悲しみと変化
ナイルと緑の芦辺
#8
The River Flow



 寝所を遠く離れると、使用人達のざわめきも、不安な死の映像も着いては来ない。
 ふたりは中庭をふたつほど挟んだ、来客用の部屋にひとまず落ち着いた。まだ太陽の昇り切らぬ午前の、澄んだ空気が浅い草原を包んで居た。
 このタニスの都は、テーベやギザに比べ比較的緑が多い。ナイルデルタの水の恩恵を受け、淡い緑の低木や雑草が、町のあちらこちらに見られるように、王宮や王族の住まいの庭にも、瑞々しく心休まる景色を見ることができる。草木は根源的な命の糧。聖牛アピスも草が無ければ命を繋げまい。無論人間に取っても単に養分と言うだけでなく、乾いた心を癒してくれるものだ。
 庭に蔓延る草花は一見、自然に自由に生えているようにも見えるが、当然使用人が手を入れ、それなりに整えられた姿である。セイジは窓に広がる緑を見詰め、例え植物でも、安全に繁栄する為には何らかの干渉が必要であり、真の自由は苦悩と孤独であると感じた。単純な植物でさえそうなのだから、人間がそれ以上に悩むのは当たり前だと。
 考えが足りないつもりは無かったが、大変な過ちを犯すところだった。
 結果的にジュン王子を殺さずに済んで幸いだが、状況に拠りまた同じ機会は巡って来る。またアヌビスが同じ事を言い出すに違いない。その時己は、また同じ事を繰り返すのかと恐ろしくもなる。
 何故なら、今もまだ悲劇に騒いでいるだろう、寝所に集まる女達の嘆き叫ぶ中、シンは淡々として態度を変えずに居た。今、この部屋に導いてくれた妻は、同じ窓辺の椅子に座り、同じ庭の景色を見ながらただ黙っている。恐らく己が事態の艱難を見るより、混迷に満ちた王家の暗影を妻は見ている。自ら決定できる事は何も無い、流れに翻弄される立場の彼女は、蜜蝋で覆われたような硬い表情のままだ。
 起きた事に対し、他に例えられぬ感情が確かに私達には存在する。それをどうして良いかも判らない。ただセイジはその内の、ごく端的な気持にだけは働き掛けた。
「悲しみを、我慢しなくとも良い。我々とて数多く産まれた子供の中から、運良く生き延びられたに過ぎぬ」
 彼は言った。王族に生まれようと平均寿命の短さは、この時代には変えようのないことだ。そこで一番に思い出されるのが、彼にもシンにも深い関わりのあった人のこと。
「貴女の姉君も同じだ、弱き者は永らえられぬと言うだけだ」
 セイジがそう続けると、それまで止まっていたシンの、肘掛けに掛かる手がやんわりとそれを握り、懐かしい姉の面影に何かを感じたようだった。
「…はい…」
 体の弱かった姉は、このセイジの妃になることなく旅立った。命を確と留められない、柔な器を与えられる者はしばしば存在し、多くの人はそれを不運だと言う。だが果たしてそうだろうか?。死はアメン・ラーの国への入口である。永久の安楽と言う幸福の始まりである。寧ろ不運なのは後に残った者の方ではないか。この通り私達は、死んで行く者にこんなに傷付いていると。
 生後数日で息を引き取った子供も、その亡骸は葬祭神官に預けられ、王族の一員として最上の呪文を伴うミイラにされ、神々と並ぶ魂の国へと送られる。けれど私達に刻まれた悲しみは、残され生き続ける限り終わることはないと、言葉として考えると、シンの見開いた瞳から一筋涙が伝った。
 そんな妻の変化を見て取ると、生死の不条理に最も悩む身であるセイジは、常に気に掛けている人々のことも語った。
「ファラオと王妃の苦悩に比べれば、我々はまだ恵まれているのだと思う。王家に限らず、国民を失望させるまでの責任は負わずに居られるのだから」
 既にシン目から溢れ出る涙は、止まらなくなっていたが、妻としてセイジの話に充分な理解を示すよう、返事する語気はより強くなった。
「そうですね…」
 特に王妃、カユラの心の内には、どれ程苦痛が溜め込まれているかを思うと、迂闊なことは話せないと常々気遣ってもいる。ファラオの実子が産まれぬ事実が、どれ程彼女を追い詰めているか知れない。同じ兄妹での結婚でありながら、せめて状況が逆ならとシンは思うことがあった。
 来るも去るも命は気紛れだ。それはアメン・ラーの齎す恩恵でもある。つまり私達が苦しみ生きることも、神々の望む人生だと受け入れる他に無い。後には必ず何らかの酬いがあると信じて…
 そこでセイジがふと、
「結果は誰のせいでもない。いや、強いて言えば私が冥界の神だからかな」
 皮肉混じりの薄笑いを見せ、一際大きな溜息を吐いて見せた。恐らく本人は妻の負担を軽くしようと、そんなことを言ったのだろうが、彼はまだ相手の感情の一部を把握していなかった。死を裁く神と陰口されることに、慣れてしまった面もあるのだろう。
 それまで相槌のような言葉しか発しなかったシンが、そこで思わぬことをセイジに伝えた。
「何処か、ホッとされていますでしょう?」
「・・・・・・・・」
 正にその通りだと見抜かれている。彼は一度息を飲んだが、決して責めているようではない妻の口調に、再び落ち着いてその意味を知ることができた。
「そのお心わかります…。私は、望まれない子が可哀想で泣いているのです。私に取っても重荷でしたから、私のせいでもあるのでしょう」
「そんなことは…」
「どうか、御身だけが悪であると、お考えになられませんように。…セイジ様がオシリス神なら、私はイシス女神となり、生と死を操る魔の使いとなりますから。良からぬ命は奪いも致します…」
 シンの案じることは、王家に必要な男児の消失ではなかった。それによる周囲への影響でもなかった。過ぎたことは仕方ないと既に飲み込んでいる。寧ろその上で、彼女はセイジの立場の虚ろな様子を、最も悲しんでいるようだった。
 不義に因り生まれた自身とは違う、後ろ暗い背景を持たぬ筈の王子が、何故自ら悪運を呼び込む存在と考えるようになったのか。己を低く悪しく捉えれば、自ずといじけた精神で生きるようになる。人の上に立つ地位を持ち、見た目は大層立派に振舞っているからこそ、その双方の乖離が彼を苦しめていると、シンには判ったようなのだ。何故なら王宮に来てからの彼女も同じだからだ。
 出来事は違えど、ふたりは似た経験を辿って生きて来た。そして誰かの死に拠り引き合わされた者同士だ。ならばこれからも、夫妻である前に同胞として、人の生死を見続けて行くしかないかも知れない。その例えとしてセイジがオシリスであるなら、己はその妻のイシスであると言った。イシスは殺されたオシリスを二度復活させ、冥界の王へとのし上げた魔術の女神である。
 そのように、自分もまた死に関わる立場だと話すのは、セイジの心の孤立を解きたかったからなのだ。例え僅かでも理解者は傍に居る、決して「死の王子」として生まれた訳ではないと。
 珍しく強い意思を見せた妻の顔に、もう新たに流れ出すものは無かった。その真摯に見詰める緑の瞳を、セイジもまた真直ぐに見詰め返して言った。
「尊い人よ、全て私に合わせてくれると言うのか?」
「それがナイルの意思ならば。私達はナイルの葦なのですから」
 ふたりの周囲に、幻のようにティムサ湖の静かな景色が広がる。シンはあの朝の約束を忘れていなかった。そして今度はセイジが瞳を曇らす番だった。
「そう…、我々はただ水辺に生きていると言うだけだ。富と争いは常に共に在ると、古より知りながら平和を築いて来た一族だ」
 エジプト王家に生まれた者として、この国を守りたいと純粋に願って来た。ファラオとなる兄を助けたいと願っていただけの、少年時代の思いが何故か歪められてしまった。そんな己の存在が、周囲の平和を乱しているのではないかと、思い当たる毎に彼は苦しむ。けれどそれを聞いてシンは、
「物事は全て小さな事から、と申します。せめて私達だけは平和でありましょう?」
 と優しく諭した。その言葉は湖面を照らす淡い朝日のように、傷付いたセイジの心を包み、彼は妻に寄り添って姑くそのままでいた。
「ああ…。私達は風に揺れる葦に過ぎぬ…」
「祈りましょう。幼子の魂が神々の元へ無事昇れますように」
 死は幸福だろうか。否、誰も単純にそう信じてはいない。
 エジプトの信仰には不条理も感じるが、生きることにも常に不条理は存在する。ただそれを語り合い、同じ理解を共有できる人が居るなら、それこそ望める限りの人の幸福かも知れない。ふたりは重なる不運の中で、最も貴重な幸運を掴まえることができた。ならばもうひとつひとつ、細かな事に躓くこともないだろう…。



 セイジの家系に吉凶が訪れた日より、ひと月ほど経つ頃の王宮は、またひとつの問題解決の為に活気を帯びていた。早朝にはタニスの神殿に、王朝の神官全てが集いアメン・ラーへの祈りを捧げた。殊に熱意を持って祝詞を捧げる司祭長、カオスが望むことはただひとつ。大司祭国の頑な態度を解き、神々の名に於いて愚行をさせぬことだけだ。
 その集会が明け、それぞれの場所に神官達が戻って行く時、再び司祭長代理を務めるラジュラから、驚くべきことをアヌビスは聞いた。
「今何と申した…!?」
「大声を上げるでない。カオス様が再び出立される、今は大事な時だから伏せているが、どうやらナスティ様が御懐妊あそばされたようだと」
「・・・・・・・・」
 まさかと思った。否、あり得ない事ではなかったが、ファラオの性格を考えれば、余程逼迫した事情でもない限り、王妃以外の女が子を為すとは思わなかった。ともすれば誰か、大王母か他の誰かが説得したのかも知れないと、予想外の展開にアヌビスは青褪める。
 彼は知らぬことだが、それを頼んだのは他でもない王妃自身だ。まだ男か女か、無事生まれて来るかも定かでない時だが、実を結べば確実に現状は変わると、彼の表情は一際鋭くなって行った。決してファラオの家系を憎む訳ではないが、彼の望む理想的な後継者を立てることは、難しくなるかも知れない。
 それだけでなく、要らぬ王族同士の争いを招くかも知れない。弟はこの後幾人も家族を増やすだろうが、これまで断たれていた兄の家系が、今後広がるとすればどうなるだろう。周辺国への情勢が悪いだけに、アヌビスにはとても朗報には聞こえなかった。

 ただ襲い来る不安を感じる。
 
「トウマ」
 王宮の議場である広間に、宰相や大臣などいつもの面々が集まる中、ファラオが彼の話を聞こうと呼ぶと、何故だか反応が無かった。ファラオはその方を向き不思議そうな顔をしたが、集う人々も皆、普段の彼らしからぬ様子を見て目を丸くする。
 若くして王宮に取り立てられた非凡な青年。ある面では正に司祭長の血を引いているのだろう、何が起ころうと常に動じることがない。だが、今は何かを深く考え込んでいるようだった。
「トウマ?」
 今一度ファラオが呼び掛けると、今度は気付いて頭を上げたが、咄嗟に作ったような顔を見せたのが些か面白かった。
「あ、はい、何でしょうサアメン王様」
「お主も思案に耽ることがあるのだな。何か気掛かりなことでもあるか?」
「ええ…、無論今後の展開を考えておりますから」
 不謹慎だったと慌てる風でもない彼は、言葉通り何らかの思索に耽っていたのだろう。それだけ大司祭国の扱いは難しい、六代のファラオが治める八十年に及び、ひとつに戻ることのなかった隣国ゆえ、と、ファラオは良心的に彼の返答を受け取った。だがラジュラはそこでひとつ思い付き、これから議論の始まる場を温めようとこう話す。
「全く珍しいことですな。カオス様が大司祭国へ出発された折、久方ぶりに彼も参列しておりましたが、その際お父上に何か釘を差されたのでは」
 するとトウマは、カオスから見て不肖の息子であるのは認めており、その時は多少戯けたように返した。
「父上のお怒りはいつものことです」
「ハハ…」
 彼の態度に合わせ会衆も穏やかに笑っていた。
 けれど彼の中の現実はそうではなかった。実際ラジュラの指摘したことは正しい。普段なら遠方に出向こうが、自分を呼び寄せることなどなかった父が、何故か今回は出国に立合うよう伝令して来た。無論己の立場が変わったせいで、伝えておきたいことも出て来たのだろう。だがその通常とは違う出来事が、何やら暗示的で頭から離れないのだ。
「トウマ」
 と、既に隊列を組まれたラクダに乗り、もう今動き出そうとする所で突然呼び掛けられ、彼は驚きと共に目を見開いた。
「はい…?」
 日除けのネメスの下に、陰となったカオスの表情はよく判らなかったが、トウマには何故かその時父の感情が見えた。滅多に個人的意思を表さぬ司祭長の、声の波動、発する空気からは、何処か悲愴に暮れたような決意が感じられた。そして彼の伝えた話はこんな内容だった。
「呉々も性急に事を運んではならぬぞ。愈々と言う時までファラオを動かしてはならぬ。お前は頭の良い倅だから解るだろうが、今王朝の命運は尽きかけている。サアメン王の代は堪えられるだろうが、その後はどうなるか知れぬ情勢だ。その時、最も大切にすべきは、王の治世が後に過ちと言われぬよう計らうことだ。王家の失態と見られることは決して冒さぬよう、熟慮するのが我々の役目である。肝に命じておきなさい」
 後の世に、我々が去った後の世にも、歴代のファラオの正当性を伝える為に。永らえるエジプトの善き伝統を伝える為に。
「…はい…」
 トウマはそこで初めて、父がそんなことを考えながら、神官として王家に仕えていたことを知る。神官と言う立場であれば、本来なら何よりアメン・ラーを重んじ、神々の力や知恵を広めようとするものではないか。だのに、聞いてみれば自身の考えと特に違う所は無かった。父は前の大オソルコン王と、現在のサアメン王に見られるエジプトらしい善意を、何より尊んでいるのだろうと知る。
 神そのものより、神の知恵を正しく使えるファラオが必要なのだ。そう導いてこそ本来のエジプト神官の在り方だと、トウマはこれまで見えなかった真実をも知る。
 何故父は、そう易しく話してくれなかったのだろう?。何故この時になって話したのだろう?。彼の胸にチクリと不可解な予感が過る。そして予感とは大概当たるものだ。
「お頼み申すカオス様、どうか御無事で。良き知らせをお待ちしております」
 ラクダの手綱を従者が手放すと、彼は変わらぬ司祭長の姿に戻り、何事も無かったように淡々とその場を後にした。
「我がエジプトに幸あらんことを」
 見送る人々が聞いた彼の言葉は、よく耳にする普通の挨拶に過ぎなかったが、トウマには酷く特別なものに聞こえた。よもや、ともすれば、まさか、と、嫌な想像が一瞬の内に頭を走り抜けて行った。
「父上…」
 若しくは、これが最後となるのではないかと。

 トウマはだから、これまでのように捲し立てることはできずにいた。少なくとも大司祭国との交渉の、結果を見るまでは何も動かさぬ方が良いと、カオスの意思を尊重する気分になっている。彼自身は神官のような恭順を理想としないが、それぞれ違う立場の誰しもが、正常な王朝を維持したいのは同じと覚ることもできた。エジプトの為、ファラオの為。
「今は、大司祭国の出方を待つしかないところです。状況に理解を求め、懐柔できなければ我々が窮地に、刃向かえばエジプトそのものが窮地に立つかも知れません」
 トウマがそう話すと、ファラオもその顛末を見据えながら頷いた。
「そう…、分かれたふたつのエジプトが、これまでは争うことなく並立できていたが、このままで居られるかは読めぬ。向こうの要求を飲もうとも飲まずとも失う物がある。そこからもし、我々が他国に蹂躙されることあらば、一気に全て滅びる可能性もある…」
「そう思います、サアメン王様」
 強力な信仰と豊かさに裏打ちされた治世。天から与えられたホルスの片翼を欠き、エジプトは恐らく理想的に羽搏けなくなるだろう。
 この日の議会はそんな、国の最悪を想定した重苦しい話から始まった。



 しかし不安のひとつは、悩める王族に微かな明かりを灯してくれる。
 慎重に医師に確認させたところ、王妃の侍女は間違いなく身籠っていると伝えられた。王族も国民も知ることだが、侍女と言えどもナスティは、前王の弟の娘と言う良血の従兄弟である。また経産婦でもある為、恐らくその子供は無事生まれ来るだろうと、誰にも安心を感じさせた。これまでひとつだけ不足を残していた、サアメン王の柱が漸く磐石となりそうだ。それはとても喜ばしい知らせだった。
 知らせを受けると早速セイジは、祝いの言葉を伝えに王宮に上がる。彼に取っても、彼の妻に取ってもそれは、重過ぎた荷を下ろせる吉報だった為、彼は久し振りに心から、明るく喜び勇んで広間に参上していた。
「おめでとうございます、兄上」
 そう言って仰々しく畏まる弟を見ると、
「ああ…、セイジにはやや心苦しい話でもある。まだ喪が明けておらぬと言うのに」
 ファラオは先ずそう声を掛け、意外に細やかに相手の心情を気遣った。単純に、まだふた月前の出来事であり、国民を含め残念な気分を引き摺る今だが、それよりファラオは、過去に二度似たような経験をした為、弟に対する周囲の変化を心配したようだ。
 どちらかと言えばセイジの方が傷が深かろう。ファラオの場合は二度共生まれる以前で、周囲の期待もそこまで膨らむ前だった。一度世継ぎとなれる男子が生まれたと、国民に知らせてしまった以上、その悲しみは広く波及せざるを得ない。結局嫌な事ばかり起こす王子だと、また言われはしないかと、不運な弟の立場を案じて不思議ではなかった。
 けれどセイジはもう、周囲が何を囁こうと気にせず居られる、人生の最良の時期を迎えていた為、ファラオのそんな気遣いは無用だった。寧ろ前途の通り、序列のまま兄が男子を授かれば、彼には何より幸いな状況だ。
「いえ、今が喪であることの方が申し訳ない気持です、兄上。ファラオは王家の中心なのですから」
 彼は気持良くそう言葉を列ねた。ところがどうも、ファラオは始めからあまり反応が良ろしくない。王妃を気に掛けているのだろうか、或いは周囲の賑々しい様子が落ち着かないのか。
「それより兄上の方が…、あまりご関心が向かないようですが?。姉上は例え侍女の子供でも、大層お喜びだと聞いております」
 とセイジが続けると、ファラオは実に彼らしいことを言った。
「そうだな…。余が赤子を産む訳ではない、どうも絵空事のようだ」
 何とも正直な感覚だと、セイジは内心笑ってしまったが、横に立つラジュラには笑うに笑えぬ話だった。暫く不在だったセイジは、過去のファラオがどうだったかを無論知らない。実は王妃に二度その機会があった時も、殆ど関心を示さなかったのだ。恐らくサアメン王は個人的な事より、エジプト国民の王であることを念頭に生きているのだろう。
 それは素晴しいことだけれども、些か王妃や侍女が不憫に思える。
「王はいつもそんな様子ですな」
「実感のないものを信じることは難しいのだ」
 ラジュラの問い掛けにも、誠実さに於いてファラオは何ら変わらぬと、改めて示したようなものだった。まあもし無事に子供が生まれれば、その時は何らかの実感も生じるだろうが、今のところ経験のない事には、これと言う感情は湧かぬとファラオは話す。では、
「セイジ様もそうでしたか?」
 と、ラジュラがその矛先をセイジに向け、王家の男子は通常そんなものかと問い掛ける。別段人格を試される場面でもないが、突然の話に彼は少し慌てた。
 確かにファラオの言うことは一理ある。男子に取ってこのようなことは因果のみ、途中経過は知りようがないとも言える。ただセイジはもう少し関心は持っていた。ファラオほど公務に忙しくないこともあり、日に日に目立って大きくなる、妻の腹部を観察する余裕があったようだ。それについて、
「いや私は…」
 と、彼が反意を示そうとした時だった。慌ただしく広間に駆け込んで来た老宰相が、
「事が起こりましたぞ!、王!」
 息を切らせながら集まる人々に伝えた。
「何事だ?」
「地中海の、ブールサイードの辺りから、武装集団が上陸していると今…!」
 その時、議場の広間に居合わせたのはセイジとラジュラ、税制関連の行政官と数人のはした女のみで、多くは昼食後の休憩をしている所だった。急いで防衛に当たらねばならぬ時、肝心の軍隊長も、知恵者のトウマやカオスも不在なのは酷く心許ない。しかし、
「して戦況は!?」
 こんな時こそファラオは立ち上がり、自ら陣頭指揮を取る意気込みを見せた。他に誰も居なくとも、エジプトは己が守ると彼の漆黒の瞳が訴えていた。全くファラオはファラオ以外のものではない、最早跡継ぎのことなどで、彼に余計な思考をさせてはいけないと、セイジにもラジュラにも思わせる場面だった。サアメン王はかのラメセス二世王のようであると。
 ところがファラオの気迫に対し、事態はそこまで心配されるものではなかった。
「まだ沿岸の兵が持ち堪えているとの話ですが、ただ、軍隊長の機転で隣のサイスに居た、百人隊長のムカラの軍を向かわせたそうです。後は戦況を見てこちらからも援軍を出すとのこと」
 どうやら軍隊長は、食事中にでもその知らせを受け、すぐさま現地に兵を送ったようだ。頼もしい家臣達のお陰で、ファラオ自ら動く必要はなさそうだった。
「わかった、数はそう多くないようだな?」
「そのようです」
 落ち着いた声色に戻し、ファラオがそう見解を話すと宰相も頷く。沿岸の警備兵は凡そ百人程度、それに百人の兵を加えるだけで鎮圧できると、軍隊長が判断したなら、敵もせいぜい百人程度だろうと予測できた。けれどそんな小部隊が何をしに来たのか。エジプトを攻め落とすには数が少な過ぎると、ファラオは暫し黙して考えている。その横でセイジが宰相に、
「海の民の残党だろう。少数なら地の利のある我々は負けはしない」
 と話した。彼はペトラを行き交うベドウィンなどから、嘗ての海の民がどうなったか、様々な話を耳にしていた。海の民と呼ばれる地中海人の大移動は、今から二百五十年ほど前に始まり、二百年前にも大規模な民族移動があったと言う。前王朝のラメセス三世王の時代、その防戦に酷く疲弊したエジプトは、みるみる国力が衰え、そこから国が二分されるまでに至ったのだ。
 彼等は当時、大船団を組んで地中海を渡って来たと言う。エジプトだけでなくパレスチナ、メソポタミア、アラビアの各地に彼等は侵入し、帰ることなくそのまま居着いているそうだ。その混乱の中、鉄器の鋳造に優れた大国ヒッタイトも滅ぼされる。エーゲ海の小さな島々の住人が、何故そこまでの武力を持っていたのか、今となっては判らぬ話だが、得体が知れないだけに脅威でもあった。
 彼等は何を目的に移動して来るのだろうと。
「どう思う、セイジ?」
 ファラオが尋ねるので、セイジは知る限りの知識で現状を考える。
「恐らく彼等の内の多数は、今最も活気のあるアッシリアに向かったのではないかと。まだ帝国は成立していませんから、うまくすれば国民として受け入れられる可能性もあります」
 それを聞くと、まるで要らない物を捨て、ほしい物を新たに手に入れるだけの、安易な流浪のようにも聞こえたが、地中海人である自負をも捨て、アッシリア人になりたいとさえ思うのは、余程のことだとファラオも察することができた。
「ふむ…、海の民とは言え、定住する土地は必要なのだな」
 その通り、人は地面の上でしか暮らせない。動植物を採取できなければ生きられない。彼等は最早生き延びられぬと判断し、彼等の土地を手放したのだろうと思えた。それについて宰相も尋ねる。
「盗人集団だと聞いておりましたが、敵には敵の事情があると言うことですか」
「ええ、私が聞いた話では、彼等の生まれたエーゲ海の島々とは、それぞれとても小さく、元より食糧難の起きやすい場所だと。何故そんな所に暮らそうと考えたのか、発祥はよく判りませんが」
「ですなぁ…」
 つまりよくある侵略戦争ではない。他国の土地を奪うことはあれど、その富を母国に持ち帰る訳ではない。彼等は単純に住み良い土地を探しているようだ。ただ、民族ごと大移動を始めた背景については、意外にファラオが的確な予想をしてみせた。
「ひとつ言えるのは、四方を海で囲まれていれば、敵に攻められ難い利点がある」
 成程、島の利点は間違いなくそうだとセイジも頷く。但し狭い島で集団が暮らすのは難しい。過去に彼等がそれを選択したとしたら、理由はひとつのような気がした。
「確かに、防衛を取って窮屈な島に住んだのかも知れません。我々はそうは行きませんから」
 海の民は何かの脅威に晒されて来た人々、だったのだろう。二千年の昔から大国として君臨する、エジプトとは物の見方が正反対ほどに違う、と言っても過言ではないかも知れない。だから彼等は理解し難い集団なのだと、一層考えを進めたところでファラオは言った。
「宰相、軍隊長に伝令してくれ、余裕があればリビア国境と、シナイの監視も充分するように。これに乗じて攻め入られることは絶対にならぬ」
「は!、直ちに伝えます」
 ファラオの考えは、海の民は今後も少しずつ現れる可能性があるが、脅威とすべきは彼等でなく、それに加担する他国の軍だと、非常に的確なものだった。特にリビアは過去に同様の事をしており、以降ずっとエジプトを悩ます隣国である。宰相もその監視の重要性をすぐ理解すると、老体に鞭打ち、また足早に広間を出て行った。恐らく今回の小部隊の侵入は、リビア人の耳には届いていないと思われるが…。
 すると、丁度入れ替わるようにトウマがやって来て、
「慌ただしくなりましたな、どうしましたか?」
 一度宰相を振り返るとそう挨拶した。その顔を見ると、ファラオは待ちかねたように早速質問を投げ掛けていた。
「トウマ、お主は海の民の素性を何か知っているか?。南下して来る以前のことを」
 するとさすがに勉強家な彼は、充分な情報をファラオ兄弟に話し聞かせる。
「ああ、彼等の元はバルカンやアシアの人々ですよ。周囲のマケドニアやトラキア、アカイア、ガラティアのヒッタイトなどが軍事的に対立する為に、追い出された人々が無数の小島に散ったのが始まりです」
 この頃バルカン半島は、マケドニアやトラキアが中心だったが、もう少し後にはアカイアのギリシャが栄えることになる。同時にガラティアには多数の王国が成立する。エジプトに近いパレスチナも戦が絶えぬが、地中海の向こうでも争いの絶えぬ時代になっていた。
「やはりな。元々人の住みやすい島ではないと」
 と、セイジが話に納得の意を示すと、トウマはその環境の厳しさをも説明できた。
「そうですとも。耕作面積は乏しく、飲み水にも苦労するでしょう。また島同士はかなり離れていますから、交易にも時間がかかる。天候が悪いだけで飢え死にし兼ねない場所です」
 するとファラオも、彼等の意識をだいぶ理解したように溜息を吐いた。
「彼等も必死な訳だ…」
「はい。それゆえ前王朝は防戦に苦しんだのです。生きるか死ぬかの必死さに対抗するには、当時の王朝は穏やか過ぎたかも知れません」
 トウマの話は、耳を傾けるふたりにもよく解った。確かに過去のエジプトの知らない理屈かも知れないと。
「国を維持する為には、民が幸福であることが最も大切だと聞かされて来た。だが国を導く者は、大らかでは他国の侵略を許すことになる。難しい話だ」
 ファラオは僅かな悲しみを含ませそう言った。その意味するところは、国民の幸福の為に、王族や州候など上に立つ者は常に悩む、と、世の理不尽への疑いでもあっただろう。古代エジプトの大ピラミッドの壮大さ、ラメセス二世王の大遠征時代の栄光、それらが確と存在する頃は、少なくとも現在より明るい王宮が、穏やかなエジプトを育んでいられたのだと思う。
 現在に生まれたと言うだけで、我々はとんだ貧乏くじを引いてしまった。古き善き国を守る教えだけはあれど、神々が遠くなってはどうしようもない。アメン・ラーはエジプトをどうしたいのやら、と、心の内でファラオが不満に思う事が、話すふたりにも伝わっていた。
「前王朝は、ラメセス二世王の名声に寄り添い、歴代ファラオは皆ラメセスの名を持っています。思うに、前時代的考えを切り替えられなかったのでは」
 セイジが返すと、トウマも同意してファラオにはこう伝えた。
「セイジ様の仰る通りだと。それだけに今王朝は、新たな形を模索しているのですから」
 そしてファラオも、
「そう、オソルコン王もそれは強く意識されていた…」
 過去の父や祖父の、日々慌ただしく過ごす姿を思い出していた。ファラオが幼少の頃に、祖父であるアメンエムオペト王は旅立ったが、その前も、その前も、今王朝を開いたスメンデス一世も、誰にもラメセスの名は継承させなかった。如何に偉大な王だったにせよ、もうその名は通用しないと覚ったからなのだ。
 しかしエジプトの伝統と文化は守られ続けている。
 我々は海の民のように身軽にはなれぬ。エジプトの巨体を生かす為には、新しい何かがどうしても必要だ。と、ファラオは改めて己のすべき事を考え始めていた。



 海の民の残党、と思しき集団は、それから程なくして鎮圧されたと報告が入った。大部隊ではない為、そこまでピリピリする状況ではなかったが、事なきを得ると王宮に集まる人々も、皆一様に安堵の様子を見せていた。この程度の事は日常茶飯とは言え、何が切っ掛けで致命的事態になるやも知れぬ。誰もが今の世界情勢は悩ましく思う中だ。
「ひとまず安心致しました、軍隊長の機転のお陰です」
 宰相がファラオに報告すると、彼はまずその軍隊長を労った。
「よくやった、初動が早かったことが、この度何よりの勝因だと思う。素晴しい働きであったぞ」
「ありがとうございます、サアメン王様」
 真面目で実直な軍隊長は、深く膝を折りファラオに敬意を示す。現王朝のサアメン王に対しては、特に不満を持つ家臣もおらず、カオスの伝えた通り、持ち堪えられる体制が感じられるとトウマは思う。けれどこの強く公正な王がこの世を去る頃、充分な資質を備えた人物が居なければ、複雑化した世界をどう永らえられるか、酷く難しいことも容易に想像ができた。
 今王宮の為に働く、有能な家臣達も時と共に入れ替わって行く。神官長、宰相、軍隊長、皆それぞれある程度高齢でもある。またファラオの補佐として、動ける王族の男子はセイジしか居ない。盲の兄君はともかく、今更だがシンの前夫、ファラオの従兄弟であるナアザや、ナスティの前夫で、ファラオのまた従兄弟に当たるシュテンなど、同世代の男子を相次いで失った、王族の末期的苦悩も忍ばれた。
 そんな結果を招いたのも、エジプトが常に他国に狙われる状態であり、細かな事まで防衛し切れない現実の顕われだ。嘗ての力が確と存在するなら、直系に繋がる王族が、危険な場所に赴くことはそう無かったであろうに、と思う。
 もう中心的王家の傍には、これと言って能力のある人物が存在しない。トウマは今後、豪族や州候の家系を頼るしかないかも知れぬ、と考えていたところだったが…
「百人隊長のムカラが、大変良い働きをする若者で、軍としては幸いなことです」
 ファラオと話す軍隊長が、続けて以前にも武功を挙げた一兵士について語ると、それには誰もが目を細めて聞き入った。
「そのムカラと言う者、相当戦略に優れた人物らしいな。どうであろう軍隊長、お主の判断が許すなら、タニスの主力部隊の千人隊長に引き上げてはどうか」
「ええ、まだ多少若過ぎる嫌いはありますが、考えには入れております」
「うむ。防衛は現在何より重要なことゆえ、力ある人物をよく集めるように」
「は」
 エジプト軍全体から言えば些細な人事だが、小競り合いの後の喜ばしい報告に、会衆の空気もより明るくなっていた。後のエジプトを守って行ける人材が、若い世代にもそれなりに見られるなら、過去のような大国の権勢は戻らなくとも、国を存続して行けるだろうと誰もが考える。とにかく今は高望みせず、現状維持と内部改革を進める時期なのだ。
 どうかこの偉大なエジプトの伝統を、後に繋げられますように。王朝は幾度も成立と崩壊を繰り返したが、エジプトは常にナイルの葦のように再生するのだから。

 ところがその和やかな場に、普段は居ないある人物が顔を見せた。
「どうかしたのか、アヌビス」
 セイジが気付いてそう声を掛けるが、彼は何やら深刻そうな顔でファラオに向いている。セイジ付きの神官である為、ファラオと直接話すことは殆ど無かったが、どうも今はそれ相当の事情を抱えているようだ。何か伝えたいことがあるのだろうと、ラジュラが配慮し、彼が話し易いよう場を促した。
「何か気掛かりな事があるようです。アヌビス、今ならファラオもお耳を貸して下さりますぞ」
 すると彼は一神官らしく畏まり、初めてファラオに報告らしい報告をした。
「…私は先程、ブールサイードの付近の町から戻りましたが、その辺りの住人が、変に浮かれ騒いでいるのが腹立たしいのです」
「腹立たしいとは穏やかでないな。浮かれ騒ぐとはどうしたことか?」
 アヌビスの硬い表情や態度を見ると、ファラオも唯事では無さそうな心情を読み取り、注意深く話を聞こうと体を傾ける。その誠実な様子にアヌビスは、言葉を濁さず有りの侭を伝えることができた。
「沿岸の戦いを見ていた者か、伝え聞いた話でしょうが、民はムカラと言う若い軍人をファラオにしようと、あちらこちらで大騒ぎしています」
 それは本当に意表を突く話ではあった。
「な…何ですと…?」
 和やかな表情が一変し、宰相は青褪めた様子で口走る。当然軍隊長も、例え優れた軍人とは言え、何故いきなりファラオに推す声が挙がるのか、理解不能な様子で呆然としていた。ただファラオとラジュラは落ち着いている。今のエジプトの窮状を知れば、軍事力で他を制圧する強いエジプトの、過去の理想を求める声も挙がるだろうと、普遍的な国民感情を理解していた。
「それは次のファラオと言う意味であろう?」
 とラジュラが言うと、それには首を縦に振り、王朝に反旗を翻すような話ではないとアヌビスも言った。
「無論そうです。ですがそれで良いとは私には思えませぬ」
 これまでのように、何より王族の慣習、王族の血脈を重視する彼には、民衆の意識は全く異質に感じるようだった。ともすれば元々エジプトの民ではない、移民の子孫なのではないかと、差別的疑いを抱いてしまう程だった。それはとても危険なことだ、何故ならエジプトは過去から移民の労働力に支えられている。それも含めエジプトであることを、今更否定しては立ち行けない。
「民が望むなら、そうなるのが習わしだと余は思う」
 ファラオは過去の教え通りにそう話した。実際それで長く続いた国家なのだ、間違いは無いと彼は信じている。実子をファラオにしたいなど、世襲を争う時代もあったが、その時々に必要な事をするのが何より最善であると。
 しかしアヌビスには、どうしても合点が行かないようだった。
「民草に何が判ると言うのです!、一軍人が優れているだけで、必ず戦に勝てる訳でも、エジプト全てが上手く回る訳でもないのですぞ!?」
「アヌビス…」
 ファラオを相手にいきり立つ彼を見て、セイジがそれを制しようと腕を伸ばすが、アヌビスの憤りは相当なものだと知るばかりだった。恐らくそれは、セイジが民によって印象の悪い王族となった、これまでの経過と関係があるのだろう。アヌビスはエジプトの一般国民を、無責任でいい加減なものと捉えているに違いない。事実そんな面も無きにしもあらず、エジプト人は心豊かな反面、多少規律に疎い人々でもある。
「軍事が最重要な時には、軍人がファラオに立つ時代もあったと、お主もエジプトの歴史は教えられた筈だ。それが時代的に優れた者なら構わぬだろう」
 ラジュラが彼を諌めてそう続けるが、
「世界の、国の、或いは王族の現状を知る者でなければ、今後の舵取りを任せられぬとは思わぬか!。如何なる大国も露と消え得る時代なのです、今は!」
「控えよ!、アヌビス」
 結局ただ黙らせるしかなくなっていた。まあ、言われずとも周知のことであり、誰も敢えて口にしなかっただけだ。不安な事はそれに限らず常に山積している。議場に集う人々には、一神官の立場からも時代の難しさが判る、現状に改めて溜め息する気分が戻って来た。守備良く敵を追い払ったばかりだと言うのに、喜ぶ間も無く残念さを味わうとは…
 と、折角の明るい話題が、重い空気に変わってしまったのを受け、これは良ろしくない、少しでも建設的に前進する流れを作らねば、と、トウマは角の立たない話で上手く場を繕った。
「まあまあ、民とは単純なものです。今はまだ充分に国を守られていますから、特に不満を唱える者は居りません。しかし後に続く誰であろうと、国が傾けば信頼を失います。ファラオが王族でも軍人でも、支える家臣の働きが最も重要なことですよ」
 会衆はそれを、確かに国政の根本的仕組みだと、アヌビスも含め充分確認する結果となった。ファラオには神の権限と言える、決定権が与えられているだけで、決定を実行するのは家臣達の仕事だ。何処の国家もそうだろうが、大臣や執政役人、軍などがしっかりしていれば、例え頂点が力不足でも何とか支えられる。つまりひとりひとりの意識が大切だと深く理解し、決してアヌビスを責めなかった。
 彼とて神官として、国の行く末を憂えているのは判り切ったことだ。そしてできれば、軍人などでなく王家からファラオが立ってほしいと、望む気持も皆同じなのである。



 その数日後、話題の若者ムカラは王宮へ招かれ、正式に首都タニスの中隊長に任命された。既にタニスの市民も若き英雄の出現に沸き、心強いエジプト軍に祝杯を挙げていた。対面してみたところファラオにも、野生の獣のような精悍な見た目ながら、非常に落ち着いているのが、妙に印象の良い人物に感じられた。確かに国民が担ぎ上げたくなるのも判ると。
 ただ、例え彼が次のファラオとなっても、エジプトには最早充分な軍事力が存在しない。ラメセス二世王やトトメス三世王のような、武力による輝かしい支配は戻らぬと、解る人間にはただ切ないエジプトの状況だった。
 せめて、王朝の富を吸い取るあの問題を解決できなければ。



つづく





コメント)もう駄目だ!と思ったら、後半は結構すらすら手が進み、予告した日に間に合わせられました。前に書いたけど、やっぱり征士と伸の場面が停滞の原因かも(´`;。いやここ、征士の話の中ですごく大事な部分だったのでね…。残りの容量が無いので、細かい解説は最後にまとめて書きます。


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