物干し場にて
Sense of Wonder
#1
大花月シリーズ1
センス・オブ・ワンダー



 その日、柳生邸では既に聞き慣れた声が、空腹を訴えてがなり立てていた。
「遅っせーよ、伸!、何処ほっつき歩いてたんだよ!」
「あ、う、うん」
 ナスティと共に買物に出掛けた伸が、戻ったのは午後一時になろうと言う頃だった。
 ひとつの戦いが決着を見て、永きに渡る妄執から鎧が解放された事実を、五人がまだ実感として感じられないでいる三月。今はただ決死の思いで勝ち残った現在に、安堵と満足を感じているだけの状況だ。もうあと数日の後には、この合宿状態も解散し、それぞれが自宅の在る場所に戻って行くこととなる。
 危機感のない普通の生活へと戻って行く。そして恐らくそこに至らなければ、自ら勝ち取った平和の価値も見えて来ないだろう、と誰もがぼんやり考えていた。戦場の記憶はまだほんの一週間前の物だった。まだ誰もが何処か落ち着かない様子で、同時に沸き立つ春の陽気に漂っていた。
 そんな中、
「まったく、もうちょっと遅かったら、白炎の餌を横取りしてるところだぜ!。あーっ、早く早くっ!」 「ごめん…」
 秀は帰りの遅かった伸の手から、大量の食品が詰まったポリ袋をもぎ取ると、頼みもしない内に、てきぱきとダイニングへ運んで行った。この調子なら昼食のセッティングも、勝手に彼がやってくれるだろう。ひとつ仕事が減った状況は伸には有難かった。
 ところでその伸は、今朝九時半頃にナスティの車に同乗して、小田原の町に買い出しに出ていた。ナスティ本人はそのまま大学へ向かい、伸は買物を済ませた後、柳生邸へは路線バスを使って戻って来た。大体予想される所要時間は一時間半、と言うところなのだが。
「どうしたんだ?」
 玄関から部屋へと戻った伸を見て、遼がまずそう声を掛けた。疲れているのか、心配事でもあるのか、伸の表情は今朝までの、屈託のない明るさを失っているように見えた。
「いや…」
 と、問い掛けに気付いて向けられた顔には、俄に微笑みが戻っていたけれど。
「十一時頃って言ってたのに、随分遅かったじゃないか?。何かあったのか?」
 そして尋ねた遼は、思わぬ事実を耳にすることになる。
「ああ、それが。何か途中で、急に眠くなってさ」
「え…?」
「買物の途中で寝ていたと言うのか?、伸らしくもない」
 驚く遼の後ろで、雑誌を捲っていた征士も思わず口を挟んでいた。
 彼等がこの柳生邸で生活を始めてから、既に半年程が経過している。もう各人の行動パターン、誰がいつどんな言動をしそうか等、誰もが大方予想し合える状態だった。伸ならば、何事も依頼通りに用事をこなすし、決められた時間に遅れることはまずないだろう。そして日中外を歩きながら、深刻な眠気に襲われる質でもない。と、誰もが判っているのだが…
「うん…、だけどさ。どうもそうらしいんだ」
 残念ながら事実らしい、と、はにかむように頭に手を遣りながら彼は言った。
 しかしその態度もまた、遼には些か不可解に感じられている。
「何か変だぞ?、伸」
「そんなことないと思うけど…」
 自身の失敗を、はにかんで笑う程度で収める性格じゃない。寧ろ景気良く謝っておいて、内心いつまでも失敗を気にしているのが伸だ。時間通りに戻れなかった事を気にしない彼ではない。なので遼には、今の伸の態度は妙に中途半端に見えていた。何処か別の視点で事態を見ているような…。
「変なモンでも喰ったんじゃねぇの?。あっ、俺達に内緒で何か喰って来たんだろっ!、だから罰が当たったんだぜ!」
 ダイニングテーブルの上に、すぐ食べられそうな物をすっかり広げて、秀は自らの思い付きに憤慨しながら言ったが、
「君じゃあるまいし…」
 と、簡単に否定されていた。テーブル上の様子を窺えば、一時間遅れて漸く昼食にありつけると知り、周囲に居た者達は皆そこへと集まって来る。伸は唯一足りない飲物を取りに、踵を返してキッチンの方へ向かおうとした。すると、
「な、何?」
「…食事をして来た痕跡は無いな」
 いつの間にか背後に回っていた当麻が、思い切り顔を近付けてそう言った。恐らく言葉通り観察していたのだろうが、それこそ「秀じゃあるまいし」だ。顔や服に食べ物を付けて歩くような伸ではない、だろう。
 そして当麻はこんな結論に至っていた。
「空白の二時間は本当に存在するらしい」
 まあ、彼が刑事ドラマのような台詞を吐いたのは、秀同様に食事を待ち草臥れていた所為だ。暴言を吐かない代わりに、どうでもいい事を考えて気を紛らしていた。事情が明確ならば本当は、文句のひとつも言いたいところだろうが。
 けれど、その空白の二時間を考えるのは無意味ではない。
「う〜ん…。こんな明るい時間に、買物の帰り道で寝てたとは信じられんが、伸にもそう言う時があるのかな…」
 と、キッチンへ入って行く伸の背中を見ながら、遼は些か困った様子で呟いている。
「『春眠暁を覚えず』とは言うが」
 遼を助けるように征士はそう言ったが、続けて秀が、
「まあまあ、考えんのは後にしろよ!。とにかく飯が先だ、腹が減ってはいい考えも浮かばねぇぜ」
「…そうだな」
 待っていた食事を前に二の足を踏むなど愚の骨頂、と指摘したので、ふたりは取り敢えず秀の意見に従うことにした。程度の差はあるにせよ、空腹を感じていたのは同じだったので。

「だが、安易に流さない方がいいだろうな」
 賑やかだったテーブル上がほぼ、食品の包装紙や空のトレイで埋まる頃、それまであまり話さないでいた当麻が、思い出したようにそう言った。
「そうかぁ?」
 まだ食べることに集中している秀だけは、そんな適当な返事で返したものの、他の三人は自然に声の主の方を向く。そしてそう思う理由を当麻は続けた。
「俺達はまだ何らかの干渉を受けている身だ。伸はただ眠っていたんじゃないかも知れん、何かあって意識を失っていた可能性もある」
 彼が言う干渉とは、無論今も鎧に守られている身であること、同時に鎧に引き寄せられて来るものがあることだ。その事実がある限り、周囲に不可解な事が起こる可能性は、幾らでもあると言う話だった。それを理解するや否や遼の口からお決まりの一言。
「妖邪の仕業か!」
「いや、何でも妖邪ってことは…」
 今のところ当麻にも、その答は出せない状況だった。鎧戦士に近付いて来る存在が、妖邪と呼べる類の者だけかどうかは、まだ経験上判断できない。そして征士も、
「それなら今、我々に何か感じられる事があって良い筈だ」
 と、現状に於ける気配のなさを話していた。
「そう言やそうだな…?」
 勿論遼にも今のところ、妖邪の気配らしきものは感じ取れない。あの悪意と憎悪に満ちた気の、不安を誘う独特の感じは、つい先日まで周囲を満たしていたけれど。
 遼が口を噤んで考える横で、秀は隣に座る伸に簡単に尋ねる。
「妖邪に遭ったのか?」
「別に、気になる事には遭わなかったと思うけど」
「だよなぁ、横に居ても妖邪の気なんか感じねぇし、考え過ぎじゃねぇの?」
 しかし当麻は、秀の意見には全く賛同しない様子でこう言った。
「秀なら考え過ぎでもいい。途中で眠ろうが、買った物を先に食っていようが俺は信じる」
「そんなことしねぇよっ!」
 聞けば秀は勢い良く反論したが、そう、当麻がそんな例を挙げたのは、場の行動から考えられる矛盾を示す為だった。秀の場合の予測行動に対して、
「俺は、伸の性格から考えて妙だと言っている。腹が減ったと騒ぐ奴が居るのを知っていて、連絡もなく昼過ぎに帰るのはおかしい」
 と、当麻は伸の行動の疑問点を明瞭に説明する。すると、
「そう…だな?」
 自分のことを言われただけあって、流石に秀もその弁解はできないと知った。考えてみれば何故二時間もの間、自分は文句を垂れながら待っていたのだろう…?。
「そうだ、何で電話してくれなかったんだ?」
 と、再び口を開いた遼が尋ねると、伸は特に困った様子も見せず訳を話す。
「いや、しなかったんじゃなくて、気が付いたらすぐそこだったからさ。バス停を降りた所でさ…」
 話は別段、筋の通らないものではなかったが、
「バスを降りた後で寝込んでいたのか?」
「そうらしいんだ」
 突然ギョッとした様子で割り込んだ征士に、伸は引き続き普通の態度で答えるので、増々事態は不可解なものに思えて来るのだった。
 征士は彼なりの考えで、寝ている間にバス停を乗り越したなら、誰にでも可能性がなくはないと思っていた。気付いて降りた所にたまたま公衆電話が無かったのだと。けれど事実は、普通の状態なら有り得ない事を現している。
 また乗り越したのだとしても、遅れて戻ったことを気にせずにいられるだろうか。帰った直後も、今話す間も、まるで他人事のように楽な態度を見せている伸。時間の欠落を気味悪く感じる様子もない。
 やはり、何かがおかしい…。
「やっぱりおかしいよな?、二時間の間に何かあったとしか思えない。伸はそれを憶えてないみたいだ」
 との遼の発言に、今となっては誰もが賛同していた。
「だから様子を見た方がいいと言ったんだ」
 当麻が自らの提言をそう締め括ると、合点のいった秀も、
「少し周りを警戒した方がいいかも知んねぇな」
 すぐにそう頭を切り替えていた。
 何かが起こった、何かが起こっているのは確かだが、今のところそれが害を為している訳でもない。結果が目に見えて来なければ、対処できないのは辛いところだが、それが彼等の出来る限界だから仕方がない。ただ事が酷く嫌な結果にならぬようにと、祈るばかりだった。
 ほんの一週間前までは、この場所でこの面子で、これ程力の抜けた状態で過ごせるなど、誰もが想像できなかった。ある面では緊張を増すばかりの集合状態を、重荷に感じながら過ごしていたこの半年間。だけれども、結果が良い方向に向かうに連れ、それも良い思い出に変わって行くのかも知れない、と、誰もがそんな予感と共に過ごしていた、短い春休みのこと。
 一体誰が何をしようとしているのか、突然降って湧いた異常事態に、戦士達は再び不穏な空気に包まれていた。



 ところで春は、地球上だけに存在する季節ではない。見目に大した変化はないにせよ、時が流れる場所には何らかの変化があって然り。
「何をしているのです、悪奴弥守」
 と呼び掛けた迦遊羅は、春とも呼べない春を迎えた妖邪界の、町外れの橋の袂に座っている彼を見付けた。町とは書いたが煩悩京は、前の戦の後に多くの建造物が破壊され、残る物も劣化が激しく、放っておけばすぐにも風化しそうな勢いで廃れている。残る者は今必死に再建を試みている最中だった。
 誤った力に支えられていたとしても、嘗ての勇壮な都の姿は親しみ深いもの。人々はただ町の復興を望むのではなく、この荒んだ妖邪界に新たな統一を願う意味で、町の中心の城下を意欲的に修復している。残された実力者達も、そんな民衆の心理が理解できるからこそ、全体の指導役を買って出ていた。
 そう、自らやろうと言った事の筈なのに、何故か人目に付かぬ場所でさぼっている魔将がひとり。
「えっ、何も…」
 突然背後から声を掛けられ、慌てた様子で振り返った悪奴弥守は、適当な言い訳も考え付かなかったようだ。
「そうですか、何もしていないと仰るのですね?」
 と、迦遊羅に念を押され、黙り込むしかなくなっていた。
「ならば是非、外堀の修理に加わってあげて下さいな。他は後回しでも構いませんから」
「ああ…」
 本当に何もしていなかったのか、と言えばそうではなかった。作業を怠けたい訳でも、土地の復興に意欲が無い訳でもない。ただ、彼は今になって考えるようになっていた。全てを阿羅醐と妖邪の支配に任せ、動かさていたこれまでとは違うと。
 正確に言えば、野心を持ってここにやって来た頃と、今との間に埋められない何かがあると感じていた。喪失感、空虚さ、悲しみなど、長い間忘れていた様々な感情が今、一気に戻って来た気がしていた。だから多少心が疲れているのかも知れない。ふと気付くと、慰めとなるものを求めて虚ろになって行く己を知る。そんな時彼は人々から離れ、何処ともない空の向こうを見ているのだ。
 まあ、仕事をしていない事実は変わらないが。
「それと、螺呪羅が何処に居るか御存知ですか?、今朝から姿が見えませぬが」
 迦遊羅は用件の後に、もうひとり様子のおかしい者について尋ねていた。恐らく彼も、悪奴弥守の至った心境に相違無い状況でいるのだろう。すると、
「奴なら…、ああ、いや…」
「何です?」
 悪奴弥守は何か言おうとして、
「何でもない」
 結局答えなかった。螺呪羅に関して何かを知っているようだが、迦遊羅は敢えて尋ねるのを止めた。悪奴弥守が立ち上がって出掛けようとしていたので、余計な事を言って、彼の気を損ねないよう気遣っていた。何より今は町の整備を早くしたい時なので。
「そうですか、分かりました」
 と、強くない語調で迦遊羅は返し、音もなく静かにその場を退く。彼等の間の遣り取りは、何故だかいつも姉と弟のようなのだが、幾つも年上である三魔将が、揃って迦遊羅をリーダーに認めている以上、そうなってしまうのは当然かも知れない。
 一応魔将達の名誉の為に付け加えると、力や性質でなく、彼女が迦雄須一族であることがリーダーに推された理由だ。妥当な選択ではあると思う。
「そんな所で何をされているのですか?」
 暫し煩悩京の中を歩いていると、迦遊羅は城下の端に設置された、今は使われていない櫓の上に彼が居るのを見付けていた。
「ん…?、ああ、迦遊羅か」
 螺呪羅も彼女に気付くと、チラと麓の方を一瞥して見せた。そして、
「迦遊羅か、ではございません。今は呑気に休まれている暇はないでしょう?。一刻も早く町を整備して、生活できる状態を取り戻すのが我等の為だと、最初に言い出したのは貴方でしょう?」
 悪奴弥守に対してよりも、より直接的な意見を言い連ねた迦遊羅だったが、それを聞いた螺呪羅の態度は、悪奴弥守のそれと大差ないものだった。
「ああ、分かっている…」
「分かっているって…」
 何を言っても聞いても何処か上の空、な様子の魔将達。
「一体どうなさったのです、この数日三魔将の皆様方は…。いえ、那唖挫だけは変わりない様子ですけど」
 けれど迦遊羅は話しながら、その中でひとりだけ、特に様子が変わらない者が居ることを思い出す。朱天亡き後、元々立場の差のない三魔将なので、今現在彼等が違う条件で居るとも思えない。けれど事実は明らかに違っている。それは何故だろう?。
 と、迦遊羅が俄な疑問に目を細めると、
「そうか…、まあ奴はなぁ…」
 螺呪羅はやはり、何か知っていそうで、けれど話す気のなさそうな態度を見せるのだった。
「はぁ…」
 迦遊羅も吊られるように溜息を吐くばかりだった。まあ、那唖挫のことは本人に聞くのが正しいかも知れない。少なくとも彼は正常だと思えるので、聞けば何かしら事実が判りそうに思えるが…
 するとそんな折、
「お、噂をすれば」
 と螺呪羅が櫓の上から、こちらに向かって走って来る者の姿を捉えて言った。恐らくこの場所に居たからこそ、一目で居場所が判ったのだろう。那唖挫は間違いなく螺呪羅を探して走って来た。そして麓に居た迦遊羅の姿が見えると同時に、
「お、お、お主ら一大事だ…!!」
 彼はしどろもどろにそう口走っていた。
「どうなさいました…?」
 単なる事故や、復旧作業の失敗などではないらしい。那唖挫の慌て様はかなり妙な様子だった。



 昼食を終えた午後、柳生邸の面々は思い思いに、穏やかな一時を過ごしていた。
 その日は春先独特の埃っぽさと共に、暖かい日射しが漸く天下を取り戻したような、上々の天気が朝から続いていた。しかし天気とは裏腹に、戦士達の心境は一転してしまったばかり。折角、長閑で心配事の無い休日を楽しめていたと言うのに…
「そう言えば伸、洗濯物取り込まなくていいのか?。俺手伝おうか?」
 キッチンから出て来た伸が、手持ち無沙汰な様子でウロウロしているのを見て、遼は思い付いたように言った。昼食が遅かった為、もうそろそろそんな時間になろうとしていた。すると伸は、
「あ、うん、ありがとう」
 と、遼の気遣いを素直に受け取って、外の物干し場へさっさと出掛けて行く。本人は何も気にしていないようだが、無論遼は親切と言うより、伸の周囲の様子を窺う為にそう申し出ていた。物干し場は屋根が邪魔をして、柳生邸の窓からは見え難い位置に在った。
 先に出て行った伸を追い掛けて、遼がそこに着いた時、
「天気が良かったから、もうすっかり乾いてるな!」
「そうだね」
 物干竿にはためく白いシーツを、伸はせっせと叩いているところだった。遼がそれを下ろそうと、伸の横で待ち構えていると、
「ところで遼…」
 と、作業の手を止めて不意に伸は言った。
「ん、何だ?」
 そして体の向きを変えて向かい合うと、伸は両手を伸ばして遼の首を左右から掴む。否、殺気や恐怖感を感じさせる触れ方でもなく、遼には何をしているとも判らない状態だ。その内伸の手は、遼の着ているシャツの襟首で遊び始めていた。
「?、俺どうかしたか??」
 遼はそんな伸の行動を見て、自分の服装がおかしいのか?と考えている。これまで誰も指摘しなかったが、シャツの表裏を逆に着ているとか、何処かが捩じれているとか。しかし伸は続けて妙な事を言い出した。
「この服は、どうしたら簡単に脱げると思う?」
「どうしたらって、何言ってんだ?、ただのTシャツじゃないか」
「そうだけどさ…」
 遼には解らないかも知れないが、伸は恐らくそんな意味で言ったのではないだろう。無論伸がこんな場面で、唐突にこんなことを言うとは誰も思わないが。
 だから遼は、この後の展開をまるで予想できなかった。
 彼の着ているTシャツを伸は、プリントされている絵や文字を確かめるように、丁寧な動作で引き上げると、開いた裾の下に遠慮なく手を入れ、何食わぬ顔で遼の躯の側面を撫でた。
「なっなっなっ!、何してんだよっ!?」
 普通、突然横腹などに触れられると、誰でもびっくりするものだが、見ていて判っていても遼は慌てふためいていた。それもその筈、
「何って?、触ってみたいから触ってるだけだけど?」
 伸の態度がそんな風だからだ。健康診断と言う訳でもない、勿論何らかの愛情表現でもない。何の前提もない行動だから訳が判らない。
 そして問答しながらも、伸は思うままにその手を移動させている。片手が腕の付け根の方へと昇って行くと、もう一方の外に出ている手が、Tシャツの袖口から肩の方へと入って来た。
「ギャーーー!!」
 流石に気持悪いと思ったか、くすぐったかったのか知らないが、
「おまっ!、お前ホントにおかしいぞっ!?」
 遼はほぼ叫んでいるのだが、それでも伸は止めようとしなかった。相手の拒否反応に引き下がらないとは、全く伸らしくない行動だ。続けて彼は、
「どうしてさ?。僕らは誰より大事な仲間じゃないの?。僕はもっと君のことをよく知って、親睦を深めようと思ってるだけじゃないか」
 と、理解不能な話を遼に聞かせた。
「何言ってるんだよっ!?」
 いよいよおかしい、絶対におかしいと、遼の頭の中で考えが纏まって行く間にも、伸は臆面もなく骨や筋肉の凹凸を探って、その形を確かめて行くように手を移動させている。遂に活発な右手が、背骨の溝を見付けてそれをなぞり始めると、
「うわぁぁっ、放せっ!」
 可も不可もなく引き剥がすように、遼は思いっきり後ろに飛び退いていた。突然の事に伸は唖然とした表情をするが、遼の方は虚ろに泳いだ目をしていた。
「…うわぁあぁぁぁ…!!」
 そして最早何をしに来たのかも忘れ、木立の奥へと一目散に走り去ってしまった。彼に取っては余程気味の悪い出来事だったのだろう。けれど伸は至って穏やかな様子で、
「あーあ、逃げられちゃった」
 と呟くばかりだった。
「何だ何だ!?、どうしたんだ遼の奴、妙な声出してよぉ」
 するとそこへ、遼の異様な雄叫びを聞き付けて、柳生邸の裏庭方向から秀が現れる。残念ながらその時には、既に遼の姿は見えなくなって、秀には事態の片鱗を掴むこともできなくなっていた。
 そして伸はと言うと、何事もなかった様子でこう言った。
「ああ、秀。丁度良い所に来たね」
「あ…?、何か用か?」
 危惧していた事件の発生かと思いきや、何もなさそうな雰囲気に秀は多少戸惑っている。すると、
「別に用って訳じゃないんだけど」
 伸はにこやかにそう説明しながら、
「その今着てる服をさ、脱いでくれない?」
 まだ先程までの行動を続けようとしている、らしかった。
「え?、そんなに汚れてねぇと思うけど…??。これから洗濯するつもりなンか?」
 そこが物干し場だからかも知れない、秀は今着ている服がみっともないと、指摘されたように受け取っている。勿論伸の態度からは、怪し気な様子は殆ど感じられないので、疑えと言う方が無理かも知れない。それから、どうして良いか困っている秀に、
「まあそうだね、ちょっと違うけど」
 などと伸は言うと、秀の両手を取ってバンザイの格好をさせ、今度は勢い良くシャツを脱がせることに成功した。「洗濯」と言う都合の良い言葉を出したのがまずかった。
 そして前より自由に、趣くまま相手に触れられる状況になったのだが。秀の態度は遼のそれより、かなりはっきりしているようだった。伸が抜き取ったシャツに関心を示さず、徐に脇腹の筋肉を探り出したので、
「ちょっっ!、変な事すんなよっ!」
 秀はすぐに身を返して言った。けれど伸はやはり、
「変?、どうして?、僕らはごく親しい間柄じゃないか。隠し事は何もない方がいい、何でも知ってた方がいいだろ?」
 と、普通でない理由を付けて、意に解さない様子を見せているのだ。「何それ?」と言う顔をして止まった秀に、伸は続けて躊躇いもせず手を伸ばす。首から肩、肩から上腕、上腕から腋下へと、腱や筋の作り出す体の形を辿って行く。しかし再び、
「だぁっ!?。っと、ちょっと待てっ!!」
 奇声と共に秀はその手を振り払っていた。
「何だよ?」
「何だよじゃねぇよっ!、俺はそんな趣味ねーっての。て言うか変だぞお前!?」
 まあそう言うのが当然の場面、例え恋人同士だったとしても、このシチュエーションはおかしいと秀は感じている。だがしかし、何故か伸にはそれが解らないようなのだ。言われても尚、
「何が変なんだろ?、ただのスキンシップじゃないか。ほら…」
 と言って、秀の背中に両手を回して、伸はべったりとくっ付いて見せる。
 ただの、とはとても思えなかった。女性が弱々しく縋り付くならともかく、興味津々な様子で胸の上に、べったり頬を擦り付けている人物は、共に戦って来た仲間である筈の伸なのだ。
「お、わ〜〜〜!!」
 えも言われぬ状況に青褪め、秀は闇雲に暴れ出していた。伸は無理矢理振り解かれて、突拍子もない様子にキョトンとしている。そして一頻り騒ぎ散らした秀は、
「あーっ!、遼ーーっ!?、何処行ったんだぁぁぁーーー!!」
 と怒鳴りながら、またもや木立の中へと走って行ってしまった。ここに至って秀は、遼が悲鳴を上げた理由も理解したに違いない。だから彼を呼んだのだろうが、果たしてふたりは合流し、この異常事態をどうにかできるのだろうか…?。
 結局伸ひとりが残された物干し場。この後はそう都合良く現れる者は無かった。
「うーん、上手く行かないもんだな…」
 と、呟く彼は相変わらず、逃げ出したふたりに済まないとも感じないらしく、やはりいつもの伸とは違うようだった。



「どうだ螺呪羅」
「う〜ん、方々を映してみたが見付からぬ」
 既に煩悩京を粗方走り回った後、今は螺呪羅の水晶玉に映る、妖邪界のあちらこちらを眺め回している。那唖挫が告げに来た『一大事』は、魔将達の中で解決しようと言う話になっていた。
 そこへもうひとり、悪奴弥守が些か草臥れた様子で現れ、
「煩悩京の社内は見て回ったが、それらしい奴は見なかったぞ」
 と他のふたりに報告する。町中にも屋内にも、煩悩京の外にも彼等の探し人は居ないようだった。そう、あれから三魔将と迦遊羅は、行方不明になったとある者を探していたのだが。
「となると…」
 結果から導き出される事実に、ばつの悪そうな顔をして那唖挫は溜息を吐く。そして彼の言う続きを、
「地上へ逃げたのやも」
 と螺呪羅が答えると、聞くや否や悪奴弥守は、
「ち、地上!、まことか!?」
 何故だか途端に色めき出して答えた。つい先程まで、まるで気の抜けた風情であったにも関わらず。
 否、地上へ行くと聞いて、ぼんやりとしていた気分が晴れるのは、集まった誰にしても同じだった。嘗ては征服することを目的に、意欲的にそこへ出向いていたのだ。地上へ降りる行動は習慣的に、彼等の気分を高揚させるものだった。
 無論個人的に他の目的を持つ者もあろうし、元を辿れば魔将達も地上の人間であるが故、そこに気持を惹かれ続けるのは仕方がない。
「面倒だが、下に降りて探さねばなるまい。どうあっても連れ戻さねばな」
 と那唖挫は言いつつも、そこまで面倒に感じていない様子で立ち上がった。
「よし!、そうとなればすぐ支度して参ろう!」
 続いて螺呪羅が力強く拳を握って言うと、悪奴弥守はその勢いに乗るように、
「俺も助太刀するぞ那唖挫!。人手は多い方が良い」
 と、やる気満々の態度を表していた。
 こうして朱天亡き後の三魔将の、共通意思をお互いに認め、固い結束が今も存在することを確認し合った。この後はそれぞれが、急いで身支度に走ることとなるのだが…
「お待ちなさい!」
 いざ行かん、としていた三人の前に迦遊羅が現れ、早速出鼻を挫かれてしまった。
「何です?、先程までの様子とは打って変わって、いそいそとお出掛けの支度ですか?」
 そして全く正しい事を言うので、該当者である螺呪羅と悪奴弥守は、言葉を詰めてたじろぐしかなかった。否、理由が真っ当なものなら、そんな態度を見せることもなかっただろう。ふたりして「二心ある計画だ」と、認めているようなものだった。
「いや迦遊羅、内密且つ確実にやる為に我等が行こうと…」
 那唖挫の弁解もその後では、本来の説得力が損なわれてしまう。ただこの時点で、迦遊羅には何を説いても無意味だった。彼女はここに来る前、ある事実に気付いて事件を解決していたのだ。その事実とは即ち、
「お探しの『偽水滸』なら、那唖挫の庵にございましたよ?。自ら戻っていらしたのでは?」
「ええっ!?、そんな!」
 思わず声を上げたのは、口を噤んでいたふたりの方だった。折角地上に降りられる口実ができたのに、と言わんばかりの明ら様な様子は、迦遊羅でなくとも呆れ笑いしたくなる光景だった。
 だが、みるみる落胆して行くふたりとは違い、那唖挫は難しい顔をして話し出す。
「いやあれはな…」
「あれは?、何なのです?」
 明らかに他のふたりとは態度が違う、否そもそも偽水滸は那唖挫の物なので、迦遊羅は注意深く彼の言葉を聞いている。すると、
「鎧のみなのだ」
 那唖挫は簡潔にそう言った。
「鎧のみ、とはどう言う意味ですか…?」
 そして予想しない発言を耳に、迦遊羅の顔色も変わって行く。実は、偽水滸に関する事情を僅かながら知っているのは、那唖挫の他は螺呪羅のみだった。なので悪奴弥守も迦遊羅同様に、以前の作戦で使った偽鎧のことを言っている、と思っていたようだ。
「元より鎧のみではないか。妖邪力が弱まった今となっては…。あぁっ、貴様もしや、中身も作ったとか言わぬであろうな!」
 途中から怒鳴り口調になりつつ、悪奴弥守は考え得る可能性を指摘したが、流石にそれはない、と那唖挫は返す。
「作れるか。勝手に現れたのだ」
「何ぃぃぃ!?」
 寧ろ、作ったと言う方が判り易い答だったかも知れない。何故、何処から勝手に現れたと言うのか、その方が考え難い事実だった。悪奴弥守はその衝撃のまま叫んでいたが、
「では、居なくなったと言うのは、人型をした偽水滸なのですか!?」
 落ち着いてそう返した迦遊羅にも、無論不可解な事実であることは変わらなかった。
「そうだ」
 ただひとつ判るのは、こうして話している那唖挫が、その存在に悪性を感じていないらしいことだ。もし妖邪力など怪しい力の復活に関わるものなら、早くに他の者に相談していただろう。出現の仕方がどうであれ、そこまで忌むべき物ではない、けれど妖邪界から出すべきではない、との考えを彼は示しているようだった。
 なので、迦遊羅は那唖挫の考えを信用して、黙っていたことは咎めずにおくことにした。
 しかしそれだけでは気持が収まらない者も居る。
「どっどっどっ、どうやって現れた!?」
 悪奴弥守の関心は既に事件よりも、偽鎧の方に移ってしまったようだ。
「さあな。知らぬ間に偽鎧の中に出来上がっていたもんで…」
「それは本物に似ているのかっ!?」
「見た目はそのものだが、どうであろうな…」
「俺にも偽鎧が作れるかっ!?!?」
 その遣り取りを見兼ねて、
「いい加減になさいっ!」
 と迦遊羅が口を挟まなければ、この場でいつまでも続きそうな会話だった。
「まったくもう、あなた方が地上の皆様を恋しく思われる気持は、お察ししますけど、我等には当面の課題が山積みなのです、お判りですよね?」
 兎も角、今は全体の指導役としての責任を果たせと、迦遊羅が釘を刺すと、
「判っている…」
 曲がりなりにも魔将であり、大人である三人は首を縦に振るしかなかった。妖邪界の惨状は皆理解している、怠けたくて怠けている訳では決してないのだけれど…
「ならば迅速に事を片付けて戻られませ!。決して地上の皆様に関わってはいけませぬ。良いですね?」
「はい…」
 結局地上での捜索は、三魔将の思惑通り「捜索ついでの行楽」にはならず、大人しくトンボ返りさせられることになっていた。



つづく





コメント)本当はこの続きも一緒に、おしまいまで一度にupするつもりだったのに…。
今年の三月は花粉症に加えてお腹が悪くて、こんな調子の悪い時にギャグ小説ってかなり厳しかったわ(- -;。ちなみにこの「大花月シリーズ」は、トルーパーズと魔将達が常に登場する、ギャグかドタバタコメディ話のシリーズです。来年春まで続けますので宜しく。
しかし今回の伸は、ここまでだとまるで「攻」ですね〜。別に偽水滸が攻めだと言う訳じゃないんですが、まあ続きも読んでやって下さい。




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