警部と警部補
Passenger
#2
パッセンジャー



 間もなく、羽柴警部による調査報告は再開された。

「ここからは被害者に身近に関わる人物の報告と、事情徴収の結果について報告する。
 まず第一発見者の柳生甲之介博士だが、被害者の祖父であり、前途の通り被害者との関係は良好だった。他の家族を差し置いて最も仲が良かったと言われ、孫娘の突然の死に多大なショックを受けている。昨晩から小田原市内の病院に入院中。元々心臓疾患があったようだが、六十八才という年令もあり仕方がない。犯行に及べる条件は揃っているが、極めて動機は薄い人物と思われる。
 同じ史学部のエリア内には、事件当日はこのふたりしか居なかった。犯行時刻に、同校舎の一階の研究室には、資料作成をしていた教授がひとり、学生が四人泊まり込んでいた。
 学生達はその時間帯には誰も部屋を出ていない、と、それぞれがアリバイを主張している。研究発表が近くあり、その資料を纏める作業に忙しかった為、トイレ等に出ても誰もがすぐ戻って来たと言う。犯行に及ぶ時間は取れないと言う意味だろう。彼等が組織で犯行を隠している可能性もあるが、動機の面は弱い。誰もが被害者とはあまり接点のない学生だった。
 彼等を指導する山上教授は古代言語学が専門。彼は柳生博士の友人で、被害者とも交流が深かった。昨年学部で敢行された古代史ツアー、学園祭の催し物など、この教授と被害者が中心に企画したイベントの話が数件あり、行動面で気の合う同僚だったらしい。又、仕事帰りに居酒屋へ行くなどの付き合いもあった。但しあくまで親子のような関係であり、秘密めいた交際はしていなかったと本人は話している。
 山上教授は五十八才。中肉中背で、外見上特に目立った特徴はない。自宅は箱根湯本。妻一人、息子二人娘一人。趣味は登山とハイキング。
 事件当日の彼は、しばしば資料作成の現場を離れる時間があったと言う。時刻は定かでないが、本人は学生食堂に行ったこと、教授個人の部屋に他の資料を取りに行った、或いは休憩しに行ったことを挙げていた。学生食堂は夜間大学の為に、夜十時までの営業をしているが、彼が閉業間際にやって来たことは、従業員の話で確認が取れた。その他の行動については不明である。
 尚、この時学生食堂に居た従業員は三名、皆十一時前後に帰宅している。同じ電車、同じ方向の自宅に共に帰った言う。帰宅後の家族等の証言も一応取っているが、被害者との接点は薄い者達だった。
 さて、教授本人の弁が正しければ、殺人の動機はほぼないと見られる。だが、当日の行動はまだ殆ど証明できていない。今後詳しい調査で明らかになると思う。柳生博士と同様、行動可能な条件は揃っており、又以前に大学内で、セクハラ疑惑を持たれたこともある人物だ。
 次に同校舎の、地下一階の資料室には、資料整理の為に夜間作業を続けていた、地質学が専門の凍流助教授が居た。氏名は凍流鬼丸。年令三十九才。平塚市に在住、独身。教職陣の中ではかなり若く、特に女生徒に人気があり、非常に整った容貌をしている。趣味でボートやヨットを扱い、三級船舶の免許と中古のクルーザーを一台所有している。同大学のマリンスポーツのサークルにも参加している。
 山上教授と同様に学会の発表が近く、地質学教授に資料整理を頼まれていた。彼は事件前日の午前から作業を開始し、片付け終えたのは午前四時頃だったと言う。自家用車を持たない彼は、電車が動き出す午前五時頃に帰路に着いたと言う。その様子は一階に居た学生達と、正門の守衛が確認しているが、作業を終えてから帰るまでの一時間、地質学教授の部屋で休んでいたとの本人談は、現在のところ証明する者が無い。
 又彼は被害者とも交流があり、大学サークルに所属しない被害者を、サークルのイベントに特別に誘うなど、かなり好意的に接していた面がある。但し常に複数人の集団行動で、被害者はあくまでその中の一人だったと本人は話している。
 彼はグループ交際が好きらしく、本人も特定の相手は居ないと言っているが、不特定多数に付き合いがあるらしいことは、学生間でも知られていた。彼と被害者が友人然とした関係であったことは、学内の多くの者が認めている。被害者が悩みを持っていたことも彼は知っていたが、本人からではなく、学生達からその内容を聞いたと話し、そこまで親密ではなかったことが窺える。
 だが、この助教授は疑わしい点が極めて多い。同校舎の一室にずっと詰めていたと言うが、人の行き来が少ない地下に居たことから、その姿を見たと言う情報は少ない。夜間の警備担当者も、部屋の電気が点灯し、書類の掠れる音がしていたとは言ったが、彼本人を見たとは言っていない。又二十時間近い作業の間に、前日の午後二時と、午後十時頃の二度しか外出していない。共に食事や休憩に出たと話しているが、午後十時の外出時は正門の守衛が、一時間後に大学の外から戻ったのを確認している。
 そして彼は被害者の個人室に、しばしば立ち寄ることがあったと言うが、事件の当日に限り、空き時間があったにも関わらず立ち寄らなかった。被害者が執筆で忙しいのを知っていた上、彼本人も疲れていて寄らなかったと話している。史学部個人室の地質学教授の部屋は、被害者の部屋まで三十秒もかからず移動できる。拠って外がかなり明るくなった頃も、部屋に電気が点いていたのは判ったそうだ。
 更に彼の参加している大学サークルには、被害者と非常に親しい学生が数名いる為、被害者に関する情報を得易く、接触し易い環境を持っていたとも言える。但し被害者の婚約者とは、趣味を通じて何らかのトラブルが過去にあり、互いに今も良く思っていないようだ。それが動機に繋がっていることも考えられる。
 当日の行動、本人の環境、婚約者との関係、どれを取っても怪しい点のある人物であり、特によく調査をする必要があると思う。
 さて、もうひとり犯行時刻付近に居た人物、この西校舎を見回っていた警備員だが。警備会社から派遣された社員で、同大学には全部で十四名が警備に当たっている。担当は毎日変わるとのことで、偶然この日西校舎に配置された人物だ。
 氏名は沙乱坊一。年令五十一才。身長体重共にかなり大柄な男で、この警備会社に二十年勤めるベテラン。同大学には四年前から通勤している。過去に交通刑務所に居た経歴があり、それ以前は運送会社に勤務していた。その事故が切っ掛けで離婚、以来独身。子供は無し。湯河原の実家に在住。実家は温泉宿を経営し、日中はその手伝いもしている。
 彼は警備会社で定める、月に一度変更されるルートの通り警備をしていた。南校舎、講堂、西校舎、東校舎の順だった。それらを全て回るのに約二時間半。それを午後十一時から明朝四時まで、その日は二周と、南校舎、講堂は三回見回って終わったと言う。
 つまり当日は午前零時頃と、二時半頃に西校舎を回ったことになるが、彼はその日被害者には会わなかったと話している。四年前から面識がある為、警備途中での立ち話や、時には夜食を御馳走になることもあったようだが、当日は被害者の部屋のドアの前を通った際、キーボードを叩く音が頻りに聞こえたので、邪魔をしないよう通り過ぎたと言う。二度ともそうだったとのことだ。
 彼の話では、各校舎内に不審者、乃至見慣れぬ外来者の姿は無かった。ただ最後に講堂を見回って外に出た時、講堂と西校舎の間の道から繋がる乾門の外に、人が歩いていたのは見たと言う。普通の背広を着た会社員風の男で、午前四時を過ぎたばかりだった為、何となく気になったと言う話だ。まあ、近隣の住人である可能性が高い為、これについてはその後の調査を待ちたい。
 この警備員に関しては多少の疑問が残る。被害者と会っているのが殆ど夜間である為、ふたりの関係がどうだったかを知る者は少ない。ただ教授陣には信用があり、実直な働き振りだったと言われている。又、本人は被害者にかなりの好意を持っており、被害者について様々なことをよく知っていると言う。
 被害者との間に何かがあったか、或いは妄想的な理由で犯行に及ぶ可能性はある。しかし彼の警備事情からすると、犯行時刻には恐らく次の東校舎に移っている。話が嘘でないなら犯行は不可能だ。被害者が何者かに怯えていたと言う話も、この警備員は本人から相談を受けたと話す。
 それから被害者と、祖父の柳生博士はよくよく大学に寝泊まりしていたらしく、警備員全員が被害者と面識を持ち、皆それなりに好意を持って接していた。被害者は分け隔てなく人に接する人物で、「有名な博士とお話できて光栄だ」と誰もが喜んでいたそうだ。その中で詳しい報告を受けているのは沙乱坊一のみ。他の者については報告を待っている。

 で、ここまでは犯行当時に同校舎に居た者だが、この校舎には複数の出入口があり、当日開いていたらしきドアは二ケ所あった。その内のひとつは、一階の学生に気付かれず侵入できる入口であり、つまり誰にでも現場へ行くことは可能だった。当日泊まり込んでいた、他の学部の生徒や教授陣については、まだ調査中で報告が来ていない。拠ってその前に、被害者本人と親しい人物から説明しておく。
 まず被害者の所属する史学部史学科、伝奇学講座内の学生だが、特に仲が良かったとされる人物が現在逃亡中である。これが加害者だと断定はできないが、事情徴収の際もかなり怪しい発言をしており、又他の学生の話からも、疑わしい点が随所に感じられている。
 氏名は毛利伸、三回生で現在二十才、体格的には平均的な学生よりやや痩せ型。顔立ちは童顔で十代に間違われることが多いと言う。大磯のマンションに独り住まい、マリンスポーツなどが趣味。大学まではマンションから電車と徒歩で四十分程。普通運転免許があるが、所有しているのは五十CCの単車のみ。実家は山口県にあり、地元では有名な旧家の長男とのこと。入試の成績も良く、大学にもあまり休むことなく真面目に通っている。騒動を起こしたと言う記録もない。
 実際大学の周辺、住んでいるマンション付近の住人の評判は良い。性格は几帳面で控え目、明朗でお人好しな人物だと評されている。そしてやや意志薄弱な傾向が見られる。女性、子供、老人などには殊に朗らかに接する為、それに属する者の評判が頗る良い。被害者の従兄弟の少年の世話をする姿が、西校舎付近ではよく見られたと言う。友人関係もこれと言った問題を持たず、特に講座内での信頼は厚かった。
 但しこの人物には幾つかの謎がある。ひとつは本人の記憶が非常に曖昧な点。これについては故意に隠しているのか、誰かの脅迫を受けているのか、或いは病的な作用のような印象も受けた。本人は半年程前から記憶に不明があると言っているが、その真偽については、これからの調査で解明して行くしかない。犯行時刻には自宅マンションで寝ていたと話すが、証明する人物もなく、事実かどうかは今のところ判らない。
 もうひとつは被害者との関係が微妙である点。他の学生から一目置かれる程親密だったと言う説と、そう見えただけだとする説があり、実際どうだったのかは本人に追及する必要がある。特に被害者のノイローゼ症状が始まった頃から、ふたりは妙な雰囲気だったと言われている。以前より頻繁にふたりで居る場面が目撃されたが、被害者の婚約者は、気に掛けるものではなかったと話している。
 被害者からは非常に信用されていた様子で、個人的な手伝いを頼まれる、悩みを相談されるなど、部屋にふたりきりで居ることも少なくなかったと言う。拠ってこのふたりの間に何があったとしても、可能性としては様々なことが考えられる。尚、毛利伸には特定の交際相手はいなかった。
 その他、一年程前からこのふたりについて、事実ではない流言が囁かれていたと言う。事実でないと言うのはあくまで報告の上でだが、本人の話、大学の学生の話の他に、祖父の柳生博士が被害者から聞いたと報告を受けている。被害者が学生に対し変質的な行為をしたと言う噂は、現在のところ信憑性が薄いと見ているが、一応この件についても調査が必要に思う。それが毛利伸の実家の家族にまで届き、母親が被害者に面会にやって来たと言うから、当時の噂の広がり方は相当なものだったと推察される。
 何れにせよ、この学生については不明な部分が多くあり、まず本人を探し出さなければならない。発見の際には是非ともその、逃亡の理由も確認してほしい。
 それから他に、毛利伸の友人で真田遼と言う学生がいる。彼等ふたりは被害者と共に行動する時間が長く、他の学生からは、被害者を中心とした仲良しグループに見えたと言う。年令は同じく二十才。平均的な身長、肥満でも痩身でもなく、筋骨が発達した健康的な印象の人物。大学から徒歩七分のアパートに独居するが、夕方から働きに出る勤労学生で、アパートに居る時間はあまり長くない。拠って居残り、泊まり込み等には殆ど参加していない。
 性格的には真面目で責任感が強く、非常に律儀で一本気だと言う。リーダーシップが取れる人物で、多くの学生が講座の纏め役と認めている。反面、失敗にひどく落ち込むなど、入れ込み過ぎる嫌いもあるようだが、それも愛嬌程度に収まっていると言う。
 この真田遼は、聴取時の印象からは、謎めいた事件を起こす人物には思えなかった。非常に素直な人格である分、短絡的な思考をし易い傾向があった。しかしながらこの学生は、良くも悪くも友情に厚く、口の固そうな人物でもある。毛利伸との関係も考慮に入れると、ふたりで協力している可能性は否めない。
 毛利伸が被害者を酷く恨んでいた場合なら、彼が自主的に動くこともあるだろう。しかし殺害を容認するとは思えない。逆に恨んでいたのが真田遼なら、行動したのは毛利伸と言うことで合点が行くが、ただ彼が、友人に殺害意志を持たせる程、人を恨むかどうかは何とも言えない。
 つまり動機の面で弱い人物だ。彼は被害者に対し何らかの思慕を寄せていたらしく、ある意味では毛利伸より親密だったと言う。彼の母親が早くに亡くなっている為、年長の女性に対する付き合い方が、皆そんな風になるようだと講座内では知られていた。因みに彼も前途の流言の対象になっていたが、ほぼ毎日早く下校してしまう為、傍目には怪し気に映らなかったようだ。
 又、時間的には充分犯行に及べる範囲内に住んでいるが、彼は非常に規則的な生活振りで、午前一時頃が起きていられる限界だと言っていた。仕事から帰ると毎日死んだように眠るそうだ。この話が事実とすれば彼は加害者にはなり得ない。
 次に、もうひとりかなり疑わしい学生がいる。同じ講座内の学生で、毛利伸とも友人だが、多くの者には真田遼のガールフレンドだと思われている、下街ルナと言う女性だ。年は同じく二十才。女性の平均から言えば大柄で、顔立ちもなかなか美人だそうだ。積極的で明るい性格、友人知人も多く、行動範囲の広い活発な人物だと言う。但し気が短く喧嘩っ早いところがあり、大学内でのトラブルを幾度か起こしている。彼女を嫌っている学生も多い。
 茅ヶ崎のアパートに独り暮らし。夜は鎌倉のディスコにサクラのアルバイトに通う。マリンスポーツやマリンリゾートが好きで、年中日焼けしているが、実際はそれより更に夜遊び好きで、しばしば明け方に、酔って帰って来る姿を近所の住人が見ている。実家は都内荒川区の公団住宅、父親不在の家庭。現在そこには母親だけが居り、兄は仕事で大阪に住んでいる。幼少期にかなり不自由をして育った為、今は開放的な行動をしたがる傾向があるようだ。
 又境遇が似ている所為か、彼女は真田遼に想いを寄せている。しかし真田遼本人に聞いたところ、仲は良いが特定の彼女ではないと言う。彼の方が遠慮していると言うか、彼はあまり男女交際に関心がないらしい。そして下街ルナの方は、彼が被害者に特別な感情を抱いていたのを知っている。自分の方を向かせようとは常に思っていただろう。
 なので動機はかなりあると見て良い。被害者との間にトラブルがあったと言う話は、現在のところ報告されていないが、ちょっとした口論からカッとなり、犯行に及ぶことは充分に考えられる。ただこの事件は計画的な一面もある為、単純な衝動による殺害の可能性は低い。舞台設定がされていた上で、いつ犯行に及んでも良いという状況なら筋が通るだろう。その場合協力者、又は彼女を実行犯として利用した者が存在する筈だ。
 それから前出の、凍流助教授も参加するマリンスポーツのサークルに、毛利伸と共に所属している。この三人は大学の外で会う機会も多く、学内では知られていない関係を持つ可能性もある。このサークル関係者は要注意として、慎重に調査を進める必要がある。
 尚アパートから大学までは電車、徒歩で一時間弱。スクーターを所有しており、しばしば大学へもそれで通学する。犯行時刻頃の行動ははっきりしていない。アルバイトは深夜一時に終り、その後アルバイト仲間の友人と酒を飲みに行き、明け方アパートに戻ったと話しているが、証明する人物はまだ捕まらない。
 その他、被害者に親しい者としては、同じ学科の中に田裏木ムカラ、ナリアと言う日系人の交換留学生がいる。来日して一年足らず、まだ日本語をきちんと話せていない。事件に関わっている可能性は薄いだろうが、被害者が生活面での指導をしていた関係で、学生寮には度々被害者がやって来たと言う。留学生は共に十九才、幼い頃からの許嫁同士だそうだ。
 彼等については未調査の部分も多いが、ただ前途の三名の学生とも親しい為、何かの形で利用された可能性もある。住居も事件現場から特に近く、男子寮が徒歩四分、女子寮は徒歩五分の距離だ。犯行時刻前後の様子を特によく聞き出す必要がある。

 …という辺りが学生の中では目立った人物である。同講座には他に五名の学生が所属するが、特に挙げた三名ほど被害者との接点、或いは動機が思い当たる者は居なかった。だがまだ捜査は全く初期段階である。講座内、学部内の学生、教職者、研究者達は全てある程度の調査が必要と思える。
 又、同様に付近の住人にも注意が必要だ。事件に直接関わらない者も、知らぬ間に足場を提供している可能性がある。誰でも侵入可能な以上、事件のあった日に泊まりに来た者が居るかどうか、家族の誰かがその時刻に出歩かなかったか、それぞれに聞き込みが必要だ。
 最後に、被害者と最も親しい人物として婚約者の報告も届いている。
 氏名は朱天童子。二十九才。住居は東京都下、府中市のマンションに独り住まい。性格は真面目で覇気のある人物、面倒見が良く行動力のある人物だと言う。国立大学を卒業後、相模原市にある私立の小学校教諭として勤務。現在三年生のクラスを担当。そのクラスに被害者の従兄弟、山野純と言う少年がいる。続柄は被害者の父親の甥に当たる。
 朱天童子は、平均よりひと回り大きな体格、顔立ちがやや鋭い印象の所為か、生徒には非常に恐い先生との評判だ。だが大概の者はむしろ頼もしく感じており、人気も高い。教師側の評価はそれ以上に高いそうだ。単純に教師としての質もあるが、人間的にも、又女性職員等からも好かれている。大学の学生で面識を持つ者も、一概に善き人物と認められており、柳生博士も好感を持って接していた。
 趣味は主にスポーツ。草野球チームと海釣りのクラブに所属する。スキーのインストラクター免許を所有し、一昨年、被害者が博士号を取る直前の冬に、駒ヶ岳のスキー場で出会ったそうだ。以来手紙等の遣り取りから始まり、十ヶ月前の七月にふたりは婚約している。結婚式などの予定は、被害者が忙しく決めていなかったそうだが、来年中にはと考えていた。彼の実家が京都にある為、挨拶に出掛けるのも今は侭ならなかったと言う。
 その忙しさの原因は仕事の詰め込み過ぎであり、被害者は仕事と研究に打ち込むことで、募る恐怖に耐えようとしていたらしい。それが前途のノイローゼらしき状態だ。婚約者の話に拠ると、二ヶ月ほど前から頻りに「恐い」、「狙われている」といった言葉を発するようになり、ひと月前からは不眠を訴えていたと言う。彼は暫く仕事を休むよう勧めていた。
 そしてやはり、婚約者もその追跡者らしきものを見たことがない。彼の考察では休日や、被害者が実家に滞在する間は現れず、大学に居る間か、そこに行き来する間に現れるとのことだった。無論それは考えられなくない。被害者がひとりで居る時を狙ったと推測できる。又、互いに自身の仕事を大切にしていた結果、ふたりが会う時間はかなり限られていたと言う。
 その他、婚約中のふたりの間には、取り沙汰する程の喧嘩やトラブルはなかったと言う。両家の親類にも特に不満は出ておらず、周囲の友人達にも羨まれるばかりの状況だった。それだけに彼の落胆振りは悲痛な様子で、聴取の最中もずっと頭を抱えていた。
 動機の面では、一にも二にも上がる人物だと思われる。話としては出て来ないが、交際中のふたりには他人の知らない秘密があって当然。金銭トラブルや第三者の介入など、とにかく寝掘り葉掘り調べるしかない。又、被害者のノイローゼが妄想的なものなら、それに嫌気が差したことも考えられる。或いは例の流言が事実だとしたら、これも原因になる可能性がある。
 犯行時刻に大学に来ることも充分に可能だ。彼は車を所有している上、勤務する小学校は自宅より更に大学に近い。大学構内にも度々姿を見せており、特に三月頃からは週に一度は顔を見掛けたと、学部内の学生も話している。訪問は被害者を心配してのことだと、目的が明らかな上、行動が目立つ点は加害者らしくないように思う。
 当日は午後七時頃に自宅マンションに戻り、テストの答案の採点などをした後、午後十一時頃に被害者に電話を掛けている。これは事実、被害者の携帯電話に着信記録として残っていた。しかしその後のアリバイは確実とは言えない。後は普段通り眠って起きたと話したが、電話の後犯行に及べる時間は充分にある。まだその辺りの詳しい検証は報告されていない。
 彼については勿論、残る最大の被害者の可能性もある為、調査には充分な配慮をしてもらいたい。その上で、捜査に積極的に協力して貰えるよう促すことが肝要だ。
 そして最後に、論外とも言える不信人物を付け加えておく。
 被害者の親しい人物ではく、被害者が雇っていたと言う私立探偵だ。本来なら受注した仕事に関わる者が、他の事件で死んだとなればすぐに連絡する筈だ。まして依頼者本人が死亡では、仕事に対する報酬の要求先もなくなるが、それらしき連絡は何処にも届いていないと言う。更に被害者の部屋にあったチラシや契約書の住所には、その探偵社は存在しない上、全く連絡も着かない状況だ。必ず事件に関与していると見て間違いないだろう。
 その探偵は先月から、週に一度程度大学に訪れていたと言う。残されていた名刺には「鎧山九十九」と言う名前があったが、本名かどうかも疑わしい。一部の学生らがその人物を見ているが、警備員の話では、如何にもその道のプロという感じの男、目立たない風貌でありながら頭が働きそうな、影のような印象の人物だったと言う。
 大学内部での怪しい動きなどは、現在のところ目撃情報はない。が、そのような人物像を考えれば、隠密行動には慣れていそうだ。目撃されないだけで実際の行動は判らない。体格は平均的身長でかなり痩せ型、年令は三十代から四十代くらいだと言う。大学内部、及び被害者に近しい者以外で、特に調査を必要とする人物だが、今の時点では煙のような存在である。
 又被害者が何故警察でなく、私立探偵に事態解決を頼ったのか、その理由を知っている者も今のところ出て来ない。一刻も早く情報を集めたい。
 …以上、本日はこれで報告は終了とする。尚、本日の午後七時までにチーム毎の担当箇所を決めるので、その配置表を確認してから解散されたし」

 こうして羽柴警部の、重要な最初の仕事が終わった。
 午後三時から始まった報告会は、熱弁の内に午後四時をとうに過ぎていた。しかし彼は休もうとする素振りも見せず、机上の資料を手早く纏めて集会室を後にする。そう、あと二時間と少々の内に、捜査に当たる者のそれぞれの割り振りをしなければならない。事件の解明は普通のデスクワークとは違う。何より素早く、確実に行わなければ意味がない。
 ただ、それで自らの評判を上げて来た彼には、一時的なオーバーワークなど大した苦労ではなかった。やるべき時にこそやる。そんな生活パターンがむしろ彼は気に入っていた。
「おい!、これやるから頑張れよ、もうちょっと」
 捜査主任に与えられた小奇麗な執務室の、革張りの椅子に羽柴警部が着こうとした時、秀警部補がその部屋のドアを小さく開けて、そこから缶のコーヒーを投げ入れてくれた。丁度顔の横に飛んで来たそれを、羽柴は利き手の左手で難無く掴むと、買って来たばかりのような缶の冷たさが、手に心地良く感じられた。
 本来は上下の関係が厳しい職場だが、彼等は年も近く、出会った時から仕事以外の友人として付き合っていたので、こんな事もまあ許されるのだろう。羽柴に取っては有り難い息抜きだった。
「あ、待て、秀」
 彼が缶コーヒーを受け取ったのを見届け、ドアを閉めようとした秀に、羽柴は思い立って声を掛けた。
「明日喪服を忘れんなよ」
「…あー、っと、そうだった」
 秀は陽気で男気がありとても良い奴だ。但し少し抜けたところがある。本来は警察官、刑事等は葬儀に喪服着用の義務はないが、秀には喪服で参加させ、一般人に紛れてもらうことにしていた。そして、
「鑑識から遺体が返されたら、すぐに通夜だと言っていただろう。続けて明後日は葬儀だ。大学以外の人間に一挙に接触できる場だからな、気を抜くんじゃない」
「わっかりました」
 多少の嫌味を言われても、嫌味とも気付かないから大した奴だと思う。



 翌朝のことだった。
「触んなよっ!」
 征士は突然怒られていた。怒られる程の事をしたとは思えなかった。
 彼の住むマンションは、最近建てられたばかりでまだとても綺麗だ。そして彼本人が清潔好きの為、部屋は殺風景と思える程片付けられている。但し部屋自体は少々狭い。否、ひとりで住む分には普通のワンルームだが、昨日からもうひとりの住人がここには居る。
 比較的小柄な女性なら、ふたりが寝泊まりするのはそう辛くないスペースも、成人男子二名、充分に手足を伸ばせない状態で眠るとしたら、何かしら不都合も出るだろう。ただこの場合、泊めさせてもらう側が怒ることではない。
「いや、そうではなくて、壊れると思ったのだ」
 目覚めた征士が布団から起き出すと、横で小さく丸まって眠る伸の肩の下に、携帯電話が敷かれているのに気付いた。それを取り出そうとしただけなのだが、その際に彼の肩に触れた途端、急に跳ね起きて怒鳴られたという訳だ。
「あ?…ああ、これか」
 伸は自身の首に絡まっているストラップの先の、電話の重量を背中の方から手繰り寄せている。
「寝る時は外せば良いだろう」
「う、うーん…」
 当たり前のことを言ったつもりが、何故か伸は返事を迷っていた。
「何か心配なんだ、いつ誰から連絡があるかわかんないし」
 だがそれでは本末転倒ではないか?、と征士は思う。二十四時間連絡が着くことを条件に持つ、特殊な職業も存在するが至って稀なケースだ。普通に暮らす人間なら、眠りを妨げる電話は迷惑と考えるから、スイッチを切っておくのが常識だろう。なのに伸はわざわざ四六時中電話を待つ方に、自身の生活を合わせようとしている。
 何故だろうか?。
「誰かの連絡を待っているのか?」
「…さあ、誰かってこともないけど」
 自身の記憶が定かでない為に、不安がそんな行為を招くのだろうか?。しかし、あまり重要でないひとつの行動に、頼り切っているような様子は戴けなかった。それが本来の精神活動に悪い影響をしそうだと、見ている征士をも不安にさせていた。なので、
「まあ、それで良いならいいが、普通なら深夜に電話をするのは非常識だ。起きている時に連絡を待つ方が良いと思う」
 やはり征士は正論を並べてしまうのだが、
「うるさいな!、そんなことわかってるよ!、ほっといてくれない」
 再び伸に怒られてしまった。それだけではない。つい先刻の様子を彼は思い出し、
「ああそうだ、言っとくけど、僕はただ泊まらせてもらってるだけだからな。おかしな真似をしたらホントにコロス」
 と言った。そこまで念を押して警戒しなくても、と思う。
「あー、そんなつもりはない…」
「今度裏切ったら承知しないからなっ!」
 それに何だか偉そうだ。何故こんな態度を取るのだろう。それとも元々こういう性格なのだろうか…。
 征士は己の直感をあくまで信じている。だから黙って考えていた、最初に彼から受けた印象とこの現実が、酷く掛け離れているのは何故なのかと。
 櫂を無くした小舟の様に、虚ろに縋れるものを探して彷徨っていた君は。

 土曜日である今日は、大学で征士の選択している講議は入っていなかった。それなら今日は休んでも、二年次までに取りこぼした単位を更に落とすことはない。彼はそう考え提案した。
「何処か、出掛けたい所は?」
 伸は洗面所で歯磨きをしていた。その音が聞こえている間は、まず返事をしないだろう。
 それにしても。慌てて逃げて来たのかと思えば、実はそうでもないらしいのだ。彼が大事そうに持っていた鞄の中には、財布、鍵、手帳、通帳と印鑑、着替え、寝巻き、タオル、洗面用具、鏡、ブラシ、整髪剤、ドライヤー、携帯傘、帽子、サングラス、目覚まし時計、携帯電話の充電器、そしてレインコートとレジャーシートが入っていた。
 その最後のふたつは何なのかと聞けば、野宿することになった時の為だと答えた。如何にも用意周到ではないか。無論彼が今使っている歯ブラシと歯磨き粉、更にコップまで持参したものだった。そんな日用品は今日日、何処のビジネスホテルにも置いてあるだろうに。
 思うに、彼はかなり神経質なようだ。なるべく普段使っている物を使おうとする、生活に対する小さなこだわりが感じられる。恐らく全てがそんな調子で、小さな世界の中の平穏が守られていれば、特に不満を感じない人間性なのではないか、と征士は観察していた。逆に突然世界の真ん中に投じられても、ひとりでは翻弄されてしまうタイプだと。
 それが悪いと言う訳ではない。人はそれぞれに違うものだ。そして違った人間がいるからこの世は成り立っていると、征士は普通に理解している。悪いのではない、この状況に置かれた彼は可哀相なのだと思う。殺人事件などと言う、凡そ普通の環境にはない事が突然降り掛かって来たのだ。
 だからまあ、ある程度の癇癪くらいは我慢してやろう、と征士は考えている。
「ああ…、来福軒の水餃子が食べたい…」
 タオルで顔を拭きながら戻ると、伸は恨めしそうにそう呟いていた。
「何処だって?」
「中華料理店だよ。大学のそばにあるんだ」
 成程そこには行きたくても、今は行けないだろうと察しが付く。
「あーっ、食べられないと思うと無性に食べたくなる!。ああもうっ!、何でこんなことになっちゃったんだよ!、誰のせいだ!?」
「そうだな」
 話の内容が荒れて来たのを思い、征士は余計なことを喋らずにおいた。すると、
「あっ、そう言えばあの店、横浜に本店があるんだった。横浜だったら…大丈夫だと思わない?、君」
 そう問われ、横浜に詳しい訳ではなかったが、東京の町とさほど変わらない印象を征士は思った。もしその店が横浜の中心的な市街地、又は中華街の中にあるとすれば、確かに土曜の人集りで目立つことはないだろう。それに小田原からはかなり距離があることも知っている。
「…恐らく」
「うんうん!、大丈夫、見付かんないよ。何かあったら君に任した」
 そして、突然だが伸は明るく笑い出していた。
「じゃあ行こう!、さあさあ」
 因みに今は午前七時四十分である。今からここを出て、アパートの最寄駅から京浜急行に乗れば、八時半前後には横浜に着いてしまう。幾ら何でも早過ぎる。そんな事情を伸は全く御存知でなかった。
 けれど、例の事件を一時的にでも忘れることは可能らしい、と征士は少しばかり安心できていた。常に不安気な様子で閉じ篭って居られるよりは、訳の判らない躁状態に付き合う方が気楽だった。折角外は五月晴れの良い天気なのだから。



 昨晩は、小田原警察署で一夜を過ごした羽柴警部だが、この日は用があると言って、珍しく早朝の内に身支度を整えていた。彼はとにかく朝に弱いと有名だった。しかし徹夜には強いので、ずっと起きていれば何の問題もないようだ。
「おはようございまーすっ」
 それとは対照的に、朝から頗る元気な秀が出勤して来た。彼は一昨日から、前出の中華料理店の支店に寝泊まりしている。
「あれっ!、もう出掛けんの?」
「ああ、捜査とは関係ないんだが、免許の更新日が今日までなんだ」
 そういう事は早くやっておけ、と言いたいところだったが、まあ、彼がそれで仕事に支障を来すことはないのだろう。秀もそんな状況は最早気にしていない。
「あっそ。じゃ俺は昨日の割り当て通り、学生の調査に出て来るからな。それで、通夜の時間は六時からだったよな?」
「そうだ、遅くとも五時には来てくれ」
 羽柴は簡潔にそう指示をして、のろのろと捜査本部室を出て行った。
「いってらっさ?い」
 そして、羽柴の後ろ姿を追い掛けるように、秀も早々に仕事に出ようと部屋を後にした。何しろやらなければならない事は山積みだった。しっかり気合を入れて取り掛からねば、と彼は意気込みながらロビーへ歩き出していた。と、廊下の正面にある玄関口の外に、何処かで見たような人間がひとり立っている。普通の背広を着た背の高い男。束ねた長い髪、黒い眼帯…
「ギャーーーーー!!」
 思わず奇声を発して秀は完全に止まってしまった。
「!?、何だ?」
 羽柴が思わず振り返ると、今度は玄関の外から声がした。
「やあぁぁ!、久し振りだなこんごー!!」
 因みに『金剛』と言うのは、秀が高校生の頃の徒名である。
「久し振り!?、テメェ、先週も店に来たばっかりじゃんかよ!!」
「一週間もおまえに会えないなんて、本当に地獄の日々だった…」
 そしてこの、妙なことを口走る男は高校時代の先輩だった。
「誰なんだ?」
 不審気な顔を向けている羽柴に、しかし秀はまともな説明などしたくもなかった。男は学生時代の昔から、今も変わらず熱狂的な秀のファンなのだ。だが秀本人に取ってはただの「迷惑男」でしかない。特別悪い事をされた訳でもない為、蔑ろに扱うこともできないと言う、とにかく困った先輩なのである。
「きっ、聞かないでくれーーー!」
 秀はそう叫びながら、逃げるように廊下の奥へと消えてしまった。この様子は只事ではない、と羽柴には思えてならなかった。
「…おたくこちらに何用で?」
 警察署の玄関口を出る途中、羽柴はさり気なく男にそう尋ねてみた。
「ああ、お騒がせして申し訳ない。私は学習教材のセールスマンをしておりますが、今日はここに出張に来たんです。彼が今小田原の事件を捜査していると聞いて、ちょっと立ち寄ってみただけで…」
 そんな事情を説明しながら、彼は鞄から取り出した名刺を羽柴に差し出していた。
「御縁がありましたらどうぞ宜しく」
 そして割に礼儀正しく頭を下げると、何処か楽しそうな足取りでその場を退散して行った。渡された名刺には確かに、年間契約のワークブックなどを販売している、知る人ぞ知る学術出版社の名前があった。本人の名前は蜘蛛谷 忍、特に聞き覚えのない名だ。秀があんな態度を示さなければ、疑いを持つ対象ではないのかも知れない、と羽柴は思った。

 ところで羽柴警部は普段、都内蒲田のマンションに暮らしている。賃貸で月二十二万の物件だそうだ。町で見掛ける普通の警察官の場合は、サラリーマンに毛が生えた程度の安月給だったりするが、流石にエリート警部はそれとは待遇が違う。ひとりで住むには贅沢なくらいの、広々とした2LDKの部屋を所謂社宅として、格安で提供してもらっているのだ。何とも羨ましい話だ。
 尚、蒲田と言う土地柄は全くお洒落でも何でもない。しかしながら新しい都心の建物は皆、頼みもしないのに洒落た造りになっている。彼の好みとは関係なしに、「良い所にお住まいですね」などと言われると笑ってしまう感じだ。何しろ彼の部屋の中はジャングルだった。本と紙と電子機器が雑然と積み上がる、まるで忘れられた物置きのような部屋に、ベッドの周辺だけは何とか落ち着けるスペースを確保している状態だった。本人はそれで不快や不便を感じていないようだが。
 さて、何故こんな説明をしたかと言えば、実は免許の更新場所はマンションからは近かった。だからこんな時に小田原に派遣されてしまい、些か運が悪かったようだ。自家用車を持たない彼は、電車に乗って二時間近い旅に出掛ける。まあ、その間眠っていられそうなものだから、強ち時間の無駄とは言わないかも知れない。生活に対してはとことん無神経で居られる彼は、吊り革に掴まった状態でも熟睡できるそうなので。



つづく





コメント)面白い人名がいっぱい出て来ましたねー(笑)。こんなの考えるのも結構悩むんですよ!。ああそれにしてもちっとも終わらない。この分だとまだまだ伸びそうだけど、推理小説って、こと細かに書いた方が面白いからしょうがない。ささ、お次へ!。




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