道にはまだ人通りがあり、目障りなネオンや看板が、楽園から下界に落とされたような気分を演出していた。もうそろそろ今夜のドライブも終わりだ。そしてそんな時に、ふと征士は思い出すように言った。
「そう言えば、何の用だったんだ?。今頃になって悪いが」
 確か、聞きたいことがあると言っていた筈だ。伸はそれらしき内容を今まで口にしていないが、それは自分の所為かと、征士は何処となく済まなそうに尋ねる。ところが、
「ああ、あはは。嘘だよ、何でもいいから話したかっただけだ」
 と伸は笑いながら答えた。これを怒ってはいけない、と征士は努めて平静を装っていた。
「折角来たのに、明日も明後日も、土日も空かないって言われてどうしようかと…。でも、じゃあ、君の他の友達はどうしてるの?、ほとんど誰にも会えないじゃないか」
 友達、と言われてもたまに会う当麻くらいしか、そう呼べるものはなくなっている征士だ。会社の同僚や、取引先の社員なら毎日顔を合わせるが、と苦笑しながら、
「その時は、調整して空きを作ることはできる。仕事量も休暇も自分の裁定に任されている」
 と征士は答えた。しかしすぐに、迂闊なことを言ってしまったと後悔することになる。どうも、親切心を出すと挙げ足を取られる状態だった。
「じゃあ明々後日は金曜だから早く家に帰る、その次は土曜だから休みだよ、勿論日曜日もお休み!。神様が決めた休日なんだからね」
 伸はそう勝手に決めて、征士に念を押して来た。
「友達の僕の為に、空けてくれるよね?」
 まさか、昨日横浜に出掛けてから、こんな展開に至るとは想像しなかった。否もしかしたら、これからずっとこの調子なのではないかと思うと、目の前が暗くなる征士だった。そもそも何故こんなことになったのだろう?、と。
 そしてまた、征士の思考も振り出しに戻ってしまった。何故そうまでして、自分に会いたがるのだろう、彼は。



つづく





加筆校正後コメント)ここまではまだ、最初のup時のままでもそこまで問題じゃなかったんですが、この後2ページが本当に酷かったな。何故そうなったか、理由のひとつに、伸の神経症的な性格を表すのが難しい!、と言う面があることに気付きました。と言うか校正時まで気付きませんでした(笑)。
 物語をスムーズに進行たいのに、伸がバラバラっと色んなことを話すので、ものすごく進めにくいんですよこの話!。本当はもう少しページが必要なのに、そんな訳で嫌気が差してとっとと切り上げちゃったのを思い出しました(- -;。




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