明るい知らせ
ナイルと緑の芦辺
#7
The River Flow



 その日、セイジの自宅は早朝から騒がしく、下男下女が忙しそうに動き回っていた。
 昨夜遅くから産気づいたシンの為に、最善を尽くそうと誰もが真面目に努めている。無論これが、現王朝に重要な出来事であるとの認識は、誰もが持っていただろうが、日々細かに様子を窺って来たアヌビスが、事ある毎に下知を下して来たこともある。
 ある面ではセイジより、母であるシンより、産まれて来る子供を気遣っていたのは彼だ。なのでその朝、医師と乳母、侍女とはした女以外の者が、寝所の外に追いやられてしまうと、結果を待つ一分一秒も気が気でない様子だった。セイジはそんなアヌビスを、些か褪めた表情で見守っていた。
 まあ、当事者の横でそれ以上に興奮する人間が居ると、盛り上がっていた気持も退いてしまうことはある。否、今に始まった事でなく、セイジは最初からそんな意識で状況を見ている。常に一番にファラオや王朝のことを考え、決して無責任な行いをしてはならぬと考えている。
 何故なら、ただでさえ情けない道程を歩んで来た己が、これ以上王家の足を引っ張る訳には行かなかった。過去の噂話は責のない事とは言え、イメージの悪い弟を受け入れてくれたファラオに、彼は何より感謝しているのだろう。けれども、セイジにファラオが大切なように、側近であるアヌビスにはセイジが大切なのだ。それはどう動かしようもない現実だった。
 今は珍しく口を噤み只管に祈り続けている。アヌビスがそんな風に、神殿以外の場で神官らしく振舞う様は、セイジの記憶にもあまり無いことだった。するとそこへ待望の知らせが届く。慌ただしく駆け付けた下男の声も、酷く興奮した様子だった。
「セイジ様!、セイジ様!」
 それに反応し、顔を上げたのもアヌビスの方が早かった。明るい顔をした青年の姿が入口に見えると、セイジとアヌビスはそれぞれ、その心境を表す返事をしていた。
「無事お生まれになりました!、医師のお見立て通り双児ですよ、男女の双児です!」
「そうか…」
「素晴しい!、ようやく王家に時が巡って来たようですな!。やはりご兄妹であるシン様を戻したのは、アメン・ラーのお心に沿う事だったのでしょう!」
 表情を見比べると、どちらが親なのか判らぬ様子だと、駆け付けた下男も些か戸惑うほどだった。ただ勿論セイジは、初めて生まれた子供に関心がない訳ではない。落ち着いていながらも、内心とてもお喜びだと判るアヌビスは、引き続き捲し立てながら彼を誘った。
「これまでシン様には、体に良き食物など色々手配させましたが、努力が無駄にならず嬉しい限りです。さあセイジ様、早速お部屋に参りましょう!」
「ああ…、…」
 ふたりはそんな、妙な遣り取りをしながら執務室を後にした。

「セイジ様とアヌビス殿が見えましたよ、姉上」
 寝所の入口に立っていたシュウが、喜び勇んでやって来たふたりをそう案内する。既に廊下の奥までも、命の弾けるような赤ん坊の泣き声が響き、下男の伝えた通りの光景がそこに在ることは、ふたりにも充分伝わっていただろう。災難続きだったセイジの人生の中の、今日は最も幸いな日であると、部屋に近付きながら実感していた筈だった。
 ただセイジは部屋に入ると、子供の方はともかく、まず妻の様子を見に寝台へと足を向けていた。そこには疲労を感じさせながらも、夫に穏やかに微笑むシンが居た。
「随分苦しんだようたが、大事はないか?」
「ええ…、私は大丈夫です、ありがとう」
 出産に関して特に問題はなかった。未だ汗ばむ顔を光らせているものの、シンは既に落ち着いた呼吸に戻っている。双児であったことが、本来以上の体力を消耗させただけだ。それについてシュウが、
「さっきまで居た医者が、シン様の健康状態に問題はないと話してました」
 そう伝えると、それでセイジも肩の荷が下りたように、安堵の息を吐きながら妻の傍に座った。
「それならいいが、しばらくは無理をするなよ?。身の回りの事は皆誰かに任せるように」
 彼がそう話し掛けながら、髪を撫でるのをシンは大人しく受け入れている。何気ない、大したことのない動作の内に、相手の心が伝わって来ることもあるだろう。恐らくシンは、アヌビスのようには喜ばないセイジのことを、よく理解されているのだとシュウは感じた。寧ろ、判り易い行動では愛情の深さは量れないと、幸福そうなふたりを見て思わず涙が出るようだった。
 御結婚前も、御結婚後も悩みは尽きなかっただけに、こんな日が来ようとは侍女としても夢のようだ。と、シュウはこの場で純粋な感動を覚えていたが、やはり夢のような場面だけでは終わらなかった。
「ふむ、シン様は一度御出産の経験がございますからな、取り乱すご様子でないのは何より」
 セイジの背後にやや離れて立つアヌビスは言った。
「そして一度にふたり王族を増やすと言う、偉業を成し遂げられたのは素晴しい事です!。この王子と王女が健やかに成長されるよう、私めも一層働かなくてはなりませんな。正統な王家の子供達には、エジプトの未来がかかっているのですから」
 その口上に、しかし煩そうな態度は見せずシンは応える。セイジの方が微妙な表情をしていた。
「そうですね、これからも宜しくお願いします」
「・・・・・・・・」
 そして、産まれたばかりの双児も落ち着き、乳母の手の中で眠り始めたのを見届けると、アヌビスは殊に満足そうな表情を浮かべていた。そう、決して彼に悪気は無いと判るだけに、シンも穏やかに受け止めているのだけれど。
「よくご覧下さいセイジ様、とても元気そうなお子様達だ。早速ファラオにもこの慶事をお伝えしなければ。早馬の手配をして参りますので、私めはこれにて」
 そう言って彼が部屋を立ち去った後、最初にシンの口から出たのはこんな言葉だった。
「…不安そうなお顔をされていらっしゃいますね、ずっと」
 セイジが一番に妻を労ったように、妻は何よりセイジの様子が気になるようだった。単にアヌビスの喜びように引いているだけではない、それにはより複雑な感情が存在すると、間近に寄り添う相手の僅かな表情の変化、呼吸、指先の温度などから、シンは様々なことを感じ取っている。
 また同様にセイジも、シンがアヌビスに向ける態度は、心からの感情ではないと覚っていた。酷く無理をしているとまでは感じないが、本心は胸の内に仕舞っているのだろうと思った。王家の中心人物の正妻としては、非常に立派な態度と評されることだが。
「私は隠し事が下手だ。だが、その心配はそのまま返そう」
「…はい…」
 結局、ふたりに子供が産まれた事は、ふたりに取って手放しで喜べる事態ではないと、お互いに認識する機会となっただけだった。本来夫婦には素晴しい出来事の筈が、ふたりに憂いを齎すものになっているのは切ない。そんな様子が端で見ても判る為、代わりにシュウが思うまま吐き出していた。
「不安にもなりますよ、アヌビス殿がずっとあの調子で、毎日囃し立てに来るんですから。王家の子、王家の子って、その前にセイジ様と姉上のお子でしょうに。もっと普通の喜び方はできないんですかね?」
「これ、シュウ…」
「あ、セイジ様の前で言い過ぎましたか?」
 シンにやんわり咎められ、「半分冗談です」と戯けて見せたシュウだが、結局のところセイジが明確な感情を伝えないのが悪い、とも思っていた。彼に取って何が最も大切なのか、妻なのか、子なのか、側近の神官なのか、或いは王朝の一員として働くことなのか。それが判れば自分もどう振舞うか、判断もし易いのにと不服を感じている。すると、シュウのそんな嗾けに触発され、
「アヌビスは私の良き理解者だ」
 セイジはまず話題の人物の名を挙げ、続けてふたりにこう話してくれた。
「だが、このところやや理解に苦しむ所もある。私が長く中央を離れていたせいなのか、我が家系の復権にばかり意欲を燃やしているようだ。あまりそれが行き過ぎると、ファラオや姉上が不快に感じると思う。無論王母様の心象も悪くなろうに」
 聞けばその環境は納得できるものだった。彼は立派な王族の一員として、躓くことなくやって来た訳ではない。エジプトに戻って来たのもつい最近であり、そんな立場からいきなり、次代のファラオを狙うような行動に出るのは、確かに図々しく配慮に欠ける態度だろう。
 しかし長く側近を務めるアヌビスからすれば。セイジの治世的センスを認めるあまり、彼がファラオと同等に慕われる立場となれなったのを、酷く悔しく感じているに違い無い。現ファラオとは性質の違う弟だが、また別のやり方で王朝を切り盛りできる力は、充分に備えているとアヌビスには判るからだ。拠って、王朝に於けるセイジの存在感を確かなものにしたいと、逸る意識が今の行動に出ているようだった。
 ただ、このままではセイジの言う通り、逆効果になり兼ねないのではないか。
「そうですねぇ、あんまりしゃしゃり出るのも、セイジ様の為にはなりませんよね」
 言葉の選択は荒いが、セイジの考えを正しく受け取ったシュウは、彼に判るように深く頷いて見せた。考えてみればファラオの弟と言うだけでも、内部分裂を引き起こし易い立場であり、腹に一物を抱えていると見られれば、忽ちファラオの信用を失うことになる。折角この国に戻り、良き妻を迎えられたと言うのに、それが台無しになれば悲惨この上ない。シュウはそんな所を仕種で表現していた。
 するとそれは意外にセイジにも伝わったらしく、彼はシュウに返すように頷いた。身近な周囲の者達が皆、そう正しく理解してくれるなら、セイジももう少し気楽に過ごせるようになるかも知れない。そして彼に寄り添うシンは、
「大丈夫、ですか?」
 王家の中心とは心労が多いものだと、改めて感じるままセイジを労った。己だけが不安なのではない、夫もまた不安なのだと知ると、シンはひとりの人間としての彼により親しみを感じ、これまで以上に愛情深くなれる気がした。
「それは私が言う言葉だ。まあ、例え何があろうと最終的には私が決める、アヌビスの行動が問題視されるなら、私に従ってもらうだけだ」
「アヌビス殿は、決して悪い方ではありませぬ。私の知らぬ頃からずっと、セイジ様を支えて来られた側近なのですから。でも、もし、あまりに政治的なお話ばかりで、息苦しく感じられる時には、いつでも私の所においで下さいな。私は何も知りませぬから、いつか見た湖のように静かにしておりますわ」
 いつか見た湖、と聞くと、途端にナイルの原風景が頭に浮かんで来る。豊かな土地に流れる豊かな水、そこに生い茂る緑の芦原、自ずと集まる魚が絶えず水面を跳ねる。エジプトは豊かな土地だからこそ、そこに生まれた人々の心も豊かになった。争うより深く広く思い遣ることで、王朝が成り立つことを実践して来た土地である。
 そして妻の気持がそれに適った、正にナイルの心だと感じ取ると、セイジは相手の肩に手を掛け、より身を近付けて言った。
「そうだな…、そうしよう」
 ナイルの心、私達はそれで繋がっているのかも知れない。普段見るともなく見ている大河の水が、私達の体に確実に流れている。だからこうして諄く話さなくとも通じ合える。お互いに触れる度温められ、再生されて行くのだとセイジは微笑んだ。久し振りに心から微笑むことができた。
 水辺の癒しを常に感じられる人。彼はそんな妻に引き合わされたことに、今どれ程の幸運を感じているだろう。例え苦難の多き道程でも、何か救いを見出せるなら人は不幸にはならない。地位や名声は無くとも、それより必要なものが存在する方が良い。その意味で彼はもうひとつ幸運に恵まれていた。
「良い所でしたねぇ、ティムサ湖は。ナイルの流域はいつも騒々しいですから、エジプトが生まれた昔を想像できるようでしたね」
 シュウがその時の思い出を楽しげに語ると、
「エジプトが生まれた昔とは、面白い事を考えるな?」
 セイジはその不思議な感覚に思わず目を開いた。エジプトの始まりなど神々にしか判らぬこと、神々の視界を想像する行為は、一部の神官達の仕事のように思えるのだが。
 しかしシュウは軽やかにこう話し、また意外にセイジは納得させられた。
「はっはは、何しろ私はシュウの名を持つ女ですからね。エジプトに生まれた全ての物が、私に繋がってるように思えるんですよ」
 成程、確かにだから大らかな見方ができるのかも知れない。人に比べ神々の心はより懐深く、大気の神の心などは広く世界を覆い尽くしているだろう。またシュウ神の時代はアメン・ラーより遥かに古い。社会が複雑化し、人の意識も多様化する以前の、単純で素朴な世界観が彼女から感じられた。
 単純であることはひとつの幸福かも知れない。
「だから、この度産まれた双児も、ジュン王子も皆大切な子供達ですよ」
 シュウが続けてこう言うと、困難な時代の中でもふと清涼を感じるのは、何の柵も無い自然の法則だからこそだと思った。そう、ナイルの水は蕩々と流れ、その芦辺に多くの命が集まる景色に、私達は何かしらの憧憬を感じ続けている。目先の問題に疲れ、当たり前の事を当たり前と認識できなくなる時、その景色を呼び戻してくれる存在は有難かった。
 妻にせよ、侍女にせよ、エジプト人の根源的な意識を知る人で良かったと、セイジは今日初めて、ふたりの存在の大きさに気付くこととなった。
「私は、良き家人を与えられたものだな」
 始まりは、残り物の寄せ集めだったこの家だが、今は最も明るい気に満ちているかも知れぬと。



 けれど光ある所には闇もある。
 セイジの家に希望的な変化の訪れた日から、数えて三日目の夜だった。もうそろそろ眠ろうと廊下を歩き始めたセイジの、腕を取ってアヌビスは不意に引き止めた。
「セイジ様、お待ちを」
「どうした?、何かあったのか?」
 特に変わった様子ではなかった。その日一日、否、子供が生まれた朝からずっと、別段態度が変だと感じることは無かったが、今は何故か声を掛けておきながら、何も語らずセイジを何処かへ誘導しようとしている。このところ目に余るほど饒舌だった彼を思うと、些か気持悪い感覚はあったが、何を疑うことなくセイジは着いて行った。腕を引かれて辿り着いた先は、何のことはない、アヌビスが寝泊まりする部屋だったが。
 その入口から人払いをし、ドアを閉め、彼は如何にも密談するかのように、周囲の様子を注意深く見回していた。そして誰も近辺には居ないと確認すると、祭礼道具などが並ぶ棚の、ひとつの壷の中から手に収まる小さな壷を取り出し、セイジの前にあるテーブルの前に置いた。
「…何だこれは」
 当然彼は尋ねる。何らかの薬を頼んだ憶えも無ければ、貴重な香油が手に入ったと言うような、晴れやかな差し出し方でもない。そして、それまでずっと無言だったアヌビスが、そこで漸く口を開いた。
「コブラの毒です。この家のことは私でも何とかできますが、離れて住む者は私には手を下せませぬ」
 唐突な話だった為、要領を得ないセイジは再び尋ねる。
「どう言うことか?」
 しかしアヌビスが求めている事は、既に彼にも判っていただろう。これまで幾度も聞かされて来た忠言だが、まさか本当に実行するとは考えなかっただけだ。
「無事男児がお誕生になりました。今こそジュン王子を亡き者にしなければなりませぬ」
「…何故殺さねばならないのだ…」
 何度も聞かされて来たが、こうして目の前にその手段を突き付けられると、途端にセイジの頭は思考が止まり、何もかも真っ白になってしまった。当然だが人を殺す行為はあまりにも重い。相手を蹴散らさねばならない戦場で、敵兵を討つのとは話が違う。エジプト王家には度々毒殺、暗殺と言える事件が起こって来たのは確かだが、誰もそれを良い伝統とは考えていない。過去の事として認識しているだけだった。
 それを敢えて行えと言うのか。忌わしい過去を繰り返せと。しかも対象はまだ小さな子供だ。己に子供が生まれたばかりでもあり、セイジはなかなか考えを纏められなかった。彼にしては珍しく顔に動揺の色が浮かんでいた。けれど、そもそもそれは身から出た錆だとアヌビスは話した。
「嘗てセイジ様は仰いました。エジプトの衰退は、伝説のナルメル王から続く王族の血が、薄くなったからではないかと」
「それは、ひとつの想像として話しただけだ」
「いえ、想像ではございませぬ。少なからず王家の中には、そのように考える者も存在しますからな。エジプト王家の栄光を取り戻す為、より血統の良い跡継ぎを欲しがっている現状なのです」
 だがそこでセイジはひとつ反論もした。アヌビスの言う現状も無きにしもあらずだが、エジプトには常にもうひとつの側面があったと、歴史の教師からもトウマからも聞いて来た。
「そうとは言えぬファラオが立てども、エジプトは続いて来たではないか。メンチュヘテプ二世王などは、王族ではない州候の一族だが、後のエジプトを安定させた優れたファラオだった」
 メンチュヘテプ王とはテーベを開いたファラオだ。現在の上エジプト、つまり大司祭国に属する神殿群や王家の谷など、比較的近世のエジプトの中心地を、新たな都テーベと定め栄えさせた。セイジの話す通り、ナイルの中腹と言えるテーベ周辺の州候だった為、土着神のメンチュウを名に持つ。故にそれまでのラーやホルス中心の社会思想とは、多少異なる政治体制だっただろうが、それもエジプト王朝史の一部と今は誰もが理解している。
 既存のイメージを尊重するより、確実に生き延びることが何よりエジプトの為だ。神々は強いエジプトの象徴ではあるが、根本的には神など居なくとも、ナイルが存在すれば人は生きて行ける。このエジプトの環境を確と守れる、優秀な人物なら誰がファラオでも良いと、民も皆古から考えていることだろう。
 優れた人物さえ出て来れば誰でも構わない。ただ、そんな意識にも問題があるとアヌビスは続けた。
「ですが、これからも同様に続く保障はありませぬ。パレスチナの様子を学ばれたセイジ様は、いかにもエジプトの力が衰えて来たことを、折に触れ感じて来られた筈です。ソロモン王のような奇才の人物は、そうそう生まれては来ないでしょう。それを期待するより、伝統を取り戻す方が確実なのですよ」
 そしてそれも確かに一理あるとセイジは感じた。歴代のファラオは全てが優れた人物ではない。凡庸なファラオの世には、伝統や信仰に寄り掛かりながら、何とか一代を凌ぐことも多々あるからだ。むしろ二千年の歴史の中では、そんな時間の方が長いかも知れない。しかし、
「嘗てエジプト王朝には輝かしい伝統がありましたが、今は王家が交雑し過ぎた結果、ファラオの神々しさも失われたと私は考えますな」
 そう言われるとまたセイジは考えてしまう。血統が良ければ神々しく見えるのだろうか。パレスチナで耳にした話に、選ばれたヘブル人には神の声が聞こえる、と言うものがあったが、それも直系の子孫かどうかは関係なく、例え直系の人物でも愚行を行えば見放されると言う。
「王族は神々のように超越した存在ではない、兄上にしてもファラオである前に人間だ」
「特殊な能力が血に宿っている、とは申しておりませぬ。私はただ王家の神秘性こそ力と考えるだけです。ファラオと言えど民人と何ら変わらぬと、広く知られればそれだけ軽んじられるもの。トウマ殿の話にもありましたが、元来ファラオは神でなければならぬのです。エジプトの神々に選ばれた一族と、濁さずに言えるからこそ、人々は王家を崇拝し恐れもするのですよ」
 アヌビスの弁には特に誤った点や、曲解した点は見受けられない。エジプトに暮らす人々の道理として、彼もまた正しく世界を見ていることは理解できた。けれどセイジは素直に受け入れられない。
「その意味では、ジュン王子は別に申し分ない血筋だろう。父王の弟の孫に当たる」
「ですが豪族系の侍女の家系です、ナスティ様の御姉妹が本家なのですから」
「そうだとしても、近い親族はひとりでも多く残した方が良いと私は思う。幾人も居る中から、ファラオを選出できることこそ安定ではないか?。何故それでは駄目だとお主は言うのか?」
 するとそのセイジの問いに、意外にもアヌビスは筋の通った説明をしてみせた。
「大司祭国が分裂し、今王朝が成立した時から悩み続けているのですよ。アメン・ラーの御寵愛を大司祭国に奪われた形となり、その分ファラオも王朝も、人々に対する求心力を半減させられました。何らかの形で下エジプトに、神々を取り戻さねばならぬのです。その為には正統な王、正統な後継者であることが何より強みとなります。今は他の価値観に迷わされてはならぬのです」
 つまり彼は、ファラオの候補が多くなればなる程、エジプトの影響力が分散すると言うのだ。本来アメン・ラーとは王朝のシンボルであったが、一部の神官団がアメン・ラーごとファラオから離れた。その時点でもうエジプトの力は分裂しているのだから、現状以上の分裂は絶対に避けなければならない。例え王族でも、候補が多ければ意見が割れる可能性がある。それが運の尽きを招くと彼は不安視しているようだった。
 ここまで充分に話を聞くと、セイジにもアヌビスの考えは理解できた。理解しただけでなく成程と思わせる内容でもあった。この下エジプトに再び神々を引き寄せるには、ファラオの正統な血脈を持つ人物が望ましい。何故ならファラオは神の息子と認められた存在、民人も皆それを知っているのだから、誰にも納得できる王族が最も理想的なのだ。
 延いてはこの度生まれた男児の方が、ジュン王子より相応しいと言うことになる。
「人々が迷わぬよう、これ以上内部分裂をさせぬ為に…?」
「そうです。外部の者はできる限り排除せねば、強き王朝を再興する為の妨げになります。例えそれが見所ある人物だったとしても、より未来を見据え切り捨てるべきだと私は思います」
「より未来に、理想とするエジプトを実現できると、お主は言うのだな?」
 落ち着いて話を飲み込んだセイジに、アヌビスは無言で頷いた。結局彼は伊達や酔狂で、跡継ぎの誕生を喜んでいたのではない。無論セイジの息子が後にファラオとなれば、セイジの立場もより良くなろうし、個人的に誇らしくも感じるだろう。だがそれ以上に彼は、エジプト王朝の信仰の力を重視していたのだと、今はセイジもよく理解できていた。それが神官の考える復興策なのだと。
 恐らく他の方法も存在するのだろう。トウマ辺りに聞けば別の答が返って来るだろう。だが、既にある確実な物をより強固にすることも、有効な手段に違いなかった。大司祭さえも敬服するファラオが立てられれば、その延長上で大司祭国を吸収し、再び上下エジプトを統一できるかも知れない。
「話はわかった」
 セイジはよく納得した上でそう言った。主君が変わらぬ態度で了承するのを見ると、アヌビスはテーブルに乗せた壷を手に取り、遊んでいたセイジの左手の中に納める。それを受け取ったからには、アヌビスの意思を受け実行しなければならない。ジュン王子の住む離宮へ出掛ける機会を、常に窺っていなければならない。全てエジプト王朝の未来の為に…。
 だが、頭で割り切れてもセイジの心は拒否し続けていた。何故ならこれでは本当にオシリス神になってしまうと、嫌な噂を思い出すからだ。エジプトに戻り、漸く王宮での働きを認められて来たところで、自ら謀を行うとは考えてもみなかった。死を裁く冥界の神のイメージを払拭したいのは、アヌビスとて同じだろうに、それでも敢えて手を汚す選択をしなければならぬのか?、と。
「いつでもよろしいです。しかしお早めに。情が移ってはより苦しみますからな」
 最後にアヌビスは淡々とそう伝えた。確かにこんな計画に感情的になってはいけない。何でもないひとつの作業と捉えなければ、精神的に辛くなるばかりだった。

 側近の重要な相談事から解放され、改めて寝所へ向かったセイジは、揺れているふたつの感情を見据えながら、自問自答を繰り返していた。
『本当にそれでいいのか?』
 片方には真剣に王朝の再生を考え、己を捨てて厳しくあるべしと思う己が居る。しかしもう片方には、今すぐ舞い戻って取り消したい己も存在する。双方は鬩ぎ合い平行線を辿り続け、悩める感情だけが己の意識と化している。こんな苦々しい生活を望む者は居ないだろうが、権力の集まる場所には有り触れた状況かも知れぬと、心を収めておくしかないだろう。それが王族らしさでもあろうから…。
 そして寝所に戻ると、眠っている妻の安らかな顔を見て更に思う。
『例え我が子でなくとも、ジュン王子はシンの息子だ。妻が悲しんでも王朝の為にと割り切れるのか?』
 果たして本当に実行できるのかと、自身を疑う感情も生まれて来た。誰より優しい理解者である妻を裏切りたくはない。それは何れ己に対する不信となるだろう。漸く得られた幸運を自ら手放してしまうなど、あまりに愚かではないかとセイジは悲しんだ。妻の悲しみは己の悲しみでもある。これまで良好だった関係に傷が付くのは、何より無念な結果だと感じざるを得ない。
 こうして彼は日々悩み続けるだろう。けれども誰に答を頼ることもできなかった。
『自ら言い出した事でもある、シンの連れ子は後々禍根となるかも知れぬと…』
 彼はこの状態が自己責任であると、判るからこそ深く悩むしかない。



 だが、予想外の出来事から、セイジの悩みは一旦落ち着くこととなった。

「大変です!、アヌビス様!」
 更に数日後の朝、朝食前に庭に出ていたセイジを、渡り廊下から見守っていた彼の元に、ひとりのはした女が駆け寄って来た。その必死の形相は蒼白でもあり、何かが起こったことは間違いないと彼も目を見開く。すぐに庭先のセイジを呼ぶと、彼等ははした女を置いて足早に寝所に向かった。
 女は「赤ん坊の様子がおかしい」とだけアヌビスに伝えた。ごく小さな子供は、しばしば気になる健康上の変化があるものだが、世話をする者達も多分に神経質となっている。何しろ王家に待望の子供達なので、小さな変化を致命傷のように騒ぐかも知れない。ひとまずふたりは急ぎながらも気を落ち着け、呼ばれた部屋へと向かっていた。
 けれど希望的観測とは大概に儚く、その通りにはならぬものでもある。夫婦の寝所には多くの使用人が集まり、皆青い顔をしてざわめいていた。否、輪の中心では既に啜り泣く声も聞こえる。出会したことのない異様な光景。そこからゆるりと立ち上がった医師が、
「原因はよく判りません。乳母の話では苦しまれたようでもない」
 と話すと、一瞬その場がシンと静まり、次にはわっと多くの女達が咽び泣いた。それを見ただけでセイジにも、アヌビスにも何が起こったかは容易に想像できた。
「・・・・・・・・」
 唖然としながらも部屋の中を見回すと、椅子に腰掛けるシンの横にも、はらはらと泣きながら赤ん坊を抱えた乳母が居た。まだ顔の区別はできなかったが、異常な気配にむずかる赤ん坊は、女神セシャトを表す豹の毛皮と共に抱かれていた。つまりそれは女児だ。この世から去ってしまったのは、双児の男児の方だと聞かずとも判った。
 待望の跡継ぎ、待望の王家の息子が一夜にして消えてしまった。
 生まれ来るひとつひとつの命の、辿る運命は様々であり、だからこそ天界へと導いてくれるアメン・ラーの存在は、他に代えようのない大切なものだ。人は遅かれ早かれいつかは死す。その受け入れ難い摂理を、アメン・ラーは納得させてくれるからだ。死を恐れることはない、死は永遠の始まりであると、人々の心を穏やかにする力を神々は持っている。その力を何より、この王朝が欲していると言うのに。
 正統なラーの息子でなければ、その力を引き寄せられぬと言うのに。
「誰が…!、昨晩ここに居たのは誰だ!!」
 思い極まる様子でアヌビスは叫んだ。ざわつく人々の中から、怯えながらもひとりの女が前に出て応えた。女は男児の方の乳母だった。
「私です…。昨晩はずっと傍におりました。今朝は静かにお眠りだと思っていたのです…」
「貴様の不注意が!、この王家にどれ程の損失を齎したと思っている!」
 すると、怒りに任せ彼は女の腕を掴み、床に叩き付けるように引き倒す。乳母はお咎めがあるのを覚悟していただろうが、突然の物々しい雰囲気に、集まる女達からは悲鳴や奇声が上がった。だがそんなものはまるで耳に入らぬ様子で、彼は女を睨み付けながら怒鳴った。
「そこに跪け!」
 跪かせて何をするつもりか。鞭打ちか?、斬首か?。と、最悪の流れを感じ取ると、
「おやめ下さい!!」
 殊に珍しくシンが立ち上がって言った。この家の中では位の高い、アヌビスに意見できる人間は少ない為、自分が止めなければと思ったのだろう。勿論寝所で血を見ることも避けたいが、己を囲む乳母や使用人達の中に、そこまでされる悪い人間は居ないと信じている。その意識が現れたシンの、凛とした表情は最早立派な王家の妻の顔だった。
 また、妻が精神的に場を鎮めれば、暴挙に出そうな者を物理的に止めるのは夫の役目だ。
「やめろ、アヌビス!。落ち着け…!」
 セイジがその肩を掴み語気を強めると、アヌビスの目の前にシュウも立ち塞がり、
「そうですよっ!、彼女がよく働いていたのをあんたも見てるでしょうに!」
 些か大袈裟な身振りを交えてそう言った。毎日毎日、誰より双児の様子を見に来ていたのは、他ならぬ貴方自身だと指摘されると、さすがに乳母ばかりを責められぬと覚り、彼の怒りは一旦胸に収められる。結局己も異変に気付かなかったのだと、絶望的な無力を思い瞳を閉じてしまった。
 そして、一時的な騒ぎが過ぎたのを見ると、改めて医師がこう見解を述べて聞かせた。
「ええ、乳母に落ち度があったとは私も思いません。こんなにきれいなお顔で、汚れひとつ無いお身ぐるみの様子を見れば、よくお世話されていたと思います。自然に魂が去ったと考えるのが妥当です」
 その話からは、吐き戻しや涎なども無く、何かに噛まれたような跡も無く、怪しげな付着物も見られず、急病や毒物の摂取は考え難いことが判る。当然熱が出ていたり、心配な点があれば少なくとも、母親であるシンには伝えた筈だった。この時代にはまだ、症状が判り易い病しか認識が進んでおらず、医師にも誰にも、説明のつかない事は多々起きるものだった。
 早過ぎる死も、病かどうかよりも、そうした運命だったと考えるものだった。しかし、昨日までの様子をよく知っているアヌビスは、納得できない思いを再び大声にしてぶつける。
「あんなに、あんなにお元気な様子だったのに!、突然魂が去ることがあるものか!」
「幼子の内は判らぬ事も多いのです。元々何処かに欠陥をお持ちだったのかも知れません」
「そんな、馬鹿な…!!」
 冷静な医師の言葉とは対照的に、彼は感情を露にして嘆き続けた。これが、神官の中でも個人付きに引き上げられた、上位の神官の振舞いかと疑われる程、見苦しい姿を晒しているとセイジには映った。なのでもう一度強い言葉を発し、
「それ以上わめくな!。外に出て頭を冷やせ!」
 アヌビスを制すると、速やかに部屋を退散するよう命じた。そのように主君に言われては、彼も大人しく従いそうするまでだった。どの道もう、ここに居ても何も出来る事は無い。彼は肩を落とし、項垂れた姿勢のまま静かに去って行った。あまりにも判り易く落ち込む様子が、本来最も悲しんでいる筈のセイジと妻よりも、悲痛で哀れな立場に感じられた。
「まあ、アヌビス殿の気持もわかりますけどねぇ…」
 と、シュウですら一言同情の意を口にする。普通の感情を持って暮らす者なら、そう心が動くのは当然と言える場面だったが、セイジだけは、廊下の奥に消えて行くアヌビスの背中を見詰め、より険しい表情へと変化して行った。何故なら、彼等は他の誰も知らない秘密を抱えている。
『殺意を持つ者には、殺意が返って来るのやも知れぬな』
 セイジは思う。まだ実行する前だったとは言え、悪心を抱けば相応の酬いがあるのも納得できた。自然の流れを無理に曲げようとすれば、自然の力で応酬されることは、ナイル流域に暮らす人間なら解り切った事だ。深く考察せず同調してしまったばかりに、アヌビスも、多くの者も傷付ける結果となったのかも知れぬ。己の迷いが生んだ悲劇だと、セイジは家長としての未熟さを恥じる。
 十七で即位したサアメン王は、以降十年の在位に渡り、着実に人々の信頼を積み重ねて来たと判る。現王朝をひとつの家族と捉えるなら、この家は極小規模な家族に過ぎない。兄は実力充分なファラオとして君臨しているが、弟は小さな家さえ守り切れていない。と思うと、改めて己は外れ者なのだと、彼には苦く感じざるを得なかった。
『アヌビス、何事も思うようには行かぬと、我々はこれまで存分に学んだ筈だ…』
 不快な噂から逃れ、打ち捨てられたペトラの廃虚にて、日がな砂漠を行き交う人々を見ていた。家族も居らず財産も持たず、気ままに暮らした数年間が今は悔やまれる。それは一見幸福な期間のようで、エジプトへの渇望を強くしただけかも知れない。でなければアヌビスが、こんな風に暴走することもなかっただろうと、セイジはふたりの悲しみを見据えていた。
 真に何も無い自由とは悲しいものだ。我々はエジプトとの繋がりあってこそ、日々の幸福や喜びを感じることができる。戻って来てより余計にそう感じられている。だから二度と、そんな悲しみがこの家を覆うことのないように、と切に願った。細い蜘蛛の糸であった王朝との関わりも、今は充分確かなものへと変わっている。もう疎まれる不安に迷う必要はないのだと、己に言い聞かせながら。

 だがこんな事態になろうとも、今の彼には幸運が寄り付いている。騒ぎが収まり、人々が厳かな悲しみに落ち着く頃、部屋の中央に立ち尽くしていた彼の横に、妻のシンが歩み寄りその手を取った。
 暫くは子供の亡骸の処理や、場を浄める儀式や清掃で、この部屋は多くの者が出入りする。今、セイジの何らかの感傷を覚ったシンは、忙しないこの場から移動した方が良い、私達もまた落ち着かなくてはならないと、敢えて言葉にせずに彼を促した。
 悲しくとも、他人の前では気丈に振舞う妻は美しかった。
 その気遣いを有難く受け取ると、セイジはシンに連れ立って他の部屋へと歩き始めた。



つづく





コメント)がびょーん(> <)。また絶対切りたくない所で、容量的にこれ以上書けなくなってしまった。この後毛利BD用の創作が入るから、続きを書くのはその後になってしまう…。
しかも、あと1ページで終わる予定だったのに、続きが後ろに送られることもあって、あと2ページ必要になった。プチオンリーの後まで持ち越すかと思うとがっかりですっ。
ところで、後宮と言うファラオの妾が集まる場所が、廃止されたことになってますが、実際いつまであったのかは判りません。この話は第21王朝を下地に創作してますが、もしかしたら700年後の31王朝まで、後宮はあったかも知れないです。まあお話上、妾がワラワラ出て来ると面倒臭いので、廃止したことにしたのはわかってもらえると思う…。どうせ遼は興味ないだろうし(笑)



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