竜宮
諸行無常
#1
Slow



 死者の安らぎこそ優しさの原型である。
 変わり行く世界の不変の水底に君は答を見付けるだろう。



 狩りの誘いを受けた。
 妖邪界の地平には明確な境界が無く、常に薄ぼんやりとした曇り空と、陸とも海とも知れないものが交じり合って、土地の距離感が掴み難いのが厄介だ。狩りを楽しむにはまずその感覚に慣れ、建造物や地形から方角を把握した上で、自在に馬を乗りこなす必要があった。幾度も訪れて、慣れてしまえばどうと言うことはないけれど。
 またそこは気候の変化も乏しく、季節感と言うものもあまり感じられない。土地の殆どは荒涼とした岩場や草原が連なり、風光明美な景色はほんの一部に限られている。町らしい場所も、嘗て訪れた煩悩京の周辺のみに留まり、今や唯一無二の人間の居場所となっている。その他は正に奈良時代当時のような、原始的な空間が在るばかりなのだ。
 楽しめる物事はほんの僅か、前の戦いで人が激減して以降は尚、何かに沸き立つような活気さえ失われた。荒れ果てた城や城下の町並みは、大した修復もされないまま晒されているが、それ以上に傷みが進行することも当面はない。それが野望の為に創造された都の結末。千年の昔に怨念に因って創造された時から、流れる時間に忘れ去られたように、人も世界の様子も殆ど変わらずに存在する、成れの果ての都だ。
 そこに住む者達は古の生活を今も尚続けながら、大した発展も見ず、ただ終焉の時を待っているようなものだった。不変を望んだ亡き者の意思に、今も囚われ続ける魂はあまりにも悲しい。時が僅かずつしか進まないと言う条件が、どれ程過酷なものかを感じるばかりだ。変わると言えば、地球よりも遥かに長いサイクルで日が昇り、また日が落ちる、それに合わせて花が咲いたり閉じたりする程度だった。
 そんな閉じられた世界に留まることを決めた、己が運命を受け入れた魔将達だから、多分に同情の念を持って接していたことは否めない。また歴史の上で正につくか悪につくかは、紙一重の選択だと理解する者なら、彼等の人生の不運を悼むこともできた。人の心より出ずる悪に対し、負わされた業で成り立つ世界に留まる者達は、現世を生きる人々の身代わりとも言えるだろう。
 人類の悪しき過去を背負い続ける為に、不変の世界と共に生きる彼等は哀れなり。
 否、既に死しているとも言えるかも知れない。魔将達は最早何も言わないが、地球上から迦雄須の作り出した鎧も失われ、五人の戦士達と、それに関わる者が何れこの世を去れば、妖邪界も魔将達も愈々忘れ去られる存在となる。その時には、彼等はどうなっているだろうか。彼等は何を思っているだろうか。
 魔将と呼ばれた者達が、敵でなくなった時からずっと考えている。
 だから征士はいつも、無碍に誘いを断ることができなかった。

 相も変わらずぼんやりとした空模様の、妖邪界の午後はそれで最良の天気と言えるようだった。嘗ての城の無惨な姿を背にした、煩悩京の中央に位置する社殿の庭には、悪奴弥守の所有する馬が二頭連れられて来た。彼の住居はその南西に存在するが、広い池を有する庭には馬を入れる余地が無く、また厩舎が社殿の横に在る事情から、馬で出掛ける際はいつもこの庭から出発していた。
 立派な鞍を付けられた葦毛の馬達は、以前狩りに出掛けた時と何ら変わらず、若々しく、動物としての生気を存分に発していた。征士がその一頭の鬣を撫でると、以前の記憶を留めているのか、馬は懐かしむような仕種で征士に首を摺り寄せる。妖邪界に在りながら、動物の素直な心の露出を感じると、人間は高等生物であるが故に不幸だ、と考えてしまう。
 生きることに無垢で居られる存在に取っては、妖邪界は今も尚生ける都なのだと。余計な知識を持たなければ、持たざる何かを奪おうと企てをしなければ、世界は最小限の悲しみだけで調和が保たれる。動物達はそれを証明していると征士は思った。
「光輪殿、見事な美丈夫振りですね」
 その時馬を見ていた征士を呼び止めたのは、社殿の奥から姿を現した迦遊羅だった。彼女は煩悩京に残る者から、日々の祈祷と神事を全て任されている為、今はこの社殿の主と言っても良い。その庭に久し振りに見る顔を見付けて、小走りになって寄ったところだった。
 尚、迦遊羅の口から出た褒め言葉は、決してお世辞などではなかった。妖邪界での狩りのスタイルとして、古来からの伝統装備と石火矢を携えた姿は、数年前に比べれば格段に様になっていた。十四、五の頃の、まだまだ線の細かった体には、しなやかな革の胸当て、手甲、具足等は尚細さを強調するように見えていた。今はもうそんな面影は見られない。
 但し、本人の自覚は伴っていないようだった。
「…そうか?」
 多少驚いたような顔をして、征士は間の抜けた返事をするばかりだった。
「そうですとも。以前はここまで見上げる程ではありませんでした。大人になられましたね」
 更に『大人になった』と評されると、とてもそれには当て嵌まらないと、気恥ずかしさのような感情を覚えた。齢十八と言えば、大昔は社会で充分に一人前と看做される年だが、現代に於いては流石にひよっこの扱いに留まる。迦遊羅がそれを知らないのか、或いは知っていてそう言うのかは、征士には判断が付き兼ねていた。なので、
「そうだろうか??」
 と、再び問い返すような言葉しか出せないでいた。まあ、それが征士でなかったとしても、謙虚さを持ち合わせる者なら皆、同じ反応をしたに違い無い。
「ハハハハ。その手の話は、何を言おうと通じぬぞ迦遊羅」
 そこへ猟犬を連れて姿を現した悪奴弥守が、話の噛み合わないふたりに向けて言った。彼は経験的にそれを知っていることを、何やら誇らし気に思っている様子だった。いつものこと、と迦遊羅は何とも思っていないようだが、征士は多分にばつの悪そうな顔をする。
「こやつはどう誉めても嬉しいと言う顔をせぬ」
「まあ、御謙遜の深いこと」
「それが光輪の美点なのだ、なあ?」
 そんな話を振られても、と明ら様に嫌そうな態度さえ見せていた。
 迦雄須と阿羅醐に始まる因縁の対決を終え、魔将達が妖邪界へと戻って行った後、地上の鎧戦士達は、誰もが幾度か妖邪界を訪れている。揃ってやって来たことはないが、魔将達と和解した後は、個々の繋がりを大事にしながら過ごしていた。
 理由はそれぞれ、歴史への知識や理解を深めようと、自ら妖邪界に出向く者もいれば、呼び出されて初めて行動を起こす者も在った。前に述べた通り、可哀想な運命を生きる同胞と言える彼等には、誰もが背を向ける気持にはならない。故に皆、特殊な隣人達と快く付き合って来たと言う訳だ。ただ、征士の場合は少し状況が違っていた。
 例で言えば彼は後者に該当する。物見高い性質を持ち合わせながら、自ら出掛けようとしなかったのには、勿論理由もあった。悪奴弥守が必要以上に彼を呼び出したからだ。狩りの誘いもそのひとつ、他には剣の稽古など何かと理由を付けて。それでも、煩わしく感じる程頻繁ではなかったので、征士は深く考えずに付き合って来たけれど。
 月日が過ぎ、征士はここに来る度に考えるようになっていた。悪奴弥守が自分のことを考えてくれているのは解る。だからこれまでの三年程の間、以前のような憎しみは感じなかったが、彼は度々押し付けがましい言動で縛りもする。この関係は何なのだろうかと。
 友ではない、師でもない、父とも兄とも思えない、まして恋人でもない。敵であった頃の方がむしろ、悪奴弥守の立場は明確だったのだ。
 嘗ての彼は、悪しき己を表す影のような存在だった。
 では今は何なのだろうと。親しくなればなる程に、彼が何を考えているのか解らなくなっていた。一時に比較すると、存在が近くなった分、心が離れつつあるような気がしていた。それでは鎧に関わる者として失格だろうか、とも征士は考え始めていた。
 純粋に相手を見られる時期もあったことを思えば、時の流れは惨いものだと感じる他に無い。
「それにしても偶然ですね、今日は水滸殿もいらしているのに」
 そして挨拶ついでの会話が一通り終わると、迦遊羅は一際嬉しそうに続けた。
「伸が?」
「はい、那唖挫が用を頼むので、しばしばお見えになりますよ」
 そこで征士が目を見開いたのも無理はない。実は誰もが訪れると言っても、最初から複数でやって来る以外では、ここで他の仲間にかち合うことは一度も無かった。頻繁に呼ばれるのは征士だけで、他の者はそう多くは来ていないのだ。征士が驚くと同様に、迦遊羅や魔将達にしても珍しい事だった。迦遊羅がここに急いでやって来たのも、それを伝える目的があった所為らしい。
 また残る人間の数も少なく、日々知れた顔ばかり見て過ごす者達は、多く来客がある事を喜ばしく感じるのだろう。迦遊羅の喜び様からは、そんな環境事情も窺えた征士だった。
「今宵は会食の席を設けますから、是非夕刻まで残っていて下さいな」
「そうするが良いぞ、光輪」
 しかし、同じ気持を共有することはできなかった。何故かここで伸に出会う事に、征士は強い不安を感じていた。柳生邸などに仲間が集まる折は、伸とは毎年幾度か顔を合わせているが、それ以外で個人的に会うことは殆ど無かった。無論学生の身分では、最も遠距離に住む彼に会おうと言うのは、なかなか困難な事でもある。けれどそれは表面的な説明でしかない。
 征士は故意に避けていたからだ。一度手段を行使してしまうと、常に会いたくなるからだ。己が伸を特別に思う理由を征士は、もう随分前から知っていた。その理由に拠って幾度も救われて来た経過が在る。大切な過去の積み上げを台無しにしない為にも、無闇な行動は起こすまいと考えていた。伸に申し訳ない事はすまいと考えていた。
 またもうひとつ、妖邪界でなければ有り得ない状況として、悪奴弥守の自分に対する入れ込み様を、伸が見ると思えば酷く恥ずかしかった。十四、五の当時ならまだしも、未だ子供のような扱いを受けていると知ったら、彼は笑うだろうと容易に想像できた。征士が自ら保護者を望む訳もないが、好きなようにさせている状態を誤解されたくなかった。
 例え上辺だけを見てのことでも、伸には自分が幼い印象を与えたくなかった。
 そして、それらの条件から始まる偶然の出来事は、善くも悪くも止まっていた時が動き出しそうな、良からぬ気配を感じさせていた。淀んだ時間を漂うような妖邪界は、前進を強制させる地球からの避難所とも思える、情け深く生暖かい場所だったけれど。
 変わってしまうかも知れない。と、征士は存在意義の変化を恐れている。
「那唖挫は草摘みに連れて行くのだ、水滸でないと入れない所があってな」
 対して悪奴弥守は、困惑する征士を見てそんな説明を入れる程、何の気負いも無く呑気だった。伸がここに訪れる理由を、征士が知りたがっていた訳でもない。
「あれは…」
 その内、三人が立ち話をしていた社殿の上空には、一艘の船が姿を現していた。
「ああ、参りました」
 と迦遊羅は簡単に答えた。征士が増々困惑するのを後目に。
 空を飛ぶ船なら既に幾度も見ているが、やって来た船は征士には見覚えの無い形をしていた。妖邪兵の輸送に使われたものよりひと回り小振りで、屋形船のような座敷が付いているらしい。朱塗りの屋根と柱、白壁にの側面に開いた出入口には、雅びな縁取の御簾が掛けられていて、昔の貴族の籠か牛車のような趣きだった。何とも浮世離れした乗り物だ。
 そして見ている間に真上の空を覆い、船体が音も無くゆるゆると降りて来る光景は、月から兎やら、かぐや姫やら、七福神やらが降りて来るような印象だった。しかし見上げている誰もが、喚声のひとつも上げないところを見ると、ここでは普通の船と言えるようだった。
 迦遊羅が慣れた様子でその傍へと近寄って行く。そして、
「御機嫌よう水滸殿、こちらに光輪殿が見えているのですよ」
 と声を掛けた。すると同様に何でもない様子の伸が、御簾を上げて船の外へと出て言った。
「やあ征士、元気かい?」
 少し前に会った時と何ら変わらない伸が、変わらない笑顔をしていた。凡そ非現実的な背景から、突然人間が現れたような光景だった。それだけでも不思議だったが、征士は尚目を剥くように戦いている。
「…何だその格好は」
 伸はまるで船の様子に合わせたような、奇妙な和服を身に着けていたのだ。
 恐らく平服と言うよりは、神事などに用いられる着物のような気がする。薄手の無垢生地を紐で合わせただけの、相当昔の形式であることも征士には判った。だが何故伸がそんな装束を着ているかまでは、流石に見当が付かなかった。
「あはは、昔の水着みたいなもんかな?、竜宮のしきたりなんだよ」
「竜宮?」
 すると、船の舳先に座っていた那唖挫が、ふたりの会話に割り込むように言った。
「知らぬのか?、城では日々豪勢な宴が開かれると言う」
 所謂竜宮城のお伽話なら、勿論征士にも知識が無い訳ではない。浦島太郎が連れて行かれた場所である。だが本気でそんな場所が在るとでも言うのか、と征士は思考を止めている。
「いい加減な事を教えるな、那唖挫」
「クックッ…」
 悪奴弥守が那唖挫に文句を付けるのを見て、やはり冗談だったと理解はしたが、竜宮と呼ばれる場所が存在するらしきことは、少なからず征士の興味を惹いていた。見慣れぬ衣装を纏った伸と、その口から出た言葉だったことが要因だろう。妖邪界には原理を覆すような、様々な地域が存在することを知ってはいたが、これまで特にどうとは思わなかった征士だ。
「俺等が竜宮と呼んでいるだけで、真の呼び名は知らぬのだ」
 代わって悪奴弥守がそう説明すると、面倒がって誰も言い出さない様子を察して、詳しい情報は迦遊羅が話してくれた。
「この乾の方角に十里ほど参りますと、葦の原の中程に泉がございます。その泉の水は深く、底には誰も辿り着けませぬが、螺呪羅が持つ千晶球で覗くことができます。そこには何故か明かりが差し、水は暖かく、生命力に溢れる植物が青々と茂っています…。この妖邪界の表向きからは想像できない、それは美しい場所なのです。けれど私達には触れることのできない水の都…」
 説明をしながら、迦遊羅がうっとりと遠くを見るような様子が、その場所の美しさを存分に表すようだった。確かに美しい景色よりも、圧倒的に荒々しい自然の地形が目立つ妖邪界では、掛け替えのない財産のように感じて不思議ではない。
 だがそれだけの意味で、彼女が夢見るように語ったのではないことを、征士は次の質問から知ることになる。
「都と言うからには、そこに何か在るのか?」
「ええ、私達も知らなかったのです。千晶球には映りませぬが、水滸殿が参られてその場所のことを知りました。竜宮と呼んでいる泉の底は、死した魂の安息の場所なのだそうです。人も動物も、過去の風景やそれに含まれる静物に至るまで、この世界の全ての記憶が宿る、正に都なのだそうですよ」
「妖邪界の記憶の都か…」
 非現実的と言う意味では、空飛ぶ船の異様さと大差の無い話だったが、征士はこれについては意外にすんなり納得していた。何故かと言えば、伸がそれを確かめて来たと言うからだ。
 以前から伸には、通常の感覚の他に別の知覚があるのではないかと、征士は度々思うことがあった。普通のレベルより感覚が鋭敏なのかも知れないが、現代人が常識的に備えている機能とは違う、何か特別な能力があるように思えていた。そして体に染み付いた鎧の力や属性が加わるなら、今耳にした内容も頷けると言うものだった。
 だから何の疑いも持たず、征士は伸に尋ねた。
「記憶とはどう見えるものだろう?」
「え、どうって言われてもね、目で見てる訳じゃないんだ、存在を感じ取ってるような。何かこう、色んなものが見えたり消えたり、重なったりしながら心に入り込んで来る感じ」
 シンプルな質問には意外と答え難いものだ。それを示すように伸が辿々しく話すと、
「光輪よ、死人が普通に見える訳なかろう」
 と悪奴弥守は敢えて不粋な発言をした。まあそれもひとつの正しい思考だった。見えざる者には所詮理解はできないのだから、深く考えても仕方がないと言う意味だ。けれど何を聞かせようと、征士が竜宮に関心を寄せ続けていることは変わらない。否竜宮そのものでなく、伸がそれを見られる事実に、かも知れない。
「普通は見えないとしても、伸には判ると言うから聞いているのだ」
 助言も空しく、反論するように征士がそう返したので、
「辛気臭い話はもう止めろ」
 と、やや無理矢理に話を切って、悪奴弥守はその場から離れてしまった。また彼のそんな態度を見て、特に気を遣おうとも、場を繕おうとも征士は考えなかった。よくある事だったからだ。
 が、伸には悪奴弥守の意図することが理解できた。単純に、征士が自分に関心を示すのが気に入らないこともあるだろう。だがそれよりも、彼の言う「辛気臭い」分野に関わってほしくない、そんな牽制の意識が伸には強く感じられた。無論伸が、既に悪奴弥守と言う人物を知るが故である。
 多くの者が既に知る通り、征士は光の性質さながら、曲がらない強靱さと閃きの早さを持った戦士だ。常に真直ぐ先を臨む彼の在り方は、誰の目にも潔く輝かしく映る。だからそれを良しと思う者は、彼の特性が曇ることがあってはならないと考えるだろう。つまり悪奴弥守の思考はそう言うものだと、伸は考え込まなくとも理解できた。否、そう考えられないのは征士本人だけだろう。
 そして自分は、ここに於いても征士とは反対の存在なのだと、伸は改めて思うばかりだった。
 別段、自ら望んで死者を見る訳ではないけれど。
「では、そろそろ出掛けるとしよう」
 一通り会話が終ったと見て、那唖挫がそう声を掛けると、
「じゃあね」
 と伸は一言残して、再び船の上へと戻って行った。
「行ってらっしゃいませ、お気を付けて」
「那唖挫!、俺の分も頼んだぞ!」
 船が動き出すと、やや声を張り上げて見送る迦遊羅の声に、他の誰かの声が被って来た。社殿を囲む塀の上に現れた螺呪羅だった。そう言えば、目的は草摘みだと聞いたが、竜宮には魔将達が珍重する植物があるようだ。と、征士も船を見上げながら考えていた。
「我等も行くぞ」
 そして船が庭の上空を離れる頃、馬の手綱を引いて歩き出した悪奴弥守は言った。
 その声を振り返って、我が行くはただ土の上の道なり、と征士は溜息を吐きながら踵を返す。狩りに赴くのが嫌なのではない、悪奴弥守の言動に腹を立てた訳でもない。ただ人にはそれぞれ違った本分があると、知れば知る程切なくなることを征士は思った。
 何故なら心は船に乗って、既に十里先の芦原へと向かっている。
 こんなにも遠く隔たっていると。

 岩山を駆ける蹄の音ばかりが、長い間耳に聞こえる唯一の音だった。しばしば遠くで轟く風の音が聞こえた他は、生き物の気配さえ感じられない岩場が、煩悩京の南の方角に長く連なっている。征士と悪奴弥守はそこを越えてしまうまで、黙って馬を走らせていた。狩り場となる草原地帯は、このごつごつとした岩場より遥かに気の休まる場所なので、ここは一気に駆け抜けてしまうのが習慣だった。
 煩悩京を離れると、まず人の手に拠る建物らしきものは殆ど見当たらなくなる。過去の遺物らしき平らな祭壇や、風化寸前の城趾等、遠目では判らない低い目印が、石ころや枯れ草に紛れて疎らに在るばかりだ。そんな様子を馬の上から、流れる景色として見ていると、長く前進を止めているこの妖邪界にも、滾々と時は流れていたことを征士は感じる。
 否、今は日々穏やかに暮らす魔将達も、妖邪界の遥か昔には、阿羅醐に選ばれた実力者の跋扈する中を戦い、生き延びて、鎧を与えられるだけの頭角を現して来たのだ。自分には残骸の景色しか見えないが、前を走る悪奴弥守には、最も猛々しく人が活動していた時代が見えている筈だった。
 そしてそれは、同時に最も惨たらしい、最も苦悩に満ちた時代でもあっただろう。仏の存在しないこの世界では、己の他に頼るものは何も無かっただろう。地球に残る戦国の世の歴史に比べ、それが如何なる状況かは想像を絶する。魔将達はあまり過去を語りたがらないが、そこにはそんな理由があるのではないかと、征士は常々考えていた。
 過去を知ることは即ち、相手への理解に繋がる事だと思う。空白の部分が未だ多く存在するからこそ、悪奴弥守の言動に反発を覚えるのだと、征士は自分なりの答を出してもいた。何故彼は己に目を掛ける、何故己を制しようとするのだろう。理解が進まぬ所為で、上手く付き合えない場面も生じている。けれど、それを充分に思い測ることができるのは、ただひとり伸のみなのだ。
 だから必要だ。
 知り得ぬ筈のことを知る能力が伸にはある。そこから深い理解と感情が生まれる。戦士としては優しく特異な存在である彼が、実際は最も必要な存在ではないかと征士は感じている。下地の無い未来など存在しないのだから、全ての事象に於いて、記憶は必要不可欠な要素だと気付いてもいる。
 だから我々には伸が必要なのだ。
 風化し続ける世界が、そこに住まう魔将達が自ら何も言わないのなら…。
「岩陰に鹿(しし)の群れが居る、判るか?」
 草原に差し掛かると、悪奴弥守は開口一番に言った。獲物に対する彼の嗅覚だけは、絶対的な信用が置けるものだった。ここでは征士も言われる通りに、赤錆のような色をした大岩の陰を見据える。すると恐らく、十頭を超える数の鹿が群れを為していると、征士の目にも捉えられた。
「判る」
「俺が脅しを掛ける、ばらけた中の一頭を追え」
 征士が答えると、悪奴弥守は連れて来た犬を嗾けて、岩の向こうで待機するよう指示を出した。そして馬を止め、手早く石火矢の準備に掛かっていた。
 段取りとしてはこうだ。まず悪奴弥守が威嚇の射撃をする。その音と反対の方向へ鹿は逃げようとするだろう。しかし岩の向こうからは犬が来る。草食動物は肉食動物が近付くと、恐れてまた反対に逃げようとする。混乱状態になって、群れは必ず四方へと散じる。そこではぐれた一頭に狙いを定めるのだ。悪奴弥守の得意とする狩りの仕方だった。
 征士もまた、既に慣れた手付きで石火矢の支度を始めていた。こうして妖邪界の狩りをした機会も、もう両手で数えられない回数に登っている。最初は獲物の定め方も知らなかった征士だが、今では幾度となく聞かされた指導の言葉が、石火矢を構えた瞬間に脳裏に浮かんで来るまでになった。これについては、素直に悪奴弥守の才覚に敬意を表するところだった。
 何故なら、興じてみると狩猟とはとても面白い。
「撃つ」
 既に方向を定めて、石火矢を構えていた悪奴弥守が言った。固唾を飲むような数秒間の静寂(しじま)の後、パァンと空を裂く発射音が鳴り響く。それまで場に漂っていた緩やかな空気の流れが、途端に忙しなく動き始めた。
 大岩の向こうから聞こえて来る、乱雑に草を踏み分ける音。恐怖を感じ取った獣の緊迫した息遣い。岩影の一部に見え隠れする彼等の影が踊っている。そして盛んに吠える犬の声が聞こえると、その場は一気に阿鼻叫喚の舞台へと転じて行った。
 飛び出して来る獲物を確と捉えようと、石火矢を構えた征士の目は一段と鋭くなる。
『野の獣は必ず後ろから狙う』
 嘗て聞かされた言葉が、考える前に頭で復唱されて行く。
『逃げる方向を読んで腹を撃つのだ』
『狩りとは人の根源的行動だ、仕留めたいと言う欲求に身を委ねることだ』
 生物としての欲求を満たす事は幸福感に繋がり易い、そんな精神構造が今は知られている。そう、精神治療に魚釣りを勧められるように、本能的な欲求に身を任せることで、所謂ストレスが軽減される。だから征士も面白いと感じるのかも知れない。
「一頭で来たぞ!」
 程無くして岩の両側から飛び出した鹿は、片方が三頭、もう片方が一頭。言われなくとも当然征士は一頭の方に狙いを定めた。まだ正面を向いている、方向転換をした直後が絶好のタイミングだった。征士は微動だにせず構えたまま、意識を全て獲物を捕らえることに集中させている。
 心が最も原始的なレベルへと還って行く。
 生物としての純粋な欲求だけが彼を支配して行く。
『仕留めたい、欲しい、その命が欲しい…』
 その極限的な集中の中、征士はふと、標的の上に何かを重ねて見ている己に気付く。
『私は…』
 犬に追われて来た鹿がこちらの存在に気付き、慌てて身を返した。その瞬間、征士の構える石火矢が火花を吹く。乾いた発射音、立ち昇る火薬の臭い、そして、血を流す獣の断末魔の声が広大な草原を圧倒した。最期の叫びに拠って、命の重さを知らしめるかのように。
「よしっ、上出来だ!」
 征士が結果を確かめる前に、悪奴弥守は力強くそう声を掛けていた。が、彼の明るさに対して征士の顔色は悪かった。これまでに感じたことのない後味の悪さ。幾度も同じ場面を見て来た筈なのに、今日は喜ばしい気分からは程遠かった。人が生きる為に動物を狩る、その行動自体には何の抵抗も感じていないが、いつまでも死に行く者の声が耳に残る。
「一発で仕留めるとは、随分上達したものだ。…どうした?」
「ああ、大したことはない。火傷をしたようだ」
 悪奴弥守には誤魔化しておくしかなかった。
 自分が撃ったのは鹿ではない。狩りたいと思うものは別に存在していた。本能的に欲しがっているものに、一向に近付けない苦悩から生まれた幻。それは己の前に立ちはだかる、仲間の結束と言う名の壁の向こうで、太古の衣装を身に着けて水を舞う彼なのだ。
 征士はそれをずっと見ていた。
『私は何をしているのだろうか…』
 無心に引金を引いてしまった自分に、尚悪い予感を覚えていた。それもこれも、この黄昏れるばかりの妖邪界で出会ってしまったからだ、と。



 この世界の、長い長い一日が漸く暮れようとしていた。
 日がな薄暗い色に覆われていても、夕暮れ時には鈍い赤味を帯びた、何とも形容し難い空へと変わる妖邪界。昼と夜の呆れる程の長さに比べ、極短い朝夕の変化の時間は、誰にも美への感動と安堵を与えるものだった。山へと帰って行く鳥の群れが、崩れた城の一角を掠めて、ざわめきながら通り過ぎて行くのが見えた。それもまた古き良き時代の、長閑な趣のある風景だった。
 ここには斜陽がよく似合う。黄昏れてこその美しさもこの世には存在する。無論そんな事を口に出しては失礼だが、と、征士は暗に思いながら空を眺めていた。こんな退廃を感じながら日々生活する人々の、思いは測り知れないと考えている。いつやって来ても、誰ひとり暗い顔を見せないのだから。
「二頭も持ち帰るのは難儀でしたでしょう?」
 征士と悪奴弥守を迎えに、社殿の三門まで出て来た迦遊羅は、やはり想像通りの笑顔をしてそう言った。そして悪奴弥守も、応えるように明るい調子で返していた。
「そうでもない、相当な距離を歩いたと言うだけだ」
 一頭の大人の鹿を仕留めた後、今日は運良くまた別の群れに遭遇した。そこでもう一頭大物を捕えて、一頭ずつ馬に括り着けると、乗れなくなった馬を引いて歩いて戻るしかなくなった。悪奴弥守は「そうでもない」と言ったが、地球の時間で三時間程度は歩いて来たのだ。まあ、彼の場合は狩りが上々だった分、身も軽く感じられたことだろう。社殿の庭に馬を繋いでしまうと、漸くふたりは一息吐くことができた。
 ただ消耗はそれ程なくとも、足はかなりの疲労を訴えていた。途中で足を止めると血の匂いを嗅ぎ付けて、危険な大型獣が寄って来る可能性もあり、とにかく帰路を急いでいたのだ。足場の悪い岩の道を急いで歩いた分、足に負担が来るのは当然だった。気だるそうな彼等の様子を見て、迦遊羅にはそんな事情も想像できたのか、代わりにてきぱきと動いて仕事を始めていた。
 彼女は暫し獲物の様子を眺めた後、馬に縛り付けられた綱を切って外す。そして傍で休む悪奴弥守にも聞こえるように言った。
「一頭分は保存しましょう。早速仕込みをしなくては」
「…仕込みとは?」
 それに反応したのは征士の方だったが。
「革を剥いで血抜きをしてから、肉を切り分けて塩漬にするのです」
 すると、迦遊羅は平素な態度でそう返して、すぐにもう一頭の縄を切り始めていた。尚、彼女は妙にあっさりと言ったが、そんな簡単な事か?、と征士が疑問に思わない筈もない。鹿一頭は自分にも担いで帰れる重さではなかった。それを女性にしても小柄な迦遊羅が、ひとりで仕込みとやらを施せるのかと。
「大変な作業だぞ…、迦遊羅ひとりで大丈夫なのか?」
「平気だろ、いつもやってんだ」
「だが…」
 征士が心配するのを余所に、悪奴弥守は全く無関心な状態だ。余りにも気にならない様子なので、どうも本当にひとりでできるらしいのだが、話を聞いていた迦遊羅はここぞとばかりに言った。
「お気遣い有り難いですわ、光輪殿。ここの者達は慣れてしまって、私が平気でやっているとお考えですが、少しくらい手伝って戴きたいものです」
 そうだろう、人手が少ない為に何とかしているだけで、本来は数人でするべき作業の筈だと素人目にも判った。そして自分の考えが正しかったと判ると、
「私は構わない、手伝おう」
 征士は間を置かずに申し出ていた。自然に親切心の働く彼らしいことではある。が、隣に座っていた悪奴弥守は実に不服そうな顔になった。彼は彼で、この後の時間をどう過ごそうか考えていたようだ。計画を雑用で潰されるのが気に入らないらしい。
「余計な事を…」
 しかしそのぼやきが迦遊羅の耳に届くと、
「何です!、私は配膳係ではないのですよ?。今日はお客様が見えているのです、普段より忙しいのはお判りでしょう」
「判ったよ!」
 悪奴弥守は子供のように叱られてしまった。征士には何故だか妙に、彼と迦遊羅の遣り取りが微笑ましく感じられた。
 これまでに、征士が耳にした魔将達の会話と言えば、大人の言葉遊びのようなものが殆どだった。ウィットのあるお喋りとは聞く者も楽しいが、話す者のセンスを問われる知的行為でもある。それは地球上でも何ら変わらず、年数を重ねた者の話はより一層、勉強になる内容が含まれると征士は知っている。その点で、彼等が好んでそんな話し方をすることに、征士は随分感心させられて来たのだ。伊達に長く生きてはいない連中だと。
 しかし、今目の前で見聞きしたふたりの会話は、そう言ったお洒落な様子ではない。なのに心には響いた。より人間的で、家族的な会話だと感じたからだった。そう、何処か自分達に似ていると思えた。広い世界の中に、特別な力を持って存在する僅か数人の仲間。それが家族のような信頼で繋がって居られる限りは、目的を果たし続けることもできるだろう。征士はそう考えている。
 なので彼等が日々こんな風に過ごしているなら、彼等も自分達も救われると気付いて、妙に安心したのだ。閉塞感ばかりが漂う妖邪界であろうと、それだから彼等はやって行けるのだと知って。
「では道具をお持ちしますから、綺麗に革を剥いじゃって下さいね!」
「…ま、鹿革は利用するから、そのくらいはしても良いか」
 迦遊羅はやや押し付けるような調子で言うと、社殿の横の倉庫へと向かって行った。悪奴弥守は諦めたように呟いていたが、それなりに納得して引き受けたようだった。まあ、全く子供の年令には当たらない男なのだから、それで妥当な態度と言うものだろう。
 するとその時、
「那唖挫も戻って来たな」
 悪奴弥守は鈍桃に染められた空の一点を見付けて言った。まだはっきりと姿形は確認できないが、ここから送り出した異色の船が、竜宮の草摘みから戻って来たようだった。
 言われて征士もそれを確認すると、途端に元の胸騒ぎが戻って来る。束の間の清涼感を感じていた矢先に、もう目前に迫っていた最大の問題だ。まだ鮮明に憶えている、制御可能な上層の意識を沈ませると、入れ替わるように浮上して来た強い欲求。何をしたいのか、己であって己ではないような、理解し難い感情の流れを感じていた。
 胸騒ぎがする。このままでは本当に殺してしまうのではないかと、不安ばかりが征士の頭を過った。不安な己に気付きさえしなければ、地上では何事も無く過ごせると言うのに。そこには確と、歯止めとなる存在が居てくれるのだから…。
 しかしそうして征士が思索に悩む内に、無情にも船は刻々と近付いて来て、やがて庭の上空へと辿り着いていた。
「よう、今日は色々大漁のようだな」
 ゆっくりと船が下降して来る途中で、那唖挫はもう悪奴弥守に声を掛けていた。上空から既に、大物が二頭並べられている様を確認して、言葉ばかりの祝福に出て来たようだ。だが、那唖挫の行動には素直に気を良くして、悪奴弥守もニヤリと笑いながら手を振った。実際那唖挫の帰りを心待ちにしていたのは、悪奴弥守ではなかったけれど。
「待っておったぞ那唖挫!」
 船が降りて来るのを見て、また足音も無く突然塀を乗り越えてやって来た、螺呪羅は酷く色めいた様子を見せていた。彼が期待を寄せているのは、言うまでもないが船の積み荷である。毎度、伸が草摘みに出掛けると聞く度に、この調子で寄って来るのが決まりだった。完全に着陸する前に、螺呪羅は船のすぐ傍まで駆け寄ると、屋形の後ろに歩布を被せられた山を見付けて、大層喜んでいた。
「ああ螺呪羅、今日は水滸に頑張ってもらった故、お主にも少し多めに分けてやろう」
「忝ない」
 そこまで喜ぶとは、それ相当に貴重な植物なのだろう。布の下から覗いていた葉や茎は確かに、ガラス細工のような繊細な造型をしていた。観賞用に採取したとは思えないが、とても美しい水草だった。しかしそれにしても、話には出て来たものの、伸が顔すら出さないのはどうしたことだろう。周囲が賑やかだと知れば、彼のことだ、気を遣って挨拶のひとつもしそうなものだが。
「伸はどうした?」
 妙に大人しい様子が気になって、征士は那唖挫に尋ねる。
「中に居るだろう」
 けれど彼は意外に、何の気掛かりも無い様子で簡単に答えていた。するとその会話を聞いて、漸く御簾を開ける気になった伸が、
「いや、着替え忘れちゃってさ…」
 と、濡れ髪に水を滴らせたまま現れた…
「キャア!」
「あっ、ごめんっ」
 が、丁度そこに道具を手にして戻った迦遊羅に、運悪く出会すとまた隠れてしまった。伸は例の装束を着たままだったが、何分生地が薄い上水浸しなので、着物はその機能を為していない状態だった。迦遊羅が思わず声を上げるのも致し方無しだ。
「うっかりしていたな、感冒に掛からねば良いが」
 那唖挫がついでのようにボソッと零したが、征士はすぐ横でそれを聞きながら、結局何も聞き取れないままだった。彼に取って恐れていた船が戻って来た。その事実だけでも身が固まる思いだったが、何故その上で、佳人は尚水に遊ぶ魚のように、魅惑的な姿を見せるのかと、考えていた。



つづく





コメント)珍しく、原作基準とは繋がらない単独の話になっています。いや、繋がるものは繋がっても構わないですが、一応この年まで特別な付き合いはなかった、と言う設定の話です。
実は、妖邪界でのエピソードや流れがネタとしてあって、本当は原作基準の作品になる筈だったんですが、落ちが付かない話でどうしようかと考えていたところ…。「Passenger」を書いている途中でふと思い付いた、アヌ征のエピソードが丁度これにはまったので、単独の話になってしまいました(Passengerのコメントに書いてあるのはコレのことなんです)。
しかしセカンドシリーズと言う事で、原作重視で書きながらもパラレルのような、ちょっと不思議な感覚で書きました。その理由はやっぱり妖邪界。どちらかと言うと、魔将達や妖邪界の記述が中心で話が進むので、新しい舞台を説明しているようなパラレル感覚でした。
そんな訳で、ちょっと危険な状態の征士が気になりますが(^ ^;、まあ続きをどうぞ…。




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