ラーの夕暮れ
ナイルと緑の芦辺
#10
The River Flow



 それはこんな言葉だった。
「『神々の秩序、時と場の理、人の世の則、全て星より与えられたもの』」
 使われた単語は難解ではないが、その意味を取るには知識が必要だった。セイジには何のことやら、神官の唱える呪文のように感じられた。ので、
「何だ、それは…?」
 思うままに妻の顔を見たが、シンもまたその意味は全く理解していない。
「私にはわかりませぬ。姉上が仰った通りお伝えしました」
 ただ聞いたことを正確に伝えただけだった。この頃の人々は、こんな遣り取りには慣れている。細かな事まで逐一石に刻む訳もなく、パピルスもそれなりに高価である為、纏まった文書や図画以外には使われない。当然後に残ると困るような、個人的意見は直接の伝聞が重要だった。
 そう、それはトウマの思考を進める上で、とても重要なことだったのだ。
 意味の取れぬ王族のふたりが、彼を前に何らかの返答を待っている。トウマはそれを、エジプトの今後の為に伝えておくべきだと、彼なりの義務を感じながら話し始めた。
「つまり…、我々の崇める神は、全ての始まりではないと言うことですよ」
「アメン・ラーのことか…?」
 すぐにそう尋ねたセイジは、至極エジプト人らしい感覚を持っている。前途の通り創始のエジプト神話は、太陽神ラーが全ての頂点だが、現在はテーベのアメン神を一体と看做し、アメン・ラーと呼ばれている。もしテーベの都が存在しなければ、アメンの名が加わることはなかった。拠ってアメン神については、当初の王朝が発祥ではないと言い切れるのだが。
 しかし、正確に何がエジプトの始まりかは、トウマにも答えられない。世界の始まりを記録した文献は存在しない。代わりに彼は、セイジが理解できそうな他の話を続けた。
「エジプトは二千年余りの歴史を持ちますが、それ以前にも、優れた文化を持つ民族が存在したのです。我々は始めから彼等の知識を受け、新たにエジプトと言う国を構築したに過ぎません。ナスティ様はその何らかの根拠を得られたのでしょう」
「…彼等とは…?」
「メソポタミアの人々です。彼等は天を巡る星からあらゆる秩序を学びました。星の動きには世界の全ての法則が見出せる、太陽もまた星のひとつに過ぎません」
 けれど、数年彼の地の傍に暮らし、現地の人々や情勢を見て来たセイジにも、それを即理解することはできなかった。何故なら、
「アッシリアはまだ混沌として帝国に至らぬ、伝え聞くバビロニア帝国はとうに滅んだ。それでも彼等は優れた民族と言えるのか?」
 同じ王国を二千年続けて来た、エジプトの理念の方がより優れていると、一般に感じられる通り彼は考えていた。だがそれは目に見える世界の、ほんの一側面だとトウマは言った。
「我々とてエジプトの名は続けていても、王朝は幾度も盛衰している通りです」
「・・・・・・・・」
 そう聞けば確かに、アメン・ラーの由来のように、今のエジプトは太古のエジプトではないと知る。バビロニアも現在は帝国ではないが、その町はバビロニアと呼ばれ続けている。そしてセイジは新たに考えなければならなかった。今我々を支配する全ての、エジプトの思想は正しく理想的なものだろうか。既にテーベを離れた王朝が、過去の信仰に従う意味はあるのだろうかと。
 王族である彼は恐らく知らない。トウマは知っていることだが、実はエジプトと言う土地は、大陸との間にシナイ山が存在する為、遠い過去はとても辺鄙な場所だった。要するに田舎なので、この土地が非常に豊かであると長く知られず、また外敵も侵入し難く、他の大国と比較すれば相当平和だったようだ。だからこそエジプトには、緩く穏やかな精神が育まれて来た。
 そんな人々であったから、太陽と言う象徴を選択したのだろう。太陽は毎日東から昇り西に沈む。天の星々の複雑な動きに対し、その単純さが国の安定感に馴染んだのだ。ピラミッド時代までは、星を信仰するメソポタミア寄りの神官団が存在したと、今も残る遺物から推測できるが、いつしか彼等は駆逐され姿を消した。その損失と同時に、エジプトは他に類を見ない独自性を確立したけれど。
 果たしてその選択が良かったのか、悪かったかは、今現在も酷く難しい判断だった。航海術の進歩と共に、地中海を渡りエジプトに来る者は格段に増えた。同時にアフリカ側の周辺国も、エジプトだけでなく、海の向こうから学ぶ機会が多くなった。他の土地の思想が入り込んで来るに連れ、平和な田舎の王国も変容して行った。その流れをトウマは簡潔にこう説いていた。
「エジプトの深い文化は素晴しい。しかしその基本は閉鎖的平和に基づくものでした。メソポタミアから伝えられた知識を、エジプトは独自に発展させましたが、太陽のみを見ている単純さは、平和な時代にしか通用しないものなのです。即ち今は、『ラーの息子』などと言う地位に大した意味は無く、他国に対しては何より、知略と実際の力が必要となった訳です」
 それを聞いたセイジは驚愕した。それでは自分が、ファラオが、それを支える神官や家臣達が、必死に守り続けるエジプトの伝統とは何なのか。我々は既に価値の無い物に徒労しているのか?、と。
「ならば本当に、大司祭国など不要ではないか…」
「無論、国の分裂は最も不必要な事ですが、結局何を崇めようと、栄えては滅ぶ掟を変えることはできません。メソポタミアも、我々人間の魂も同じです」
「…我々は滅ぶだけだと…?」
 セイジには、トウマの語る意味が本当に判らないのだ。何故ならそれが普通のエジプト人であり、アメン・ラーを信仰する者は皆、肉体を離れても魂は生き続けると考える。本来ならトウマも、その世界観の中に育った人間として、大前提である死後の自由を信じている筈だった。セイジには何故、彼がわざわざ不安な想像を選択したのか理解できなかった。
 勿論故意に選択したのではない。自由に向学心を働かせる者は、いずれその答に行き着くと言うだけだ。例え死後の世界が存在しても、滅びた王国が元に戻ることはない。大繁栄した時代のように、ピラミッドを再び建造することもないだろう。何をしても過去が甦ることはない。歴史を学ぶトウマにはその現実が、確と見えてしまっているだけだ。
 今、我々は新しいエジプトを創ろうと藻掻いている。衰退してはまた新たに興る王朝の再生は、常にそうして新しくされた歴史であり、決して太古のエジプトのままでいた訳ではない。単一の命が二千年生き延びた訳ではない。
 けれどそれでは、エジプトの求める魂の永遠とは何なのだろうか。
 セイジが悩んでいると、
「いいえ、」
 と、それまで大人しく話を聞いていたシンが口を開いた。彼女はナスティのように、高度な学問を学んだ経験は無い。王族として必要な教育を受けただけで、トウマの語る中の専門的部分は、当然全く理解していないが、彼女にはこんな話をすることができた。
「アメン・ラーは、滅びへの恐れを除く神なのでしょう。一際高い木の上に登ってしまうと、降りるのが怖くなってしまいます。後に起こる事を何も想像できぬより、良い事を考えられた方が、生きていることを幸福に感じられるのではないですか?」
 その、身近な事から易しい理解を示したシンを、トウマは賞讃するように頷いた。
「その通りです」
 恐らくそれは、シンの現在の立場から得られたことだ。長く王家の中心に関れずに居た彼女が、今は王家の中でも重要な位置に居る。出世欲があった訳ではないが、兄弟姉妹から遠ざけられていた過去に比べ、今は最上の幸福に感じられると、素直な感情を信仰の上に覚ったのだろう。
 そして似た者同士であるセイジにも、妻の語ることは容易に理解できた。
 あれから幾度もティムサ湖の夢を見る。渇望が充足に変わった日のことを。
 けれど目覚めるといつも心は戦慄いている。それを失うことを恐れている。
 いつか全て滅びると言われても、ここでは誰もが耳を塞ぐ。
 川の水は変わらず蕩々と流れ、川岸は常に緑の芦原に覆われ、ナイルに生まれた私達は、皆そのようなものだと信じている。
 否、信じなければあらゆる変化に苦しむからだ。穏やかなエジプトの平和が再来することはなく、一度旅立った者が戻って来ることもない。時が前進し続けることは、人には酷い苦痛を伴うと誰もが暗に感じ、神々の永久なる物語を信じたがっているに過ぎない。
「…そうか…。世の掟の厳しさを逃れる為、我々も、メソポタミアの者達も、生きる希望となる理屈を考え続けているのだな…」
 全て何れは死に滅ぶ。それは星さえ例外ではない。だが生きたいと命が望む限りは、永遠の魂を信じることもできる。朝に生まれ夜に死を迎え、常に再生するラーの教えとはそうしたものだったのかと、セイジは目覚め、確かにシンの言う通り心は落ち着いた。
 今と言う幸福があれば、いつか死の悲しみも訪れると受け止めざるを得ない。知恵者であるトウマや、ナスティ姉は既に知っていたのだろうが。

 ただそれでも私達はずっと恵まれている。何れ幸福な私と妻の残した子供が、新たにエジプトの命を繋いでくれるだろうから。



 --------------------



 不穏の中に小さな明かりを灯しながら、タニスの王朝はその後十数年の時を経る。

 ファラオの侍女が産んだ娘は、四才の誕生日を迎えた頃、ひとまずジュン王子と縁組みされることになった。その後ナスティがもうひとり、シンはふたり子供を産んだが全て女子だった為、その縁組みを変更することはなかった。
 そして重なる心労から、サアメン王が四十才で突然死すると、ジュン王子が十六で急遽プスセンネス二世王として即位した。その直後にシンはもうひとり男子を産んだが、もうそれはエジプトの権勢に関わることはなかった。
 サアメン王の急死の混乱を見て、常に隙を窺っていたリビアがエジプトに大軍勢を向け、タニスの王朝は応戦するも陥落、同時に大司祭国も占領され、上下二国の王朝時代は完全に崩壊した。その際ファラオを守り、軍隊長とシュウもこの世を去った。
 その後エジプトはリビアの支配に取って変わられ、リビア人のファラオ、リビア人のアメン司祭、全てリビア人によるエジプト王朝が建つ。本来侵略した土地の文化は破壊されても仕方ないが、誰かが話していたように、全てを乗っ取った彼等は、豊かで整ったエジプトを欲しがっていたのだろう。王族はその支配に寄り添い、大人しく暮らす時代がまた巡って来た。リビア軍の傭兵であったファラオには、サアメン王の次女が妃として送り出された。
 けれど、変わり行くことを悲しむなかれ。
 一時隆盛を極めたヘブライ王国も、優れた王を失い二国に分裂してしまった。リビア人の王朝はそこにも攻め入り、遂にパレスチナまでを支配下に置いた。同時期にユーフラテス川の中腹で、遂にアッシリア帝国が成立し、エジプトとの新たな対立状態が生まれた。そうして状況は変化して行くものだから、流れが変わるのを待つ時期も必要なのだろう。
 誰の教えか、遠い昔エジプトは住み良い場所ではなかったと言う。殆ど雨の降らぬ土地だった為、ナイルの大河も存在しなかったそうだ。しかし細々と暮らし待ち続ける内に、少しずつ気候が変化し、豊かな水と実りある土地に変わって行った。
 だからエジプトは待つことを厭わない。

 ティムサ湖は今日も静かな夕暮れを迎えていた。
 タニスから離れたこの土地には、人々の騒々しい熱狂は殆ど伝わって来ない。朝夕、辺境の住人が魚を捕りにやって来る以外は、岸辺の葦のさざめく音しか聞こえない。セイジはそこに居を構え、昔シュウが「原始のエジプト」と称した、懐かしい静寂の景色を日々眺めていた。
 リビア人の王朝は大したものだった。シェションクと言うファラオは、元傭兵であるだけに軍略に優れ、国の運営や神殿の管理を全て息子に任すと、自ら軍を率いパレスチナに侵攻した。適材適所の判断に優れた人物のようだった。
 ある頃までは、リビアなどエジプトに遠く及ばぬ、粗野で文明レベルの低い土地だったが、彼等は隣のエジプトの影響を受け、また海運からあらゆるものを吸収し、現代を上手く生き延びる力を蓄えて来た。そんな彼等は、権力を奪われたエジプト王族など、最早脅威ではないと見ているようだ。お陰でジュン王子、プスセンネス二世と妃も、セイジの家系も全て断たれることなく残された。
 しばしばその、息子や娘達がセイジの様子を伺いにここを訪れる。彼には既に孫が十数人居り、もうすぐひ孫が産まれるとの知らせを聞いたところだった。そう、あの、双児の片割れだった長女の娘である。その頃の王朝の悲愴な様子を思い出すと、今は何と穏やかだろうと思うばかりだった。
 長く側近だったアヌビスは、リビアの支配となった直後に自害してしまった。大王母は兄が亡くなる六年前に、老宰相もそのすぐ後に、この結果を見ることなく息を引き取った。何が幸か不幸かは未だ判らないが、過去の価値観を大切に守ろうと、必死に働いていた人々はもうあまり残っていない。
 と、夕陽の揺れる湖面を眺めながら、過去と現在の思いを回想していたセイジの背後に、誰かが近付いて来る足音が聞こえた。稀に現れるエジプト兵のような快活さは無い。彼が振り返ると、のろのろと草地を歩いて来たのは、随分衰えてはいるが懐かしい人物だった。
「こんな所に誰かと思えば」
 そう話し掛けると、昔と変わらぬ口調でトウマは言った。
「こんな所で暮らしている変人が居ると聞いたもので」
「・・・・・・・・」
 実は、セイジは昨年まで、古都メンフィスに近いヘリオポリスに住んでいた。王宮とその周辺に居た王族は、皆その町に住居を移され隠遁したが、トウマは引き続き王朝の役人に登用され、長い間タニスに暮らしていたのだ。遠い町なので滅多に行き来することはなかった。
 そして、昨年セイジは妻を失ったことを期に、僅かな従者を連れてここに移り住んだ。子供達、孫達は反対したが、まだ存命の姉カユラなどは、彼の心境を理解してくれていただろう。ヘリオポリスには守るべき王宮も無ければ、守るべき家も無くなった。子供達は皆それぞれ家庭を持ち、もう誰も親が必要な状況ではない。つまりそこに暮らす理由が無くなっていた。
 寧ろ、体が動くならタニスの近くに移りたいと、床に伏すカユラも思っていることだろう。だからセイジは彼の思い出の地へ行ってしまった。その芦辺には嘗て、彼の願った理想が今も残っている筈だ。王朝も我々も永遠にエジプトに存在するのだと。
 その永遠は今もエジプトの空に輝いている。不滅の魂の象徴であるラーは今日も、そろそろオシリスの姿に変わる頃だ。終焉に燃える夕焼けの空には、既にぼんやり白い月が浮かんでいる。死者を裁く神がそこに居るのだとしたら、消え去った人も皆そこに居るのだろうか、とセイジは思う。
 すると、まるで彼の考えが判ったようにトウマは言った。
「シン様は今は月に居られるのだろう。ご存知でしたか?、『シン』と言う名はメソポタミアの月の神で、太陽神の親だと言うのです」
 一役人であったトウマと違い、行動を制約された元王族には、そんな話を見聞きする機会は勿論無かった。バビロニアの最高神はマルドゥクと言う神だと、以前王宮で彼から聞いたことをセイジは思い出す。しかしその後更に調べると、バビロニア帝国以前のメソポタミアでは、エンリルと言う天地の神が崇拝され、その子が月の神シン、その子が太陽神シャマシュとされていたのをトウマは知った。
 その事実はとても興味深いものだ。星を観察して来たメソポタミアの人々は、太陽より月が格上であると考えていた。それはつまり、我々が生きるこの世界から、最も近い星は月だと知っていたことを意味する。そして遠い物より近い物の方が、及ぼす影響が大きいと考えたのだろう。満ち潮や引き潮は月の力であると。
 そう思うと月とは何と神々しいものか。エジプトで不義の子として生まれた娘に、メソポタミアの神の名を与えたのは皮肉なことだ。結果的に王家の血筋を最も多く残したのは、セイジの家系となったのだから。
 けれど最早セイジの頭に、王家や王朝を繋ぐ意識など無かった。
「今更だな…」
 と、彼は溜め息するように呟き、昇る月の何処か一点を見詰めたままこう続けた。
「私も月へ行きたい。月よりナイルの流れを見下ろしていたい。メソポタミアに行けばそれが叶うのか?」
 しかしそれには、例えメソポタミアに生まれた者でも無理だと、残念な回答をするしかなかった。
「いや、彼の地では人は死ぬと泥土と化すそうで。鼻から人と神は別物なのです」
 またそれを聞くと、死後に永遠の魂を得ると説くエジプトも、崇める神自体が変わったメソポタミアも、セイジには酷く馬鹿馬鹿しく感じられた。神々を人の理想として規範にするのは解る。だが理想上の人物はそれ以上の力を持たぬ為、人は勝手に解釈を変えたりするのだと。ラーがアメン・ラーとなったように。その前はラー・アトゥムと呼ばれていたように。
「神話などどれも、結局ただの方便に過ぎぬと言う訳か…」
 そしてセイジは以前から疑いを向けていたことを、この時初めてトウマに話した。
「…いつかカオス様が、アメン・ラーはエジプトの代弁者だと言った。不滅こそが平穏であると。だが私はどれ程平穏になろうと、死んだ後では意味がないと思う」
 何故なら最も平穏である今現在が、彼には全く幸福ではない。
 つまりアメン・ラー信仰は詭弁だと、彼が感じていた通りになったのだが、それについてはトウマも、口にはしなかったものの常に目を瞑っていた。信仰とは内容の正しさより、そう信じさせることが肝要なものだと知っていた。
「父も恐らく、不滅の魂には疑いを持っていたでしょう。ただ政治的に不滅のエジプトを約束すれば、民が安心するのは確かだったのです。神官長としてそれに徹していたに過ぎません」
 そう話したトウマもまた、ラクダに乗り去って行く父の姿を思い出す。国内問題も外交も複雑で難しい面があるが、アメン・ラーが不滅を約束すると説けば、民が納得するのを父はどう考えていたのか。代わりに人々の苦悩は全て、ファラオと王宮が抱える王朝の在り方を、内心では苦く感じていたに違いない。仕えて来たファラオは神ではなく人間なのだから。
 例えアメン・ラーが不滅でも、歴代のファラオが復活した様子は誰も見ていない。
 手厚くミイラにされた妻も、二度とここには戻って来ないとセイジは思う。
「不滅などあり得ぬ」
 と、彼が行き着いた答を聞くと、トウマも穏やかに頷いて返した。
「だから、アメンの王朝もいつかは滅びるのでしょう…」
 不滅の魂、不滅の国を得たとしても、癒えぬ悲しみがあるなら何の意味も無い。
 セイジも多くの悲しみを味わって来たが、兄であるファラオも姉達も、シンも皆悲運の内にしか生きられなかった。これがアメン・ラーの導く平穏と言うなら、そんなものリビア人にくれてやって良い。
「この芦辺の景色ほど幸福であろうに」
 セイジは岸辺の葦の一筋に手を触れ、その静寂の中に自らエジプトの神を捨てた。



 更にその後、リビア人の王朝が衰退すると、エジプトは四つの王朝の乱立状態を迎え、一度統一されるも、同じく衰退したアッシリアに代わり、力を付けた新バビロニアの攻撃に悩まされる。更に新バビロニアを倒したペルシャが、エジプトを支配する時代が訪れる。その支配は二百年に及んだが、エジプトの民の評判は頗る悪く、後にマケドニアのアレキサンドロス大王が、ペルシャを排除してくれたことを大歓迎する。
 その後三百五十年ほど、マケドニアによる平和な王朝時代は続いたが、御存知の通り、地中海がローマ帝国の支配に飲み込まれて行く中、遂にエジプトの命運は尽き、王朝支配三千年の歴史は潰えることとなる。他国に隷属する体質となっていた王朝支配が、永遠に生き続けることは不可能だった。

 緑の芦辺を育む大河は変わらず流れているが、古き神々はもう何処にも居ない。
 王朝が消え失せた後は、誰もラーの神話を見い出すことはなかった。
 古き人々の望んだ未来は朧に化し、今は砂漠の砂のように散っている。

 そして、何処かから来た新たな教えが世を席巻し始める。
 不滅などあり得ぬと、誰もがまだ直視できぬまま、世界は新たな思想に変わって行った。









総合コメント)
 皆様、この暗い話におつき合い下さりありがとうございます(^ ^;
 元々五人が何らかの失敗をしたり、苦しむ話のシリーズなので、こんなのを読むのは大変だったでしょう。私自身もちょっと辛い創作です。丸一年かけることになったし…

 その上この話は、私のいい加減さからこんなことになった、苦しい経過がありまして。
 わかる方もいると思いますが、ここまでの三作は千年毎に時代を遡っており、その時栄えていた町や集団の話になってます。何故ならトルーパー自体が、バブル期の新宿を舞台にしている為、それに倣い当時栄える集団の苦悩を描くのが、ひとつの目的だったのです。
 よって、当麻編は十字軍の話、秀編はローマ帝国の話なんですが、全て名の無い一般人の視点で書く筈が、王朝の話にせざるを得なくなったと言う。実は当初はモーセ亡き後の、彷徨うヘブライ人を征士編で書く予定だったのに、都合が悪くなり急遽考え直したのよね。
 それが、改めて年表を見たら、ヘブライ人の放浪は紀元前1200〜1100年頃で、200年もズレてる!と気付いた(^ ^;。この辺りの年代を適当に把握してる私が悪いんだけど、まあ200年くらい誤差でいいかと、最初は思ってました。
 けど後々当時の中東の流れを見ると、紀元前1000年頃は色々な転換期で、かなり世界情勢が変わる頃だった為、やっぱり丁度1000年前にした方がいいな、と考えを改めたんです。改めたことで、この時代について少し勉強も必要になり、書き出すのも遅くなってしまいました。

 話の中にある通り、当時は今のイスラエル、ヘブライ王国のソロモン王が名に聞こえる時代ではあるけど、ヘブライ王国自体は小さい国なので、過去からの流れでまだ一番富を蓄えていたのは、やっぱりエジプトだったと思います。
 そういう訳でエジプトの話にしたけど、紀元前のエジプトの一般人の話なんて、正直何を書いていいかわからない。多分あまり大したことは考えてないんですよ(苦笑)。王族と聖職者の力が凄すぎて、国民は寄り掛かって生きてるだけだし、それで平和だった国なので。
 となると結局、末期王朝の苦悩を書くしかなくなり、こんなダラダラ長い話になったんです。何か事を書こうとすると、年代に合うかいちいち本やネットを調べるのも、この手の話は時間がかかってしょうがない。と、言い訳も長くてすみませんわ…

 まあでもエジプトの特殊性を話にするのは、面白かったからそこは良し。いや悲惨な話ではあるけど、美しい夫婦愛、家族愛、身分を越えた友情、そんなものが書けて良かったです。
 また、エジプトの本、中東の歴史に関する本は何冊も持ってるけど、これじゃ駄目だと感じた点を、そこそこ正しく書けたのも良かった。皆様も感じていると思うけど、歴史って変わるんですよ。最新の研究で判って来たエジプト観を、紹介した本を新たに買って来た為、改めて勉強できて幸いです。
 最新情報はネットにあるし、タダだからそれだけでいい、なんて考えてると実はあまり使えないことも、検索してみると判りますね。書きたい話の為に必要な情報がほしい、と言うだけだから、学術的な細かな文書は必要ないし、何よりネットは文字情報ばかりで図版が少ない。文だけ読んでもイメージが掴めないことが多く、元々かなり詳しい人じゃないと厳しい。
 そこでやっぱり、写真や図版が多く、エジプト文明全体の流れが簡潔に判る、適当な本を一冊探さねば、と言う所から始めたんですが、偶然すごく丁度いい本を見付けられたので、エジプトを描くこと自体はすごく面白かった。学研さんありがとう(´`;

 但し、こんな重い内容になったことで、後の予定を若干変更することにしました。「タイムテーブル」の下部にある、鎧伝シリーズの流れも合わせて変えました。
 元は征士の夢までで一旦切って、未来編の一部を書いた後、伸の夢を書くつもりだったけど、先に書くことにしました。伸だけ後に書こうと考えたのは、ここまで千年毎に遡って来た時代が、一気に五千年くらい遡る為、かなり時代が離れるのを表現しようと思ってたのね。
 でも絶望的に終わったまま、後を続けるのが自分で辛くなっており…。結果、いきなり大跳躍するけど、伸の見た夢を先に書いちゃうことにしました。ついでに補足すると、遼の見た夢は数十億年遡るので勿論書きません(つーか書けません)。

 以上の説明でわかる通り、次の伸編はそこまで重い話じゃないし、多分一番短いので、肩の力を抜いてお楽しみいただければと思います。と、くそ真面目に書いたけど、要はこの話が精神的にキツ過ぎる!、と言うことですわ(^ ^;。後で何故こんな話を書いたか、わかる話も勿論用意があるので、まあ来年中に種明かししようと考えてます。
 多分あまり引っ張らない方が、読者の皆様にも精神的に良いですよね(´ `;
 あ、精神的に良いか悪いかと言えば、こんな夢を見させられた征士は可哀想ですな(苦笑)。きっとすごく魘されたと思います…



一応参考文献)
地中海世界地図・古代文明の遺産(東光書店)※「青いサンクチュアリ」でも使用
ゼロからわかる古代エジプト(学研)
世界美術3・エジプト(講談社)
エアリアガイド149・エジプト(昭文社)
FUN BOOK ANCIENT EGYPT(大英博物館発行)
シュメル・人類最古の文明(中公新書)
バビロニア・われらの文明の始まり(創元社)
ギルガメシュ叙事詩(ちくま学芸文庫)
地球の歩き方・イラン/ペルシアの旅(ダイヤモンド社)
地球の歩き方・イスラエル(ダイヤモンド社)
聖書・新訳版(日本聖書刊行会)
聖書の世界(新潮社)
週刊聖書(なあぷる)
エジプトに関するテレビ特番(NHK、TBS、ヒストリーチャンネル)



BACK TO 先頭