伸と秀
トロイメライ
#4
Traumerai



「おい、今の話…」
 その時、石の様に頑なになっていた当麻が、目を赤く腫らしながらも喋り始めた。
「誰かの情報を写し取るって…?。じゃあ、トラウメンにはオリジナルが居るのか…?」
 無関心を決め込み、聞くともなく聞いていた征士も、ふとそれに耳を傾けていた。沈んでいた当麻が漸く口を開いたことに安堵して、カユラも、いつぞやのように微笑んで返事をする。
「おりますとも、この世界の何処かに。あなたは科学者だと聞きましたけれど、人一人分の膨大な情報を、一から創り出せるとは思わないでしょう…?」
 土気色をしていた当麻の顔色が、俄に血色を帯びて行った。
「そうだな…、そうだ…」
 希望とは「無いも等しい望み」と書くが、ごく僅かでも、あるとないとでは大きな差がある。と、彼の理科系の頭では考えられたようだ。しかし一方で、こんな大まかな話で覇気を取り戻すとは、と征士は彼の様子に驚かされていた。
 まさかとは思うが、世界中からその人を捜し出すつもりだろうか。これと言って手掛かりもなく、それこそ気の遠くなる話だ。一時の夢を懐かしみながら生きるより、無謀な賭けをする方がマシだと、当麻は思うのだろうか…。
 するとカユラは加えて、ふたりにちょっとしたヒントを与えてくれた。彼女にしてみれば、最大限の謝罪のつもりなのだろう。
「ああ、そうです、これを見て下さいな」
 彼女は言って、一度腰の袋に収めたトラウメンを何故か、再び当麻の目の前に出して見せた。
 するとどうだろう、一度失った筈の輝きがふたつ共戻っていたのだ。否、正確には彼が知っている光り方ではない。そう言えばつい先刻も、こんな光を見たような気がしたが…。
「分かりますか?、このふたつは傍に置くと、互いに反応するのです。きっと元は仲の良いお友達なのでしょう、あなた方のように」
 そしてそれは生きている。生きて存在するトラウメンが何処かに居るのだ。
 カユラがそう言うのだから、もう手放した玩具のことは忘れようと、当麻は切り替えられた。己が惨めになる前に、無理矢理にでも前向きに考え始めている。
 けれど征士は、そんな彼に調子を合わせることはできなかった。捜し出してどうするのか。その人はその人であって、いつも傍で笑っていたみどりではない。自分だけを見ていた存在、その在り方を知ってしまった以上、それ以下に妥協できるとも思えなかった。



 ふたりに深々と頭を下げたカユラが、音もなく部屋から消えてしまった後、ここに残ったのは、失った人々と失った空間、そしてあまりに幽かな希望ばかりだった。ただそれに目を向けられるならばまだ、当麻のように、一度離れた魂を取り戻すこともできる。
「…俺はやるぞ」
 張りの戻って来た当麻の声が、征士には何処か遠くの方で空しく響いていた。午後九時を回ったマンションの部屋、征士の体はここに在っても、心はここに在らずという風だった。
「捜してどうするつもりだ」
 まるで気のなさそうな問い掛けに、それまでとは立場が逆転して、当麻は「やれやれ」といった表情で笑う。
「別に、何をどうするってことはない。捜したいだけだ、俺の気が済むようにしたいだけ」
 彼はそう答えて、更に続けた。
「ま、何処に居て、何をしてる奴でもいいじゃないか。自分の家族にだって滅多に会わないんだ。それなりに上手く行って、会いたい時に会えるようになれば、それが最高の結果だ」
 けれど、征士は足元に捨てられた、みどりの衣服をじっと眺め続けるばかり。
 どうかしていると思った。この地上に居る全ての人間から、誰とも判らない一人を捜し出すなど、非現実的な行動をしようと言う当麻は、以前から知っていた彼とは違う気がした。理解できない言葉を耳にする度、彼も自分も、何かに変えられてしまったと感じられた。
 それが『トラウメン』に因るものなのか、それ以前からの変化だったかは、今となっては杳として知れない。もしかしたら、長く相手に無関心でいたことの罰かも知れない、と征士は思う。
 既に懐かしい学生時代、夢や理想を只管に追い掛けていた頃は、お互いに、成功に伴う犠牲がそこまで大きいとは知らなかった。失敗を恐れる責任も守るべき立場も、誰もが何も持たなかった。けれど今は、先にリスクを計算することも、常に保険を掛ける姑息さをも覚えた。社会で生き延びる為の手段を手に入れて、社会人と言う別の人間になってしまった。自ら望んでそうなったのだ。
 だからもう、お互い昔のようには戻れない。
 変わってしまうことを非難はできない。否、変わらない方が悪い。生物は状況に対して様々に形を変え、己を進化させて行くのだから。そしてトラウメンに出会ったことで、それまで知らなかった己を知った。己の中の悲しみが鮮やかに炙り出された、新しい心を真直ぐに、これからは見詰めて行くしかない。
 更に変わって行かなければ、生きて行けない。
 征士は学生時代の、優しい仲間意識を共有できた思い出も、過去へと捨てられていくように感じていた。
「おまえの言うことが解らない。どうやって捜すと言うのだ」
 それでもなるべくなら、確かな根拠のある推測を聞かせてほしかった。
「いやあ、そんなに難しいことじゃない。時間は掛かるだろうが、それがコンビニエンスでデリケートな現代って奴だ。戸籍のない人間はいないし、データは殆どネットワークに繋がってる。ハッキングなんて大して苦労しない。あ、非合法だとか堅いこと言うなよ?」
 情報科学は当麻の専門分野である。だから彼は冗談のような語り口でも、自信を覗かせてそう言ったのだが。
 征士はまだ納得できないでいる。その名案らしい名案には、明らかな欠点があると気付いた。何故それが当麻に判らないのだろう、と思う。
「馬鹿な…。おまえがそうもいい加減な人間だとは知らなかった」
 征士の言葉は失望の色を隠せなかった。
「データから調べるとすれば、目標が明確でなければ探しようがない。名前、住所、所属団体、私達は何を知っている?。データとして扱えることは何も知らないんだぞ?」
 けれど、そんな征士の状態を推測するのは、この場では容易だった。
『文字や数値しか見えてないんだな、征士は』
 そう、当麻にしても、既に互いの持てる世界が違うことを知っている。以前のように、言葉が通じないことにも気付いている。でもそれならそれで、これからの関係を考えて行けばいい、と今は思っていた。少なくとも同じ時に同じ痛手を負った仲間だ。
 当麻はだから余裕を持って、征士の苛立ちを躱せていた。
「ハハハ、いい加減なのはおまえだ」
 と切り返した彼の表情は、既に引き込まれそうな自信に満ちていた。
「先刻、トラウメンの話をよく聞いてなかっただろ?」
「・・・・・・・・」
 キーワードらしきものがあった、だろうか?。まともに話を聞かなかったのは確かだ、とてもそんな気にはなれなかった。と、征士は聞き流した話を思い返し、どうにか頭を回転させてみる。当麻の態度に裏付けられた、確かなものを必死に探そうとしていた。そしてその様子を見ながら、向かいのソファに腰掛けた当麻は、一言一言をゆっくり繰り出していた。
「トラウメンの原型は、過去に流通していた『空蝉の術』、だろ?。それは『無現草』が元々持つ機能で、そっくり同じ情報をコピーするんだ。ならば当然、人格提供者とトラウメンは、同じ姿をしている筈だ」
 そしてそこまでを話すと、当麻は顔を上げ真っ向から征士を見る。
「俺は見たぞ?、高く見積もって大学生、低くても高校生くらい。それに東洋人だ。学生のデータなら、覗くのは結構簡単だよ。学生証の写真もあるかも知れない」
 そう聞かされれば、その程度を思い付けないのは実際、情けない話だった。
「頭が硬くなってんだよ、おまえは。まあ、俺もこんなに情動的な性格じゃ、なかった筈だけどな。何か年食ったみたいで嫌だな…」
 当麻は笑いながら、静かに消え入るように話を終えた。
 今、確かに自分の方がいい加減だったと、征士は漸く理解するに至る。改めて考えれば、自分に取ってみどりを形容することは、全く無意味だったのだ。言葉をひとつも使わないから、相手を誉めるも貶すも関係のない次元に居た。だから手掛かりに気付かなかった。事に当たる意欲の違いで、当麻が先にそれを指摘することになっていた。
 無論それだけ、当麻が必死なのも理解できた。
 ただそれでも変わらず、征士は乗り気になれないでいる。オリジナルが誰だとしても、過ぎてしまった場面を繰り返せはしない。代用品を見詰めるのではきっと、尚更己が辛くなるだろう、そう考えていた。
 しかしそれとは別に、今も続く数少ない友人として、当麻に協力したいとも思っていた。輝くばかりの若かりし時代は戻らないが、自分達の間に、過去とは違う新しいものを築く為に。己が落ち込んでいる所為で、無闇な不信感を持って済まなかったと。
「それなら…」
 すると征士は席を立って、ドアが開いたままの寝室へと消えた。暫くそこでガサガサと紙の擦れる音がして、後に彼はまた居間へと戻って来た。目で追っている当麻の横に来ると、その顔の前に、手にした物を差し出して言った。
「役に立つなら持って行け」
「…お、こりゃいいや、借りてくとしよう」
 それは最近開通した東京湾アクアラインの、サービスエリア「海ほたる」で撮影された写真だった。征士に写真を撮る趣味はないが、偶然会社の同僚がそこに、遠方の親類を連れて観光に来ていた。一枚だけ残る写真は、その同僚が撮ってくれたものだ。
 ガラス越しの海を背にして、征士と、半ば彼に凭れ掛かるようにしてみどりが笑っていた。いつものように。
「じゃ、早速取りかかるからな。何か分かったら報告する」
 見た目上はすっかり普段の様子に戻った、当麻はそう言って、もうとにかく早く帰りたそうに、足早に玄関の方に向かっていた。この大捜索に早く手を付けたくて、そわそわ落ち着かないのが判る。頭の中が、これからすべき事でいっぱいになっているのが判る。そんな所は全然変わっていない、と征士は苦笑しながら彼の後ろ姿を追った。
 勿論何かに打ち込んでいれば、沈んだ気が紛れる意味もあるだろうが、それにしても素早かった。部屋を出て行く当麻を追って、玄関に続く廊下へと出た征士が、確認できたのは閉まり掛けたドアだけだった。正に一目散に行ってしまったようだ。今度は征士が「やれやれ」と言う番だ。
 
 他に誰も居なくなったマンションの一室。
 元通りになった、と言う気も流石にしなかった。自分は独りなのだと気付いてしまうと、それまで気にすることのなかった、微細なものさえ大きく存在感をもって、己にのしかかって来るようだと征士は感じていた。
 暗い廊下にバックライトで浮かび上がる、小さな水槽の気胞が訴える音。泡立つポンプの横で、揺らめくばかりの水草の影。透明な水の中を自由に泳いでいるクマノミ達は、主人はもう居ないことも知らずに、一様にぼんやりとした平和を貪っている。嬉しいとも悲しいとも感じずに生きている。考える頭も無く、周囲に翻弄されるばかりの命は、鈍感になるしかない。
 そう思うと、どれほど傷付いても、記憶を弄られることは恐ろしい。
 心から望む物は泡と消えてしまったけれど。
「明日から、私が餌をやらなければな」
 残される者は、いつも哀れで滑稽に映るものだ。と、征士は暫く水槽の前に佇んで、何も見出せない水の中をじっと見詰めていた。



「お電話ですが、そちらに回しますか?」
 昼食時間も半分を回った頃、征士は会社のデスクで漸く食事を始めた。
 二十分後にはまた外へ出なければならず、その日は外食に出られなかった。午前中に寄った企業からの帰社が、工事渋滞に遭って遅れてしまったのだ。そんな訳で机の上には、他の社員から回して貰った配達の弁当に缶コーヒー、と文字にすると空しく感じるが、至って普通の会社員メニューだ。
 この状況下で、重要でない電話など取っている暇はないのだが、
「誰から?」
 と一応尋ねると、
「羽柴さんとおっしゃる方です」
 と事務員の女性は答えた。一瞬、思考の中に空白が生まれた。まだ過去と言うには新しすぎる、昨日の今日と言う話だった。こんなに早く、当麻は何かの手掛かりを掴んだのだろうか。だとしたら彼の集中力は、神憑り的なレベルだと思う。
「回してくれ」
 征士はそう返事をした。本意ではないが、相手が当麻なら食べながら話しても構わない。取り敢えずわざわざ会社に連絡を入れて来た、その事情を知りたかった。
「征士か?、俺だ!」
 すると、切り替わった受話器の向こうからは、舞い上がるような明るい雰囲気が伝わって来た。これはもしかすると、本当に何かを見付けたようだと悟る。否、単なる睡眠不足の高揚かも知れないが、征士がそう考えるより先に、当麻の声は勢い良く耳に飛び込んで来た。
「はっはっは!、もーびっくりだぜ。やっぱり俺って天才だな!」
 徹夜明けで高揚しているのは確かなようだ。
「あー、今時間がないんだ、詳細は後でいい、用件を話してくれないか」
 壁の時計を気にしながらも、征士は可能な限り話を聞こうと言う態度を示す。するとすぐに調子を合わせて、当麻は単刀直入に話し始めた。
「おう、聞いて驚け、国立大の名簿にあったんだよ!。経営学部の三回生で茅ヶ崎に住んでる。調べ始めて二校目だぜ?、実際大した勘じゃないか。いや〜、写真を借りといて良かった、データの写真はモノクロでな〜」
 驚いたことに、手掛かりどころでなく、当麻はそのものを見付けていた。
「…一体どうしたらそんな捜査ができるのか、見当も付かんな…」
 半ば呆れた声で返す征士に、当麻はお構いなしの様子で話を続ける。
「だから勘だって言ってるだろ、我ながら冴えてるよ。まあ大体、店の在る新宿を拠点にした範囲と思って、東京近郊の奴だろうと踏んだんだ。それでも高校以上を合わせると気が遠くなる数でな〜。そこは端から調べる以外にないし、手始めに数の少ない、国立大から調べることにしたんだ。
 更にこの後がポイントな。東京から始めようと思ったが、東京には国立が十二校もあって、面倒だから後回しにしたんだよな。それで一県に一校の所から当ってみたら、呆気無く二校目で見付かったって訳だ。冗談としか思えないだろ?」
 本当に、彼には何かが憑いているのかも知れない。どうも最近の当麻は、科学者らしからぬ行動や言動が増えて、それこそ「この世の物でない」ものに操られている、とでも考えた方が納得できる感じだ。そんなことを征士は思いながら、
「信じる者は救われると言う」
 と返すと、
「救世軍か俺は?。そいつは無理な話だな、最大でもふたりしか救えない」
 当麻は至って素直に、その言葉を吸収してしまった。少なくとも、彼は未来を信じられている証しだった。この後に最悪の結果はないということを。そして、
「さて、今後の計画を説明をするから聞いてくれ」
 少し落ち着いた口調に変えて、彼はまた話を続けた。
「いつでも構わんが、まず大学に行って本人に会ってほしい。悪いがこの場合は、俺が行っても無意味だから頼まれてくれ。あ、分かってるだろうが、授業が休みの間は駄目だ。住所の方に行くと怪しまれる。とにかくおまえが都合を付けられる日でいい。それで会ったら、それとなく周辺の人物をチェックして、情報を俺に回してくれ。…こんなところだが、いいか?」
 厭だ、とは言えない雰囲気だったが、些か強引な気もする。
「うーん…、いつ行けるとは言えないぞ?」
「いや、本当にいつでもいい。慌てることはない」
「随分余裕なんだな」
 出だしの大騒ぎはどこへやら、と、征士が口を綻ばせながら尋ねると、
「そりゃそうさ、ここまでにもっと時間を食う筈だったんだ。あとは果報を寝て待てば充分」
 そう返しながら、当麻は電話口で早速大欠伸をした。
「…という訳で、俺はもう寝るぞ…、徹夜はともかく目が痛くてかなわん。詳しいデータはおまえんちに送っとく、それじゃな!」
 そうしてあっさり電話を切った彼は、恐らく本当に草臥れているのだろう。義務を果たして、安心して引導を渡した途端、急に眠気や疲労感が襲って来た、などと言うのはよくある話だ。
 結果を出して見せた当麻にはまず拍手を。それから、まだ見ぬ未来に今よりマシな事があるように、当麻の『幸運の神』に祈るとしよう。
 征士はそんなことを思いながら席を立った。もう間もなく一時になる、社内を歩く者も忙しなく動き始めていた。まずはこの午後も、目先の積み木を片さなければならない。



「殺風景だな」
 神奈川の国立大学のキャンパスは、葉の落ちた木々と冬枯れの芝生、灰色にくすんだコンクリートの生垣に囲まれて、何とも寂しく閑散としていた。征士がそう呟いたのも無理はない、彼が通った私大に比べ、国公立の学校とは大概地味なものだ。そして経費の申請が難しいのか、建物の修理もままならない所が少なくない。ここはまだ良い方だ。
 当麻の電話を受けてから、実はまだ二日しか経っていない。恒常的に忙しそうな征士だが、実際はいつ休もうが自分の裁定に任されていた。なので、半端に長く待たせるよりは、早く片付けてしまう方が精神衛生上に良いと、予定を変更してこの日やって来たのだ。幸い天気も良く、日中はそこまで寒さを感じずにいられる。絶好のレジャー日和なので、勿論今日はボクスターを選んで来た。否、目的を考えたら、ベンツよりポルシェの方が学生受けする筈だ。
 しかし征士は車を降りてから、何やら面映い思いをしていた。平日の昼間に、平服でうろうろすることはここ数年、全くなかった。休暇届けを提出して来たのだから、なにも罪悪感を持つ必要はないのだが、慣れない行動に気後れするような、妙な気分を味わっていた。
 そして大学という場所。自分がそこに所属していた四年間は、正に楽園のようだったと今は思う。追い出されて気付く、当時の自由で無邪気だった自分を思う。構内を闊歩する学生達は無論、日々懸命に、考えて悩んで過ごしていることだろう。しかしそれも、時間が経ってみると、実に呑気な日々に思えるから不思議だ。それだけ苦労せずに来てしまった。だから今こうした事になっている。と思う。
 そう言えば、と征士は、大学の敷地に足を踏み入れて思い出した。そもそも東京の大学に来たのは、家から逃れる為だったのだと。
 彼の家は代々続く剣道場で、彼は生まれた時からその後継者だった。勿論そんな環境の中で、才能にも恵まれた彼は、剣道を続けることを嫌がりはしなかった。寧ろ熱心に取り組んでいたけれど、親はそれ以外の道を決して容認しなかった。子供の頃から何をするにも、家を守る為の制約が付き纏った。段々それに堪えられなくなって行った。
 親に取っては、続いて来た家を存続させることが、他の何より大事な義務だったのだろう。自分はその為の駒ではないと、彼は理解してほしかっただけだ。反旗を翻すように東京に出て来て、独立することを望んだ。他の環境でも上手くやって行けると知れば、親も考えを改めるだろうと思っていた。
 そしてそうなった。最近は以前のように、口煩く電話をかけて来ることもなくなった。征士は思い描いた理想を現実のものとした。確かに一度は、人生の成功者になったのだ。
『昔は死活問題だと思っていたが』
 運動コートに集まる学生達の、スコアボードを見て討議する様子を眺めながら、独りごちた。
 今はもうそこまでの、刃向かおうとする気概も失せている。親から自分に向けられていた気持も、今は大分理解できるようになった。そして、何処で何をして暮らそうと、満足して生きられるかどうかは、結局は自分の在り方次第だと知った。実家に戻ってやってもいいとさえ、今は考えられる。
 冬の本番を前にした、寂しい風景をぼんやり視界に映して、征士は過去の回想の道を歩いていた。誰にしても、昔と今の価値観を秤にかけることはできない。そこを歩んで来なければ、今の自分も無いのだから。それとも別の道を辿れば、また他の後悔が生まれて来るだろうから。
 自ら選べただけ良し、考え出せば切りがなかった。

 征士は漸く、キャンパスの中の目的地に立った。経営学部の校舎からは、丁度講議が終わった後のような、ざわめく学生の連なる帯が、出入口からぞろぞろと流れ出ていた。それを横目に、座り込んで談笑するグループは、遅い昼食を膝に広げていた。話し掛けやすそうな彼等に、まずは尋ねてみることにした。
「君達、取り込み中済まないが…」
 征士がそう言って近寄ると、その男女五人の集団は、ぴたっと話をするのを止めてしまった。それもその筈、大学には様々な年令の者が居るとは言え、征士の出立ちは凡そ学生らしくなかった。スーツの上に黒のトレンチコートを引っ掛け、黒のサングラスを掛けていた。袖から覗く高級時計や、靴のワンポイントは明からさまなブランド品だ。こんな学生も、講師もあまり見ることはない。
 女生徒の一人が、興味津々といった風に口を開いた。
「何かお探しですかー?、良かったら案内しましょうか?」
 それを聞いて、征士はその人の方を向いて言った。
「ああ、人を探しているんだ。ここに『毛利伸』という学生が居る筈なんだが」
 すると彼女はすぐに反応して、
「あ、居ますよ、でも今日来てたかな」
 と返す。他の四人も口々に話を始めた。
「誰?、俺学部違うから…」「毛利君でしょ、今朝見たと思ったけど」
「見てない」「来てるって、さっき講議に出てたじゃん」
 そして最後に発言した男子が立ち上がって言った。
「多分まだ講堂に居ると思うけど、呼んで来ます?」
 流石に校舎の中まで入る訳にいかない。征士は有り難く返事をした。
「ああお願いするよ、悪いな」
 が、一度歩き出そうとして彼は足を止め、くるりと首だけを返して征士に言った。
「何て言えばいいッスか?」
 できれば聞かないでほしかった。
「…遠い親戚のような者だ」
 言えば増々怪しい。聞いた本人も訝し気な顔をし始めた。これで出て来なければ、無駄に時間を潰して待つことになる。その可能性はかなり高いと見た。
 ところが、良い意味で予想は外れた。
 呼びに行った男子がどう説明したかは知らないが、取り敢えず彼の後を着いて、見覚えのある風貌の人物は外に出て来た。標準的な体格よりひと回りくらい小さい、柔らかな印象、軽やかな歩調、そして春の気をそのまま閉じ込めたような瞳の色、を持った人。
 しかし彼は躊躇いもなく征士の前に来ると、強い口調でこう言い放った。
「僕に何か用ですか?、あんたは誰?、知らない人だと思うけど?」
 いかにも、疑っている態度だ。
「えーっと…」
 それにしてもどうだろう、と征士は息を詰めた。確かに彼はみどりのオリジナルだと判る。緑の瞳、薄茶色の柔らかそうな髪、派手さはないが、小作りに整った顔立ち、寸分違わぬと言って良い造型の妙だ。もし双児の片割れだとしても、ここまでの同一性は感じられないだろう。
 しかしそんな姿かたちを持って、彼にはもっと存在感があった。不機嫌そうに自分を見上げた、負の感情の自然な露出も、隙を作らず矢継ぎ早に言葉を列ねた刺々しさも、全て己の意志で動いて話す、人間の証しだと信じられる。
 だからこんな風に、眉間に皺を寄せた彼の顔を見たのは、初めてだった。
「そう牽制しないでくれ、そこまで怪しまれる程の者ではない」
 征士はそう言って、掛けていたサングラスを外すと、自己紹介として普段使っている会社の名刺を差し出した。
『あれ…』
 そして伸の方は、目の前に出された紙切れを受け取りながら、幾度か瞬きを繰り返していた。目前に居る人の雰囲気が変わった。目を隠しているだけで怪しい某に見えたが、今は一般の、と言うより、ハイクラスな雰囲気を持つ人に感じられた。しかし何故こんな人が自分を訪ねて来たのか、気味の悪い気持ちは消えない。渡された物をじっと眺めながら伸は言った。
「あのー、経営学科に居るってだけで、僕まだ何も経営してないんですけど」
 それはつまり、会社の名刺に対する感想だ。面白い言い回しをする、と征士は笑いながら返した。
「いや、仕事の話をしに来た訳では。まあ、そういう事になったら宜しくな」
 名刺の信用のお陰か、場を取り巻く雰囲気が少し和らいで来たようだ。先程まで伸と一緒に、疑わしい顔をしていた学生グループも、今は特に気になる態度をしていない。これでひとまず順当に事を進められそうだ、と征士は安堵の溜め息を吐いた。
「じゃあ何の用です?」
 と再び同じ質問をした伸に、今度はその用件を話すことができた。
「是非話したいことがあって来たのだ。だが…ここでは話せない、悪いが時間を貸してくれないか」
 今一つ曖昧な持ち掛けに、伸は『う〜ん』と首を捻っている。キャッチセールスのようにも聞こえなくはない。「あなたは選ばれたお客様です」とか何とか言って、高額商品を売り付ける手口の。けれどそれにしては、そぐわない衣装の征士に対して、
「何処に行くつもり?」
 と、伸は探りを入れる質問をしてみた。すると、
「特に決めてはいないが、落ち着いて話せる場所なら何処でもいい。車で来ているから、希望があれば言ってくれ」
 征士がそう答えたのを見て、すかさず伸はこんな提案をした。これが最も安全な場所だと思った。
「あ、じゃあ、僕の友達のうちでいい?」
「友達のうち?」
 訳が判らないといった表情の征士に、伸は悪戯っぽく笑って言った。
「そう、友達のうち。中華街にあるレストランなんだよ。今日CD返しに行くって約束してるから、僕は丁度都合がいいんだけどな」
 成程、と征士は小さく頷いて見せる。レストランと言うからには、ラーメン屋のような、慌ただしく窮屈な店ではない筈だ。どうせならそこで、食事をして帰れば面倒がなくて良い、と自然に考えた。
「いいだろう、案内を頼む」
 するとあっさり賛同した彼を見て、伸はもう少し警戒心を緩めてもいいと、感じたようだった。
 無駄のない、さらりとした動作で身を返して、歩き始めた征士の後を取り敢えず付いて歩く。校舎前の学生グループは、何処か心許なさそうに伸を見詰めていた。万一の時はすぐ警察に、とでも考えているのだろう。彼等を一度振り返り、再び顔を前に向けた伸はふと、前方の視界を遮る壁に驚いていた。傍に寄ると来訪者がかなり大柄であることに、今頃気付いた。
 それはとても懐かしい、子供の頃に見ていた世界の感覚だった。『大きい人だな』と、もう二度と会えない誰かのことを思い出した。

「あ、僕だけど。今からそっちに行くとこなんだけどさ、もうひとり連れてってもいいかなぁ?。…違ーう、さっき会ったばっかりの人!。…さあ、何か用があるらしいけど、よくわかんないんだよね、あはは。…とにかくすぐ行くから待っててよ、…うん、じゃあね」
 大学の正門前で、携帯から電話を掛けていた伸の前に、その美しい姿を見せ付けるように現れた一台の車。滅多に乗れなくとも手入れは行き届いている、流線に浮かぶ光沢がそれを物語っている。伸の手前でターンして方向を変えると、その運転席には、再びサングラスを掛けた彼人が居て、彼がドアロックを外すと同時に、伸の咽からは自然に言葉が流れ出した。
「ポルシェだー、これ新車だよねぇ?、自分の車?。へへー、こんなのに乗せてくれるなら、何処でも行ってやろうじゃないか」
 征士の選択は正しかったようだ。
 そこから滑るように走り出した彼の車は、指定された町へと真直ぐ向かっていた。頑なに思われた態度を一変して、今は妙に陽気になった、今日初めて出会った懐かしい人。この出会いが、ふたりの新しい旅立ちとなるかどうか、征士には密かな緊張と不安を感じさせていた。



 横浜中華街の路地はいつも通り、観光客などで賑わっていた。
 ふたりはここに徒歩で足を踏み入れた。何故なら目的の店には駐車場がない。本場の景色さながら、色鮮やかで雑多な印象の大小の建物が、所狭しと犇めくこんな場所に、満足な駐車スペースを持つ店は少ない。その為か、町の近くには有料のパーキングが多く存在する。
「こっちだよ」
 と、時折立ち止まろうとする征士の、コートの袖を引っ張って伸は歩く。その度に段々、屈託のない表情を見せるようになって行った。土地勘のない征士の覚束無さを見て、少しばかり楽しくなって来たようだ。
 中華街は、複雑に入り組んでいる訳ではないが、来慣れない者に取っては、どの店先も似たような風景に映る特殊な町。車を降りてからは専ら伸が、征士を先導して歩いていた。伸は人波を自由に渡る魚のように、みどりのように、上手に流れを見極めながら前進している。元は同じ質だと端的に表現しているような。そして征士は、大人しく彼に付いて歩いていた。
「しーん!」
 すると前方から誰かの呼ぶ声がした。弾かれるように顔を上げ、伸はそれに返事をしながら駆け出した。征士には声の主が、何処に居るのかさえ見出せていない。似たような店の看板や装飾が、侵入者を拒むように邪魔をしている。
「おーい、これ返しに来たよー」
 そう言って、手に下げていた小さな紙袋を、伸は肩の高さに持ち上げて見せる。彼が駆け込んだ階段の中腹に、伸と変わらない背丈の人物が立っていた。恐らくそれが彼の友達、もしかしたら当麻が探している人物かも知れない、と征士は思い出していた。実は今の今までそんなことは忘れていた。
 伸が友達、即ち秀の前に辿り着くと、
「あれがさっき言ってた奴か?」
 と、秀は向こうに聞こえない小声で問い掛ける。彼はこの少し高い場所から、こちらに歩いて来るふたりを暫くの間、観察してから伸を呼んだらしい。
「うん、でも…、思ったより悪い人じゃなさそうなんだ、そんな顔しないでいいよ」
 そんな顔とは無論、最初に伸が征士に見せたような表情だ。否、伸より勇ましい印象の秀の顔立ちは、不快を通り越して怒りの表情にも見えた。
 しかし伸が助言しても、己が目で確かめずには納得できない、との秀の意志は伸に伝わっていた。秀は確と地面に足を付けている奴だ、怪し気な事を曖昧にしたくはないだろう、と、ひとつ年下である彼にある種の尊敬と、信頼を寄せている伸だ。今は秀の好きなようにさせてあげて、別段困る事はない場面だった。
 程なくしてそこに到着した征士を見下ろし、秀は、確かめておきたい事柄を次々繰り出していた。
「おい、おまえは何処のどいつだ?。何をしてる奴だ?。何でもない一介の学生に、まっとうな用があるって風情にゃ見えねーぜ?。ここを通すからには、答えて貰わねーとな!」
 どうやらこの階段の上が、目的の店であり彼の家であるらしい。その前に立ちはだかる堅固な城壁、と言った感じで秀は堂々と立っていた。恐らく、彼のようなタイプを言葉巧みに懐柔するのは難しい。駆け引きに慣れている征士は、有りの侭を正直に語ることにした。
「私は伊達征士、何でもない一介の社会人だ。運用コンサルタントをしているが、今日は休みを取って来ている。どうしても彼に伝えたい事があって、無理を承知でここに連れて来てもらった。君達の預かり知らぬ事ではあるが、是非話を聞いてもらいたい」
 すると秀は、
「俺も聞いていいのか?」
 と、少しばかり表情を和らげて返した。それに呼応するように征士は笑って、
「構わないとも、但し君達だけだ」
 と答えた。
 穏やかに話し続ける征士を見て、やや拍子抜けした様子で腕組を解いた秀。ひとまず、この男の誠意を信じてみようという気になったらしい。ヤクザには見えない、押売でもない、何者だかは判らないが、一方的な態度で人をどうこうしよう、と言う手合いではなさそうだった。
 実のところ、伸は『一介の』とは呼べない事情を持っている。それを知っている秀には、見知らぬ人間が彼を訪ねて来た状況に、警戒心を持たざるを得なかった。けれど、
「んー、そんならまあいいだろ」
 そう言いながら秀は、自ら塞いでいた階段の、征士の前を退いて道を開け、
「さ、入った入った、飲茶くらい御馳走するぜ」
 と、気の良い所を征士に示して見せた。
 そうして明らかなお許しが出たので、征士も安堵して階段を昇り始めた。既に伸は昇り切った場所に居て、ずっと彼等の様子を窺っていたが、征士が近付いて来ると、勝手知ったる「友達のうち」へと、逃げるように行ってしまった。
 伸が立っていた場所から奥を見れば、外の雑然とした町並みとは様子の違う、征士が想像していたより更に高級そうな、それはレストランと呼ぶに相応しい店だった。

 店の自動ドアを潜ると、店内は中華街らしい赤と金のアクセントに、大理石の白と御影石の黒で構成された、落ち着いた雰囲気のフロアだった。椅子の背凭れや照明の細工、各テーブルに置かれた銀の小物、物語絵の螺鈿細工、幾つも並ぶ茶葉の入った大きな壷、征士の目に入って来たそれらは、いちいち高級感を漂わせていた。そしてとにかくだだっ広い。大陸の高級店が皆そうであるように、香港辺りのリゾートホテルを思わせる店内だった。
 そして、昼食と夕食の間の空席を埋めるように、三人はフロアの真ん中のテーブルに落ち着いた。運ばれて来たジャスミンティーと、紹興酒の小さなポット。無論仕事中ならアルコールには手を出さないが、征士は机上に伏せられていた茶碗とグラスの内、迷わずグラスを取って、ポットの中身をなみなみと注いでいた。
 そして最初の一杯を一気に飲み干してしまうと、見ていた伸と秀の手から思わず茶碗が離れた。
「ちょっと、大丈夫なの…?」
 すぐ横から心配そうに覗き込んだ伸に、
「どうということはないだろう、この位」
 と、確かに今は変わらない様子の征士は答える。紹興酒のアルコール度数は相当に高いので、出されるグラスはかなり小振りな物だ。が、それを一気に呑む人はあまりいない。
「知らねーぞぉ」
 秀がそう忠告する間に、征士はもう二杯目を注いでいた。物見高そうに、キョロっとした目をこちらに向けている彼は、何となくこの店の雰囲気に似合わないと、征士には面白く感じられていた。



つづく





加筆校正後コメント)やっと本物登場ですが、みどりと伸の落差に、この先を読む気がしなくなる人もいるかも、と今になって思う(笑)。
 それはともかく、この話の中心である「トラウメン」は、実は過去に、とあるジャンルで描いたマンガと小説で初登場しています。光る玉の性質はほぼ同じものですが、話とエピソードは全く別の内容です。
 どちらが気に入っているかと言えば、無論こっちですが、まとまりが良かったのは過去の作品の方かも。こっちはエピソードが多い分まとめにくくて、後半もっとページを使わないと、理想的な形にならないことは最初からわかっていました(^ ^;。
 それでも征士の過去の恋人の話とか、それを聞いて伸が文句をつけるとか、考えていて書かなかった場面もあるんですけどね〜。
 それにしても今となっては、飲酒運転の征士はヤバいですね。この部分書き直した方が良かったかなー、うーん、今はこのままにしておこう(笑)。




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