船上
青いサンクチュアリ
#2
A Sanctuary



 十字軍の行進に参加する者でごった返す、ジェノヴァ港はまだ煌々と日の光が降り注いでいた。
 背の高い大人達の隙間で、少年達は逸れぬように互いに手を繋ぎ、どうにか予定の船に乗り込むことができた。この船はまだローマ港へ向かうだけのものだが、ローマでまたもう一度、このような大混雑を経験しなければならない。この旅は彼等の想像以上に、人の集団の脅威を感じさせていた。
 押し合い、ぶつかり合い、絶え間ない人いきれ。武装もせず、戦意のない人間の中に居ても感じられる身の危機感。船に乗ると言うだけでこれなら、兵士の集団はどれほど強く勇ましいかと思う。人は集まれば巨大な力になる。それを肌に感じられただけでも、行進への参加は有意義なものかも知れない。即ちそれが神の意思となり、十字軍の力となるのだから。
 ジェノヴァを出た船は夜の内にローマに到着する。その途中で横切るコルシカ島やエルバ島、その他名もない小島達を眺めながらの航海となる。この時期は日が長く、夜七時頃に漸く日没を迎える為、少年達は充分に海への好奇心を満たせる筈だ。例え身動きが取り難い人込みの中だとしても。
 そしてローマに到着の後は、次の船を待つ為一泊する予定だった。



 古都ローマにはヤーヴェの神を信じる、全ての者の心の拠り所が在る。
 ヴァチカンの周囲を圧倒する荘厳な姿は、正に神の権威を象徴するかのようだった。現在は経済都市としては、他の町に順位を譲ったものの、ヨーロッパ全土の宗教の都は依然、旅人や巡礼者の集まる賑やかな町だった。
 朝、三人の少年達は早めに宿屋を出ると、早速ローマの町を散策に出掛けていた。例え歴史と言うものに価値を置かない時代でも、古代の人々の残した遺跡等に、人々が全く関心を向けない訳でない。フォロ・ロマーノと呼ばれる主要な遺跡群は、取り壊されることなく、それなりに保護され残されていた。その中を、学者の養子であるトウマは殊に関心を向け、注意深く観察して回った。
 シンは当時の椅子や机など生活用品に触れ、現在と何ら変わらないことを楽しんでいた。セイジはギリシャ調の彫刻を見て、その奔放な表現に目を白黒させた。まだ十代に乗ったばかりの彼には、些か刺激が強過ぎる芸術だったようだ。
 三者三様に遺跡を辿って歩くと、市場跡の遺跡の先に港が見えて来た。その先には明るい水平線、これから乗り出す美しい地中海が、彼等を歓迎するようにキラキラと輝いていた。
 その海目掛けて自ずと早足になったシンは、
「ローマ港って、ちょっと変わった感じだね?」
 と、隣を歩くトウマに尋ねる。ジェノヴァ港のイメージはほぼ想像通りだったのに対し、少し印象の違う港をトウマはこう説明した。
「旧ローマ時代の古い設備が残ってるからじゃないか?。多分遺跡の一部なんだ」
 つまりここはより古い港なのだ。ジェノヴァも古い歴史を持つが、大規模な拠点となった時期がより古いのだ。それだけに使われている器具や建物のデザインが、現代風とは違うのだろう。ただ、デザインだけなら構わないが、
「千年も前のものなんだろ?、大丈夫なのか?」
 セイジがやや心配そうにそんなことを言った。崩れ掛けた遺跡を多く見て来たせいか、その安全性を訝しんでいるようだ。だがまあ、崩れたものもあれば健在な遺跡も多く在る。石と漆喰で頑丈に固められた、公共の場所などが多く残っていることから、この港も相当強固であろうことは想像できる筈だ。
「細かい部分は新しくしてるだろ。全体が古い遺跡ってだけで」
 トウマはセイジにそう話すと、珍しい古の港の様子を見ようと、増々早足になって歩き出していた。それを追い掛けるようにシンは言う。
「今さ、いくつか遺跡見て来たけど、もっと時間があったら良かったね。お風呂の遺跡もあるんだって」
「あと一日あったらなぁ」
 ローマからの船出は午後一番の便と決まっている。もう殆ど自由時間が残されていないことを、トウマもかなり残念がっているようだ。ここには他の町には無い、遠い時代の文化が感じられる。原始人の遺跡も面白いには面白いが、やはり文明化した時代の遺跡は魅力的だった。当時の人々が何を考えていたか、より身近に想像する楽しみがあるからだ。
 果たして千年前の人々も、旅の面白さを知っていただろうか?。軍隊の遠征前の賑わいを知っていただろうか?。
「あの船は何だ?」
 その時、セイジは港に停泊している船を指して言った。自分等が乗って来た船とは、多少デザインの違う大型船の黒々とした船体が、異彩を放っているように彼の目に映っている。見慣れぬ文化圏からやって来たと思わせる、その船の舳先には赤と黄色の旗がはためいていた。
「ヒスパニアの船だな、多分」
 とトウマが言うと、シンはまた新たな仲間が増えそうな予感に、明るい声でこう続けた。
「ヒスパニア軍も合流するのかな。本当に色んな国が集まるんだね、十字軍は」
 彼の予想通り、新しい旅の仲間が増えるかどうかは不明だが、ヨーロッパの西端、地中海の出入口、ヒスパニアの重厚なイメージを前に、皆何らかの期待や不安を抱いたのは間違いない。
 そしてこの後、二泊三日続く船旅が良い経験となるよう、今は祈るばかりだった。

 昼間のローマ港は、ジェノヴァ以上の大混雑かと思えば、それよりは幾分余裕のある状態で船に乗り込めた。そこは流石に規模の大きな港だ。千人からの人間が押し寄せても、充分収容できる広さを備えているようだ。歴史的に最大の港だったローマは、その包容力も抜きん出ていると皆感心する。
 感心しながら、少年達は今度は楽に船内を移動し、前方のデッキの、海がよく見える絶好の場所に落ち着くことができた。船出にはまだ数十分の時間があったが、三人は早くも航海士の気分で盛り上がっていた。
「一路、コンスタンティノープルに出発ー!」
「いや、その前にクレタに寄港する」
「クレタ島とは神話の島だろう?。今も人が住んでるのか?」
「住んでるさ、大きな島だからな」
 ここでも、シンとセイジの誤りや疑問をトウマは、的確に答えられていた。
「イラクリオンの港はかなり大きいと聞いてる。ヨーロッパと北アフリカを繋ぐ場所だし」
 ギリシャと東ローマ帝国の間に浮かぶ、クレタは旧ローマ帝国より更に古い歴史を持つ。セイジの発言にある通り、ギリシャ神話の時代に名高い王国として、権勢を揮っていた島だ。それだけにローマより更に古い遺跡が残っている、とトウマは知っているが、一般にはセイジのように、過去の言い伝え程度にしか認識されていなかった。
 もしクレタで遺跡を見る時間が取れたら、恐らくセイジもシンも驚くことだろうと、トウマにはそんな楽しみも増えた気がした。自分が見た時の感動の他に、他者にそれを伝えられる感動も加わる。だから旅に道連れは居た方が良い、と思った。
 その時シンは、そのトウマの肩越しに自分と同じくらいの、ふたりの少年が立っているのを見付ける。彼等の髪は黒く、肌はやや日焼けした印象だった。どう見ても同じ北部の人間ではない、と考えた時、シンは早速声を掛けていた。
「君達、何処から来たの?」
 するとシンの思った通り、片方の少年がヒスパニアの地名を口にした。
「え、ああ、セビリアだ」
 子供にしても精悍な顔付きをした、その少年はリョウと言う名だった。その横の明るそうな少年はシュウと言った。ふたりはセビリアで生まれ育った幼馴染みだ。
 するとセビリアと言う言葉を耳に、関心のあるトウマも饒舌に喋り始める。
「ヒスパニアでもバエティカの方か。あっちはかなり暑くなるんだってな?」
「夏はすごく暑いよ。その他の時期も一年中寒いってことないんだ」
「へぇ〜!」
 リョウの話に感嘆するシンと、その横でポカンと口を開けるセイジ。彼等の住む神聖ローマ帝国は、どの地域も冬場の寒さが厳しい為、まるでお伽話でも聞いている気分だっただろう。そんなふたりを余所にトウマは更に会話を続けるが、
「バエティカと言えば、少し前までウマイヤ朝があったんだよな」
「ああ…」
 話題が、百年程前に滅亡したイスラム王朝に触れると、何故かリョウの態度が固くなった気がした。十字軍の船に乗っているからには、イスラム教徒ではあり得ないが、何故彼の様子が変わったのかが気になる。するとそんなリョウに代わり、シュウが明朗な調子でこう続けていた。
「今もコルドバにはイスラム人がいっぱいいるぜ?。ヒスパニア一の大都市だ」
 それを聞くと、一時妙な雰囲気を感じた場もスッと和み、トウマがまた口を開いた。
「コルドバは今は世界一賑やかな町だと聞いたが、セビリアはイスラム人に侵攻されたりしないのか?」
「兵隊が守ってるからな。そう易々と占領されたりしねぇよ」
 コルドバはセビリアの北東に位置する町だが、ウマイヤ朝が滅亡した後、散じたイスラム人が多く集まっているらしい。北アフリカからジブラルタル海峡を越え、ヒスパニアの南に住み着いた人々だ。逆にヒスパニア北部は、ガリアからピレネー山脈を越えて来た、ラテン民族が多く暮らしている。故に宗教的、政治的に微妙な地域が多い現状だった。
 セビリアは昼夜を問わず周辺地域に注意を払う。そんな状態を続けているのだろう。
 すると、シュウの明るい口調に促され、
「君達も行軍に参加しに来たの?」
 とシンが尋ねた。シュウはそれを小気味良く切り返して言う。
「おうよ!、聖地奪還は地中海全体の問題だからな!」
「いいことを言うな」
 至極真っ当な十字軍に対する考え方だと、セイジも賛同して応えたものの、そのすぐ後に、
「なーんてな、今のは叔父貴の受売りさ」
 と、戯けて見せたシュウの表情は、それまでの覇気から一転些か曇って見えた。その微細な変化を見ていたシンがもう一度、
「じゃあ本当は何しに来たの?。僕らと同じなんじゃないの?」
 そう尋ねると、続けてトウマも自分等の経緯を話した。
「同じって?」
「俺達はただ行軍に参加して、まだ見ぬ世界を勉強に来ただけさ。まだ兵隊になれる年じゃないしな」
「そうか…、そうなんだ」
 しかし、今度は明らかに態度が変わったシュウを見て、三人の誰もが怪しい雰囲気を感じ始める。当初の思惑とは違う、暗い方向に会話が展開されることを予感した。
 そしてセイジが、
「どうした?」
 と、多少困惑したようなセビリアのふたりに問い掛けるが、案の定と言う彼等の事情をリョウが話した。
「いや、自由でいいよなお前ら。俺らは免罪の為に、教会の命令で来たんだ」
「免罪って…、君達は罪人なの?」
 まるで想像もしなかった意外な理由を耳に、シンはやや強張った声で返す。それに対してシュウは、少しばかりトーンを落としてこう話した。
「家族に罪人がいる家は、十字軍に参加しなきゃなんねぇんだ。俺達は見送りだけだが、それで罪を許してくれるっつーから、しょうがなく来た奴ばっかだぜ」
 免罪と言う言葉が、この時代どれ程広く扱われていたか。殊にセビリアは、知られたセビリア大聖堂を中心に、カトリックの教えが行き渡った町だ。何らかの罪に対し、許しを得て罪人の汚名を濯ぐことは、日々の生活に於いてとても大切なことだった。何故なら罪を許すことと引き換えに、教会は利益と労働力を手に入れることができ、それが軍隊を維持する基盤になっていたからだ。
 軍隊が強ければ町は守られ、人々の生活も守られる。そしてキリスト教は全て、人間には元来罪があると説いている。国の税金ではなく、個人個人から一律に税的な収入を得られると見て、この頃の教会は大いにその形を利用していた。つまり罪ある者は奉仕せよ、と言う訳だ。
 ただ、そうした社会構造は理解していても、今ひとつ納得できないとセイジが言った。
「お前達が罪人の子供とも思えないが」
「罪人と言っても色々あるだろ。単なる商売のトラブルとか、芸術家が風紀を乱したとか」
 トウマがそう続けると、聞いていたシュウもこう同意した。
「よくわかるな、お前。俺の親父はイスラム人に商売をしたって理由で、危うく投獄されるところだったんだ」
 無論殺人などの重罪人なら、免罪行為で許されることもないが、所謂軽犯罪や思想犯の場合、教会は救ってくれると言う例だった。
 またリョウも、
「俺ん家も大体同じようなことさ」
 と話すと、ふたりが素直に話してくれたのは、正しい知識による指摘からだと感心したシンが、自然にトウマの能力を誉めていた。
「こいつ頭いいよね?、フランスの学者に着いて勉強してるんだって」
「へえ…」
 その肩書には、セビリアの少年達も一目置いたようだった。確かに最初から、穏やかながら的確に言葉を操り、必要な情報を無駄なく遣り取りしている気がした。これが十字軍の仲間とすれば、実に頼もしい存在だとふたりも思う。
 だが、トウマは友好的になりつつあったその場に、敢えて一石を投じる発言をした。
「そうか…。セビリアは有志の兵隊じゃなく、免罪を理由に人を送って来たか…」
 トウマの口籠る理由は即ち、前の十字軍の敗因についてである。その時丁度シュウがこんなことを言った。
「俺は正直十字軍が何なのかわかんねぇ。みんな聖地聖地って大騒ぎだが、イスラエルがそんなに大事なのか?」
 彼はそんなことすら知らないようだ。否、彼だけでなく、状況を正しく理解する人間は少ないのかも知れないと、トウマは俄に考え込んだ。当然この時代には義務教育など存在せず、歴史の勉強どころか識字率も全体の三割程度だ。単純に支配を広げる為の侵略戦争なら、それでも問題はなかったかも知れない。ただこの十字軍の複雑な背景を知らない、理解できない者が多いとしたら不安極まりなかった。
「そりゃ大事だよ、イスラエルは僕らの知恵や文化の源だ」
 と、シンが簡単にシュウに説明するが、やはり彼は政治的には理解していないことを、続けられた言葉が露呈していた。
「でも何処に居ても、神は俺等の傍に居てくれるだろ?」
「それはそうだけど…」
「歩けない年寄りや病気の奴はどうなんだ?、聖地になんか行けねぇぜ?」
「勿論代表者が行けばいいだけだよ」
 宗教的な教えとしてはシュウの言う通りなので、シンは段々返す言葉に困って来る。シンにしてもまだ、政治と教会の関係について、そこまで深く勉強している訳ではない。多くは父親などから聞いた話を自分なりに、易しく解釈して憶えているだけだ。
 なのでそろそろ助け船がほしいところだったが、宛てにできそうな人物はまだ、考え込んだまま口を開かなかった。そのシンの焦りを感じ取ったのかどうか、セイジがトウマに声を掛ける。
「何を考えているんだ?」
 すると彼は、充分に考えが纏まった様子で恐れずに、問題になりそうな事例を話し始めた。
「今回の十字軍はフランスと神聖ローマが中心だが、セビリア軍と同じような集団が、他にも多くいたら今回も失敗するだろうな」
 それを聞くと、勘違いをしたシュウが途端に怒り出す。
「どーゆーことだよ!、俺達ゃひ弱な役人じゃねぇんだぜ?。ほとんどが健康な労働者だ。そう簡単に負けてたまるか!」
「そういう話じゃない。ひとりひとりは強くても、一枚岩になれない軍隊は危ういってことさ」
 トウマはそう続けてシュウを宥めるが、聞けば宥めになっていないことに、流石のシュウも気付いてすぐに問い返した。
「一枚岩になれないって?、何でそんなことがわかるんだよ?」
「お前、自分で言ったじゃないか。十字軍が何だか知らないって。お前は兵隊じゃないが、お前と同じような意識の奴も、ヒスパニア兵の中には多いんじゃないのか?。教会に命令されただけなんだろ?」
「・・・・・・・・」
 的を射た、その通りだと思うことを言われると、シュウも最早黙るしかなくなった。確かに自分達は有志の兵隊ではない、仕方なくやって来たと自己紹介したばかりだ。そしてそれが十字軍全体の綻びとなる可能性も、今は理解できなくない彼だった。
 戦いに来た者が居る。戦わなくてはならない者も居る、戦いたくない者も居る。それでは十字軍は何処に向かえばいいのだろうか?。
「そうかも知れない…」
 するとそこでリョウが、何かを悟ったように呟いた。
「親父達は負けるかも知れない。負けて死ぬかも知れない」
「そ、そんな悲観的になることないよ!。ね…?」
 慌ててシンがフォローするが、既に自分等の存在を理解してしまったリョウには、もう何を言おうと慰めにならなかっただろう。我々が、ヒスパニアが十字軍に悪運を運んで来た。敗北するとしたらその一因は我々だ。そんな意識が心に芽生えてしまっては。
 またそれで、家族の出征を快く見送る気持になれるだろうか。この船旅に実りを感じるだろうか。その些か不憫な状況をシンは心配して、それからずっとセビリアのふたりから目を離さなかった。

 船はローマ港を出航し、美しい地中海の中央部へと乗り出した。途中シキリアのメッシナと、クレタのイラクリオンを経由し、いよいよ東ローマ帝国、またの名をビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルへ向かう。
 エメラルドの海、セルリアンの海、明るい青に彩られた地中海の水の色。その上を走る大型船の、ゆったりとした揺れは心地良く体に響くのに。まだ見ぬ国や島への興味と憧れは、家を出た時から何ら変わらないのに、今や少年達の心は重い。
 未知の世界を知ることは、同時に未知の人間を知ることでもある。誰もが自分と同じ気持で、同じ境遇で居る訳ではないと知った時、明るい知欲だけではいられない現実を三人は覚る。神聖ローマの西にフランス、その南にヒスパニアは在るが、地続きの近隣の国同士で、このような状況の差があるとは思わなかった。確かにこれでは皆が同じ意識で戦えるのか、不安に感じられると言うものだ。
 聖地への巡礼ルートを確保し、聖地を奪還しようと言う集団としての目標。遠征に参加し罪を許してもらおうと言う個人の目標。それらがうまく調和しなければ、我々の親が死ぬかも知れないのだ…。

 そして夕刻、メッシナ港に寄港すると船内で一泊し、船は翌朝一番にクレタ島へ向けて出航した。シキリアからクレタまでは丁度半日かかる為、到着はまた夕刻になる予定だ。その為船には昼食用の食料が充分積み込まれた。
 さて、それまでセビリアのふたりの少年は、いつも三人の近くの何処かに居たが、出会った時以降は殆ど話さなくなっていた。無論好き嫌いではなく、セビリアの少年達が口を噤んでしまったからだ。子供ながら事態を重く受け止めているのだろう、二人とも時折眉間に皺を寄せ、空を仰ぎ、難しそうな表情で溜息を繰り返していた。
 それを気にし続けていたシンは、丁度船上での昼食時間、パンを配る役を買って出ると彼等に近付き、こう話し掛けていた。
「ねえ、あのさ、トウマの言ったこと気にしないでいいんだよ?。僕等と違って大人達は、ちゃんと考えてると思うんだ。…ね?」
 するとシュウがその気遣いに対し、
「お前、優しい奴だな?」
 と返した。確かに子供の思考に比べれは、大人はより複雑に物事を考えているだろう。免罪とは教会に対してではなく、神に対する行為なのだから、その為に必死に働こうとは思うだろう。シンの言い分もシュウには納得できた。けれど、
「だがあいつの言ったことは本当だ」
「リョウ…」
 彼は最早楽観的には捉えられないと、頑なに相手を否定した。
「もし俺達のせいで、お前の家族が死ぬことになったらどうする?。例え勝ったとしても、戦争だから死者は出るんだ」
「そんなこと…、君達のせいって決まった訳じゃないよ」
「必ず死ぬとも言えねぇだろ、リョウ」
 シンはまだ、リョウが何故そこまで思い詰めているのか、まるきり想像できないでいる。そして、
「君達が戦う訳じゃないのに」
 と、リョウの立場をも気遣って言った。彼は何故だか、大人も子供も一体であるような口振りで話す。それは何故なのか、リョウは自らこう語った。
「同じだよ。ヒスパニア兵は確かに、十字軍に参加することにあまり意欲はないんだ。ただみんな、自分の生活が良くなるように思ってるだけさ」
「それは、みんな同じだよ。イスラム軍を大人しくさせて、聖地を守れたら今よりもっと平和になるよ」
「俺達は、イスラムと戦いたくないんだ」
 それを聞くと、流石にシンの言葉も一瞬止まる。この時勢のヨーロッパで、既に十字軍の船に乗り込んでいながら、そんな話を聞くとは思いもしなかったからだ。
「どうして…?。大事なことだよ、聖地を守ることって…」
 イスラムと戦いたくない。侵略者であり、聖地を盗んだイスラム人は敵であると、その点だけは誰もが一致した見方をすると思っていた。否、少なくとも神聖ローマとフランスから来た軍勢は、皆そうだと答えるだろう。それ以外に何がある?、どんな考え方がある?。シンの気持は激しく揺さぶられた。
 するとその時、
「そんな議論はやめた方がいい」
 傍にやって来たトウマが、シンの困った様子を見て声を掛ける。
「彼等に同情する気持はわかるが、不安な話を蒸し返さなくてもいいだろ?」
「うん…」
 セイジもそう続けると、シンの手を引いて会話を終わらせようとした。シンはまだ後ろ髪を引かれるようだったが、まあ恐らくこれ以上、大したことは話せなかっただろう。自分でもそう思うシンは仕方なく諦め、セイジの後ろに下がって行った。ところが、
「だがお前の態度は気になるな」
「よせよトウマ」
 終わらせた筈の議論を、トウマがまだ続けようとしていた。すぐにシンが口を挟んだが、彼はどうしても何か一言言いたいらしく、その勢いは誰にも止められなかった。
 トウマの言いたいこととは無論、セビリアのふたりのイスラムに対する意識についてだ。
「何故戦いたくないんだ?。十字軍の侵攻は聖なる活動だ。十字軍に参加することは神への尊い労働だ。同じキリスト教徒なのにそうは思わないのか?」
 トウマがそう尋ねると、リョウは暫し考えた後、
「よくわからない…」
 とまず答えた。彼の中でもその答は、明確な言葉にするのが難しいのだろう。彼等セビリアの人々は、間違いなくカトリック教徒である。影響力の強いセビリア大聖堂を中心に、同じ神を崇める人々の結束はそれなりに固く、皆真面目に神への祈りを捧げる人々だ。それを疑うことはないが、ただ、個々の意識はそれだけでは測れないかも知れない。だからこそ罪人と呼ばれる人間も出て来る。
 そしてリョウは、その根本的な考えをトウマに話した。
「ただ、俺にはイスラム人が敵とは思えないだけだ」
「何を言うんだ…!」
 トウマは即座に、それを理解できないと語気を強めていた。
「そりゃあ悪い奴もいるだろ、セルジュークみたいな残忍な軍隊も。でも俺達が知ってるイスラム人は、みんな普通の労働者や貧しい人々だ。コルドバにどれだけイスラム人がいるか、お前は見たことがあるのか?」
「見たことなんかないが、コルドバにイスラム人が大勢いようと関係ない。イスラムが聖地を一人占めして来たのは事実なんだぞ?」
「だから!、聖地のイスラム人と、その他のイスラム人は違うかも知れないじゃないか。なのに全てと戦わなきゃならないのか!?」
 ふたりの論戦は平行線を辿った。それもその筈、身近にイスラム人を見る機会があるふたりと、普段は全く関わりのないトウマでは、相手への捉え方が違っても不思議はなかった。正に環境の違いであり、どちらが頭が良いと言う話でもない。
 だが、仮にも十字軍の行進に参加する者として、或いはヨーロッパ人のひとりとして、トウマは声を大にして言わなければならなかった。
「マホメットを信じる者に、ヨーロッパを奪われてもいいって言うのかよ!」
 そう、それこそが十字軍結成の切っ掛けであり、地中海沿岸の最大の問題だからだ。今はまだ民族の融和を唱えられる時代ではなく、背を向ければ襲われる、荒々しい覇権争いが続く時代である。指導者達は常に諸外国の動きに目を光らせ、肌身に危機を感じ続けている。そして特に、ヨーロッパと聖地を結ぶルート上にある、ガラティアの情勢は重要だとトウマは続けた。
「ヒスパニアのお前達にはわかるまい、これから向かう東ローマ帝国は、常にイスラム軍の脅威に晒されてるんだ。コンスタンティノープルが堕ちたら、奴等はバルカン半島に勢力を伸ばして来る。ギリシャがイスラム人のものになったら、俺達ラテン人は故郷の文化も失うことになるんだぞ!」
 旧ローマ帝国より更に古いギリシャは、ヨーロッパ及びラテン人の源流である。現在ラテン人と呼ばれる民族は、ヒスパニアからフランス、イタリア半島、地中海沿岸と島国の各国に広く暮らしている。それら全ての人々は、ギリシャから生まれた文化や芸術を、ローマを通じて継承する民族だ。
 故に多くのラテン人は、ただでさえ聖地を異民族に取られているのに、これ以上の侵略を許す訳には行かないと考える。それで当たり前の状況だとトウマも考えている。けれど、
「わからない…。俺にはわからない…」
 そこまで話しても、リョウは頭を抱えるばかりだった。彼の住む世界と、トウマの住む世界が違うことは明白になったけれど、このまま心が通じないとしたら、同じ神を信じる仲間として辛いところだ。するとそこでリョウに代わり、シュウが彼の気持を代弁して言った。
「別に、隣の町にモスクがあったっていいじゃんか。俺の町は俺の町、あいつらの町はあいつらの町さ」
 彼等のセビリアは正にそんな町なのだろう。勿論未来永劫、平和なお隣さんでいられる保障はないが、他民族とそれとなく住み分ける土地があっても、責められることじゃないとシュウは言いたいようだ。だが過去はそうでも、現代は好戦的な時代だとトウマは説く。
「馬鹿だな、それでもスキを見せれば襲って来るだろうが!」
「兵隊はそうかも知んねぇが、みんなが殺し合いたいと思ってねぇだろ?」
「残忍な軍隊はそんな、大人しい一般市民も関係なく殺すんだぞ?」
「それはお互い様じゃねぇのかよ?」
 その時、トウマは決定的な言葉を耳にしたとばかりに、酷くいきり立って返した。
「何を言ってるんだ!。十字軍がそんな汚い真似をすると思うのか?、異端者め!。よくそんな考えでここまで来れたな!」
 つまり、十字軍の遠征を単なる戦争と思っている、知識の浅い相手に苛立ちを隠せなかったようだ。伝え聞くアレキサンダー大王や、カエサルの戦争は確かに治世的侵略だった。しかし十字軍はそれとは性質が違い、神の威光を守ることが第一の目的となっている。故に神の教えに背く行動、無駄な殺戮や蛮行があってはならないとされている。
 そこを勘違いし、我々もイスラムと同程度だと言ってしまうシュウに、トウマが憤るのも無理はなかった。先に侵略を仕掛けて来たイスラムの神を認めれば、我々の神がその下の位に堕ちてしまう。我々はイスラムの下の民族だと、自らを認めることになるからだ。
 そんな屈辱には誰も堪えられない。ヨーロッパ人なら誰もがそう感じる筈だ。無論セビリアの少年達も、それで良いとは思っていないだろうが…
「もうやめとけよトウマ。これ以上」
 ただそこで、無闇な口論は他の者に迷惑と感じたセイジが、落ち着くようトウマの腕を引いた。そこまで大声でなくとも、人同士が肩を触れ合う距離で過ごす船上では、余計な苛立ちを周囲に与え兼ねない。
 ところが、そのタイミングは少々遅かったようだ。騒ぎを聞き付けたのか、不穏な話題と見てずっと聞耳を立てていたのか、そこに説教士と思われるひとりの大人が近寄って来た。そして、
「お前達は何処から来たのかね?」
 黒髪の少年達に向けてそう言った。
「…セビリアです」
 リョウが答えると、男性は少し嫌な表情を見せてふたりを眺める。これはまずい事態だと、トウマも、セイジとシンもすぐに勘付いていた。セビリアのふたりはただじゃ済まないと。
 すると、説教士の男はくるりと反転し、
「ついて来なさい。二人共」
 と、リョウとシュウを促して言った。これから何が起こるのか、連れて行かれるふたりも戦々恐々だったが、見ているシンも俄に怯え出していた。その三人が何処かへ行ってしまうと、
「今の話、聞かれたな」
 セイジは軽い溜息と共に言った。話の流れとは言え、こんな場所でイスラム擁護をさせるべきじゃなかった。自分としても、同じ年くらいの少年達を陥れたいとは思わない、と、セイジは成り行きを心苦しく思っているようだ。そしてシンも、
「どうなるの、あのふたり」
 些か震えた声でそう続けた。例え自分の身に降り掛かる事でなくとも、セビリアのふたりがこれからどんな目に遭うか、想像するだけで恐ろしかった。もし本当に異端者とされてしまったら、最悪の場合拷問もあり得るだろうから。
 今はそんな時代なのだ。



 その日の夕方まで、結局セビリアの少年達と会うことはなかった。
 船が無事クレタ島のイラクリオン港に到着すると、明日の朝の出航に向け、十字軍に参加する人々はそれぞれ、夕食や買物の為に下船して行った。その中に、大人ふたりに連れられたリョウとシュウを見付けたのは、偶然のことだったが、特に痛め付けられたような様子はなく、とりあえず北ヨーロッパの三人はホッとする。自分達との会話が彼等の命を奪うこととなれば、それこそ十字軍どころではない事件だ。
 そうはならなかったことを、寛容なる神に感謝せねばなるまい。
 だがふたりはもう、同じ船に乗り込むことはなかった。
 拷問の代わりの罰なのか、子供だからなのか、彼等はクレタからヒスパニアに戻されることとなった。その顛末を三人が知ったのは、船がイラクリオンを出航した後のことだった。



つづく





コメント)1を書いてからしばらく期間が開いてスミマセン。
五人の人種の振り分けについて、リョウとシュウはスペイン、トウマがフランス、セイジとシンはドイツ、としたのは単に見た目の感じからだけど、結構ハマってて自分で気に入ってます(^ ^)
ただ、途中で合流するふたりがリョウとシュウって、「三界の光」と同じパターンになっちゃったのは…。意図してそうなった訳じゃないんだけど、暖かい国の日焼けした人と言うと、どうしてもこのふたりになっちゃうんだよな。
では次へ。



GO TO 「青いサンクチュアリ 3」
BACK TO 先頭