不安な記憶
Passenger
#13
パッセンジャー



「四月四日。西校舎の横の中庭で、暫く観察をした。
 史学部の教授と博士が一人ずつ、文学部の学生が二人、文学部の助教授が一人、外語学部の学生が一人通ったが、みんなそのまま通り過ぎて行った。その内知っている人は、山上教授と柳生博士。一緒に西校舎から出て行って、一緒に西校舎に戻った。
 十時半頃、凍流助教授が中庭の側に来て、僕を何度か呼んでいた。答えないでいたら、西校舎に入って行った。それ以降は何もなかった。他に中庭に立ち止まった人は誰も居なかった。怪しい行動をした人も居なかった。報告終わり。
 わからない…、どうしてなの、どうして…!。ねえ、耀者会グループって、迦遊羅のお祖父さんの会社なのよ、こんなのって、どう考えていいかわからないわよ…。どうして今まで隠していたの?、どうして今も何にも話してくれないの?。…迦遊羅がやってるんじゃないわよね?、そんなことないわよね?。
 学長だって何にも言わないわ、みんなが私に隠してるなんてことないわよね…?。誰だったとしても、私は許さないわ、許さないわよ!。私に恨みがあるなら、私だけをつけ狙っていればいいでしょう?、どうして関係ない人を使おうとするの…。

 四月七日。西校舎の横の中庭で、暫く観察をした。史学部の学生が二人、文学部の博士と助手が一人ずつ、知らない学生が一人通ったが、みんなそのまま通り過ぎて行った。中庭に立ち止まった人は誰も居なかった。怪しい行動をした人も居なかった。
 十時十五分頃、乾門の外に立っている人物を発見。白っぽいグレーのスーツを着た男。遠くて細かいことは分からない。しばしば西校舎を覗いていた。その後ずっとそこに居たが、十二時過ぎになって何処かへ行ってしまった。それ以降は何もなかった。報告終わり。
 耀者会グループは本当に危険な集団だったのよ!、犬山さんの言った通りだったわ!。物理学の砂流戸教授がね、この大学でしている活動のことを教えてくれたのよ。過去にあちこちの学校で、沢山酷い事件を起こしてるんですって。きっとこの大学でも何かやらかすつもりね、そうに違いないわ。…私は屈しない、私は絶対に負けない…!。
 みんな、そんな人達に関わってはいけないわ!。あなたも、犬山さんも、こんなに酷い目に遭ってるじゃないの。…関わっちゃいけないのよ、お祖父様も、朱天さんも、みんな、大変なことになるわ…!。

 四月九日。西校舎の横の中庭で、暫く観察をした。史学部の学生が一人、知らない学生が三人、講師が一人通ったが、みんなそのまま通り過ぎて行った。その内知っている人は、体育の剣舞講師。中庭に立ち止まった人は誰も居なかった。怪しい行動をした人も居なかった。
 中庭のベンチに、僕が行く前から座っていた人物を発見。紺のスーツを着た、会社員のような男。学生に見えるほど若い。二十歳から二十五才。身なりがきちんとしている。眠そうな様子で座っていた。十時十五分頃にそこを立って、西校舎の周りを歩き始めた。十時四十分頃ベンチに戻って、暫くそこに座って居た。十一時頃また西校舎の周りを歩き始めた。十一時四十分頃、乾門を乗り越えて出て行った。それ以降は何もなかった。報告終わり。
 恐いわ…、恐くてしょうがないわ。でも怯えていたら何にもならない…、あなたもこのままじゃ可哀想だわ。…どうしたらいいの?、どうしたらみんなを守れるの…。
 今つけ狙われてるのは私だけだもの、私の行動に掛かってるのよ。耀者会なんて名前から、みんなを引き離さなきゃいけないわ。そうよ、学長だってそうしたんじゃないの!。…なのにどうして?、どうしてまた耀者会なの?。…それがどうして迦遊羅のお祖父さんなのよ!」

 語られる内容がかなり混乱を始めていた。害を為す者に立ち向かおうとする意思と、その集団の禍々しさに対する恐怖、大切な人々を守ろうとする気持と、大切な人に裏切られたような疑念。それらが混じり合って、被害者の心を逼迫させていたのがありありと判る。この情報過多の状態がノイローゼ、即ち神経症の始まりだったようだ。
 この後口述は、四月十二日、十四日、十六日、十八日、二十一日、二十三日、二十五日、二十六日、二十八日、三十日、五月一日、二日と、連休明けの五月六日まで、止まることのない恐怖が徐々に増幅されていく様を、充分な状態で綴られていた。
 けれどもう、恐怖の所為なのか或いは習慣だからなのか、博士はこうして記録を残すことしかできなくなっていたようだ。この毛利伸をどうしようと思っていたか等、本人にも判断が付かなくなっていたらしい。ただいつも傍に居る味方だと、頼り切ったような事件直前の様子は、あまりにも痛々しいものだった。何故なら自身の身に起こった事の、全てを知るのは彼だけだった。もう他の誰にも、耀者会からの悪影響が及ばないようにと、彼女は孤独な戦いを続けていた。
 そして事件の前々日、恐らくこれが最後の記録だった。

「五月六日。西校舎の横の中庭で、暫く観察をした。史学部の学生が五人、文学部の学生が一人、文学部の教授が一人、福祉学部の学生が二人通ったが、みんなそのまま通り過ぎて行った。中庭に立ち止まった人は誰も居なかった。怪しい行動をした人も居なかった。報告終わり。
 私は何をしたのかしら…、そんなに悪いことをして来たつもりはないわ…。学長や、お祖父様や朱天さんに代わって、私が罰を受けるのかしら…。天罰と言うのは、いつ下るかわからないものなのよ。…あの集団は必ず何かを起こすでしょう。もし私に何かあったら、犯人は耀者会の人だと伝えるのよ…?。ああ、犬山さんも被害者だって、伝えるのよ…。
 でもあなたは大丈夫、あなたはもう向こうの好きにはならない。…忘れないで、いつも私の言うことを信じるのよ、他の人の言うことを簡単に信じてはいけないわ。…自分の勝手で人を道具扱いするなんて、許せないことよ、許してはいけないことよ…」

 こうして、博士が守りたかったものは全て残せた。情報の混乱に拠る勘違いも含まれるにせよ、博士の強い意思も彼の中に残った。悪を憎み、災いを多くの人に波及させたくないと言う意思が、博士の大切な人々を守ったのだ。
 否、これから全てを守ることもできる。但し後は警察の仕事だった。

「五月十四日。付近を暫く観察した。大学生、その他学生、会社員、一般、警察官…」
「何?、十四日だと?」
 続けて出て来た口述に、難しい顔をして黙っていた羽柴が、隣で静かにしていた征士に問い掛ける。
「昨日の実験の記録だが、消し方がわからないので」
「成程。いや、これも大事な参考になる」
 羽柴にはもう、充分に被害者と伸の状況が掴めていたので、後は催眠暗示についても、事件についても、そのトリックを割り出すことに頭を切り替えていた。
 被害者の訴え通り、確かに首謀者は耀者会なのだろう。彼等については、これから集まって来る新聞社などの記事記録と、千石大学から持ち込まれる筈の、裁判用に用意して来た資料等から、別件での検挙は幾らでも可能だった。しかし直接的な関わりについては未だ見えない。どうしても見えない部分が残されていた。

「『フラジール』」
 伸が全てを語り終えた時、壁の時計は午後四時を過ぎた所に針を進めていた。
「…あーっ。何か喉の筋肉が痛い。これ飲んでいいですか?」
 催眠が解けると、途端に彼はそんなことを言って、傍に用意して貰った緑茶のペットボトルを拾い上げた。
「お疲れさん」
 それを見て秀は、どうぞと言う代わりに一言労いの声を掛けた。ただ聞いていた彼でさえ座り疲れがする程、長い間単調に続けられていた口述記録。これは、普通の状態の人間には不可能な事だと思えた。催眠術とは、意のままに人を操作する恐ろしい方法だと、秀はその実際を初めて目の当たりにした。
 羽柴はそこでレコーダーのスイッチを切ろうとしたが、ふと思い立ってそれを止めた。征士がどのようにこれを引き出したのか、それを聞いてからの方が良いと思った。まだ録音時間には余裕があった。
「それで、彼をどう操作していたのか、おまえはわかったのか?」
 普通の話し声に戻り、羽柴はてきぱきと聴取を進める。征士はまず小田原署に来る前のことから話した。
「今朝ここに来た時、一時から聴取を始めると言われたので、駅周辺の携帯ショップを回って来ました。それで彼が持っている、あの銀の携帯を調べたら、二月二十三日に、博士が新規の番号を契約したのがわかりました。本体は持ち込みだと店のデータにあって、彼の友人も去年からその機種を持っていると言っていました。それから、彼はあの携帯を放さないよう暗示されていて、私にも取り上げることはできません」
 それを聞くとまず秀が、
「携帯でさっきの言葉を伝えてたんだな?」
 と確認した。秀には特に被害者が、悪気でなく伸を扱っていたことが納得できれば、それでもう、彼の友達や親しい教諭も傷付かないだろうと思った。
「はい、ただ、あの携帯には何も記録されていません。行動後に必ずリセットボタンを押してしまうので」
 征士がそう続けると、今度は羽柴が口を挟んだ。
「何故だ?。被害者にそうさせる理由があるのか?」
「いや、だから、」
 その答は、征士にもはっきりとは判らないけれど、
「この催眠暗示の基礎を構築したのは、博士ではないからです」
 そう考えるしかなかった。博士が着信記録を警戒する理由は、殆ど思い付けないのだから。そしてすぐに秀は思い当たる名称を口走る。
「耀者会の奴かな…?」
「それはわかりませんが、博士より前の『主人』です。最初に催眠を行った」
 征士も恐らく耀者会絡みと考えているが、立場上断定はしなかった。
 記憶が途切れるようになったと言う頃、伸は誰かに強力な催眠暗示を施され、博士に対するストーカー行為の手伝いをしていたのだろう。その他にも彼へ命令はあったかも知れないが、ともかくその催眠中に博士は気付き、様子のおかしい彼を調べたと言う流れだった、と征士は推察する。
「最初の方で言っていたように、博士にも元々の暗示を消すことはできなかった。だから、どんな構造になっているかを分析して、自分に従うようにアレンジしたのだと思います。その時に恐らく、うまく打ち消した暗示もありながら、どうしても残ってしまう暗示もあったのではないかと。全てが博士の思う通りのものではない、と考えた方が理解し易いようです」
 征士は自分なりの見解をそう説明した。そしてそれは、全く文句の付けようがない解説だったようだ。羽柴は一言の反論もせず聞いた後、
「上級者と言っていたな…。それなら、こっちには幾らでも人脈があるさ」
 と言って、何処かしらほくそ笑んだような顔をした。
 まあ、警察の人脈と言えば全国民のことだろう。必要であれば海外から人を呼ぶこともできる。犯罪組織の一専門家より、もっと優秀な人材を連れて来ることも容易な筈だ。それなら、伸のこの先の生活にも安心ができそうだった。彼は必ず解き放たれるだろう。征士は不敵な様子の羽柴を見て付け加えた。
「専門家が調べれば、他にも出て来る事実は色々あると思う。その後で、全てきれいに消してやって下さい。その為にこれを…」
 言いながら、征士が持参した袋から出したのは、例の博士が残した手書きのメモだった。二月七日の日付けの、見当たらなかったカレンダーの一ページ。
「何処で手に入れた?」
「この本に挟まってました。博士の字だと彼も認めています。これが無ければ何もわからなかった。ついでにこれもどうぞ」
 そして征士は更に、大学の図書館から借りている、『催眠の手法と有効性』を羽柴に手渡した。実際に借りたのは遼だったが、まあ、警察にあると聞けば許してもらえるだろう。それより今は彼等に渡した方が良い、との征士の判断だった。
「これを読むとこんなことができるってのか?」
「できません。ある程度に限られます。しかしこれは耀者会出版の本なので」
 興味津々な様子で、羽柴の手にある書物を覗き込んだ秀だが、征士がそう答えた後に、すぐその意味を理解することはできた。
「元々催眠術は向こうのスキルって訳か…」
 無論そうだろう。大学や研究機関に向けた出版物を発行する、並の人間以上の頭脳集団を抱えている企業なのだ。心理学者、精神科医なら全国に大勢散らばっている。出版社がその粋を集める行為など、誰が疑うものでもないだろう。
「しっかし、何処のどいつがやったんだかなぁ?」
 その秀の呟きは、直接の下手人と共に、残された大きな疑問のひとつだった。ブレーンの存在は確かだとしても、調べのついた人物にそれらしき肩書を持つ者は、今を以って報告されていなかった。素性を隠して動いているのだろうか?。羽柴は暫く渡された本に目を落としていたが、ボイスレコーダーの向こうで、こちらの会話を何となしに遣り過ごしている、伸の方に顔を向け直して言った。
「なあ、君は何処かで、耀者会に関わる人間に会っている筈なんだが、憶えてないのか?。人相とか、どんな特徴でもいいんだが」
 しかし、
「えー?…。困ったなぁ、耀者会なんて名前、征士に聞くまで知らなかったのに…」
 やはり伸は憶えがない様子だった。勿論不自然な言動だと羽柴は見ている。今耀者会グループと言えば、学術出版だけに留まらず、多数の一般書も発行している。一般書店でその名前を見ることも多い。全く知らないで居られる可能性はほんの僅かだ。
「憶えないようにされていた、としか思えないな」
 羽柴はそう解説してみせた。すると暫くして伸は思い立ったように、
「あ、でも、そう言えば、お城のマークだよね。あのバッジを付けた人は見たことがある」
 征士に同意を求めながらそんなことを話し始めた。羽柴と秀はそれにピクリと反応した。バッジを付けた人間なら、彼の周囲には多数徘徊していた筈だからだ。
「大学の近辺でか?」
 羽柴が尋ねると、伸はある出来事を思い出しながら、辿々しい言葉で答えた。
「そう、です。一年くらい前に、大学の周りで道を聞かれたことがあって…、ああ、犬山さんのアパートを探してた人がいて…」
「その時のことを詳しく話してくれ」
 間髪を入れずに羽柴は言った。これを待って居たと言わんばかりだった。どうやって大学の学生に関れたのか、それが解ければ、事件中の同様の手口もまた見付け易くなるからだ。
「えーと、まだ僕は犬山さんを知らなかった頃で、引越して来た犬山さんのアパートを知らないか?、って声を掛けられたんです。僕は大学の近所の家まで詳しくないから、近くの交番で調べてもらおうと思って、その人を交番に案内して。それで…、案内した…のかな?。交番には行ってない、ような。…変だな?」
 ところが伸は話の途中で、またどうしても思い出せない部分に突き当たっていた。
「憶えてないのか?」
「…わからない。また途切れてる…みたいだ。おかしいな、昼間に起こったことはないんだけどな」
 羽柴の問い掛けにそう答えると、伸は確かに不思議そうに首を傾げている。記憶にただひとつ残るイレギュラーがあるとすれば、何を意味しているかは、羽柴には大体予想が付いた。
 それが最初だったのだと。
「その後はどうなった」
「…犬山さんのアパートの前に立ってた。その人が、偶然見付かることもあるんだなぁって、言いながらお礼も言われました。訳がわからなかったんだ、そう言えば」
 その間、どの位の時間が経過したのだろう。時間的に不自然に思われない程度とすれば、それは神業の如く早い作業だと思う。一体どんな暗示を使うのか見当も付かない。
「どんな奴だった?」
 ところが羽柴がそう尋ねた途端、伸の様子が何処かぎこちなくなって行った。
「え…?。…知らない、知らない人。…見たことがない…」
「何言ってんだ?、会ったんだろ?」
 訳の解らない秀は尋ねる。それまでののんびりとした態度から、急に様子が変化した彼をじっと見ている。慌てているような、怯えているような、疑いたくもなる妙な言動。しかし、
「待て」
 と羽柴は、秀の追及姿勢を制止していた。
 この感じは、この言葉遣いは今さっき聞いたばかりだった。今まだ録音中のテープを聞き返せば、尚はっきりすると思った。誰か特定の人物に対して、何も語らせないようにされている。耀者会の名を憶えないのと同じように、プロテクトが掛けられているようだ。なので羽柴は別の形で質問を続けた。
「人物像はいい、それ以外に何か思い出せることはないか?。例えば、変わった歩き方だったとか」
 そして伸は一度、圧力から開放されたようにひと呼吸したが、
「変わった歩き方…」
 言いながらまた妙な態度をし始めていた。
「ん…、手、手だ…」
「変わった手?、の持ち主なら見付け易いだろうな」
 秀の冗談めかした受け答えも、今の伸にはまるで和めなくなっていた。
「そうじゃなくて…、そういう、動作をするんだ。人に、掌を向けるんだ…」
 声が上擦っていた。顔や手に冷や汗をかいているのが見えた。明らかに何かに怯え出したように。
「どうした?」
 思わぬ異変に征士が声を掛けると、その一部始終を具に眺めていた羽柴が、閃いたように机に手を着いて言った。
「そうか…、解ったぞ、掌を向けるのは暗示の一種なんだな?」
 だから怖がっている。そもそも手を向ける行為は威圧の意味があると、羽柴は何かで読んだことがあった。それは確か『犬との付き合い方』と言う本だ。服従しやすい動物に対し、その目の上に掌を近付けると、犬の場合は怖がって耳を後ろに倒すと言う。強いストレスを掛けることになるので、長時間その状態を続けてはいけないとされていた。
 例えそれが人間だったとしても、顔の前に手を広げられるのは全く嫌な印象だ。否、突然手を翳されたら普通はまず驚く。そして一瞬思考を止めてしまうだろう。それが狙いなのかも知れない。
「おい、どういうことだよ?」
 些か置いて行かれたような心境で秀が尋ねると、羽柴は自信を匂わせる態度で返した。
「同じことをする奴に会ったからな」
 間違いなく、犬山宅に出入りしているあの男。
「へぇー、じゃあおまえは暗示に掛かってんのか?、意外だなぁ?」
「フン、掛かるかよ」
 確かにそれは疑問に思えるところだ。自身が気付かないから催眠だと、今そんな議論をしていた筈だと秀は思う。しかしそこで征士はこう言った。
「あんたは疑い深そうだからな」
「・・・・・・・・」
 一応羽柴警部の名誉の為に説明するが、それは職務上での話だ。
 そして敢えて反論しなかった羽柴も、内心『貴様の方が余程疑い深い態度だ』と、心の内で繰り返し叫んでいたに違いない。
 怪訝そうな顔をしている羽柴の横で、秀はひとり黙って考えていたが、
「…なぁ、もしそいつが色んなとこを歩き回ってたりしたら、どうだ?。警察だとわかってるおまえにさえ、堂々と掌を向ける奴なんだろ…?」
 彼の言った意味は無論、周辺の住宅街を回り歩くことでも、トラブルが起こる度に、その調査人を当たって歩くことでもある。たった一動作でこれだけの事ができると判れば、住民や捜査員の洗脳も、大掛かりな組織無しで行えた現実が見えて来る。
 又、向こうはこれにかけてはプロなのだから、暗示に掛かり易い人間を探し出すのも容易かったろう。今ここで催眠状態を実演してくれた、伸が対象に選ばれたのも恐らくそこなのだ。ゆめゆめ他人の話など信じてはいけないと、亡くなった博士は彼に幾度となく繰り返していた。彼は気の優しい青年だと言われている、性格的な弱点を突くのが『暗示』だと、正に結果が示しているようだった。
 今はまた、元の落ち着きを取り戻しつつある伸に、それは博士が残した遺言のようなものだと、秀は最後に思った。

 これから、全ての怪し気な事象に含まれる者に対し、羽柴は集められるだけの頭脳を集め、多くの者が暗示に掛かっている事実を洗い出すことになる。ともすれば気が遠くなる作業かも知れないが、その中に必ず実行犯が存在する筈だった。これまでの捜査で頭を悩ませていたのは、明らかな対立状況が見えながら、事件に直接参加した人物が見えなかったこと。つまり誰も殺人の記憶を有していない意味だった。
 そしてそれは破られるだろう。誰にでも耀者会の人間に接触できた。自ら気付かず嘘を供述していた者が必ず居る。又それは、犯行時刻に被害者の部屋に出掛けられた、被害者のよく知る誰かなのだ。調査結果を楽しみに待つことにしよう…。
 事件に何らかの形で関わる人々は、一見何の規則性もなく、今はまだこの国の各所に散らばった点でしかないが、何れ全てがひとつに結び付く時が来ると、信じている。
 それが耀者会グループであり、阿羅醐帝人会長なのだと。



 一週間の時が流れた。



 テレビのニュースは、朝七時台からその話題で持ち切りの状態だった。
「…小田原で起きた女性博士殺害事件に於いて、耀者会グループの現会長、阿羅醐帝人氏と、同グループの専務、常務以下合わせて七人を逮捕した模様です。阿羅醐氏と数人の幹部は、学術出版社と言う肩書を隠れ蓑にし、三十年程前から、詐欺行為や商法違反を繰り返して来たと見られています。今回のこの事件以外に、凡そ八十件にも及ぶ余罪があると見られ、今後裁判上で明らかにされる見通しです。それでは現地、小田原市の今朝の様子を中継で御覧下さい…」

 第一報のニュースで流れたのはそれだけの内容で、催眠暗示についても、実行犯についても、或いは警察庁の情報部の混乱についても、何も触れてはいなかった。それら全てが世間に明らかになることは、恐らくないだろう。機械のように操られていた、無関係な者達を世間に晒す訳にはいかないからだ。そんな事情から、この事件はずっと『猟奇殺人』として扱われるように思う。
「…これからの方がよっぽど大変だわな」
 慌ただしく人の行き交う小田原署の一室で、休憩中にテレビを見ていた秀が呟いた。
「長い裁判になる。こっちもまだ調査は続行中だ」
 公式の会見を八時丁度に終えた羽柴も、今は一息吐いているところだった。
 彼等はあれから、容疑者候補であった者の全て、大学の近隣住民ほぼ全て、警察の事件記録の作成人全て、そして耀者会グループの管理職以下の社員全てを当たり、心理操作された痕跡があるかどうか虱潰しに調べた。するとどうだろう、予想した通り近隣住民の約四割、耀者会社員の八割以上が何らかの暗示を与えられ、疑わしい記録作成人については、全員が何らかの暗示に掛けられいた。
 又過去の事件の被害者の一部、耀者会の誰かに面識のある者、それぞれからも心理操作が発見され、事件を誤魔化されたり、企業に都合の良い嘘を言わされたりしていた。多くのまやかしで構築されていた過去が、現在に至り漸く露になった。専門家集団を編成しただけの成果はあったようだ。
 この結果に辿り着けたのは、被害者の悪に対する毅然とした態度に拠るところもあると思う。彼女の意思が結果的に全てを救ったのだ。それが彼女自身の望みでもあったように。
 事の発端はやはり、千石迦雄須と阿羅醐帝人の間の確執から始まっていた。千石氏が阿羅醐帝人の悪行に気付き、その後の出鱈目な論争の中で娘夫婦が心中すると、彼は相談もなく孫娘を自分の籍に入れてしまった。阿羅醐帝人にしても千石迦遊羅はたったひとりの孫だ。まずそこで千石氏への恨みが始まった。
 そして同じ頃、不明な事情で耀者会出版の社長となった阿羅醐帝人は、一企業を自由にできる身となり、あらゆる方面への事業拡張を進めていた。その際の資金調達にも怪しい商売が展開され、金銭的被害に遭った学生、乃至学生の家族が全国に増えて行った。しかし実態が掴めぬままでいた当時、調査に乗り出したのが同じく千石迦雄須氏だった。
 まず彼の大学、附属高校に関わるメンバーで、独自に耀者会出版の情報を集めるチームを結成。そしてその活動が全国の学校に広まると、被害者の祖父である柳生博士の提案で、学校から耀者会出版を排除する方針を決めた。それに同調する学校は全国の三割にも昇った。千石氏の人徳が為せる業だった。
 この結果、グループ企業として東証二部に上場したばかりの、耀者会は株価の暴落と言う大打撃を被った。又それ以上のダメージは、有名企業の大事件として世間に騒がれ、企業イメージに傷が付いたことだ。阿羅醐帝人はそれを余程恨みに思ったらしく、すぐ様その運動の主導者を探らせ、柳生博士の名もその時には明らかになっていたようだ。
 けれど耀者会側はすぐには動けなかった。企業活動を元通りに、或いはそれ以上に立て直すのが先決だった為、以後は細かなトラブル以外に、目立った事件は起こさずにいた。否、それも一見そう見えたに過ぎなかった。大きな動きはなかったものの、この頃から彼等は証拠隠滅に有効な手段として、催眠暗示を駆使するようになった。それまで大学の研究者であった黒岩陽炎が、突然社員として招かれた事実も見付かっている。
 又、一時阿羅醐帝人と千石迦雄須の争いも鎮静化したが、双方水面下での活動は続けられていた。耀者会側は反耀者会の集団をマークし、大学側は耀者会絡みのトラブルを捕捉し続けた。だが、水面下の情報戦では阿羅醐氏に分があった。千石氏が殆ど情報を集められなくなったのは、無論トラブルの被害者に暗示を施して行った結果であり、阿羅醐帝人を法廷へと連れ出す目標は、達成が困難になって行く。
 そんな頃、最初の諍いが起きてから二十年後の一昨年、千石大学は明るいニュースで華やいでいた。若干二十三才で博士号を収得した、柳生ナスティの名前が知られるようになって行った。勿論阿羅醐帝人はその名を知っていた。その頃には既に、巨大なグループ企業として盛り返していた耀者会。本来なら一大学の一博士など、放って置いても良かった筈だが。
 彼は許さなかった。目の上の瘤である千石迦雄須と、一時は巨額の負債を負わせてくれた柳生博士、彼等の活動に関わる、全ての者に恨みを晴らす為の標的として、うら若い女性博士は標的に選ばれることとなる。
 耀者会はまず柳生ナスティと、その周囲の環境を調べ始めた。大学周辺の詳しい様子なども、この時既に調べられていたに違いない。そしてこの場所で、痴情沙汰に見える小さな事件を演出する為に、彼等は着々と計画の準備を進め、丁度一年程前から実行に移して行った。
 そこから先は、既に事件の経過と共に判明していることだが、一年程前から耀者会側では、被害者をつけ歩くストーカーを送り込んでいた。当初その役に使われていたのは、自社の下級社員だったようだ。又同時に、一昨年の段階から通わせていたセールスマン達に、チラシの配布と、嘘の噂話を吹聴して歩かせてた。実はこのセールスマンの中にも、簡単な暗示の技術を得た者が数人紛れ込んでいた。
 彼等の目的は幾つかあったが、大学周辺の住民を洗脳し、実際の事件が起きた際に別の注意を引かせることが、最大の目的だったようだ。附随して、被害者の印象を悪くすること、セールスマンに悪印象を持たせないこと、勿論商品を売り込むことも含まれていた。
 又そのすぐ後、去年の八月に、復讐にやって来た犬山孝を偶然捕まえた耀者会は、彼にも犯行の手伝いをさせようと考えた。以前から有事の際に不当に利用していた、千代田区の病院に彼を入院させ、後に大学のすぐ近くに住まわせた。つまり犯行の際にすぐ動ける者として待機させていた。彼を「耀者会を憎む者」として手の内に残し、疑われない実行者にする予定だった。
 同時に、被害者周辺の人物を充分に調査した結果から、最終的に罪を着せられそうな人物、毛利伸を選んで暗示にかけ、まず被害者に対するストーカー行為をさせ始めた。
 ところが僅かの内に、耀者会にはひとつ誤算が生じていた。犬山孝の友人であり、被害者の婚約者である朱天童子が、大学での反耀者会の活動に参加しているのを知った。犬山を重用するのは危険だと判断し、以後、彼は何をさせられることなく、宙に浮いた状態で生活を続けることになる。
 代わりに耀者会側では、毛利伸にもっと仕事をさせるつもりで、彼の催眠行動をより精密な機械の如く仕立てたが、犬山の過去を知り俄然強気になった被害者が、ある日ストーカー、即ち催眠中の毛利伸を捕まえてしまった。そして頭の良かった彼女は、彼の妙な状態が何なのかをすぐに理解し、本から得た知識で自己流の催眠を行った後、既に掛けられていた暗示の内容を、大体解き明かしてしまった。
 一度はそれで、毛利伸の既存の暗示は打ち消されたが、その後彼を動かそうとした者が、状態が変わっているのに気付き再度暗示を行った。だが、被害者はそれにもまた上手く対処をした。結果耀者会は彼女の頭脳に舌を巻き、毛利伸を手駒に使うことも断念せざるを得なくなった。目的である被害者を殺害する前に、余計な死者を出す訳にもいかなかった。
 それ以降、被害者は積極的に催眠を行った者を探り、遂に耀者会と言う存在に辿り着く。被害者はそれを調べ、そしてそれに怯え始めた。故意に呼び出した私立探偵も、耀者会に加担していると気付いた筈だ。実際探偵は耀者会に属するスパイで、ストーカーの調査は無論断られたらしいが、隠れて大学内での活動は続けていた。
 即ち凶器となる物の確保、被害者の部屋から持ち出す予定の物を入れる場所、全てが大学の内側で起こった事のように見せかける工作だった。又校内各所に取り付けられた盗聴器から、警備員の巡回時刻をも得られるようにしていた。捜査で盗聴器が見付からなかったのは、全て事件現場からは離れた場所だった為だ。確かに、被害者の部屋からの距離さえ判っていれば、何処に取り付けても構わなかった。
 しかし、それも結局焼け石に水となった。例え毛利伸を使えなくとも、探偵がそこに残ってさえいれば、後は毛利伸が犯人であるように、幾らでも偽の事実を報告できた筈なのだ。被害者に名前を知られていたことが、完全な計画に綻びを生じさせたのは確かだった。
 特殊な技能を持ち、使える人物は世の中にそう多くは居ない。耀者会グループでは騒動を起こす度に、「鎧山九十九」を登場させて来た。ある大学でのサラリーマン金融に関するトラブルでも、彼が弁護士として仲裁に入った事実が発見され、その時は弁護士事務所のチラシを撒いたことも判った。悪い事はそうそう繰り返せるものではない。殺人を思い付いた時点で、既に彼等の命運は尽きていたのかも知れない。
 そして今回の事件は起きた。既に心身が疲れ果て、神経症を患っていた被害者に取って、それが良くも悪くも開放された瞬間だった。操られていた実行犯にも、何の恨みも罪の意識もなかった。もし殺人の事実が、悪意を持たず望まれるものを与えた形であるなら、こんなに合理的な犯行はなかった。改めて、この事件の解り難さを示している気がした。
「お咎めなしにしても、あいつ、大丈夫なんだろかなぁ」
 秀はその、直接の殺傷に及んだ人物が、この先まともに生きられるかを案じている。己の意思ではない、記憶にもない行動だったにせよ、人を殺めた事実は重いだろう。まして本人が最も尊敬する人とあらば。
「さあな…。耀者会はいずれ解体される、被害者の死を無駄にしないよう、立ち直ることを祈るだけだ」
 羽柴はまず真面目にそう返した。事件は解決しても、人の心は死ぬまで変わらないこともあるけれど。
「何かさ、利用される奴ってのは、むしろいい奴なんだよな。だから可哀想なんだぜ」
「人の心配をするなら、まず自分の心配をすることだ」
 ところが次の秀の発言には、何故か物を言いた気な様子で羽柴は答えた。
「何だよ?」
 キョトンとした様子で彼を見た秀に、ここぞとばかり言うのだった。
「迷惑なら迷惑とはっきり言うべきだ。だからああ言う、変な輩にくっ付いて来られるんだ。あれは催眠なんかじゃなかったぞ」
 そう、秀の高校時代の先輩である、セールスマンの蜘蛛谷も被害者の一人に数えられていた。耀者会の社員はまず研修の段階から、絶対的な忠誠心を暗示されていたのだ。それについて口を割ったのは菩提寺の住職だった。たが、蜘蛛谷が病的に秀を追い掛ける理由は、催眠とは関係がなかったと羽柴は話している。
 人に付け込まれる身の振り方は良くない、と、この事件から得た感想だろうか。
「ハハハッ、俺も可哀相だな!」
 しかし秀は、大らかな態度で笑うばかりだった。少なくとも心身をすり減らされる程の害をしない、蜘蛛谷はその程度の愛嬌ある男だと、秀は昔から知っていたので。

 耀者会で予定していたふたりの候補者、毛利伸と、鎧山九十九改め我妻修羅、その両方が使えなくなった為に、出番が回って来た不運な男が居た。たった一度切りの強力な暗示に因って、疑いを向けていた彼に催眠行動をさせた、黒岩陽炎と言う男は大したものだと思う。だが、一度騙された経験のある人物とは、やはり何処かしらに性格的な弱点を持っているのだろう。或いはそれを「善人」と言うのかも知れない。
 そしてある意味では果報者かも知れない。
 何故なら彼自身のイコンは永遠のものとなり、誰にも咎められず、一生敬愛する博士を見詰めることを許されたのだから。



『…本当に良かったぜ。もう大学の周りも落ち着いたって言うか、みんなほっとした感じだ。戻って来ても大丈夫そうだぞ?』
 電話の向こうから、明るく懐かしい声色が聞こえる。
「うん、そうみたいだね。部屋も放りっ放しだし、片付けとか、もう少し時間かかるかも知れないけど、近い内大学には顔を出すよ、遼」
 そして伸も今は、普通の生活と言うものを思い出しつつあった。
『わかった、じゃあな。図書館の本のことは伝えておくからな』
「ありがとう、じゃあまた」
 テレビ等では判らない、実際の様子を遼から聞いた伸は、しかし飛び跳ねて喜ぶでもなく、神妙な顔をして受話器を元に戻した。
「それ見ろ、連絡を入れないから、心配してかけて来るだろう」
 征士はその様子を横目に見ながら言った。
 既に伸に掛けられていた暗示は解かれていた。あれから警察が早速連れて来たのは、日本で屈指の精神医学博士と、テレビ等でしばしば見かける催眠技師だった。彼等に拠って、新たな催眠の中から何が探り出せたのかは知らない。だがもう、それらが伸の心に負担を掛けることはなくなった。これまでに見られた妙な反応、必要以上の警戒、そんなものは全く見られなくなった。これが本来の伸だと思える様子に、いきなり回復したのは征士も驚いた。
 ただ、代わりに彼が持っていた筈の記憶、博士が残した遺産とも言うべき記憶が、彼の中からは失われたのだ。それは目に見えない最大の悲劇だった。元々彼には知り得ない内容だったにせよ、博士が誰の為に必死で戦ったのかを思うと。そして途切れた記憶も空洞のまま、他の何かで充填することはできない。風穴だらけの記憶を持って生きるとは、如何なる状態か征士には想像できなかった。
 取り敢えず、闇雲な不安が消えただけマシとは言える。
 なので、千石大学の様子を窺う程度のことを、躊躇う理由は最早あまりないと思う。ところが伸は帰りたそうな素振りも見せず、友達に連絡を取ろうともしなかった。征士がこの数日の間に、幾度か遼に連絡するよう勧めた程だった。どうも、人の電話を使うことを遠慮している風でもない。
「まあ、これで問題はなくなったのだ。そろそろ戻った方がいい」
 征士が改めてそう勧めるが、伸は特に気にする様子もなく、次いで意外な言葉を返していた。
「まだ戻らないよ。いや、戻るにしてもそれは僕が決めることだろ?」
「は?」
 何を言っているのか判らない。
「事件が解決するまでなんて言わなかったじゃないか。僕はここに居たいだけ居る権利がある」
 更に伸はそう言って、尚征士を困惑させるのだった。
 否、確かにひとりで居るよりふたりの方が楽しい、同じ時間を共有する者が居るのは、それだけ自身の存在に安心を齎す。しかし、この狭い部屋に閉じ込められているのが、そこまで快適だとは思えない。持ち物にしても不十分だろう。不便な方の権利を主張するとは。
「それはまあそうだが…」
「じゃあそういうことでよろしく。ここに居るといいことがあるんだよ、来福軒にも行けるし、君の大学の図書館の本が読めるだろ?、だからまだ帰りたくないんだ」
 伸はそう説明して、かなり強引に居座ることを認めさせた。
 実際図書館には伸は毎日出掛けていた。征士が講議や研究に出ている間、彼は延々図書館の本を読んでいるのだ。勉強熱心なことだと思う。それから来福軒にももう四回も行ってしまった。この短期間の間に四回、流石に顔を憶えられていた。それらのことが彼に取って、元の居場所に戻るより良いことなのかと思うと、征士にその価値観は理解できなかった。しかし良いことと言えば、
『必ず良いことがある』
 と言う閃きの為に、ここまで事件の解決に尽力した彼も、考えてみれば理解を得難い存在かも知れない。だから人にちやほやされる割には、本当の理解者には巡り会えた試しがない、と征士は何となく墓穴を掘っていた。今のところ、彼に何らかの幸運が齎された気配はないが、まあ、何れ気が付くことなのかも知れなかった。悪しき事は突然やって来るが、善き事は知らぬ間にそうなっている、そんなものだからだ。
 これから、ふたりにはどんな事が起こるだろうか?。
「食べないの?、九時には出るんだろ?」
 伸はそう言うと、今朝も進んで用意した和朝食の並ぶ、テーブルの前に座る征士を見ていた。



 悲しいことだけれど、心の奥底に刻まれた博士の言葉は、皆何処かに消えてしまった。
 けれど特殊な状態でなく、普通に過ごした記憶まで失われることはない。伸は警察などから聞かされた事実と、記憶の欠落がきちんと噛み合っていることを知り、又、博士が自分に与えてくれた思いをこの先、ずっと大切にしようと思った。
 ゆめゆめ他人の話など信用してはいけない。
「あなたは人を信じ過ぎるのよ、誰にでも印象良くすればいいってものじゃないわ」
 と、博士に度々指摘された思い出が心に蘇って来た。

 そう、自分は騙され易いタイプなのだと、伸は嫌と言う程理解していた。誰か、適切なアドバイスを与えてくれる存在が必要だと、自分で感じていたからこそ、博士は大事な家族だと思っていた。
 そして今も。
 君が居ると安心だ、とは恥ずかしくて言えなかっただけだ。
 自宅に帰りたくない訳は、適当な理由で誤魔化してしまったけれど、自身の困った欠点の為には、半分は信じる、半分は信じない、と言ってくれることが何より親切だと思う。
 今は、それが伸にはよく解っていた。









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