月照原
諸行無常
#2
Slow



 迦遊羅に頼まれた作業を終え、獲物の血に汚れた馬を拭く。厩舎へ移動させてから、共に歩き疲れた馬達を労い草をやる。一通りの後始末を終えた後、征士は着替えの為に一時悪奴弥守の屋敷に戻った。
 社殿の裏の新宮で開かれる会食の支度には、迦遊羅が手伝い人を調達したらしく、そう時間は掛からないとの話だった。それを待つ間、悪奴弥守は持ち帰った鹿革の洗い干しをしに、庭の池に繋がる用水路へと出て行ったが、征士は半端に空いた時間を持て余していたので、暇潰しの為に城下を歩き、また社殿の庭へと足を踏み入れていた。
 その道程で、嘗ては戦場だったこの煩悩京も、いつの間にか台所の匂いや煙が漂う、人の住む場所になっていることに気付く。ここで戦っていた当時は、妖邪界と言う場所に普通の生活をする者が、こんなに存在しているとは考えなかった。今思えば戦時体制だった為に、人々は一時町を離れて居たのだろう。それなりに生活できる平和が確保できれば、人は自然に戻って来るもののようだ。
 また征士はそう思うと、地球であれ妖邪界であれ、深い傷と成る悪しき歴史を持ちながらも、気が遠くなる程の時を経れば、何れ良い時代が巡って来るのではないかと考えた。一日の変化と同様に、あらゆるものの一生に夜明けと日暮れが繰り返されるが、結局どれだけ待つことに堪えられるか、待ち続ける体力が残されているか、それで全てが決まるような気がした。
 野望から成る戦には負けたが、ここの人々は待つことに勝利しているのだ。本来の人間の生き方とはそう言うものかも知れない、と征士は考え続けている。有名な例えで、人は葦であると誰かが言っていたが、ただ只管に我慢強く生きることで、何れ朝日を拝めることもあるのだろうと。
 何故だか煩悩京の民人が羨ましくも感じた。
「あ、丁度良いところにいらっしゃいました」
 物思いをしながら庭に佇んでいた征士に、現れた迦遊羅が声を掛けていた。
「ん?、少し時間を持て余しているところだが…」
 すると彼女は、そろそろ支度ができるので、暇なら他の者を呼びに行ってほしいと彼に伝えた。その場で相談した結果、征士は社殿の北東に住む螺呪羅と、北西に住む那唖挫を呼びに行くことになる。時間潰しには丁度良い散歩になると、快く受けて征士は再びそこを後にした。もう辺りがかなり暗くなり始めていたので、あまりのんびりともしていられなかった。
 最初に社殿の東に出て、征士はまず螺呪羅の住む屋敷へと向かった。煩悩京の北東は切り立つ山が聳えているので、この時間帯には黒々とした背景を背負うこととなり、町並みも酷く暗く見える。わざわざそんな方向に向かうと言うのは、心情的にあまり乗り気がしないものだ。早く用事を伝えて引き返そう、と征士は幾分足早に歩いていた。
 ところが屋敷の前を通る道に差し掛かった時、偶然こちらにやって来る本人に出会っていた。螺呪羅は丁度社殿に向かおうとしていたところで、征士には運の良いことだった。路上にて、迦遊羅に伝えられたことを簡潔に話すと、それで用も済んだので、すぐに那唖挫の屋敷へと向けて踵を返す。
 真直ぐ東西に走る道を、征士が西の方角に向くと見えたのは、日暮れ間近の空がより赤味を増して、日本的な景観の美を湛えている様だった。煩悩京の西には竹林が広がっている。その青々とした広がりの向こうに、比較的低い山が幾つか連なる。そんな景色の中に夕陽は沈もうとしていた。妖邪界にもこの様な無為自然の美観があるものだ、と些かの感銘も受けていた。
 完全にその陽が沈み切ってしまう前に、残る者を連れ出さなければ。
 しかし那唖挫の屋敷の前まで来て、征士はふと足を止めた。妙に静かで人の気配が感じられないのだ。もしかしたら螺呪羅と同様、もう出掛けてしまって行き違いになったのかも知れない。征士はそう考えたが一応確認しようと試みる。入口には呼び鈴等が存在しない上、木戸を叩いても屋敷の奥には聞こえそうもなかった。なので周囲の庭から裏へと回ってみることにした。
 建物はコの字型に配置されていて、中庭には細かく整理された畑があった。那唖挫が庭で育てているのは恐らく、自分が使用する薬草の類だと想像は付く。無闇に荒らしては申し訳ないと思い、征士が端の方を数歩だけ踏み出すと、彼が見付ける前に那唖挫が呼び掛けていた。
「どうした?」
 まだ見えぬ相手に突然呼ばれ、慌てて征士はその声を振り向く。すると、何故この屋敷が静まり返っていたのかを、瞬時に理解することもできた。那唖挫が薬鉢と布巾を手に座る横で、伸は身動きひとつせずに眠り込んでいた。彼の疲労度合いを気遣ってのことだったらしい。
 征士は彼等の居る部屋の、北向きの縁側により近付いてから話した。
「迦遊羅から、そろそろ呼んで来るように言われたので」
「そうか、御苦労だな光輪」
 那唖挫は極静かな調子で答えると、手に持っていた道具を傍に置きながら、
「起きよ、水滸」
 と声を掛ける。しかし余程よく眠っているのか、その程度では何の反応も示さなかった。次いで那唖挫が肩を掴んで、横になった体を反対の方向に向けようとすると、無理矢理動かされた為に流石に気付いて、
「う〜ん…」
 伸は溜息のような唸り声を聞かせながら、漸く起き上がって来た。普段、そこまで深く眠れないと言っていた彼にしては、珍しい様子だと征士は思った。それ程竜宮の草摘みは消耗するのだろうか?、それとも…。
「夕餉の支度ができたようだ、光輪がわざわざ伝えに参ったぞ」
「ああ…、そ、珍しいね…」
 那唖挫がその場から立ち上がっても、伸は未だ眠そうに目を擦って、自ら動き出すまでには暫く掛かりそうな雰囲気だった。その間部屋の壁面の棚に薬鉢を乗せて、那唖挫は今一度元の場所に戻って来る。そしてだるそうに座ったままの伸の、両脇を後ろから抱えるようにして立たせると、寝ている間に乱れた着物を御丁寧にも、きちんと直してやっていた。
 伸は気にせずそれを受け入れていたが、那唖挫も一言も言葉を発しなかった。そんな様子を見ると、ふたりの間にはそれだけの信用が存在すると、誰にも容易に想像できる一場面だった。伸が身に着けている単衣(ひとえ)の、鶸色の着物も本人の持ち物ではないのだろう。それにしてはとても良く似合っていた。誰が用意したかは考えるまでもない。
 前の通り、嘗ては敵として戦った五人の戦士達だが、現在は個々に魔将達との関わりを維持している。その中で、伸は何と穏やかで理想的な関係を構築したのだろう、と、一部始終を見ていた征士は暗に感じていた。思い遣る行動はさり気なく、相手が煩さがる事はしない。適当な距離を保ち合っているから、互いに信用し合えるのだろう…。
 自分は何故そうできないのか。或いは、伸は何故そうできるのか。
 初めて自分以外の、仲間と魔将達の付き合い方を目にして、征士の悩みはより深くなって行った。
 それとも、伸は誰より那唖挫に心を許しているのだろうか?。
「随分慣れた様子だな」
 那唖挫が部屋を離れて、ひとり縁側へと出て来た伸に、征士は敢えてそんな感想を零した。伸がどう答えるかを知りたがっていた。すると、やや眠気を残した顔がフッと笑って、
「そう?、いつもの事さ。長く潜ると疲れるから、竜宮に行った後はいつも寝てるんだ。那唖挫が香を焚いてくれるし、それと、彼は何もしないしね。クックック…」
 伸は意味深長な含み笑いを始めた。
「…その笑いは何だ」
 無論、彼の言いたいことは解っている征士だ。何しろ魔将達と和解した後、最も早くから交流を持ったのは征士だった。仲間達にも、彼が悪奴弥守に相当気に入られている様子は、周知のこととなっていた。ただ、今はそれが足枷にも感じるようになって、会う度考えさせられる現状になっている。茶化されるのは面白くないと、征士は素直に眉を寄せて見せる。
 だが伸はそれに構わず続けた。
「んん?、僕の事より君はどうなんだよ?。相当可愛がられてたみたいだけど?」
「昔の話だ」
「そうなの?」
 多少意地悪な態度で通した伸の、意図する事は征士には解らなかったけれど、
「そうだよね、君ももう大人なんだからね」
 途端に真面目な顔に戻ってそう纏めた伸は、三ヶ月しか違わない相手に、大層な大人の振りをして見せた。そしてそれが彼の気遣いであると、征士も今は理解することができた。
 悠久の時の流れから見れば僅かな歩みだが、誰もが年を重ねて、もう以前のまま変わらない心や思考を保っているとは、誰にも言えないだろう。知るべきことはまだ数多くあるにせよ、既に得た知識の蓄積も、それぞれの個性を際立たせる糧となって来た。そんな経過が在った。
 生物は絶えず変化して行くものだ。誰も昨日の顔のままで生きてはいない。例え変わらない石のような相手が存在するとしても、己の変化に目を瞑るのは不自然だ。もし、それが相手への配慮だとしたら、どちらかが間違っているのだろう。変わり行く事に傷付く経験は誰もがするのだから、気にすることはない。
 だから伸は、もうそんな昔の事は忘れていい、とでも言いたかったのだろう。
 それから征士には、伸がそう言ってくれたことで、どれだけ身軽になれたか知れなかった。長く彼を押さえ付けていたのは、彼自身の存在意義にも関わる、過去のある一点を想う心の所為なのだから。



 妖邪界の長い夜が始まった。
 新宮に集まった者は皆思い思いの話に興じ、飲み食いして、これから長過ぎる程長い夜をやり過ごすのだ。地球に住んでいればこそ、夜明けの恨めしさを描くシェイクスピアも、人の共感を得られる存在だった。この世界では、夜とはそんな生優しい現象ではない。じわじわと染み入るような狂おしい闇が、地球の時間に直すと二日半も続くのだから。
 元々地球に生まれた者なら、流石にそこまで長く眠ることもできない。拠って、屋内で楽しめる事に興じながら、休み休み過ごすのが習慣となっている。今日のように来客の無い時でも、魔将達は誰かの家に集まっては、こうして夜を過ごすものだった。だから宴会のような風情である割には、それぞれが好き勝手に寛いでいる。何とも不思議な会食の様子に触れて、初めて参加した伸は充分に楽しめていた。
 尚征士は過去に、こんな夜会の場に参加した経験があるので、特に目新しいこともなかったようだ。
 が、そうして宴も酣な様相を呈して来た頃、ふと螺呪羅が席を立って、新宮の外へと出て行ってしまった。それでも夜会はまだ延々と続くことを思えば、一時の誰かの行動など気にする者は居なかった。否、征士だけがそれを気にしていた。何故なら、新宮の入口に在った手水(ちょうず)の端に、伸が摘んで来たらしき水草が活けてあったのだ。恐らく螺呪羅に分けられた分だと気付いていた。
 征士はそれを後でよく見せてもらおうと、新宮にやって来た時から考えていた。先程那唖挫の屋敷に寄った際には、尋ねる暇さえろくに取れず、運んで来た船も積荷も見当たらなかった。なので、今螺呪羅に頼むのが丁度良いように思えた。征士は早速席を立って、彼の後を追うように外に出て行った。案の定、螺呪羅はそこに活けておいた水草を、手水の水で洗おうとしているところだった。
「…何だい?」
 征士がそのすぐ傍に歩み寄ると、螺呪羅は気付いてそう言った。
「よく見たかったのだが、見れば改めて不思議な植物だと…」
 そして征士は衒いも無く、見たままの感想を口にしていた。
 昼間はガラスのようだと感じた水草が、夜になるとむしろ絹のように柔らかく見えた。浦島太郎になぞらえれば、丁度水に凪ぐ衣を着けた乙姫を連想させる。ひらひらと水に揺れている葉は袖に、延びた蔓は不思議にも鞠の様に集まって、頭や髪に見立てられた。残念ながら花は付けないようだが、これが水中に漂っている様はさぞ可憐だろうと、容易に想像することもできた。
 そしてそれは、まるで昼間に見た衣装の伸が、葦の泉に潜っているようだと征士は思った。
「そこは我等も同じ感想だ、未だ名も知らぬ草でな。竜宮には他にも似たようなのが多くあって、妖邪界ではとにかく特別な場所だ」
 螺呪羅は注意深く、丁寧に手先の作業を続けながらも、征士の問い掛けには親切に答えてくれた。また彼等にも判らないと言う水草は、竜宮そのものを表す神秘であることも、螺呪羅の話し方から多分に感じられた。恐らく自分だけでなく、誰もが思っていそうなことを征士は続けてみる。
「私も竜宮とやらへ行ってみたいものだ」
 けれど、賛同は得られなかった。
「我等には叶わぬ夢さ。そこには朱天の奴も居ろうに」
 螺呪羅の答えは淡々として、美しい夢を語るようなものではなかった。しかし、その心情は痛い程に伝わっていた。そうだ、水底の世界は死者の都だと、征士は迦遊羅の話を思い出していた。儚気に揺れる不思議な植物のざわめきは、ともすれば死人が蘇って来るような、妖しい幻想に見えるのかも知れない。それだから、選ばれた者しか近付けないのかも知れなかった。
 真の意味で死者に通じられる者しか。
「そうだな…」
 と、征士は懐かしい朱天童子の姿を思い浮かべながら、打たれるように納得していた。そして死した魂の安らぎこそが、人に対する至上の優しさなのかも知れない、とも思いを深めていた。
 如何に切望しようとも、手にできないものが存在する。或る者には当たり前の能力でも、他の者には決して真似できない事が存在する。己の魂は久しくそんなものに憧れて来た。否、誰にしても他を羨む意識は、多少なりとも持ち合わせているだろう。むしろそうした意識が無ければ、己が向上することもなかった。唯我独尊であった私の道が、正義の脇へと逸れず現在に到れたのもまた。
 全て君が、人を脆くしない優しさを持ち得ていることから始まった。
 伸が居るから他の誰もが、危うい優しさを持たずに居られたのだと、征士は水の向こうの過去を振り返っていた。するとその時、
「欲しいのか?」
 螺呪羅は征士にそう問い掛けた。彼は名も無き水草の、千切れた葉を水面から一枚拾い上げると、征士に渡そうと腕を後ろに伸ばした。さて、妖邪界でも珍しい植物を持ち帰ったとして、お土産として姿形が残るのだろうか?、と征士は答に迷いながらそれを受取る。手にしてみると、水の入った風船のような葉は、乾燥すれば忽ち紙になってしまうだろうと思えた。
 それでは感動も薄れてしまうかも知れない。セピア色の押し葉にもそれなりの風情はあるけれど。ただ、螺呪羅が言いたかったのは、後にどうなるかではなく現在の事だった。
「先程から水滸ばかり見ているな」
「え、いや…、」
 まるで関係の無い彼がそう指摘したことに、征士はただただ驚いていたのだが。螺呪羅には恐らく、征士が竜宮に関心を寄せている様子から、考えられる範囲の事だったのだろう。そして、事実を言い当てられ言葉に詰まっているのか、言い訳も何もしない征士を覚ると、螺呪羅はこんな話を始めていた。
「…獲物は常に野を跳ねる鹿の如し、欲望は黄金の蝶の羽搏くが如し。何が目当てにせよ、己が目に魅力的に映るものを追い掛ける。嘗ては我等もそうであった」
「ああ…」
 やや心を落ち着かせながら、征士は狩りに出掛けた草原の様子や、魔将達と戦った過去の経過を思い出していた。言われてみれば彼等は、阿羅醐の呪縛に因る意思とは言え、自分達の持つ鎧を狙ってやって来たのだ。確かにそれも似たような話かも知れない。
「だが手を下す事より、その後の方が大事だと俺は思う。そうでなければ、過去は敵であった我等を、今は同志と呼んでもらえるのは何故だろうな?」
「・・・・・・・・」
 しかし続きを聞いてしまうと、征士はまた何も言えなくなっていた。時が解決する類の事は確かに存在するが、全てが彼の言うように事は収まるだろうか?。それより征士は、邪念とも思える己の意識を肯定する者が居る、ここ妖邪界に今自分が居ることが、恐ろしい罠の様に思えて仕方がないのだ。
 だからここで伸に会ってしまったの不味かった。正しさを極めようとする気風と共に、仲間や家族達が求める水準の高さは、厳しく己を律して居られる環境を守って来た。地球は正に理想に邁進する場となっていた。が、ここではそうは行かない。魔将達は長く生き過ぎている分、何事にも寛容過ぎる節があると、征士は常々思うことがあったからだ。悪奴弥守の自分に対する態度が甘いと思えるのも、そんな観察から理解できた事だった。
 多くの物事を見過ぎてしまうと、こだわりを失ってしまう面が人には有るようだ。ならば正しさへのこだわりを捨てた時、望まれない行為は正しいと看做されるだろうか?。それは違うだろう、と、征士は堂々巡りになりながら真実を探している。
 だが征士には知り得ない時のからくりを、魔将達が知っているのも事実だった。
「何もしなければ何も変わらぬ」
 夕餉の席に戻る前に、最後に螺呪羅がそう言ったのは、未だ十八年分の経験しか持たない、若き同志に対する配慮に他ならなかった。何も、惰性に任せろと言うのではない。内なる思いは表に出してみなければ、結果が悪に転ぶかどうかは判らないと、言いたかっただけなのだ。
 魔将達とて、始めから悪の化身になろうと望んだ訳ではない。今は朱天の裏切りに感謝して止まない、彼等がここに在るように。

 螺呪羅の後に遅れて、征士が新宮の夜会の輪に戻った頃、他の者達は妖邪界の土地の話題に花を咲かせていた。ここに暮らす者にさえ未知の部分が多く、奇妙な地域や現象が多々見られる妖邪界だ。たまにやって来るだけの伸などには、興味の尽きない話題と言えた。彼は絶えず明るい表情をしながら、食い入るように魔将達の会話を聞き、時には発言していた。
 征士がその横に戻って来ると、伸はすぐ様、入手したばかりの情報を彼に伝える。
「今、蓮池の話を聞いてたんだよ。遼と当麻が前に来たって言ってただろ?」
 それは以前の戦いで、妖邪界に自力で乗り込んだ際にそのふたりが出た地点。幻影かと思う程美しい蓮の池だったと、彼等から聞いていた場所だった。征士も話には憶えがあるものの、未だそれを見たことはなかった。
「ああ…、そんな話があったな」
「何かね、そこだけいつも温度が違うんだってさ。年中花が咲いてるって言うから、今度来たら連れてってもらうことにしたんだけど」
 成程、伸が案内を頼むのも解る気がした。地上から見れば雲の上に在るような空間に、常春の蓮池が存在するとしたら、まるで話に出て来る釈迦の庭のようだ。悪の権化が作り出した妖邪界が、仏の庭になり得るとは面白い、と征士も皮肉めいた現状に笑った。
「ここは地球と違って、法則無視の変な場所があるよねぇ」
 そんな風にここを評した伸は、気持良さそうに夜風を感じる仕種を見せていた。彼はいつも嗜む程度しか口にしないが、既に酒が入って、話す言葉も些か鈍く感じられる。
「そうだな、私は月照原くらいしか知らないが」
 だが征士が耳慣れない名称を出すと、
「あ、何それ?」
 目を爛々と輝かせて問い返した。今の伸に取っては、妖邪界の地理が最大の関心事なのだろう。征士はいつぞやに訪れた彼の地の記憶を、思い出しながら話して聞かせた。
「夜になると光る草地だ。実際に月が照らしている訳ではなく、草自体が光るのだが、行く度に場所が変わっているから、月が照らす例えになっているのだろう」
 思い出す、まだ最初の段階での戦果を見たばかりの、十五の頃だった。悪奴弥守が夜中に馬を出して見せてくれたのだ。彼は月照原の光の中に立つ自分に、其処はお主の為の場所だと言った。そして彼自身はわざわざその外に立っていた。今考えると何と暗示的な事か。悪奴弥守と私は似ている面も確かにあるが、永遠に相容れない存在でもあるのだと。
 彼は恐らくそれを知っていて私に構うのだと、征士は奇妙な過去を思い出している。
「へえ、知らないや。見てみたいなぁ、丁度夜になったし、今から行けないのか?」
 すると伸は、説明を耳にして尚興味を惹かれたらしく、早速出掛けようと言う意思を見せていた。彼の言う通り、夜にしか見られない場所なら、今訪れるのが丁度良いかも知れない。普段は昼間の内に来て帰ることが殆どなのだ、夜に掛かる時間帯にやって来たのは幸いだった。
 そして、俄にそわそわし始めた伸を見ると、征士はこう答えるしかなかった。
「馬を借りられれば、場所は大体判っているが」
 己の場所だと言われたその地にて、何が起こるか恐々とした気持も感じたが、伸が見たがっていると言うなら、どうにかして出掛けようと頭を切り替えていた。征士は思う、竜宮の美しさを知る伸には、それ以上の何に感動を覚えるだろうかと。

「途中で脚を止めるなよ、夜目の利く獣に囲まれるからな」
「済まない螺呪羅」
 何故彼に馬を借りることになったのかは、他の魔将ふたりが話し込んでいたのと、迦遊羅は馬を飼っていないことが理由だが、先程手水の前で話していたこともあり、彼になら面倒な説明をしないで良いと思えた。征士にはそんな利点があった。
「行って来ま〜す」
 何も知らず明るい調子で声を発する伸と、未来の流動性を思いながら案内をする者、或いは見送る者の両者。別段騙すつもりではないが、伸だけが事情を知らない状況には、多少気が咎めた征士だった。普段から特に親しい訳ではない螺呪羅に頼んで、また彼が何故快く馬を貸してくれたのか、疑問を差し挟まれてもおかしくはなかった。
 だが伸は何も指摘しなかった。酒に酔っているのか、既に心が目的地のみに向いているのか、いずれにせよ、出掛ける前から不信感を持たれることにならずに、征士は安堵する思いだった。何事も起こらなければそれはそれで構わない。
 否、そんな細かな悩み事は、二頭の馬が規則的な律動を刻んで、スピードに乗る頃には殆ど忘れていたけれど。闇の中を直(ひた)走る、幾重にも重なる夜の帳を突き抜けながら進む、スリルと開放感と些かの畏怖を伴った、月の元の乗馬は意外にも心を踊らせた。征士は以前にも経験したことがある筈だが、こんな感覚だっただろうかと、己の記憶を疑う程の躍動を感じていた。
 条件は大して違わなかった。夜中に二頭で出て、月照原に着くまでは只管早足で、黙って手綱を握り締めていた。夜風を切る音が耳元で鳴っていた。煩悩京の明かりが遠くなると、地を照らすものはぼんやりとした月のみだった。今宵も同じ。違うのは伸が居ることと、己が先を走っていることくらいだと、心が高揚して行く中で征士は考えていた。
 それだから、かも知れない。誰かの庇護下を着いて回るような行動を、征士が好むとも思えない。妖邪界を殆ど知らない内ならば、慣れた者に大人しく従うしかなかったけれど。また、征士より知識の浅い者が居ると言う場面も、これまでには無かっただろう。今日初めて出会えた理想的な状況が、征士はただ嬉しいのかも知れない。
 妖邪界に在って、初めて彼の本音らしい感情が現れたのかも知れない。常に誰よりも先を見据えて、先陣を切って進むことこそ本望だと。
「わぁ…!」
 煩悩京の南西方面へ駆けること三十分程。遠目に海の漁火の様な、白い光の広がりを見付けると、後ろを走る伸が感嘆の声を上げた。近付くに連れ、それは徐々に水平へと拡大して行った。そして火の粉の様に舞う光の粒までが、確と目に捉えられるようになった。
「ほんとだね!、何でこんなに明るいんだろ。飛んでるのは何だい?、虫か何か?」
「胞子だと聞いたが」
 前へと進む毎に、そこから発している光が顔や正面の景色を明るくして行く。螢でさえここまでの明度は無いと言うのに、植物がこんなに明るく輝くなんて、と伸は信じられない景色を食い入るように見詰めた。同時に征士も、今夜の様子が別格なことに気付いて、
「これだけ広く繋がっているのは、私も見たことがない。昼間のように明るいから、夜の魔物が寄り付けない聖なる光だと言うが、これは昼間どころではないな…」
 と溜息混じりに話した。以前に見た時は幾つかの島に分かれて、地図の陸地を示すように光る場所が点在していた。しかしこの日、近付けば近付く程に視界を埋めて行く、噎せる程の光の大群を見た。長く遠く、広大な地面を覆う植物の発光は、何か、超常現象でも起こる前兆のようにも感じられた。物言わぬ静かな祭が、不吉な啓示でなければ良いのだが。
「すごいすごい!、天の河が燃えてるみたいじゃないか!。君も初めて見たって?、僕の日頃の行いが良いからだよ」
 と、一杯に感情を表現している伸を見ると、征士はただ彼の為に、平穏無事を願っている己を認めるばかりだった。
 恐れ続けたのは常に己だ。災いは自分が起こすのだと征士は知っている。己がいつか彼を踏み荒らすのではないかと考え、彼の前では常に下手に出るようにしていたけれど。奔馬の如く駆け抜けた夜の道で、征士は喜びに沸く己を見た。本当は、誰に対しても平伏したくはない。誰かの後に着くくらいならひとりで構わない。欲しいものは奪ってでも欲しい。と思った。
 そんな感情を向けられている伸は可哀想だ、とも思った。補食される草食動物のそれに似て、彼は生まれながらに生きる悲しみを知っている、そんな立場を与えられた存在だ。だから那唖挫を始め魔将達にさえ、その能力を買われて肩を並べている。優しさは誰もが有するが、己を、他を脆弱にしない優しさこそが、彼の絶対的な地位を揺るぎなくしている。だからとても羨ましい。
 だから野の獣は皆魅力的なのだと。
「本当に光ってるね、これが河のように繋がってるのか…」
 伸は光る草地の上に足を下ろすと、早速膝を折って足許の様子をしげしげと眺め、また辺りを一望して、その神秘的な様子を堪能し始めた。さざめく稲穂の波なら、陽光に照らされて金色に輝いても見える。しかしこの草はどうだろう、正に微弱な月の光を受けたように、白金色の光を発していた。今先刻聞いたように、聖なる光と言って相応しい、この地の長きに渡る安寧を約束しているように。
 綱を離された馬も、ここが安全であることを知っているのか、大人しく息を整えながら、そこを動こうとはしなかった。一帯が夜の闇に包まれる中、動物達がこんなにも穏やかで居られると言うのは、本当に特別な場所だと伸は感じ入っている。
「だが、誰にでも見られるものだ」
 と、素直に感激している伸の横で、征士は淡々と話していた。
「は?、どう言う意味?」
「美しいばかりで、そこまでの価値はないだろうと言う意味だ。水底の竜宮程には」
 人への利益の面では、確かにそうかも知れないけれど。
 この場に於いて征士が、何故そんな事を言い出すのかを伸は考えている。竜宮と比較して優劣を付けたとしても、それが何だと言うのだろう。征士に取って何だと言うのだろう。それはまるで、何れかの鎧が特に優れていると、不毛な議論をするようなものではないか?。
 だがそう考えた時に、伸は気付くことができた。正しい意味での優劣は、ひとつの面だけでは判断できないが、或る面だけを取って言うなら、確かに優劣は存在するだろう。例えば単純な力を見れば、己に与えられた水滸は他の鎧に劣るだろう。それを全く気にせずにいたかと言えば嘘になる。仲間の足を引っ張っているのではないかと、不安に感じた局面も多々ある。
 けれどそれは、迫り来る悪との戦いの中での、己との戦いだった。己が特質をどう理解するか、自らをどう生かして行くべきか、模索する過程での苦悩だったと伸は思い返す。恐らくそんな時期は誰にも生じていると思えた。そして、潜在的な能力が大きい者程、目覚めが遅いとも言う。
 贅沢な悩みだと、ふと笑ってしまいそうにもなった。
「…さっきから、どうして物欲しそうな目で僕を見るんだ?」
 伸は、知っていて黙っていたことをそこで、初めて口にしてみた。全ての理由に共通の意識が含まれるのではないかと、ここに至って読めたからだ。征士はひとつ上の階梯に登る為の答を探している。その為には、綺麗事ばかりの理屈では足りないのだ。目上の者に諂うばかりでは能が無い、相手の気持を考え過ぎても発展しない。伸には知り得て難儀なことばかりだが、他の誰かには可能だと知っている。
 それが元鎧戦士達の、個々の成長と言うものだった。
 その過程の上で、いつの間にか伸は課題として存在していた。
 征士に最も曖昧な感情を与えた相手だからこそ。
 すると、思わぬ事実を突き付けられたように、一時動作を止めていた征士が、次の瞬間には伸の腕を捕えて、その場に引き倒していた。倒れた衝撃と共に、飛び散る胞子の光が舞い上がった。
「何だよ急に…」
 それでも、固く地面に押さえ付けられていても、伸の言葉は至極落ち着いた様子だった。
「知っていて着いて来たのか」
「そうだよ。君の言い分を聞いてやろうと思って」
 見上げている伸の目には、出口に迷う不安と怒りを露にした征士の顔が、懐かしい記憶を呼び覚ますように映っていた。いつだかも、君はそんな顔をして戦うことに迷っていた。その度に僕等は君を助けて来た。そうでなければ君は成長しないと、仲間達の誰もが気付いていたからだ。
「でも僕は物じゃないんだ、はいどうぞってくれてやることはできない。だから、君が本当に真摯な気持を示せるなら、この手を放したって、僕は逃げないんだよ」
 今ここには他の仲間が居ないから、否、征士が求めている何かが自分の中に在るなら、自分がどうにかしなければならない。伸はそう考えていたのだけれど。
「…済まなかった」
 悟りを開いたような伸の言葉を聞いて、征士は力を込めていた腕を引いてしまった。少しばかり冷静になれたこともある。体を手に入れても、目的を達したことにはならない。勢いのみで生まれた結果には後悔が付き纏うだろうと。けれどそんな征士に対し、伸は何故か煽るように続ける。
「何で謝るのさ、今更じゃないか」
 今更、と言われる程長い間、相手を見詰めて来たことを彼等は知っていた。家族的な仲間としての意味でもあるが、そうでない意味でも。だが、征士を見て伸が過去を思い出したように、征士にもまた思い出される事があった。悪奴弥守が、征士に取ってそんな立場だったのだと。一方的な感情を押し付ければ、理解する相手にでも反発したくなるものだと、征士は次々に過去の場面を回想していた。
 そして言った。
「だが…、望まれていない事をするのは、好ましくないと思う」
 それは大切なものを守ることに於いての苦悩。
 征士の言葉からはそんな、世界の矛盾に対する迷いが感じられた。彼は何と真面目なんだろうと伸は思う。何故なら普通の人間の生業の中にも、必要悪と言うものがあるだろう。例えば何らかの契りを持たなければ、相手の為に働こうとしない者も居るだろうに。
 征士を搦め取る呪縛とは純粋過ぎて、時に扱いに困る。
「そうだね、でも」
 と答えた伸には、彼がそうでなければならない理由も、また判った気がした。光は大気にも何にも交わらずに、常に理論上の正しさを以って進まなければ、現存する全てものの活動が狂ってしまうから。
 だからとても大切だ。
「君が長く考える時間をくれたから、僕はもう解ってるんだよ」
 君が思うように、僕に取っても大切だ。それが長く考えて来た伸の答だった。
 彼が彼で居られないのなら、自分の存在意義も変わってしまう。戦士達の個性は、極めてこそひとつに完成するものだった。今後に起こる事に対して備える意味でも、変容してはいけない基礎なのだ。だから、その為に必要な過程なら、己が身を賭すことは構わなかった。否、他の命の為に犠牲となる者の心を知る、自分はそんな立場で良いと伸は理解している。
 人々の為に、仲間達の為に、誰かひとりの為に。
 そのように伸の望む、切なる安定への意思は、迷える征士に届いただろうか?。
「私は、見えない竜宮程に伸を知らぬようだ」
 と、征士は言うと、暫くの間黙って伸を見詰めていた。
 緩やかに風が吹き抜けて行く。黙っているふたりの間に、どれだけの胞子が飛び去って行ったか知れない。それらは風に乗って、また別の土の上に降り、根付いて、再び輝く大地を形成するひとつの個体となる。人にもそんな事があって良いだろう。出会った頃に生まれた種が成熟する為に、長い時を掛けて様々に移動しながら、漸く別の環境に辿り着いた。
 そして今は光る草の中に紛れている。ここへやって来たのも自らの意思だった。
 征士は、今度は力任せではなく、普通に手を延ばして伸の頬に触れた。髪に触れた。子供の頭を撫でるような、優しい手の動きを耳や首に感じる頃、伸の唇には征士のそれが触れていた。
『大見得切った手前、嫌だとは言えないな…』
 伸は少し大人のような態度を見せながら、内心そんな事を考えていたけれど。



つづく





コメント)こんな場面でコメントを読む気になれるかどうか(笑)、なのですが。
この小説に描かれた妖邪界、何処かで読んだ気が…と思われた方もいますよね(^ ^)。3月に発行した「既成事実」と言う本に、これまで考えて来たのんびりした妖邪界を、漸く少し登場させられたので、イメージが膨らんでいる内に書いてしまおう!、と少し無理をしてこの話を書き始めました(1pで終わる話じゃない事はわかっていた…)。
でも6/1に間に合わなかったのは残念。まあお誕生日合わせでもいいんだけど。では続きへ…。




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