裏通り
青いサンクチュアリ
#3
A Sanctuary



 朝、イラクリオンを出発した船は、エーゲ海を渡りマルマラ海に入り、夕刻コンスタンティノープルに到着した。
 東ローマ帝国の首都であり、世界で有数の人口を抱える大都市。港から続く町は、到着した多くの者が見たこともない賑わいで、殊に十字軍の到着を歓迎して沸いていた。町の沿道にはあちらこちらに、十字架の付いた旗が掲げられていた。
 この町は主にギリシャから南下した人々、東ヨーロッパから南下した人々で構成されている。故に西ヨーロッパ出身の者には、目新しい町並みの装飾や、見慣れない店頭の商品が多く見られた。船から下りた人々はそれらを、感慨深く見回しながら町へと入って行く。セイジ、シン、トウマの三人も、初めて見る異国の大都市に、些か圧倒されながら歩いていた。
 ただ、海辺の大都市は明るくとも気分は暗い。
 無論クレタで下ろされたふたりの少年について、少しばかり責任を感じているからだ。あの時あんな会話をしなければ、彼等も一緒にここに降り立っていた筈なのに、と思うと、考えの足りなかった前の状況を辛くも思う。
 同じ気持で喜べはしなかっただろうが、せめて十字軍の成功を共に祈りたかった。三人は今、彼等の分も気持を込めて、確と聖なる軍隊を送り出そうと考えていた。

 船を下りたすぐその場から、大変な人ごみで自由に動けなかったが、そこから町の方へと移動しても、混雑はあまり変わらないコンスタンティノープル。大人の男性が子供や老人の手を確と握り、数人単位の集団で移動して行くこととなった。今夜は皆宿に泊まり、明日の昼に出発する十字軍を並んで見送る。
「すごい…町だね、信じられないくらい人がいる」
 店の建ち並ぶ舗道を歩きながら、シンは畏縮するようにそう言った。するとトウマは、
「今はお祭り状態だが、元々コルドバに次ぐ第ニの都市と言われてるからな」
 知り得る限りの知識でそう答えた。実際人口では、コルドバの次に中国のある都市が栄えていたが、まだヨーロッパの人々は、東アジアの国をあまり知らない時代だった。コンスタンティノープルは三番目の都市と言うのが、後に一般的な認識となる。
 ただ、コルドバが世界一だったのは間違いない。
「コルドバか…」
 シンはすぐにまた、セビリアのふたりの少年を思い出した。彼等の住む町の、すぐ隣にコルドバの大都市が広がっているのだ。そこにはイスラム人が多く住み、大半は普通の労働者や貧しい人だと言っていた。確かにそんな人々が、自分達の敵なのだろうかと疑問に感じる面はある。けれど今は、誰もそれに答えてくれそうもなかった。
 少しでもイスラムに好意的な話をすれば、明日を待たずに戻されるかも知れないのだから。自分にはその方が余程恐ろしい、とシンは思った。
 するとその時、
「十字軍に参加する全ての騎士よ!、我々はその尊い志を歓迎する!」
「神の国は近付いた!」
「剣を持て!、槍を持って立ち上がれ!、我々は聖地の永久なる栄光の為に戦おう!」
 町中でこんな声が次々上がり、歩く人々、町で働く人々も一体となって沸き上がった。正にお祭り騒ぎの様相を呈していた。そして、
「さあ、これを!」
 と、沿道から現れた、大きな籠を持った男から少年達は小さな包みを受け取った。包んである布には「神に栄光あれ、十字軍に栄光あれ」と書かれていた。広げてみると中には、ライ麦のパンと山羊のチーズが入っていた。
 市民自らこんな振る舞いをする、コンスタンティノープルの熱狂が窺えた。
「大変な歓迎振りだな、子供にまで」
 とセイジが零すと、
「それだけ聖地の奪還は大事なことだと、みんなわかってるんだろう。ここはもう、すぐ隣がイスラムの勢力圏だからな。安心して暮らす為の力の象徴が、どうしてもほしいのさ」
 トウマは判り易くそう説明した。
「そうだな。その為にキリスト教の聖地を守らねばならないんだな」
 納得した様子のセイジの横でシンも頷く。するとその周囲で大人達も、騒ぎに触発されたように盛んに議論を始めていた。
「エデッサを取り返されたのはしょうがない。代わりにイスラエルへ通じるルート上の、もっといい土地を手に入れなきゃな」
「イッソスとか。もっと先のアパメイアとか」
「いっそのこと旧ウマイアの、ダマスカスを占領できたらいいんだが」
「ダマスカスは友好都市だぞ?、占領なぞしたらバグダッドのアッバース朝が黙っちゃいまい。ダマスカスより港のあるティールかアッコンの方がいい」
 そこまで近付ければ、もう聖地は目前だと誰もがその夢に酔い痴れる。後はヨルダン川に沿って死海に向けて歩けば、聖地エルサレムはすぐそこだ。夢が夢を呼び、熱狂が熱狂を呼び、到着した人々も現地の人々も、俄に高揚し声をあげている。
「こんな大騒ぎは見たことない。来てみなきゃわからないことってあるんだね」
 と、その様子を見てシンが言うと、
「ああ。私達の国はいかに大人しいか」
 セイジは神聖ローマで行われる、穏やかな祭の風景を思い出していた。祭自体はともかく、参加する人々の気質が違うと感じさせられる。東ローマは一年中気候が温暖で、常に人々は活発に動いていられるからだ。そんな土地では自ずと性質が明るくなり、日々賑やかに暮らすことができるのかも知れない、と思った。
 そうした環境をセイジは羨ましくも思った。彼の住むロルシュは、冬場は雪に閉ざされてしまう町だ。気候風土から来る明るさに憧れを持つのは当然だった。けれどトウマが、
「熱気溢れる国もいいが、冷静に状況を見る国だって大事さ。フランス王も、神聖ローマ皇帝も、大国の指導者として落ち着いて考えてるだけさ」
 と話すと、セイジはその論にも成程と相槌を打ち、
「それもそうだな。王様が浮かれ騒いじゃしょうがない」
 国の指導者達は、一般市民のように軽々しく泣いたり騒いだりできないことを、自分なりの想像で納得していた。常に冷静でいられるからこそ、周囲からの信用も厚くなるのかも知れない。この場で言えばトウマのように、と、セイジは口端でクスっと笑った。
 そんな風に、徐々に心が軽くなる経過をトウマも感じたのか、彼は町を覆う澄み渡った空を見上げ、
「それにしても東ローマは明るい国だな。日射しが強いし、同じヨーロッパとは思えない」
 そんな感想を漏らした。話としては聞いていたが、やはり百聞は一見に如かずだ。空から降って来る光が帯のように町に差し、古びた石壁や土塀にキラキラと反射する、そんな光景は殆ど見たことがなかった。ありきたりな野菊や名もない雑草さえ、ひとつひとつ生き生きと光って見えた。
 それはまるで、命を讃える祈りのようだとトウマは感じた。そしてシンも、
「何か、十字軍の成功を約束してくれてる感じがするね」
 と言うので、トウマは気持良くこう答えられた。
「そうとも。信じればこそ救われるのさ」
「そうだね」
 少年達の気分も段々に盛り上がって来た。愈々明日に迫った十字軍の出発に際し、期待と喜びを持って送り出せそうな予感が三人の心を暖める。世の中には様々な人間が存在するが、これほど大勢の人に熱狂的支持を集める我々の神は、それだけ偉大な存在だと改めて気付いたからだ。
 万物の父、主なる神は常に我々と共に在り。
 神は我々を見捨てないだろう。だからこそ我々は神の存在を忘れない。
 我々の十字軍に誇りと栄光あれ。
 それが例え困難な道程でも、ヤーヴェの神を信じる人々は決して諦めないだろう。正しき人々は必ず救われるだろうと少年達は思った。

 その夜は町のあちこちで宴会や酒盛が見られ、招かれた十字軍の兵士達は大いに讃えられ、励まされ、充分に飲み食いをした。三人の少年もそのおこぼれにありつけ、質素極まる船旅の後の、温かく豊かな食事を堪能できた。
 同じ思想を持つ人々は皆温かい。異国の地ではその温かさが何より嬉しい。きっと明日もこの、心地良く身を寄せ合える東ローマ市民と共に、華やかに遠征を見送ることができるだろう。三人はその夜、充分に安心して眠りに就いた。民族間の悩みは尽きないものの、今は大勢の味方に守られているのだと。



 翌朝になると、十字軍を見送る大通りには沢山の花が飾られ、お祭りムードは更に盛り上がっていた。市民は皆朝早くから起き出し、家の周囲の掃除を済ませ、町中のゴミさえきれいに拾い、今か今かと一大イベントの始まりを待っていた。
 激励の言葉と神への誓いを述べる、東ローマ皇帝の演説用台座も既に準備が整い、周囲には役人の席も並べられ、後はその時を待つばかりだった。いつの時代も何処の土地にも必ずいるものだが、夜から場所取りに並ぶ物見高い市民で、広場は既に朝から大賑わいとなっていた。物売りが歩くスペースさえままならなくなり、出発の正午にはどうなってしまうだろうと、不安さえ過る有り様だった。
 実は、東ローマ市民がこのような経験をするのは初めてではない。成功を収めた第一回十字軍の遠征も、この町を出発することから始まったのだ。今は老人となった世代が、当時の頼もしい戦い振りを憶えていると同時に、後の世代に語り継いでいるのだろう。東ローマの若者達はそれ故に、今回の十字軍を熱狂を持って迎えたのだ。今再び我々に勝利と平和を、と願いながら。
 今はまだ午前八時。あと四時間も騒ぎ続ければ、出発の時には既に疲れ果てているのではないか、とも思えるが、人間特別な時には特別な力が湧くものだ。兵隊達にはこの人々の熱気を背に、是非良い知らせを持ち帰ってほしいものだった。

 昨日船で到着した兵士達はまず、東ローマの一大集結地ゴルディオンへ向かうことになっている。そこで装備を整えると、更に南下しアンティオキア公国の兵と合流する予定だ。見送りとして着いて来た家族達の旅は、コンスタンティノープルの町中で終わりでも、兵隊の行軍はまだずっと先の荒野へと続いて行く。
 尚、東ローマの南に位置するアンティオキアは、第一回十字軍で奪還した地中海人の古都だ。その昔はセレウキアと言ったが、そこを都としたセレウコス朝シリアと言う国があり、旧ローマ帝国に滅ぼされた後、ローマの権力下を離れいつの間にか、イスラム勢力が支配する国となっていた。
 つまりヨーロッパ人から見れば、イスラムに略奪された都市のひとつだった。そこを奪還し、今や聖地へ向かう起点の国となったことは、十字軍には何と頼もしいことか。ただ、その先はほぼ全てイスラムの勢力下にある土地だ。最後の安息の地と言っても良い、その国を出発する時にはそれなりの覚悟が必要なのだ。だからこそ兵士達には、人々の熱意と言う後押しが必要だった。
 そんな背景は子供達にも、恐らく肌身に感じられていたに違いない。
 その日、期待に沸く町を歩いていた三人は、何もかもが華々しく騒がしいコンスタンティノープルの、特別な一日を存分に楽しんでいた。午前中だと言うのに、既に酒を酌み交わす者が大勢いて、女達も家事を忘れ陽気に歌い踊っていた。
「こんなすごいお祭りって初めて見たよ」
 と、シンも乗せられたように明るく話す。それに対しトウマは、
「単なるお祭りじゃないからすごいんだ。この後に一番大事なことが待ってるだろ?」
 更に明るい未来を待望する言葉で返した。
「長いお祭りだ。まだこれからずっと続くんだ」
 セイジもまた、この喜ばしい状況は始まったばかりだと言った。少年達はまだ知らぬ聖地への行軍を、それぞれ輝かしい夢と見ているようだ。明るい空、明るい光、明るい人々の集うコンスタンティノープル。ここにはきっと、勝利を齎す天使が降りて来る筈だと、今は誰もが希望的に思えるひと時だった。
 この町に、ヨーロッパの国と人々に御栄えあれと。
 ところが丁度、行軍が行われる街道の一本裏の通りに入った時だった。狂乱とも言える表通りに比べ、裏通りはもう少し落ち着いた様子で、人の姿もそこまで多くなかったが、役人らしき身なりの男と連れられた女がひとり、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。
 そして男が途中の店の中に入ると、女はその外で立ち止まり待っていた。年の頃は少年達より幾つか年上だろうか、まだ若い黒髪の女性だった。
 シンはそれを酷く不思議そうに見ていた。黒髪であることは特別不思議ではない。この東ローマには地中海系のラテン人も多くいるからだ。
「どうした?」
 とセイジが、シンの視線の先を見て尋ねると、シンはその服装についてこう話した。
「あれ、イスラムの格好じゃないの?」
 言われてよく見ると、正式なヒジャープではないが頭から布を被った女は、ヨーロッパ人とはやや違う特徴の外見をしていた。完全なアラブ人とも違うようだが、目鼻立ちのくっきりした綺麗な顔をしている。特に目が印象的なその顔立ちを見て、トウマは、
「そうみたいだな」
 と答えた。彼の知識からは少なくとも、アラブの血が入った人物と判断できたようだ。そうなると、確かに現状は不可解なものがある。
「何故役人と一緒に歩いてたんだ?」
 セイジが続けた疑問には誰も答えられなかった。敵として捕らえられた人間なら、拘束もされず着いて歩くとは思えない。役人はアラブ人ではなさそうだし、この時代アラブ人の妻を持つとも考え難い。そもそもこんな、対イスラムの最前線のような国に、アラブ人が過ごしていることが不自然だった。彼女は一体何をしているのだろう?。と、考え込む前にトウマが話し掛けていた。
「なあ…?。あんたはアラブ人なのか?。こんな所で何してるんだ」
 すると女は、相手が子供であることに多少戸惑っていたが、寧ろそのせいで、素直に自身のことを明かす気になったようだ。何を話そうと危害は加えられないだろうと。
「…あたしは奴隷よ」
 と女は言った。女の名をカユラと言った。
「奴隷…?。どうして奴隷なんて…?」
 シンがまずそう口を開いたが、この場では三人の誰もが同様に、彼女の言う言葉の意味が解らなかった。何故なら、
「ちょっと待てよ。アフリカ人ならわかるが、アラブ人の奴隷なんて聞いたことないぜ?」
 トウマがそう続けたように、この時代奴隷と言えばアフリカの黒人か、一部の地中海人と相場は決まっていたからだ。その理由は、イスラムには同じイスラム人を奴隷化してはいけない法律があり、信仰を共にする者はどれ程貧しくとも、奴隷として使われることはなかった。代わりに労働者として、アラブは余所の奴隷を大量に買っていた程だ。
 そしてそんな背景があるからこそ、イスラムは白人を中心とするキリスト教国の敵と看做された。同等に武力を持ち、同等に広い支配地域を持ち、同等に奴隷を使う階級の民族である。
 しかし何故その彼女が奴隷となったのか、状況が解らない少年達に、
「そうでしょうね」
 と、カユラは薄く笑って見せた。そこには多分に自嘲の念と、多くの悲しみが含まれていたことだろう。笑って、取りも隠さぬ現実を彼等に話し始めた。
「あたしの母は十の時、シリアからここに連れて来られた。前の十字軍の時よ。母はあの役人の奴隷だったから、産まれたあたしも奴隷になったのよ」
「そんな馬鹿な…」
 つまり彼女の母親は、十字軍の遠征で得た戦利品のようなものだった、と言うのだ。もしそれが事実だとすれば、彼女ひとりと言うこともない筈だった。この町では他でも、捕縛されたアラブ人が奴隷化しているかも知れない。そこでシンが、
「でも…、十才で奴隷として働けるの?」
 と尋ねるが、単純労働の意味ではないと知るトウマは、話が逸れないようシンを下がらせた。
「そう言う話じゃないんだ」
 シンやセイジには、まだ奴隷を単なる下働きとしか考えられないようだ。もう少し大人寄りの知識を持つトウマには、カユラの言いたいことが、この時点でそれなりに理解できた。つまり彼女は東ローマの役人と、アラブの奴隷の間に産まれた娘だと言うことだ。
 現在の世界構造の中では何とも微妙な、ふたつの血筋を持つカユラと言う女。そして彼女は、
「そう、彼等はシリアから何もかも奪った。人も、家も、土地も、財産も、食べ物さえ根こそぎ奪って自分達の物にした。何も知らない幸せなお坊ちゃん方、十字軍なんて野蛮な軍隊は、あなた方の神も許さないでしょうにね」
 と、憎々し気に言い放っていた。
「貴様、何を言うんだ!」
 それには当然トウマも、他のふたりも激しく反発する。カユラの立場を憐れみこそすれ、イスラムを侮辱する言葉は何も口にしていない。何故そんな攻撃的態度を取るのかと、尋ねてもみたかった。すると彼女は更にこんなことを言った。
「聖なる戦い?、聖地を守る?。その為に何をしてもいいと言うの?。あなた方は知らないのかも知れないけど、あたし達に取って十字軍は悪魔そのものだわ」
「あ、悪魔なんて…」
 そんな言葉を耳にすると、気の優しいシンは途端に怯え出す。この時代はまだ悪魔・悪霊と言う観念が、真に恐怖の対象として忌み嫌われていた。滅多なことで言葉にすらしなかった。それだけに、自分達をそんなものに例えられるとは、思ってもみなかったのだ。
「ふざけるな!、この女!」
 シンの怯えようを見てセイジが強く出たが、カユラから見れば無知な子供の戯れ事に過ぎない。それより正しいことを聞かせてやろう、とばかりに、彼女は母から聞いた詳細を語り続けた。
「前の十字軍が、アナトリアや小アジアで何をしたか教えましょうか?。私達はそもそも軍人じゃない、軍人の家庭でもないし、王族や役人でもない。細々と暮らす農民や商人ばかり集まる町に、十字軍は問答無用で襲い掛かって来た。罪のない人を殺し、あらゆる物を略奪し、女は弄ばれて殺された。そうしながら十字軍は、町から町へと移動して行ったのよ」
 そのあまりの内容にトウマも、
「そんなの嘘だ!」
 思わず感情的になって言ったが、カユラの態度は毅然として揺るがなかった。
「嘘じゃない。あたしの母は運良く東ローマに連れて来られたが、その時の悲しみは生涯忘れないと言っていた。そんな話を聞いて、十字軍など汚らわしいと思って当然でしょう?」
「・・・・・・・・」
 三人の少年には返す言葉がなかった。
 今耳にしたことが、本当に真実なのかどうかも判断できなければ、もし事実だった場合自分が、或いは周囲の大人達が皆、過った情報に先導されていると認識しなくてはならない。磐石だった筈の足元の地盤が崩れて行く、信じていた未来の栄光が灰色にくすんで行く。年端も行かない子供達には流石に、背負い切れない程の試練の時だった。
 更にカユラが、
「母は長く愛玩動物のように扱われ、年を取ると病気になって死んだ。そんな風に生き延びても幸福な筈もなかった。あたしは、そんな母とラテン人の合の子だけど、どちらを憎むかと聞かれれば答はひとつ」
 自身の背景と、それに対する考えを聞かされると、最早少年達は反論の言葉を失っていた。確かにもし自分がその立場なら、同じように十字軍を恨んだかも知れないと判るからだ。ただ、
「あなた方は穢れた神に導かれ、いずれ滅びるでしょう。あたし達にはアッラーの神の御加護がある」
 彼女のその言葉にだけは、トウマが強く反論していた。
「イスラム人だって残虐な殺戮をしてるだろうが!。先に侵略を始めたのはセルジュークだぞ!」
「・・・・・・・・」
 すると今度はカユラの方が黙った。そう、確かに十字軍結成の発端は、セルジューク朝の東ローマ侵略にあった。その際トルコの中央部、アナトリアを奪ったセルジューク軍の戦い振りは、非情で残忍なものだったと誰もが知っている。それを見て反発した十字軍であるから、同じような行動に出てしまったのかも知れないと、トウマは話しながら考えている。コーランにも聖書にも、目には目をと言う言葉がある通りだ。
 ところがカユラはそこで、話の矛先を変えるようにこんなことを言い出した。
「セルジュークと私達は関係ない。あなた達だって、東ローマ帝国の市民ではないでしょう?。結局十字軍なんて意味がないのよ」
「意味がない…?」
「イスラエルはアラブ人の国、住んでもいない人間がそこに割って入ろうとするなんて、無意味だと言ってるのよ」
 関係ないことはあるまい、同じイスラム人のことだ、とトウマは反論したかった。また自分達も関係ない人間じゃない、同じキリスト教国のことだと言いたかった。思想や信仰は大切なものだ、同じ意識を持つ人々を支持したい思いは、カユラが最もよく解っているだろう。だがこの場では相手の詭弁を指摘するより、話の誤りを正そうとトウマは熱弁する。
「イスラエルに最初に王国を築いたのはユダヤ人だ、アラブ人は後から来たんじゃないか!」
「ユダヤ人は今も居る。あなた方は関係ない人間よ」
「関係なくない!。ローマの支配下にあったものを次々イスラムが奪って行った。だからヨーロッパ人は困っているんだ!」
 旧ローマ帝国は嘗て、地中海周辺のほぼ全域を支配していた。その時イスラエルで生まれたキリスト教も、ローマの財産として取り込まれ、聖地エルサレムは特に重要な土地となった。しかし帝国が衰退するに連れ、各地が独立、或いは各地に他民族が侵入、或いは原住民族が戻って来るようになった。そしてその中で特にイスラムが、大勢力として成長して来た今日の世界だ。
 時代の移り変わりは仕方のないことだが、当時から脈々と続く地中海支配、ヨーロッパから発信された文化と歴史が、他に取って代わられるかも知れない危機的現在、十字軍と言う名の抵抗運動は必要なものだった。
 それをセイジが、
「私達にも、聖地を巡礼する自由が必要なんだ」
 と、落ち着いた言葉で言い換えると、トウマも賛同してこう付け加える。
「そうさ、それをアラブが邪魔してるから戦争になるんだろ」
 その通り、最も簡略に言えばそれだけのことで、大軍勢に拠る殺戮が行われる。それを思えば、安全に通行することくらい譲歩してくれても良い筈だと、ふたりは真摯に訴えていた。それを見るとカユラも、喧々囂々としたそれまでの言い合いを改めて言った。
「聖地に行く自由だけでいいなら、殺し合いなんかしなくていいんじゃなくて?」
 それもまた尤もなのだが、それで済まないからこそ現状の泥沼になっている。
「それは、だから、侵略を始めたのはセルジュークだと言っただろ。あんたには関係なくても、ヨーロッパ人はアラブが敵だと思うさ」
 トウマはそう返したが、結局、話は堂々巡りになることを思うばかりだった。
 無論先に侵略を始めた方には問題があるが、その報復として大規模な殺戮や略奪を行ったと言う、十字軍にも非がない訳ではない。しかもその発端であるセルジューク朝は、現在は末期王朝となり力を無くしている。何れ消えてなくなりそうな集団に対し、責任の有無や謝罪を求めたところで何になる。今はもう、その後の世代へ問題も移ってしまったのだ。
 現在、最も脅威と見られているのは、バグダッドのアッバース朝を中心としたムスリム軍だ。では彼等に交渉すれば、過去の侵略を謝罪してくれるのか?。否、彼等はカユラと同様に、我々とは関係ないと言うだろう。そして前の十字軍から受けた屈辱を、今度の十字軍にぶつけて来るだろう。これから本格的な戦闘が始まれば、双方の憎み合いはより深まって行くだろう。
 これでは、平和に聖地を巡礼できる日など、当分訪れないだろう…。
 そんな未来を思う少年達とカユラは、どちらも個人的には、陰惨な先行きを望んでいる訳ではない。けれど時代はそう流れて行くだろうことが、嫌でも予想される現在だった。
「何があろうと仕方ないと言うことね。あたし達は、アッラーの神がいる限り滅びないでしょう」
「俺達だって滅びない。いつか、どっちが正しいか答も出るさ」
「十字軍の蛮行が正しい筈もない」
 するとカユラはそこで、何故か優し気な笑みを見せた。
「…まあ、好きに考えるといいわ」
 ここに来て彼女は、まだ物を知らない子供達だと引いてくれたようだった。元より相手を完全に洗脳しようとも思っていない。伝えたいことを伝えられたので、もう満足と考えたのかも知れない。そんな時彼女の態度は酷く優しく見えた。するとトウマは何故か、セビリアの少年達のことを思い出していた。
 彼等は何と言っていた?。イスラム人とは戦いたくないと言っていた。兵隊以外は殆どが普通の労働者や貧しい人だと。確かにカユラには何の罪もない。その上不当に奴隷化された母親と、敵国の人間との合の子だ。それだけで蔑んで扱われているだろう現状が辛い。頭の良さそうな女性だけに哀れだ。けれど彼女も、イスラム側の侵略を正当化することはできなかった。
 つまりどちらにも罪はあるのだ。イスラムにも、我々にも。
 それを誰も教えてくれなかった、つい先程までの無知な自分がトウマは途端に悔しくなった。もし正しい世界の有り様を先に聞いていたなら、セビリアのふたりを糾弾することはなかったのに、と。
 一般のイスラム人の生活を見守る程度のことに、どれ程の罪があったと言うのか。子供ふたりを船から下ろした大人達も大概だが、広い世界を学んで来た自分がいつの間にか、狭く非寛容な思想に取りつかれていたことに、酷く落胆もしてしまった。
 これが、我々の住むヨーロッパの正義なのかと。
 これが、希望と栄光に満ちた十字軍なのかと。
 しかし彼が何を考えようと、事態は流れのままに進んで行くしかないのだ。まだ特権階級以外の人間に、何の権利も力も与えられていない時代だ。いつか、こうした普通の人々の苦しみが一塊となって吹き出し、流れを変えて行く未来が来るかも知れないが…。

 正午、東ローマ皇帝の力強い演説の後、浮かれ賑わう人々に見送られる十字軍は、明るい顔をしてコンスタンティノープルを出発した。しかし少年達は誰も、それを明るく見送ることはできなかった。



 帰路に就いた三人は、もうあまり話もしなくなっていた。
 悪魔と言われたことに純粋に傷付いたシンと、まだ何も考えのまとまらないセイジ。今もまだ、神の名に於いて残虐行為が行われたとは、信じ難い気持でふたりは身を寄せ合っていた。その証拠としての女性に会ってしまったのは、忘れたくても忘れられない思い出だ。家を出発する時、まさかこんな土産を持ち帰ることになろうとは、誰が予見できただろうか。正に運命の悪戯だった。
 何も知らず喜び勇んで帰る大人達が、周囲には大勢いると言うのに。その歓喜の輪に入れない三人は、心の孤独に悩みつつ帰途を辿る。
 そしてトウマは、他のふたりに隠れてこっそり泣くことさえあった。何より「自分は騙されていた」と言う事実が、今を生きる心臓を締め付ける思いだった。信じていた大人達に、取り巻く社会に、或いはローマ教皇さえ例外ではなく、この世は都合の悪い事実を隠し、美徳のみを謳うことがあるのだと知って、初めて込み上げて来た奇妙な怒りに涙した。
 キリストが正しくない訳ではない。イスラムが完全な悪なのでもない。だのにそれを扱う人間の罪深さが、神の教えを正しく行えないこの世界。或いは双方が正しさを主張するあまり、それ以前の基本的な命の尊さが忘れられているこの世界。そして自分もその中に生きるひとりなのだと、途端に悲しくなった。
 誰もかもが誤っている。誰も何が正しいか本当の答を知らない。この世界の真の姿は、そんなものなのだと知ってしまうと、何を信じれば良いのか判らなくなってしまった。
 正義とは何か。
 神がいかに正しかろうと、神と人間は別の場所に住んでいる。トウマはこの旅によって初めてそう意識することとなったが、そんな淋しく悲しい記憶でも、彼の後の糧となるなら良いのだろうか…。



 その後、神聖ローマ帝国のロルシュには、シンの父親が戦死したと言う知らせが届いた。セイジの父は戦地で大怪我を負い、故郷の町に戻ったのは二年後だった。
 そして第二回十字軍は、案の定全体の統制を欠く戦況で、小アジアに於いてムスリム軍に破れるなど大敗を喫し、失敗に終わった。









コメント)と言う訳で、昔の地名を多く使っている為、ちょっと地理的にわかりにくい内容だったと思いますが、当麻の見た夢のお話でした。いちいち「今の何処」と言う注釈を入れるのも、読み難くなるのでこうなったんですが…。
これを書いてる時丁度、アルジェリアの人質事件が発生して、やっぱりイスラムの過激派は残忍だな、と改めて思ったんですが、この話の通り、アラブ人の大多数の人は普通の市民なので、誤解されないようにと書いておきます。
ただ、ダマスカスも今は戦争状態だし、過去は最も進んでいた地域が、今も前時代的な戦争の場になっているって、何とも言えない感じですね…。



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