共同戦線
Passenger
#7
パッセンジャー



「…これで、よし出て来た。いいぞ、こっちに見に来たまえ」
 大学に雇われた教員とは言え、時代の移り変わりに必ずついて行ける訳ではない。コンピュータの扱いには多少慣れない剣舞講師だが、しかし彼はまだましな方だった。年の行った教授陣なら大概、お抱えの助手や学生に任せきりにするものだ。
 だが彼はどうにか自力で、目的の柳生ナスティ女史の貸し出しデータを、画面上に呼び出すことができた。そして離れて立っていたふたりに、小さく手招きをしながら呼び掛ける。
 呼び掛けながら、しかし彼は首を傾げてもいた。
「んー?、柳生君なら歴史書を中心に読むと思ったが、何だろうなこれは…?」
 遼と征士がその画面を覗き込むと、成程、史学博士にしては確かに妙な記録があった。
 この二、三カ月の間に借りたタイトルは僅か三冊。しかもその内二冊は本ではなく、新聞記事などを収集したスクラップファイルのようだった。社会学科で作成しているもので、共に三月の半ばに貸し出されている。そしてもう一冊は前出の『催眠の手法と有効性』だった。
「ああ、一月までは歴史関係の本ばかりだな…」
 剣舞講師がそう呟く後ろで、征士は新たに出て来た謎、新聞記事集のタイトルと記号を手帳に写している。
「うーん…、やはり彼女は、何処か普通でなかったと見えるな…」
「…俺もそう思います」
 講師の言葉に答えた遼は、博士の平常の行動とは思えぬ現実を見て、些か背筋が寒くなる思いをしていた。日々傍に存在した人を、見ていたようで見ていなかった事実。知らぬ間に博士に変化が起こっていたこと。ノイローゼなどと言う表面的な結果ではなく、その発端となる変化に気付かなかった、何もできなかった自分を遼は酷く情けなく感じた。更に、今を以っても判らないのだから。
「ああ、その、柳生女史ですけどね…」
 すると、それまで他人の振りだった国文科の准教授が、不意に口を開いた。
「三月の終わりから、四月の頭だったと思うんですが、丁度大学の桜が見頃の時期に、何だかやたらに記事ファイルを漁っていたんです。毎日毎日、熱病のように何かを探していましたよ。私もその頃忙しくて、ここに毎日来ては、花見がしたいなぁと思っていたもので…」
 彼の話は、大学が花見に賑わっていた頃、対称的に必死な様子で調べ物をする博士が印象に残った、と言う意味だろう。思わず、の回想談だとしても、人は誰しも鬼ではないようだった。
「ありがとうございます、准教授」
 遼は素直に頭を下げて見せた。本来は許されない事を、黙って見過ごしてくれるだけでも有り難かったが、自分の意思を理解してもらえたことには、更に感謝したかった。
「これでいいのか?」
 すっきりしたような態度を示す遼を見て、剣舞講師が言うと、
「はい、もう。この三冊を借りて読みますから。ありがとうございました」
 遼は手にしていた催眠術の本をそこへ置き、征士に渡されたメモを持って、早速二冊の資料ファイルを探しに出て行った。彼が全く意欲的に、誠実に謎に立ち向かおうとしているその様子は、誰の目にも清々しく映っていた。
 そこで、ひとり残された征士にも、剣舞講師は顔だけを向けて一言話し掛ける。
「おまえさんは見かけない顔だな」
「はい、私は都内の大学に通う者ですが、ここの毛利君の代理で来ていまして。彼が色々困った状況なので、少しでも役に立てればと」
 征士は特に隠すことなくそう返した。すると、
「ああ、毛利か…」
 講師はやや訝し気な様子を見せて後を続ける。
「確かに彼なら、最近の柳生君をよく知っている筈だな」
 その答え方には、やや引っ掛かるニュアンスを覚える。個人的な好き嫌いも考えられるが、征士は気に触らない程度の言葉で問い返す。
「最近のことをよく知っている?。私は事情を掴めていないので、よろしければ教えていただけませんか」
 すると剣舞講師はこんなことを語ってくれた。
「いやな、私はこの図書館を痛く気に入っていて、昼夜を問わず足を運んで来るのだが、その度見掛けた柳生君は、最近いつも毛利君と一緒に居たのだ。それこそ昼でも夜でも。…さっきの貸し出しデータじゃないが、どうも尋常でないように見えたな、私には」
 それが一般的な見方なのか、個人的な見解なのかは判らない。
 伸は確かに、博士と仲が良かったことは認めていたが、今の話程に密着していたとは聞いていない。偶然そんな場面ばかりを見て、妙な印象を持ってしまうこともあるだろう。しかし貸し出しデータといい、准教授の話といい、その時期はきちんと噛み合っている気がする。今年の二月から三月の頭くらいの頃に、何かがあって博士は催眠術に関心を持った…。
 と、征士が考え込んでいる間に、遼は探して来た記事ファイルと、先程の催眠の本を借りる手続きをしていた。貸し出し期間は基本的に一週間。その間に、できることなら何かしら解決してほしいと願うばかりだ。



 その後ふたりは、千石大学の学生食堂で昼食を済ませると、まだ授業の再開しない文学部の一室を借りて、新聞記事のスクラップ束をそれぞれ、一冊ずつ手分けして読むことにした。
 日が暮れるまでには充分な時間があったが、まずはそれぞれの見出しを追って傾向を見て行った。ざっと目を通した感じでは、その二冊に収められた記事の中で、この大学や関係者、博士自身に関連する分野は殆ど見当たらなかった。他に博士が関心を持つと思える、催眠術、精神医学系の記事も、このファイルの傾向からは全く外れていた。大体が社会活動や事件記事のスクラップだった。
 ただ、征士には個人的に気になるものが、それぞれから四点ほど見付けられていた。

『東証二部、耀者会株急落』
『耀者会グループ金融界に参入』
『気鋭・阿羅醐帝人の手腕(耀者会グループ会長)』
『社員教育の現場16・耀者会グループ』

 尚、最初の記事はかなり古いもので、スクラップ自体も傷みの激しさが目立っていた。他の三つの記事は全て、四年前の記事が集められたファイルにあった。
 グループ創始の頃の話は、征士に取ってはかなり興味深い読み物だった。社長が交替したとは言え、新しい事業を興すには資金も人材も必要だろう。それをどんな経路で調達し、企業として纏め上げて来たかを現在の会長、阿羅醐帝人が語るインタビュー記事などは、何とも痛快な映画の様に思えた。
「アメリカンドリームのような話だな」
 征士は言いながら、しかし一度株価が暴落した原因が、それまで最も太いパイプで繋がっていた筈の、学校関係者の反発となっている点に注目した。一校二校ではない、取引のあった学校の三分の一が一斉に、耀者会出版との取引を停止したと書かれていた。
「何がアメリカンだって?」
 そこで遼が顔を上げて尋ねるので、
「耀者会出版、を知っているか?」
 征士はやや探りを入れる風に返した。何故なら伸は、この大学に耀者会の本は殆ど無いと言っていた。遼が彼と同様にその名を知らないことも想像できる。しかし、
「ああ、専門書の出版社としては有名だろ。ワークブックなんかも出してるよな」
 と、まるで普通の調子で答えて来たのだ。勿論それで普通の感覚だと思えるが、伸のこともあって、征士には何やら腑に落ちない。
「だが、この大学にはあまり本を置いていないと聞いたのだ」
「…確かに、そうだな。近所の本屋では売ってるが、生協の書店では全然見ないな。教科書も違う出版社ばっかりだ」
 遼は長い間を置くこともなく、慣れ親しんだ大学の環境をスラスラ説明していた。
 つまり彼が容易に思い出せる状況なら、この大学には本当に、耀者会の三文字が見当たらないと言う意味だろう。征士が今し方読んでいた「株価急落」の記事が、ぼんやりとした関連性を浮かび上がらせて来る。その当時、取引を停止した学校のひとつがここではないのか、と。
「何か関係があるのか?」
 果たして本当に関係があるかどうかは、まだ征士にも掴めていないけれど、
「昨日の夜、私のアパートに刑事が訪ねて来たのだが、何故か耀者会グループについて聞かれ、ずっと気になっている。私の通う大学は耀者会との繋がりが深い。それで情報を探りに来たようだが…」
 彼が昨日の様子を思い返しながらそう話すと、
「いや…、疑われるのは当然だと思う」
 不思議と遼は確信めいた口調で返して来た。ふと目を丸くした征士に、遼は些か余裕さえ感じさせる、薄く笑ったような表情を見せていた。無論それは理由があってのことだ。
「何て言うか、耀者会絡みでは変な事が色々あって、俺は前から疑問に思ってたんだ。大学の中ではこの通り、耀者会出版の名前は殆ど見掛けないが、大学の周りにはどういう訳か、耀者会関係のセールスマンがうようよしてる。俺だけじゃなくて、学生の間じゃ結構知れてることなんだ。
 俺こっから近い所に住んでるから、この辺りのこともまあまあ知ってるんだが、なあ、セールスマンが人の家を回るのは当たり前だが、同じ奴がしょっ中来ても販売には限界があるよな?。でも妙なんだ、耀者会に毎週変わるような商品があるんだろうか?。それ以前に、毎週のようにセールスマンに押し掛けられたら、逆に悪印象だと思うんだ。押売型のセールスって今は流行らないだろ」
 成程、遼の考察は信用が置けるものだと思えた。
 征士は自身の通う大学でしばしば話題に登る、その企業グループを大体は把握しているが、所謂製造業や輸入業、食品を扱う部門などは持っていないと知っている。学習教材を含む出版物の発行と流通販売、各種スクールの運営、配達・引越し等の運送業、清掃・廃棄物処理等のサービス業、それに金融業と不動産管理。それらのセールスにしては確かに、頻繁に訪れ過ぎていると感じる話だった。
 そしてそれは、今記事から読み取った「社員教育」の方針からも、想像し難いセールス法のように思えた。新しい企業体の在り方を声高に提唱する団体にしては、従来のごね倒し商法のような印象を受けなくない。それとも、人海戦術で利益が上がる何かがあるのだろうか。
 博士とは特に繋がらないセールスマン達。彼等は一体何をしているのだろう?。

 幾つかの記事の中から、これから考えるべき要素に目星を付けられたので、征士はファイルの件については、遼に一任して帰ることにした。大学周辺の謎のことだ、そこに常に居る者の方が確かだろうと。
「遼!」
 そして一段落して、彼等が校舎の中を移動していた途中、活動的な印象の女性が声を掛けて来た。
「あっ!、来て大丈夫なのか?」
「もう平気だよっ。…この人誰?」
 彼女は遼の横に居る、見慣れぬ人物にすぐに反応を示す。
「ああ、伸の友達だ。伸の代わりに色々調べに来てるんだ。俺も事件には納得いかないところがあるから、今一緒に考えてたところさ」
 そんな遼の説明を聞けば途端に、彼女は肩の力を抜くような仕種をして見せた。それは伸と似た拒否症状だと征士は思う。恐らく彼女も警察やマスコミ、見知らぬ人間の目に過敏になっているのだろう。
「伊達征士です」
「あたしはルナって言うんだ、よろしくね。…じゃあ、毛利はまだ出て来れないんだね?」
 自分同様に疑われているだろうと、伸から話を聞いていた女性だった。しかしこうして元気に出て来たと言うことは、彼女への疑いは晴れたのだろうか。如何にも吹っ切れたようなその態度は、今は気を遣わせる要素も見出せなくなっていた。そして、
「別に心配な様子でもないが、また騒がれるのが嫌なのだろう」
 伸について征士がそう説明すると、
「そーだよね…、わかるよ…」
 言葉は至って簡単だったが、自身と同じ立場だった友達を心配する様子が、彼女からは充分に見て取れた。伸が話してくれた解説通り、彼の極親しい友人達からは、怪し気な印象は殆ど見受けられなかった。
「あれ、どっか行くの?」
 挨拶を交わした後、再び歩き始めた遼に彼女は尋ねた。
「博士の部屋。…もう入れるよな?」
「さっきちらっと覗いて来たけど、多分入ってもいいんだと思うよ」
 彼女はそう答えながら、先を急ぐふたりの後を着いて来た。

 西校舎の五階、柳生ナスティ博士の個人研究室は、今は事件直後の物々しい空気は散じ、ほぼ元の状態に片付けられていた。
 広いスペースがそう広く感じられないのは、資料棚等が四方を囲んでいる所為だ。研究の為に取り寄せたらしき本や書類が、棚と言う棚に大量に詰め込まれていた。現場から盗まれた品が幾つかあったと報じられているが、置かれている物の数がかなり多い。研究者の部屋とは大体そんなものだと思うが、これでは何が何処にあったと、一度見たくらいでは正確に思い出せないだろう。
 そしてここから何が判るだろうか。事件現場の調査は大体終了しているとは言え、派手に引っ掻き回す訳にはいかない。事件が解決を見ない内は、なるべく元の状態を保っておかなければならないだろう。無論博士に対しても、空き巣のような真似は申し訳ない気がした。或いは殺人現場という気味の悪さも感じながら、三人は同様の理解を以って、博士の部屋の様子を注意深く窺っていた。
 不自然な死者の魂は場に残り易いとも言う。もし彼女が今もここに居るなら、彼らに何かしらのヒントをくれても良さそうだが…。
「…これは?」
 傾き始めた西日を照り返す、博士の広い机の上には書きかけの原稿束と、厚く膨れた大判の封筒がひとつ、執筆の参考にしたらしき本が数冊、筆記具、フォトスタンド、カレンダー付きのメモ帳と、何通かの封書や公告などがひと山に積まれていた。その封書の下敷きになっていた、赤いインクで刷られたチラシを征士は引き抜く。はっきりとは思い出せないが、彼はそれを何処かで見たような気がしている。
「ああ、それも嫌な話なんだよな…」
 征士の行為を見つつ遼はそんな風に呟いた。そのチラシには大きな文字で、

『ストーカー・盗聴・盗撮・捜索人・浮気調査・紛失物
 お困りの事情をぜひ御相談下さい・まずは電話にて』

「鎧山探偵事務所(所長・鎧山九十九)」
 と書かれていた。読み上げた名称に征士は、残念ながら思い当たる記憶は無かった。
「博士はかなり前から、ストーカーに遭ってたらしくてな、最近になって私立探偵を雇ってたんだ。でも全然意味なかったっつーか…」
 ストーカーを捕まえられなかったばかりか、殺されては元も子も無い、といった口調の遼だが、
「消えちまったらしいんだ、そいつ。警察も探してるけど…」
 事件と関わっているのは間違いない、と、言葉にするまでもなく怪しい事実だった。恐らく最も重要な参考人となるべき人物だろう。
 しかし、犯人と断定するには多少疑問も感じられた。もしその探偵が犯人だったとしたら、博士との間に急なトラブルがあったとしか思えない。計画的な犯行なら雇われていた事実は邪魔だろう、探偵と言う職業柄、みすみす不様な犯罪を犯しはしない筈だ。だがそうなると、新しく見えて来た耀者会や催眠といった要素は、全く何だか解らなくなってしまう。警察がそこまで見当違いな捜査をしているとも考え難い。
 又、探偵が犯人なら、ストーカーはこの事件とは関係ない者なのだろうか?。ストーカーと探偵がグルだったなら、どうやってその探偵を雇わせたのだろうか?。それとも雇われた後にストーカーとグルになったのか?。何とも言えない感じだ、と、征士は幾つかの可能性を考え苦悶している。
「その探偵はどんなことを言っていた?」
「ん、それは俺達にはわからないんだ。博士から聞いたこともないし、警察も首を傾げてる。報告書らしい物は全然見付からないそうだ」
 隠蔽工作の為に持ち帰ったのか、或いは博士が何処かに隠したか。だが、報告を伏せなければならない理由とは何だろう。調査契約の後に出て来た事実が、探偵又は博士にまずい事情だったのだろうか。そう、探偵とストーカーが繋がっていた場合なら、探偵側の理由は成立するかも知れない。ストーカーを追っていたら偶然それが知人で、博士にまともな報告ができなくなった、など、コメディのように感じられなくもないが。
 すると更にルナが妙なことを言い始めた。
「でもさー、あの人最初っから変だったよね」
「そうかな…?」
「だってあんな真面目そーな顔して、普通に女子トイレに入ってったりさー」
 そんな内容を初めて耳にした遼は、思わず頓狂な声を上げていた。
「何だぁ??」
 こっそり入るならまだしも、と言う話のようだ。
「階段の窓から出入りしてみたり、踊り場のとこの、消火栓の後ろに隠れてたのも見たよ。この人何やってんだろって思った」
 隠れる、と言う意味でなら共通項のような目撃談。だが依頼されたストーカーの調査に来ていて、身を隠す必要があるとは思えない。仕事中としても、人の集まる昼間の校舎の中にまで、ストーカーがつけて来ることはないだろう。確かにおかしな行動と言う他にない。
 それにしても、ルナのフットワークが優れていることを証明するような、驚くべき証言だった。が、伸と同様に逃げ回っていた彼女は、まだこの情報を誰にも話していないようだった。遼の驚き方から考えても、これを知っている人間は極めて少ない筈だ。警察にも意外な収穫となることが予想された。但し、話した本人は途端にシュンとして、
「でも、もっと真面目に受け止めればよかったよ…」
 と、無力感に沈んでしまっていた。重要な目撃情報も、最早博士の命を救うことはできない。
「つまりその探偵は、大学構内を不必要にコソコソ歩き回っていたのだな」
「本当に迂闊だぜ、博士も」
 ただそれが、今後の捜査の役に立つよう祈るしかない。机上のフォトスタンドに納められた写真の、博士の周りに集う遼とルナ、そして伸。その楽し気な様子からは、誰もが現在に至る状況を予想できなかった、平和な日々を過ごしていたのがよく判る。何故博士には、こんな残酷な運命が必要だったのだろう、と考え込んでしまう程に。
 その時、ルナの服のポケットから覗いた、コーラルピンクの携帯がメロディを奏で始めた。
「あっ、ちょっとごめん」
 彼女はそう言って、部屋の隅へと移動しながら液晶画面を覗いていた。そう言えば、と、征士は携帯電話の疑問をも思い出していた。
「そうだ、憶えていたら教えてほしい、伸は普段どんな携帯を使っていた?」
 すると突然聞かれたことにも関わらず、遼は割合簡単にそれを説明できていた。
「え?、えーと、黒っぽい色だったよな。メタルブラックって感じの。今年…、じゃない去年の頭に変えたんだったかな。今警察にあるみたいだぜ?。それともう一個持ってて、そのすぐ後ぐらいに買ったのかな」
「シルバーの?」
 思い出すのは無論、今伸が持ち歩いている方の機種だ。
「そう、機能はあんまりなくてシンプルな。予備だって言ってたけど、まー、伸は電話がないと居らんないみたいだからなぁ」
 遼はもう一方について、そんな風に理解していたようだ。
 今日携帯電話の本体などは、無料で貰えることも少なくない御時世だ。複数持ち歩く者が居ても、それぞれの機能や特徴を考えれば、特におかしいと感じないだろう。しかし征士は既に知っている、その携帯電話には通話相手の登録も、まともな受信記録さえ残されていない。去年からこの五月まで、ろくに使用せず基本通話料を払っていたとしたら、それに何のメリットがあったと言うのだろう。
 そしてそれより重要なのは、もし伸が、催眠による指示をその携帯で受けていたとしたら、何故犯行当日の記録が無いのか。否、通信記録自体が皆無だった。幾らか着信していた公告メールは、事件の前日の午後十一時台から残っていたが…。
「そんなに電話好きだったのか」
 携帯の記録についてのことは、征士は敢えて説明をしなかった。セカンドの存在を大して気にしなかったらしい彼等が、詳しい事情を知っているとも思えなかった。ただそこで、女友達へのメールを返し終えたルナが、
「でもあれ、買ったんじゃないんだってよ?」
 と一言口を挟んだ。遼はそれすら知らなかった様子で、
「そうなのか?、じゃ誰かに貰ったとか?」
「さあ、はっきり言わなかったんだよ。『彼女との連絡用?』って聞いたら、そういうんじゃないけど大事なんだって。わかんないこと言ってたっけ」
 と言う彼女の説明を、今更ながら不思議そうに遼は聞いていた。
「大事か…」
 無為にそう呟きながら、しかし征士はそれで筋が通る事情について、暗に思考を巡らせていた。
 電話好きな伸に取って、携帯電話は大事な所持品だった筈だが、普段使用していた方は何故か、何処かに置き忘れる事態になっていた。神経質な性格の彼が、この非常時に忘れる道具とも思えない。けれど事実は違う見方ができる。本人に取っては、最も大事な携帯電話は今もちゃんと持っているのだ。
 判断をすり替えられている、とは考えられないだろうか。
「でも何かさ、博士もおかしかったけど、毛利も変だったよね」
 ルナは更に、遼に問い掛けるように言った。
「ん、うーん」
 身近に居たふたりが異変を感じた時期があるのは、全くおかしな事ではないだろう。
「どんな風に?」
「…元々伸は、俺みたいに開けっ広げな奴じゃないが、前よりもっと秘密主義みたいになってたな…」
「そう。何か急に付き合い悪くなってさ」
 本人が己の異常に気付き、恐らく誰からも隠していたのだから、自ら離れようと考えても不思議はない。或いは、本人の意志とは関係ない行動だったのかも知れない。
「最近のことなんだな?」
 征士は確認するように言った。
「博士がおかしくなったら、伸もおかしくなった、って感じだな」
「違うよ遼、先月か、先々月か、結構前からおかしい時あったよ?。何か調子悪いんだって、去年くらいから言い出してさ。最近あんまりひどいから、ガンとか、悪い病気なんじゃないかと思ってたんだ。怪我してたこともあったよ。…でも今は平気そうなんだよね?」
 そしてルナの話は記憶が途切れる現象の、起こり始めてからの経過のように受け取れた。つまり最初に伸が「信じろ」と言って話した内容には、虚構を疑う余地はなさそうだと征士は思った。
 又どうやら、博士の変化によって伸も重症化したと感じられる。ニュースでは一年ほど前から、ストーカーに悩んでいたと報じているが、暫く経ってから深刻になったのかも知れない。博士と伸には同調する何かが必ずある、何故なら双児でもない博士と一学生が、今は同時に奇妙な現象から解放されたのだ。
「博士と伸には共通点があるらしいな」
 締括りに征士が言うと、
「うん、確かにそんな気がして来た。俺達ももっとよく、これまでのことを思い出してみる」
 遼は答えて、今はすっかり信用を置いてくれた様子で笑った。



 都内、港区芝にある耀者会出版の本社に、始業から終業までずっと居座っていた羽柴は、ややムスッとした顔で本社ビルの一階に戻って来たところだ。
 居座っていた、と言う表現が正しいかどうかは判らない。延々と待たせておきながら、結局会長には会えず終いになり、彼が腹立たしく感じるのは当たり前だった。例え歓迎されない客にしても、警察に悪印象を与えてどうするつもりか。グループ企業の会長が如何に多忙かは知らないが、スケジュールは予め決まっていそうなものだ。面会時間は取れないと、最初から断ってくれた方が遥かに親切だった。
「まったく…」
 お陰で貴重な労働時間を無駄にしたと、羽柴は胸の内でさんざん愚痴を垂れている。だがまあ、それ以外にある程度の情報は得られたので、それで最低線は守られた感覚だった。 ついでに、昼食に出された銀座・久兵衛の寿司は大変旨かったらしい。

 午前九時頃、彼がここに来て最初に姿を現したのは、耀者会グループの専務である堕羅大騎と言う男だ。妙に大柄で肝の座った感じの人物像、口数も少なく、何を聞いても一貫した鉄壁の防御を思わせる人物だった。ロザリオのママ、なぎ子から幾らか聞いた、会長の取り巻き数人の人相に、彼にぴったり当て嵌まるものがあった。この専務が過去からの、阿羅醐一派のひとりなのは間違いないところだった。
 そこで羽柴は特に、会長が襲われた事件について聞きたかったのだが、堕羅専務はそれらしき事実は認めたものの、
「何故警察に届けなかったんですか」
 と核心を突いて話しても、
「ただの酔っ払いと報告されていたので」
 自分は知らない、と言う態度の一点張りだった。無論それだけでは、疑惑の対象に持ち上げることもできない。しかし、
「調査もせずにですか?」
 と聞いたところ、彼は興味深い言葉を後に連ねた。
「調査は行った。当グループの調査機関に依頼して、調べた結果から判断したことだ」
「そんな部所があるんですか」
 わざとらしくそう尋ねて、羽柴は反応を見ていたが、この男は結局大したボロを出さない雰囲気だった。
「一介の企業グループには、独自の調査機関は大概あるものだ。取り立てて特別な部所ではない」
 ただ、
 確かにそうは思えるが、それを強調して話す意味はないと感じた。調査部があるなら「ある」とだけ答えれば良いことだ。だからこれはひとつの収穫だった。普通、企業内の調査機関とは自社の評判をリサーチしたり、他社の動向や社会情勢を考察したり、場合に拠っては社内の不正を調査する為に存在する。それが外部で起こった襲撃事件の調査をするとは、実際は不自然な話だった。
「しかし専務さん…」
 羽柴はもう少し突っ込んだ質問にかかる。この男が「復讐」と言う言葉を耳にしていた事実は、既に情報として得ていたからだ。
「こちらに入っている情報では、阿羅醐会長が誰かに恨みを買っていて、その復讐に来た者がいると言う話なんですが。確かな筋の情報ですよ」
 多少誇張を含む言い回しではあったが、すると、ほんの僅かだが堕羅専務の様子に変化が見られた。暫し考えるような仕種をした後、羽柴の前で大きく溜息を吐くと、何かを諦めたように口を開く。
「…ええ、実は。会長の名誉に関わる事なので、グループとしては公表できなかった」
 やはりそんなことか、と、羽柴はむしろ安堵してその先を聞き続けた。
「どういう事だったんです」
「それはだな…、現在の会長が、旧耀者会出版の社長に就任してから、その数年前に設立された耀者会ゼミナールの方に、大学生を対象にした援助制度を設けたのが始まりだった。『学費補助システム』と呼んでいたが、在学中の授業料などの不足を補う為に、月々僅かな額を投資してもらい、株式売買の配当を投資者に分配するものだった。景気の良い時代はそれで成り立っていたが、十年前には廃止されている。
 その丁度廃止される頃に、加入していた一部の学生に、大変な迷惑をかけたことがあってな。当時は自社の金融部門がなく、学費補助システムは、さる運用会社に業務を委託していたのだが、その企業が不渡りを出して倒産すると、巨額の支払いが加入学生の保証人に請求されたのだ。運用会社は学生の親御さんに、投資対象の保証人をさせていたらしい。そんな加入形式は、自社の契約条項にはないものだった。
 耀者会グループでは当時、その営業実態を全く把握できていなかった。その結果事態への対応が遅れ、加入していた学生達を訪問する頃には、ある学生の御両親が自殺された後だった…」
 そこまでを聞いて、羽柴はすぐにその学生の名を口にすることができた。
「犬山孝ですね」
 自殺に関する新聞記事、事件記録についても既に報告を受けていた。だがこの両親は遠く青森県内で、比較的小規模な牧場を経営する酪農家だった。何故巨額の投資に関れたのかは謎の侭になっていた。
 つまり今の専務の話なら、当然事件には耀者会の名前が出て来る筈なのだ。が、記録には『学費補助システム』どころか、耀者会のよの字も見当たらなかった。不渡りを出した企業名こそあったものの、その社長以下の社員は全員行方不明のまま。そしてそれ以降の捜査記録はまるで無い。耀者会からの圧力があったにせよ、どうにもおかしな事件調書だった。
 嘘を吐いているのは堕羅専務なのか、それとも調書の方なのか。
「そうです。それで彼には、取引先から請求された額を全て肩代わりし、迷惑料の支払いと共に、今後の学費等を一切援助すると申し出たが、結局本人がそれを拒否したので、そのままになってしまったのだ」
「…それで、去年の八月に復讐に来たんですね」
 犬山孝は大学を中退後、関西に在る知人の動物園のアルバイトに就き、三ヶ月後には正社員に格上げされている。一昨年には執筆業に転向し、学生の頃に住んだ東京に戻って来たと言う。その十年近くの間、彼はずっと復讐を考えていたのだろうか。動物園での働きを評価されていたにも関わらず、特に身寄りのない東京に再びやって来るとは、何か目的があってのことだと思える。
 そして、復讐は事実だったと堕羅大騎は語った。
「その通りだ。夜中、料亭の会食後に駐車場に向かう時に襲われ、暗い上に狭い通路だったので、ガードの人間も少しやり過ぎたようだ。酷い怪我を負わせてしまい、又彼のことは、会長自身も憶えておられた。だから彼を知人の病院に預かってもらい、彼には何とか償いをしようと決めて、事件自体は伏せておくことにした。そういう事情だったのだ」
「成程」
 とは言ったものの、無論羽柴には全く納得がいかない話だった。喧嘩に巻き込まれ、救急車で病院に運ばれたと言う事件記録は、一体何だったと言うのか。目撃者の話もあった筈だ、それは会社員風の男達だったと。警察官は幻でも見せられているようではないか。
「じゃあその後、彼に仕事を依頼し始めたと」
「当然の対処だ。最近は学童向けの本や教材も扱っている。彼には中学生までを対象に、生物に関するコラムを専門に書いてもらっている。仕事の世話だけでなく、生活に関する相談も受けている」
 納得はいかなかったが、これで耀者会と、大学内部に詳しい者がひとり繋がった。彼の住むアパートにしばしば耀者会の者が出入りしていると、近所の住人からの証言も出ていた。しかもアパートは大学から非常に近い。犬山は必ず事件に何らかの形で関わっている筈だ。
 だから今は諸々の疑問について、何も問い返さないでおこうと羽柴は考えた。確実な証拠を掴んでからでなければ、反論しても大した効果は得られないだろう。そしてそれ以上に、警察に残る事件記録が皆、変に曖昧なことが気掛かりだった。その意味を吟味する時間も必要だ。
「判りました。…大変参考になる話をありがとうございます」
 その時羽柴はすぐにでも、犬山の住むアパートに向かいたかった。まだ昼前だったその時間に出れば、お日様が高い内に彼には会えただろう。
 しかしその直後、ここに会長が来るの来ないのと振り回され、結局足留めされただけに終わったのだ。

 羽柴は一階のロビーを暫くうろついて、探していた物を幾らか掴み取った。それはこの耀者会グループの構造、関連企業等を示したパンフレットだ。警察では既に調べがついている情報内容だが、一般人に説明するのに手っ取り早いツールだからだ。
 彼はそれを上着のポケットに畳んで押し込むと、出入口の自動ドアを潜って外に出た。と、西向きのアプローチの向こうから、見覚えのある男がこちらに向かって歩いて来る。
「…警察の方でしたかな…?」
 向こうもすぐに気付いて、羽柴より先に声を掛けて来た。事件の当日、羽柴が直接事情を聴取した者のひとり、犬山孝の所に原稿を取りに来ていたと言う、教材の編集担当の男だ。名前は黒岩陽炎と言ったが、名前よりもその風貌が強く印象に残っていた。造り物のようなギョロっとした目、鰓の張った四角い顎、会社員よりピエロでも演じた方が向いていそうだ。
「憶えておいででしたか。今お帰りですか?」
 羽柴は一応儀礼的にそう返した。
「ええ、刑事さんはこれから小田原にお戻りで?。大変ですねぇ」
「まあこれが仕事ですから、どうしようもありません」
 すると男は、羽柴から一メートル程の距離に止まって突然、パっと彼の目の前で掌を向けて見せた。そして無気味な顔でにっこりと笑う。
「何です…?」
 面喰らったように羽柴が問い返すと、
「…お疲れのようですから。御存知ですかな?、右手はエネルギーを与える手なのですよ。東洋医学などでは知られていることです。もし樹木などの生命力を借りたいと思う時は、エネルギーを吸い取る左手を当てて下さい」
 黒岩はそんな説明をした。母体が専門書の出版社だけあって、その社員も珍しい知識が豊富なようだ。
「はあ…」
「それでは失礼」
 つまり彼はエネルギーを分けてくれたようだが、羽柴は却って疲れが増したような気がした。とにかくこの企業は妙な事が多過ぎる、と。



 その日の夕暮れは、日中の陽気からは一転して、やや肌寒い風が吹き始めていた。
 千石大学での一日はもうすぐ終わりを告げるが、征士はまだこれから、又借りした『催眠の手法と有効性』に取り組まなくてはならない。長い一日はもう暫く続きそうだった。
「じゃあ、新聞記事の件は宜しく頼んだ」
 結局小田原駅の改札まで見送ってくれた、伸のふたりの友達は彼が思っている通り、本当に曇りのない人々だったと征士は思う。伸が彼等を故意に裏切ることはないと、今は確と信じられた。
「ああ、何かあったら俺の携帯に連絡してくれ」
「毛利によろしく言っといてね」
 そして誰もが落ち着きを取り戻しつつある今、事件が良い方向に解決するよう願いながら、彼等は自らも行動を起こし始めていた。

 小田原駅から東海道線に乗り込むと、この時間の上り電車はかなり空いていて、横浜までの一時間少々の道程は、ゆったり座って帰れそうな様子だった。そこで征士は、早速借りて来た本を読み始めることにした。分厚く難解そうな一冊を前に、ただぼんやり座っているには惜しい一時間だ。
 しかし分厚いハードカバーの書籍は、手に持って読むにはなかなか難儀な代物だった。本文の最初のページを開こうとして、それは征士の手からするりと下に落ちてしまった。幸いシートの上で止まったので、本を傷めることにはならなかったが、その時に偶然開いた奥付のページを見て、
「何だ、これは耀者会出版の本だったのか…」
 殆ど置いていない筈の本を、拾い上げて来た事実にまた驚かされた。
 否、実際は分野に拠って蔵書の割合が異なっている為だ。史学などのポピュラーな文献は、非常に多くの出版社が発行している。又日々進歩をしていて、書き換えられて行く分野の学問書は、常に新しいものに入れ替えられて行く。それらの条件を持つ学科ではその社名を見なくなって行く。しかし、催眠などと言う特殊分野を扱う書籍は、過去現在を通して発行数が少なく、相当昔のものまでそのまま残っているからだ。
 征士が見た奥付の発行日には、二版で三十年前の日付けが印刷されていた。三十年前と言えば、まだ今の会長が社長にもなっていない頃だろう。
 征士はそんな時代を想像しながら、今度はしっかり本の背を掴んで持ち上げる。すると、逆さにされたページの何処かから、栞代わりに挟んだような紙片がぱらりと落ちて来た。足元に止まったそれを拾って見ると、見覚えのあるカレンダーの一ページで、二月七日の日付けになっていた。そこには非常に綺麗な文字で、

『起動と消去 ・サーチ ・ウォッチ
 新規
 保存
 履歴 ・セレクト』

 との言葉が並べられていた。一見してパソコンの操作語を想像させるが…。
 けれど、それとは別のことに征士は気付いていた。恐らくこれは亡くなった博士のメモだと言うこと。思い返せば博士の部屋にパソコンは一台置いてあった。どうせなら細かくチェックして来れば良かった、と、やや後悔もしながら、彼は読書に集中し始めた。



つづく





コメント)ルナについては、OVAでの話や扱いは何とも言えないけど(笑)、キャラ自体は元気があって好きなんです。トルーパーに於いて女性キャラは貴重な存在なので、色んな役を振って楽しんでおります。今回はナスティが非常に可哀想な役なので、次にパラレルを書く時はいい設定にしてあげよっと。…では次へ。



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