改革
ナイルと緑の芦辺
#9
The River Flow



 今王朝となってより、議場の広間は多くの時を、顰め面の人物で埋め尽くしている。エジプトが隆盛を極める頃の王宮は、笑顔と活気に満ち溢れ、遠方から訪れる客人も切り無く現れたと言う。ファラオはほぼその相手をするだけで、一日を終えることも多かったそうだ。
 否、エジプト自体はまだ、世界で一、二を争う大国のままであり、外国からの客人も常に一定数は訪れている。移民も変わらず受け入れている。それはこの国に富を生み出す土壌と、完成された社会構造が存在し、他国よりずっと安定している証だ。少なくとも民が飢えたり、無闇に虐げられることはないからだ。
 けれど、繁栄する時代と今とでは、ひとつ決定的に違う点がある。既に語られた通りだが、エジプトはその精神である信仰を、分裂した集団に奪われてしまった。そのまま時は流れ、最早自然に元に戻ることもないだろう。本来ファラオの後ろ盾であるアメン・ラーが、他国に奉られているのは歯痒く厄介なことだった。
 そんな背景のある中、宰相は新たに出て来た話題にも溜息を吐いていた。
「一兵士をファラオに望むなど世も末です」
 会衆が一度話を終え、静まったところで突然ボソっと呟いた為、その言葉は妙に広間に響いた。恐らく耳にした者の内、半分は同意、半分は首を傾げる発言だっただろう。トウマがそれを受け、
「それは時勢によることですよ」
 と落ち着いて続けると、宰相は自ら自身の考えを釈明した。
「いや、私はその意味で申しておる。民が軍事的安心を求める背景には、それだけ民にも危機感があることに他ならぬ」
「さすが宰相殿、ご尤もです。各地で生活を脅かされる不安があるのでしょう」
「嘗ては各地から、戦乱や貧困に苦しむ者が逃げ込んで来る国だった、このエジプトが最早渦中の国と成り果てるとは」
 ファラオの命を直接受け、各地の役人を使う立場の彼だからこそ、聞こえ来る民の生活の変容を憂えているようである。少なくとも前王、大オソルコンの頃はもう少し穏やかだった。まだメソポタミアに大帝国が出来る気配も無く、或いはヘブライ王国も建国されたばかりで、そのダビデと言う賢王は、エジプトに寄越された使者の話から、野心を抱かぬ誠実な人柄が窺えた。
 今現在に比較すれば、しばしば他国からの攻撃は受けていたものの、脅威に感じる大国が存在しなかっただけ、王宮も住人も落ち着いていられた。
 それが何故このように、急に混迷極まる時代に至ったのか。他国の動きが急速に変わって行った理由は何だ?、とセイジが尋ねる。
「それは何故だ?、私も嘗ての平和なエジプトの話は、幼き頃から幾度も聞かされて来た。それが遠い夢物語と化した原因を、貴殿はどうお考えか?」
「余も聞かせてほしい、宰相」
 そしてファラオも続けると、老宰相は彼なりの考察を皆に話して聞かせた。
「カオス様が度々話されておりました、『現代に於いて強さと平和は同じもの。強ければこそ平和を守れる。だがそれは真の意味の平和ではない』と。古代の王朝はエジプト国内と、周辺の小国を従える程度で成り立ち、ほとんどがナイル流域の人々だったと聞きます。そのエジプトに、『強さこそ平和』との思想を持ち込んだのは、ヒクソスの王朝が立ったからではないかと。本来のエジプトの心でないものが、我々を変えてしまったように感じます」
 彼の言いたいことは、力を望めば望むほど、より強い力に屈する機会も出て来ると言う話だった。他国に攻め入り富や権威を奪えば、後に報復的結末が訪れることも多い。エジプトは内戦こそあったものの、地理的に離れた他国を侵略する歴史は、そのヒクソスの政権以前は無かったのだ。ヒクソスとはパレスチナの一地方、シリアの「野蛮な侵入者」を指す言葉だが、最早それを原因とするのは無理だとトウマが続ける。
「しかし世界は地続きですから、いずれ他民族の文化が混じって行くものです。いつまでも箱庭のような、穏やかな環境は維持できないと私は考えますが」
 時既に遅し、ヒクソスの政権時代は六百五十年も昔である。エジプトが彼等の影響を受けたにせよ、同時に他国も彼等の影響を受けている。当時のシリア人は最新の武器を開発し、他のどの民族より武力を発展させていた。世界は皆その知恵を見習って行くだけだった。
 優れた文化を目にすればそれを参考にする。今現在も何処でも行っている事だろう。
「そう、時代的に仕方ないことなのだろうが…」
 言葉通り宰相は、古に立ち返ることのできぬ切なさに、視線を落とし声からも沈んでしまった。如何に過去が素晴しくとも、そのまま取り戻すことは不可能だ。エジプトも周囲の状況も、すっかり変えてしまった世界の潮流と、それを作り出した全ての武闘派集団が恨めしい。
 けれどトウマはそんな彼の意識をも組み、
「ひとつお話ししましょう、ヒクソス及びシリア人は、我々と大した差は無い民族です」
「どう言うことかね…?」
 宰相がゆっくり顔を上げるのを確かめ、トウマは真摯にこう伝えた。
「大量の新型武器を持ち込み、武力によって彼等がエジプトを変えた、と言う流れは確かですが、当時の王朝は弱体化していましたから、彼等によって助けられた面もあります。田畑を耕し、便利な道具や制度を作り、豊かさを蓄える穏やかな暮らしへの価値は、本来何処にも存在するものですから、ヒクソスも始めから好戦的だった訳ではなく、時代によってそう変わったのです」
 事実、当時のエジプト王朝は滅亡寸前まで衰えていた。それまで易々と従えていたヌビアにも侵攻され、下エジプトの首都イティ・ターウィは、移民として増えたシリア人に占領された。だが彼等の思想がエジプトとは異なることから、再びエジプト王朝は盛り返すことができた。彼等は戦乱による貧困から移民となった為、その時は寧ろ侵略と言うより、平和なエジプトに戻したい意識が強かったのではないか。
 戦闘と混乱が国に何を招くか、シリア人は既によく知っていた。混乱を食い止める為には武器を取るの止む無しと、彼等は考えていたに過ぎない。
「シリア人も始めから戦う種族ではないと言う訳か…」
 明確に話すトウマに感心しながら、宰相はそう言って頷くが、しかし今度はトウマの方が考え込む仕種を見せた。彼の知る歴史の知識は概ね正しいが、正しい故に答が判らなくなる面もある。
「ですがそう思うと、果たして世界とは本来、どちらが正しい姿なのか考えてしまう…」
 その言葉がふと気になり、ファラオも思わず繰り返す。
「どちらが正しい姿…?」
「人とは果たして、本来和合するものなのか、敵対するものなのか」
 つまりそれは、古来通りの平和を維持するのか、徹底して闘争し平和を勝ち取るのか、何れかを選択せねばならない意味だった。エジプトは生来の人の在り方を否定せず、有りの侭の大らかさを守って来た。だがそれはエジプトだけの特性であり、世界を見渡せば決して、普通の感覚と言う訳ではないかも知れぬ。或いは今を生きる人々の意識と、昔の意識は違うかも知れぬとファラオは考えている。
 そこで宰相が思い出したように、古き良き時代の壁画を想像しながら言った。
「神話に於いてもその点は謎ですな。シュウとテフヌウト、ゲブとヌウトは和合の象徴ですが、その後セトは兄であるオシリスを殺し、その息子ホルスと敵対するのですから…」
 と、そこまで話した時、彼はうっかり不穏な名前を口に出したと、ヒヤっとしながらセイジを振り返る。しかし本人は、宰相の例えに深く頷いていただけだった。
「いや気にせずに、宰相。その話は私もよく解らぬ、何故ラーはセトの味方をしたのか。ホルスは若過ぎると判断したにせよ、兄を騙して殺した男ではないか」
 寧ろ誰よりオシリス神話を知っている、セイジだからこそそんなことも言えた。
 ヌンの海より太陽神ラーは生まれ、その子供シュウとテフヌウトは大気と湿気、その子供ゲブとヌウトは大地と空になった。そこまでは男女の和合に置き換えられた神話だが、その後複雑怪奇な展開となる。
 ゲブとヌウトには四人の子が生まれ、長子のオシリスはすぐ下の妹、イシスを妻にしてエジプトを治めた。三番目のネフティスは、四番目の弟セトの妻になるが、セトの粗暴な性格をネフティスは嫌っていた。やがてセトは、エジプトの人気を集めるオシリスを憎み、彼を二度殺すが、二度ともイシスが復活させ、オシリスは自ら冥界の神となった。その前にふたりに生まれた息子、ホルスが以降セトと争うようになる。
 物語として聞けば、人情を寄せたくなるのはオシリスの方だろう。だが太陽神ラーは、砂漠の軍神セトの味方だった。セトとホルスは延々戦い続け、決着が着かず、遂にはホルスがラーに判定を求めた。すると何故かラーは、ホルスにエジプトの王たる資格を与えたのだ。セトを見限ったのか、彼を諦めさせる為か、またはホルスを成長させる為か、単なるラーの見誤りかも知れない。どうとでも取れる曖昧な話である。
 だが神話とは元来そんなもの。必ずしも神々の美徳が描かれる訳ではない。時には人と同等に愚かな行動もする。だから人は、神々を自身の起源と認識することができ、それが集団の共通意識ともなるだろう。ただ、セトとホルスの長きに渡る戦いが、ラーの望む人の世界だとしたら悲しいことだ。
「その意味する所は?」
 それを、セイジは神官であるラジュラに尋ねた。本当ならカオスに尋ねれば、必ず納得の行く話をしてくれる筈だが、さて司祭長代理の彼には、会衆の心を掴む説明ができるだろうか。尋ねられた時点で些か青くなった彼の、緊張した声が議場の中心に響く。
「それは、言われております通り…」

 ところが肝心の解説を聞く前に、そこに旅姿の若い神官が倒れ込んで来た。これ幸い、ではないが、司祭長は全ての神官の纏め役でもある為、すぐにその若者に目を遣り声を掛ける。
「どうした、突然議場に入って来るとは無礼であるぞ、そんな身なりで…」
 彼の身には酷く汚れた服と手甲、砂まみれの脚絆、頭から落ちそうにずれたネメスは汗に濡れていた。そして掌には、酷く強く手綱を握ったような、一文字の擦り傷が赤々と見られた。ラジュラがその傍へと寄って行くと、若い神官は息も切れ切れに伝えた。
「あ、あ、王…様に、最悪の事が…」
 それは呟きとも言えるような掠れ声だったが、一同が耳を澄まし見守る中だった為、誰もがその続きに息を飲み目を見張った。
「一昼夜、止まることなく、馬を…、一刻も早く、伝えに…」
「何があったのか!、よく落ち着いてから申せ」
 その切なる様子を感じ取ったファラオが、王座を立ち上がって彼を励ます。王の命によって暫し呼吸を整えた一神官の、必死に王宮に持ち込んだ事実とは、ある程度予想していた最悪の結果だった。
「カオス様が、大司祭国にて旅立たれました。供に付いていた側仕えの兄弟子は、陰謀だと激昂して大司祭に面会を申し出ましたが、彼もまたどうなるか…」
「・・・・・・・・」
 議場は静まり返る。そして若者を見詰めるラジュラは身を震わせ、
「…恐れていた事が…」
 誰も聞こえぬ微弱な悲鳴を口にしていた。彼の悲しみと心許ない気持は無論、他の誰にも想像できるものだった。けれど彼ほど感情的ではない宰相は、
「楯突けばこうなると、アラゴ大司祭は示した訳ですな…」
 重い口調ながら、事態を冷静にそう解釈していた。恐らくそれで間違いはないだろう。議場に集まる全ての人間、トウマもセイジも、ファラオもまた話を疑う余地は無いと感じていた。王朝の司祭長が成し遂げようとした事は、それだけ向こうの機嫌を損なうことであるが故。
 即ち、現在の大司祭国は盲目であると、相手の窮状に追い討ちを掛けに出掛けたのだから。
 するとそこで、意外な人物が勇んで声を上げた。
「むしろこれは我々には好都合です。向こうから理由を与えられたも同じ。今こそ、王朝の為にならぬ物を切り捨てるべきです!」
 実直で統率力ある軍隊長が、それだけはっきり意見するのは、恐らく彼も大司祭国の身勝手な振る舞いに、常に腹を立てていた顕われだろう。彼の意見は恐らく軍の全て、ともすれば関わる役人全ての感情かも知れない。ただそれだけでは王朝側に不安が残るとセイジが返す。
「切り捨てるは良いが、こちらも司祭長を失っている。この状態で今王朝を支えて行けると思うか?」
「・・・・・・・・」
 目先の怒りに囚われ過ぎてもいけない。軍隊長は口を噤んで瞼を閉じた。全てはファラオの判断に委ねることだと、忠実な姿勢を見せ、それ以上捲し立てることはなかった。
 が、確かに好機ではあるのだ。説得に行っただけの使者を殺めることに、大司祭国が正当な理由を語れるとも思えない。カオスのことである、喧嘩腰など冷静さを失う言動をする筈もない。事は王朝に有利な方へ傾いていた。司祭長の存在を犠牲にしたお陰で…
 ファラオはそうして、苦渋の決断をせねばならぬ時を覚った。
「どう思う、トウマ」
 尋ねられた彼は、訃報を受けてよりずっと、頭の隅にある言葉が谺している状態だった。
『その時、最も大切にすべきは、王の治世が後に過ちと言われぬよう計らうことだ』
 大司祭国へ向かおうとする最後の時、父が残した遺言のような言葉を彼は、今から確実に行わなければならぬと強く意識する。混乱期の、ろくな功績も上げずに去った王ではない、現状とても良くエジプトを考えている、誠実なサアメン王の晩節を穢してはならないと。
 飽くなき探究心、偏向なく優れた閃き、己の信ずることを信ずるまま口にできた、気楽な立場は最も幸いなものだった。だがそれだけでは駄目だと言う、父の考えが今は充分理解できる。故に、多少歯切れの悪い言葉を並べるしかないが、彼なりに国への責任を負うつもりで、現在為すべき道をファラオに伝えた。
「…不安は我々だけに存在する訳でありません。王朝からの貢献を断たれ、治世が難儀するのは大司祭国の方です。神々が食事を与えてくれることはないのですから」
 今後のエジプトを左右する、それは重大な意識改革である。すると軍隊長もすぐに賛同して言った。
「そうです!、我々と言う盾を失えば、大司祭国には大した武力もありません。その存続さえ怪しくなると言うもの」
 もし、それに異を唱える者がひとりでも居れば、ファラオはもう少し考えようとしたかも知れない。大司祭国と太陽信仰、エジプトと国民についての議論は、もう飽きる程に重ねて来た後だが、それでも各所の責任者の集まるこの場で、何らかの絶対的な不利を指摘する意見があれば、彼はそれを見過ごさないつもりだった。それだけ国に取って重要な決定をするのだから。
 けれどもう、この一点については、王朝の意思は纏まっていると感じ取れた。
「仕方がない…」
 ファラオはそう良いながら、先刻宰相が話したカオスの言葉を思い出している。
『現代に於いて強さと平和は同じもの。強ければこそ平和を守れる。だがそれは真の意味の平和ではない』
 決して相手を敵に回したくはない。武力で従えたいと考える訳でもない。ただ今王朝の不安の原因を取り除くことが、現状の平和に繋がると考えるからだ。彼は確とその意思を固め会衆に告げた。
「仕方ない状況ではあれど、余は同じエジプトの司祭を殺める隣国に、金輪際援助をすべきでないと考える。それはアメン・ラーの教えに反することだ。反論がある者は申してみよ」
 尚、この局面が訪れる前に話していた、太陽神ラーの物語と、大司祭国が支持するアメン・ラーの物語は違う。ある意味人間らしい個性を持つラーの子供達に対し、現在の精霊的な八柱神は、アメンにはアメネト、ヘヘトにはヘフ、ケケトにはケク、ネネトにはヌン、と始めから四組の男女の神になっている。つまり古の神話以上に、整然と纏まることが大切だと説いている訳だ。
 それを大司祭国は自ら壊した。タニスの王朝をはじめ、人々の信用を失うに充分な行為だと、信仰や思想の上でも皆理解できることだった。
 ファラオの一声の後、誰もが口を結び声を出さなかったので、トウマがファラオに応えて言った。
「最早誰も反対しますまい…」
 そして彼が話すと、宰相も最後に確認するように、この件のリスクを静かに語った。
「しかし、我々は代々のファラオと、神々の御加護を失ってしまいますな…」
 そう、それだけが不安要素だ。神々も過去のファラオ達も、巨大なエジプトを支える拠り所のひとつ。驚くほど長い歴史をそこに見るからこそ、敬意や信頼感がエジプトに齎されている。目に見えぬ物こそ大切だと、アメン・ラーの教義にもある通りなのだが…
 そこで突然、普段は大人しく下がっているラジュラが、酷く猛々しく叫んでいた。
「御加護!、笑わせるでない!、カオス様ひとり守れぬ我々に、何の御加護があったと言うのか?。衰退を続ける大司祭国を見て、神々の力がどれ程のものだと言うのか!」
 それが、恐らく次の司祭長となる神官の考えなら、全くその通りだと理解する他なかった。本来太陽信仰を守る立場の神官が、そんな力など宛てにならぬと言うのだから。
 恐らく彼も、この結果に傷付いているのだろうと思うと、ファラオは今一度己の意思を、議場の人々に示さねばと口を開いた。
「そうだ、もう神々による栄光の時代は遠い。武力による栄光の時代も過ぎた。我々は新しいエジプトを再生しなくてはならぬのだ。ソロモン王のように、過去とは違う価値観を見い出すべき時なのだ」
 神々の国を目指すのではなく、現実の国に生きる人間の為の言葉。
 トウマはファラオの明確な志を賞賛した。
「その通りだと思います、サアメン王様」
 そして全ての承認を得た後は、もう一秒でも早く動き出さなければならない。
「…大司祭国に伝えよ。件の祭の援助、今後の祭礼費用の援助も一切打ち切る。アメン・ラーの名の於いて、カオス司祭長の命を弔うようにと。でなければラーの天罰も下ろうと」
「はい、正式な文書として使者を遣わせます」
 命令を受けた宰相も、今は迷うことなくそう応え、ファラオに一礼すると速やかに踵を返す。足早に部屋を去ろうとする彼に、軍隊長もまた簡潔に心得を伝えた。
「使者には屈強な兵を供に付けよ!、二の舞となってはならぬ!」
 そしてファラオの前に身を改めると、彼もまた迅速に動き出す意思を返した。
「こちらも早速国境に兵を集めます。よろしいですか王?」
「思う通りに進めるが良い、充分に相手の出方を見るように」
「は!」
 王朝の優秀な指導者達は、そうして各自の持ち場に、慌ただしく且つ冷静に散って行った。誰も皆、この難局を共に支えて来た家臣である、ファラオが彼等の働きを疑う余地は無かった。神官達の内でも会議が必要な為、ラジュラもその場を下がると、特に持ち場の無いセイジとトウマだけが広間に残った。否、彼等はファラオの精神と思考を支える存在として、ここに必要な人物と言えるかも知れない。



 その後タニスの王朝は、長く懸念材料だった大司祭国との関係を断ち、独自に宗教行事を行うことになる。序列によりラジュラを王宮の司祭長とし、儀式や祭礼はナイルデルタの東の町、ペル・ラメセスのラー・ホルアクティ神殿にて行う。
 前途の使者が届けたパピルスの内容と、その決定を知った大司祭国は当然のように憤慨したが、タニスに向け挙兵するも、既に王朝の軍が国境を固めた後であり、軍隊長の話した通り、大司祭国の軍備ではとても対抗できなかった。結局この度の内紛は、タニスの王朝に影響を及ぼすことなく終わった。
 どころか、この戦で混乱した大司祭国に、続けて南からヌビアの軍勢が侵入し、エジプト領であった下ヌビアを占領されそうにもなり、信仰の都でありながら戦争状態が続く、苦しい情勢に置かれることとなった。却ってタニスの王朝には、その後数年平穏な時が齎された。



 大司祭国との決別を終え数カ月。
 腫れ物を取ったような清々しさの中、タニスの町には非常に嬉しい知らせも齎された。王妃の侍女ナスティに娘が産まれ、サアメン王は初めて自身の血を引く家族を得た。長く国民が待ち望んでいた安定のひとつが、これで漸く成就したと言える。
 人に寿命があるように、それぞれの王朝にも寿命がある。今王朝がいつまで続くかは不明だが、少なくともファラオの血を受けた子孫が居れば、伝統の王家の血筋を常に、王朝の中心に置くことができる。エジプトはエジプト人が治めてこそエジプトだと、無理なく納得することができる。それが国民全ての未来への希望となった。そのからくりはつまりこんな話である。
「そんなに固くなられず、さあご覧になって下さい、サアメン王様」
 王妃カユラは、部屋の入口にぎこちなく立ったままの彼の、些かひんやりと汗ばむ手を取り促した。カユラはそんなファラオの様子にクスクスと笑っている。幾らこれまで経験しなかった事とは言え、自身の子を見るのにそこまで緊張するものかと。しかも背後には、早々に祝いに駆け付けたセイジと妻が居り、ファラオが部屋に入るのを待っていると言うのに。
 まあ今、この侍女の居室は、世話をする乳母やはした女が大勢集まり、女ばかりなので入り難かったかも知れない。見兼ねてカユラが強引に連れて来た、ようなものだったが、まだ寝台に横たわる侍女ナスティは、ファラオの姿を見るとすぐにこう言った。
「男子を望んでおりましたが、申し訳ございませんでした」
 彼女に取っては二度目の出産だったせいか、健康面に心配の無さそうな様子はひと安心だ。しかしその言葉には、
「な、何を申すか!、どちらだろうと王家には大事な跡継ぎだ」
 さすがにファラオも気遣いを見せた。否、彼は常に正直な言葉で生きている。決して望まぬ結果だった訳ではないと、彼が言うならその通りなのだろう。と、ナスティもカユラも穏やかに微笑んだ。またそれを見て、ナスティの枕元に着いていた大王母が話した。
「そうですとも、もしこの後王族から、ファラオを擁立できぬことがあれば、この子は必ず次のファラオの妃となるのですから」
「そうですね母上、それがエジプトの伝統でございます」
 大王母の言に、実娘であるカユラも深く頷いていた。
 そう、エジプトの文化や伝統が久しく続いた理由は、歴代のファラオや王朝が何をして来たか、多くの事を書き記して来たからである。二千年前に既に文字が発明されており、また後世に残り易い石盤に刻んだのが幸いした。それは後の国民全てが、エジプト統一の父、伝説のナルメル王の名を知る事実を生み、また続く王朝もそれに倣い、多数の記録を刻んで行くこととなった。
 最も古い王朝時代、次に大ピラミッド時代が来るが、その衰退後は多数のファラオが立っては退位する、落ち着かない時代になった。メンフィスの王朝は終焉を迎え、ヘラクレオポリスの州候、次いでテーベの州候がファラオとなった。そこからはテーベの王朝時代になるが、やがてまた衰える頃、ヒクソスの襲来によりシリア人のファラオが立った。しかも上下エジプトにそれぞれヒクソスの王朝が開かれた。
 エジプトはその開闢から、他民族の支配時代も含め、随時必要な記録を残して来た為、権力者は国の存続の為に何をすべきか、指針となるものが確と存在している。それがつまり、ファラオは必ず王族の血統を守ると言う約束事だ。
 故にシリア人のファラオも、前王朝のファラオの娘を妻に娶り、州候からファラオとなった者も皆、それ以前の王族の娘を妻に迎えている。石盤に残された文字の力はとても強いものだ。彼等はエジプトの祖であるナルメル王を見て、古の神の血を受け継ぐ必要を感じて来たからだ。
 故に誰が王朝を開こうと、必ずエジプト王朝は王族の血で繋がっている。だからこそエジプトであり、永久なる安心感でもあり、同時に強迫観念にも似たことだったかも知れない。
 その深い記憶に長く寄り添って来た大王母は、
「私達は常に、できる限りのことを精一杯するだけです。王族であろうと人以上のことはできませぬ。神々の示す秩序とはそういうものですよ」
 静かに眠る幼子を見詰めながら、そんな言葉をファラオと妃達に伝えた。それは例えファラオを神と呼ぼうと、神の子と呼ぼうと、一世代に出来る事は限られるとの戒めであり、逆に心の重荷を解く言葉でもあった。
 何をしても栄える時は栄え、滅びる時は滅び、変わらずナイルは流れているのだと。
 その時ふと、「秩序」と言う単語を耳にしナスティは、ある人に是非伝えたい事があると思い出した。まだ自由に身動きできぬ体で、周囲を見回すと、カユラに連れられファラオとセイジは、乳母の抱く赤子を見に移動し始めていた。それを追って大王母も身の向きを変え、誰もがファラオに視線を集めていた。
 鼻からファラオに言伝するつもりはないが、はした女などには要領を得ぬ事であり、誰か物の判る人に伝言を頼みたかった。すると、ファラオ達の傍に居ると思われていた、シンがまだ部屋の入口近くに控えていた。恐らく弟の妃と言う立場を考え、前に出ぬよう配慮しているのだろう。実姉でもあるナスティには幸運なことだった。
 ファラオ兄弟と王妃が完全にそこを離れると、シンは漸く姉の顔を見ようと歩み出した。そしてその途中、目配せで合図するナスティに気付いていた。
 なるべく公にはしたくない言葉。この世界の始まりの秘密を知れば、国民はエジプトに対する熱意を失うに違いない。けれど如何なる大国もいつかは滅びる。その時ファラオとして国を導く誰かの為に、そこまで責任を感じることはないと伝えたい。ナスティは日々苦悩するサアメン王を見る中、いつしかその知恵を残しておこうと意思を持ったようだ。
 今はほんの間も無い時の、小さな幸福の内に素顔を見せておられるけれど…。
「それはいけませんわ!」
 乳母より渡された子供を前に、あまりに不器用な夫を見てカユラは声を揚げた。大王母も思わず息を飲んだ。同時にセイジが横から手を出し、
「兄上、こう持ち上げるのです」
 と、事無きを得たが、笑うに笑えぬ場面に皆ヒヤヒヤしている。けれどこうして多くの人の囲まれながら、気にもせずすやすや眠っている幼子は、思いのほか大物かも知れないと、内心安堵する気持も皆感じていたようだ。決して心地良く抱かれてはいないが、大人しく落ち着いている我が子をしげしげと見ると、ファラオは言った。
「うーん…、まだ人とも思えぬ姿だが、どうか健やかに育ってほしいものだ」
 兄の正直過ぎる感想には、やはり何処か笑ってしまう所があるのだが、セイジは努めてファラオの心の安寧の為に続けた。
「恐らく大丈夫でしょう、ナスティ様の他の娘も健康でいらっしゃると聞きます」
 すると、ファラオはその、人には見えぬ姿の娘に顔を寄せ、彼の思う最も尊く誠実な言葉を与えた。
「どうかとこしえに、エジプトの民を見守ってほしい」
 その場に集まる誰もが、ファラオのファラオたる由縁を見たような気がした。ただ、誰もが当たり前に結婚し子供を作り、世代を繋ぐだけのことに、普通の人間らしい感覚を持てないとしたら、それはファラオと言う立場の悲しみでもある。否、横に立つセイジも、やはり単純な喜びを感じることはなかった。王家の人間である以上、個人の幸福の前に国を優先する意識が、常に頭を占めているのだろう。
 しかしそれも、栄華を極める時代のエジプトならそうではなかった。今を生きる彼等に罪は無いが、過去に集めるだけ集めた幸福を、精算する時代を迎え、それを支える人々は酷く切ないと言うだけだ。



 ささやかな幸福に沸く王宮を後にし、セイジは妻と共にその庭に出た。今王朝に取って、今日は最も喜ばしい日であるのかも知れない、何故なら、いつも痛い程に照り付ける太陽の光が、今日は少しばかり穏やかであり、白く霞みがちな空や景色が鮮やかに目に映る。
 エジプトはこんなに美しい国だっただろうか?。領土の多くは乾燥した砂漠ばかりで、ごく短い雑草すら生えない土地も多い。考えてみれば、太陽は作物の成長に必要な力だが、必要以上に過酷な土地をも作り出している。神の力とは、神の思惑とは何なのだろうと、セイジは青々とした庭を眺めながら、改めてそんなことを考えていた。
 すると不意に、衣服の袖が引っ張られた気がした。少し後を歩いていたシンが、彼に何かを言いたそうに見詰めていた。
「何だ?」
「トウマ殿はどちらにいらっしゃいますか?、姉上から言伝を頼まれました」
 それは思い掛けぬ話だった。無論セイジに限らず誰に取っても、王宮から滅多に出ることのない侍女と、つい最近王宮に出入りするようになった、一役人に何の関係が?と思うことだ。
「トウマに…?、ナスティ様が?」
 瞬時に理解できないセイジは、頭を整理する為そう言葉にすると、シンは黙って頷いた。その見上げる瞳に曇りの無い誠意を見れば、事はとても真面目なものだと彼も知る。ならば王家の為に動こう、との意思は生まれて来たが、残念ながらセイジは現在、トウマが何処に居るかは知らなかった。
「今日は議会は開かれておらぬし、弱ったな、何処かに出掛けているかも知れぬ。自宅に居るなら呼んでもらえるが、少し時間がかかるぞ?」
「今日の内なら構いません」
 セイジの話に、まあ遠く離れているなら今日は諦める、呼べる場所に居るなら今日の内に、とシンは意向を示したので、セイジは早速伝令を頼める者を探しすことにした。
 王宮の庭の、長い通路を歩く間に、セイジは穏やかな妻の横顔を見てまた考えている。ナスティがシンに直接言伝するのは、何らかの事情があるからだ。でなければ周囲のはした女でも、しばしば出入りする神官などにでも、適当に頼めば良いだろう。またシンの様子から、密通のような怪しい話ではないと判る。聡明な従兄弟が、同じく博学なトウマに何を伝えたいのか、その内容が酷く気にもなって来た。
 庭の通路は一度、スカラベの天窓のある賓客の間に入り、そこを出ると王族以外が出入りできる、公共の王宮エリアとなる。ふたりはその部屋を通り抜け、働く者の行き交う場所へと更に向かった。ところが、賓客の間を出てすぐ視界に広がる、次の庭の通路に突然目的の人が現れた。
 当然まだ呼んでもいないので、彼は何故かそこに居たと言うだけだが、
「何をしている?」
 と、意表を突かれた顔でセイジが声を掛けると、どうも、彼にしては歯切れの悪い調子で応えた。
「え、いや…、ファラオに初めてのお子が誕生された、記念すべき日ではないですか」
「わざわざ祝いに来るとも思えぬな。おまえの性格からすると」
「そんなことはございませんよ」
 トウマはそう笑ったが、何か他に思う所を隠しているようだった。ただ、この一大事を喜ぶ気持があるのは間違いない。何故なら彼が最初にファラオに謁見した時、侍女を遠ざけるべきでないと進言したのを、ファラオ自身が憶えていた結果でもある。セイジとシンは、その場に居なかった為知らぬ事だが、何故だか彼の心境の一部は感じ取ることができた。
 何故だろう?。これまで共に王宮を支えて来た同志の、エジプトに対する良心を信用するからだろうか。或いは彼の優れた思考が語らせて来た、理想の形に何らかの共感を得ているのかも知れない。と、セイジが思っていると、そこでシンはとても奇妙なことを話した。
「きっと星のお導きです」
『星…?』
 それは、未来には慣用句的なものとなるが、現在のエジプトでは酷く違和感のある言葉だ。エジプトは太陽を信仰する国であり、その他の小さな星々には注目していない。目に見える太陽の大きさ、直接の影響力に比較すれば、遠くに瞬く星は何をしてくれるでもないと、文化的に考えられて来た為だ。
 故にセイジはキョトンとなっている。だがトウマは流石にその意味を知っており、その上でシンにこう返した。
「普通そこは『ラーのお導き』と言いませんか?」
 するとシン自身も、自ら話しておいて不思議そうな面持ちになった。自分は何を言っているのだろう?、と迷ったが、その迷いは結局僅かの内に解消していた。
「…そうですね?…、私が今『星』と言い間違えたのは訳がございます」
 あっさり言い間違いだと話す、妙な様子のシンを若干不審にも感じていたが、続けて、
「ナスティ姉から貴殿への言伝をお伝えします」
 そう本題を切り出されると、トウマは目を見開いて反応することになる。この国の中で星の重要性を語る者は、ごく僅かな人数に限られる。片手で数えられる神官数名と父親、そして王妃の侍女ナスティだけなのだ。その人から恐らく何か、星に関することをシンは聞いて来たのだろう。と気付くと、トウマの耳は自ずと聞こえる言葉に集中した。



つづく





コメント)無理矢理場面の途中で切ってしまいました(´ `;。3もそうだったけど、前の場面と時間的に繋がってる話なのに、どうしてもこのページに入り切らないのでしょうがなく…。ま、もう少しで終わりなのでお許し下さいm(_ _)m


GO TO 「ナイルと緑の芦辺 10」
BACK TO 先頭