メルカート
青いサンクチュアリ
#1
A Sanctuary



 空がこんなにも青いのは、世界が無垢ではいられないからだ。
 純粋に英知を求める内にも、人の心は穢れて行くからだ。



 その人々は長い長い列を成し、古の街道をファドゥーツから南下している。
「今日もいい天気だねぇ」
 その最後尾を、楽し気に蛇行しながら歩く少年が言った。彼はシンと言って今年で十一才になる。父親と共に神聖ローマのロルシュからやって来た。
 ファドゥーツはアルプス山脈最大の都市だ。そこに集合した一行は尾根に続く道を進み、アルプスの出口と言えるベリンツォーナへ向かっている。アルプス周辺の気温は、この時期氷点下までは下がらないが、衣を打つ風の冷たさは山岳地ならではのものだ。そこに在って、シンのような少年の無邪気な明るさは、黙々と歩く大人達にふとした温かさを感じさせていた。
 その数歩前を歩く、もうひとりの少年は淡々と相槌を打っている。彼はセイジと言って、シンとは同じ町の出身、年も同じで仲の良い遊び仲間だった。
「いい天気だな」
「アルプスは空も山も青いねぇ」
「そうだな」
 ふたりはこれまで、生まれ育ったロルシュの町を殆ど出たことがない。シンはごく小さな頃に、バルト海に近いリューベックの親戚を尋ねたが、それ以来旅などはしていない。セイジは生まれてこの方、近隣の町以外出たことのない地元っ子だ。
 そんな彼等には、アルプスの山々の雄大な造型、千年に渡り人の行き来した街道の景色が、何もかも新鮮に映ったことだろう。聖堂のフレスコ画の天使や神の姿は見慣れているものの、聳える山脈や海の広がりなど、実在の自然については寧ろ想像の世界だった。
 尾根とは言えど山の道は険しい。ファドゥーツまでは馬車でやって来たが、ふたりは初めて自分の足で、異国の土地と言うものを体感している。山に囲まれた日陰の石畳は冷たく、流れる川の水も氷のように冷たかった。山間に見える空ばかりが明るく、まるで天国の光が漏れて来るように見えた。アルプスとはそんな、厳しく美しい牧畜の里だと彼等は知った。
 但し、似たような景色が二日目となれば、子供心には少々飽きが来る。
「昨日から歩いてばっかり。ジェノヴァにはいつ着くんだろ」
 既に前を向いてもいない、シンは道端の花に話し掛けるように言うと、セイジは誰から聞いたのか、
「あと四日くらいだと」
 と答えた。この、大人から子供から、女から老人から入り混じる大行進は、先々で数を増しながらジェノヴァの港を目指している。そこから船で地中海へ乗り出す予定だ。
「まだ半分も来てないの…?。何でジェノヴァまで馬車で行かないんだよ?」
「シンの憧れなんだから文句を言うな」
「そうだけどさ…」
 そう、地中海はヨーロッパ北西部の人々なら、誰もが憧れる海の都だ。ヨーロッパとアフリカの文明発祥の源であり、他大陸との交易の要であり、富と豊かさ、明るさと賑やかさを求め人々が集う内海だ。シンだけでなく、この行進に参加する多くの者が、まずその気持を胸に秘め歩いていただろう。恐らく地中海の温暖な気候は、旅の辛さを充分に癒してくれるだろうと。
 そしてその前に、
「行進するのが大事なんじゃないか?」
 セイジは現状についてそんな風に話した。実際は尋ねるまでもなく、シンもその意味は理解していたけれど。
 千人からの大集団となった、人々の目指す場所は地中海の更に向こうに在る。一行はローマで船を乗り換え、東ローマ帝国のコンステンティノープルに集結する。そこから南へと出征する兵隊を見送りに、その家族などが行進に参加しているのだ。
 何故なら、十字軍の遠征は神の栄光に懸け、必ず成功させなければならない。
 セイジは五十年程前に行われた、第一回十字軍の話を聞くのが好きだった。ローマ教皇の呼び掛けに立ち上がり、小アジアを駆け抜けた英雄達は、イスラムの侵略者を次々に撃ち破った。キリキア、シリアと、各地でヨーロッパ人の国を建国すると、遂にはパレスチナに聖地エルサレム王国を開いた。ヤーヴェの神を信じる全ての国、全ての人間に誇らしい歴史上の事実だ。故に彼は、自分の父親が十字軍に参加すると知ると、まるで自分のことのように喜んだと言う。
 対してシンは、セイジほど軍隊の遠征に関心はなかった。この度の十字軍に家族が参加することとなり、その未知なる道程に興味を持っただけだ。文字通り海を越え、山を越え、砂漠を越え、大勢の人々がひとつとなって聖地を目指す、と言う、魔法のような魅力がある旅に。
 ところでそれらの成り行きを、ふたりはまだ話していなかった。
「君は何で来たの?、何か見たいものでもあるの?」
 と、些か呑気な質問をシンが口にすると、セイジは真面目に返すのを恥ずかしく思ったか、多少口籠りながらこう答えた。
「別に。シンが行くと聞いたから」
「アハハハハ!。僕が行かなかったら行かないの?」
「行かなくていいよ」
 すると、シンは面白そうにセイジの横に来て、肩で相手を小突いて見せた。セイジの方も、少しは本当にそんな気があったようで、シンの嗾けたおふざけを同じように返す。ふたりは軽くぶつかり合い、笑いながら道を逸れ、その内広大な牧草地を走り出していた。
「クックックッ…、セイジは良い子だね!」
 しばらく走っていると、それまで集団の後ろ姿しか見えなかった視界が変わる。行進はふたりが思っていたより長く、その先頭は山の向こうに見えなくなっていた。既に見たこともない数の人々が、ゆるやかに何処かに吸い込まれて行く様は、少しばかり不安な画にも思えた。願わくば山の向こうが地獄の釜でないように、と祈るばかりだ。
 その見晴しの良い牧草地の丘で、シンはズボンのポケットの中を探り、隠していたナツメヤシを取り出して見せる。
「じゃあ、これあげる〜」
 しかし、何を思ったかシンはそれを口にくわえた。そしてセイジに顔を突き出すので、彼も首を伸ばして取ろうと口を近付ける。
 そうしておいてシンはスッと身を引いて逃げる。また顔を近付けては下がる。それを何度も繰り返すふたりの遊びだった。丘の上をふたりはくるくると走り回った。
「待てよー」
「こーこまーでおーいでー♪」
 一兵士として聖地へ向かう大人に比べ、少年達にはまだ何の実感もないようだった。実際に十字軍の行軍には、足手纏いと言えるような女性や子供も見られ、巡礼が目的の者や、中には観光気分の者も居たのだろう。ふたりは正にそんな象徴的な子供だったかも知れない。
 セイジが遂に掴み掛かるように両肩を押さえると、シンは漸く足を止めた。お陰でセイジはナツメヤシをもらうことができたが、知らぬ間に移動して来たその場所でふと、
「あれ、あそこに見える青い所が地中海かなぁ?」
 シンは道の先に開けた視界を指して言った。そこでは確かに、青い地平線のようなものが目に映ったが、それは湖であり海ではなかった。現在のコモ湖だ。
「わからない。私は海を見たことがないし、船に乗ったこともないし、初めて知ることばかりだ」
 セイジが言うと、
「僕も船に乗って余所に行くのは初めてだよ。知らない世界に行くってワクワクするね」
 シンは一際楽し気にそう返した。追い掛けっこの余韻が残る、弾む息が尚更彼の気持を明るくするようだ。だがセイジは暫し考えた後に、
「そんなこと言っていいのか?」
 批難する態度ではないが、そんな疑問を口にしていた。
「え〜?」
「戦争だって聞いたぞ?」
「それは兵隊の仕事だろ?、僕達は行進に参加しに来ただけだよ」
「そうだが、お父さん達じゃないか」
 家族を心配するセイジの気持が、シンに解らない訳ではない。ただ、ふたりがこれまで何をどのように聞いたか、その違いが考え方の差に現れたようだ。シンはあくまで今回の遠征を希望的に捉えている。子供だからそこまで深く考えられない、と言うこともあっただろう。
「大丈夫だよ、フランク軍は強いし、前の遠征で建国したアンティオキア公国や、トリポリ伯国が助けてくれるよ」
 シンがそう話すと、第一回十字軍には明るいセイジも、すぐに話題に乗って話し始めた。
「セルジュークを破った軍隊だな」
「そう。昔はセルジュークに苦しんだけど、今は聖地からの援軍も来るって、お父さんが話してたよ」
 強大な軍団を持つことで知られる、小アジアのイスラム王朝セルジューク。東ヨーロッパの人々が常に領土的脅威を感じていたのは、このイスラム勢力が強く残虐だったからに他ならない。正規の十字軍以前に、民間人が先導して行った遠征も、このセルジュークのアルスラーン一世に尽く敗北、大半が命を落とす結果となった。
 ただ、残虐と言う表現は別段、この国だけに言えることではない。時代的にこの頃の戦争は、政治的戦略より潰し合いの面が強かっただけだ。信仰や考えの異なる人種を排除する、それが第一目標だったのだから仕方ない。そして、そうした行為について異を唱える者も少なかった。誰もが自らを支える思想の正しさを、信じて疑わなかった時代である。けれど、
「でも、イスラム軍にエデッサを取られたんだろ?。どっちが強いかはわからない」
 例え正しくとも敗北を喫する時はある。受難に苦しむ時もあるとセイジは続けた。それは彼等の聖書に記された、キリストの一生を見れば判ることだ。そして十字軍の遠征自体も、易々と目標を達成できる行動ではない。その上今は、前回の遠征で建国されたエデッサ伯国を取り返された後だ。
 正しさは必ずしも強さとは結び付かない。勝敗は常に時の運とも言う。それは誰もが経験的に気付くことだが。それでも、と、シンは言葉に力を込めて言った。
「強くても!、悪い奴らは退治しなきゃいけないんだ!」
 そうしなければいけない、異端者は駆逐すべきと多くが考えている現代だ。ひとつの正しさを広く伝え、人をひとつにまとめることが、永久の平和と繁栄に繋がると皆信じている。
「だって、イスラム人もユダヤ人もひどいじゃないか。カナンの土地はみんなの聖地なのに、勝手に自分達のものにしちゃってさ」
 シンがそう続けると、セイジもその状況には納得して頷いていた。
「そうだな。イスラム人は話が通じないし、ユダヤは心が狭いと思う。我々の教会は古くから聖地にあって、イスラムのモスクなんかその後にできたのにな」
「そうだよ!」
 カナンとは聖地エルサレム一帯の名称である。神が正しき人々に与えた約束の地、蜜とミルクの流れる豊かなその土地は、キリスト教、ユダヤ教に取って神からの贈り物である。それを無理解で非寛容な集団が支配する現状は、ヨーロッパ人に取って苦々しいものだった。
 だからこそ十字軍は、熱意を持って幾度も遠征を繰り返すのだ。
「私達は聖なる神の僕〜」
 自らの言葉で気分が盛り上がって来たのか、ふとシンは歌い出した。するとその続きをセイジも歌う。
「聖地を守る十字軍〜」
 ふたりは、会話の最後には元通りの仲良しに戻り、再び草原を走り始めていた。同じ郷に育った子供達は、こうして簡単に仲間意識を取り戻すことができる。ふたりの世界は今も平和であり、それを取り巻く世界も平和であってほしいと、同じように考えているからだろう。
 まあ実のところ、口頭で何を話していても、子供であるふたりにはその複雑な背景や、意味を正確に理解してはいないだろう。子供なりに考える世界の形を、子供なりに納得しているだけだった。それが悪い訳ではないが、ここに来てふたりは「いい加減になさい」と、そのはしゃぎようを叱られてしまった。大人はより多くのことを考えねばならないので、ふたりの体力を気遣ってのことだった。
 東ローマへの道はまだ遠い。聖地へ向かう兵士の道は更に長いのだ。
「怒られちゃった」
 それでも悪びれず、控え目な笑顔で合図を送ったシン。それを見るセイジも、何ら罪の意識は感じていないように手を取り、ふたりは行進の列に戻って行った。多少気分を害されることがあれど、この行く先に待つ物がどれ程魅力的か、期待する気持の方が遥かに上回っていた。
 未だ見ぬ美しい地中海、未曾有の人の集まる華々しい船出。我々の十字軍に栄光あれと。
 だからふたりは終始明るい顔をしている。そして大人達も、真面目に議論しながらも、内から出る朗らかさと活気に満ちていた。老若男女、属性はバラバラでもあるひとつの面では、共通の意識を持ち得る集団だった。我々は唯一の神、唯一の父、唯一の子に従う羊であると言う意識だけは。
「ボードゥアン伯がエデッサを建国した時と、今とは情勢が違う。セルジュークに昔ほどの力はないんじゃないか?」
「確かに、今のセルジュークは東ローマに野心を抱いてはいないようだ」
「だが油断はならない。周辺のイスラム人は皆セルジュークに加担するだろう。エデッサの陥落はその例じゃないか?」
「エデッサのような奥地より、地中海沿いの町を目指す方がいいと思う」
「そうだ、エデッサはそこまで重要な拠点ではない。我々が目指すべきは聖地エルサレムだ」
 大人達の意欲的な話は尽きなかった。

 そうして行進の二日目、彼等はベリンツォーナに到着した。そこは古代からの城壁都市として有名だが、山間の狭い土地に作られた町である。これだけの大集団は宿屋に泊まり切れない為、大半の者は野宿同然となった。ただ、それに文句を言う者は誰も居なかった。
 明日の朝は早い。次のメディオラヌムまで一日で到着しなければならなかった。シンとセイジもこの夜は、食事を済ませるとすぐに寝てしまった。



 その翌日、集団は途中の道々で更に人数を増しながら、ベリンツォーナのほぼ真南に位置するメディオラヌムに到着した。メディオラヌムは山の麓の大きな都市で、古代王国の重要拠点でもあった。それだけに地形や気候に恵まれ、漸く海へと向かう雰囲気も感じられる。人々の気持には開放感が現れ、この先の行進への意欲も増して行くようだった。
 到着したのは丁度夕食時だったが、そこから次の拠点への出発にはやや余裕があり、一行はその夜、大都市の宿屋や民家で充分な休息を取った。十字軍を歓迎し受け入れてくれた町の人々は、遅くまで営業する店や宿を自ら紹介してくれた。
 また翌日の早朝、早起きをした者は町の食堂でゆったり朝食を摂り、休息をし、必要な品の買い出しをする余裕もあった。メディオラヌムの市場は元より、豊富な品が集まる活気溢れた場所だが、今日は大挙した人々で大いに賑わっていた。
 その中には、行進を楽しみに来たシンとセイジも含まれていた。ふたりは初めて見る珍しい物品や、色とりどりの野菜や果物を冷やかしながら歩き、最終的におやつに持ち歩ける、干し無花果や干し葡萄を買うことにした。シンは父に貰ったお小遣いを全て使ってしまったが、まあ、旅や遠足には美味しい食べ物も必要だ。それを咎める者も居なかっただろう。
 丁度その、ドライフルーツの袋を店の主人から受け取り、ふたりが店先を歩き出した時だった。
 目の前に同じくらいの年の、身なりの良い痩せた少年が立っていた。何故だかこちらを観察している風で、その視線は妙に穏やかな様子だ。歓迎ムードに沸く地元の子供とも思えないが、自然な微笑みを感じる表情は印象が良かった。
 すると早速興味を憶えたシンが、彼に近付きながら話し掛ける。
「君、何処から来たの?」
「ランスからさ」
 意外に気さくな態度で返事した、少年の名前をトウマと言った。昨日馬車でこの町に到着し、ここから十字軍の行進に参加する為に、一日到着を待っていたと言う。そしてシンも彼の出身地を知ると、些か歓喜して顔を綻ばせた。
「フランス王国だね!。君は屈強なフランクの子孫?」
「まあな」
「頼もしいね、フランク軍が出動したら、ザンギーなんて蹴散らせるよ!」
 そしてセイジもフランスの祖、フランク王国の英雄達に敬意を表しこう続けた。
「私も大人になったら兵隊に入って、ブイヨン王を助けたいんだ」
 ゴドフロワ・ド・ブイヨン王はイスラエル王国の君主、第一回十字軍に参加した貴族の中でも英雄中の英雄だ。ただひとりカナンまで進軍し、歴戦を繰り返し、イスラエルに悲願の王国を建設した。そしてその王国は今も、侵略されることなく維持されている。現状ヨーロッパ人の心の支えである。
 ところが、そんな輝かしい国と人物の名を耳にし、何故かトウマの表情は冴えない。
「…えーと、さ…」
「ん?、何?」
 と、シンも不思議に思い尋ねると、トウマは酷く冷静に語り出した。
「そんな簡単なことじゃないと思うぞ。お前達は知らないのか?、ブイヨン王の時は成功を収めたが、その後の遠征は失敗してるんだ」
「そうなの…?」
「二回くらい大軍を送り込んだが、小アジアで壊滅したって話だ」
 今日でも大まかな年表には記されないが、第一回十字軍の後に、より勢力を拡大しようと同様の遠征が続いたことは事実だ。だがその流れをシンとセイジは知らなかった。殊にセイジは、トウマの言葉を俄に理解できない様子で、
「そんなこと誰も話してないぞ。本当のことなのか?」
 と、やや訝し気な言葉で返した。確かに彼は、第一回の後の十字軍が存在したことも、それが失敗したことも聞いたことがなかった。大人達の判断で、子供には話されなかったのだろうか。
 すると、何か思い当たることがありそうな顔をして、トウマは少し話の方向を変える。
「お前達は何処から行進に来たんだ?」
「神聖ローマだ」
 質問を質問で返され、やや戸惑いながらセイジが答えると、トウマは自分の想像が確信となったことを楽しむように、得意になってこう言った。
「フーン、ゲルマニアは偉大な田舎だと聞いたが、その通りだな」
 彼の意識としては、特に悪意を込めた訳ではなかったが、下に見られたと感じれば、当然不愉快さを込めて語気を強めるセイジ。
「ゲルマン人を馬鹿にするか!」
 御存知だろうが、ゲルマニアは現在のドイツの源である。神聖ローマ帝国は現在のドイツに到るまでの、歴史上のひとつの名称だが、フランスの祖フランク王国に比べ、これまで大した活躍は見られない国家だった。故に田舎呼ばわりされても仕方ない面もあるのだが、
「いや、だって、正しい情報が伝わってないとしたら、それだけ田舎だって証拠だろ?。それとも、」
 トウマがそう続けると、セイジほど引っ掛かりを感じていないシンは、寧ろ初めて耳にする話に興味津々で、後に続く言葉を催促していた。
「それとも?」
「士気が下がると思って隠してるのかも知れないな」
「お前!、神聖ローマ皇帝に失礼だと思わんのか!。コンラート三世はフランスのルイ七世の盟友だぞ!」
「ちょっと、セイジったらやめなよ」
 シンがセイジを制止したのは、単に友好的な場を壊したくないだけでなく、トウマの話にある程度納得したからだった。
 確かに、今回の十字軍はフランス王と神聖ローマ皇帝、ふたりが中心となっての遠征だ。だが過去の遠征には神聖ローマはあまり関わっていない。常にフランス、フランク王国の誰かが先導する活動だった為、フランス人の方が、より正確な情報を持っていると考えられた。
 今やパリはヨーロッパの一大都市、強大な軍事力に支えられた西の都だ。神聖ローマの小さな一都市に住む自分等に比べ、パリに近いランス出身のトウマが、物を良く知っているのは当たり前だと、シンには素直に思えたようだった。すると、
「だから…」
 トウマはセイジの怒りようを見て、溜息を漏らしながら続けた。
「こういうことになるからうまく行かないんだよ」
「こういうこととは何だ?」
 トウマは続くセイジの問いにも、充分に易しく正しく答えられた。
「幾つかの国や、色んな人種が交じった軍隊だからさ。それぞれ少しずつ考え方が違って、遠征の途中で分裂することが多いんだ。一個の大軍団なら無敵なのに、いつもバラバラになって負けてるんだ」
 近代の戦争には多国籍軍の成功もあるが、それは過去の失敗あってこそのもの。この時代の国家はまだまだ未熟な理屈で成り立ち、他国との関係はそれぞれ微妙だった。また国の中でも貴族や領主達の力関係があり、それぞれの目標に一般兵が連れられて行くと言う、初期の軍隊の形だった。
 その上十字軍は、ヴァチカンを中心としたキリスト教への信仰のみが、全体を統一する唯一の意識だ。それでは上手く行かなくても当然だろう。キリスト本人が先導する訳ではないし、各国の各宗派ごとに多少違った解釈をし、それぞれが正当性を主張するのだから。
 無論イスラムにしても、アッラーの神ではなく、それぞれの王朝のカリフや指導者が人を束ねる為、集団ごとの目的意識の違いは生じている。が、元々小アジアからパレスチナに住み着き、防戦に備える側の方が、他地域から攻め入る側より有利とは言えた。
「じゃあブイヨン王の時は?。各地で勝利したじゃないか」
 セイジはもう一言食い下がるが、
「その時はたまたま、分裂してもうまく行ったんだ。イスラム人は初めて見る十字軍の強さに驚いて、戦わずに逃げたって言うからな。でも今は違うぞ?。向こうも警戒してる。仲間割れしてたらまた失敗するかも知れない」
 トウマはそれも整然と解説してみせた。成程、と、今は聞き知った歴史的筋道を甘んじて飲み込み、
「そうなんだ…」
「だったらまずお前の態度を正せ」
 シンとセイジはそれぞれ、トウマの知識に感心してそう言った。
「ああ、悪かったよ」
 セイジが言うのも尤もなので、神聖ローマを田舎と評したことは、笑って素直に謝るトウマだった。こんな所で口論をしていては、大目標の聖地の奪還など夢のまた夢だ。自分等が戦う訳ではないが、まずは友好的な意識の統一をと三人は思う。
 ただ、子供同士の喧嘩はすぐ修復できるのに、大人達は何故仲間割れするのだろう?。シンはまだその点が理解できないでいたが、まあ、大人には大人の事情があるものだ。
 そしてセイジは、怒っていた割に今は感服した様子で、トウマの属する国の背景を讃えていた。
「しかし大したものだな、フランスでは随分詳しく知られてるようだ」
 すると、トウマはより打ち解けた様子で、それにはちょっとしたからくりがあることも明かしてくれた。
「まあ、俺はその中でも少し特別なんだ。養父がガリアの歴史学者でさ」
 特別と言うより変わっている、と、聞いたふたりは目をパチクリさせる。歴史学者などと言う人は、この時代には相当イカれた変人と認識されていた。まだ現在の生活を守ることが第一で、民衆は殆ど誰も、古の歴史などに関心を抱かないからだ。そんな中トウマの養父と言う人は、何を思い時代の発掘に着手したのだろうか。子供にはかなり不可解なことだった。
 因みにガリアとは、古くからのフランス一帯の地名であるが、今では主にフランス南部を指している。そこには旧ローマ帝国時代の遺跡など、フランス人、ラテン人の歴史や文化が多く眠っている。
「歴史学者…?、の息子が何で行進に?」
 セイジの驚きはその点にもあった。歴史学者と言う隠遁者のような職業も不思議だが、それに育てられた彼は、では、歴史の勉強をしに十字軍にやって来たのだろうか?。
 ところが、セイジの混乱を一気に吹き飛ばすように、トウマは頭を掻きながら答えた。
「ハハハ、実はさ、俺は他の国を見に行きたいだけなんだ」
 そしてシンは、思わぬ同志の出現に喜びの声を上げた。
「なーんだ、僕と同じだね!」
 些か不謹慎ではあるが、三人は皆同じような目的で行進に参加していると知った。それが判ると、十字軍の事実に関する不穏な話に、一時は気持が沈んだが、交わされる笑顔の中で子供らしい明るさも戻って来る。旅は同じ目線で語れる仲間が居れば、より楽しいものになるだろう。
「私達は神聖ローマ軍の応援だ。お父さんが兵隊だから着いて来たんだ」
 と、セイジが改めて自己紹介すると、シンがまた十字軍の歌を歌い出した。
「私達は聖なる神の僕〜」
「聖地を守る十字軍〜」
 それを耳にして、トウマも、素直に今回の遠征が成功するように願う気持を、
「うん、ここは力を合わせてイスラム軍を撃退しなくては」
 そう言って鼓舞してみせた。今、三人の少年の心はひとつとなった。
「野蛮な侵略者を追い払おう〜!」
「ローマ教皇の名の許に我々は集う!」
「正義は我々の神にあり!」
 こうしてメディオラヌムからの出発は、三人で歩き出すこととなった。シンはおやつを沢山用意して良かったと思う。セイジはもっと新しいことを聞きたい気持で一杯だ。トウマはひとりで退屈せずに、コンスタンティノープルへの旅ができることを幸運に思った。
 ジェノヴァの港まではあと二日。伝え聞く豊かな地中海に辿り着く時には、その喜びも三倍になっていることだろう。そして集団全体の喜びは、更にそれを越えるものとなるだろう。
「ジェノヴァからローマまでは一日足らずで着く。船に乗りさえすれば後は楽だ」
「ローマからトリポリに渡る航路もあるんだろ?」
「正しくはトリポリの東にあるレプティス・マグナに着く。そこから西回りに進軍する部隊もあるだろうな」
「だが、トリポリから聖地までは拠点となる町が少ない。戦闘は少ないかも知れないが、補給し難いルートでは餓え死にし兼ねない」
「その通り、東ローマからの南下は、危険もあるが最も進軍し易いルートさ」
 兵士や説教師が口々に話す、行進のその先の話に聞き耳を立てながら、少年達は未来を想像する楽しみに沸いていた。



 光溢れる岸壁の、黒々としたレンガを取り囲む青。
 海の青、空の青、店の廂にも象徴的に配された青。ジェノヴァの町中は人で大混雑となったが、その青い色は涼し気に人々を包んでいた。
 とにかく波止場付近は、次々出入りする船に群がる人で近寄れない。今は空を飛ぶカモメより遥かに人の方が多かった。否、その鳥をカモメと呼ぶことさえ、シンとセイジは初めて知ったところだ。
 このジェノヴァ港はローマだけでなく、ヒスパニアやマウリタニアを行き来する船も出ている。それでも世界では中ぐらいの港だと言うから、少年達はその規模の大きさに驚くばかりだ。大勢の旅客と多くの船、積荷とそれを運ぶ働き手、あらゆる人と物が目紛しく動く港の風景。明るく活気があり、波の揺れと潮風が心を癒してくれる、ここは正に想像通りの地中海の町、だと三人には思えた。
 大人達の交渉の結果、夕方の便に乗ることに決まった彼等の一団は、それまでジェノヴァの町で休息を取ることとなった。少年達は大人に連れられ、適当な食堂で食事を摂りに出掛けた。
 その道程、波止場を少しずつ離れながら歩くと、人混みと建造物に隠されていた海の景色が、より広大に目に広がって行った。少年達は海の方ばかりに気を取られ、食堂や宿屋の連なる町並みなどまるで見ていなかった。ただ圧倒的な海と言う場所に、三人三様に感動していた。間近に感じる波と風の音、水面が陽の光に明るく輝く景色を誰も知らなかった。
 そして、石やレンガで固められた港の敷地が途切れた後には、本当に見たこともない、白い砂の美しい海岸が現れた。
 思わず、シンが道を逸れて砂に足を踏み入れた。細かな砂は足音を吸収し、潜るような独特の感触を靴底に伝えた。それを見るとあとの二人も、歩きながら少しずつ砂浜に寄って行き、その内三人は完全に砂浜を歩いていた。
 石畳に比べ随分と歩き難かった。だが初めて踏み締める砂のサラサラとした感触が、子供の好奇心には酷く心地良かった。また所々に海水浴をする人、スイカを売る商人などが居り、それぞれ穏やかで楽し気な様子に見えた。少年達も次第に、綺麗な貝殻や丸く洗われた石を拾い、足跡にできる自分の軌跡を眺め、明るい海岸を楽しみ始めた。
 更に砂浜の奥、波打ち際には小さな蟹が蠢いていた。ミル貝が時々穴から顔を出していた。そんな水辺の面白さに引き寄せられ、少年達もまた波打ち際へ歩み寄って行く。遂に誰かの足先がその水に触れた。勇気ある誰かの足首が海水に浸った。しばしば上がる飛沫が体中に触れた。
 シンは歓喜を表さずにいられなかった。
「すごいね!、地中海ってこんなに大きいんだ!、大きくて綺麗なんだ!」
 するとトウマは、自身の持つ知識を確認するように言った。
「本当だな…。俺も話には聞いていたが、エメラルド色の海なんて信じられない」
 セイジもまた、身の回りではあまり見ない色を不思議がっている。
「何故こんな色なんだ?。ただの水じゃないのか?」
「不思議だよな、北海だってセーヌ川だって青いのに」
 そう、実は港の波止場付近は普通の海に見えたのだ。そこから暫く歩いただけで、色が変わるのだから尚更謎めいてた。水の色が緑掛かって見えるのは、海底にある砂や珊瑚、プランクトンなどが光の屈折を変えるからだが、この時代にそれを知る者は居ない。地中海はただただ神秘的で美しい海、と言うより他にないところだった。
 それについてシンは、
「場所によって水の色は変わるんだね」
 素直にそう受け取ると、引いては寄せる波を追い掛けるように、水際で遊び始めた。その時ふと靴底に触れた固い物を、しゃがんで注意深く掘り出して見ると、それはまた青く透き通った何かの破片だった。
「綺麗なガラス!、何処から流れて来たんだろう?」
 恐らくぶどう酒や、何らかの酒類が入っていた瓶だろう。まだガラスが貴重だった時代、角がすっかり丸く削られたそれは、宝石のように煌めいて見えた。シンは貝殻と共にそれをポケットに突っ込み、海の大事なお土産とした。
「…しょっぱいな」
 海の水を舐めてみたセイジは、見た目の美しさに反するその塩辛さに、些か顔を顰めていた。海水が塩辛いことは知ってはいたが、こんな中で生きている生物がいるとは、まだ信じられない様子だ。けれどトウマが、
「人間だってしょっぱいよ、汗とか涙とか。塩味がするのは自然なことだ」
 と話すと、それなりに合点が行ったように頷いた。人間は陸の上で生活しているが、本来は魚のように、塩水に浸かっている方が自然なのかも知れない。だから人間は海に憧れるのかも知れない、とセイジは思った。まだ進化論が知られていなかった時代、人と魚を同一線上で考えることはなかったが、それでも海は生物の故郷と言う感覚は、誰にも解るものだったようだ。
 その海を渡る。これから海の向こうの見知らぬ国へと渡る。
「明日が楽しみだね!、この綺麗な海を船から見れるんだ。東ローマにもきっと、びっくりするような景色があるに違いないよ!」
 シンがそう声を張って話した矢先、あまりに集団から離れ過ぎていた三人を、ひとりの女性が諌めにやって来た。彼等はまた怒られてしまった。
 だがもう、咎められようとどうでもいい気持だった。それほど少年達の、海の感動は強く心を占めるものとなった。これから一時、食事の為にここを離れるが、これからの数日か、十数日かの間ずっと、海と共に居られる喜びが何より勝っていた。
 青い海、エメラルドの海、海の先に目指す栄光。それらは三人の少年の、未だ未分化な魂を揺り起こした。人には触れられない青の聖域、そこに何らかの輝かしい未来を想像し、笑い合っていた。広く豊かな海の道にはきっと宝物がある。我々の十字軍にも必ず恵みがあるだろう、と…。

 再び舗道に戻った後の景色に、大型の貨物船が横切って行った。これからジェノヴァ港に入ろうとしているのだろう。川で見られる程度の船しか知らないセイジは、
「あんな大きい船があるのか…」
 と、そのスケールの大きさに感嘆する。だが、
「ローマから出る船はもっと大きいかも知れない。まあ俺も初めて乗るんだが」
 世界は更に広く大きいとトウマは言った。その巨大な夢に思いを馳せながら、少年達はジェノヴァ名物の、ヒヨコ豆の粉で焼いたパンを食べ、陽が傾き始める頃に港へと向かった。
 その頃波止場は、船に乗る人々でごった返していることだろう。



つづく





コメント)漸く書き始めた「原作基準シリーズ」の続きですが、見た夢の話なのでパラレルみたいですね。そしてこれは当麻の夢なのに、最初の登場人物が征士と伸だったりして、普通の夢じゃない感じにしてます。
いや、取り敢えずこのサイトは征伸メインだから、そういう形にしたってこともあるけど(笑)。実際は当麻の主観で見ていると思って下さいっ。
尚、言葉遣いがいつもの五人と少し違うのは、年令が低いことを考えて、ですが、時代的な背景も一応考慮に入れてます。しかし約千年前の世界で、どんな言葉遣いをしていたかまでは、ちょっと想像できないですね(^ ^;。



GO TO 「青いサンクチュアリ 2」
BACK TO 先頭