シンの提案
PLEASURE TREASURE
#2
プレジャー・トレジャー



 そこは、ドームシティの建造物の中では特に豪勢で、クラシックな外観と内装が美しいホテルだった。戦前のヨーロッパのホテルを参考にした、アールデコ調の装飾が美しい柱や壁面を、午後の日射しがくっきりとした陰影で彩っている。シンメトリックに配置された窓の、鮮やかなコーラルピンクの廂が周囲を囲む植物の色に映えている。例え過去の歴史から分断された現代であっても、一世を風靡した伝統的な様式美は発掘され、再現され、受け継がれて行く例を代表する場所だった。
 そんな優れた美的感覚で構成された、酷く贅沢な空間と思われるホテルの敷地に足を踏み入れると、一般に解放されている緑地帯の奥に、宿泊客専用の中庭を見ることができた。熱帯を代表する椰子の林の向こうには、人工的に作られた水路の、流れる水の煌めきが目に一際涼しく映った。
「良い所だな」
 と、セイジはサングラス越しに一望した様子を、一言だけ語った。会議の後、保安局で出された昼食を摂って、その本部から三十分程の道程を車と徒歩でやって来たが、彼はこのドームの暑さと湿度に、既に音を上げたい心境に至っていた。実は未だ到着した時の服装のままだった。コートは流石に脱いでいたが、他は着替える暇がなかったのだ。
 そんな彼に、青々とした植物と水の流れは、漸く辿り着いた楽園をイメージさせるものだった。実際このホテルの庭は、沙漠のオアシスをイメージして設計されていた。
「ここは唯一の外交向け施設だからな。何を取っても最高級だよ」
 セイジの一言に対して、リョウはこのホテルの特異性を簡潔に説明した。リョウ自身も仕事でなければ泊まる機会はない、来訪する国賓の他は政治的権力者と、一部の富豪のみが利用する場所、との意味が言葉にせずとも伝わっていた。
 しかしそれならば、セイジに対する待遇は些か厚過ぎる気もする。単なる国際警察的業務を担っているだけの、年も若い一般職員に国賓クラスの接待が必要とも思えない。なのでリョウが、
「保安局も奮発してくれたな。もしかして、あんた実はすごい重要人物だったりして?」
 と興味深そうに勘繰りを入れる。
「まさか。同じ位の年だろう?」
「俺は二十六」
「私は二十七だ。仕事を始められる年令から言って、十年以下のキャリアでそう偉くなれる職種ではないな」
「ハハ!、そりゃそうだ」
 少しばかりの会話で、妙な勘違いには至らないで済んだけれど、与えられた好待遇が何の為かは、ふたりにはまだ判らなかった。
「きれいな庭だなぁ?、シン。ここで遊んでられないのは残念だが」
 リョウの手に掴まって歩いていたシンは、手入れの行き届いたホテルの庭の様子を、注意深く確かめる様に眺め見ていた。庭の何かに関心を持っているようだった。
「うん…」
 けれどその返事は、リョウが気に掛ける通り淋し気な様子だった。シンは動植物が好きな子供だとリョウは知っていたので、これが仕事でなければ、彼の興味の向く事に付き合ってあげられるのに、と考える。せめて今できる精一杯の配慮として、リョウはこう話し掛けたけれど。
「さっき綺麗な孔雀が歩いてたな、上の方には色んなインコがいる。木が多いから鳥が集まるんだ。後でもう少し見て行こうな?」
「うん、リョウ」
「・・・・・・・・」
 リョウの子供への態度は全く間違っていない。彼は自然に良い接し方ができる人物、なのだが、そんな彼にも気付けない事があるものだと、セイジは感じながら黙っていた。
 それは意地悪ではなく、ふたりの仲の良い様子を思っての親切心だった。人間の信頼関係とは、全てを完全に理解し合う意味ではなく、本人が満足かどうかだけで量られるものだから、余計な事は言うまいとセイジは考えていた。仮にも世の平和を維持する為に働く身なので。
 そうこうしながら、三人は金に縁取られた回転扉を潜って、アイボリーの石タイルが敷き詰められた、雰囲気の良いエントランスに入っていた。その時応接席には数人の客が居り、寛ぎながら談笑する声をそこに谺させていた。高級感のある椅子や絨毯、高い吹き抜けのシャンデリア、発掘されたらしき見事な調度品に囲まれた人々は、実際そうでなくとも、誰もが高級なお客様に見えるものだ。
 そんな空間の中でも一際目を引いた、石材から削り出された乳白色の重厚なカウンター机。そこには長い黒髪を後ろに束ねた、従業員の女性が居てこちらを窺っていた。
「いらっしゃいませ」
 そして近付いて来る彼等に声を掛けた後、彼女はその身なりの特徴を見て、三人がカウンターに到着するより前に、席から立ち上がって話した。
「お待ちしておりました、保安局のサナダ様とダテ様ですね。本部からの御予約を承っております。私がお部屋まで御案内致しますので」
「ああ、ありがとう」
 リョウが答えると、彼女は部屋の鍵とファイルをひとつ手に持って、無駄の無い動作でカウンターの外に出る。凛とした微笑みが印象的な、小柄で可愛らしい女性だったが、そのきびきびとした仕事の様子からは、エントランスの責任者だろうと解釈できた。ふたりの捜査官とは変わらない年令の割に、出世の早い実力者だった。
 だが、感じの良い挨拶で迎えてくれた後、
「こちらのお子様は…?」
 明らかに保安局とは縁の無さそうな、連絡されていない子供の存在に気付いて立ち止まり、彼女はやや戸惑うようにそう言った。このホテルは公営宿舎ではない、宿泊人数がひとり多いとなれば、当然その代金を請求しなければならない。
「あっ、この子はこれから保護施設の方に預けに行くので、お構いなく」
「そうですか。では参りましょう」
 一瞬狼狽えたばかりに、信用商売に余計な誤解をさせるところだったと、リョウは思わずほっと息を吐いていたが、実際はそう大した事でもなかった。宿泊しない同伴者を連れている者は、高級ホテルではよく見られるからだ。むしろフロントの女性は相手の心象を悪くしないように、笑顔で事務的に切り上げる様が見事だった。すぐに歩き出す動作に変わると、エントランスを横切るボーイを呼び止め、
「シュウ、先着の荷物はどうしましたか?」
 と密かな声で尋ねる。ボーイは女性の後ろに立つ者達を確認して答える。
「ああ!、もう部屋に運んであります」
「はい。では皆様こちらです」
 その後は、荷物を運んでくれたボーイをもう一度見ようとしても、来客にきっちり頭を下げていて、僅かな表情さえ見られなかった。ただ先導されるまま、自らは何もせず、予約されている部屋へ足を運ぶだけとなった。
 気持良く速やかな対応、手間を掛けさせない為の気配り、規律ある従業員の卒の無い様子、何を取っても一流だと感じざるを得ない、高級な空間での人の動きを三人は感じている。贅沢な場所で思い思いに寛ぐ者達と、それを最上のサービスで支えている人々、どちらにもそれなりの流儀がある場所だと、彼等は初めて知ったようなものだった。ある意味では、頭を下げてくれる従業員よりも場違いである、自分達は恥ずかしい存在の様に感じられていた。

「いい部屋だな〜。南向きなら最高だったが」
 案内された部屋に着き、フロントの女性から簡単な説明を受けた後、リョウは大通りに面した窓辺に立って言った。ふたり部屋としては広々とした室内に、エントランスのソファに似たヨーロピアン調の家具が、重厚で落ち着いた雰囲気を醸し出していた。ホテルも高級なら、この部屋はその中でも上質なクラスだと予想できた。やはりこの待遇には訳がありそうだ、とリョウは賑わう窓の下を見ながら考えていた。
 北東に向いた部屋は、午後三時になろうとするこの時間には、もう直接日光が差し込むことはない。セイジは安心してサングラスを外すと、早速入口の近くに置かれている、コンテナのような大荷物を改めに行った。外部から応援に来た立場としては、まず仕事を疎かにはできなかった。
「この荷物の中身は?」
「ああ、聞いてる。予備の拳銃とライフル、特殊砲弾、予備弾、予備の道具と、それから…防弾チョッキとガスマスクだな」
 セイジの声を聞くと、リョウもすぐ窓辺を離れて、伝えられた内容を思い返しながら歩いて来た。本部で受取った鍵で、掛けられている錠とベルトを全て外すと、リョウが話した通りの禍々しい物品が、仕切りで分類されて詰め込まれていた。セイジとリョウはそれをひとつひとつ取り出すと、その数を確認しながら床の上に並べ始める。
 大口径の拳銃と汎用銃、ピストル弾が一グロス、ボール型のガス弾ひと組、ライフル用のマグナム弾三ダース、自作弾用の火薬とケースが少々、組み立て式の狙撃用ライフル部品と三脚、簡易照明、コンパス、ロープ等の野外活動用品、小型の工具一式、カメラと現像用品、救急用品、証拠品等を収納する袋や箱、そして防弾チョッキ、ガスマスク、手袋等が次々と並べられた。
 部屋の床にすっかり広げられた物品を眺め、
「これで全部か、弾薬の数はこれだけあれば問題ないだろう」
 とセイジが言うと、リョウも安心したようにそれに頷いた。
「と思う。あんたはライフルは使えるのか?」
「ああ、固定されている状態なら。…できればガス弾は使いたくないな」
「ん?、何でだ?」
 ところがこんな際には有効な筈の道具を、セイジは使いたくないと言う。現代に残るガス弾は、その性質も過去のものと変わりなく、相手を傷付けずに抵抗を止めさせるものである。戦争に行くのではなく、事件の犯人を捕らえるのが目的で、彼等の仕事には最も有用だと思われるのだが。
「この暑い中ガスマスクを着けるかと思うと。防弾チョッキは仕方がないが」
「ハハ、今頃はこれでもそこそこの陽気だぜ?、もっと暑い時期がこれから来るからな」
「一歩手前で良かった」
 聞いてみればそんな理由だった。セイジは荷物の確認を終えたら、空港で求めた現地用の衣服に着替えるつもりだったが、今を以って入国した時の服装だったので、これで最後の戯言、と言うつもりの冗談だったようだ。幾ら暑いと言っても、赤道直下の沙漠地帯の比ではない。ただ現状に小言を言っただけだった。
 この程度の環境変化で有効な手段を捨てるようでは、そもそも特殊捜査官は務まらない。文句を言いながらも、セイジの作業の手が着々と、道具を使える状態にして行く様をリョウは見ていた。これまで世界を渡り歩く仕事に、特別な憧れは持たなかったリョウだが、何処にも存在できる人間の逞しさに触れると、酷く心を惹かれる思いだった。自分も目指そうと思えばそうなれるだろうか?、と考え始めていた。
 その時、
「あ、触っちゃ駄目だぞ?」
「触ってないよ」
 ふたりからは最も遠くの端に並んでいた、火薬とケースの部品である薬莢、雷管等が入った袋をシンがしげしげと眺めていた。彼にしてみれば物珍しいだけの、玩具と変わらない対象物だっただろうが、その様子を見てセイジは、
「…良くないな。話を進める前に施設に連れて行ったが良い」
 と、良心的な意見として話した。
「あ、ごめんなさい。僕邪魔しないから」
「いやそうではなく」
 シンには大人の考えることが通じないのか、それとも解っていてはぐらかしたのか。ともかく、あまり子供に見てほしくはない道具から、シンを遠ざけたいとのセイジの意向は、リョウには確と伝達されたようだった。
「だな。じゃあ、俺今から行って来るわ。…シン、行こう」
 もう大方の荷物は確認が済んだので、彼は躊躇いなくその場を立ち上がると、シンに手招きをしながらドアの方へ向かう。
「頼む」
 セイジが一言そう言って、部屋からリョウの姿が見えなくなってしまうと、流石に意地を張ってそこに残る訳にも行かず、シンは名残惜しそうに歩き出した。大人達の善意に逆らおうとは思っていない、そんな意思表示には見えたけれど。
「・・・・・・・・」
 セイジは目の前を過ぎて行くシンの態度が、何となく心配に思えていた。この位の子供にしては、妙に聞き分けが良過ぎる気がして。今問題を起こす、起こさないと言うより、子供が子供らしい生活をしていないのは、大きな問題だと考えるからだった。
 殊に異常犯罪者と呼ばれる類の者は、そんな過去を持つ者が多いと知るからこそ、だ。

「悪いな、事件が片付いたらすぐ迎えに行くから、ちょっと辛抱してくれよな?」
 リョウとシンのふたりは部屋の外に出ると、エレベーターホールに出る長い廊下を歩き始めた。リョウの方は施設までの十分程の道程を、専ら御機嫌取りの会話で続けるつもりだ。
「うん…」
「アハハ、折角お城みたいな部屋に入れたのに、追い出されてがっかりしたか?」
 まあ、それも多少はあっただろう。ドームの一般市民であるリョウもシンも、この豪勢な建物は外から眺めるばかりで、中に入ったのはこれが初めてだった。貴重な体験をもっと味わいたいと思う気持は、大人、子供の区別なく沸いて来るものだろう。
 ただ、シンがより未練を持っているのは、建物ではなく彼等と別れることの方。無論リョウにも解っていたが、それについては何も解決策は無いので、冗談にも出さなかっただけだ。シンの未練を増幅させる話はやめようと、彼なりの配慮だった。
 そんなやんわりとした調子でシンに付き合いながら、ホールの電光表示が見える場所まで来ると、今エレベーターは一階に停まっているのが判り、ここに来るまで暫し待たされそうな様子だった。エレベーターホールに立ち止まって、さて後は何を話すか、とリョウが思案をし始めた時だった。
「ねぇ、リョウ、僕何か手伝うことない?」
 それまで自発的な話をしなかったシンが、初めてそんな事を言った。
「うーん、それは駄目だ。俺達の仕事は危険だから、普通の人は大人でも手伝いはできないんだ」
 無論、そんな申し出を受け入れる筈はなかった。ただシンはずっとそう言いたかったのに、言えないでいたことだけは理解できた。普段は引っ込み思案でもない彼が、何故言い出せなかったかも幾らか想像できた。保安局に居る間は、流石に我侭できる場所じゃないと覚っただろうし、仕事熱心なセイジは聞く耳を持たない印象だからだ。恐らくそんな理由だろうとリョウは思った。
 だがそれだけに今度はシンも、簡単に引き下がろうとはしなかった。
「仕事じゃなくて、ここに居る時の、普通のことでいいんだよ?」
「それでも駄目だ」
「新聞持って来るとか、洗濯とか、別に危険じゃないよ」
「俺達がここに居るってだけで、このホテルに犯人が飛び込んで来るかも知れないだろ?。ここに居ること自体危ないんだ、わかるだろ?」
 リョウはどうしても納得してもらいたいのだが、その意味では不味い表現をしてしまったようだ。次のシンの言葉には答えが詰まってしまった。
「じゃあここで働いてる人とか、他のお客さんはどうなるの?」
「え、えー、それは、うーん…」
 するとその時エレベーターホールに、見覚えのあるボーイが姿を現した。彼等を見つけると、その人懐こそうな顔を更に笑顔にして、
「もうお帰りかい?」
 と、シンに向けて上体を下げながら言った。先程エントランスで会ったボーイだが、見た目通り子供の扱いが上手そうな青年だった。そんな彼に対してシンは、素直に本心を明かすように首を振る。
「ううん」
「え、おいおい…」
 リョウが苦笑いするのも仕方ない。これまで「帰らない」との明らかな意思表示は、全くしていなかったのだから。
 また俄に戸惑い出すリョウに対して、シュウと呼ばれたボーイは、ふたりの遣り取りを興味津々に窺っていた。当然のことだが、一般職の就労者から見た捜査官とは、魅惑のヴェールに包まれた業種のひとつだ。保安局に秘密保守の義務がある以上、一般に開示できない情報は多々存在する。なので彼等が普段どんな行動をしているかと、シュウは強い関心を以って観察していた。
 同時に、ここに捜査官が到着した時、まず感じた疑問についてこれ幸いと尋ねていた。
「なぁ、お客さん保安局の人なんだろ?、何でこんな小さい子を連れてるんだ?」
 あまり幾度もそれを指摘されると、やはり誰が見ても妙に感じるらしいと、リョウは多少バツの悪そうな態度になって返す。
「あー、ちょっとした事情があってな。取り敢えずここまで連れて来たが、これから児童保護施設に預けに行くところなんだ」
「ああ、児童施設か、大通りの向こうにあるとこだろ?」
「そう、元々そこに居た子だから」
 すると、そこまでのふたりの会話を聞いていたシンが、
「お兄さん、メルクリオ児童園知ってるの?」
 と口を挟んだ。何故だか嬉しそうに目を輝かせて。
「そりゃ知ってるぜ?。俺ン家からここに通って来る時、いつも横通って来るんだ」
 そしてシュウが明るい口調で答えると、シンはその説明にとても満足そうに笑った。これまでの動向からして、リョウには理解できない態度だった。更にシンは、
「じゃあリョウ、僕このお兄さんに送ってってもらうよ!」
 と続けてリョウを驚かせた。
「えっ?」
「リョウは仕事で忙しそうだからさ、僕に構ってないで、早く仕事に戻った方がいいよ?」
 一体どう言う風の吹き回しだろうか?。つい今しがたまで、シンはここから帰りたくなさそうな態度でいた筈だ。リョウに対して「何かできる事はないか」と迫った程なのに…。
 その時丁度エレベーターが到着して、三人は取り敢えず一緒に乗り込んでいた。扉が閉まり、緩やかに下降を始めた空間の中で、状況を把握できないリョウだけがオロオロと落ち着かない。シンはさらりとした様子でシュウの横に行くと、もう彼の世話になることを決めたように、彼の着ているシャツを握っていた。何が決め手になったのか、否、何がどうして気が変わったのか、とにかくシンはシュウと行くことにしたようだ。そんな場の流れを見て、
「送るって、ただ連れて行きゃいいのか?。だったら俺は別に構わねぇけど?」
 シュウも真摯な様子でリョウに尋ねる。
「あ…、そうか?、いいのかシン?」
「いいよ。施設に帰るだけなのに、リョウがわざわざ来ることないよ」
「はぁ。俺に気を使わなくても…」
 どうにも腑に落ちないのだが、シンがそうしたいと言うなら、リョウはそれに同意するしかなかった。シンについてはこの場合、保安局の仕事として連れ歩いていた訳ではない。だからリョウには事の全てを見届ける義務も、シンの自主的な行動を規制する権利も無かった。
 そして、ここから目と鼻の先に在る施設へ帰らせる、それだけの事がそう難儀である筈もない。誰が付き添っても条件は同じだ。ただ心情的に許せるかどうかの問題で、人に任せても咎められる事では決してなかった。だから同意するしかなかったのだ。
「…まあいいけど」
「ありがとうリョウ。お兄さんもありがとう」
 渋々ながらリョウの許可を得ると、シンはシュウにぺこりと頭を下げて見せた。
「いやぁ?、宿泊客の世話をするのがボーイの仕事だからな!」
 それに対してシュウが気前の良い返事をすると、タイミング良く停止したエレベーターの扉が開いて、彼等の前には再び広い視界が開ける。このふたりの間では、これと言って疑問点が存在しないので、前に広がる空間はただ明るい未来のようだった。
「じゃあ行こうか?」
 シュウは早速シンの手を取って歩き出した。子供の歩幅に合わせて、そう早くないペースでエントランスホールへと向かっていた。遅れそうになりながら、リョウも暫くその後を着いて歩く。漸く胸ポケットの中身を探り当てて言った。
「ああ、じゃあ宜しくお願いします。このカードを職員に渡せば、向こうには話が行ってるんでわかりますから」
 保安局で受取った連絡票をリョウは、シュウの空いている方の手に乗せて一礼した。
「はい、承りました捜査官様。フロントに断ってからすぐ出掛けるんで」
「またね!、リョウ」
 作法通りきちんとしたお辞儀で返すシュウの横で、屈託なく陽気に手を振っていたシン。ふたりが視界から完全に消えてしまうまで、その場に止まったまま眺めていたリョウは、
「…何だかな…」
 と不可解な状態に愚痴るばかりだった。

「それでボーイに頼んだのか」
 リョウが部屋に戻ると、セイジは丁度着替えの最中で、些かギョッとした顔をして彼を迎えた。まさかこんなに早く戻るとは思わなかっただろう。
「ああ、自分から行きたがってたからさ。…何か、何考えてんだろうな…?」
 と、成り行きを説明し終えたリョウの感じからは、決して本意ではない、との彼の意思がセイジには汲み取れていた。
「子供は解らない」
 滅多に着ることのない半袖シャツの、ボタンを留めながらセイジはそう言った。その響きが機械的で冷たい印象を与えたので、思わずリョウは弁解をし始める。シンについて誤解してほしくない、仮にも親権書を所有する彼には、と、恐らくそんな気持だったのだろう。
「いや…、普段はあんま自己主張しない子なんだ。気の優しい…、あ、でも割と気転が利くとこもあるか?。世渡りが上手いって言うか、頭の悪い子じゃないのは確かだよ。妙に大人びたことを言う時もあって、…いや違うかな?、寂しがり屋で我が儘な所もあって…。俺もよく解ってねぇな…」
 しかし考えれば考える程、自分もまたシンをどう捉えているのか、判らなくなって行くことに気付いた。考えてみれば、家族のように身近であったことはない。会いに行けば仲が良く、自分に懐いてくれているのをリョウは知っていたが、毎日顔を合わせていた訳ではないのだ。知らない事があって当然、シンを表す的確な表現ができないのは当然、かも知れない。
 悲しいけれどそれが現実だった。
「うーん…、ここでもっと遊びたかったのかもな、見た目に面白い物も色々あるし、珍しい場所だからな。子供好きされそうなボーイに頼んで、遊んで帰るつもりだったのか?」
 そして、リョウが効果的な話をできないでいると、セイジはもう一言、全く理性的な言葉で返した。
「大人は心配していると言うのに」
「それは、そうだが…」
 言われてみると、リョウは心配する気持を殺してしまった自分にも気付く。シンが自ら言い出したことを尊重して、理解できないままに送り出してしまったけれど、果たしてそれで良かったのかどうか、と、今更だが省みる心境に至っていた。そう、もう少し大人なら本人の意思を尊重すべき時もあろうが、シンはまだ八才なのだ。有無を言わせず、当初の考え通りにするべきだったかも知れない。リョウは今、他人に対する正しさについて考えている。
 相手の為になることを思って、厳しく指導するのも愛情のひとつだが、邪魔をせずに静観するのもまた愛情だ。その区別は時と場合に拠って、適切に見分ける必要があるのだろう。今回は、これで正しかったのだろうか?、それとも間違いだっただろうか?。
 それから、当たり前の言葉をサラリと出したセイジは、何故迷わないのだろうとも思った。
「なあ、話を蒸し返して悪いが、あんたはシンを引き取る気があるのか?。まだ親権書にサインはしてないんだろ?」
「ああ」
 リョウは己を考える内に、逆にセイジがどう考えているかを知りたくなって、まず先に自らの思いを語って聞かせた。
「物凄く個人的な意見だから、聞き流してくれて構わないが、俺は彼の知り合いだから、やっぱり、できる限り幸せになれる環境に行ってほしいと思ってる。本当に子供を愛してくれて、大事にしてくれる人ならいいんだが、そうじゃなかったら辛いな…」
 勿論、それもまた当たり前の感情だった。親交のあった誰かが遠くへ行ってしまう事を、悲しまない人間は居ないだろう。目に見える場所に居るからこそ、その人がいつも幸福であるよう、自ら働き掛けることもできると言うもの。特に施設の子供には頼れる者も少ない。その心細さを思い量るリョウの感覚は、セイジにも容易に理解できた。
「少なくとも大人の責任として、そう言う点をいい加減にするつもりはない。折角貰った権利だからよく考えたいだけだ」
 だからそう返して、リョウ程の強い感情ではないにしろ、保護者としての大人の考えは誰でもあまり変わらない、とセイジは暗に伝えていた。この時代、この世界に於いては、子供は金品などより遥かに大切な宝物である。人の起こす犯罪を暴き阻止すると言う、尊い公職に就いているからこそ、尚更『宝物』と称される理由がセイジには解るところもあった。
 傷付いた子供は傷付けようとする。与えられなかった子供は奪おうとする。守られ過ぎた子供はあらゆる面が脆弱になる。そんな風に、大人から与えられた「動」に対する「反動」が、子供の成長した姿、即ちこの世界の未来と成って行くのだから。
「そうか。同じ捜査官だ、あんたを信用するよ」
 リョウは相手が正しく考えていると知って、それ以上己の不安を吐き出すのを止めた。少なくとも自分より迷いの無い人物の思考に、余計な波風を立たせてはいけないと考えて。すると、そんなリョウの極めて善良な心が伝わったのか、セイジも己の事情を彼に話してくれた。
「ただ最終的にどうするかは、すぐには決められないのだ。私の友人で長く子供を欲しがっている者に、連絡してみるつもりでもいる。彼も同業者だから、こっちに出向いてもらうこともできるしな」
「ああ、そんな宛てがあるのか」
「いや、それも残念ながら確実ではない。向こうが連絡を取れない場所に居たら、それで話は終わりだ。私は仕事を終えた後は、ここに長く留まる訳にも行かないからな」
「だなぁ。親権が受諾されないと外にも出せねぇし、色んな場合が考えられるな…」
 現実にどうなるかは誰にも判らない、望める可能性は色々あるけれど。
 ただ少なくとも今は、自分だけがシンを見ている段階ではないと、リョウは知ることができたので…。
 今朝からこれまでの数時間、珍事に見舞われたお陰で、非常にバタバタと過ごした感がリョウにはあったが、同じ時間を共に過ごしながら、思いの外セイジは冷静に、現実的な考えで事を捉えていると気付いた。その結果として、リョウはシンの行き先についても、共に捜査に向かうセイジについても、今は心地良い安心を得られている。それがどれ程大きな収穫となったかは、今リョウ自身が強く痛感していた。
 己がまずしなければならない事は、任された仕事を確実に、最良の結果で終らせることなのだ。シンへの不安に苛まれ、落ち着かない心境のまま動くのでは、保安局の業務すら危うくさせてしまうところだった。しかし現状の中に決して揺れ動くことのない、信用できる部分が確と固定された今。即ち同業者への信用、彼の仕事と人道的な配慮への信用を、会話の中から確と感じ取れている今が在る。
 ここに至れたのは、正にリョウの身の上の幸運だった。己を取り巻いている者達が、最悪を招くことはないと信じられれば、明日からの捜査にも集中できる筈なのだ。ひとりで考えなくて良い、ひとりで心配しなくて良い、と言う安楽を確かに感じられていた。
 だから自分も誠意を以って、セイジにもシンにも配慮した意見を示そう、とリョウは考える。
「まあ、もしどうしても扱いに困るようなら、俺が引き取るからその時は言ってくれ」
「ああ、ありがとう」
 万が一最終的に、シンが受け皿を得られない事態になった時には、自分が手を差し伸べてやればいいんだ。と、リョウは今日起こった事の整理をして、漸く気を落ち着かせることができた。



 リョウとセイジのふたりはそれから、陽が傾く頃まで部屋に篭って、今回のターゲットについての考察を重ねていた。
 前途の通り、ドーム時代に入ると一般渡航者は激減した為、国家を跨いでの大犯罪は殆ど起こっていない。そんな中では稀に見る今回の事件だった。エルズミーアと言う、世界で最も極に近いドームに住む植物学者が、とある植物を持参して四日前にこのドームに入った。彼は植物の研究の為に各ドームを訪れているが、その際許可なく植物を持ち出しているようだ、と以前から目されている人物だった。
 植物、種子等の持ち込み、持ち出しはドーム内の生態系を崩す要因となる為、戦前以上に厳しく取り締まられている現代。その様な疑いを掛けられている人物には、常に捜査官が目を光らせている。そして植物学者の男は二日前、ここで最大の犯罪組織と接触したことが判った。リョウは尾行をした捜査官から、その時の状況を詳しく聞いていた。
 その日の正午頃、学者は持ち込んだ植物の鉢を下げて、このホテルの近く、大通りの並びにある飲食店にひとりで入った。そこに後からやって来た組織の男が、彼に一言二言話し掛けて通り過ぎ、出て行ってしまった後三十分程経ってから、植物学者もまた店を出て行った。向かった先は犯罪組織のアジトのひとつらしい、ドラッグストアの地下にある事務所だった。但しそれ以降、学者が出入りする姿は確認されていないと言う。
 何故植物の研究者が、このドームの犯罪組織と関わることになったのか。直接の切っ掛けはまだ掴めていないが、犯罪組織側の目的ははっきりしている。この学者の男は、所謂麻薬の原料となる芥子の株を持っているのだ。生態系に関わる問題はない植物だが、当然これに関しては監視の目が厳しい。研究用に認可を受けられる極一部の者しか、手許に置くことは許されない。
 しかし、それならこのドームに持ち込むのも不可能な筈だ。空港での検査に出された荷物には、この地域では珍しい種のシンビジュウムの鉢があった。多湿に強くない種で、ここで根を張ることはできない為、申請すれば持ち込みは認められるものだが、学者は面会する相手へのお土産に持参した、と許可申請書に理由を記入していた。検査結果も特に不審な点は無かったと言う。
 ただ、それなら何故それを持参した先から、彼は帰って来ないのだろうか?。学者が宿泊していたホテルは、明日まで部屋の予約が取ってあった。帰りの航空機も明日の午後出発になっていたのだ。恐らく何らかのトラブルがあって、学者は戻れなくなったと考えられる。或いはカムフラージュかも知れないが、保安局にマークされた人物の行動としては、大胆過ぎる証拠のように思われた。
 つまり最も強い線としては、犯罪組織と取引をする為にここに来て、それが上手く行かなかった、或いは相手に騙された為に、予定通り帰れなくなったと言うところだろう。リョウとセイジに与えられた目的は、犯罪組織のアジトに潜入して、その取引に関わった者を捕らえること、取引の対象となった現物を押さえること、その二点だった。
 言葉にしてしまえば簡単な作業のようだが、相手は相当数の集団であり、武器の扱いに慣れているので危険極まりない。またそのアジトと言うのが、繁華街の中の建て込んだ一帯にあり、出入り口が狭い為多人数での侵入は難しかった。更に、派手な行動を起こすと相手がヤケを起こして、周辺地域を巻き込む惨事に発展し兼ねない。拠って最少人数でひっそりと行動、との捜査方針になった訳だ。
 そしてふたりは今、その為の行動計画を確認し終えたところだった。
「…誰か居るようだ、人影が見える。繁華街が手前にあるのが厄介だな、夜は光って見え難いかも知れない。狙撃するなら早朝か夕方だ」
 部屋のベランダには、三脚に固定された銀色のライフルが今は置かれている。セイジはそのスコープを覗きながら、細かく照準を合わせる微調整をしていた。これを撃ち込むことがあるかは判らないが、アジトの様子を確認するのに好都合な武器だった。ライフルのスコープは非常に高性能だからだ。
「距離は問題ないか?」
「射程一キロのライフルだ、弾を多少弄れば全く問題なかろう。間に障害物も無い」
 問い掛けにセイジがそう答えると、リョウはそこからふと思い出して言った。
「なーるほど、その為に選ばれた部屋なんだな、ここは」
 そう、ホテルの高級さの問題ではなく、対象の建物を窺うのに、ここは最も良い場所だったに過ぎない。保安局の事情を受けたホテル側は、ふたりがここに居る間は、周囲五区画の部屋を全て開けていた。つまり全部で六区画分の代金に見合うだけの結果を、彼等は挙げなければならないところだ。
「…よし、じゃあ侵入口の確認からだな。明朝三時、人出の少ない内に行こう。拳銃と、最低限の装備でいいよな?」
 そして、リョウはひとつ気合いを入れるように予定を復唱し、装備についての相談を持ちかける。と、
「その頃はもう明るいか?」
 セイジはスコープから顔を離して言った。それまで熱心にレンズの向こうを覗いていたのに、突然どうしのかとリョウは思う。
「いや、本格的に明るくなるのはせいぜい五時頃だが、まずいのか?」
「それなら良い。日中のような日射しがあると見え難いのだ、サングラスをしないと」
 そう言われて、リョウは思わずセイジの瞳を見詰めてしまった。
 今朝会った時にも驚いたものだが、淡い色の水晶のように透き通った瞳は、本人が訴える通り、確かに光と言う光が通過してしまいそうに感じた。単純な見た目で言えば、宝石の美しさにも例えられそうな体の器官が、機能的には困った問題を抱えていると、初めて知ったリョウだった。
「そうか、そんなに心配はないと思うが…。しかし不思議だなぁ?、こんな暗くなってからの方が見易いのか?。俺には一キロ先の建物に誰かが居るなんて、まるで判らないが…」
「ハハ、元々視力は良い。強い光に対してだけ、私のような薄い色の目は辛いのだ。眩しくて目が開けられないし、ハレーションを起こしたように視界が飛んで、物の見分けが付き難くなってしまう」
「そりゃある意味危険だな」
「だから最低限の装備にもサングラスは必需品だ」
 そしてセイジが、外に出るとすぐにサングラスを掛ける理由にも、酷く納得してしまった。セイジのような強い光を受けない地域の人間は、そこに居る分には、光に抵抗する要素など必要ないのだと。また人間はそうしたことで、色の違う者が生まれて来るのではないかと思った。リョウは長く不思議に思っていた謎が、解け掛かっているような清々しさをも覚える。
 何故色の違う人間が居るのか?。何故みんな同じではいけないのか?。
 色とは何なのだろうか?。
 深く考える者は意外と少ない世界の謎。
「うん、さて、明日の計画はこれでいいな。そろそろ五時になるか、明日は早いから飯でも食いに行くか…」
 すっかり準備が整い、心理的にも一段落したところで、リョウがそう言いながら椅子から立ち上がった時、予想しない慌ただしさで誰かが、立て続けにドアをノックする音がした。
「誰だ?」
 リョウがやや強い調子で答え、そのまま部屋の玄関口へと向かうと、
「フロントの者です!、至急の事で…」
 最初にこの部屋へと案内してくれた、小柄で聡明な印象のする従業員の声だった。しかし今は目一杯急いている様子だ。それ相当の重要事を伝えに来たのだろう。手早くチェーンを外してドアを開けた後、リョウは悪い予感のままに、『まさか』と言う事態を耳にすることとなった。
「どうしたんだ!?」
「あの、申し訳ございません!。当ホテルのボーイがお預かりしたお子様が、行方不明になってしまって」
「ええぇっ!」
 正にとんでもない事態だった。



つづく





コメント)そして結局伸はあまり出て来ない上、バトルも何もないまま2話が終るのでした…。本当に済みませんっ。この話のネタは3〜4年前に考えたものですが、当初からそれ程長い話じゃない、と予想していたのです。ところが書き出してみたら、説明しなければならない背景が多く、またパラレルらしい人物描写がかなり必要な作品で、予想より大幅に長くなったと言う訳です(- -)。もう2話目ではとっくに伸が躍動してる筈だったんですけどねぇ…。
そんな訳で、リクエスト主である弘野広樹さん、もう少し辛抱して読んで下さいませっ(^ ^;。あ、でも、遼を主体として書いた小説は初めてなので、そこは新鮮で楽しめてますぞ!。それでは次回upまで…。




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