中庭の伸
Passenger
#11
パッセンジャー



 乾門側の中庭は、数本の欅の木立を、低木と花壇が囲む公園になっている。
 千石大学の構内の構成は、正門の周辺は特に法則性はないが、乾門と巽門の周辺はシンメトリックな配置が為されていた。乾門側の中庭を囲むのは史学部、文学部など文化系の校舎群と、最近新設された福祉学部の校舎、客席の無い小規模な体育館は、主に福祉学部の実習に使われている。因みに巽門側の中庭を囲むのは、工学部の校舎群と大学院だ。
 征士と伸は、午後四時半頃にそこに到着していた。そして何をしていたかと言えば、
『何をしているのだろうな…』
 観察している征士にも、伸の行動は杳として知れなかった。中庭の木立や低木の間を歩いては、暫し立ち止まり周囲を窺う仕種を見せる。或いは木々の陰に身を隠すようにして、辺りの様子をじっと見ているような、そんなことを繰り返しているだけなのだ。
 実際はいつも夜中の活動だと聞いているので、明るい中では酷く滑稽なものに見えてしまう。これが映画の撮影ならば、合成映像の元のフィルムにも思えるが、役どころとしては隠密か警察か、そのまま逃亡者と言うところだろう。
 征士がそんなことを考えていると、正門の方向から誰かが歩いて来るのが見えた。
 伸はすぐそれに気付き、側にあった低木の陰に身を潜めた。中庭の外からそれを観察していた征士には、近付いて来る人影が、妙に小さな人物なのを確認できたところだ。それは子供のようだった。大学の中に子供が歩いている光景を、征士は自身の経験の内ではあまり見たことがない。けれど、
「あ…」
 何かの声を上げて、その少年は駆け足になって寄って来た。十メートル程に近付いた時、その服装や表情などから、小学生であろうと征士は確認できた。一度木の陰に隠れた伸もそれを認めたのか、静かな動作でその場を立ち上がる。
「伸にいちゃん!」
 すると少年は伸のことをそう呼んで、低木の側に佇む伸の前に駆け寄った。
「どこ行ってたんだよぅ!、ねえ!…、…?」
「・・・・・・・・」
 けれど、彼の必死の訴えも、今の伸には届かないようだ。
 これまでの観察で判ったことには、伸は既に知識として知っている人間には、警戒の態度は取らないようだ。しかし見知らぬ人間や、そこに居るのが誰か判然としない状態では、注意深く物陰に隠れるなどして様子を窺う。誰かに話し掛けられても、自ら何かを語ることはない。質問を受けた時に、極僅かの言葉で返事をする程度だ。一度目の実験中に、横浜の駅員に「はい」と答えていたのを征士は見ていた。
 そこから判断するに、彼が掛けられている術はかなり強制的なものだと思う。借りて来た本に拠れば、催眠によって行動を抑制しても、本人は普段と同じつもりで、術が掛かっていることには気付かないとあった。つまり本人は普通に生活できる状態の筈だ。
 しかし、今のこの状態を普通とは呼べない。正体を晒さない為なのか、彼は感情的自我を押さえられているようだ。そしてそれは、とても酷いやり方だと思う。
「あー、君」
 黙りこくっている伸の前で、困った顔をしている少年に征士は声を掛ける。
「だ、誰っ?」
 すると彼は、まるで伸が不審者を警戒するように、見覚えのない征士にびくりと身を引いた。しかし征士の方はそんなものだろうと、構わず彼の方へ歩み寄る。何故なら自分は大体、初見で子供に好かれることはないと知っていた。
「私は彼の友人だが、君はもしかして、亡くなった博士の従兄弟と言う子かな」
 なので征士は努めて柔らかい口調で言った。
「そうだよ。山野純って言うんだ」
「そうか、君のことは伸から聞いている」
 自分を知っている、と言う言葉に安心したのか、純と名乗った少年は途端に強い調子で、自らの疑問を並べ立てて返した。
「ねえ、伸にいちゃんはどうしちゃったの?。いなくなったって聞いたけど、ここにいるじゃないか。でも何か変なんだ、何にも言ってくれないんだよ…?」
 しかし小学生に、催眠状態で云々と説明しても、恐らく理解できないだろう。それ以前に征士にも確固とした答はない。
「うーん。私にもよくわからないんだ」
 正直にそう言うと、征士は純の手を取って、その低木の囲みからやや離れた所に移動させた。伸がまた指定の行動に戻り、中庭をうろうろ歩き始めたからだ。
 そうしてふたりは、伸が欅の木の周囲を歩いたり、木陰に立ち止まったりする様子を暫く、立ったまま惚けるように眺めていた。何も語らない、何も聞こえない静寂の中の行動。耳に入って来るのは遠くの、グラウンドから上がる学生の声や、大学の外を通る自動車の騒音ばかり。風さえ今日は音を立てる程吹いていない。
「何をしているんだと思う?」
 あまりに退屈なので、征士は少年にそう尋ねてみると、
「…見張りかな?」
 純は考えながらそんな返事をした。
「見張り?」
「だって、伸にいちゃんはおねえちゃんの、ボディガードをやるんだって言ってたよ」
 それは初耳だった。
「そんなことを言っていたのか?」
「うん…、おねえちゃん、悪い奴に狙われてたんだって…。だからいつも一緒にいたのに…」
 すると言いながら、過去の平穏な様子が頭に蘇って来たのだろう。純の目には涙が溢れ始めていた。
「ああ、そうかそうか…」
 別段征士が悪い訳でもないが、子供が泣き始めると心情的に慌ててしまうものだ。しかしただでさえ、大人でさえ理解に苦しむ現状を前に、何と言って宥めて良いか判らない。
「そうだな、彼ひとりでは、とてもかなわない相手だったんだろう」
 仕方なしに征士はそんな説明を加えると、純に目線を合わせるようにその場に膝を着いた。
「…うん」
 すると目で見ていなくとも、気を遣う動作は感じ取ってくれたらしい。純はそれ以上泣き喚くこともなく、大人しく目を擦り続けていた。何処かに吐き捨てたいだろう悲しみを、幼い子供に押さえさせるのは酷だと思うが、この少年は暴れても状況が変わらないことを、既に知っているように征士は感じた。
 彼は見た目よりも、多少大人の部分を持った子供なのかも知れない。それなら、彼を良く知る伸にしても、いい加減な言葉で彼を誤魔化すことはないだろう。ボディガードなどと言う単語は、これまでに聞いたことがなかったけれど。

「純ちゃん!」
 その時また正門の方角から、現れた女性が小走りにやって来るのが見えた。
「純ちゃん、またここに居たのね。ママもうお仕事終わったから…」
 そしてやや息を切らせながら言うと、子供の横に、見たことのない学生を見付けてふと眉を潜める。この場合は不審に思われても仕方がない。千石大学の学生ではない上、事件現場に近い場所と言うこともある。征士は立ち上がってきちんと挨拶をした。
「彼のお母さんですか?。私は、そこの毛利君の友人で、伊達征士と言います」
 その時丁度、伸は手前の低木に手を掛け、こちらに顔を向けて立って居た。無論純の母親は彼に面識がある。否そればかりか、しばしば息子の面倒を見ていた学生だ。悪い印象は持っていないだろう。
 彼女は征士の言葉を聞くと、確かに幾らか態度を和らげてくれた。しかし何故か、途端に落ち着かない様子になって、もじもじとした素振りで話し始める。
「ああ、そうですか…。あの…、もうよろしいんでしょうか…?」
「は?」
 その問い掛けには主語がない為、征士は何を聞かれたのか判らなかった。すると慌てた様子で、母親は質問の意味を改めて説明する。
「いえ、その…、大学ではまだ色々、妙な噂も囁かれてますし…、彼はあれからずっと、ここに来てなかったでしょう…」
 成程そう言う意味かと思いつつ、
「ええまあ、今日は事情がありまして、無理矢理引っ張って来ましたが」
 と、征士は大人向けに適当な説明しておいた。
 否、そんな内容はどうでも良いのかも知れない。征士は彼女の妙な様子が気になって仕方がなかった。何かを聞きたそうに、或いは何かを話したそうに見えるが、まさかここで、伸について恐ろしい告白でもする気だろうか?。
 征士が考えていると、少年の母親は正にその序章を始めるように、
「そう…。あ、あの…、こんなことをお聞きするのは失礼と思いますが…」
 何かに縋りたがるような目をしてこう言った。
「彼とナスティさんは、本当に何もなかったのでしょうか…?」
 意外と、詰まらないことを気にしているものだ。千石大学の関係者とは言え、一般家庭の主婦ならこんなものかと、征士はやや肩の力を抜いて答える。
「そう聞いていますが?」
「そう…、ですか」
 だがそれでも、何処かにまだ蟠りを残しているらしい。親族のひとりとして、学生食堂の従業員として、或いは一家庭の主婦の立場でこだわりたい何かが、この事件の中に存在するとでも言うように。
「それが何か…、何を気にされているのです?」
 親切にも征士がそう続けると、彼女は漸く本音らしきことを話し始めた。
「いえ…、ただ、婚約者の朱天さんが、気の毒に思えたものですから…」
 本音らしいのだが、やはり解り難い内容だった。
 聞いた話では、妙な噂が流れ始めた後に博士は婚約している。それを気の毒と言うのはおかしい。博士と婚約者は事件の直前まで、ずっと仲が良かったと報道されているが、伸も同様の見解を持っていた。ではそれ以外に何かがあったのだろうか?。征士はやっと関心を持って聞くことができた。
「どういう意味ですか?」
「それが…事件が起こる、半月くらい前だったと思います。ここでナスティさんに会った時に、彼、毛利君ね。近頃彼といつも一緒に居るように見えたので、朱天さんがやきもち焼くんじゃないかしら?、って言ったんです、私。そうしたら、『朱天さんは婚約者だけど、彼は兄弟のようなものだから、家族の方が大事に決まってるでしょ』、なんて言ったんです…」
 それは、本当に難解な答だと思う。
「普通の感覚じゃないと思いました。皆さん言われている通り、もうノイローゼのようになっていた頃ですから、本人が何を思っていたのかは、わかりませんけど…」
「…確かに気になりますね」
 そこまで話してくれれば、彼女が噂の真偽にこだわる理由も解った。そして征士にもかなり気掛かりな話題だと思えた。普通に婚約者と弟を比べたら、迷わず婚約者を取るに決まっているではないか。良好な付き合いだった婚約者を差し置いて、本当の家族でもない伸を優先する意味は、これまでに仕入れた知識からは想像できないことだ。
「朱天さんはとても良い方で、よくナスティさんを気遣っていらしたのに、ナスティさんの方は何だか、他の事に熱中しているような様子で…」
 だが、征士は先程の純の言葉を思い出していた。この場合の「婚約者」、「家族」と言うのは実は便宜的な言い回しで、単に自身に取って大事な役割を持った人間、と言う意味だったとしたら?。
 博士と伸が熱中していた事があるとしたら…。
「伸は、博士とは何もないと言っています。ただこの純君が言うには、どうもふたりして、ストーカーを捕まえようとしていたらしい」
 恐らく、そんなことではないのか。
「え…、そ、そうなの?」
「伸にいちゃんは見張りをしてたんだよ、きっと」
 自分の息子に諭されては、親も誤りを認めるしかなかっただろう。少なくとも近頃は自身より、息子の方が博士の傍に居たと思えるのなら。しかし、征士にはまだ納得できなかった。何故それを他の親しい者から隠して、催眠などと言う方法を使わなければならないのか。
 すると母親は、改めて過去を回想しながら言った。
「…そう、そう言えば、去年からずっと困っていたんだわ…。婚約が決まった頃は、私も何度か相談を持ちかけられて…。困ってると言うより、いつも怒っていたわ…」
「怒っていた?」
 それもまた征士は知らない話だった。
「ええ、とても。最近お仕事も忙しくなっていたし、私達の知らない所で、きっと酷く悩んでいたのね…」
 彼女はそこまでを話すと、漸く落ち着いた様子に戻っていた。自身の中で何かが整然とした結果だろうか。事実は殆ど理屈に合わないままだが、それをこの親子に追及しても仕方がないと、征士はそれ以上、同じ話題に触れることは止めておいた。
 伸は変わらず、中庭の樹木の間を行ったり来たりしている。今は何も考えてはいないだろう彼が、その不可解な事情を皆知っている筈なのだが。



 見事な夕映えの頃、羽柴は小田原の町を急ぎ足で歩いていた。
 彼は午後四時頃には小田原署に戻り、新たに収集された報告に目を通していたが、暫く経って、入院していた柳生博士が自宅に戻ったと連絡を受け、また慌ただしく外に出て行った。拠って手にはお見舞いの菓子折。実はこれを選ぶのに十五分も費やしてしまい、挽回する為に急いでいるのだった。職業に似合わず、彼の本質はかなり優柔不断な面もあるようだ。
 退院したばかりの博士の負担にならぬよう、なるべく夕食前には退散したいところだった。この分だと何とか、五時過ぎには柳生邸に到着できるだろう。明日に伸ばすくらいなら、短時間でも今日の方が良いと、羽柴は形振構わない様子で道を急いでいた。
 彼がそれだけ必死だったのは、千石大学と耀者会出版の確執が決定的になった、例の『取引停止事件』について、柳生博士も当時反対勢力の中に居たと、学長からの聴取にあった為だ。ここに来て耀者会と事件との関連が確実視され、事情聴取の中でもその名称が出されるようになると、同大学からは次々と情報が寄せられるようになった。
 つまり全ての発端となる、娘、息子の心中事件の頃には、千石迦雄須と阿羅醐帝人の間での確執だったものが、その対立状態を見て、以前から耀者会出版を疑わしく思っていた者達が、皆千石迦雄須の味方に回るようになった。そして彼の大学を中心に、反耀者会の勢力ができ上がった結果、後に一斉ボイコットのような事件に発展したのだ。大体そんな経過だったと、その勢力に加わっていた他の教授も話していた。
 当時の多数の学校、多数の教職者達が参加した運動の中で、もしこの柳生博士が、耀者会から恨まれる条件を作っていたとすれば、その孫であり、著名人となった被害者を殺害しようとする動機は、極めて強いものとなる筈だった。羽柴はその可能性を早く確かめに行きたかった。

 柳生博士は寝室のベッドに、比較的元気な様子で上体を起こしていた。重厚な調度品に囲まれた部屋に、用意された樫材の椅子に羽柴は掛けながら、
「お加減はいかがですか」
 とまず普通に挨拶をした。
「ああ、もう何でもないんだ。皆さんにはすっかり迷惑をかけてしまって…」
 確かに、事件直後の蒼白とした顔色とは違う、かなり落ち着いた印象を感じ取れはした。しかし博士は高齢で心臓に持病があるとのことだ。あまり無理はさせられないだろうと羽柴は思う。否、無理強いをして聞き出すと言う状況は、まず想像できないことだが、話の内容によっては心理的ショックを与え兼ねない。
「迷惑なんてことはありませんが、」
 だから羽柴は、本当は博士が退院するまでに、是非とも事件解決の目処を立てたかったのだが、
「むしろ謝らなければならないのはこちらです。捜査は進んでいますが、未だ容疑者を特定できない状態で申し訳ない」
「いや、それこそ謝ることじゃないぞ?」
 老博士は気の良い返事をしてくれたが、この後の成行きは慎重に進めなければ、と羽柴は考えながら、しかしどうしても出さなければならない名称を、まず先に話してしまうことにした。
「はい。…それで今日は、博士と耀者会グループについて、お話を窺いに来ました」
 案の定、博士の様子が見る見る変わって行くのが判る。
「耀者会、だって?」
 険しく皺を寄せた表情には、老いて尚憎むべき標的を見付けたような、鋭い眼光の煌めきがあった。これが懸念される、健康上の変化に繋がらなければ良いのだが。
「あの者達の仕業なのか…?」
「まだ確定してはいません。だから窺いに上がったんです」
 羽柴はより平静さを強調するように、穏やかな口調で事の説明を始めた。
「千石大学では現在、耀者会出版の教材や書籍を一切閉め出していますね?。その切っ掛けになった事件がありましたが、まずその頃のことをお話し願いたい。学長は当事者の立場なので、周辺の流れについてはあまりお詳しくない様子です。大学を中心に、耀者会のやり方に反対する勢力ができて行った、それはどういう経緯だったのか、おわかりのことを聞かせてほしいんです」
 そう、それがまず学校法人と出版社の確執の始まり。公にされた対立状況の始まりだった。この時一度大きく損益を被った耀者会は、反対集団に対して何を思っただろうか。
「…学長のお嬢さんの件がなければ、多くの者は気付かなかったかも知れない」
 すると博士はまずそんな話から始めていた。
「と言うと?」
「当時の耀者会出版は、まだ先代の社長が経営していた。先代は地道で信用の置ける人物だったので、みんなその人柄を信じて取引していたのだ。勿論、学長の御息女の縁談に関しても、先代を信用してのことだっただろう。しかし、その後若い夫婦を通じて、教職者として誇り高い学長には聞き捨てならぬ話が、度々耳に入るようになったらしいのだ」
 ここまでの内容は、これまで知り得た情報通りだと思えた。耀者会出版も、阿羅醐帝人の代になるまでは、至って真面目な学術出版社だった。
 先代社長は阿羅醐帝人の遠縁に当たるが、それまでほぼ世襲的に代替わりして来た企業が、ここで突然遠縁の者を社長に抜擢したのも、少々不思議な話とは思っている。企業が左前だったと言う事実もなく、先代社長にはふたりの息子があった。阿羅醐帝人の働きが幾ら素晴らしかったとは言え、安直に事が運び過ぎた気がしてならない。
 羽柴は過去へと想像を巡らせながら、博士の話の続きを促した。
「聞き捨てならぬとは、どんな話だったんです?」
 そして彼の回想は、羽柴の知らない当時の様子を明確に伝えてくれた。
「詳しい事例は聞いておらんが…、ただ、耀者会出版が関わる学校と、その学生に対する違法行為に、阿羅醐帝人一派が絡んでいるという話だったらしい。実は…、娘婿殿も常に、自分の父親に首を傾げるところがあったらしいのだ。殆ど顔を合わせず離れて暮らしていた父子で、親の悪い影響は受けなかったようだが。彼は結婚後は義父である学長を支持していた…。
 それで、教育関連の企業に勤める者として、そこまでモラルの欠けた人間が居るとは信じられん、と、聞き知った悪事の内容には誰もが、始めは耳を疑ったらしい。ところが半信半疑で調べ始めると、確かに怪し気な行為をしているのが判って来てな。だからある時、学長は阿羅醐帝人の許にひとりで出向き、直談判に行ったそうだよ。…結局それが、大変な亀裂を生んでしまった訳だが。
 学長と阿羅醐帝人、当時彼はまだ部長だったが、ふたりの争いは世に聞こえる程になって行った。学長は特に攻撃される事情は持たなかったが、向こうはありもしない話をでっち上げて来て、端から見れば同じ穴の狢が争うように見えただろう。その酷い状況に耐えかねて、若い夫婦は共に自殺してしまった…。
 だが、それを機に両家の縁も切れた。学長はその闘争からは身を引くことにして、しかし違法行為を放置はできないから、阿羅醐帝人を正式に裁判に掛ける為の準備を始めたのだ。学長は立派な人物として知られていたので、後々賛同する者も増えて行った。そうして賛同者が同盟を結んで、学長の行動に合わせてくれたのだ。取引停止事件とはそういうものだった」
 成程、千石迦雄須が如何に厳しい人柄だったとしても、世間に醜く映るばかりの泥沼の争いを、いつまでも続けるのは愚に思えたようだ。そこに耀者会お得意のでっち上げがあったなら、それを否定しようと争いは長引き、傍目にはどちらが悪者なのか判らなくなると言うものだ。
 そうして阿羅醐帝人は保身を続けて来た、その過程は想像に易いと羽柴は思った。
「博士は何をしておられたのですか?」
「ああ…、当初は、その裁判に向けた広報活動には、私は参加していなかったのだが…」
 そしてここから先は、これまでに聴取できなかった、全く新しい情報だった。
「何故ですか?」
「私は元々千石大学の学生じゃあなくてな、大学に関わる人間のことを、当時はまだ良く知らなかったのだ。だから学長の為の活動と言ってもピンと来なかった。…ところが、広報活動が始まって暫くした頃に、嘗ての同級生から一本の電話が掛かって来たんだ」
 千石大学の記録では確かに、柳生博士は学長の娘が結婚する半年前に、新設した学科の研究員として召集されたひとりだった。そしてその学問の第一人者と言える柳生博士が、千石大学に移ったことは当時は大きな話題だった。彼はある意味で千石大学の看板だっただろう。学校関連の疑問を彼に相談しようとする、過去の知人が現れるのは不思議ではない。
「耀者会は疑わしい、と言う電話ですか?」
「そうだ。その時にはもう、阿羅醐帝人が耀者会出版の社長になっていたが、私の友人である大学教授が、自分の教え子が詐欺らしきものに遭ったと言うんだ。それで是非、この活動に参加させてほしいと言ってな…。私も旧友が言うのだからと、久し振りに母校を訪ねてみることにしたのだ。
 それで折角だから学長に報告できる形に、色々調べて来ようと思って出掛けたが…。行ってみて驚いたよ、細かいものまで含めると怪し気な話の多いこと。自分の学んだ大学が、そんな環境になっていたことに愕然とした。そして私は気を改めて、この現状をしっかり報告しようと思った。それが切っ掛けで、広報活動にも参加するようになったのだ」
 その頃にはもう、あちらこちらで耀者会の悪さが目立って来ていたようだ。
「学長は何と仰いました」
「報告についてかね?。とても真剣に捉えて下さったよ。この事実を多くの人に知ってもらえるように、是非助力をお願いしたいと言われた。無論私は、母校を救いたい気持もあったしな、快く引き受けた。それからは知り合いの教職者や、出版社をしつこく当たり始めたよ。仲間が増える程、耀者会に対する監視の目も厳しくなるだろう。それが証拠集めには大事なことだと思ってな」
 対立したままの現状への流れ、それぞれの人の思考、柳生博士の談は疑いの余地もさほど感じられない、ほぼ事実として扱えそうな話だと羽柴は思う。だが、
「さあ、それで、賛同する者がかなり集まって来た頃に、ここで思い切って、耀者会出版とは手を切ったらどうかと進言したんだ」
「博士がですか?」
 そこで羽柴は微妙に眉を顰めた。
「うむ。協力者の数ももう、臨界に達したのが見えた頃だった。このまま水面下でだらだら活動を続けても、一時の勢いを失い、風化させてしまうようでは意味がないだろう。何か行動を起こした方が良いと思った」
 確かに理論的に考えて妥当な発案だが、ただそれは危険な行動ではなかったか?。その結果が過去の株価の大暴落だとしたら。
「それは、誰が御存知でした?。学長の他に」
「いや、みんな知っている筈だ。広報活動の会議中に提案したことだからな」
 もし広報活動から広まった組織の、末端の人間にまで彼の偉業としてそれが伝わっていたら、耀者会側は当然博士に目を付けるのではないか?。
「それと、朱天君にも話したんだよ」
「は…?」
 思いも拠らない名前まで耳にした。
「彼は私達とは世代が違う教員だが、何でも彼の友人が、耀者会出版から酷い仕打ちを受けたことがあるとか。偶然そんな話を彼から聞いた時に、私は裁判に向けての活動が、現在も続いていることを話したんだ。彼はとても関心を持ってくれてな、すぐに活動に参加すると言ってくれたよ…」
 当然それは犬山孝のことだろうが、朱天童子と言う人物は、非常に正義漢で行動派の人間だと聞いている。今現在は終息しているような格好の、反耀者会勢力の活動が新しい世代に渡り、また新たな広報活動を起こしている可能性は、彼なら充分考えられるかも知れない。新しい動きが既に始まっていたのかも知れない。
 そしてその動向に、現在の耀者会グループが気付いていたとしたら?。
 千石迦雄須も柳生博士も、もしかすると朱天童子も、耀者会には面白くない人間だ…。
「・・・・・・・・」
 羽柴は不意に黙り込み、被害者を取り巻く環境について考え込んでいた。これだけの条件が揃えば、耀者会グループが被害者を標的に据えたとして、全く違和感がないと思えた。後は誰が実行したのか、ただそれだけに懸かっているのだ。ここまで来たと言う思いが今、羽柴の頭脳を駆り立てて止まない。
 しかし、そんな様子を見せてしまったのは間違いだった。
「まさか…、私が原因か…?」
 博士は空に向かって言った。その表情は先程までとは明らかに違っていた。
「そうと決まった訳では…」
「いや確かにそうだ、阿羅醐帝人は私を恨んでいるだろう。学長のことも憎んでいるだろう。だからなのか…!」
 血走った眼球、口を突いて出る言葉、もう羽柴の制止が利かなくなっていた。
「落ち着いて下さい、博士」
 最も危惧していた筈の事が起こっていた。
「…博士?」



 夜の八時を過ぎた頃、漸く征士のマンションに戻って来たふたり。
 陽のある時間帯はもうとうに過ぎてしまったが、まだ催眠実験の全てが終わった訳ではない。今日は小田原、鮫洲間を二往復して、体力的な問題はなかったが、精神的には相当疲労している状態だった。こんな経験は滅多にし難いものだと思うが、貴重な体験だとしても、できれば早く片付いてほしいと願っていた。喉元過ぎれば熱さ忘れると言うように、一瞬だからこそ苦悩も我慢できるものだ。
 だからこの後もすぐ実験を続ける予定だ。
「おいし?」
 伸は帰り道のコンビニエンスストアで買って来た、フォーションのアイスクリームを妙に嬉しそうに食べている。甘いものが欲しいと感じるのは、それこそストレスか、脳が疲れている証拠なのだ。辛党の征士も珍しくコーヒーに砂糖を入れていた。
「それにしても、さっきは驚いたな」
 征士は夕方に起こった、小田原駅での出来事を思い出している。
「あのさー、実験はいいけど、恥をかかせないでほしいよ」
「予想できないのだ、どうしようもないだろう」
 つまり博士のメモに残された言葉は、パソコン用語に見せかけた表現をしている為、実際何が起こるかを説明されていないのだ。そして何があったのかと言えばこうだ。

 千石大学の中庭に三、四十分滞在したその後、伸は結局何事もなく小田原の駅に戻って行った。催眠を開始した駅の改札付近の場所に、伸はきっちりと戻り、前回と同じように携帯電話のリセットボタンを押していた。そして一度催眠は解除されると、普通の意識が戻った伸は、流石に二回立て続けに行ったせいか、もう酷く動揺することはなかった。
 夕方五時半になろうとしていた。駅は帰宅ラッシュの時間になっていた為、改札付近の人通りが増して、彼等は通行人の邪魔になると判断した。同じ場所で再開するのは止め、千石大学方面の、出口の外から再び開始することにした。
 征士は『フラジール』と言って、次に書かれた文字、『新規』と言った。
 すると伸は何処にも行こうとはしなかった。行かない代わりにぺらぺらと喋り始めた。

「五月十四日。付近を暫く観察した。大学生、その他学生、会社員、一般、警察官、新聞配達員、水道工事、子供、不明、合わせて二十七人を大学の周囲で見た。その内知っている人は、征士と、正門の前に住んでいるお婆さん。顔見知りは学生五人、近所に住んでいる人二人、附属高校の男子一人。新聞配達のバイクが家を回っていた。付近に停まっていた車は五台。パトカー、水道工事会社のワゴン二台、シルバーの中型車、赤の軽自動車。特に怪し気な人物は居なかったので、追跡はしなかった。報告終わり。
 五月十四日。西校舎の横の中庭で、暫く観察をした。文学部の学生が一人、福祉学部の学生が三人、知らない学生が四人通ったが、みんなそのまま通り過ぎて行った。中庭に立ち止まった人は誰も居なかった。怪しい行動をした人も居なかった。
 征士がずっと近くに居たが、何もなかった。四時四十分頃、純が来た。僕に何処に行ってたんだと聞いたが、答えないでいたら征士が連れて行った。四時五十分頃、純のお母さんが来た。ふたりは征士と話をしていた。僕と博士の名前が聞こえたが、特に不審な内容はなかった。暫くして、挨拶をしながら行ってしまった。それ以降は何もなかった。報告終わり」

 それを、電車から降りて来た、又は電車に乗りに来た人々の前で、伸は延々話し続けたのだ。普通駅などを歩く間は、他人の会話はあまり気にしないものだが、その妙な内容と、伸の単調な話し方にふと耳を取られるのか、多くの人がわざわざ振り返って彼等を見た。立ち止まって眺める者まで居た。
 征士がその状況に困っている内に、彼の「行動レポート」は終わったのだが、今度は前の二回と違い、催眠状態から自動復帰しなかった。次の命令を待つように、伸はボーっとしたままそこに立って居た。レポートの内から見ていた周囲の人に、「大丈夫ですか?」と声を掛けられてしまう。この場に居るのはとにかくまずいと、征士は止まった状態の伸を無理矢理移動させることにした。
 半ば引き摺るようにして、小田原駅からやや離れた公園に辿り着くと、征士はどうにか催眠状態を解こうと試みた。色々試してみた結果、何のことはない、もう一度『フラジール』と言えば解けることが判った。
「あれ、何でこんな所にいるの?」
 と伸は言った。

「だが、お陰でかなり判って来た」
 その夕方の出来事は、小田原駅を使う人々には、相当奇妙な印象を与えたことだろう。しかし結果的には、メモに残された命令語の構造を解明してくれた出来事だ。
 メモには『起動と消去』の横に続けて、『サーチ』『ウォッチ』のふたつが書かれていた。これらは『起動と消去』に含まれる行動のパターンであり、サーチの場合は恐らく不審者を追跡する行動、ウォッチは言葉通り見張りをするようだ。
 そしてそれぞれ違う段に、『新規』、『保存』、『履歴』の三つがある。それぞれが『起動と消去』と同列に並ぶ、別の行動だと想像できるだろう。そしてその内の『新規』は、新しい行動記録を口述レポートすると判った。だとすれば他のふたつも、特に出歩くタイプの行動ではないと思えた。
 以降は家で実行しても問題ないだろうと考えられた。
「役に立ったならいいけど」
 嫌な思いをして何の成果も上がらないのでは、誰でも協力する気など失せてしまう。伸はそんな口振りで返したが、征士は更に前の話を思い出して言った。
「そう言えば、おい、ボディガードとは何だ?。そんな話は聞いていないぞ」
 足りない情報があればある程、正しい分析は難しくなるだろう。博士と伸の間にそんな契約が存在したなら、誰が術を掛けたかを悩む必要はなかった。しかし、
「え?、何のこと?」
「博士の従兄弟の子供が言っていた。伸は博士のボディガードをしていると、本人から話を聞いたそうだが?」
 伸は今一つ呑み込めない様子で、それから思い出したように、
「…ああ、それは話だけだよ。随分前のことだね」
 と軽く笑いながら言った。
「話だけ?」
「そ。博士と純と三人で居た時、純が何処からかストーカーの話を聞いて来て、博士や僕に色々聞きたがったんだ。それで暫く話してる内に、僕はよく博士と一緒に居るから、『じゃあ僕がボディガードをやろうか』って言ったんだ。それだけだよ。別に後々頼まれもしなかった」
 純朴な子供に嘘を吐いた訳でもなかった。まだ事態がそこまで深刻でなかった頃に、少年を安心させる為にそう言ったのだ。成程、日常的にしばしば見られる会話だと思う。
 しかし、過去の他愛無い会話の一場面を思い出し、笑っている割に伸の表情は曇っていた。何処に焦点を合わせているのか、瞳が虚ろに流れ、過去の重みに堪えかねたような苦しい息を吐く。
「本当にやってれば良かったね。…何もできなかったばかりか、実は殺人犯じゃ話にならない」
 伸はそう言って、過去と現在の繋がりについて考えていた。
 もしこうしていれば、と幾つもの可能性を思い描くことは、普通の人生の中では、次回に生かせる教訓になることもあるだろう。けれどこんな結果では何の意味もない。
 未来を亡くした命には、最早何もしてあげられることはない。失われた存在に対し、誰が何を以って償えると言うのか。或いはどんな酬いを受けるだろうか。目には目を、歯には歯をと言う。もし汝が他の誰かの命を奪うなら、同じ命でしかその代価は払えないと、彼の世界的救世主が言ったように。
 守れたかも知れないものを失った、ひとりの命が消えたことに、己は何をすれば良いのか判らない。何もできなかった過去の延長上に、まだ何もできないでいる、今も尚己は何もできていない、と伸は繰り返し考えているようだ。何よりそれが悔やまれることだからだ。
 誰もが言うように、いつも自分が最も近くに居た筈なのに。と。
「それはない。と思う」
 けれど征士はそう返した。無論本人が知らないだけだからだ。伸は博士の命で確かに何かをしていた。最終的に何を目指していたかはまだ見えないが、少なくとも博士に危害を加える行動ではないと、今は随分理解できて来たところだった。
 伸は犯人にはなり得ない。
「信じないんじゃなかったの?」
 それでもまだ沈んだ様子で、伸は征士に最初に会った日のことを思い出している。
「半分はと言った」
 確かに彼はそう言ったが、それももう随分昔の話のように征士は思う。
「今の信用は九割と言うところだ」
「…すごい進歩だ」
 何故なら事実がそう言うのだから仕方がない。罪なき者は必ず、事実に因って救われるのだろうから。



「遅かったじゃねぇか」
 秀が小田原署に戻ったのは、丁度一般家庭が夕食を迎える頃だった。羽柴が柳生博士に面会に行ったと聞き、ならばじきに戻るだろうと、彼は警察署内の食堂で簡単に夕食を済ませていた。ところがそれから一時間を猶に越え、漸く羽柴警部の御帰還となった。そしてその表情は暗い。
「どうした?」
「…まずった」
 無論柳生博士のことである。予想できない事ではなかったが、話の中で博士自らの感情が極まり過ぎた。それがそのまま発作へと発展した為、彼は再び入院することになってしまったのだ。今日退院して来たばかりだと言うのに、話を急ぎ過ぎたと反省する他にない。
「これで博士まで仏になったら、間違いなく降格されるな」
 額に手をしながら羽柴が言うと、
「へへっ、いいじゃねぇか!、もう一回警部補からやり直せよ?、俺と一緒に」
 秀はからかうようにそう返した。無論本心からそう思っている訳ではないが、
『やなこった』
 と羽柴は口に出さずに反論する。口に出さなくとも、捜査本部室の席に着こうとする彼の、些か横柄な態度で一目瞭然だと秀は思った。



つづく





コメント)段々文が進まなくなって来てちょっと、いやかなり辛いです(泣)。というのは後になるに連れ、前に張った伏線を補足していかなきゃならなくて。愚痴ってもしょうがないか、もうちょっとで終わるんだからっ!。では次へ。



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