ふざける秀と羽柴
Passenger 続編
The Morning After
#1
モーニング・アフター



「火事だーーー!」
 午前中の明るい町の一角で、通りを歩いていた付近住人が突然声を上げた。
「消防車を呼んで!、早く!」
「えっ、ちょっと、もうあんなに燃えてるわよ!?」
 一声に気付き、建物の窓や出入口から顔を出す人々が、堰を切ったように騒ぎ始めていた。
 見ればもうボヤの状態ではない。レンガ風のマンションの壁面を舐めるように、明々とした炎が上がっている。昼時にはまだもう暫く時間がある。暖房機具を常時使うような季節でもない十月。一見では不審火、と思える火事は増々勢いを増して行った。
「マンションの人は避難したのか…!?」



 現在警察庁の本部に通う羽柴警部は、夕方自宅に戻るなり唖然としてた。
「あっ、警部!、お待ちしていました」
 現場の調査をしていた都内大田署の巡査が、彼の姿を見付けるなり駆け寄って来た。
「どうしたんだ…」
「本日の午前十一時十分頃、同マンションの七〇三号室から火が出た模様です。出火から一時間程経って漸く消し止めましたが、残念ながら警部の部屋が…」
 何と運の悪いこと、火元は羽柴の住む部屋の真下だと言う。
 結果、八〇二号室、八〇三号室、火元の七〇三号室が全焼、七〇二号室が半焼、八〇一号室も一部焼けると言う事態になった。昼間の火事にしてはかなりの被害状況だった。
「火災による死傷者はありません。火元が八階建ての七階だった為、階下の住人は煙などを吸うこともなく、無事に避難できた模様です。出火当時七階以上には誰も居ませんでした」
「ああ…そう…」
 決まり切った印象の状況報告は最早、羽柴の関心を惹くものではなかった。そんなことより、これまで生きて来た中で初めての経験、己の持ち物がすっかり、跡形も無く燃えてしまう現実に驚いている。勿論彼の部屋には仕事に関する、大事な所持品も多くあっただろう。整頓することには無頓着でも、実用主義の彼に無駄な物は殆ど無かった筈だ。
 一体明日から何をどうすれば良いのか、などと漠然と考えた。
「心中お察しします。こんな不運があるものですかね…」
 羽柴の気の抜けた様子を見て、生真面目そうな巡査もそんな言葉を掛けていた。
 蒲田の商業地に建つこの高級マンションは、ほぼ全ての部屋が賃貸物件だった。全部で二十四戸の部屋の内、管理者の親類が住む八〇一号室だけは分譲されていた。その部屋は一部燃えただけとは言え、分譲と言う条件を考えると最大の被害者かも知れない。羽柴については警察庁名義の社宅として、たまたま一室を借りて住んでいたに過ぎない。
 だからと言って、所持品全てが燃えてしまうのは大変なことだ。これからあらゆる証明書、通帳等の再発行手続きをしたり、保険会社にも連絡を取らねばならない。今はそこまで慌ただしい事件を抱えていない羽柴だが、仕事以外で面倒が降り掛かって来た事実は、正しく溜息ものだった。さて、何から手を付ければ良いのやら…。
「取り敢えず…」
 そうして羽柴が出した答は、
「出火の原因を聞こうか」
 と、どうもまだ自身の生活面には、頭が回っていない様子だった。
 そもそもこれだけ被害が広まったのは、火災に気付くのが遅かったせいだ。偶然犬の散歩に通り掛かった老人が、気付いた時にはもう火事の様相がはっきり判る状態だった。火災報知器も万全ではなかったらしく、火元と思われる部屋で反応せず、その上の羽柴の部屋のものが最初に鳴ったそうだ。 そのタイムラグの間に、どれだけ火災が進行したか知れない。
 又マンション周辺の町は、全体がやや見通しの悪い景観となっている。軽工業の工場や社屋が目立つ、都会にしては飾り気のない一帯で、私道以外の三方をビルで囲まれている。付近を通り掛かる者には、マンションは見え難い立地に在った。
 しかしそれ以上に同マンションの住人、乃至近所の住人が気付かなかったのは問題だ。否、それを期待しても無理のある地域だった。日曜日であったこの日、町は所謂ゴーストタウンと化していた。道行く人の数は平日からは激減している。その上マンションの住人の半数が、週末には郊外の持ち家に帰ってしまうと言う、正に仕事をする為の場、だからだった。
 まあ、羽柴にはその環境は気にならなかった。主立った警察機関への交通が便利で、夜間静かな環境であれば何処でも良かった。だからそれなりに気に入って住んでいたけれど。
「原因はまだよく判っていません。七〇三号室の住人は、昨日から川越の自宅に戻っていて不在でした。玄関ドアと燃え残った窓には鍵が掛かっていました。又火種らしい物証、燃料を撒いた痕跡もないようです。自然発火するような物品については、今火元住人から聴取の最中です。何かが爆発したようでもなく、そういった音はしなかったと、他の部屋の住人が話す通りの状況だったようです」
 取り敢えず、と言った羽柴だが、巡査のそんな説明を耳にすると忽ち、自身の状況そっちのけで謎を解明したい意識が勝って来る。それを『警察魂』と言うのかどうかは知らないが、彼の仕事に対する情熱は感じられる。
『真下の住人には幾度か会ったことがある、複数の企業を経営する社長だった。年令は六十代、白髪混じりの頭で色黒、見た目は何処にでも居そうな外見だが、服や持ち物は高級品ばかりだった。いつも彼ひとりか、秘書の男と共にマンションを出入りしていた。平時は毎朝ハイヤーが迎えに来ていた。そう、確かに家は川越に在って、江戸時代から続く地元の一族だと言っていた。妻と大学生の娘が二人、米寿を迎えた車椅子の母と、ゴールデンレトリーバーが四匹…』
 羽柴の記憶回路が回り始める。これまでに聞き知った住人の情報を次々と、取り留めなく繰り出して行く経過は、全く普段通りの彼だった。
『…父は大戦中に海上で戦死、兄弟は姉二人と弟一人。母親の苦労を見て育った為、将来は社長になろうと子供心に思っていた。高校を卒業後、最初は自動車部品の製造工場に勤めた…』
 しかしそこへ、この火事を担当する大田署の巡査長がやって来て羽柴に言った。
「やあ羽柴警部、早速原因解明に乗り出しましたか?」
 ふと聞くと嫌味のようにも聞こえる発言だが、今年で四十八にもなる彼は、さり気なく羽柴を気遣っているようだ。
「いや、どうも釈然としない感じなので…」
「全く災難なことです。まあこんな時ですから、大田署の方でひと休みされてはどうですか。代わりの住居も手配してもらわないと」
 茫然としている気持を紛らすように、目先の事件にのめり込むのは良くない、それは尚自身を追い詰めることになるからだ。と、ベテラン巡査長は羽柴に伝えたかったらしい。恐らく彼はそんな状態に陥る警察官を、過去に見て来たに違いない。職業柄嫌な場面に遭うことも多いが、だからこそそんな時の対処を誤ってはいけなかった。
 職務上での判断を誤らぬ為に、自身に矛盾を作ってはいけないと。
「ま、警部の担当する事件に比べたら、ここは退屈過ぎる現場です」
「はは。じゃ、大田署に御厄介になりますか…」
 羽柴にそれが伝わったかどうかは判らない。しかし彼は言われると、割合あっさりこの場から身を引くことにした。恐らく、実際はそこまで関わりたくもなかったのだろう。誰かがそう言って止めてくれれば、素直に引き下がる程度の事だったのだ。
「明日の朝には現場の報告が纏まる予定です。宜しければ警部も御覧になって下さい。それでは」
「ああ、ありがとう」
 きびきびとした巡査長の言葉を耳にすると、些か後ろ髪を引かれる思いで、羽柴はその場を立ち去ることとなった。一仕事終えて帰宅してみたら、とんだ災難に見舞われた日曜日。例え優れたエリート警部の彼でも、経験を積んだ地元の警官に助けられる場面もある、といった大田区の火災現場だった。



 大田署のやや古びた建物を前にし、羽柴はひとつ溜息を吐いた。彼は警察学校を卒業した後、すぐに警察庁本部の捜査員となった為、大田区には二年弱住んでいるが、地元の警察に出向いた記憶は殆どなかった。勿論担当して来た事件に関し、何かしらの調査依頼、情報照合等で連絡をしたことは幾度かあるが、自身の救済の為に訪れるとは想像したこともない。
 同じ警察組織内での出来事とは言え、初めて尽しの状況に置かれた彼は、何処か心許ない表情を見せている。気の進まない様子でそこに足を踏み入れた。ところが、
「よーお。元気か?」
 大田署のロビーを入ると、そこには思わぬ顔が待っていた。彼はロビーの、待ち合い用に設えられた簡素なソファに、まるで遠慮もなくどっかと腰掛け凭れていた。
「何でこんな所に居るんだ?」
 実際意外な展開だった。彼は羽柴本人より増して、この大田署とは縁遠い存在だ。神奈川県警の捜査員がここで何をしているのかと、羽柴が感じるのも当然、まだ午後六時になるかならない時間に、如何にも「待ってました」との様子でリラックスしている。だが、決して迷惑ではなかった。ぼんやりとした不安感を抱いている時、よく知った顔を見付けられれば安堵も生まれる。
 すると彼はこう言った。
「家が全焼したって聞いたからよぉ、どうなってんのかと思って。誕生日だってのについてねぇな!」
「…ん?、すっかり忘れてたな…。とんでもないプレゼントを貰ったらしい」
 誕生日、などと言う単語は久しく、羽柴の頭に昇って来るものではなかった。職務中は常に頭脳をフル回転させている羽柴に、事件解決以外の、しかも生活に特に影響しない諸事を注目しろ、と言っても難しいことだった。
 しかしだから、誰かがそれを言って「あげなくては」いけない、と秀警部補は思っていた。家庭のある者なら、仕事から帰れば家族の団欒もあるだろうが、現在のところ羽柴にそういった環境は存在しない。誰かがその代わりになってやらなければ、こんな時だから、と思った。
「お祝いにミサイルでも撃ち込まれたか」
「迷惑な、派手なパーティは俺の好みじゃない」
「主催者が悪乗りするパーティほど、腹が立つってもんだよな。前どっかのタレントの警備に行ったけど、講演会の後が酷かったなぁ?」
「フフ、よくあることさ」
 そうして一頻り冗談めいた会話をすると、秀はソファから立ち上がりながら、漸く会話の軌道修正に入るのだった。
「それで?、何だったんだよ、火事の原因は」
 修正したと言っても、そこまで突っ込んだ議論をするつもりはなかった。あくまで羽柴個人がどんな状況なのか、簡単な話を通して秀は聞こうとしているだけだ。
「不明だそうだ」
「不明?、ホントかよ?、不審火じゃねぇの?」
 秀が聞いたニュース等の報道、又秀がここに来る前に滞在していた、神奈川県庁舎で耳にした話、それらは今からかなり前の情報だった。何か新しい検証結果が出ているのではないか、と思ったのだが。
「いや、火元が七階だからな。周りは三、四階くらいの工場の屋根ばかりだ、普通に放火とは考えないだろ。日曜とは言え昼間だし」
 出火当時以降、目新しい事実は特に上がっていないようだった。
「フ???ム?、無人の密室から出た謎の火災ってね」
「よく知ってるな」
 そこで羽柴はふと気付く。今自分が話した内容には、火元の部屋が無人だったことも、密室だったらしきことも含まれていない。秀は何処からその情報を聞き付けたのかと。しかしその疑問はすぐに解けた。
「あ?、午後のニュースでとっくに報道されてっぞ?。おまえ知らなかったのか」
 そう、知らなかったのは被害に遭った本人のみのようだ。
「ハッハハハ、おまえらしいや!」
 秀は思い切り笑い飛ばしていた。何しろよくあることだった、羽柴には。
 決して無関心なのではない。彼が警察の職務や事件推理以外の事に、興味を示さないと言う意味ではなかった。ただ彼の中では、物事に対する確固とした優先順位があり、その一番に位置しているのが目下の仕事と言うだけだ。無論それに余裕がある時なら、二番、三番に意識を向ける。そうして自身の仕事と生活を能率良く送ろうと、無意識にも考えている。
 但し、それは一見理想的な形に見えながら、身近に居る者には心配に感じさせる面もあった。
 他愛のない日常的な活動、日々起こる取り留めない出来事とは、何処にでも存在するようで、実は意識して見ようとしなければ無いも同じなのだ。そしてそれを見るにはタイミングも必要、その時に捉えられなかった物事は、忽ち知らない過去の一部へと送られてしまう。親しい誰か、或いは世の大勢の人と共有できる記憶、例え取るに足らない内容だったとしても、全く価値のないものではないだろう。
 常に動いている時間の中で、その時にしか得られない貴重な現実を見逃している。他の事を優先するあまり、自身の普通の人間としての精神活動が停止している。それを心配に思うのはおかしいだろうか?、と、秀はこんな時にこそ思うのだった。
 例え秀でたエリートでも、人間の枠を越えられる訳ではない。誰にでも日常的な話題の中に、笑いや喜びを見出す機会があるものだ。
 だから秀は、羽柴に対しては多少間抜けな自分で居よう、と努めているくらいだった。
「あ!、羽柴警部ですよね、現場から連絡を受けています」
 その時ロビーから奥へと続く、事務エリアに移動しようとしていたふたりを、呼び止める署内の警察官の声がした。ふたりとそう変わらない年頃の彼は、知る人ぞ知る辣腕警部を見て何やら、アイドル歌手にでも会ったかのような明るい顔を向けていた。
「ああ、申し訳ない。連絡待ちに少し寄らせていただきました」
 と羽柴が簡単に返すと、
「警視庁の方には既に連絡済みです、必要な品は今すぐ本部のデスクに送るとのことでした。住居に関しても近日中に手配してくれるそうです。が、それまでどうされますか?。一時本部にお泊まりになりますか?」
 彼は警察庁本部から受けた指示を、特に気にならない態度で説明してくれた。例えアイドル的に見てしまう気持があっても、職務には誠実な警察官のようだ。
 しかしどうしたものか。問い掛けられた「臨時の住処」についての質問に、羽柴は答を決め兼ねていた。と言うのは、この場合本部に寝泊まりするのが筋だろうが、それはあまり気乗りがしなかった。事務机の椅子に座っていても熟睡できる彼だが、眠っている間にも、周囲に職務上の情報が飛び交うような環境では、休むべき時に休めなくなるからだ。
 そう、如何に彼でも四六時中凶悪事件と関わるのは、丁重にお断りしたかった。殺人、強盗、暴力団の抗争など、切れ間なく聞かされては追及意欲も減退してしまう。
「こちらの宿直室でも構いませんが…」
 すると、若手警官の声を遮るように秀が、
「あっそれなら、横浜の俺の実家に連れてこうと思ってんだけど」
 と言い出していた。そして彼がこの大田署に来ていた理由も、それだったのではないかと羽柴は理解する。勿論全く嫌だとも、お節介とも思わなかった。羽柴は『横浜来福軒』では顔馴染みの客であり、秀の家族にも幾度か会っているのだ。
「ああそうだったんですか。警部補のお宅だと、食生活が豊かそうで良いですね」
「曲がりなりにも飯屋だからな」
 尚、秀の家が有名な料理店であることは、かなり多くの警察官が知っているらしい。何故なら忘年会等の年中行事に、幾度も利用されている大型店だ。つまり秀は警察学校に入る以前から、その店の長男として知られていた。又、神奈川からは比較的近い大田区の警察官に、知る者が居ても全く不思議はなかった。例え勤務一、二年の若手であろうとも。
「じゃあ所長から本部に、その旨を伝えてもらうようにします。あ、その前に警部、一応住人調査の対象に入っているもので、ここを出る前に質問書に回答願えますか」
 宿泊場について了解を得た後、一度立ち去ろうとする仕種を見せた警察官は、何より大事な作業を思い出してそう続けた。
「あー、そう言うことになるか…」
 例え信用のある警察関係者でも、事件現場に関わる者なら例外なく調査対象だった。こんな経験も無論初めてのことだ。否、聴取実技の授業で、模擬的に被験者となった記憶はある羽柴だが、今はそれとは随分違う現実を感じていた。
 手順に則った正しいやり方とは言え、面倒で馬鹿馬鹿しいと。
「それ俺が処理しとこうか?」
 するとまた更に秀が申し出たので、大田署の職員は僅かな手間を省けることになった。
「ああ、それじゃあ宜しくお願いします。二課の課長の机に置いておいて下さい」
「了解した!」
 書類を受取りながら力強く答えた秀の声が、何故だか楽し気に弾んでいるので、単純な聴取も遊び感覚なら面白いかも知れない、と羽柴は一応思い直すことにした。

 一度は移動しかけたが、彼等は静かな大田署のロビーへと戻ると、その隅に衝立てで囲われた一角へ移動し、早速住人調査書を片付けることにした。丁度お誂え向きの机と椅子が置いてあり、秀は腰掛けるとすぐにポケットからペンを出して、まず処理責任者の欄に自分の名前を書き入れた。彼の手慣れた様子は見る者の気分を楽にするようだった。
 そして添付された指示書の通りに、秀は速やかに作業を開始する。
「えー、第一、火災発生時の所在!」
 すると紙面に書かれた項目の棒読みが始まった。実際はこんな質問の仕方をしない。恐らく「火災が起きた時にどちらにおられましたか」、と、普通の対象者には話すものだろう。しかし向かいに座る相手は「普通の対象」ではない。秀はふざけてそうしているようだ。
 そして羽柴もそれが解らない訳ではない。秀のぶっ切ら棒な調子を真似るように、
「午前中はずっと港区の、耀者会の関連企業の家宅捜索に行っておりました!」
 と、不必要に語尾を強めて返していた。まあそんな遊びだった。
 因みに羽柴はまだ、今年五月に起こった殺人事件から続く、一企業の過去の犯罪行為を紐解く立場に居た。事件が発覚し、彼が小田原署の捜査本部に到着した時から、もう既に五ヶ月が経過して、世間でそれが取り上げられる機会はめっきり少なくなった。とは言え、今後の捜査が進む中からもっと、世間を騒がす事実が出て来る予感を持っている。羽柴が未だ気を抜けない職務を続けているのは、間違いのないところだ。
 今日は日曜日、と言う感覚の隙を狙い、警視庁の特別チームと共に家宅捜索に出ていた。無論疑っても意味のない事情だった。
「第二、当日の自宅の状態」
「いつも通り、特に変わったことはなかった。部屋には本や紙の資料が沢山あるし、窓のカーテンも化繊で燃え易いかも知れない。だが火の出る暖房機具は使っていない、発火性の危険物も部屋には置いていない。ベランダにも燃え易い物は無い、と言うよりスリッパ以外は何も置いていなかった。煙草は吸わない、仏壇もガス台も無い」
 そこまでを、羽柴は聴取に必要そうな情報を考えながら、非常に丁寧に解説して行った。捜査をする者の苦労を気遣うように、或いは自身の捜査員としての感覚を確かめるように。すると、
「ガス台がねぇってどういう家なんだよ?」
 秀はそんな質問をした。否、そんな家は最近増えている筈だが。
「電気に決まっている。電磁調理機が据付になっているが、朝は使わなかった。電熱ヒーターも今朝は使わなかった。電気給湯器、エアコンも使わなかった。他は電子レンジと冷蔵庫、洗濯機、テレビ、ビデオ、ファクス、パソコン、ルーター、ハードディスク、プリンター、スキャナー、DVDドライブ、スピーカー、ハブ、以上は通電状態だが使わなかった。電気ポットは使った」
 最近になって建てられた高層マンションなら、むしろ電磁調理機付きが常識でもある。その辺りの嘘を確認する作業だったらしい。それも遊びの内だった。
 そして細かな話を聞き進む度に、そこから羽柴の生活状況が見えて来るようだった。例えば彼は毎日洗濯をしたり、朝晩風呂に入るような清潔好きではなさそうだ。又ひどい寒がりや冷え症ではなく、健康状態も概ね良好と見られる。鑑賞の為だけに存在するような物は、恐らく殆ど持っていないのだろう。そんな調子で、調書とは個人のプライバシーを映し出してしまう為、管理は厳重に行われている。
「※2、不審者等の目撃」
「昼間はわからない。朝と夜間については、特に見たことはない」
 わざわざ※を「こめ」と発音しながら、秀は指示書通りの質問を続けた。漸くこれで最後まで辿り着いていた。
「第三!、当日の行動」
 秀の口調から羽柴も、これが最後だと踏んでこう答えた。
「家で食事をしない為、コーヒーだけ飲んで午前八時前に家を出た。以上だ、完璧だろう」
 ところが、終ったと言う開放感と共に、清々しい自信を得て顔を上げた羽柴に対し、
「いんや、俺はおまえが犯人だと睨んでる」
 おふざけの続きのようではあるが、秀はそう言って返すのだ。
「何でだよ」
 不服そうに、首から上だけを詰め寄らせて問い掛ける、羽柴はこれ以上に己を納得させるものがあるか?、との態度で歯向かう意欲に満ちている。こんな様子の彼とは何を議論しても、恐らく相手が負けることになるだろう。秀の表情は変わらず平常時の、裏のない明るさを見せてはいるが、果たして何を理由として挙げるのだろう?。
 と思ったら、
「だっておまえん家ホッコリだらけなんだもんなー。プラグ差しっぱなしは恐えぇなぁ?」
 まあそれも、火災原因には成り得るけれど。
「・・・・・・・・」
「おいおい、まさか、真に受けたか?」
 思いも拠らず黙ってしまった、凡そ羽柴らしくない大人しい様子を目にし、秀はあくまで冗談だと言う態度を貫いていた。無論その他の感情を同時に持ち合わせるなど、器用なことはできない性格の秀だ。彼には微塵の悪気も感じられない。ただ友人として助言したかっただけだ。
 そして羽柴にも、そんなことは出会った当初から解っているけれど、
「可能性は、なくはない」
 見事に消沈してしまった、暗いトーンでボソボソと語られた彼の言葉は、自己への疑惑が確かに生じたと告げるようなものだった。放火でも不注意の出火でもない火災で、不明とされた原因に当て嵌まりそうな、疑わしい事実を持っているのは自分だと言うこと…。
 絶対的に、確信を持って己は容疑者には成り得ないと、確固とした理屈の上で羽柴は考えていたのだ。その時現場には居なかった、火災原因となる行動もしなかった。けれど何もしなかったことが、正に落とし穴となっていた。人間、いつ何時、何に足元を掬われるか判らないものだ。
 そして、変えようのない事実に縛られることは、例え警察官であろうと苦しい。今こうして己が追い込まれている現実に、羽柴はいよいよ苦悩し始める。
 火災の責任を取ることを恐れている訳ではない。偏った判断は必ず見落としが出るという事例を自ら演じ、こんな状態で捜査員を続けて来たこと、そしてこの後も続けられるかどうかについて、些かの恐怖感を覚えていた。日常の中に、全く見えていない部分が存在した不安を知る。
 何もかもが初めての経験。
「ま、万にひとつって類だろ!。そうそう原因になることじゃねぇって」
「・・・・・・・・」
 しかしこうなると、頑に閉じて考える羽柴を、口先だけはどうすることもできなくなっていた。
「あのな?、そんなに考え込むことかっての!。おっし、提出してくっからな」
 秀はポケットから取り出した、インク付きの認印を確と質問書に押すと、妙な状態を振り切るように行ってしまった。羽柴はそれから五分程の間、秀がそこに戻って来るまで、息さえ潜めるようにしてじっと佇んでいた。

 真実を追う者が、真実を判断できていないなら、己が存在している価値はない。と。



「クックック…」
 夜の横浜へと向かう、特別に用意してもらった警察車両。その堅苦しい中に在っても、秀は変わらず軽やかな態度を変えずに居る。そして隠そうともせずに笑っている。珍しい落ち込み様の羽柴を見ながら、彼はどんな心境でいるのだろうか。
「何だよ?」
 と羽柴が、自分の顔を見て笑う彼に言うと、秀はその理由をも明るく話していた。
「おまえって意外と、ちっさいミスに落ち込んだりすんだよな?」
「悪いか!、もし本当に俺が原因だったら信用問題だろ」
 反論した羽柴の言う意味も、勿論判らない訳ではなかった。殊に捜査主任のような、全体の責任を負う立場に置かれることのある彼なら、秀とは違った職業意識を持っていて当然。だからこそ、優れた捜査員と認められて来た事実がある。特別待遇とは引き換えに重荷を頂くようなものだ。敵との戦い以上に、己との戦いを厳しく続けなければならない。
 警察組織は国民の平和と法的規範、そして社会的道徳を守る為に存在している。故に属する者は、そのお手本とならねばならないだろう。しかし人は、全てに於いて完璧にはなれないと知っている。人類史の始まりから続く難しい問題だった。
 だがそれを秀は、
「めちゃくちゃ頭が働くくせに、鼻っから誤魔化そうとしねぇんだもんな。…ま、そういう所好きだぜ」
「!?」
 羽柴に対する理解があるからこそ、そんなことも言えた。
「だから弁護してやろうと思って来たんだよ!。おまえん家ほったらかしなのは知ってるしな、もしそれを誰かに指摘されて、ちょっとでも可能性があると知ったら、おまえは自分を第一容疑者にしちまうだろ?。案の定だったな」
 宿泊所の心配のみでやって来たのではなかった。まして誕生日を祝いに来たのでもなかった。秀は意外にも客観的な己をよく見ていて、今本当に必要と思えることをしに来たのだ。と、羽柴はそこで漸く、彼の行動を理解することができたようだ。そして、それでこそ警察職員の鑑だとも思う。
「な?、不明と言われる内は不明でいいんだ!」
「…そうだな」
 こんなに嬉しいプレゼントを貰ったことはなかった。
 疑わしきは罰せず、との言葉がある通り、罪が確定しない内に罰を与えてはいけない。職業柄物事に対する粗探しばかりをしていて、疑わしい事情をしつこく追及する姿勢が染み付いてしまった。その対象が一度己へと向いた時、もう、自己に対する罰が始まっていたのを羽柴は感じている。
 常に一点の曇りも無い、晴れ渡った空から白日の世界を見ている。己の心はいつもそう在ると考えていた。そこに幽かな風が現れる。或いは蜃気楼の悪戯を見る。ほんのそれだけの事に動揺していたような、自身に対する思考範囲の偏狭を思う。こんなにも広い天地を眺めていながら、己の居場所は至極限られた所に留められている現実。厳しい適性基準に常に照らされる生き方を、今更嘆く気持はないけれど。
 誇りの他に、この心にもう少しの自由を、と羽柴は感じた。
「仕事熱心もいいが、仕事のことばっかり考えてんなよ。だからこんな時不安になるんじゃねぇか。日付けを見て誕生日くらい思い出せってんだ」
「クク…、全くだ」
 そう、もう少し、生きて生活している自分を意識していれば良かった。と、漸くはにかむような笑顔を彼は見せた。
「秀、」
「んー?」
「ありがとう、助かったよ」
 事実がどうだったかを考えるのは、後は大田署の仕事だった。彼等の能力を信用して任せておけば良い。果報は寝て待てと言うから、今日は美味しい物を食べてゆっくり眠ることだ。



つづく





コメント)おー!、久し振りの刑事コンビです。と言うか、予告しておいてなかなか書かなかったからなんだけど、書き始めるとやっぱりこのコンビって痛快でいいわー!。と改めて思いました。
今回の分がちょっと短いんですが、1ページに入り切らなそうな上、変な所で切れちゃうのでこの辺で終らせておきました。どうか後編をお待ち下さいませっ!。




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