幸せな過去の図
Passenger
#3
パッセンジャー



 流石に朝七時台から、食事の為に横浜まで出掛けようとは思わなかった。
 が、朝食を少量にしておいて、少し早い昼食に出掛けることにした征士と伸のふたり。ある程度の店が開店する十時頃に桜木町に到着、混雑する時間の前に店に行く予定だ。伸の言う「来福軒」なる店が、どんな店だかは全く知らないが、彼がこだわる程度の質の良い飲食店なのだろう、と征士は想像していた。
「水餃子、水餃子?」
「他には何があるのだ」
「えー?、何があるかな。僕は水餃子しか食べたことないんだ」
 それを聞くと途端に不安になってしまった征士だが、まあそんな他愛のない話をしながら、ふたりは駅に向かって道を歩いていた。
 暑くも寒くもない爽やかな陽気の中、丁度鮫洲公園の横の道を抜けようとした時である。駅の方向から、何処となく見たことのあるような人物が近付いて来た。否、そう思ったのは伸だけで、征士にはまだ面識のない人間だった。やや草臥れたような背広を着て、眠いのか何なのか目を擦り擦り歩いている。
「…!」
 それまで、浮かれるような調子だった伸の歩みは突然止まった。前を歩いていた征士にも、その急な様子の変化は確と伝わっていた。振り返り、しかし驚き顔の伸には普通の口調で話した。
「どうしたのだ、恐ろしいものを見たような顔をして」
 事実恐ろしいものだったのだ。その場に漂う妙な雰囲気に気付くと、歩いて来た男の方がふと、俯いていた顔を上げて前を見る。
「!!」
 慌てて伸は、征士の後ろに隠れたがもう遅い。
「おまえ…、こんな所に居たのか」
 羽柴警部に取っては、アンラッキーと思われた雑用が実は、とんでもない幸運を招いたようだった。何故ならこの道を真直ぐ行くと、警視庁直属の運転免許交付事務所があるのだ。まさか偶然この日のこの時間に、ここに行方を晦ました人物が現れるとは。
 又一方には、「誰だ」と聞こうとして口を噤む征士が居た。男の背広の襟には見覚えのあるバッジが着いている。下手な言葉は慎んだ方が良いと即座に反応していた。実は征士の父親は実家の地域の巡査長なのだ。但し叩き上げの。
「…刑事だな?。よくここが判ったな」
 挨拶代わりと言っては何だが、警察関係の人間には慣れている征士だ。自分と大して年も違わない男には、この程度で良いだろうと思っている。
「これが仕事だからな。…と言いたいところだが全くの偶然だ。俺は免許の書き換えに来たんだが、まあ運も才能の内さ」
 すると羽柴も特に気に留めない様子で返事をした。話し方と言うのは、まず人を見て考えるものだ。羽柴にはデータに無かったこの人物が、何処か抜け目のない強かさを発して、逃げようとする者の前に居るのが気になった。どうにも扱い難そうな人間だと直感していた。
「ところでおまえさんは何者だ?。彼の友人には居ない顔だな」
 伸の言った通り、既にそんなことは調査済みのようだった。だからやはりここは、
「友人、を調べても出て来る訳はないだろう。フフフ」
 と遠巻きに答えておくべきだった。まあこの言い回しを汲めないようなら、大した刑事ではないだろうと征士は測っているのだ。すると羽柴はそれ以上勘繰りを入れなかった。
「そうかい。まあいい、世の中には色んな奴が居るからな」
 できる。
 と、征士も相手に一目置く気にはなったようだ。そして、今は正攻法で切り抜けた方が良さそうだと考えた。下手な誤魔化しをすれば、却って伸の立場を悪くし兼ねない。頭の回りそうな刑事に弱味を握られては、後はいいように踊らされると判るからだ。
「私は伊達征士と言う者だ。すぐそこの大学に通っている、家もこの近所のマンションだ。彼は暫く私の家に居ることになったので、何かご用の際はお構いなくどうぞ、刑事殿」
 征士は改まるように、自らそんな自己紹介をしてみせた。
「ああ、御親切にありがとう。俺は羽柴当麻だ。今は小田原警察署にほとんど入り浸ってるから、君達こそご用の向きにはどうぞ宜しく。歓迎するよ」
 食えない奴、と思いながらも羽柴はそれなりに丁寧な言葉を返す。しかしこれで余裕を以って退散できた。偶然これだけの情報を入手できたなら、今はそれで良いと彼は考えている。
「では、私達はこれから食事に行くので、またいずれ」
 そう言い残すと、唖然とするばかりの伸の腕を掴んで、征士はさっさと歩き出していた。何が起こっているのか判らない、このまま何もなく済むのだろうか?と、伸の頭に疑問が走ったその時、
「ところで言い忘れたが、」
 彼等を追い掛けるように羽柴は言った。
「ひとつ間違いを訂正しよう。俺は刑事ではなく警部だ」
 警察組織の仕組みはやや難しいのだが、刑事と言う全体的な呼び名より、警部の方が格が高いのは確かだ。警察学校を出た者は始めから上位職に就き、更に選ばれた者が警視、警視長となって行く。
 まあそんなことは既に征士の知識の内だった。何故なら父親がしばしば愚痴を零すからだ。考えてもみよ、一般の企業ならば単なる一事務員でも、万にひとつくらいは社長、会長となれる可能性もある。だが警察内でそれは絶対に有り得ない、始めから階級差別が存在する厳しい職場なのだ。
 それにしても、と征士は思う。
 あの若さで既に警部職が板に付いたような、生え抜きのエリート警部に追い回されては、伸が神経を磨り減らすのも無理はない。征士は恐らく向こうの目にも、伸の様子が気の毒に映ったものと考えた。そこで今は放置していいと判断されたなら、やはり馬鹿正直な自己紹介で正解だと思った。我々がここから動かないと判れば、しつこく追い回す必要もなくなる。
「何もなくて良かったな?」
 今は普通に歩いている伸に征士が問い掛けると、
「…いいのかなぁ…」
 彼は不思議そうな様子で振り向きながら、小さく消えて行く男の姿を見送っていた。けれど明らかにひとつの心配事から解放されたという、身の軽さが彼の歩調に顕われていた。



 その日の夕刻、小田原の柳生本家の前には、暗く沈んだ長い列ができていた。
 五時までには来いと言った本人が、通夜の始まる六時を過ぎても来ないとはどうしたことだ、と思いながら秀は列整理の振りをして、通夜の列に並ぶ顔をひとりひとり憶えて行った。彼は勉強自体はあまり得意ではなかったが、何でも片端から丸暗記するのが特技だった。それで警察学校に入って卒業したのだから、やはり大した奴なのである。
 するとそこへ一台の覆面パトカーが乗り付け、些か慌てた様子で中から羽柴が姿を現した。彼はすぐに秀の姿を見付けると、黙ったまま彼の傍へと駆け寄って来る。
「どうしたんだよ?」
 難しい顔をしている彼の様子を見て、何かあったらしきことは察しがついた。
「三時過ぎに鑑識結果が届いたんだが…それが困りものだ。予想しないことがいくつか出て来て、問い合わせざるを得なかった」
 彼はまだ考えている様子で、何処となく目線が宙に泳いでいる。
「どんな結果だって?」
「ああ、直接の死因は窒息死で間違いないが…」
 そこで羽柴は一度言葉を切って、ひとつひとつ考えるように後を続けた。
「被害者の口の中から、致死量の毒物が発見されたんだ。毒物はαアマニチン。所謂毒キノコの小型タンパクだ。成分を抽出した物で、被害者の体重から換算すると、五ミリグラムもあれば致死量の猛毒だ。だが、胃には到達していなかった。
 そこが解らない。何かを口に含ませた状態で、口内だけにそれを留めておくことは不可能だろう。うがい等で完全に吐き出さない限り、どうしたって一部は唾液と共に胃に送られてしまう。にも関わらず、胃には全く届いていないという結果だった。それはつまり、口に入れた直後に首を絞められ死亡したのか、硬直していた状態だったのか、死亡した後に口に入れたことになる…」
 話を聞き、秀もまた考えながら尋ねた。
「…最初のケースはいいが、後のふたつは何なんだ?」
 口に毒物を入れさせた後に、抵抗されて首を絞めた可能性はあるかも知れない。被害者は不眠を訴えていたので、薬だと言って飲ませたが疑いを持たれた、という筋書きはあっても良い線だ。しかし後のふたつはどうだろう。何らかの方法で硬直させていたなら、微量で効く毒を盛っておきながら、更に首を絞めるのは妙な行為だ。放っておけば短時間で死亡するのだから。そして死んだ後とすれば全く意味が解らない。
 しかしそれに関しては更に情報があった。
「それで聞いてくれ、薬だと信じて口に入れるならいいが、もし疑わしいと感じれば吐き出さない訳がない。更に首を絞められれば、当然唾液と共に口内の物は外に落ちるだろう。ところが他の部位や着衣に毒物の付着はなかった。とすれば、体機能がほぼ止まった状態だった、としか考えられない」
 羽柴がそこまでを話すと、秀もかなり納得した様子だった。
「二番か三番ってことか。うーん…、でもなぁ、確実に殺すって意味でも変だよなぁ」
 愉快犯でもない限り、殺人者は一刻も早くその場から逃げたいと思うものだ。確実な殺傷方法を幾つも重ねると言うのは、つまり現実的でない推理のようだ。取り敢えず毒物についてはそこまでに留め、羽柴はもうひとつの結果を報告する。
「それと凶器についてだが、ワイヤーのようだと報告されていただろう。あれは額などを吊るすワイヤーだそうだ」
「ふーん…、まあ大学の中にはありそうだが、」
 しかし強くて握り易い紐なら、他に手頃な物は多数存在する。持ち運びも全く難しくない筈だ。
「何でわざわざそんな物使うかねぇ」
 秀の疑問は当然だった。そして羽柴にも、その理由をすぐには解明できないと思えていた。特殊なワイヤーではあるが、大学内のあらゆる場所にありそうな物だ。何処からか拝借して来たとして、それを探すには時間が掛かりそうだった。
「…すぐにはわかりそうもない。今は通夜と葬式に集中するか」
 こんな風に考えが纏まらない内は、他のことに没頭する方が良さそうだった。これから情報が揃って行く経過の中で、今はちぐはぐな状況も、必ず整頓されて見えて来るに違いない。羽柴は切り替えるように言って、既に本家に集合している親族に、挨拶をしようと歩き出していた。
 歩き出したのだが、またすぐに足を止め、
「ああ、そう言えば今朝、意外な所で毛利伸を見たぞ」
 と彼は穏やかに報告した。
「んっ?、今朝ぁ!?。何処で?」
 無論秀には羽柴のその態度は解らない。第一級候補者と目される逃亡者を見付けたにしては、余りにも素っ気ない話し方ではないか。だが、
「鮫洲に居たんだ、品川の。免許を更新に行っただろ、今朝。まあ、暫くあの辺りに居るだろうから、先に周辺から固めて行けばいい」
 やはり羽柴には確と通じていたのだ、征士が暗に示していた意味が。
「おい、そりゃ…どう言うことだよ」
「んー。本人が拒絶反応を示しているからな。まだ容疑者と決まった訳じゃない、あまり手荒には扱えんだろ。それと、面倒臭そうな奴が一緒に居たんでね」
「はぁ?、外国人の隠し妻でもいたか?」
 秀にしてはなかなか良い所を突いている、と羽柴は笑う。
「ああ、隠していたんだろうな。妻じゃない、男だ」
 しかし、聞けば秀には笑えなかった。
「はあ…。色んな所に、色んな趣味の奴がいるって訳ね…」
 何故なら秀の頭には今朝方会った、困った先輩の顔がチラついていたからだ。



 翌朝、小田原警察署の捜査本部では、柳生家の本葬儀に出掛ける直前に、特に注意する人物についての説明が行われていた。
「お早うございます。今から、本日午前十時からの、被害者の葬儀に参加する捜査員全員に、前もって伝えておきたいことを説明する。被害者の遺族と相談した結果、我々は午前八時半、祭事場の開場と共に監視活動を行えることになった。指示をされた者以外は出棺までで終了、署に戻って報告書を纏めること。指示のあった者は親族が解散するまで付き添うこと。
 そしてそれぞれ監視の際には、無論弔問客全員を隈なく見回してほしいが、これから特に挙げる人物については、充分にその様子を記憶しておいてほしい。
 まず、喪主の側は被害者の母親。フランス人だが日本に慣れている為、言葉はきちんと理解できる上、日本的な感覚が解らない人物ではない。柳生家は将来的な遺産相続人を失ったことになり、この母親の動向を窺う者が、親族の中にいる可能性が充分にある。尚、父親は病気で既に他界している。
 それから父方の妹に当たる山野洋子。年令三十五才。被害者と仲の良かった従兄弟の少年の母親だ。千石大学の学生食堂に、昼間勤務だがパートに来ている。そして被害者の母親とは以前から気が合わず、何かと口論になっていた注意人物だ。大学の様子に詳しく、相続にも関係がある。普通運転免許を持ち、大学へは自分の軽自動車で通っている。
 その夫の山野弘。年令三十八才。相続に関しては妻同様の意識を持つと考えられる。更に昨日の鑑識から出た毒物に、最も近い人物と推測される為注意が必要だ。東京、町田市に在る食用植物実験農園に勤務中。夫婦は神奈川県伊勢原市に在住。夫も自分用の車を所有するが、電車で通勤しているとのこと。自宅から千石大学までは電車と徒歩でおよそ一時間、車で三十分程だ。
 そして息子の山野純。小学生だ。事件は子供の悪戯とは思えないが、子供には巧妙な嘘は吐けない点から、参考となる話が拾える可能性がある。様子は一応見ておいてくれ。
 弔問客の方は、既に報告されている候補者各人と、大学関係者、学生の各人。既に報告されている者に関しては、新たな説明は不要と思うので省略する。
 そこに新たにひとり、疑わしい教職員の報告を受けた。事件当日の夜、西校舎と隣接する講堂の図書館に居た、剣舞 京と言う体育顧問。年令四十才。茅ヶ崎在住で妻有り。他の教職員らの話では、保守傾向の理想主義者だと言われ、気になることをとことん追及する気質の人物らしい。被害者との関係はあまり鮮明ではないが、祖父の柳生博士との間にトラブルがあり、恨みを持っている可能性があるとのことだ。
 彼は体育大学を経て体育教師になったが、歴史文学を好み、古美術のコレクターでもあるそうだ。その骨董品を巡るトラブルが二年前にあったらしいが、詳しい話はまだ報告されていない。無論柳生博士の側の話も聞く必要がある。また図書館の係を受け持っており、いつでも自由に鍵を開けられる立場でもある。
 彼は事件の前日、授業を終え一度自宅に戻ったが、趣味に関して調べ物をしたくなり、再び大学にやって来たと言う。大学に到着したのは午後十時半頃。正門の守衛が彼の車を確認している。それから図書館に行くと、丁度司書官が帰るところに鉢合わせ、彼に了解を取って翌朝の午前三時半頃まで居たと話している。司書官に出会ったのは確かで、時間も合っていると確認が取れた。また警備員も、二回の巡回時に講堂の窓から彼を見ており、三回目には帰った後だったと言う。他には誰も図書館には居なかったそうだ。
 警備員の巡回時間から言えば、犯行時刻には講堂、図書館はまず回らない。そしてずっとひとりで居た点から、彼の行動を証明する者も誰も居ない。帰ったとされる時間は確かなようだが、殺害後に図書館に戻ることは充分に可能だ。動機も有力なものがあり、今後は要注意人物として扱う。
 その他、大学の警備関係者、清掃業者などと、被害者に面識のあるマスコミ関係者、出版関係者。この辺りは特に、大学関係者との繋がりを見る必要がある。挨拶行動などに注意してほしい。
 それから大学に居た者以外だが、被害者の唯一の親友と言われている、千石迦遊羅と言う女性。千石大学の学長の孫で、同大学を卒業後看護婦をしている。年令は被害者と同じ、附属高校からの付き合い。都内千代田区の病院に勤務し、現在は江東区のマンションで暮らしている為、月に一、二度しか会っていなかったようだが、電話やメールは頻繁に遣り取りしていた。
 しかしノイローゼが原因か、或いは何らかのトラブルがあったのか、被害者は最近になって彼女を嫌っていたと言う。婚約者もその理由がわからず、避けられている彼女が気の毒だったと話している。性格的には真面目で公正さを好む傾向、気丈な面もあるがあくまで清潔な人柄だと言う。被害者に嫌われ始めたのはつい最近と言うから、それ以前に何があったかを調べてほしい。事件に繋がっている可能性がある注意人物だ。
 そして同病院の外科医で、千石迦遊羅を通じて被害者と面識のあった蛇口悌一郎。彼女の上司のひとりだ。婚約者の朱天童子の友人が、彼の手術を受けて入院していたことがあり、被害者と婚約者双方に間接的な関わりを持っている。通俗を好まない、やや変わり者と評される人物だが、医師としては優秀だそうだ。都内練馬区に在住、三十一才。
 その手術を受けた人物、犬山孝は婚約者と同じ二十九才。千石大学のすぐ傍のアパートに在住。彼は被害者に相当な憧れを抱いていた模様で、婚約者本人にもからかわれていたと言う。性格は素直で純朴、やや感情的な面もあると言う。ふたりは高校の同級生で、犬山の方は私立大学の獣医学部を中退の後、出版社に勤めたが現在はフリーライター、主に動物に関する執筆をしている。退学の理由は家族の借金が原因らしい。
 同じ執筆業に携わる同士で、住居も近い為大学にしばしば訪れており、学生達もよく知っている人物だ。しかし被害者とは婚約者公認の関係であり、それ以上のものではなかったと言う。事件の犯行時刻は自宅に雑誌の編集担当者が来ており、原稿を待たせていたと話す。担当者は午前五時過ぎに帰ったと、本人からも確認が取れた。それ以外の情報はまだないが、大学内部に関する知識があり、近隣に住む人物の為注意してくれ。
 また千石迦遊羅の祖父、千石大学学長の千石迦雄須氏は、一昨日までの一週間、米国で開かれていた学校法人の視察会に参加しており、暫く小田原市内の自宅には不在だった。昨日から漸く聴取を開始したが、事件に対しては慎重でありながら、非常な遺憾の態度を表しているそうだ。事件に発展しそうな事柄に、何かしら思い当たることがあるのかも知れない。注意深く見ていてほしい。
 まず今日はこれらの人物に集中するように。著名人の葬儀にはやたらに人が集まり易い。関係のない者に惑わされないでほしい。以上だ」



 そして同じ頃、征士は朝から耳を疑うような言葉を聞いていた。
「今日はフカヒレラーメンを食べに行こう!」

 実は、昨日出掛けた来福軒本店にて、伸は念願の水餃子にありつき痛く満足したが、征士は水餃子には関心がなかったので、そのフカヒレラーメンとやらを注文したのだ。かなり高価な部類に入るメニューだったが、店のお勧めの品だけあって大変美味だった。そして感想を聞いた伸は、今度来たらそれを注文すると言った。但し明日また来るとは言わなかった。
「昨日行ったばかりだ」
 と、征士でなくとも一言言うのが普通だと思う。
「いいじゃないか、どうせ暇なんだし」
 確かに今日は日曜日でもあり、逃亡中の身である伸には何もする事がない。
「私は暇でもないんだ」
 しかし征士の方は、明日が期限のレポートを今日中に纏めなければならなかった。既にその作業に取り掛かる準備として、机の上には必要な資料や本が積んである。
「えー?、それ明日じゃなきゃ駄目なの?。ひとりで出掛けたくないんだよ、早く終わらせてくれなきゃ困るよ?」
 実に勝手な言い分だった。しかしそれでも根気良く話を続ける征士。
「だが昨日のようには行かないぞ、夕方に出掛けるとしても、日曜だから恐らく混んでいるだろう」
 横浜中華街にある来福軒は、征士が想像していた店とは少々違う様子だった。伸が連呼していた水餃子は「庶民の食べ物」の印象が強い為、町でよく見掛けるラーメン屋兼中華料理店、のような店構えを思い浮かべていたのだ。行ってみて初めて判ったことだが、まずきらびやかな内装の広い店であり、メニューは豊富で全体的に値段が高かった。単純に言って高級店だった。
 それに驚いていたのは伸も同じである。小田原の支店とは格式も規模も違うそうだ。無論客層もかなり違うのだろう、雑誌記事やテレビなどの情報を頼りに、わざわざ食事をしに来る人も多いと言うのだから。故に、日曜の夜は混んでいるという予想は、ほぼ間違いないと思われる。
 ところが、伸はもう必ず行くと決めていた。
「別にいいよ、一時間くらい待っても」
 恐らくそれほど暇なのだ。まあ、小田原周辺から横浜までは距離があり、本店に行く機会はなかなかないことを思えば、行ける時に行こうとするのは解らなくもない。
 そして話に一応の決着を見ると、伸は征士の邪魔にならないようテレビのボリュームを絞り、日曜朝のニュース系ワイドショーを見始めていた。丁度「小田原・千石大学美人博士殺人事件」の話になり、今日博士の葬儀が行われるとレポーターが伝えていた。
「・・・・・・・・」
 祭事場前のしめやかな参列の映像を、伸は黙って見詰めていた。本当ならそこに行かなくてはならない立場だが、彼にそのつもりはなかった。行きたくないのではない、心の内の何かが頑なに行かせまいとしていた。
 死んだ人を弔うことはいつでもできるが、今の生活は今しかできないだろう。要は気持の問題だ。彼はそんなことを考え気を沈めていた。古来から定められている行事を守り続け、それに参加することにも意義はあると思う。特に彼の実家のような旧家では、故人の歴史を崇める行事は重要な事だった。けれど生きている者が、死者に振り回されるのもナンセンスだ。彼は自分にそう言い聞かせて留まっている。そして、
「遼はどうしたかな…」
 自分と同じような立場に居る、友人達の顔を伸は思い出していた。
 ところで、レポートを書き出す準備を整えた征士が、大人しくテレビを眺める伸をふと見ると、相変わらず首にはしっかりと、携帯電話のストラップを二重にして巻き付けていた。だがそうして肌身離さず持ち歩く割に、この二日近くの間、一度もそれが鳴った試しはない。知人が失踪していると気付けば、誰かしら連絡を入れても良さそうなものだ、と、征士は今更ながら疑問に思った。
 こちらから掛けることができないのは解る。何処に居るかを知らせてしまうからだ。しかしそれも、昨日既に刑事に見付かっているのだから、今はあまり意味のない警戒だろう。それからもうひとつ、
「…そう言えば、出ないな」
「何が?」
「その、夢遊病のような現象のことだ」
 電話が鳴らないこと以上に、征士はずっとそれに関心を持っていたのだが。
「そう言えば…そうだね」
 言われて初めて伸も気付いたようだった。彼にも今のところ、記憶にない行動をした痕跡は感じられない。勿論征士も、彼が知らぬ間に外に出たような形跡や、おかしな様子でいるのを見た憶えはなかった。ただ、征士はどのくらいの間隔で起こるのか聞いていない為、まだほんの二日と思い、暫く様子を見る他ないと考えていた。
 が、
「どうしたんだろう、最近頻発してたのに」
 途端に事情が変わってしまった。
「頻発していた?。そんな話は聞いていないぞ」
「え?、聞かなかったから話さなかっただけだけど。そう…、前はそんなに起こらなかったんだ、せいぜい週に一回、いや二週間に一回くらいのことだった。それが二月頃から回数が多くなって、最近は毎日のように妙なことになってて、恐くてしょうがなかったんだよ。…でも確かにこないだから全然起こってない」
 それを先に聞くべきだったのだ。
「こないだとはいつだ」
「事件の前の日、だから、もう四日目かな」
「始まったのはいつ頃だ」
「いつ頃だったんだろう…。半年くらい前かなぁ。多分去年の暮れ頃だったと思うけど…」
 そしてそこまでを聞いてしまうと、征士は思っていたよりずっと重大な事情だと、最早覚らざるを得なかった。これは単なる現象では片付けられない、必ず事件に関わっている事の筈だと。そうでなければ、事件前後を境に止んだ意味が判らないではないか。



「うわっ、何だおまえ、来てたのか?」
 葬儀には多少似合わない言葉遣いだが、秀はかなり驚いていたのだ。
「当たり前でしょう…。私だって学生の頃から会ってて、一緒に出掛けたこともあったのよ」
 来福軒小田原支店の長女は、秀の従兄弟に当たるが、現在三十才で一児の母だった。気が強く勝ち気な女性だが、今は顔をくしゃくしゃにして沈んでいる。こんな姿は見たことがない。だから彼は驚いていた訳だ。
「そうか、そうだよなー。俺も頑張るからよっ、気ィ付けて帰れよな?」
 秀はそう言って、悲しみに暮れている従兄弟の帰りを見送っていた。
 主に学生を担当している秀は、実はあまりする事がない状況だった。何故なら要注意とされる学生が葬儀に来ないからだ。警察にマークされ、マスコミにも疑われていると判るなら、わざわざ注目されに出て来たくはないだろう。
『仕方ねーかぁ』
 溜息をひとつ吐いて、秀は退屈そうに慰問客の列を見渡す。
 と、その時ふと列の中に真田遼が居るのを発見した。
『来たじゃねーかよ、おい』
 真面目で律儀な性格、と伝えられている通りだと思った。彼は一人暮らしの苦学生の筈だが、何処から借りて来たのか、多少窮屈そうな古めかしい喪服を着込み、背筋を伸ばして凛々しい様子で立っていた。状況を考えれば痛々しい態度だと秀は感心する。
 そして十中八九、彼は加害者ではないとも感じられた。元より彼の可能性はあまりないと言われているが、恐らく本当にないだろう、体裁より実を重んじるその様子からは、彼の被害者に対する気持が確と伝わって来る。そして、これまでに一度だけ彼の聴取に当たった秀だが、
「こんにちは、刑事さん」
 向こうから声を掛けて来たのにはまた驚いた。
「ああ、ああ。大変な時に、ちゃんと出て来るんだな」
 事件の際の警察関係者など、疑われる立場の者には煙たがられて当然だ。だから些か狼狽えてしまった秀。すると遼は挨拶に応え、
「いや、来たくても来れない奴もいるし、せめて俺が代表として出なきゃ、博士にも悪いと思って」
 と落ち着いて理由を話してくれた。
「偉いなおまえ…」
 まあ、これが大学に関わらない事件なら、仲良しグループの仲間内の学生は皆、自ら葬儀に出向くところだろう。その「来たくても来られない」らしき、要注意とされている後のふたりの心情は…
「刑事さん、聞いてもいいですか」
 すると遼は秀警部補の、馴染み易い態度や人柄を覚ったのか、そこでひとつ質問をしていた。
「伸が何処に居るか知らないですか?。携帯も繋がらなくなってて。すごく参ってたから心配なんです」
 仲の良い友人なら聞いて当たり前のことだった。彼が金銭面で苦労しているのを知って、毛利伸は何かと食事を奢ったりしていたと聞いている。
「あー…と。いや、もう見付かってるんだ。場所はちょっとまだ言えねんだけどな。でも心配な状況じゃあないみてぇだから。うん」
 心情的には教えてやりたいところだが、と秀は我慢して言葉を呑み込んだ。もし遼から話が広まり、マスコミに嗅ぎ付けられるような事があれば、また更に逃げてしまうかも知れない。だから仕方がない。
「マジですかそれ?。じゃあ、ずっと電源切ってんのかなぁ」
「あ、携帯電話なら小田原署にあるぜ?。クラブハウスに忘れてったらしいんだ」
 それについてはせめて親切に、彼の疑問を解いてあげた秀だった。ところが遼は、
「ええ…?。何か…、信じられないことばっかりだな」
 却って腑に落ちない様子を見せる。
「何が信じられないって?」
「いやその、伸はすごく几帳面な奴だから、大事な物を置き忘れるなんて何か考えられなくて。でもこんな時だからな、普通じゃなかったのかも知れない」
「そうだなぁ、そんなところだろうな」
 秀はそう相槌を打って彼を宥めていた。
 そうしながら、確かに引っ掛かるものを感じていた。至って正常に友人を心配する彼が、日々近くに居た友人の行動を見ていない筈はない。だからこそ『らしくない』行動に疑問を持つのだろう。何が毛利伸らしくないのか、を見定めなければならないと思った。それは忘れ物をしたことか、携帯電話を忘れたことか、大学に置き忘れたことなのか。
「どうもありがとうございました」
「いやいや!、ま、何か困った事があったら言ってくれよ、な?」
 秀はまだ考えながら、しかし、それを尋ねたとしても彼には判らないかも知れないと、ここはすっきり見送ってやることにした。普通の生活を送る者なら、細かな行動の区別など意識しないものだ。
「はい。あ、もし伸に会うことがあったら、こっちは何にもないからって言っといて下さい」
「おっ!、任せてくれ」
 一応これでさよなら、と手を振って見せた秀。だが、この後も遼の行動を一部始終見ていなければならない。静寂の労働はまだ暫く続く。ただ今は、重要な手掛かりを得た気分に沸いていた。
 毛利伸の忘れて行った携帯電話は、彼に繋がる人物を殆ど明らかにしてくれたが、ただそれだけの意味で残された物ではないのかも知れない。と今は思えていた。本来なら彼の身近になければならない物が、今はその手を離れている、その意味とは何だろうか?。

 その頃羽柴警部の方は会場の入口付近、御霊前と署名を集めるテントに陣取っていた。
 今のところ、これと言って妙な行動をする者はなく、祭場内でのトラブルや混乱は全く起こっていない。しめやかに葬儀は進行している様子だった。それで退屈していた訳ではないが、彼は朝から石の様に固まっている。何故なら昨日出た鑑識結果と、事実との不整合の奇妙さを思い、それが今日も引き続き頭を悩ませていたからだ。
 この祭事場に来てからも、新しい情報を幾つか得ることはできた。ただそれらが、思考を進める材料になるどころか、余計に考えを纏まり難くさせていた。

 まず例の、親友だったと言われる千石迦遊羅との関係について、彼女と被害者が善き友人だったのは確かなようだ。柳生家の者は皆それをよく知っていて、彼女への印象は非常に良いものだった。
 しかし最近になって彼女が嫌われていたことは、意外にも誰も知らなかった。つまり被害者は、家族には一切話さなかったという意味だ。千石迦遊羅本人の話はまだ聴取されていないが、婚約者の話からすれば恐らく、本人にも解らない理由だったと想像される。それではやはりノイローゼが原因だろうか。だが何故彼女だけが嫌われなければならない?。
 そして今日、早くから葬儀に来ていた千石迦遊羅の祖父、学長の千石迦雄須は、孫の親友と、大学の優秀な人員を一度に亡くしたことを悲しみの内に、激しい怒りを秘めた様子で話してくれた。
 彼の目から見ても、被害者はこれと言って気になる人付き合いはせず、自ら怪し気な場所に近寄る人物でもなかったそうだ。勿論孫娘からの情報も含まれた見方だろうが、被害者は大学の広告塔に相応しい、聡明で貞淑な女性だったと淀みなく話していた。またその上で彼は言った。善き人物の死を喜ぶような卑しい者は、この世から抹殺して構わないと。それ程に、学長の「正義」に対する意思は、強く激しいようだと感じられた。
 被害者は近隣に建つ附属高校に通う頃から、この辺りの住人とも交流があった為、有名になった今は町の誇りのような存在だと言う。それなら以前に報告された「根も葉も無い噂話」も、被害者の名誉を傷付ける為に流された、と考えることもできる。とすればこの事件は、大学外の人間が企てたと考える方が自然かも知れない。被害者個人か、或いは大学全体への陰謀も感じられる。
 これまで内部の者を重点的に調査したが、外部の誰かと、内部の誰かが繋がっていると考えるのが、最も有力な線のように思えて来た。
 だが、それならあの鑑識結果は何なのだろう?。
 まず検出された毒物について、毒キノコ自体は付近の山でも自生しているが、その成分がきれいに精製してあったことから、毒物の知識と機具を持っている者か、或いは製品を入手した者か、実行者はどちらかに限られてしまう。同大学の動植物研究室にそれは存在したが、無断で持ち出されることはないとされた。無論勝手に機具を使用した形跡もないとのことだった。
 この場合、最も疑いが掛かるのは被害者の叔父、山野弘だ。実験農園ならあらゆる製品が入手できるからだ。但しこの場合知識のある者が、何故それを直接の凶器にしなかったのか疑問が残る。確実な物をわざわざ用意しておきながら、結局は首を絞めたのでは割に合わない。また今のところ、額縁用のワイヤーに関わりのある人物も見付からない。大学内の全ての箇所を点検し切っていない現状だ。
 そして更に消えた私立探偵。予想通り通夜にも、この葬儀にもそれらしき人物は来ていない。これが犯人だったとしたら、指定毒物の知識を得られる筈の探偵が、こんなおかしな証拠を残すだろうか?。
 この繋がらなさは却って妙な気がする。
 これに加え、追及から逃げているあの学生。「記憶が途切れることがある」と話していたが、もしそれが人為的操作を受けた状態ならば、彼の交遊関係から推察して外部の者の可能性は薄い。彼には実家周辺と大学関係者以外、事件に関りそうな知人が極めて少なかった。実家の母親や地元の知人とも、年に一、二度合う程度だったと言う。
 だから初動では、大学のみに捜査を集中させたのだが…。

 羽柴は頭の中で、何が真実なのかを必死に探り続けている。



 そして、博士の葬儀は何事もなく終了した。
 出棺の後、祭事場の片付けが済むと午後四時を過ぎていた。一般人の感覚からすると実に長い葬儀だった。秀はその後の指示を特に受けなかったので、今日の主な仕事は一応これで終了だった。これから一旦小田原署に戻り、報告書を纏めたら横浜の実家に戻るつもりでいた。明日は下街ルナの追跡調査をする為に、鎌倉に出掛ける予定だからだ。彼女も結局葬儀には出て来なかった。
 棺に横たわる、柳生女史の穏やかな様子を思い出しながら、秀は足早に小田原署へと帰って行った。



つづく





コメント)またまた妙な名前がいっぱいですねー。ちなみに純の両親の名前は、昭和五十年代に統計された、「日本で最も多い名前」を取らせていただきました(笑)。今は多少違ってるんじゃないかな?。という訳で、ああ長いっ!。4番へどうぞっ!。



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