新しいマンション
Passenger 続編
The Morning After
#2
モーニング・アフター



「ああ、羽柴警部、先日は災難でしたね」
 自身の誕生日から数日後、羽柴は再び大田署を訪れていた。
「はあ…、色んな意味で」
「?」
 彼が落ち込む最大の理由。火災に因って彼の個人的な記録物、個人的な蔵書の数々が全て失われてしまったことは、本当に災難としか言いようがなかった。一部の書籍は再度取り寄せるとしても、古く希少なものはもう手に入らないだろう。無論彼が書き留めたメモや、パソコン関連のデジタルデータは、煙と共に消えてしまったようなもの。何とも空しい結果だった。
 その他の物品を焼失したことには、そこまでのダメージは受けていない。要は己の記録と記憶、幾ら金を積んでも買えないこれまでの軌跡を、一気に失ったことが大打撃だった。
 これまで自信を持ってやれていた事をこれからも、同様に続けて行けるのだろうか?。そんな不安が羽柴には少なからずあった。神童と謳われたこともある天才的頭脳の持ち主でも、常に全てを頭の中に納めている訳ではない。過去の膨大な蓄積を参照しながら事件に臨む、そんな体制が崩れてしまっては、職業上の不安を感じて当然だった。
 しかも誰に当たることもできず。万一己の身から出た錆だとしたら、尚更だ。
「本日はいかがされました?」
 そんな羽柴の態度を不思議そうに見ながらも、大田署の警察官は至って普通に応対してくれた。
「や、引っ越し先が決まったので役所に転出届けをね。ついでに挨拶に寄ったところです」
 なので羽柴もすぐ普段の調子に切り替えていた。火災が起こった日の夕方以降、ここを訪れたのはこれが初めてだったので、砕け過ぎた態度も流石に失礼に思われた。
「そうでしたか、今度はどちらへ」
「川崎です」
「おや、すぐ近くですね」
「大して代わり映えもしない感じでね」
 新しく彼の住居として提供されたのは、まだ完成したばかりのマンションの一室。蒲田のマンションからは確かに、車で十五分程の場所だった。川崎市、と言うとまず社会科で習う工業地帯が思い浮かぶが、その通り蒲田並みにお洒落な町ではない。けれど住人の数は多く、住宅地としてなかなか住み良い場所もあるようだ。新しいマンションは見晴しの良い一等地に建つ高級物件だった。
 彼は今朝から掃除と新品家具等の運び入れ、家財道具の買い出しに慌ただしく過ごしていた。今日中に大方片付けを済まさなければならい。明日からはまた通常通りの現場の仕事が待っている。秀に指摘されたように、後々不安を残さない程度に、今度は部屋の状態をクリアにしておきたいものだった。
「…ところで、出火原因はもう判ったのか?」
 一通り挨拶ついでの会話を済ませると、羽柴はやはりそれを尋ねていた。まあもし心暗い事実を持たないとしても、自宅が焼けたのだから、尋ねても不自然ではなかっただろう。すると、羽柴より幾らか年上の巡査は、現状を丁寧に伝えてくれた。無論火事の被害者を思っての親切だ。
「いえそれが。火元の住人が未だ出張中で、電話でしか確認作業ができない為、未解明な部分を残したままになってるんです。未解明と言うのは、最初に火が出たらしき七〇三号室の、西のリビングの壁側で、七〇二号室と隣り合った部分についてですが。
 これまでの聴取で、七〇三号室は警部の部屋と同様に、家財道具の殆どが電化製品だったこと、直接火の出る器具は無かったことを確認したんですが、出火したらしき問題の壁際には、熱帯魚の水槽が置かれていたそうなんです。ただ住人は、漏電するような環境ではなかったと言う話で…」
 すると、そこまでを聞いて思わず羽柴は言った。
「コンセントじゃないのか?。コンセントを差しっ放しにすると、隙間にたまった埃から出火すると言う話だ。結構家を空けていたようだし」
 無論この意見を出すことには、大いに後ろめたさを感じていたが。
 又秀に、「考え過ぎるな」と言われた筈だが、羽柴は結局考えてしまっていた。そもそも現場検証から、出火場所は七階とされているのだから、八階に住んでいた彼がそこまで悩む必要はないと言うのに。
 すると、
「あー、いえ、それも疑ったんですが、流石社長さんと言うか」
 巡査は穏やかな口調ながらも、羽柴の意見を否定した。
「週に二回クリーニング業者が来ているそうで、その業者の方に問い合わせたところ、毎回厳しいチェック表に従って掃除をするから、まず有り得ないと言う話でした。古い電気器具も無かったとのことです」
「そう、か」
 その話では確かに、七階のコンセントが出火する可能性はほぼないと思えた。けれど、八階の自分の部屋のコンセントがショートし、ケーブルを伝って七階で出火する可能性もあるのではないか?。と、頭の回る羽柴には自ら閃いた仮説が残る。
 こんな時には頭の良さも、損な性格のひとつと化してしまうようだ。
「それから七〇二号室側は、住人が洋服などの物置きにしていた部屋で、カーテンを締切って、陽が当たらないようにしていたそうです。そこでは生活をしない為、出火原因になりそうな機具や薬品も無かった、と言う話でした。今のところ七〇三号室の方に注目して調査を続けています」
「う?ん…そうか…」
 聞けば聞く程、己が悪いような気がして来るから不思議だった。それだけ羽柴は、生活態度を指摘した秀の言葉を真摯に受け止めた、と言うことだろうか。



 美しい夕暮れが闇に交じり合う頃、羽柴は大田署から新居のマンションに戻り、間もなくまた外に出て来た。大事な「挨拶回り」をしなくてはならなかった。
 近頃の若い世代は、隣近所の名前さえ知らない者も多いと言う。それが重犯罪を見逃すことにもなれば、人知れず老人が死亡するなど、様々な社会問題を生んでいる現代だ。なのでまあ、警察の一員として、最低限の社会的助け合いを奨励する気持もある。
 だが、羽柴に取っての挨拶周りには別の意図があった。つまり職務上、怪し気に見える者が部屋を出入りしたり、不審な行動に見えることをする可能性があると、それとなく近所の住民に伝えることだ。
 又、警察職員ですと言っておけば、自ずとマンションの治安も良くなろう。
『はい、どちら様ですか』
 羽柴はまず最初に、同じフロアのお隣さんのチャイムを鳴らしていた。広々とした高級マンションは、大概一フロアの部屋数が少ないものだが、ここは特に二戸ずつしか部屋がなく、プライバシーをあまり気にせずに生活できる、そんな造りになっている。
「隣に越して来た羽柴と言う者です、少々御挨拶に」
 ドアフォンのスピーカーから聞こえた男の声に、羽柴は極々一般的な言葉でそう切り出した。すると、
『羽柴さん…?』
 ドアの向こうからは、些か不審気な声色の返事が聞こえて来る。まあこの場合、「越して来た」との言葉をすぐに信用し、喜んでドアを開けるなら用心が足りないだろう。拠って羽柴が嫌な印象を持つことはなかった。
 但し、その後静かに開けられたドアの中に、見付けた人物は多少気分を滅入らせた。
「えっ、おまえは…」
「聞いたような声だと思えば、やっぱりあんたか」
 そこに立っていたのは、羽柴でさえ警戒を以って接した鮫洲の大学生、征士だった。彼は特に構える態度でもなく、つい先程まで寛いでいた様子を匂わせながら、ドアの外へと出て来ようとしている。
「お、おい、まさかここに住んでるのか?。ここ相当家賃高いだろ?」
 自己紹介どころではなくなっていた。正に思わぬ偶然だった。羽柴の口にはまずそんな言葉が昇って来たが、他に考えられる可能性が何故だか浮かんで来なかった。
 学生社長でもあるまい、このマンションは一介の学生には不釣り合いだ。勿論征士については、以前の調査で特権的な立場の者ではないと知っている。だが知り合いの家に来たにしては、征士は妙に居慣れた様子に見えるのだ。
 すると征士は、
「確かに高いが、私の名義ではないもので」
 そう返し、いつか見たような含みのある表情をして見せる。また謎掛けか?、と、羽柴が苦々しく思った直後だった。
「あっ、刑事!。じゃない警部だっけ?、何が違うのか知らないけど」
 と、征士の後ろに現れた伸を見て、羽柴の謎は意外に早く解明されることとなった。そう、もうひとりの大磯に住む学生は普通の住宅でない、リゾートマンションを住居として暮らしていた。言わずもがな家賃の出所は親だろう。彼の家にはそれなりの財力があることも、もう充分に調べ尽された後だった。第一参考人として挙げられた彼だけに。
「私の大学と彼の大学の間くらいの場所、ということでここに来たんだ」
「その節はお世話になりました、どうも?」
 当時とは打って変わって、妙ににこやかな態度の伸も気にはなるが、それより羽柴の標的はいつも征士の方だった。この状況を見た目で解釈するなら、彼はボディガードついでに同居することにしたのだろう。あんな事件の後でもある、羽柴にも特に不自然な成り行きとは思えない。大体彼等は、普通の友人関係ではないと言っていたではないか。
 ならば、とそれを逆手に取って羽柴は返した。
「ほー、そうかい、いい御身分だなヒモの伊達征士君」
 そしてそれにピクリと眉を動かす征士だったが、敢えて反論はせずに、この状況を先に伸に説明した。今はもう殆ど心配はない筈だが、刑事を見た彼がまた不安に襲われないように。
「隣に引越して来たそうだ」
 ところが、それを聞いた途端に思わぬ奇声が上がる。
「えぇーーー!?」
 と、同時に実に厭そうな態度を表した伸。まあ職業的に、常に煙たがられる立場とも言えるが、仮にも顔見知りの警察官に、そこまで堂々と顰め面をするとは思わなかった。羽柴も流石に、それ相当の原因があるのだろうと、
「あっ、言っておくが、もう捜査が終了した事件の参考人を、いつまでも疑惑の目で見るなんてことはないからな?」
 と慌ててフォローを入れた。前の事件では、犯人と決まった訳でもない彼を最初から疑っていた。否、疑うよう仕向ける工作がされていたのであり、それに因って彼を追い詰めてしまったのは事実だ。勿論済まないことだったと、反省する気持は充分に持っているつもりだった。
 けれど返された言葉は、羽柴の予想とは全く違っていた。
「そう言うことじゃなくて、あんた生活にだらしなさそうだからさぁ」
「なっ…!」
 時が時だけにそれはきつい一言だった。
 そう、征士が早くから気付いていた通り、伸はかなり神経質で清潔を好む青年だ。つまり彼の目に映っていた羽柴警部とは、いつも皺の伸び切らないようなスーツを着て、いつも艶の消えた埃っぽい靴を履いて、会う度違う曲り方をしたネクタイで、洗い晒しの前髪を煩そうに掻き揚げている、思わず手を伸ばして直したくなるような人物だったのだ。見ているだけで苛立つところがあるのかも知れない。
 それが隣の住人になると言うのだ。
「ククク」
 征士は思わぬ仕返しを見て、ただのんびりとした様子で笑っている。
「そういう人が隣に居るとねー、こっちにまでカビが生えたり、ホコリが飛んで来たりするんだよ!。ちゃんとしてくれなきゃ困るよ、ホントに。お願いしたよ!」
 羽柴の事情など知らない伸は、ズケズケとそう言い放って相手を畏縮させていた。別に以前の恨みを晴らそうと言うのではなく、単に自分の快適な生活を守りたいが為だった。
 そして本来なら、そこまで落ち込むことなく流せた羽柴だが、日曜日からの災難はまだ継続しているのだろうか?、とも思えていた。
「…承知しました…」
 大人しく頭を下げた彼を一瞥すると、伸はさっさと部屋の奥へ消えてしまった。彼は今さっき魚を三枚に下ろしたところだった。もう彼の関心は夕食の支度の方へ移ってしまっている。警察関係者の都合を説明しにやって来たつもりが、とんだ事になったと羽柴は頭を抱えるばかりだった。
「伸は手厳しいぞ?、悪気はないんだが」
「参るよ、心底…」
 そうして玄関先に残されたふたりは、実は同じようなことを考えていた。一般に通用する理論が、必ず世界の勝者に備わっている訳ではないと言うこと。現にこのマンションと言う小さな世界で、最強の支配者は誰なのかを知ってしまった。彼は筋道立った理論より、感覚的な分別を優先する性格なのだ。ふたりは、そんな伸には勝てそうもないと覚っていた。
 服従するだけの者はそれなりに幸福だ。結局いがみ合うのは似た者同士である。
 異種の生物と格闘しながら生きるのは、なにも彼等に限った話ではないが、これからはそれなりに仲の良い隣人として、付き合えれば良いだろう…。



『出火原因がわかりました。火元の部屋の西のリビングにあった、熱帯魚の水槽の付属品で、温度を保つ為のサーモスタットに不良があったことが、昨日からの調査で漸く判明したところです。既に半年前からリコール対象になっていた商品ですが、水槽セットを販売した店からの連絡が、火元の住人に伝えられていなかったようです。本日の未明から業務上の過失として、その店鋪の立ち入り調査を始めています』
 翌日の朝、マンションを出たところで鳴った携帯電話から、羽柴には酷く嬉しい知らせが聞かれた。若い警察官の些か緊張した口調を耳に、電話を持つ手が不要な震えを訴える程、それは待ちわびた答だった。
「そうか…、何だ…。良かった」
 そして何とか発した声からは力が抜けていた。
 あってはならない事、あり得ない事だと己に言い聞かせて来たにせよ、他人の手に拠って身の潔白が証明された事実は、比べ物にならない清々しさを与えてくれた。これで本当に、火災の日からずっとモヤモヤしていた心を入れ替え、また自信を持って仕事に打ち込める。思わぬ災難ではあったが、神は結局己を見捨てないでくれたと、羽柴は明るい顔をして天を仰いでいた。
「ハハハッ!、おまえのせいじゃなくて良かったなぁ!」
 するとその横に、かなりの大声で笑う秀が突然現れていた。
『え?、何です?』
「いや、こっちの話で。すいませんわざわざ」
 それで慌てて電話を切った羽柴は、朝から顔を出してくれた友人思いな来訪者に、しかし不愉快そうに文句を垂れる。
「聞こえるだろーが」
「まーっ、たまには追い詰められる経験もいいだろ?。容疑者の気持がわかるってもんだ」
 けれど秀はあっさりそう言ってのけると、いつも変わらぬ頼もしい笑顔を見せていた。まるでこうなることを見通していたようだ。
 否、秀には秀の得意がある。様々な立場の人の心情を上手に測れることだ。だから彼は如何なる現場でも意外に人好きされる。今この場に於いても、何を言おうと憎めない相手なのは変わらない。そして勿論欠点もある。誰にでも欠点は存在するものだが、それは取り敢えず置いておかなければ、刑事などと言う人を追い込む仕事はできない。
 ただ今回は、その「取り敢えず」の部分をあまりにも蔑ろにしていると、秀はマンションの火災に絡めて指摘してくれた。大事な友人として、羽柴がある一線を逸脱しないようにと。
 自己についての不安、盲点、曖昧な判断、それらが良心の呵責を起こす状況は、人間になら幾らでも探し出せるものだ。誰か、端からそれが見えていた者がいたからこそ、こんな喜劇を演出することも出来た。いつも気に掛けてくれる友人とは、有難いものだ。
「たまには…な…」
 普段はやり込める立場だが、こうしてたまにはやり込められるのも、己の為には良いかも知れない。秀の態度を見れば、自然にそう受け止められた羽柴だった。己をひとりの人間として許容してくれる者が存在する、その幸福をしみじみと感じた朝。

「おーい、そこの人!」
 ところが、羽柴の純粋な感動もそれまでとなった。
「あれっ、あいつ…」
 秀が声の主を振り返り、マンションのベランダにその姿を見付けると、思わず目を見開く程の懐かしい人物がこちらを見ていた。まだ半年足らずの時間しか経過していないが、その間忙しく職務をこなしていた証拠に、秀にはもう随分昔の知り合いのように思える。単純な質問にさえ怯えていた緑の瞳、緩く波打った茶色の髪、今はとても元気そうな様子を見せている。
 そして秀の観察通り、伸はマンション全体に届く程の声を張り上げて言った。
「引っ越しのゴミはベランダに置いてよ!、廊下は公共の場なんだからな!」
 何と、初っ端から怒られている。
「わかったよっ!」
 するとバツの悪そうな顔をして、羽柴は珍しく一般人に怒鳴って返していた。又秀はそれを見て、大体現状を把握してしまったようだ。
「ヒャッハハハ…!」
 秀は再び笑い出した。何が可笑しいって、今後自分が注意してやらなくとも、ここに住み続ける限り、常に羽柴に厳しい目を向ける者が居るからだ。
 世の中上手くしたものだ、と秀は思った。
 今度はこの良い環境が、火災で失われないことを祈るばかりだった。

 幸福をしみじみと感じた朝、四日間続いた悪夢から羽柴は目覚めた。










コメント)珍しいことなんですが、この話は本当にあっさり出来上がりました。何と言うか、このシリーズはホントにスラスラ書けるんですよね。それだけ羽柴警部と秀警部補、ないし征士と伸の話の中のイメージが、しっかり出来上がってるのかなーと思います(^ ^)。
んーと、この後の続きは特に考えてないんですが、まあ希望される方がいたらまた、新しい展開を考えてみたいと思ってます。取り敢えず次のパラレルは、これとは毛色の違う学生中心の話の予定です〜。



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