クラブハウス
Passenger
#10
パッセンジャー



 犬山孝の長い告白を聞き終えた。
 その内容は決して疑わしいものではなかったが、しかし羽柴は自身の知識の中に、確かな資料的情報が存在しないことから、普段より慎重な姿勢にならざるを得なかった。
「疑う訳ではないが…、不可解な話ばかりだ」
 詐欺紛いの商品を展開していた過去の、複数の被害者の情報は闇へと消えたと言う。企業が起こした様々なトラブルの記録も、調査書など当然あるべき物が存在しない現実。そして犬山が起こした復讐劇さえ揉み消され、今は彼等の口実に誤魔化されている。とすれば、耀者会グループにはそれらの情報を押さえられる、協力者が存在しなければならないが…。
「だろう?。耀者会の奴等はそう言う、奇妙な事件を起こす天才なんだ」
「奇妙な事件か…」
 一言で奇妙と表現するだけでは足りないくらいだった。前に触れた通り、事件調書の作成にはそれぞれ、関連のない複数の警察官が携わっている。それら全員が耀者会の手先とは、まず殆ど考えられないだろう。ではどうやって追及させないようにしているのか?。
「そう、『結果的に奇妙な事件』さ。事実がどうだったかじゃない。ん、…待てよ」
 すると、それまで一定の調子で話し続けた犬山が、突然何かを思い出したように言葉を止める。
「他に何か?」
「…耀者会が手を下したのか…?」
 そして彼の顔色が刻々と変わって行くのを、向かいに座る羽柴は具に観察していた。秘めたる復讐の意欲に燃え、血の気を帯びた生き生きとした様子を見せていた、それが一変し、彼の顔が土気色に翳って行く様は、癲癇でも起こしそうだと羽柴の目に映った。
「おい、どうした?」
 気付けのような調子でそう声を掛けると、暫しの間を置き、犬山はボソボソといった風に話した。
「彼女は、博士はそれを知っていたのか…?」
 恐らく何か、被害者について重大な事を思い出したようだ。
「どういう意味だ?、わかるように話してくれ」
 再度強い口調で羽柴が問い掛けると、犬山は何とか言葉を続け始めた。
「実は彼女には、今話したことを、みんな話してあるんだ」
 今話した、とはつまり彼の過去から復讐までの経緯だろう。被害者がそれを知っていたことが、事件とどう関連があるのだろうか?。羽柴は尚注意深く彼を促した。
「話したのには、何か切っ掛けがあったのか?」
「ああ…。博士と知り合ったのは、去年の秋頃だったが、婚約者の友達ってだけで、彼女は始めから俺にとても親切だった。今年の正月には近いからと言って、大学に届いた年始のお祝い品を持って、このアパートに寄りに来たことがあるんだ。その時に、普段は他の学生や朱天が居るから聞けなかったと言って、この顔の傷について質問されたんだ。彼女は朱天に似たり寄ったりの正義漢でな、俺がこんな傷を負ってるのはおかしいって、言ってくれたよ」
 そこまでは単なるエピソードに過ぎないだろう。けれど被害者は、彼が人に知られたくない事情を持っている可能性を考え、他の者が居ない時を選んだ。殊に良心的な気遣いを示していたのが判る。
「あんたは信用されていたんだな」
 と羽柴が一言挟むと、犬山は少しばかり表情を緩めて続けた。
「かも知れない。…だから嘘を吐きたくなかった、俺は正直に一切のことを話した。そうしたら見方を変えるどころか、俺を可哀想な人だって、痛ましい表情をしながらも力強く訴えていた。不正に対する憤りを、彼女は明確な態度に表してくれたんだ。それで、この人は素晴らしい人だと思ったんだ。実際俺はろくな事をしない人間だと、自分でも思っていたし、そんなに心を痛めてくれる人が居るとは思わなかった。博士はこんな自分にも、偏見を持たずに真直ぐ見てくれてるんだと」
 彼は意外と冷静に自身を評価していたようだ。こういう人間には、あまり妄想的な行動は出ないと心理学は言う。その線はもう、この部屋に来た時からなさそうに思われていたが。
「それでどうなった?」
 更に先の話を聞こうと羽柴が尋ねると、そこで少し犬山の様子が変わる。
「それが…、俺が耀者会グループに利用される身だと知って、彼女は『前向きに立ち向かいましょう』と言い出したんだ。いや、いくら尊い思想の下に生きてるとしても、まさか即行動しようとするとは思わなかった。それはある意味、阿羅醐帝人への復讐を実行した、俺の行為を容認するって意味だろう?。そんなことはとてもさせられないと思ったが、その前に彼女には彼女の、別の問題があった訳なんだ」
「別の問題?」
 行動的な被害者が抱えていた別の問題とは、
「ストーカーだよ、刑事さん」
 言われてみれば確かに、正月の時点では半年以上も困らされて来た問題だ。
「彼女は俺と知り合う前から、誰かに後をつけられていると言っていた。それで、今までは逃げるばかりだったが、自分も立ち向かってみようと思うって…」
「何だって?、それじゃ…」
 つまり被害者は逆に、追跡者を排除しようと動いてたのか?。
「勿論危険だと言った。そう言う手合いは下手に刺激しない方がいいだろう?。だが彼女も結構頑固なんだ。不当な生活環境の侵害とは戦うべきだって、妙に頼もしい様子でもあった。世話好きな性格だとは聞いていたが、それ以上に、人の為に自ら攻撃することも辞さないタイプなんだな。俺は、彼女が信用してくれたことが嬉しかっただけで、だからそれ以上、きつく言い聞かせることはできなかった」
 もしその話が本当だとしたら。否、ほぼ間違いない供述と考えて良かった。被害者は正月以降、ストーカーらしき者に接触しようと試みていて、そしてどうなった?。その人物には接触できたのか?。否、三月末には探偵を雇っている、少なくともそれまでストーカーは存在したのだ。あくまで被害者の談ではあるが。
 今年の正月、そしてその後何があった?。一月、二月、…二月には被害者が学生の母親に電話をしている。内容は夢遊病を疑う電話だ。ではやはりストーカーは彼なのか?。それなら探偵を呼んだのは、ただ鎧山と言う人物を呼び出す為の狂言だったのか。
 否、それでは辻褄が合わない。毛利伸がストーカーだと知った以上、ノイローゼになる程ストーカーに怯えるとは思えない。と、羽柴は時間的な考察を続けている。
「だから、この事件に耀者会の奴等が絡んでるとすれば、ストーカーも何もみんな、奴等の仕業に決まってると思う。今思えばやっぱり、とにかく駄目だと言うべきだったんだ。それか、朱天にでも話しておけば良かった…」
 犬山は深く溜息を吐いてそう言った。
「そうだな…」
 なまじ耀者会の近くに居る彼には、まるで己がその悪しき影響を被害者に与えたように、辛く感じられているのだろう。様々な事件を追って来た羽柴には、しばしばそんな立場に置かれる者に出会い、又それを切なくも感じて来た。だがそれでも、非情と思われても、最優先に任務を遂行しなければならぬ身だ。
 人の感情が理解できない訳ではない。だが今は感傷に浸っている時ではない。事件の解決が、後に全ての者の心を救済する筈だと、警察官は皆信じて行動するしかない。
 羽柴は沈んだ場の雰囲気を、そう切り替えて最後の確認に入った。
「博士が訪ねて来たのは、正月の話で間違いないな?」
「ああ、正しくは正月明けだ。一月六日だったと思うが…」
 犬山も話し終えた後は、元の平常な様子にほぼ戻っていた。
「それからもうひとつ確認させてもらいたいんだが、事件の当日、ここに編集担当者が来ていて、ずっと詰めていたと言ったな」
 そう、それも重要なひとつの疑問だったのだが、
「ああ、そうだ」
「彼が帰ったのは午前五時頃で間違いないか?」
 もしそれが間違いでないとしたら。
「間違いないと思う。電車が動く頃まで待ってから帰ったんだ。俺は徹夜で疲れてすぐ寝ちまってな。だから事件を知ったのも、午後のワイドショーだったんだ」
「そうか」
 何故そこだけが食い違うのか。それともやって来た担当者は別人だったのか?。
「いや、長い間どうも。お陰で助かった」
 羽柴はそう言って右手を差し出していた。それを素直に受け取った犬山には、やはりこれと言った動揺は見られなかった。
「今更礼なんかいいんだ。こんな状況だと聞かされれば、警察に頼むしかなさそうだと思う。俺はこれで耀者会グループが潰れてくれれば、二重に有り難いからな」
 犬山は何処か吹っ切れた様子でそう言うと、信頼を表すように、羽柴にはとても穏やかな顔を向けていた。そう言う素直さが彼の本質だと、確かにその人間性を表しているようだった。
 しかしその後、午前五時の目撃証言は上がらなかった。



『そうか、元の場所に戻るのか、成程…』
 午後一時を少し回った頃、自宅マンションを出て行った伸の後を追い掛け、征士は再び鮫洲の町へと戻って来た。そう、催眠を呼び起こす実験の最中なのだが、この四時間程の間に小田原を往復して来たのだ。どんな行動をするか判らないので、ただ着いて歩く以外に仕方がなかった。
 しかし伸はと言えば、千石大学の柵の外を暫くうろうろした後、ただそれだけでその場を引き返し、再びマンションへ戻って来てしまった。行動を起こした場所に戻る仕組みになっている。それは理解できたが、付き合わされた征士は気分的に疲れていた。驚くべき何かを発見したならともかく、ぼんやり歩き回る彼を見ていただけで、しかも往復の電車代を払わされてしまった。
 考えてみれば、元々の伸の行動領域は小田原周辺なのだから、まず小田原に行ってから実験を行うべきだった。まあ、次回からそうするより他にない。
 ところが部屋の前まで歩いて来た伸は、そのドアノブに手を掛けて少々困っている。
「あー、待て待て」
 征士が鍵を掛けて出た為に、伸は戻るべき場所に戻れなくなっていた。幾度かガタガタとドアを引く音から、数メートル手前でそれに気付いた征士だが、しかし催眠中の行動とは妙なものだと、ドアノブに意識を集中している彼を見て思っていた。
 その行動とは意外に不便そうなのだ。本人の意思に反して行動させる、と言う原理から考えても、スパイのような身のこなしとはいかないだろう。それ以前に、一定の範囲で行動も思考も制限された状態らしい。与えられた目的を遂行し、決められた場所に戻ると言うだけの、寄り道の無い、非人間的な行動を余儀なくさせられている。これでは単一の目的にしか使えそうもないと思う。
 そしてだから、もう出発した部屋の前に立っていると言うのに、伸は元居た部屋のその場所に戻らないと、一連の行動が完結しないのだ。全く融通の利かないことだ。開かないドアの前で、とにかく戻ろうと努力している様子は、涙ぐましくさえ感じるものだった。
 征士がその鍵を開けてやると、視覚で捉えた情報は普通に理解できるらしい。伸は何もなかったようにドアを開けて、すんなり部屋の中へと上がって行った。
 恐らく、催眠中の本人は何も感じていないのだろうが、この行動を端で眺める者は、誰しも心苦しい心象を抱くと思う。現に征士はもう、この実験をなるべく最少限度に留めようと思っていた。何故なら催眠によって人を動かす行為は、その人を人間として扱わないと言う意味なのだ。催眠行動とは凡そ人間の自然な動作ではない。そんなことを征士は知って、非常に嫌な考えに行き着いていた。
 この術を施した博士は、どう言うつもりでこんなことをしたのだと。
 玄関を入ると、そこから真直ぐ続く部屋の中に、伸が元々座って居たその場所に立っているのが見えた。行動の意味も目的も殆ど判らなかったが、彼がひとつの仕事を終えた様子を見て、征士は安堵したような溜息を吐く。するとその視界の中で、伸はもうひとつの行動を始めていた。
 これまで殆ど触れたことのなかった、首から下げている携帯電話を左手に取ると、マスコットとして付けられていた、眼鏡用の小さなドライバーをチェーンから外し、電話の背面の、ある部分にそれを押し付けていた。既に伸の前に来ていた征士は、その行動を確と自分の目で確認した。彼はリセットボタンを押していたのだ。
 だから、この携帯電話には何の記録も残っていなかった。
 そうするように暗示された行動なのだ。催眠に入る為の言葉を電話で受け、その証拠を消す為にリセットボタンを押させるのだ。何と周到なプログラムだろう。そう感心する傍から征士はふと閃く。
『これが、「起動と消去」ではないのか?』
 そう、それで恐らく間違いないだろう。ドライバーを元通りにチェーンに繋ぐと、伸は携帯電話も手放し、もうその事は意識の外へ捨てられた様子になった。そしてその場に座り込むと、
「…、…ん?、今、どうしてた…?」
 彼の意識は突然、朝の時点に復帰したのだった。ひとつの催眠行動が終わると、こうして自動的に解除されることも判った。
「今、今、何か起こっただろ…」
 そして最初に会った時のような、不安な様子を彼は頻りに訴え始めている。確かにこれだけの時間が欠落すれば、場の不自然さは自ずと感じ取れる筈だ。太陽の向きが変わっている、部屋の温度も上昇している、何より自身の状態が運動後の変化を示しているからだ。
「ああ。さっき話していた通りだ。今催眠の検証をしているところだからな」
 征士は努めて平静さをアピールして話した。催眠行動を不安にさえ思わなければ、解除された後も狼狽える必要はなくなる。術者には是非そう言う配慮もしてほしい、と征士は思う。
「検証…?」
 すると暫し黙って考えた後に、
「…ああ、そう言えば…、僕は術に掛かったのか?」
 伸は比較的冷静に返事ができた。元々の記憶にも混乱は見られないようだった。
「そうなのだ。偶然の発見からだが、少しばかり命令パターンが判って来た」
「へー…?。すごいなー」
 そして彼は静かな言葉の中に、驚きと喜びの入り混じる気持を表現していた。記憶が途切れることは同じでも、これまでとは明らかに違う、悪夢から覚めたようなどんよりとした気分ではなかった。何故そうなったのかを説明をしてもらえた。己に感知できない己の行動を見ていてくれた。そのふたつの事実がこんなにも、心を楽にするとは思いも拠らなかった。それが少なからず本人に感動を与えていた。
 心とは捉えようのない複雑な動きをしながらも、案外単純なメカニズムを持っている。それを応用したのが催眠術であり、その点を押さえると、人の心を動かし易いと言うことなのだ。再び例に挙げるようだが、的確な宣伝を打てば物が売れるのと同じ。誰の心も大体、根底の部分は同じように働くと言う証明だった。
 心理学とは実に面白い。
「確かにすごいのだ。この術の掛け方は相当考えられていると思う。他の命令語を一通り試せば、催眠の目的も大体見えて来ると思う。だから…、いやその前に」
 苦悩は早々に通り過ぎた方が良いと考え、征士はこの後すぐ続行と言おうとしたが、止めた。
「その前に何?」
 ほぼ元の様子に戻っている伸が尋ねると、
「昼飯を食べに行こう。もう一時を過ぎている」
 確かにいつの間にか、空腹感を感じている自分に気付いて伸は頷いた。
「うん。それにしても…、なーんだって感じだったんだなぁ、ホントは」
「そうか?」
 つい先程まで恐怖に顔を歪めていたと思えば、今は妙に安心し切った態度に変えて、伸は軽快な足取りで玄関へと向かって行く。まだ何も判ってはいないのだが、彼にはもうそれで終わったことのようだ。否、そのくらい心の変化があったと言う意味なのだろう。
 無論恐れないでいてくれた方が、この後の予定も進め易い筈だった。



 大学のクラブハウスは、その日の午後になって解放されていた。
「何かやだなぁ…」
 部屋の入口で発せられた、ルナの呟きも解らなくはない。事件に関わる証拠が尽く、己の身辺から上がって来る事実を目の当たりにしては。
「箱の中にあったって、何で最初に調べなかったんだ?、警察は」
 そのサークル部室を見回した遼が尋ねると、
「その箱、ここに置いてなかったんだ。いつの間にか消えちゃったと思ってたら、昨日凍流ちゃんがどっかから見付けて来たんだって」
「消えてたー?」
 ルナの説明は大いに疑問を感じるものだった。
「だから、何処行っちゃったんだろって、みんな探してたんだよ」
 箱の中身はサークル部員の私物が殆どだった為、確かに皆かなり捜し回ったのだ。二、三万から十万ほどするスポーツ用品を、学生ならそう簡単に諦めたくはないだろう。しかし思い当たりそうな場所には、何処にもその姿を見付けられなかった。その後十日程経過して、事件が起きた時にも所在は不明のままだった。
「いつ頃気が付いたんだ?」
「箱がなくなったこと?。つい最近だよ。四月十八日だったかな、新入部員を交えて、今年の旅行計画を立てた時にはあったんだ。すぐわかる所に置いてあったんだよ。それでゴールデンウィークの直前に、後輩の子が海外にスキューバに行くって、スーツを入れてたその箱を探してて。その時にはなくなってたんだ」
 四月の半ばから連休の前に、箱はこの部屋から運び出されたようだ。そして今は出て来ている。入れた筈のない博士の私物を潜ませて。無論、盗品は事件の当日まで博士の部屋にあった物だ。それ以前に箱に入れられる訳がない、婚約指輪など。
 これを計画的と見ていいのかどうかは判らないが、事件の直前の紛失、発見時には奇妙な状態、偶然にしては出来過ぎている気がした。
 遼とルナのふたりが話している所へ、一仕事終えた秀が顔を出した。
「おっ、やっと入れるようになったか?」
 彼が変わらぬ口調で声を掛けると、
「ああ刑事さん」
「あー!、こんちはー!。あ、凍流…助教授も」
 快い様子でふたりはそれに答えた。ルナが言葉尻を濁したのは、平日は大人しくて暗いと言う、凍流鬼丸が秀の背後に現れたからだ。別段嫌な存在ではなかったが、ルナは平日の彼にはやや付き合い難さを感じているようだ。それはともかく、
「ねえ、どう言うことだったのさ?。あたし達にも教えてほしいんだ」
 彼女は先程までの勢いで続けた。
「みっかった博士の所持品のことか?」
 秀がそう返すと、ルナは小さく頷いて見せる。その後ろで遼も真面目な顔をして、秀の次の言葉を待っている様が見受けられた。
「まあ、詳しいことは後でこの助教授から聞いてくれ。簡単に説明すると、事件の前にこの部屋からなくなった段ボール箱が、大学院の資料置き場に置いてあったのを、彼が見付けてここに運んで来た。で、中を改めたら盗まれた物が出て来たって訳だ。間違ってないよな?」
 大体の経過を秀は説明し、隣に立つ凍流に同意を求めた。
「はい」
 彼は無駄に喋ることもなく、一言ぼそっと返事をした。
「資料置場って、大学院の入口から入ってすぐの所だろ?、ゴミ溜めみたいな」
 遼がそう指摘する通り、一応資料置場と呼ばれるものの、半分は不要品置場と化している、大学院事務室の横のスペースがそれだ。元々は院生のサロンとして使われていた場所らしく、特に囲いも無く、誰でも自由に持ち込み、持ち出しができる場所だった。
 大学院は同じ敷地内の、巽門のすぐ側に建っている。クラブハウスは西校舎と大学院の、丁度中間くらいに位置しており、遊歩道で直線に移動できる位置関係になっている。大学院には研究者や教職を目指す者が居る訳だが、そこに知り合いでも居れば、誰でも大学院校舎に出入りする機会はあった。現にこの凍流助教授を尋ね、伸もルナもしばしば出入りしていた。
「助教授が持ってったの?」
 それはないだろうと思いつつルナが聞くと、
「そんな覚えは全く…。だから私も驚いたんです」
 やはり彼はそう答えた。彼自身もその箱の中に、ウェットスーツとゴーグルを入れていた為、連休前から探していたと言っていた。
 しかし何故これらの発見が、大学内の同じ条件下に集中するのか。西校舎には史学部の他に、文学部の英文科、国文科など、人数の多い学科が存在し、それぞれの研究室や資料室は近接している。又クラブハウスよりも近い距離に、外語学部、福祉学部の校舎群や体育館もある。それらの施設を無視して、彼等に関わる場所ばかりで事件が起こっているように思う。
「うーん。何でこのサークルの物をわざわざねぇ…」
 秀は慎重に考えていた。博士自身が立ち寄る場所ではなく、その周辺人物に関連する場所だと言うことを。
「やーな感じ」
 口を尖らせながらルナは言った。
「あたし達が疑われるようにしてるんだ」
「…そうかも知れないな、伸にしても」
 暫し間を置いて、遼もその意見に同意していた。確かにここに集う誰もが、自分は預かり知らぬ事だと主張するなら、故意に彼等に疑惑を着せているように見える。ありもしない噂話と付近住民の思い込み、サークル内で見付かった盗品、内部事情に詳しく博士と顔見知りの人物、意識もなく徘徊するひとりの学生…。
「絶対そうだ」
 ルナがそう決め付けるのも、その可能性が高いことを考えれば納得できた。
「そう言えば、今朝のは何だったんですか?」
 遼はそこでふと、午前中の出来事を思い出して秀に尋ねた。何処かの教授が何かを話している、と言う報告を他の警察官から受け、秀は立ち話の場を去って行った筈だ。
「あー、医学部のやつな。えーと、薬理学科の、屍解教授とか言ったっけ?」
「そうです」
 無論忘れていた訳ではない、秀は丸暗記だけは得意だった。けれど彼は先程から共に居る、凍流助教授にいちいち確認を取りながら話している。と言うのは秀警部補流のやり方で、聴取される側の信用を得るひとつの手段なのだ。
 秀本人は元々、自分をエリートなどとは思っていないが、人間とは不思議なもので、自分並みに程度の低い、或いは何処か抜けている人物には安心感を抱く。だからそれを誇張して見せているのだ。権力を誇示して脅すばかりが警察ではない。
 そしてそれもひとつの心理学だった。
「まあその教授がな、怒られると思って隠してたんだが、被害者の口に残ってたのと同じ毒物が、無断で使われてたことを話したのさ」
 屍解仙二と言う薬理学の教授は、医学部の毒物系薬品棚の管理責任者だった。かなり高齢の教授である為、その管理能力には疑問の声もままあったが、これまでに問題が起きたことはなかったと言う。そして棚自体も二重ロックになっており、棚のある部屋にも確と鍵が掛けられていた。
 毒物の出納には必ず用途と使用量を示した申請書と、その実験等に於ける責任者の署名と捺印、それに参加する者全員の氏名と所属の提出が必要だ。又返却時にも、毒物の総残量を必ず計測する。と言った風に、非常に厳しく管理されていた筈だった。
 しかし事件が起こった際、この教授がαアマニチンの残量を計測したところ、その前の計量記録と一致しなかった。丁度人間一人を殺害できる、五ミリグラム前後の誤差が出ていたのだ。
「何それ!?、何でそんな大事なことを隠したりすんの?」
 当然その教授には疑惑が掛かるだろう。それ以前に隠そうとする思考が解らない、とルナは訴えるが、
「そりゃ偉ーい教授様には、体面とか、色々あるんだろうなぁ?」
「猛毒なんだろ?、キノコ毒って。そんなの厳重に管理されてるに決まってる。それが勝手に使われてたら大学の恥だからさ」
 秀の返答は簡単過ぎたが、遼の解説なら彼女はよく理解できたようだ。
「あー、なるほどねー…」
 事実屍解教授は、自身の管理責任が問われると思い、咄嗟に事実を隠してしまったと話していた。年齢的な衰えから徐々に信用を失い始めた為、今こんな失態を起こせば権威を失墜してしまう、と考えたそうだ。けれど事件が日に日に複雑な様子を見せ、捜査が長引いて行く状況には、良心が堪えられなかったと言った。
 まあ良心なり、管理責任なりで解決する問題ならまだ良い。
「毒と、それから、何かロープみたいな物って見付かったんですか?」
 そう、毒物の他にも残されていた凶器があった。
「まあな、それも今朝確認されたんだ。史学部の展示室のもんだったぜ?」
 と秀は遼の問い掛けに答える。二日前、史学展示室の異変に気付いて連絡を寄越したのは、柳生博士が雇っている伝奇学の助手だった。昨年展示品の入れ換えをした際、その助手も立ち会ったのだと言う。そして今朝それが、展示室に使われていたワイヤーであるとの鑑識結果が届いた。
「展示室?、の何処に?」
 勿論遼はそれに疑問を投げ掛けた。何故なら展示室は西校舎の一階にあり、史学部の学生ならよくよく前を通る場所だった。普段から見ている筈の場所に、そんな異変が起こっているとは信じられなかった。
「何かが吊るしてあったのが、一本足りなくなってたんだよな?」
 秀はややいい加減にそう言いながら、また凍流助教授に同意を求める。すると彼は初めて自ら、詳しい状況説明を語り出していた。それこそ秀の作戦勝ちと言うものだった。言葉数の少ない助教授にはもっと、質問しないことまで話すようになってほしいのだ。
「室町期の屏風絵。アクリル板を吊っていたワイヤーが、十二本だった筈が十本になっていました」
「そんなの、全然気付かなかったな…」
 遼がそう言うのも無理はない。
「壁の色に同化して見えにくいんです」
「しょうがねぇよな。ワイヤーをわざわざ見ようとする奴も居ねぇだろ」
 気付かなかったことに落ち込みそうな遼を、何故か秀と助教授は一緒になって宥めていた。遼はそう言う気を起こさせる青年でもあるようだ。しかし、この場合も気付かなかったのが問題ではない。前出の毒物と全く同じ謎を含んでいた。
 そのアクリルフレームは、床から一メートル少々の高さに吊るされていた。フレーム自体の高さは二メートル少々、二階をくり貫く形で設計された部屋の壁面に、約四メートルの位置で固定リールが付けられている。問題は手の届かない位置のワイヤーを、ろくな足場も無く、どんな方法で抜き取ったのかと言うことだ。御丁寧にふたつのリールも取り外してあり、一見しただけでは気付かないようにしてあったのだ。
 そして毒物の方も、鍵の掛かった部屋の、鍵の付いた棚からどうやって毒物を持ち出したのか。前回の計量は一昨年の九月となっていて、このような毒物は頻繁に使用されないことが判る。詳しくその所在状況を知る者も少なかった筈だ。
 こんな芸当ができそうなのは、やはりあの男と見るべきだろうか。
「やっぱり…絶対そうだよ、あたし達が疑われるようにしてるんだ」
 もしかしたら、大学内部の者に見せ掛ける工作をする為に、大学に足を運んでいたのではないか?。だとしたら、博士の私物を隠した理由もそれなのか?。
 但しあくまで犯人は、博士が快く部屋に入れる人物でなければ…。

 その後暫くクラブハウス内に留まり、学生達と適当な会話をしながら、様々な可能性を考えていた秀だが、
「あの…」
 と、奇妙なタイミングで、やや弱気な態度の凍流助教授が話し掛けて来た。そして彼は秀にこんなことを言った。
「お話ししておいた方が、いいような気がして来ました」
「な、何がだ…?」
 勿論こうして何かを話してくれるように、秀はこれまで一生懸命彼に話し掛けて来たのだが、その妙な切り出し方は何だか恐い。
「古代言語の山上教授の話なんですが。確か、夜の十二時頃に、中庭を歩いている学生を見たと言っていたでしょう…」
 そして話の内容は、ここに集まる者に取って酷く衝撃的なものだった。
「あれは、毛利君なんです」
「えっ」
 遼の口から思わず声が漏れた。その横でルナはぽかんと口を開けたままになっている。秀はと言えば、幾つかの可能性から事実が選び出される、この瞬間をいつも待っているようなものだ。
「何でそれを知ってんだ?」
 落ち着いた様子で秀は、まず助教授自身の理由を尋ねていた。
「私も二、三度見かけたので」
 彼は取り乱さずにそう答えた。複数に渡って見ていると言うなら、それだけの信憑性はあるだろう。
「どういう状況で?」
 秀は凍流の話を一字一句聞き逃さぬように、注意深く耳を傾けている。
「最初は西校舎の、多分三階の窓から見たんだと思います。三月の末頃、夜の十二時より少し前だった。そろそろ帰ろうという時、廊下を歩いていたら、中庭に面した窓から何かが動いているのが見えたんです。風かも知れないと思いながら、暫く様子を見ていたら、外灯の当たる場所に出て来たのは毛利君でした。私は彼をよく知っているから、見間違えることはないと思います。
 その後四月になってから、やはり同じように、中庭をうろうろしている彼を見ました。泊まり込みの為に学食で食事をして、それが閉店した後自販機で買い物をし、西校舎に戻った時なので、大体十時半頃だと思います。声を掛けたんですが、大声を出せない時間ですから、彼には聞こえなかったようです。
 その後も、はっきり彼と確認した訳ではないですが、十二時頃に中庭から出て行く人陰を、うちの教授の部屋から見ました。私は多分彼だろうと思いました」
 場所も時間も、確かに山上教授の話とほぼ同じだと秀には思えていた。しかし、
「何をしていたんだ、彼は?」
「わかりません。声を掛けた時も、何か探し物をしているような様子で、木の陰に座り込んでいました。そして少しずつ移動していました」
 それが一番の問題だった。毛利伸の行動についてだけは、恐らく普通の状態でない彼が、本人にも判らない行動をしていた、と言う困った話に終わってしまっている。彼の友人が催眠暗示の解明をしていると言うが、過去の行動など判るものだろうか?。
「うーん…」
「ねぇ、何でそんなこと、今頃言う訳よ?」
 すると、酷く不愉快そうな調子でルナが言った。確かにこの形では、彼等の友達である伸を貶めるような、後ろめたい雰囲気を感じ取れなくもない。だが秀は、この話が必ずしも彼に疑いを掛けるとは考えない。寧ろ彼の行動を考える材料となるからだ。
 そして嫌な顔をされながらも、凍流助教授は落ち着いて続けた。
「本当は黙っておくつもりだったんです」
「何故だ?」
 その理由は何となく想像できたが、敢えて秀は答を促した。
「毛利君はこのサークルの仲間ですから。証拠もないのに疑われていた彼を、更に不利にする話はしたくなかったんです。もし犯人が早く捕まっていたら、話す必要もないことですから。でももう一週間になるし、屍解教授の例もあります。そろそろ話した方がいいと思いました」
 予想通りと言う内容だった為に、秀も安堵するように相槌を打って見せる。
「うん、そうだな」
 この助教授は学生の中に入って、まるで同年代の友達のように振舞うと聞いた。意識が学生並みであると、他の教授陣に咎められることもあったと言う。それだけ、同じサークルに所属する伸に対しては、彼から見れば言葉通りの仲間なのだろう。毛利伸は気の優しい性格だ。少し変わった所のあるこの助教授にしても、気安く付き合える学生だっただろう。
 彼を陥れようと考える者は、恐らくここには居なかった筈なのだ。
「…伸は犯人じゃないと思う」
 妙な新事実の前に、幾分不貞腐れたように遼が言うので、
「そうだなぁ、ま、俺も違うだろうとは思ってるけどな」
 秀は励ますようにそう声を掛けた。すると横に居たルナの方が反応して、
「ホント?、何でわかったんだよ?」
 と飛びついて来た。その根拠を一応説明しなければならなかった。
「わかったって訳じゃねぇが、今の話の他にな、夜間大学の学生が十時過ぎに帰る途中で、大学に行こうとしてる彼を何度か見てるんだ。近所のサラリーマンにも、十一時前後に大学の外をうろつく学生を見たって、幾つか話が集まっててな。だからその辺のことを纏めると、いつも十時から十二時くらいに見られてるだろ?。犯行があった時間帯とは違うんだよな」
「そうだぜ!、何か違うことなんだ」
 途端に遼が喚き出すが、しかし秀は穏やかに釘を刺した。
「言っとくけど憶測だぞ」
 別段遼の気持を弄ぶつもりもないが、それが真実だと信じ込ませる訳にもいかない。まだ誰にも、本当にそうだったかは判らないのだ。事件の当日だけ別の行動をさせられる可能性も、全くないとは言えない報告状況だった。
「しっかし何をしてたんだか…」
 結局いつもそれが謎として残される。と、秀はもう何日も考えている。
「別に怪し気なことはしていませんでした。ただ中庭に居たんです」
「そうは言っても…、いつも同じような時間に来るってのもなぁ」
 凍流の言う通り誰も彼もが、ただうろうろ歩いていた彼を見ているようだ。その歩行の目的とは一体何なのだろう。
「だってさ、夜間が終わらなきゃうるさいじゃないか」
 するとルナが、秀にはやや意味を取り難い言葉を連ねた。
「あぁ?」
「何かを探してたみたいなんだろ?。夜間の奴らに見られたくなかったんじゃないの?」
 夜間とは夜間大学の略か、とそこで理解するが、
「じゃあ何で見付かるまで探さないのっ?」
 と、秀はルナの口振りを真似て返してみせた。もし何かを探していたとしたら、決まった時間に何度も現れるなど非現実的だ。彼女の言い分はどうにか筋道を立てようとする、こじ付けでしかない。
 しかし、
「それはぁ!、十二時頃に帰らないと、終電に間に合わないからさ!」
 苦し紛れに捻り出された答に、秀は些かの関心を寄せる。
「タクシーでも帰れるだろ。来る時にバイクで来たかも知れないし」
 遼は尤もらしい意見を出したが、ルナはそれについて、何らかの確証がある様子で続ける。
「そーかなー?、バイクで来たことなんかほとんどないじゃん。定期がもったいないって、いつも電車で来るんだよ?、毛利は」
 確かに、彼は電車と徒歩で通っていると報告されている。
「そうか、俺いつも先に帰っちまうから、ルナの方がよく知ってんだな」
「そーだよっ」
 彼等は無意味な会話をしているようで、その重要性には気付いていなかった。
 そう、もし誰かに催眠術を掛けるとしたら、その人の生活パターンを知っていなければならない。仕事の途中で突然抜け出したりすれば、その異常性が誰にも認められてしまうからだ。術者が仲の良い人物なら尚のこと、被術者に対する配慮をする筈なのだ。それが守られているから十二時過ぎには帰る。その例では正に、博士が術者である可能性を示してるだろう。
 探していた、とするなら博士が探させていたのだろう。何を?。博士が大学周辺で探していたと思えるのは、恐らく自身を追跡する不審人物の影、つまりストーカーのことではないのか?。
 彼はそれを探すように暗示されたのではないか…?。



 もうすぐ午後四時になろうと言う頃だった。
「やっぱり、何か嫌だな…」
 久し振りに小田原の駅に降り立った伸は、千石大学の方向へ続く商店街の道を眺め、気乗りがしなさそうにそう呟いていた。とは言っても、つい数時間前に一度来ている筈だった。
「気分的なものだろう、さっきは何でもなかった」
 と征士もそう話す。これから二度目の催眠実験に当たり、今度は小田原駅からスタートさせることにした。これ以上非効率的な状況にならないよう願うだけだ。
「まあ、警察に会ったら適当に説明する。マスコミ関係なら適当に煙に巻いておく」
 征士がそう言うと、伸は俄に軽やかな笑い声を上げた。
「じゃあ、頼んだよ」
「ああ」
 催眠中の伸は、大学も、それを取り巻く環境も特に恐れないで居られる。また今は更に、催眠中に起こり得る事への保険も掛けたような状態だ。彼がこの場に及んで笑った意味も解る。見い出される事実がどうであっても、彼が考える「最悪の結果」にはならないと知ったからだ。
 それについては今は語れない。
「『フラジール』」
 との声を聞けば、伸と言う意識は途端に眠りに就いてしまった。
「…『起動と消去』、『ウォッチ』」
 命令語の仕組みも大体把握できたようだ。一度目から比べれば大きな進歩だった。
 それを聞いて歩き出した伸を、今は散歩でもするように征士は追って歩いている。千石大学への道程と、伸が案内する迷路を見学して歩く、単なる通行人である彼の立場は実に微妙だが、如何なる場合に於いても、第三者とはいつも幸福なものだ。得られる物はあっても、失う物は何も無いのだから。



つづく





コメント)凍流鬼丸さんが、どうしてこんな性格になったのかと言うと、別に深い意味はありません(笑)。ただ何となく普段は引き蘢りがちで、本当は誰とでも仲良しになれる、みたいな印象を受けたキャラなんです。しかしこのページに食い込む程、犬山宅訪問が長くて参ったわ(汗)。それではお次へっ。



GO TO 「Passenger 11」
BACK TO 先頭