疑うか疑わないか
Passenger
#1
パッセンジャー



 彼は走っていた。昼間の町中を、行き交う人々の間を縫うように走り続けていた。
『もう、このくらいでいいだろうか、いやまだ…』
 彼は追われている。何をした訳でもないが逃げているのだ。彼をマークする刑事達と、マスコミ関係の記者達、そして諸々の野次馬達の目から。
『もういい筈だ、ここまで来たら…、…でもまだ不安だ、足を止めるのは不安だ』

 彼が自宅マンションを脱出してから、かれこれ五時間が経過しようとしている。都心から程近い景勝地の住宅街を抜け、今彼は都内のある町へ逃げ込んでいた。その逃亡中と言えば、只管騒ぎの中心から離れることだけに集中し、ろくに休む間もなく彼は移動し続けていた。だから勿論食事など、水分を補給することすら忘れていた。
 銀行にも行けず、友人・知人にもおいそれと連絡を取れず、財布に残っていた数万円の現金だけでは、そう長い間の潜伏は難しいだろう。けれど、彼はでき得る限り周囲の者に、自分と同じような思いをさせたくなかったのだ。
 同じ大学に通う者は、同様の疑いを掛けられ、好奇の目で見られても最早仕方がない。が、特に関係のない知人や家族にまで、普通の生活を壊されるような事が起こっては、己が犯人と疑われるより気分が悪い。そう考え彼は誰の手も借りず、ひとりだけの逃亡劇を企てたのだった。
 とにかく今はこの、常に監視されているような嫌な場所から離れたい。ほとぼりが冷める頃になれば、自分だって冷静に話ができるかも知れない。
 そう、彼にしても、毎日顔を会わせていた人が殺されたのだから、落ち着いて居られる筈もなかった。元より彼は気の優しい青年であり、こんな事件の渦中に在って、平然と生活できるタフさは持ち合わせていない。しかしそれ以外にもうひとつ、彼を不利に追い込んでいる事柄があった。それは関係者として事情徴収を受けた際に、彼の記憶には時間的欠落があると判ったことだ。
 当然警察は何かしら疑って来るだろう。所謂アリバイを証明できないと言う意味なのだ。そしてそれは彼自身にも不安を齎していた。酒に酔って記憶が途切れることがあるが、その間どうしていたかを、誰でも普通は不安に感じるものだろう。つまり彼には自信がなかった。心情的には決して人に手に掛けたりはしないと思うが、もしかしたら自分がやったのかも知れない。記憶に無くともその可能性はなくはない、と自ら考えられたからだ。
 そして名前や写真は公開されないものの、警察の発表では大学内部の事情に詳しく、被害者と親しい者の犯行とされた為に、特に親しかったと知られている彼が、あらゆる方面から注目を集めてしまっていた。外部の者の反応は仕方がないにしても、同じ大学の学生すら興味本位の態度を露にして彼を見た。
 だから彼は逃げるしかなかった。このままでは犯人にさせられてしまい兼ねないと。

『ここはどの辺だろうか…、前に一度来たことが、あったけど…』
 とある駅を降り、駅前に集まるビル群と人混みを抜けると、暫くして急に視界が開けた。
 そこは妙に閑散としてだだっ広い印象の土地だが、新しくできた町なのか、又はそれらしい一帯に差し掛かったようだ。この周辺の事情を彼はあまり良く知らない。降りた駅から十分程走った程度だが、もしかしたらもう隣の駅周辺に出ているのかも知れない。都心の町ではよくあることだ。とすると、あまり闇雲に移動しても、迷子になるばかりで目的から外れてしまい兼ねない。
 彼はそこでやっと立ち止まって、その周囲の様子を具に眺め始めた。
 まだ若い街路樹に差す穏やかな日射し。通り過ぎる人々は疎らで、何故だか皆物静かな気さえした。道沿いに並ぶ店鋪は多くがモダンな建築で、一般的な家財道具や食料品を売る店ではないらしい。雑貨店、衣料品店、飲食店の他に、書店の姿がやや目立っている気がする。さて、こんな風景は何となく見慣れているような…。
 そしてそろそろと振り返った時、彼はギョっとする景色を見付けてしまった。
 手前に並ぶマンション群の向こうに、時計塔を持つ大きな建物が見える。恐らくそれは大学の校舎だ。故にこの町は学生街なのだろうと想像がつく。見慣れた雰囲気な訳だ。
 無論そこは彼の通う大学ではないが、今「大学」などと言うものには極力関わりたくないところだった。彼は怯えるようにその場を走り出した。こんな場所にはもう一秒も居られない。己を追い詰める要素が何もない所へ行ければ、それだけで良いと願いを新たにしていた。
『どこでもいい、どこか、安心して居られる所…』

 バサバサッ

「あー…」
「…!」
 走る彼の腕に何かが触れた。続いて紙の束の様な物が路面に落ちる音が聞こえた。何歩か通り過ぎてしまったが、彼は恐る恐るその方を振り返る。すると、プラスチックファイルの中から撒き散らされた、書類を集め歩くひとりの学生、らしき者の姿がそこには在った。
 もしこれが複数人の集団なら、「すみません」と一言言って逃げたいところだった。学生間での話は意外に早く流れるもの、己の事情を知っている人間が、この土地に居ないとも限らないので躊躇っていた。けれど彼は黙って逃げはしなかった。風がないだけましだったが、書類は方々へと散らばっていて、拾う者には申し訳なく感じられたからだ。幸い近くに他の人の姿も無い。
「すいません、不注意で…」
 彼はそれらの、書籍のコピーらしき紙を幾らか拾いながら、しゃがみ込んだまま紙束を整えていた学生の、前に立ってしおらしく頭を下げる。
「ああ…」
 しかしそれきり返事がない。愛想の良い人間なら「平気ですよ」とか、短気な人間なら「ちゃんと前見て歩け!」とか、何かしら言葉を発して然りの場面だが、何も言われないのは少々気味が悪かった。彼がお辞儀の姿勢からゆっくり頭を上げると、そこには、自分を凝視している恐ろしい顔が在った。
『怒ってる…かな、やっぱり』
 何しろ目や眉が吊り上がっている。そして酷く威圧的な印象を受ける顔立ちが、色白の皮膚に相まって人間的でない冷たさを感じさせる。初見で表情が読める程世慣れていない彼には、これがその人の普通の顔とは、まあ判らなかっただろう。否、普通と言っては些か語弊があるかも知れない、走って来た人物に関心を持っていたのは確かだった。
 するとその学生が口を開いた。
「私は何でもないが、そっちは何でもなくはなさそうだ」
 正面から必死の様子でやって来た、彼を眺めながら歩いていたのだからそうなる。
「あ…、いや…、えーと…」
 既に疲れ果てていた頭の中で、彼は何と答えて良いか迷っていた。



 事件が発覚したのは一昨日の朝のことだ。
 まだ講議が始まる時間の前に、大学にほぼ住み込んでいるような研究熱心な博士が、彼の孫であり、同様に博士である女性に朝の挨拶をしようと、彼女の研究室を訪ねた時に発見された。
 被害者である、彼女の名前は柳生ナスティと言う。フランス人と日本人のハーフであり、幼い頃から覚え目出たき優等生と囃された才女だ。一昨年、若干二十三才で博士号を収得すると、そのプロフィールから彼女の執筆した書籍はたちまち人気が上がり、今では世間的にもちょっとした有名人だった。
 性格は真面目で前向きなタイプだったと言う。何事にも熱心、他人の世話を買って出るなど面倒見も良く、接し易い人物だったと学生の評判も良かった。実家が名のある血筋の所為か、服装等は常にきちんとしており、休日はスポーツやレジャーに忙しく出歩くと言う、活動的な面もあるお嬢様だったそうだ。
 そして二年程前にスキー場で知り合った、五才年上の男性と婚約したのが十ヶ月前。相手は朱天童子と言う小学校教諭で、今は彼女の従兄弟に当たる少年の担任だと言う。彼女も、その従兄弟の少年も、それぞれとても親しく付き合っていたそうだ。それらの面から見ても、彼女は良家の上品な娘であり、尚且つ優秀な研究者であり、極良識的な人間関係を築ける人物だったと判る。
 ただひとつだけ難を挙げるとすれば、あくまで噂に過ぎないが、彼女自身が所属する学部の学生に手を出している、と言う話が過去に囁かれていたそうだ。一年程前には頻りに噂されていたようだが、本人の婚約を境に、近頃は殆ど語られなくなったと言う。事実だったかどうかは、当時噂されていた学生から聞くより他にない。しかしその当事者らしき学生が…。
「逃げたらしい」
 小奇麗なマンションの玄関ドアの前で、暫く中の様子を窺っていた長身の刑事。彼の名前は羽柴当麻。まだ警察学校を出て三年という若造だが、既に難事件を幾つか解決している切れ者だった。今回この事件の為に派遣された捜査主任だ。
「逃げたぁ?。あんのヤロー、警察をナメるとはいい度胸だ」
 そしてもうひとり、羽柴警部と共に行動しているのは、今年警察学校を卒業して警部補になった、秀麗黄と言う小柄な青年だ。傍目から見ると、漫才コンビのようなデコボコ振りのふたりだが、なかなか息の合った連携をすると言う。
「逃げりゃあ余計不利になるってこと、わかってんのかねぇ」
「判らない年とは思えないが…」
 ところで、この事件は彼等にも多少関係のある事件だった。秀警部補は被害者の女性と面識があったのだ。彼の実家は横浜に店を構える飲食店だが、この大学の程近くに支店を構えている。そこにはしばしば大学からの出前注文があり、被害者である女博士も、学生時代からその店には馴染みがあった。当時店の手伝いをしていた秀警部補は、幾度か彼女に会って話したこともある。
 否そればかりか、彼が置き忘れた集金袋を走って追い掛け、わざわざ渡してくれたことがあったそうだ。後で電話でもしてくれれば良いものを、その時彼女は、
『忘れて帰ったらきっと大目玉でしょう』
 と、息を弾ませながら言ったそうだ。何と親切な人だと、彼には痛く感動した思い出だった。
「いい人だったのに…、俺は絶対にこの手でホシを上げてみせるからな!」
 拠って、秀警部補は特別な思いで捜査に当たっている。一方羽柴警部にしても、部下の真直ぐな意志を尊重したい気持はある。捜査に私情を持ち込むことは厳禁だが、その意志が良い方に働くのを願いつつ、と言うところだった。捜査はまだ始まったばかりで、目星を付けた数人の人物もまだ、誰もが決定的な容疑者とは言い難い今の状況だった。
 そしてその内のひとりは、彼等の前から姿を消してしまったという訳だ。



 そこはとても雰囲気の良い喫茶店だった。
 渋いオーク色で統一されたテーブルや椅子、カウンターの天板等が、店内のあちらこちらに配された、コーヒーシュガーを思わせる茶系のステンドと良く似合っている。サイフォンから漂うコーヒーの薫りが、一層引き立つような内装の店だった。又そこに流れている音楽も、ヒットチャートの有線放送などではなく、二十年代のスタンダードジャズが中心だった。それがまたこの店のカラーに、黄金と黄昏の時代の懐かしさを与えていた。その時代のアメリカに生きていない者にまでも。
 ところで注目すべきは店ではない。
「それで?、どんな事情だと」
 今、この店の最も奥まった席に、近所の大学に通う学生と、偶然そこにやって来た他校の学生が座っているが、ふたりは対照的な様子で何かを話し出そうとしていた。
「…いやその前に、名前も聞いていなかったな」
 この店を案内した青年は、話すことにとても積極的な姿勢を見せている。そもそもこの喫茶店に、相手を無理矢理引っ張って来たのは土地勘のある彼だ。もうひとりはと言えば、唐突に『話を聞こう』と宣言され、何となく連れて来られただけだった。なので相手の意図を探るも何も、まだこの状況が殆ど把握できていない。
 しかし、まあ名前くらいは教えても良いと思った。相手から感じられる印象は、自分を悪い方へ陥れようとする感じではない。寧ろ普通以上の清潔感が漂っていたので。
「…毛利伸です。今三回生で、一応大磯の方に住んでます」
「ほう、私も三回生だ。この近所に住んでいるが、…『一応』とはどう言う意味だ?」
「いや実家は別の所にあって…」
 毛利伸と名乗った彼は、「一応」の理由にそんな説明をしたが、大学生の身分で、住所が実家でないことにこだわるものだろうか?。と、聞き手側は少々引っ掛かりを覚える。
「それを言うなら私も実家ではないが、そんなことは別にいい。私は伊達征士と言うが、そこの大学に在籍している者だ。…で、神奈川方面の大学に通っているのか?。もし差し支えなければ、何処の大学だか教えてほしいな」
 伊達征士と名乗った彼は、差し支えなければ、とは言ったが是非その辺りを聞き出したかったようだ。何故なら神奈川の大学生が、本人の見知らぬ土地で平日の昼間に、心細そうな顔をしてうろついていたのだ。どう考えても何らかの事情があるに違いないと。
 けれど、伸は次の言葉を躊躇っている。大学の名を出したところで、いきなり自分への見方が変わるとは思えないが、その話をしなければならないのは苦痛だった。『何故だか誰もかもが自分を放っておいてくれない』、そんな被害妄想さえ生まれかけていた。
 今目の前に座る、強引にここへと連れて来た学生にしても、事件から逃げることを決して許さないと、暗に縛り付けているようなものだと思えた。だから伸は、本当に仕方なく話し出したのだが、
「…千石大学って、小田原にあるんだけど…」
 案の定だった。征士はその名称にすぐに反応して来た。
「殺人事件のあった所か?」
『殺人事件』。その単語を口にした瞬間、伸の表情が俄に強張って行くのを征士は見ていた。そして気付く、彼は例の事件に何かしら関わっているのだと。確か昨日の朝刊の見出しだった…と、征士は新聞記事の記憶を思い返している。
 第一報から大した時間は経過していなかった。だから関わる者はまだ動揺の最中に在って当然だった。又、被害者、加害者、どちらの立場に近いかで心理状態も違うだろう。今目の前で、真剣に何かを恐れている様子の者に対し、無神経な冗談を言うのは気が引けたが、貝のように塞がれたままでは何も判断できない。征士は敢えて鎌を掛けるように言った。
「クックッ…、では犯人はおまえだな。だから逃げて来たのだ」
 途端、それまで極めて大人しい態度を見せていた伸が、声高になって猛然と反発していた。
「冗談じゃない!!、あんた何にも知らないくせに…!!」
「まぁ、待て待て」
 その態度の急変振りを見て、征士はすぐさま訂正を入れる。
「その通り、ただの冗談だ」
 伸はそれで、勢い任せに乗り出した姿勢のまま、引っ込みがつかない様子で止まっていた。無論征士の方は、無闇に相手を怒らせるつもりもない為、急変した事態の停止にホッと溜息を吐く。けれど正に、収穫と捉えられるリアクションだった。事件を探ろうとする横槍に相当敏感になっているのが判る。
「しかし驚いたぞ、突然。…思うに、何か声を大にして訴えたいことがあるようだが」
 征士が冷静にそう繰り出すと、伸の様子はまた違うものに変わって行った。そう、言われるまでもなく、彼には大いに訴えたいことがあった。
「困難な時に己を押し殺すのは良くない。訓練された兵隊でも、帰還兵の何割かは神経症を患っていると言う。だからな、話せる時には話した方がいい。幸い私は何の関わりもない部外者だ、何を聞いても公平に考えることができると思う」
 征士はそのように諭す言葉を続けた。
 同時に伸は己の感情に問い掛けていた。今、己の中には様々な意志と要求、某かの答らしきものが存在するが、それ自体は己を苦しめていない。だがそれを発しても、信用して貰えないことが問題なのだ。取り巻く誰もが自分に疑惑の目を向けている。
 だから、信じてくれると言うなら幾らだって話したいのだ、本当は。
「…僕の言うことを、疑わないと約束するなら」
 伸が漸くそう返事すると、当然とでも言うように征士は言い切った。
「約束するとも」

 伸はまず、殺人事件の前の様子から話すことにした。
「知ってるかも知れないけど、その殺された博士はね、少し前からノイローゼ気味だったんだ。一年くらい前だったと思うけど、誰かに後をつけられてるみたいだって、相談されたことがあって…」
 すると征士は、
「名前は知っている。有名人だからな、そういう輩が現れたとしてもおかしくはない」
 と、穏やかに一般的な見解を付け加えた。
「うん…、ストーカーかなって、僕や学部の仲間は話してたんだ。だから気を付けてはいたけど、僕らがいるような時間帯にはあんまり縁がなくて。最近になって博士の様子が、かなりヤバいなって感じてはいたんだけど、結局何もできなかったのは悔しい…。最初からもっと、真剣に対策を考えれば良かったのか、こんな事にはならなかったかも知れない、とか…」
 言葉が詰まり気味になると、征士はもう一言口を挟んだ。
「それは何とも言えない。ストーカーから、殺人という結果は必ず予見できるものではない。それまでに何か実害があったならともかく、」
 彼は不安定な伸の話し振りを、外からコントロールしようとしていた。
「事件が起きてしまった以上、その可能性を論じる意味はないと思う」
「あ、ああ…、そうだね」
 その度伸は思い出したように我に返った。
「それで?、犯人はそのストーカーだと思っているのか?」
「多分…。僕は入学した時から、博士とは縁があってよく顔を会わせてたけど、それくらいしか思い付かないんだ。人に恨まれるような事件は何もなかったし、誰かと対立してるって話もなかった」
「なら何故だ?」
 すると、征士はそこで話を区切るように語調を強める。今最も知りたいのがそこだったからだ。
「それらの話は警察だって聞いている筈だ。なのに何故おまえが疑われるんだ」
「!」
 伸は驚いているが、征士にしてみれば、彼が当て所なく遁走していた理由は、理論的に考えて想像がつくものだった。でなければ、彼が「信用しろ」と訴える意味も解らない。
「疑われると言うことは、何か疑わしく思わせる点があるからだ。違うか?」
「疑わないって言っただろう!?」
「私は疑っていない」
 伸がまたいきり立っているので、再び宥め賺しながら征士は返した。
「疑うも何も、まだ話の全体を聞いていないのだ。落ち着いて話してくれ」
「ああ…そう…だね」
 征士がいちいち正論を唱えるので、楯突くこともできずに伸は続けることになる。
「…みんなが…、僕が一番仲が良かったことを知ってるから…」
 無論それだけでは征士には解らないだろう。
「それが何なのだ?」
 話し難そうにしている内容を追及すれば、ひとつ奇妙な出来事を聞き出すことができた。
「うーん…、前に、変な噂が立ったことがあって。博士が、僕ら学生に何か悪戯してるんじゃないかって、かなり色んな所に吹聴されてたんだ」
 面白い。
 と思ってはいけなかったが、征士には必死に笑いを堪える内容だったらしい。
「その矢面にされていた…?。そんな、小中学生じゃあるまいし…」
「だから噂だって言ってんだろ!、実際あった事じゃないんだっ!」
 まあ話し方の問題かも知れない。人物データを持たない征士には、場合に拠ってはその博士より年上の、おっさんじみた学生まで想像されていた訳で。そんな誤解は亡くなった博士にしても迷惑だった。
「それはそうだろう…、子供相手ならまだ信憑性があると言う意味だ。…しかし…」
 しかしと言って征士は伸の方に向き直る。
『疑われるのもわからなくはないか』
 それは言わずに黙っておいた。三回生だと言ったので、最低でも二十才は越えている筈だが、正直なところ高校生で通るような人物だった。
「しかしそんなことぐらいで…。警察も暇だな」
「それだけじゃないんだ」
 まだ、伸に取っては最も厄介な、或いは最も己の立場を悪くする問題が残っていた。
「他に何が?」
「…僕は最近、時々記憶が途切れることがあるんだ」
 途端にその場は静かになっていた。それまでの、冗談半分のような遣り取りで続けられる雰囲気ではない。それは確かに非常に困った事情だと、征士にも受け取られていた。
「どう言うことだ?」
「どうゆう?。さあ…、僕にもわからない、何しろ記憶がないんだから。ただ時々、ふっと気が付くと裸足で街中に立ってたり、部屋の中に居たのに雨に濡れた跡があったりするんだ。…僕に記憶の欠陥があるとわかると、刑事達は明ら様に嫌な顔をしたよ」
 警察のそんな態度は何となく想像できる。そして、敢えて言葉にはしないが、贔屓なく耳を傾けている征士にすら、疑いの余地があると判断されていた。
 否、本人に殺意があったかどうかは判らない。彼の話は夢遊病の症例によく似ているようだ。何らかのストレスが原因で無意識に行動したなら、結果が殺人でも実刑に問われるかどうかは疑問だ。又、何らかの原因で幻覚が現れる状態なら、相手がその博士だと意識していない可能性もある。どちらのケースにしても、病院に入れられてしまうのは確実だが。
 そこで初めて黙った征士に対し、伸は反対に、話し始めてしまったことを止められなくなっていた。彼が声を大にして訴えたかったこととはつまり、
「別に、本当に自分が何かをした結果なら、疑われてもしょうがないと思うよ。でも僕は自分が何をしてたのかわからないんだ!。みんな他人事だと思って、不審そうな顔を平気で向けて来るけど、一番不安なのは僕なんだ!。どうしてそんなことわかってくれないんだ!」
 つまり、そういうことだったのだ。過去に似たような例で訴訟が起きた記憶もある。候補者とされる者が必ず容疑者だとは、一般にもマスコミにも言えない筈だが、何故か世論が犯人を決め付けてしまうことがある。そんな中で著しく名誉を傷付けられたり、嫌がらせ等に苦しむ者が出たりする。伸はそれと同様の状況下に置かれ、酷く傷付いている状態だった。
 良くない行為だと解っていても、人は疑うことを止められない。謎を謎のままで置いておくことが、とても下手な生き物なのかも知れない、人間は。
「…話した。君は僕の言ったことを、信じてくれるんだろうね?」
 伸は最後に、肝を据えたような態度でそう言った。ただ話をしただけで、今は少しばかり本人の混乱が収まった様子だった。征士の説得は確かにそれなりの効果があったらしい。けれど、
「ああ…半分くらいはな」
 と征士は、彼の懇願するところをまるで解していないのだった。
「嘘!、騙したな!」
「いやその前に、私は公平に考えると言っただろう」
「最悪だ!!」
 バン、と音を立ててテーブルに手を付いた、伸はそのまま立ち上がり、すぐにもこの場を離れようとする。横の椅子に置かれていた鞄に手を掛けると、
「あー、だから待ちたまえ…」
 征士は追い掛けるように言った。
「何だよ!」
「確かに、どちらとも判断できなかった。それについては謝る。その代わりと言っては何だが、君を私の家に招待しよう。いつまで逃亡生活を続けるのか知らないが、そんなに金を持っているようには見えないしな。どうだろうか」
 今更まともに受取って良いのやら。ただ、無責任に感じる物言いではあれど、それは確かに有り難い申し出だった。伸の所持金では、カプセルホテルでも一週間は居られない。その上何かと不便を強いられることを考えたら、人の家に転がり込むのが最も楽ではあった。けれど、
「無理だ、君は誰だって聞かれたりしたら、」
「知り合いだと言えばいい」
「それは駄目なんだ、僕の交友関係はみんな調べられてるし」
 つまり元々知人としてデータに無い人物は、尚更怪しまれるからだ。最後まで見付からなければそれだけだが、このまま乗り切れる保証は何処にもない。己に関わる者は全て、誰もかも疑われる対象になると判っていて、安易に提案を受け入れる訳にはいかなかった。
 しかし征士はと言うと、不思議とそのリスクを恐れていないらしい。
「だったら恋人ということにしておけ」
「…あ?」
 それではある意味、犯人と疑われるより不快な目で見られないだろうか。
 そう思うのだが、伸はまだこの、伊達征士と言う人間の人物像を知らなかった。彼は元より変わった所のある性格だと言われるが、それ以上にとても目立つ外見をしている。歩くだけで注目される容姿を持ちながら、しかし家では厳格な育てられ方をした為、根性の曲がったような所はあまりない。そんな条件で人生を生きていると、自ずと他人がどう見るかを気にしなくなるようだ。
 征士が気にするものとはただ、己が関心を持った対象についてだけだった。
「我ながら良い思い付きだ。何しろ隠れた存在だからな、幾ら調べても出て来ないだろう」
「は、ははは…」
 身に詰まされる暗い話よりは良いけれど、こんな調子で返されるとも思わなかった。ふざけていると言ってしまえばそれまでだが、少なくとも助け船を出してくれたのは事実だった。伸は、この奇妙な学生について、すぐに何でも信用する気にはなれなかったが、自分にも他人にも公正であると言った、それだけは信用できるように思えた。
 何故なら彼は、自分が怒鳴ろうと狼狽えようと終始落ち着いている。
「まあ、いいや、その辺は適当に…」
 そして実際に困っている伸は、遂に向こうの提案に折れることにした。本当に、今後どうなるかは全く判らなかったけれど。

 ところで征士の方は、事件に巻き込まれるという意識はまるでなく、変わらぬ態度でマイペースを決め込んでいた。つい先刻までは赤の他人だった上、他に心暗い事情を持たないと言う余裕だろうか。
 否、それも多少はあるが事実は違っていた。始めから彼には彼の別の目的があり、それが目の前で上手く運んでいたからだった。
 征士は今日、道端でとても興味深い人に出会った。困っている人には手を延べろと教えられて来たが、言い方は悪いが、「恩を売っておくと後で良い事がある」と、何故か伸に対して直感したのだった。
 無論伸には知り様もないことだった。



 小田原警察署に臨時に作られた捜査本部。そこで第一回の調査報告があった。
 発表は捜査主任の羽柴警部が行う。彼はそこに集う者の中では全くの若輩だったが、警察組織を愛するひとりと既に認められていた。普段の生活からは想像がつかない神経質な様子で、纏められた報告書の束を丁寧に改めると、一般の警察官、事件記者の見詰めるホワイトボードの前に立った。
「…まず始めに、現場検証の報告から。
 遺体の発見場所は小田原市内千石大学、西校舎、五階の史学部個人室エリアで、被害者個人が執筆と接客等に使用していた部屋。大学周辺は閑静な住宅街で、中所得者層の持ち家から、同大学の学生が住むアパート、マンションなどが多い。中心的商店街からは離れている為、家々の庭や道幅も比較的広く、周囲は全体的に見通しの良い状況。
 大学構内に入るには正門と乾門、巽門の三ケ所があるが、正門以外は午後十時に閉門され、以降は正門だけがほぼ二十四時間通行可能。しかし塀をよじ登ることも可能な為、絶対的な警備状態ではないと言える。又、守衛の立つ正門には教諭、来客用の駐車場に続く私道があり、犯行時刻付近に出入りした不審車両は無かった。
 第一発見者は、被害者の祖父で同大学の柳生博士。彼も同じ校舎の同じエリア内に個人研究室を持ち、被害者の部屋までは普通に歩いて一分で移動できる。ふたりの仲は良好で、共に徹夜作業だった翌朝は、必ずふたりで朝食を摂りに出掛けたらしい。この日も朝食を誘いに訪れたと言っている。
 死体発見時刻は昨日の朝、五月八日木曜日の午前六時五十分頃。祖父と孫の関係であるふたりの博士は、その日も共に泊まり込み、執筆作業に没頭していたと言う。死亡推定時刻は午前三時頃。柳生博士が被害者を発見した時には、既に冷たくなっていた。
 被害者の首には、ワイヤーのような物で絞められた鬱血跡があり、頚部の絞め付けによる窒息死と推測する。鑑識結果が出るのを待って公式に発表するが、凶器と思われる物証は上がっていない。被害者の着衣に乱された様子はなく、その他の外傷も特に見当たらなかった。
 それから現場の様子だが、酷く荒らされた形跡はないものの、被害者が気に入って着けていた百万円相当の腕時計と、ダイヤモンドの婚約指輪、棚に飾られていたと言うエメラルド原石の彫刻、時価二百万円相当がなくなっいた。それ以外は今のところ報告はない。加害者の物と見られる遺留品、気に掛かる物品なども特に報告なし。人の出入りが多い部屋である為、頭髪や指紋による容疑者追及は難しいとのことだ。窓は換気程度に開けられ、ドアにも鍵は掛かっていなかった。
 来客用の応接セットのテーブルに、紅茶茶碗とスプーンがそれぞれふたつずつ、シュガーポットがこれから使おうとした様子で置かれていた。そして部屋には紅茶の入っていた木箱と、ティーバッグが幾つか散らばっていた。
 それらの物は部屋の棚に置いてあったと、学生や柳生博士から確認している。他の茶碗やコーヒー等も、その腰丈程のスチール棚に収納されており、扉が少し開いたままになっていた。恐らく紅茶を取り出そうとした間に襲われたと見られる。
 死亡時刻頃に来客があったのは確かなようだ。そして顔見知りの者一名と推測する。だが、午前三時という時刻に大学を訪ねる者は稀だ。夜間の授業も午後九時半には全て終了する。こんな深夜の時間帯では、外部から大学に侵入する者に、誰も気付かなかったとしても不思議はない。引き続き目撃者などの情報を収集されたい。尚、同校舎に残っていた柳生博士、その他数人の教職者と学生、警備員も特に怪しい物音や悲鳴などは聞いていないと言う。
 更に近隣の住人からも、その日のその時刻の情報は特に寄せられていない。乗り物の音や、怪しい者がうろついていたと言う情報も殆ど出ていない。
 それから被害者自身の近況だが、一年程前から誰かにつけられているようだと一部の人間に話し、ここ最近はノイローゼ気味だったと報告されている。この話は多くの学生、婚約者などが同一の見解を示しており、まず事実と考えていい。その上で、被害者は追跡者を調べさせる為に、私立探偵をひとり雇っていたようだが、今現在まで探偵、乃至探偵社とは連絡が着いていない。探偵が来ていたこと自体は複数の者が知っていた。
 ところが、その追跡者らしき存在を目撃した者は無く、被害者本人の妄想だった可能性も否定できない。妄想だとしても、ノイローゼが先なのか後なのか、その発端となりそうな原因も不明。被害者は精神科などの通院歴はない。又、探偵社との契約書は見付かったものの、その後の報告書など、依頼内容や経過を説明する文書は出ていない。契約日付けは今年三月二十七日木曜日、今から一ヶ月少々前だった。
 更に被害者は、その日にあった出来事を簡単な日記として、机上カレンダーに書く習慣があったにも関わらず、ストーカーらしき被害の記述は一切無かった上、ノイローゼが始まったと言う四月上旬からは、日記自体の記載が止まっていた。そこからも、本人が感じていた恐怖が実際にあったことなのか、現在は確証がないものと考える。又、二月七日のページだけがなくなっていた。事件に関係があるかどうかは不明だが、一応憶えておいてほしい。
 それ以外に、被害者を取り囲む状況には特に、目立ったトラブルや、気に掛かる事件などはなかったと言われている。が、被害者は著名人であり、能力、容姿共に優れ、大学から遠くない実家も豊かな家柄だ。被害者の条件を考慮すれば、誰がどういった怨恨を持つかは判り難い面もある。
 しかし確実な部分もある。それは加害者がこの大学内部の様子、或いは大学に属する人間の行動を知っている点。でなければ被害者が、この時間にひとりで部屋に居ることを、的確に知ることはできない。大学の塀の外からは、奥まった西校舎の様子は判り難い為、誰しもある程度予想の上で行動することになる。内部情報のない者の犯行とは考え難い。
 そしてもうひとつは、被害者を殺害することが目的の犯行である点。幾つか盗まれた物品があるが、これらはついでの犯行と考えられる。目に付く場所に置かれたブランドもののバッグに、現金が十万円程度、他クレジットカード、宝飾品等が入っていたにも関わらず、物色された痕跡はなかった。慌てていたのか、捜査を撹乱する為なのか、窃盗目的でないことは確かだ。加えて同校舎の他の部屋の被害もなかった。
 さて、以上の情報をもう一度、確認する意味での予想だが、大学に頻繁に出入りする、被害者と親しい人物の犯行と見るのが妥当である。そして大学内部の構造、被害者の行動パターンをある程度知っている者。又、殺害に因って何らかの利益があるか、何らかの達成感を得られる者で、殺人行動をひとりで遂行できる者。加害者はそんな人物であると思う。今後はこれに当たる者を詳しく調査し、更に鑑識などの報告を合わせた上で、条件に拠る絞り込みを行う予定である。
 既にある程度の事情聴取を行ったが、今現在までの情報はこれから説明する」

 そこまでを畳み掛けるように進めた羽柴警部は、資料が置かれたテーブルのペットボトルを初めて手にし、手早くキャップを捻切ると、中身のウーロン茶を一気に半分くらい飲み干した。特に運動している訳ではないが、熱心に仕事に取り組む彼は、まだクーラーを入れない時期の室内、大勢の聴衆の中でかなり暑い思いをしていたに違いない。
 けれど体が感じている程に、本人はそれを意識してはいなかった。それだけこの報告会に集中していたようだ。



つづく





コメント)やっぱり第一回の予定分が入り切らなかったです。って言うか全然足りない(苦笑)。しかもこんな所で切れてすいません。尚、この物語はフィクションであり、実在する地名はあっても、必ずその通りではありません(笑)。さあ次へ行っておくれ!。



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