征士と当麻とトラウメン
トロイメライ
#1
Traumerai



「そろそろ時間だ、悪いな当麻」
 と、眩く輝く金のロレックスを腕に見て、征士は素早く椅子から立ち上がると、隣の席に置いていた背広のの上着を取り上げた。もうすぐ午後六時、普通のサラリーマンなら帰宅ラッシュに紛れて帰る、一日の締めくくりの時間帯だった。
 しかし征士の仕事はまだ終わらない。これから契約会社に出向いて会議があるのだと言う。コンサルティング企業に身を置く彼は、目が回るような多忙な日々を過ごしていた。
「忙しないねぇ」
 向かいの席に座っていた当麻は、きびきびと身なりを整える彼に合わせて、コーヒーカップに残った、カプチーノの最後の一口を飲み干した。落ち着いた大人の雰囲気の喫茶店、店内にはカンツォーネの黄昏れた調べが、コーヒー色で統一された板材の壁に染み入っていた。窓辺の青々とした観葉植物は、十月の半ばという時期には、やや不自然に際立って現代的な趣を作り出していた。
「忙しくしている方が性に合う。大体企業が暇を持て余していたら、その方が恐いだろう」
 言葉の通り、征士は忙しさを苦にしていない。学生の間はずっと剣道を続けていたが、その成果が今の彼のタフな体力と精神力であり、その他本来の性質はそのまま、社会人としての能力に認められていた。即ち素早く的確な情報収集力、早い回転で仕事をこなす集中力などである。それ故まだ二十代後半の若さで、室長補の肩書を持つ程になっていた。
 足元に置かれていた、革張りのアタッシュケースを最後にやや慎重に持ち上げて、
「私が払っておく」
 と言うと征士は、足早に店のカウンターの方へと行った。
「御馳走様」
 呟くような当麻の声も、もう征士の耳には届いていなかった筈だ。既に頭を仕事に切り替えてしまった彼には、それ以外の物事は遠い雑音でしかない。
 溜め息、の内に少し昔の思い出が当麻の頭を掠める。今と同様に忙しなく過ぎてしまった学生時代。しかし今になって思えば、緩やかで安穏とした日々を送っていた気がする。否、過ぎてしまったからそう思えるのかも知れない。どちらにしても、毎日が無心で楽しいと感じることは、最早あり得なかった。過去に憧れていた『独立した生活』も、今に至っては味気ない日常だった。
 当麻は椅子に掛けてあったブルゾンを羽織ると、緩慢な動作でその場を後にする。まるで先程までそこに在った過去の夢に、後ろ髪を引かれるような心の空白感。いつの間にか己を支配するようになった、淋しさと言う感情を最近彼は知った。知って、どうすることもできないでいた。
 やや重いガラスのドアを開けると、そこにはこれから賑わいを見せる歌舞伎町の、いつもと変わらない町並みが在った。ドアを隔てて街の喧噪と、感傷的な静寂とが隣接する都会。誰もが憩いを求めていながら、慌ただしく動くことを美徳とする都市の人々。時と場の中で擦れ違うひとりひとりのことなど、構っていられないと無関心を決め込んでいる。代わりに電飾とネオンサインばかりが、空々しい嘘と虚構に賑わい手招いている。そんな夕方の新宿の風景も、今の当麻には何の救いも与えてはくれない。
「場所を指定させて済まなかったな」
「いや、俺の方が『済まない』だ、つまらん事で時間を裂かせちまった」
 会って何を話したかと言えば、単なる近況報告や世間話をしていただけだ。
「別に構わない」
 それでも征士は、大学の友人であった当麻に恨み言も言わず、何処か懐かしく感じる笑顔を残して、一人町中へと消えて行った。

 彼等がこの街に出向いたのは、今征士が向かっている取引先が、この街に事務所を構えているからに過ぎない。久し振りにやって来た新宿。多少店鋪の入れ替わりはあるものの、記憶にある様子にほぼ一致した状態を保っていた。
 学生の頃はよくディスコや居酒屋で、羽目を外すに適当な名目を掲げては、呑んで騒いでいた記憶がある。あの頃つるんでいたサークル仲間も、今は散り散りになって、征士同様忙しい日々を送っているのだろう。と当麻は過去の一時に思いを馳せていた。
 自分だけが、その輪の中から取り残されたように感じる。自ら希望して個人研究所を持つ身となったが、人と違う生き方をすることを辛いと感じたのは、これが初めてだった。
 嘗て、羽柴当麻の世界は華やかであった。
 彼は幼少の頃から、東西を問わず知られた神童だった。日本には大幅なスキップ制度はないが、もし諸外国同様の制度があれば、十四、五才で大学を卒業するだろうとも言われていた。その割に気取ったところのない彼には、常に取り囲む人の輪が出来ていた。某国立大学に入学した後も、彼が学内の「投資研究サークル」に加入すると、そこは突然三倍の人員に膨れ上がり、使用していた部屋を引っ越す羽目になった。それ程彼は人気者だったのだ。
 そこで出会ったのが征士だった。彼はまた別の意味で人の注目を集めていて、言わずもがな、生きて動いている人間とは思えない、造り物のように整った容姿を持ちながら、学生剣道の優勝者であり、車のライセンスを収得していたりと、何かと目立つ話題の多い存在だった。
 しかし当麻には気の合う人物であり、学部は違えど同期生でもあって、ふたりはすぐに打ち解けていった。個人の研究所を建てる為に資金を稼ぎたかった当麻。早くから経済に関心を寄せていて、知識も豊富だった征士は彼の、頼もしいアドバイザーになってくれた。今も存在する友人としての形は、この頃から始まった訳だ。
 それからは、彼等が並んで歩けばとにかく注目されるようになった。覚え目出たき天才児と、眉目麗しい社交家、彼等にまつわる話題は絶えることなく、そして常に周りは賑やかに人が群れていた。キャンパスだろうと、学生街だろうと、当時ふたりを知らない学生はいなかっただろう。女は憧れるように、男は羨むように彼等を見た。そんな周囲の只ならぬ様子は、ふたりの学生生活を彩る花となっていた。そうした華やかな記憶が、幸せだった学生時代の全貌と言えた。
 まあ、誰にしても年若い時代の、幸せな記憶のひとつやふたつはあるだろう。けれどそれを何故今頃になって、懐かしさと感傷に浸りながら思い出していたのか。それは無論、現実の世界に於ける羽柴当麻が、満たされない心を抱えているからだった。
 夢や希望に向かって邁進していた時間が、ここに来てひとつの区切りを迎えた。即ち願い通りに個人の研究所を建て、その活動を軌道に乗せた現在のことだ。しかし、漸く生活が安定した今となって、何か大切な物を失くしたような、或いは拾い忘れたような不安が心を苛むのだ。これで本当に良かったのだろうか、との思いが打ち消せないでいる。
 彼は一人っ子であったし、両親は離婚調停中で別居していて、元より一人で過ごすことには慣れていた。又、企業に勤める母はよく愚痴を零した。大学教授である父はよくよく、学内での地位争いにストレスを溜めていた。そんな様を見て育った彼は早くから、集団の中で活動することは、自由に息ができないことだと覚ってもいた。故に独立した個人企業を目指そうと思い、ほぼ計画通りに実行したのだが。
 ある時までは確かに、人生が順風満帆であることに喜び、安心し、満足していられた。
 それなのに、判らなくなってしまった。

 待ち合わせた喫茶店は、西武鉄道の新宿駅の前に在った。駅舎に附随するショッピングモールとホテル、高く聳える煉瓦色の壁は、光を遮って辺りを暗く感じさせている。元々歌舞伎町の界隈は『夜の街』の風情だが、その周辺の景色は、より一層の心暗さを暗示するようだった。
 派手な色使いが目にチラ付くような、歌舞伎町らしい町並みに面する、駅舎の暗がりは浮浪者の寝泊まりにも使われる。さして広くもない路地を隔てて、隣接しているふたつの異なる世界。但しそのどちらに属するとしても、人は完全な幸福にも不幸にも到れない。完全な聖者にも悪魔にもなれないだろう。中途半端な、嫌な印象の景色だった。
 喫茶店の前で暫くぼーっと町を眺めていた当麻に、五十代くらいの会社員風の男が、足元を蹌踉(よろ)けさせてぶつかって来た。
「あ、済みません」
「いえ…」
 短いやり取りで通り過ぎて行った、酔っている訳でもないのに、足取りが怪しい顔色の悪い男。その人も、誰も彼も皆、駅の入口に吸い寄せられるように歩いて行く。同様に同じ方向へと進む人波が、どこまでも続く大河のように、淀みながら目的地へと流れていた。自然界では水は下へ下へと流れるもの。全てがその法則の中に集約される、美しい物理学。
 それに逆らうように、当麻は駅の改札とは反対の方向に歩き出した。時間の制約は持たない身だ、ただ行きたい方へと進むだけだった。
 そのまま真直ぐ、線路沿いの道を彼はのろのろと歩き続けた。時折向かいからやって来る人に衝突しそうになりながら、やがて、その道と職安通りが交差する場所に出た。名前の通り職業安定所があるこの通りは、メインストリートに比べると地味な印象だ。小奇麗な店鋪より、古びた事務所や雑居ビルが多い。道行く人もきらびやかな装いの者は少なく、代わりに失業中の、暗い面持ちの中年男性を多く見掛ける。だから地味で暗く感じるのかも知れない。
 この通りを渡って、もう少し真直ぐ歩けば隣の新大久保の駅に着く。取り敢えずそれを目的にすることにして、当麻は横断歩道を渡って行った。
 その時、建物脇の舗道の上に、彼はある物を見付けた。
 同じ新宿でも他の場所なら、それは珍しくもない存在だったが、この職安通りでそれを見たのは初めてだった。黒い布を垂らした小さな四角いテーブルの上に、一本の火の灯った蝋燭と、紫の布団に乗せられた水晶玉が置かれていた。全身を黒装束で覆った小柄な占い師は、誰かがその技を求めてやって来る、時をただ微動だにせず待っていた。
 何故だか、その光景に心が惹かれた。科学者として独立している彼が、非科学的な占いなど無論信じる筈もない。ただ心が弱っている時に限って、得体の知れない何かに縋りたくなるものだ。運命を照らす蝋燭の灯火が、微風に揺らめく様子に涙が出そうだと感じた。その静寂の世界を壊さぬように、当麻はそろそろとした足取りでそこへ近付いて行った。
 すぐ横まで寄ると、頭を覆う黒いサリーの影に、小さな可愛らしい女の顔が見えた。凡そ街頭の占い師とも思えない風貌にも、酷く引き寄せられる思いがした。
 そして当麻が机の前に足を止めると、まだその占い師の方を向きもしない内に、
「あなた、何かにお悩みでしょう」
 と、向こうから話し掛けて来た。体を正面に向けると、その人の黒く大きな瞳が視界に飛び込んで来る。
「私の名はカユラ、と申します。見ての通り占いを生業にしている者です。如何でしょう、何か、あなたのお役に立てますでしょうか?」
「あ、ああ…、そうだな…」
 こんな場面に遭遇するとは想像したこともなかった。だから当麻はそこで、何と言って切り出せば良いかも判らなかった。すると、
「こう言う占いは初めてですか?、そう固くなられずに、気楽にしてくださいな」
 落ち着かない様子の彼にカユラはそう声を掛け、手許に置かれた水晶玉の、僅か上を撫でるような仕種をして見せる。その手慣れた様子は、穏やかな川の流れを連想させていた。
 しかし、見れば見る程胡散臭い。水晶だかガラス玉だか知らないが、多くの占い師はよくそんな小道具を持っている。曇りなく透き通った玉は確かに綺麗だが、それの持つ意味など到底理解できない。当麻の目にはそれ以上でも以下でもない、ただの固形物質に過ぎなかった。けれど思考とは裏腹に、操られるように彼女の手の動きを目で追っていた。自分ではない自分が、あり得ない、馬鹿げたことを信じようとしていた。
「さあ、この水晶玉に心を集中してください。この中心をよく見て、今感じている気持を念じるのです。あなたの心の景色がここに映りますよ…」
 そして導かれるままに、急速に集中を深めていってしまう彼を、カユラは『しめた』と言う顔で眺めていた。そう、当麻はまんまと何かの術中に陥ってしまったらしい。
 程なくして、カユラは淡々と話し始める。
「あなたは今…、孤独を感じていらっしゃるようですね。あらゆる成功を収めながら、誰もあなたを顧みてはくれない…、家族や兄弟、恋人や友達、そんな人の繋がりから疎遠になってしまった。…それを後悔していらっしゃいますね、違いますか?」
 そしてあまりに的を射た観察力に、舌を巻く思いで当麻は黙り込んだ。占いが導き出したとは考えないにしても、会ったばかりの他人によくそれだけの事が見抜けるものだと、些か血の気の引くような思いもした。ふと顳かみから、一筋の汗が流れ落ちる。その様子をカユラはすぐに察して、続けてこんな事を言った。
「でも大丈夫ですよ、…あなたはもうすぐ大きな幸せを手にするでしょう。その後、それに関わる何かが起こりますが、その時にはきっと、あなたのお友達が救って下さいます。そう暗示には出ています」
 話の内容は、当麻にはよく解らないものだった。
 しかし最後に占い師の見せた微笑みと、耳にした『大きな幸せ』と言う言葉に、多少なりとも気が晴れたのは確かだった。鼻から信じるつもりもなかった当麻だが、それなりに有意義な暇潰し、くらいに考えてもいいと思っただろう、不思議な邂逅のひと時。
 なので実にあっさり、
「そりゃどうもありがとう、これで幾らなんだ?」
 と、お礼の言葉が口を吐いて出ていた。意外と、相当気を良くしているようだった。
 ところが意外な方向に話は進んで行く。
「そうですね…、お代を戴いてもいいのですが、よろしかったらあなた様には、魔除けの品を買って戴きたいのです。今ここには用意がございませんが、そこのビルで開業している店の方にございます。私に着いて来て下さいませんか?。お時間は取らせませんので」
 そう言って、彼女はすぐ目の前の雑居ビルを示していた。
 繰り返すようだが、当麻には時間を気にする理由はなかった。占い自体にはさしたる興味も湧かないが、オカルティックな商品ならば、『物』である分興味が向かない訳でもない。もしかしたら占い師の観察力の秘密も、そこへ行けば判るかも知れない。研究者的視点からも、意外に面白い発見があるやも知れない…
 などと考えながら、結局当麻の足は自ずとカユラの後を着いて歩いていた。
『魔除けとは何だろうな?。日本ならお守り袋かお札ってところだが、この占い師のなりからして、中央アジアかアラビア系統の物だろうか?』
 楽しそうに思案しながら歩く当麻に、カユラもにっこり笑って見せた。



 新宿で当麻に会った日から、既に十日が経過していた。征士がそれを思い出したのは、個人投資家へのアプローチ方法を考えてくれと、その時に口約束で頼まれ、そのままになっていることを手帳のメモから気付いた為だ。実はもっと以前から頼まれていたのだが、本業とは別の無償奉仕をしている時間は、思うように取れない状況だった。
 それにしても、と征士は思う。最近の当麻は大した用のない電話を、三日を空けず掛けて来ていた。それが今ではぱったり止んでいる。新宿で会った日を境に、と言えるかも知れない状況だった。元々生活にはルーズな所のある彼のこと、まさかの事態もあるかも知れないと、流石に征士も心配に思えて来る。いつまでも依頼をこなさない自分に、腹を立てているくらいなら構わないのだが。
 そこで連絡を入れてみようと思い立って、オフィスの壁の時計に目を遣ると、既に午後十時を回っていた。その場で私的な電話をするのは、まだ残っている他の研究員に迷惑かも知れない。征士は手早く帰り支度をして、オフィスビルの駐車場へと向かった。
 征士の勤め先は銀行、証券会社の集まる中央区に所在する。彼の乗る白のベンツC200は銀座の中央通りから、外堀通りへと曲がって真直ぐ、神楽坂の自宅マンションへと辿り着く。
 因みに本人はベンツはあまり好きではない。職業柄相手に嘗められないスタイルを持つことが、信用に繋がる要素なので仕方がなかった。マンションのガレージには淋しくも、滅多に乗ることのない愛車シルバーのポルシェ、ボクスターがひたすら眠っていたりする。それを溜め息交じりに眺めて、部屋へと向かうエレベーターに乗り込んだ。
 ここ三年程の間、こんな毎日がずっと続いていた。
 大学を卒業して以来、思えば仕事ばかりしているような気がした。休日出勤も日常茶飯の忙しい企業で、稼ぎの良い職種でもあり、お陰で金銭に困ることはないけれど。家事はヘルパー、食事は外食、恋は行きずり、と言う落ち着かない生活の繰り返しだった。
 忙しいのは苦にならない、と言ったのは嘘ではないが、実際は忙しくしていれば現実の、何も無い有り様を見ずにいられるのが救いだった。仕事を始めた頃は確かに、希望だの野望だの、様々な明るい展望を持って仕事に打ち込んでいた。けれどいつの間にかそれらは色褪せて、逆に足枷にさえ感じるものとなっている、現在。
 いつまでこの生活を続けたら良いのだろう、何処が出口になっているのだろう。征士はいつも、思うことなく思っていた。

「当麻?」
 自室の居間で、漸くソファに腰を落ち着けた征士は、早速心配な彼に電話を入れてみた。ところが、意外にも電話口の声は喜々とした様子で、妙に陽気な口調の返事を聞かされる。
『ああ!、征士か。どうした?、おまえから電話を掛けてくるとは、唯事じゃないんじゃないか?』
「いや…、別に何もないが…」
 拍子抜けだった。こっちが心配して連絡すれば、向こうは「普通じゃない」と返して来た。当麻は至って元気そうで、ともすれば異常とも思える明るさで、現状に大した問題はなさそうに思える。しかし彼には珍しく、浮かれたような調子が征士にはやや気になった。なので、
「唯事と言うならおまえこそ、余程良い事があったようじゃないか」
 征士がそう尋ね返すと、
『へっへ、判るか?』
 当麻は隠すことなくそう答えていた。どちらかと言えば出し惜しみするタイプの彼が、状況を率直に答えるのも珍しい。これは相当の事があったらしい、と征士が気付かぬ筈もなかった。
「ノーベル賞でも貰ったか?」
 何処か不機嫌そうな征士の声を聞いて、電話口で一頻り笑った当麻は、それからとても奇妙な話を始めていた。
『違う違う、そういう事とは比べられないな。…実はな、こないだ新宿で会った日の帰りに偶然、むっちゃむちゃいい物を手に入れたんだ。いやもう、こんないいモンだったとは知らなかった!、何てラッキーな俺様』
 一人で興奮している当麻を相手に、冷静に征士は質問を重ねる。
「物とは何だ?」
 しかし、
『トラウメンだよ』
「…???」
 征士には聞いたこともない名称だった。
「何なんだ…、それは?」
 当然のように聞き返すと、電話の向こうで密かに笑っている、当麻は「そう来ると思った」とでも言いたそうだった。
『…まったく、仕事ばっかりしてて頭おかしくなったんじゃないか?。ほら、週刊誌なんかによく載ってるだろ、去年辺りから、一部の金持ちの間で流行ってるって。手に乗るくらいの球体で、すごくいい物らしいが、それがどんな物かは持ってる奴しか判らない、とか何とか』
 聞いたところでさっぱり要領を得ない。一般週刊誌などという物は、久しく読んだ記憶がない征士だった。勿論学生の頃なら、今流行している物と言われて知らない物は無かった。当麻に「頭おかしくなったんじゃ」と言われても、仕方のない状況なのは否めない。
「それで、それを手に入れたと言うことか?」
 イメージも掴めぬままだったが、取り敢えず征士がそう返すと、
『まあな。ちーっと値は張るんだが、とてつもなく素晴らし〜いシロモンなんだ。おまえにもお勧めしたいくらいだね』
 当麻の返事はまるで、新興宗教に嵌まった盲目的信者のようだった。
「どうも怪し気だな…。おまえ何か、『いかにも慈善事業です』みたいな輩に、何処かに連れて行かれたりしたのか?。弱味につけ込んで有無を言わさない商法は、一種の詐欺の手口だぞ」
 けれど当麻はそれを明確に否定していた。
『勿論俺は疑ってたんだ。確かに最初は詐欺紛いの商売にも見えたが、実際は宗教でもカルトでもなかった。団体なんてモンは無いんだ、そう言う類の事とは関係ない。要は売ってる「物」を買えばいいだけさ』
 物とは、その「トラウメン」なる商品。
 トラウメンとは恐らくドイツ語のトロイマン、をローマ字読みした言葉だと想像できる。つまり「夢見る」と言う意味だ。そのネーミングもまた何やら怪しい、と征士はまだ疑う気持に満ちている。そんな様子を電話越しに察したのか、当麻はそこで思い立ってこんな提案をした。
『いや本当、そんな危ない事情はないって。だったら見に来ないか?、見てみりゃ判るさ』
 しかし、征士はそこで「おや?」と思う。
「どんな物かは持ち主にしか判らないのだろう?」
 確かそんな説明だった筈だと。
『それはまあ、俺と同じようには捉えられないって意味だ。トラウメン自体は誰にでも見える』
 と、当麻は事実を答えてくれたけれど。
 ただ、どの道話だけでは、やたら「いい物」だと連発している理由も、そこまで熱狂する程のどんな特徴があるのかも、全く見当が付かない状態だった。それならば、折角の機会でもある、征士はその様子を見に行ってみることにした。
「ああ、行ってやろうじゃないか。当麻が大枚を叩く程の代物だ」
 そう返した征士に、上機嫌な当麻はお節介とも取れる助言まで与えてくれた。
『百聞は一見に然ずだ、見ればおまえも欲しくなるだろう。ああ、銀行から金下ろしといた方がいいぞ、ローンもカードも使えなくてな。税込みで二百四十万だ』



 それから二日後、午後七時を過ぎた頃に、仕事を早めに切り上げた征士は職場から、直接当麻の研究所兼住居に向かっていた。
 彼の研究所は都内北区の外れにあり、少し歩けば埼玉県に入ってしまう地域だ。隅田川と荒川が交わる川の町は、都区内では比較的静かで普通の住宅が多い。まあ、都心のど真ん中に研究所を建てても意味はないが、田舎に引っ込むのも嫌、との意味で必要最低限の選択だったようだ。
 ところで当麻は滅多に車には乗らない。免許は持っているが、車自体を所有していなかった。何故なら車とその維持にかかる費用は、研究費や設備の方に回したい。それ故都区内に住む必要があった、交通費が押さえられるからだ。
 更に言えばそれ程広くない敷地に、できる限り広い部屋を設けたので、彼の研究室には駐車場も無かった。征士がここに来る度に困るのはそれだ。以前、たった十分程の路上駐車の間に、白線を引かれていたことがあったのだ。
 この日は結局、研究所からは少し離れた、車通りの少ない公園の近くに駐車して、征士はそこから歩いて向かうことにした。夕食時の町の、暖かそうな家の明かりを見るともなしに見ながら、彼が研究所の玄関の前に辿り着いた時、その横の大きな窓には、中に居る当麻の姿が映っていた。
 それは異様な光景だった。
 鞠のように弾んだ、赤い卓球玉のような物体を楽しそうに捕まえて、さも愛おしそうに頬擦りをしているのだ。やはり「頭がおかしい」のは当麻のように思える。恐る恐る、征士はドアの呼び鈴を押した。
「来たな征士」
 何食わぬ顔でドアを開けた、当麻はしかしこれと言って、目付きが変だとか、酷く弱っているとか、心配な様子は全く見せていなかった。

「…前から興味はあったんだが、何処で、どんなルートで販売してるか知らなかったんだ。それが偶然、あの日新宿で紹介してもらえてな。あ、それが結構可愛い子でさ、カユラちゃんて言う占い師なんだ」
 そんな事の成り行きを話しながら、当麻は研究室の奥に据えられた、小さなライティングビューローの白い天板の上に、白衣のポケットからそれを取り出して置いた。高価で素晴しい物だと言いながら、特に神経質に扱う様子もない。そして見易いように、デスクランプの明かりを点灯させる。
「これがトラウメンだ。…おまえには何に見える?」
 窓の外から見た時は、小さなボールのような物に見えた。が、それはガラスのように透き通っていて、且つ柔らかい質感のある物質だと、今の征士の目には映っていた。凝固した樹脂のような、淡いオレンジ色の光を放っている。成程確かに不思議な球体だ。面白い、滅多に見ない物質ではある。しかし何がそんなに「いい物」なのか、と思う。
「私にはシリコンか何かに思えるが。先刻玄関の窓から、これが床を跳ねたのを見たからな」
 征士は思った通りのことを話した。すると当麻は、
「うーん、違うな。実は俺にも全然判らないんだ、こいつが何でできてるかってことは」
 と、正直なところを話し始めた。
「だが、そんなのは取るに足りない事だ、成分だけで言えば大した値打のモンじゃないだろ。こいつにはそれ以上の、物凄いテクノロジーが隠されているのさ。それはな…」
 当麻はそう言って、置かれていたオレンジの玉を自分の手の上に乗せた。息を呑むように征士も、その手の上をじっと見詰めていた。そして当麻が柔らかく光るトラウメンに向かって、
「おまえ分かるか?、こいつは俺の友達だ。征士って言うんだ、覚えとけよ」
 すると、手の上で二、三度揺れ動いたそれは、自らジャンプして征士の肩と、頭の上を跳ね上がって、再び当麻の手の上に戻った。
「ははははっ」
 目を剥いている征士を見て、声を立てて笑っている当麻。しかしこれがヘラヘラ笑える事なのか。
「それは何だっ!?、生物か!?」
 多分に取り乱した征士の発言に、至って冷静な答が返って来た。
「いーや、生きてはいない。メシも食わないし、鳴きもしない。だがこいつには明確な個性がある。それも動物のレベルじゃない。俺の言う事をちゃんと理解して、自ら考えて反応するんだ」
「・・・・・・・・」
 言葉が無い。とてもじゃないが、そんな荒唐無稽な物事を今すぐ、鵜呑みにできる程酔狂ではない。と征士が黙り込んでいると、オレンジ色の玉はもどかしそうに、当麻の横で跳ね出した。
「そーかそーか、おまえの気持ちはよく解った。俺もそう思ってたところだ」
 そして答えた当麻の周りを跳ね回るそれは、犬が喜んで主人の周りを回っているような、そんな印象だった。
『ああ、前に流行っていたペットロボットの、もっと高度な物と思えばいいのか』
 考えがやっとそこに行き着いたところで、征士の硬直状態も解けた。
 ふと見ると、当麻は白衣をジャケットに着替えていた。悪戯するようにその頭の上で、小さく跳躍していたトラウメンを彼は捕まえて、
「よしっ、これからお出掛けだ!、一緒に行くか?」
 と話し掛ける。すると当麻の手を擦り抜けて、それは勝手に玄関の方へと、楽しそうに弾んで行ってしまった。どうやら外に出掛けるのが好きらしい。
「行くぞ、征士、車で来てんだろ?」
「…私も?、何処へ?」
 と、征士は間の抜けた返事で聞き返した。
「決まってるじゃないか、カユラちゃんの店だよ。忙し過ぎてまともに生活できない、おまえのような奴にはお誂え向きだよ」

 新宿は歌舞伎町の外れ、否、ここは百人町に入っているかも知れない。そこに立つ小さな雑居ビルは、もう夜の九時を過ぎて、流石に人の出入りは少なくなっている。しかし入口の自動ドアを潜ると、地下からは居酒屋の音楽かカラオケの、漏れて来る音が篭りがちに響いていた。そして吹き抜けから見える二階フロアには、煌々と明かりが点いている一角があった。迷わず当麻はエレベーターに乗る。仕方なく、と言った風に征士も後を着いて行った。
「あなたは先日の…」
 その露店風の店先に立つと、そこに居た黒装束の娘がまた先に声を掛ける。
「や!、その節はどうも」
 当麻がそんな風に砕けた挨拶をすると、
「気に入って戴けた御様子ですね」
 とカユラも嬉しそうに答えた。
 彼女は良いのだが…、と、後方に立っていた征士は、他の店員らしき二人の男が、どうもまた怪しく思えて仕方がなかった。カユラと同様に黒い服で身を覆った、凡そ販売員には向かない険しい顔立ちの男。顔面の派手な十字傷が嫌でも目に入る。そしてもう一人はけったいな緑の髪に、薮睨みの三白眼の男。この者達は一体何なのだろう。
 しかし当麻の方は、それらを全く気にしていない様子だった。全く気にせず、自分がしたい話を勝手に進めていた。
「実は友人が『是非譲ってほしい』と言うんだ、そこに連れて来た奴なんだが」
『そんな事を言った覚えは…』
 コラ、と小突いてやろうとしたが、征士が気にしていた二人の男が、
「それは有り難い、気に入ってくれたおまえの紹介なら確かだろう」
「俺達は良い物を良い客にしか売らない主義だ」
 と口々に言った。近世の店員の言葉とは思えない、これでは『武士の商法』だと征士は思う。けれどそれに困惑しているのは、この場では征士ただひとりだった。
「ではどうぞ、早速こちらに来て見ていただきましょう」
 カユラは征士の横まで出ると、やはり何も気になっていない様子で、店の奥に入るよう手で促して見せた。変わらず気が進まないでいる征士だが、当麻の面目を思って、一応それに付き合うことにした。
 店の奥と言っても、衝立てで仕切られただけのごく狭いスペースで、そこに黒い丸テーブルと、向かい合って置かれた椅子が一対、テーブルの端にはユダヤのメノラーを象った銀の燭台が置かれていた。普段は占いをする部屋らしかった。
 壁には曼荼羅の写しが掛けてあり、中央に座した大日如来が笑顔しているかと思えば、ヒンズー教のヤントラのタピストリーには、シャクティとシヴァが幾重にも向かい合っていたりする。宗教的にこだわりのない様は見て取れた。奔放と言うか、無節操と言うか。
 カユラは、そのタピストリーの後ろから平たい箱を取り出すと、テーブルの上に置いて言った。
「こちらに掛けて下さいな、あなたに丁度いい物を選びますから」
 征士は促されるまま、彼女の向かいの椅子に座る。そして、
「丁度いいとは?」
 と質問をしてみた。まずどんな物か知りたい一心だった。
「トラウメンは、それぞれがたった一個の唯一品なのです、人間がひとりひとり違うように、埋め込まれた人格はひとつひとつ違うのです。ですから、お客様の状況に合った物を選ばなければなりません」
「人格があるのか…?」
 そこまでとは思わなかった征士は、改めてその不可思議な技術に閉口してしまった。その間に、横に立っていた当麻が勝手に、黙っている征士の身の上話をしていた。
 カユラはテーブル乗せた、茶色に古びたような箱の蓋をそっと持ち上げる。するとそこには当麻が持つ物と同様の球体が、様々な色に輝いて十個程並んでいた。けれどそれらは全く動きもせず、何も訴え掛けもしなかった。綺麗ではあるが、どう見ても単なるガラス玉に見える物体。その中から、カユラは水色に光るひとつを取り出して、征士の目の前に差し出した。
「これがいいでしょう、こちらをあなたにお譲りしますよ」
 差し出されたので、何となく自分の手に受け取ってみた。特に何も起こらない。
 起こらないのだが、不思議なことにその球体は、とても柔らかい印象を征士に与えていた。状況は何も変わっていないが、何故だか心が和むような気がするのだ。
「…これは、どうする物なんだ」
 再び征士は、辿々しくなりながらも口を開いた。するとぎくしゃくした征士の様子を見て、カユラは笑いながら説明する。
「どうしもしませんよ、ただあなたの念が入れば良いのです。そうすれば答えてくれますよ」
 当麻に負けず劣らずの現実主義者である征士には、このような情報をどれだけ積み重ねられても、やはり納得するまでには至れない。未だ当麻を含めたここに居る連中の、疑わしさを拭い切れてはいなかった。こんな馬鹿げた事を真剣に語っている、彼らの心情は全く理解できない。何をしているのだろう、彼らは。何をしているのだろう、自分は…。
 しかし結局、好奇心に引き摺られるように、征士はそれを購入してしまうのだった。
 所有してみなければ判らないと言うからだ。



「何をしているのだ、私は!」
 殺風景な閑散とした部屋に、征士の声はまるでそぐわない趣きで響いていた。
 壁の色、絨毯の色、カーテンの色、天井の色、それらは落ち着いたベージュ系統で統一されている。なのに征士の部屋は常に凛として寒々しい。それもその筈、彼がこの部屋に留まっていられるのは、活動と活動を結ぶ短い合間だけ。置かれている物と言えば、リビングセットとテレビ等の僅かな家電製品のみ。まるで人を拒むかのような居間に、彼は言わば「住んでいない住人」だった。
 けれどその時は、紛れもなく彼はそこに居た。
 新宿から当麻を研究所に送って、帰宅した征士はこの部屋に戻って来た。普段そうするように、使ったことのないキッチンから飲物を持って来て、居間のソファに腰掛けた。それから、法外な値段で買わされてしまった、例のトラウメンなる物をサイドテーブルに置いた。暫くその様子を観察することにした。
 眺めること、実に一時間二十分。
 十一時前にはここに着いた筈が、時計はもう翌日に入っていた。征士が近所迷惑を忘れて叫んだのも無理はない。そこまで長時間に渡って、ひとつの物質を眺め続けることが可能だとは、今を以っても信じられなかった。それこそ異常な事態だ。
「もしかするとこのトラウメンとやら、人の精神を狂わす魔物かも知れない…」
 頭の何処かで危険さえ感じた。
 けれど征士は知ってしまった。今先刻それを眺めていた長い時間の中で、それは万物の上に絶えず降り注がれる、暖かい霧雨が心までも潤すように、命を全て守るように優しく、自分の存在を暖めていてくれた。ただ見詰めていることが無上の幸福だった。何に気を取られることなく安らいでいた。こんなに楽な気持を自身の中に、見出せたことは嘗てなかった。
 その物体から関心を逸らすことは、最早できないだろう。と思った。
 それでも、頭に焼き付いて離れない先の当麻の様子。無機物に頬擦りするような真似は、是が非でも避けたいところだった。生活の殆どを一人で過ごす当麻とは違い、征士は人の評価を気にしなければならない立場だ。彼は思わずトラウメンを手に取って、
「こんな形をしているのが悪い!」
 と文句を付けていた。
「せめて犬か猫か何か、動物の姿をしていれば良いものを」
 憎々し気にそう言い放った途端、彼の手に在った水色の玉はキラリと光って、その内部からもくもくと白煙を上げ始める。
『火災警報器が鳴ってしまう』
 見る見る部屋に広がっていく煙に、征士は一度狼狽を見せたが、すぐにそれは煙でなく水蒸気だと気付く。冬に向かう乾燥がちな部屋の備品と、自らの衣服が水滴の装飾に覆われていく。そして、何が起こっているのか殆ど考えられない内に、征士の腕の中には、一匹の艶やかなイルカが横たわっていた。
 玉が、イルカの姿に変化していた。
 しかしそれを抱える征士は、見た目よりも合点がいかない事に悩んでいる。あの小さなトラウメンの質量が、腕にずっしり重い程になるのは物理的におかしい。こんな事があってはならない、と、彼の頭脳はまだ理性的に物を考えていた。
 けれどイルカは可愛かった。元来人間を怖がらない動物ではあるが、人懐こそうな小さな目をじっと征士の方に向けていた。笑っている訳でもないのに、その表情は微笑み掛けるように愛らしかった。だがしかし、マンションでイルカを飼うのは無理がある。
「これはまずい、まずいぞ」
 忍びない思いを持ちながらも、征士はイルカに言い聞かせるように話した。
「他に何かないのか?。人格があると言うなら、どうせなら人の姿になればいい」
 すると、今度はイルカの体が水色の光を放って、再び水蒸気を上げ始める。
 既に征士の部屋は、雑巾で拭いて回らなければならない程潤って、彼の髪からは雨のように雫が落ちていた。衣服などは水を浴びたように、皮膚に煩く張り付いて滴っていた。
「勘弁してくれ…」
 と、溜め息を吐きながら、辺りの様子が収まったのを見計らうと、彼は束になって額に張り付く前髪の、下に隠れた目を恐る恐る開く。
 すると。
 眼下の腕の中には、眠るように穏やかな表情で、征士のシャツの胸の辺りにしがみ付いている、ひとりの人間が居た。そしてゆっくりと顔を上げ、イルカと同様に、その緑の瞳に征士を映していた。



つづく





加筆校正後コメント)サイトを立ち上げて7年ほったらかしになっていた、この作品を遂にリニューアルしました〜。とにかく終盤が、オーバーワークのせいかしっちゃかめっちゃかな文で(苦笑)、全くお見苦しい状態で放置してましたね。それを判っていながら、長くて面倒だったのでなかなか手を付けられず、申し訳ございませんでしたっ。
 さて初回upの時も書いたけど、私はトルーパー放送当時の数年間、正に新宿に住んでいたので、話の冒頭の場面は当時の新宿を思い出しながら、楽しく書いていました。最近はあまり行かなくなっちゃったけど、新宿は本当に色々思い出深い街ですね。西武新宿の前の喫茶店まだあるのかな〜。




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