逃亡中?
Passenger
#5
パッセンジャー



「僕は絶対これだと思う!!」
 伸が取り上げた本のタイトルは、『催眠セラピー・愛と美容の催眠術』というものだった。因みにこれは学術書ではなく、一般の実用書シリーズの本だ。表紙には若い女性が好みそうな、パステルカラーの天使のイラストが描かれている。
 否、愛と美容に関心がある訳ではない。催眠術に関する本が他に見当たらなかった所為だ。つまり催眠という行為は心理学の応用であり、それ自体を中心とする学問ではなかった。しかし、もう少しまともな本があってほしかったのだが。
「術をかけられた記憶があるのか?」
「ない。でもそんな気がする。いや絶対そうだよ」
 部屋の真ん中に重ねられた十冊程の書籍は、今日の昼過ぎに購入して、この夜までに大体目を通されたものだ。そしてその中から本人が「これだ」と言うのだから、蔑ろにはできないだろう。
「フム…」
 しかし征士は考え込んだ。催眠術だと言われても、この一般向けの軽い内容では何をどうして良いか判らない。この本には自分に暗示をかける『自己催眠』と、他者が暗示をかける普通の催眠とが載っていたが、前者はともかく、後者の手法はどう考えても入門レベルの記述しか無かった。心に嗜好を持たせる程度の暗示に留まっていて、思うように行動させる術など見当たらない。
 まあそれは仕方がないだろう。実用書とは、誰にでもできる程度のことしか紹介しないものだ。深い知識を持たない者が、高度な術を濫用するのは危険である。本来はストレスを取り除き、精神の正常化を計る為の手法だが、無理な心理操作は人格破壊を伴うこともある。しかしだからこそ、もし本当に伸が催眠にかかっているなら、長期間それを放って置いてはまずいのだが。
「何処かで専門書を入手しないとどうにも…」
 今の時点では匙投げだ、と征士は言った。
 大体そんな怪し気なことを誰が行ったのだろう。博士を狙っていた誰か身近な者、伸と顔見知り以上の学生か博士の知り合い、それ以外に考えられるとしたら、まさか誘拐の上緊縛か?。
 そしてふと征士は思い付いた。
「千石大学に心理学科はあるか?」
 すると伸は反応良く返した。
「あるよ、文学部に。あ確かに、西講堂の図書館なら何かあるかも知れない。それと医学部にも」
 そしてそれを聞くと、征士もかなり期待を持てると思った。何故なら彼に催眠をかけた者が読んだ本、そのものが在る可能性が高いからだ。もし運良くそれに当たれば、かけられた暗示を解けるかも知れない。
 善は急げと言う。
「明日私が行って探してみる」
「あ、うん…」
 無論それは今最も大事なことだが、伸はやや返事を曇らせている。
「悪いがここに居るか、大学に行くかどっちかしかないぞ」
「…うん」
 可哀想だが仕方がなかった。それよりは明日一日で用が足りることを祈るしかない。その為に征士は是非聞いておきたいことがあった。
「それで、友達、博士、大学の中で親しい人のことを聞いておきたい。誰かに用があるなら会って来る。でないと私は不案内だからな」
「ああ…、そうだね…」
 誰かにガイドを頼まなければ、本来他所の学生である征士が、勝手に校舎を歩き回って良いものではない。まあ考えるまでもなく、今確実に大学に来ていそうな友人はひとりしか居なかった。

 伸はこれまでの状況を思い出しながら、初めて征士に、自身を取り巻く人々について話し始めた。現在の、この程度まで気持が落ち着かなければ、自らは何も話しはしなかっただろう。それだけ征士に対する信用ができたのかも知れない。或いは状況の変化から、自己嫌悪が少し和らいだのかも知れない。
「えーと…、大学に着いたらまず遼を探して、僕が頼んでると伝えた方がいい。真田遼って名前で、僕と同じ史学部史学科、伝奇学講座の三回生だ。彼なら必ず尽力してくれる筈だから…あ、もし来てなかったら史学科の誰かに聞けば、住んでるアパートを教えてくれるから。大学の近くなんだ。それと、博士の葬儀に出てくれてありがとうって言っておいて」
 聞いた名前だと思ったら、
「ああ、昨日刑事が話していた友達か」
「そう。大学で一番よく会う友達」
 その印象の良い人物には、是非会って話を聞きたいと征士は思う。
「遼は本当にいい奴だよ。お母さんがいなくて、お父さんも仕事で遠出しちゃうことが多いとかで、かなり苦労してる奴なんだ。だから苦しんでる人の気持が解るのかな、人の為に一生懸命働いてくれるから、みんなからも頼りにされてる。ま、ちょっと熱血しすぎなところもあるけど、裏表のない気持のいい奴だよ」
 遼の紹介をする分には、伸は何ら言葉を濁すこともなかったが、
「警察がどう思ってるか知らないけど、遼が殺人なんてあり得ないよ。…それから僕らと同じ専攻でやっぱり同じ年の、下街ルナって子がいるんだけど、彼女は…、うーん、少し誤解を受けやすい子かも知れないな」
 そこで伸は注意深く考えるような仕種を見せた。
「誤解とは?」
「そうだなぁ、遼と似たような熱血漢でもあるんだけど、ちょっと喧嘩っ早いところがあってね。特に女子の中では嫌われやすいみたいなんだ。僕らから見ると、むしろ普通の女子より付き合いやすいような、サバサバした子なんだけどね」
 彼女が疑われているのを既に知っている伸は、言葉を選ぶように話を続けた。
「同じサークルに入ってるから、僕は結構よく知ってるんだけど、彼女の家もちょっと、何て言うか苦労してる家庭でね。今は親から離れてるから、めいっぱい遊びたいんだって言って、勉強より遊びの方が忙しいみたいだね。…でも意外と根はしっかりした子なんだ。だから夜遊び狂いな割には、浮わついた話ってあんまりないんだよ。あれで案外潔癖なところがあるのかもね」
「…その子は疑われているのか?」
 そこで征士が疑問を差し挟むと、
「うん…僕と同様だろうね。彼女は遼が好きなんだよ。でも遼は博士と仲が良くて、そういう場面を見る度に嫉妬してただろうし」
 と伸は答えながらも、また違う見解を聞かせていた。
「でも本当はお門違いさ。遼は別に博士に恋してた訳じゃなくて、お姉さんとか、お母さんみたいに慕ってただけなんだ。博士も面倒見のいい人だったから、遼やルナみたいな境遇の奴や、留学生にも気をかけてたくらいでね。博士から見たら遼もルナも同じだったと思うよ。だから彼女も、博士をそんなに憎んでるってことはないと思うんだけど…」
 彼女を疑いたくない、疑わせたくないとする気持が顕われていた。
「他の奴らはまあ、大学でしか顔を合わせない程度だね。伝奇学講座は結構みんな、和気藹々とやってる方だよ。トラブルや対立も特にないし。史学科全体になると、言ったけどルナのことや、教授の力関係に影響されるところもあるかな」
 そう、大学とは一見のんびりしているようで、その内部の権力争いには凄まじいものがある。教授、博士、各研究チームが、地位と名声を得る為に日々凌ぎを削っている場だ。そんなことは同じ大学生である征士にも容易に想像できた。
「博士と対立している人はいたのか?」
「いや、僕は全然知らない。博士は何て言うか、大学のアイドルって言うか、マスコットみたいな立場だったからさ。看板にされるって大変だろうけど、それに文句を言うこともなかったよ。無理をしない程度に、いつもきちんとしてたと思う。他の教授達はさ、むしろ博士が有名になったお陰で、恩恵を受けた人の方が多いんじゃないかな。東京の有名大学と違って、一般に注目される機会がなかなかないし。だから博士はすごく大事にされてたんだよ、学長からも」
 しかし伸の話では、一向に殺された博士の状況が見えない征士だった。
「誰からも恨まれていない…、皆が博士の立場を認めていた…と言うのだな?」
「だと思うけど。博士と仲が良かったのは、博士の祖父で同じ伝奇学の柳生甲之介博士と、古代言語学の山上教授かな。端から見てると親子みたいだったよ、みんな。口論する場面なんて見たこともない。博士は目上の人には、いい意味で従順な態度でいる人だったからね。それと僕の入ってるサークルに参加してる、ちょっと面白い助教授がいるんだけど、
 大勢でわいわいやるのが好きみたいで、教授だろうと学生だろうと部外者だろうと、色んなところに声を掛けて、自家用クルーザーのパーティーを開くんだ。僕やルナも何度か行ったけど、博士も二回くらい呼ばれて来たかな。でもその凍流助教授がもっと面白いのは、そういう時と大学にいる時が全然違うんだ。普段は本当に口数少なくて、何となく暗くて目立たない人なのに、休みとかレジャーとなると途端に明るい性格に変わるんだ。何だろうね」
「…躁鬱だろう」
 これまでに読んだ心理学系の書物には、病的なレベルではないにしろ、減り張りの大きな精神生活を送る人も居るとあった。特に芸能関係者などは、普段の生活との落差が大きくなり易いと紹介されている。また芸術家のように感性の豊かな者は、感情の振幅が大きいからこそ、素晴らしい芸術作品を生み出せるとも。その助教授は芸術家肌の人物では?、と征士は思う。
「あー、そんな感じかも知れない。でも嫌な人じゃないよ。誰に対しても一貫してフレンドリーで、贔屓をしないタイプ…というか、誰にも特別な関心がないのかも。地質学の助教授なんだけど、地層の発掘品や化石の方が好きそうだね」
 そう言って伸が笑うと、結局疑わしいとは思えなくなってしまった。
「あとは誰がいる?」
「…あとは教授とかじゃないけど、博士の婚約者の人がよく来てた。朱天さんって言う小学校の先生なんだけど、博士の従兄弟で純くんって子の担任の先生なんだ。婚約したのは去年だけど、今年偶然担任になったんだって。
 純くんは学食の賄いさんの子供でさ、そのせいか、学校から帰った後よく博士のところに遊びに来て。子供だけど歴史に関心があるみたいで、博士をひどく気に入ってたんだ。時々その学食にいるお母さんに、『お姉ちゃんの仕事の邪魔をするな』って怒られてたっけ。博士が忙しい時は僕や遼がよく相手をしてたよ。素直で子供らしい子供だと思う。お母さんの方はごく普通の人って感じ。
 婚約者の朱天さんの方は、僕らから見ても欠点が少ないタイプの人だね。何でも平均的にハイレベルと言うか、バランスのいい人なんだろう。博士に対しては勿論だけど、僕らにも態度が良くて親切だし、いい大人の見本みたいな人だよ。博士がノイローゼになってからは、本当によく気を遣ってたと思う。だからこんなことになって、一番可哀想な人だな…」
 伸はそこまでを話すと、他人の心情に同調するように暗い表情をする。
「そういう意味では、親族は皆同じ気持だろうさ」
 征士がそう付け加えると、
「ああ、うん。…博士は色んな所で誇れる人だったしね」
 伸はまた持ち直して、その続きをまた話し始めた。
「朱天さんの友達で、犬山さんって人もよく大学に来てたんだ。すぐ近所に住んでる人でさ、婚約した後に博士を紹介されたらしいけど、すっごくおかしな人なんだ。仕事は動物に関するライターでね、博士とも話が合う人なんだけど、言っちゃ悪いけど、いい大人なのに落ち着きない人でさー。みんなの笑いの種になってたんだ。顔に目立つ傷があって、一見恐そうに見えるんだけど」
「ヤクザのような?」
「うーん、何だかね、路上の喧嘩に巻き込まれてやられたって言ってたから、相手がヤクザだったのかも知れない。犬山さんは子供みたいなところがあって、汚い感情を理解できない風でもあるんだ。博士にはまるで聖母を拝むような態度だったよ。博士を一番敬愛してた人だと僕は思う。あの感じだと、朱天さんを裏切るようなことはしないだろうね。
 そう言えば博士の友達で、迦遊羅さんって人も何度か会ってる。学長の孫なんだって。それがさ、少し前までは親友だって紹介された通り、本当に仲がいいんだなって感じだったのに、博士がおかしくなってから、会いに来ても門前払いみたいな状態でさ。事情は全然分からないんだけど、迦遊羅さんは辛そうだった。いや、博士の方が辛そうだったかな…」
 伸は漸くその頃の正しい状況を、冷静に思い出せるようになったようだ。
「迦遊羅さんが来ると、博士は『会いたくない』って言うんだけど、別に怒ってる様子でもなかったんだ。むしろ怯えるみたいに…、手に持ったカップが震えてたのを見たよ。他の人にはそういう態度はしないし、迦遊羅さんっていつもきちっとしたお姉さんでさ、喧嘩だったらうやむやにするとは思えないけど、プライベートのことはそこまで知らないし…」
 征士もそれは、何か事件に関わる出来事だったのでは?と思える。だが、
「一応憶えておくが、そうそう大学には来ないんだろう?」
「うん、多くても二週間に一回くらいだね。看護婦さんだから忙しいみたいだよ」
 看護婦か…、と、征士は昼のニュースで見た内容を思い返していた。確か毒物使用の痕跡があったと報じられていた。けれどそれは羽柴と同じ勘違いである。
「まあ、そんなもんかな。僕のよく知ってる人は」
 伸は一通り語り終えると、自分の視点にこれと言った疑問や曇りがないこと、征士もそんな指摘をしなかったことに安堵した。それは少なくとも、自分で自分を制御できない訳ではないという事実だ。無闇な衝動から殺人を犯す可能性を自ら否定できたことは、伸に取っての大きな収穫だった。
 そして征士は明日彼の大学へ赴き、まず何をすべきか考えていた。伸の話からは、博士の周囲に特別怪しい者は居ない印象だ。ニュースでは「事情に詳しい者の犯行」と伝えているが、では他に誰が居ると言うのだろう?。そして残るひとり、
「…で、おまえは博士をどう見ていた?」
 改めて征士が伸自身について尋ねると、彼は最初に会った時のような、何処かおどおどした態度を払拭したように、今はただ自分を真直ぐ見据えて言った。
「うん…、僕と博士は確かに仲が良い方だった。僕が入学した時、博士はまだただの研究員でね、今みたいな有名人じゃなかった。一般の人に知られるようになったのは、博士号を取ってからだ。
 博士は史学部の何処かにいつも居たし、それから僕の姉に少し感じが似てたから、最初から何となく話しやすかったんだ。僕は実家が遠いし、入学当時は友達らしい友達も居なくて、だからそのまま姉弟みたいに付き合ってもらってた。博士が忙しくなってからは、何かと手伝いに駆り出されるようにもなった。
 手伝いに行くのは嫌じゃなかったし、バイトもしてないから暇だったし、博士にはその分良くしてもらってたから、その内自分から積極的に参加するようになってさ。三年からの専攻を決める時も、博士の近くに居た方がいいと思って伝奇学を取ったんだ。
 元々そういう訳でよく会ってたんだけど、伝奇学講座に来てからはほとんど毎日会ってた。僕も信用されてるのが嬉しかったし、以前よりもっと気軽に、私的な用事を頼まれることも多くなった。
 …だから変な目で見られたのかもね。今は博士がどう思ってたか聞くことはできないけど、少なくとも僕は本当の姉と同じようなつもりで、それ以外に特別な感情を持ったことはなかった。大体失礼だろ、博士は超エリートのお嬢様なんだよ。僕は特別目立った学生じゃないし…ね」
 なのに、疑われている。
 伸は自分に存在する空白を取り戻そうと、記憶の中を必死に探り続けているけれど。



 既にすっかり暗くなった街路を歩く、羽柴は意志を新たに行動を始めていた。
 秀が指摘した市民の常識と、町に多く徘徊すると言うセールスマンの話。今現在それらは、決定的な事実には繋がっていないが、そこから得られる推理は、この事件が個人同士の恨み辛みなどではない、と言うことを明確にしてくれると思えた。特にセールスの人間ならストーカーになり得る。大学の誰かとも接触し易く、周辺の情報収集も容易だろう。そして数が多いとすれば尚更、相手は何らかの集団だと考えられた。
 大学と周辺住人、更にその外側に蠢く何かが必ずあると、今の羽柴は確信しつつあった。
 但し外部から様子を窺い歩いても、内部の細かな様子までは知りようがない。まして巧妙に警備員の巡回を躱して犯行に及ぶには、やはり実行犯は被害者の近くに居るとしか思えない。そこは変わらない。大学の外と内で繋がっている者をどうにか、炙り出して行くしかないようだ。
 今の段階では捜査は外側に広がって行くが、必ず被害者の周辺に戻って来る筈だった。

 ピンポーン、ピンポーン
 征士の部屋の呼び鈴が二回鳴った。午後八時過ぎ、伸は夕食を終えた後、部屋の小さなキッチンの流し台に立っていた。無論片付けをしていたのだが、食事を作ったのも彼だ。征士は特に何かをしろとは言わないのだが、伸は宿泊費を労働で返しているつもりらしい。何も言われないのに彼はよく働く。
 こんな時間に誰だろうと思いつつ、征士は玄関へと足を運んでいた。新聞屋の集金なら月末に来る、NHKの料金もきちんと納めている、最近通販を依頼した覚えもない…
 そして玄関ドアの魚眼レンズを覗くと、そこには見覚えのある男が立っていて、征士は大人しくそのドアを開ける羽目になった。「いつでもどうぞ」と言ってしまった手前上。
「やあ、設計工学科の伊達征士君」
 相手の姿が見えるなり羽柴は言った。別段彼の態度は嫌な印象ではなかったが、
「…私の調べもついたらしいな」
 征士は一応そんな牽制を入れてみる。前の自己紹介で大学の専攻まで話した憶えはない。が、わざわざそんな呼び方をした時点で、既に多くを知っていると言う表現なのだろう。そして征士が思った通り、
「まあな。特に事件には関係なさそうだ、ってことは判った」
 と、羽柴は軽い調子で返して来た。まあそう言うなら、征士も下手に構えずに居られた。話は向こうの出方次第だと軽く息を吐く。するとそんな様子は見て見ぬ振りで、羽柴は意外な依頼を後に続けた。
「で、今日はおまえさんに話があるんだ。ちょっといいだろうか」
 それは台所から様子を窺っていた伸にも、当の征士にも些かの驚きを与えた。当然伸に会いに来たのかと思えば、関係ないと判っている征士に用があると言う。
「ああ…、別に構わないが。表に出て話した方が?」
「そうしてくれないか」
 羽柴は簡単にそう返すと、エレベーターホールに向かって歩き始める。征士は一度振り返り、不安そうにこちらを見ていた伸に合図をすると、すぐ追い付くであろう歩調で羽柴を追った。彼はエレベーター扉の前に立ち止まり、この階にそれが降りて来るのを待っていた。
「伸には聞かれたくない話ですか」
 合流すると共に征士が尋ねると、羽柴は特に変わらない態度で、
「いや、そう言う訳でもないんだが、何やら情緒が不安定なようだし、下手に動揺させない方がいいだろうとね。俺がこれから話すことは、おまえが判断して彼に伝えるなりしてくれ」
 と説明してくれた。つまりフィルターの役割を果たせと言うことだ。
「それは、寛大なお計らいをありがとう。できれば話も手短かに。でないと不安がるもので」
 征士はわざとらしく丁寧に返しておいた。
「わかった」
 すると、羽柴はそれを見て笑いながら、
「だが妙な様子じゃないか。誰かが居れば安心という状況でもないだろう?」
 と付け足した。彼の問い掛けも解らなくなかった。己を支援してくれる者が居たとしても、足りない記憶が蘇る訳でも、或いは犯した罪が消える訳でもない。しかし征士はそれに答えられた。
「そうでもない。彼は知らぬ間に徘徊するのを恐れているので、監視役が居る方が安心らしい。自分が何をしていたのか、恐れながら知りたがってもいる」
 丁度その時ふたりの目の前でドアが開き、羽柴は速やかに移動しながら返す。
「そうか、それは良い傾向だ。…後は一階で話そう」
 思っていたより、否、見た目通り理解の早い羽柴に、征士は大人しく従いエレベーターに乗り込んだ。

 マンションの一階は殆どが賃貸の店鋪になっており、住人用のスペースはエントランスホールと管理人室、住人用の集会室だけが存在している。ふたりは人通りが無く声の響かない、集会室寄りの壁際に立って話を続けることにした。
「それで?、監視役としての見解は?。あれから何かあったかい」
「何も。異常事態と思える事は何もない」
 すると羽柴は、暫し考える仕種を見せながら言った。
「…変だな。しばしば起こると言っていた筈だが?」
 そう、疑問は尤もだが、今のところそれに対する答はなかった。しかし自分にも判らないように、この主任警部にも判らないのだと思うと、征士は素直に事情を話す気になれた。
「本人は、事件の前日が最後のようだと言っている。それまでのひと月ほどは、毎日のように起こっていたとも聞いた。それが事件と共に、今はぱたりと止んでいるらしい。私には、事件と全く関係がないとは言えないように思う…」
 すると征士の予想通り、羽柴は目を細めながらそれを聞いていた。恐らく一度の聴取では、細かな内容までは聞き出せなかったのだろう。そして羽柴の方も、匿っている者を庇い立てせず、冷静に観察する征士の態度に些か驚いていた。この青年の言動については、もう少し信用を置いてもいいように羽柴は思う。父親は仙台市警の巡査長だと報告があった。
 そして瞬時に、羽柴は頭の中で何らかの考えを纏め、征士にはこんな事を打ち明けてくれた。
「実はな、大学関係者が主導したとする線は、今はかなり薄いと見ているんだ。外部からの関与が見えて来たところでね。そこに来て、彼の無意識的な行動は、事件前には頻繁に起こり、事件を境に止んだと言う君の話だ。恐らく誰かが故意に彼を動かしていた、と想像に難くはないな」
 やはり警察も同様に考えるか、と、征士は己の見方にやや自信を持って続きを話す。
「私は今、催眠術について勉強中なのだが、『記憶がない』という記憶を消すことは、可能だろうか?」
 問い掛けられた内容については、勿論羽柴の方が豊富な知識を持っていた。
「可能だとも。と言うよりそれをしなければ片手落ちだ、犯行を企てる者に取っては。そういう場合は予め用意された話を語るもんだ」
 催眠暗示は空想の魔術ではない。被催眠者の結果行動から割り出される術者の、怪し気な状況が報告されれば、覿面に逮捕となる場合もある。行動心理の研究は、資本主義経済と共に大きく発展して来た分野だ。操られる者の行動は必ず操る者の利益になる。的確な宣伝をすれば物が売れるのと同じことだ。
 つまり全てひとつの線で繋がっている、と言う羽柴の回答には納得できた征士。しかし、
「だとしたら、事件当日の記憶、それだけを消す意味はあるのだろうか?」
 それは彼の考察から生じた大きな疑問だった。もし伸が誰かの催眠に因って殺人を行ったなら、何故犯行時刻前後の記憶が途切れたと言わないのか、何故それ以外の記憶の欠如は憶えているのか…。
「成程それは妙だな」
 次々と的を射た発言を繰り出す、やはりこの学生は見所のある人物だと、羽柴は謎に取り組みながら感心していた。
 確かに、本来なら事件に関する記憶を一切消去するべきだ。それが加害者には最も安全な道と思える。被催眠者に接触する時間がなかったなど、条件に拠る制約があった可能性はあるが、ならば事件後に必ず、彼に接触しようとする者が居る筈だ。危険な証拠を残したと考えるなら、やっきになって彼を追う者が居て然り。しかし、張り込みをさせている部下の報告では、征士と伸の周囲に現れた第三者は無いとのことだった。
 こんな場合、もし当日の記憶だけを消すのが目的なら、過去の記憶は残したかったことになる。彼を犯人と疑わせる為の工作かも知れないが、催眠の専門家が彼を見れば、尻尾を掴まれてしまう可能性が非常に高い。危険な証拠を残す意味では変わらない、片手落ちなやり方としか見られないと思う…。
 残された数々の不可解な足跡から、羽柴警部は何を推理できただろうか。
「よし、わかった。これについては、取り敢えずおまえの思うように動いてくれていい。行き詰まったらプロを呼ぶことにしよう」
 警察が一般人を捜査に参加させて良いのか?、というところだが、羽柴には無論考えあっての発言だった。場合に拠っては伸の記憶が戻ることを懸念し、誰かが征士に監視させている可能性もある以上、伸だけでなく征士にも、もう少し泳いでいてほしいところだった。
 何故今になって、征士にまで疑いが掛けられたかと言えば、
「ところで君は、『耀者会』の名前は知っているよな?」
「ああ、うちの大学では知らない者はいないだろう」
 征士の通う大学が、今を以って耀者会グループとの繋がりが深いからだった。
 羽柴はつい先程まで、同じ品川区にある耀者会ゼミナール本社に居た。秀の報告にあった、やたらに多いと言うセールスの実態を調べに来たのだ。しかし営業の総括担当者は不在だと言われ、見せてもらった西神奈川地区の記録には、小田原の名前は多いとは言えない記述しか無かった。
 事件当日、その月、それまでの月から推察すると、せいぜい月に一度程度の営業でしかないようだ。これでは「やたらに多い」とは言えない。住人の多くがセールスマンの多さに気付いていると、秀の話の後にも報告が入っていた。 改竄された営業データを見せられた可能性を疑っている。
 彼等は事件に何かしら関わっていると、羽柴は自身の捜査員としての感性を信じていた。
「耀者会に関係があるのか?」
 そんな時、征士に先に質問されてしまったが、
「恐らくな。おまえは耀者会についてどんな知識がある?。それと毛利伸はどうだ?」
 羽柴はそれを簡単に切り返した。この場合あくまで聞き手は警察側でなければいけない。しかしそんな会話上の上位争いなど、今の征士にはどうでも良かった。どころか、征士は忘れていた話題のひとつを思い出し、大いに喜ばしい気分だった。
「そうか…、重要なこととは思ってもみなかったが、彼はその名前を全く知らなかった。私の大学には色々縁がある企業だが、千石大学ではその名を見ないと言っている。事実かどうかは知らないが、彼自身は確かに知らなかった。私の大学に寄った際、初めて見る本にひどく喜んでいたくらいだ」
 そんなことがあるのだろうか?。
 と、羽柴は神妙な顔付きに変わっていた。今は一線で活躍するエリート警部の彼ですら、耀者会出版の書籍には幾度も出会って来た。一般書とは確かに流通量が違うが、真面目に勉学に勤しむ大学生が、専門書店等でその名を目にしない筈はない、と思える知られた出版社なのだ。あまりにも不自然な話に感じられた。
「私については、大学の他の学生と同様の知識がある程度だ。社長が変わってから、大学前の店鋪がサラ金になったらしいが、金を借りた憶えも一度もない」
 征士はそう続けたが、羽柴の思考からは既に征士のことは外されていた。それ程に、この件は異常な状態と捉えられたようだった。否、正常異常の概念より気になるのは、これまで話していた題材に理屈が合わないからだ。
「待て、その話はおかしいぞ?。もしおまえの言った通り催眠によって、全て『耀者会』の名前を憶えないようにされていたら、今は何故それを認識できるんだ?。それとももう催眠は解除されているのか?」
「私に聞かれてもわからない。事実を話しただけだ」
 思わず捲し立ててしまった為に、冷静に返答されて羽柴は我に返る。そう、現状については議論する前に、専門家に見てもらえば済むことだった。今はそれより征士の出す情報を一字一句、間違いなく記憶する方が先決だった。まだ誰にも首謀者と実行者が見出せない現状では。
「いや済まない。これは重大な発見だと俺は思う、いい話を聞かせてもらった」
 羽柴は態度を改めそう言った。
 もし本当に催眠術等が施されていたなら、事件前に一度は伸に会った者を疑う。ひとりの人間の周辺を調べるだけなら、そう多くの人員を裂くこともないと、羽柴は既に割り当ての指示を考えていた。そして考えながら征士には、
「今日はこの辺で失礼するよ。まあ、今後何かがあったら、無理せず警察に連絡してくれ」
 と、背広の襟を正しながら話し、エントランスの方へと歩き出していた。彼の中では既に、耀者会は紛れもなく繋がっていると解釈されている。後は関係者を虱潰しに調べるしかない、と言うところだった。
 そして、何となくその場に置いて行かれたような征士も、漸く部屋に戻ろうと歩き出した。
 その矢先、
「おう、そう言えば携帯電話、二台あったんだな」
 と羽柴は振り返りながら言った。
「もうひとつ持ってたって、俺の部下が言ってたぞ。しっかし、いくら通話料が安くなったからって、今時の学生の流行か?、少し前までは浮気相手に渡すもんだったぞ?。ああそれと、もう一台の方は署にあるから、返してほしければ取りに来るんだな」
 そんな言葉だけを残し、羽柴は愈々核心へと近付く予感と共に行ってしまった。征士には置き土産のようにもうひとつ謎を残して。



 もう一台は署にある、と警部は言った。
 考えてみれば、事件から二日と経たない内に、伸の交友関係は殆ど調べられていた様子だ。それには何かしらデータが無ければ不可能だっただろう。彼が普段使っている携帯電話は、何らかの経緯で警察の手に渡っていたようだ。それなら納得がいくと言うもの。
 では彼が後生大事に持ち歩いているのは何だ?。
 一度も鳴らない電話。けれど手放せない電話。征士が渡した物だと羽柴は思っているらしいが、無論そんな事実は有り得なかった。征士は考えながら部屋のドアを開けた。
「・・・・・・・・」
 妙に静まり返っている。人の動作する気配が全く感じられない。この僅か二十分程の間に何が起こったのだろう?。と、征士は急いで靴を脱ぎ部屋に上がり込む。すると伸は部屋の真ん中で、机の上に上体を伏して眠っているような…
「おい、寝ているのか?」
 半ば安心しながらそう声を掛けると、むくりと起き上がった伸の体の陰に、空いたビールの缶がひとつ横たわっていた。成程どうりで顔が紅潮している。
「…んー、どうなった…?」
 伸はあまり聞きたくもなさそうな様子で言った。それ程にまだ、警察に対する拒否反応が強いのだろうか。ある意味で彼はこの場から脱出する為に、酒を飲んで微睡んでいたに違いない。
「別に、何もなかった。様子を見に来ただけのようだ。催眠術について勉強していると話したら、続けてくれと言われたよ。それから、耀者会出版のことを聞いて行ったな」
 そう、耀者会についても征士には大いなる謎だが、
「あー、お城のマークのね…」
 名前を憶えたばかりといった状況の伸には、あまり関連があるとは思えなかった。大体考えたところで、一個人が相手にできる存在でもないだろう。それよりは目の前にある現実を征士は優先する。
 伸の首に掛けられた、ありふれた銀の携帯電話に征士は目を遣った。
「何だぁ…、僕はてっきり、君を説得して引き渡せとか、言ってるのかと思った…」
 そう言って静かに笑った、伸はだるそうな動作で何やら足元を探っている。そしてもう一本の缶を探り当てると、
「よかったー!、じゃあお祝い…」
 と言って、勢い良く缶のプルトップを引き上げていた。
「それは最後の一本では」
「うん、もう無かった。明日買って来なきゃ」
 呑気にそう言いながら、伸は気にせずそれを口に運んでいる。明日征士はひとりで千石大学に出掛け、その間伸はここで留守番の予定だ。買いに出るのはやはり征士だろう。
 しかしそれにしても。
「無理して飲まなくてもいいんだぞ?」
「…えー?、何で?」
 伸の様子は、既に相当酔っ払っているようなのだ。
「別に何ともないよ、三本くらいは…」
 そう言って机に置かれた缶の音が、もう半分は空けたと言う音色を響かせていた。
 まあ、本人が言うのだから間違いないのだろう。確かにある程度は飲めるようだが、酔いが回るのがかなり早いらしい。それは俗に「安いお酒」と言うものだ。無論その意味は「値段が安い」と言う表現だが、この場合は「安らかな」とも解釈できるから面白い。何故なら今の彼は、至って平穏な様子でにこついているではないか。
 冷蔵庫に残っていた、最後の在庫を開けられてしまったことは、ひとまず咎めずにおいた。
「こういう状況だからな、飲みたくなるのはわからなくもないが…。おい、寝るならちゃんと横になれ」
 横に座って征士が話す傍から、伸はすっかり安心したようにうとうとし始めていた。テーブルに両肘を突いたまま、やっとの様子で起こしている上体が、落ち着きなく、ユラユラ揺れているのが目に判る。さながら首振り人形のようだった。
「あっはっは…、まだ早いよ、小学生だってまだ寝ない時間だよ」
 そして陽気な倦怠感と共に、伸は征士の方へと段々傾き、やがて完全に寄り掛かっていた。
「あー、でももう眠いかも…」
 征士の半身に、それは妙に重い肉塊と捉えられていた。意識の抜けた肉体は重いものだ。つまり伸は本気で眠りに就こうとしているらしい。
 そしてそんな風に、全く無防備で居られる彼を見ていると、酒を飲ませておくのは非常に有効な手段だと思えた。もう少し早くそれに気付いていれば、明日彼を置いて出掛けることを心配せずに済んだのだ。と、今更ながら征士は溜息を吐く。
『いや、出掛ける前に買い物に行けばいいのか』
 と、名案を思い付いたところで、眼下に凭れる伸は既に大人しくなり、眠っているのとほぼ同じ状態になっていた。恐らくもう、首から下がった電話を気にしてもいないだろう。
 征士は使える左手でそっとそれを手にすると、極力動かさないよう畳まれた受話器を開いた。携帯電話の機種は数多くあるが、そうそう複雑な操作が必要なことはなく、機能はどれも大体似通っていると思う。少しばかりボタン類を弄っている内に、征士は目的であるアドレス辞書を開くことができた。

 そして知ったのだ。
 この携帯電話には何も登録されていないことを。
 アドレスデータも存在しなければ、公告メール以外の受信記録もない。もし羽柴が勘違いしたような物だとしても、最低ひとりの相手のナンバーは登録されている筈だ。しかしこれは全くの空白…。
 明日、彼の友達に会ったら何か判るかも知れないが。



 耀者会ゼミナールでは、殆ど収穫らしい収穫はなかった。
 そして帰る頃には既に午後七時を回っていた為、港区芝にある、耀者会出版本社へ行くのは諦め、羽柴は伸の隠れ住む町へ、様子を見に立ち寄ってみたと言う次第だった。
 が、結果的にはそれで正解だったようだ。彼が事件に関わっていそうだとする事実、同時に彼を取り巻く不自然な状況と耀者会の名前。その裏には、毛利伸とは別の者の意思が見え隠れしている。確かにそう思える現実がそこに在った。
 明日からは、名付けて『遠隔捜査』といった形になるだろう。現場に残された証拠、決定的な目撃談では解決できない現状では、事件に関連する最も遠い場所の、細かな因縁話までを拾い集める作業の連続になる。本当の困難はこの先に待っている。羽柴はギラギラした捜査意欲を内に秘め、通り掛かったタクシーを止めてそれに乗り込んだ。
 運転手に声を掛けられる前に、羽柴はいつもそうするように上着の内ポケットから、警察手帳を出して運転手の顔の傍に差し出す。
「請求は小田原署の方に」
 彼が言うと、無言で承諾したことを表現するが如く、運転手は恐縮した様子で返した。
「どちらまで行かれますか?」
「蒲田駅の方向に…。あー、いや、銀座に行ってくれ。銀座一丁目と新富町の間辺り」
 今日は自宅に戻るつもりだったが、羽柴は何かを思い出したように訂正した。そして車は夜の銀座へと向かって走り始めた。



つづく





コメント)やっと征伸らしい回がやって来た感じですが(苦笑)、以後ずっとふたりの話かと言うと違います…。やっぱり捜査の中心はあくまで羽柴警部。しかし当秀がコンビ刑事と言うのは似合うけど、征伸にはあまり似合わないイメージですね。というところで、次へ。



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