戦とは何か
ナイルと緑の芦辺
#4
The River Flow



 実はトウマは、才媛と謳われる侍女ナスティの、言ってみればファンだった。
 直系の娘ではないが、トウマには彼女こそがエジプト王家の、あらゆる英知を受け継ぐ人物だと感じられていたのだ。勿論それには理由があった。
「見慣れない方ですね…?。あなたはどなたでしょう?」
 突然声を掛けられ、多少戸惑ったようにナスティは返すと、トウマは尊敬する女性に失礼のないよう、ファラオに対するより改まって話した。
「この度王宮役人に取り立てていただきました、トウマと申します。私は実は、貴女の書かれた創世のパピルスに大変関心を持ち、エジプトの歴史を研究する者でもございます」
 交わした挨拶の中にあるように、ナスティは女性でありながら、書記として各種の文字を記すことができ、また自身の観察や推察を明確に、人に伝える言葉と知識をも持っていた。実際ファラオの演説内容などにも知恵を払い、今や王宮に無くてはならない存在だ。本当は彼女が王妃であれば良かったが、今の立場ではその優れた知性を生かし切れないだろう、と思うと、酷く勿体無く感じるトウマだった。
 否、カユラ王妃が劣っている訳ではない。王妃には政治的センスがあり、ナスティは学者肌だ。現ファラオは優れた女性に恵まれたのだから、双方がその両輪として充分に働けるのが理想だろう。そこに正妻と侍女と言う、権力格差のあることが勿体無いと言う話だ。
 ナスティはしかし、そんなトウマの思いなど知らず笑い掛ける。
「まあ、そうでしたか。あれは私の祖父が持っていた、幾つかの古いパピルスを書き直したものですのよ」
 ただ、女性らしい穏やかな笑みの内に、やはり彼女は酷く賢い面を覗かせていた。
「あなたは…、三つの神々の物語の内、どれが本当なのかおわかりかしら?」
 その回答により相手がどの程度の者かは測れる。侍女ナスティはファラオの為に、慎重に人を見抜くそんな質問をした。
 彼女の記した創世のパピルスは三種で構成されており、何れもエジプト神話の創世物語である。特に神話を学ぶ意欲の無い者には、その成り立ちなどより、神々の御利益の方が余程大事なので、一般にはその一部しか知られていない。
 エジプトの信仰はほぼ第一の神話の流れを組み、歴史上最も広く長く親しまれる話である。混沌の海ヌンより太陽神ラーが生まれ、ラーから大気の神シュウと湿気の女神テフヌウトが生まれ、ふたりの間に大地の神ゲブと天空の女神ヌウトが生まれ、またそのふたりの間にオシリス、イシス、ネフティス、セトと言う二男二女神が生まれると言うものだ。
 セトは優れた兄のオシリスを憎み、二度兄を殺したがオシリスは生き返り、冥界の神となった後、イシスとの間に生まれたホルスがセトとの争いに勝ち、始めはセトの味方をしていた太陽神ラーも、ホルスをファラオと認めるようになった。それが現在も続くファラオの、ラーの息子たる背景である。
 第一の神話が生まれた町は、豊かなナイルデルタの広がる支流の分岐点に存在し、正にナイルの恵みより生まれた最初の王都だ。そこには伝説のナルメル王と、ホルス神が並ぶレリーフなども残され、この神話がエジプト王朝の原点であることは、誰にも疑いのないところだった。
 しかし数百年後メンフィスに都が移り、ピラミッド時代の第二神話では、最高神プタハが太陽神ラーを創造したことになっている。ラーの右目から生まれた破壊の女神セクメトが、プタハの妻となる神話が知られている。ラーの目がひとつの象徴となり、またプタハの使いである聖牛アピスが崇められた。
 更に時を経、都がテーベに移った後には第三神話が成立した。世界の全てを構成する要素、水、闇に含まれる物、永遠と言える物、不可視の物、が、それぞれ男女ひと組ずつの神、八柱神であり、彼等が創造した世界に生み落とされた卵より、太陽神ラーが生まれたと言う話である。その内「不可視の物」を司るアメン神が、人の命の神聖な部分として重要視された為、アメン信仰が一気に盛り上がった。
 現在、最も重要な最高神をアメン・ラーと呼ぶのは、このエジプトに取って重要なふたりの神、アメン神とラー神を合わせ、ひとつの神と見ているからである。
 さて、そのようにエジプトには三種の創世神話がある。否、他にもあまり知られない話が多数存在するが、どれが本当の神話かと尋ねられれば、第三神話を選ぶのが妥当である。王家にしても大司祭国にしても、現在はその神話の許に宗教行事を行っている。
 けれどトウマは、ナスティに対しても無礼を構わずこう言った。
「どれが本当、と言うものではないのでは。国の繁栄を磐石とする為、多くの想像をして来た記録だと私は考えます。王族であれ神官であれ、神々の生い立ちを見た者は居ないのですから」
 無礼ではあれど正しい、彼の持つ知識にはエジプトの正しい歴史が見えた。優れた思考を持つ者は、時には権威を恐れぬ発言をするものだと、ナスティは知りながら尋ねたのである。
 正しい歴史とは、つまり太陽神ラーの扱いを巡る歴史だ。メンフィスの最高神プタハは、メンフィス地域の土着の神であり、その王朝ではラーはプタハの創造物だった。テーベの王朝でもまた、テーベ地方の土着の神であるアメンを、ラーの生まれた土壌として神話を作り替えた。トウマの言う通り、その時々の王朝が自らの神話を作り、王家の威信を守って来た流れが見て取れるのだ。
 人も土地も時代により変わって行くが、太陽は変わらず存在している。最初に生まれた太陽信仰だけは、変わらず今も人々の意識に存在する。故に太陽を手に入れた王朝が、エジプトの栄光を我が物にできると考えられて来た。単純だがそれがエジプトなのである。
 太陽は神であり、エジプトの全ての民をも指す。つまり太陽神ラーにこだわって来たことは、間違いではないエジプトの心だと、トウマが良識的に見ていることをナスティは知った。
 なので彼女はトウマを認め、
「お若いのに頭の良い方ですね。あなたのような方がファラオの力になられれば幸いです。どうか私達のファラオをお助け下さいませ」
 と、今度は真直ぐに彼を見詰めて言った。そんな状況は、トウマにはとても光栄なことだが、その真剣な眼差しには一抹の淋しさも窺える。考える頭を持ちながら、治世の表舞台には立てないことを、彼女は常に歯痒く感じられておられるのだろうと。だからトウマは、彼女の分も王朝の為に考えなくてはならない。この遣り取りはそうした伝言なのだと、彼もまた真摯に受け取り応えた。
「確と承りました。私はナスティ様のお知恵を受けた人間として、王朝を支える役目を果たす所存です」
 そう伝え、膝を折って見せると、確かにトウマの忠実な様子は伝わったらしく、この僅かな会話の中で彼女は、相手の知性を信用する気持に至ったようだ。その後に、本来ならお礼の言葉を述べるところだったが、彼女は敢えてこう言った。
「エジプトは太陽を選びました。それ以前は星を信仰する人々も居たのを、御存知ですか?」
 今となっては神話の成立以前のことなど、ファラオや神官達もほぼ知らない歴史だが、僅かに残る文献や史蹟から知り得る、初期王朝の知識もトウマは持っていた。
「はい、ピラミッドの時代のことですね?」
 知られるギザの三大ピラミッドはクフ王、カフラー王、メンカウラー王のもので、その親子三代以前にも、完璧ではないがサッカラやダハシュールなどに、ピラミッドと呼ばれるモニュメントが在る。しかしその、最後のメンカウラー王より後には、ごく小さな物しか造られなくなった。
 その理由も勿論、今となっては確かめようもないが、歴史を記した碑文やパピルスなどには、ピラミッド建設に多大な費用と労力が必要だった為、メンカウラー王の後にはその富が尽きて来た、との記述が見られる。大ピラミッドは単に墳墓と言うだけでなく、エジプトの大いなる力の象徴だった為、それが消え行く時代の到来は些か淋しくも感じる。しかしそんな理由だけで消えたのではないと、ナスティはトウマに語った。
「星々への信仰は、メソポタミアから伝わったものでしょう。またその人々が、巨大なピラミッドの建設に知恵を働かせたようです。それをお忘れなきように」
「…はい…」
 それは、トウマには初めて聞く話だった。否、恐らく現代の誰もが知らないことだろう。
 だがナスティの話は、トウマには酷く合点の行く所があった。何故ならピラミッドと言う建造物は、太陽信仰とは違った理念で造られている、としか思えないからだ。太陽は唯一であり、唯一であることを重視するものだが、ピラミッドは四方の方角を意識しているのが判る。また今に続く太陽信仰が、エジプトを統一するほど盛り上がるのは、大ピラミッド時代の後のことなのだ。
 そう、伝説のナルメル王の時代から、太陽神の神話は存在したが、それだけではエジプトは大国家には成長しなかったかも知れない。太陽ひとつではなく全天を見渡す、当時の優れた知識や技術を取り込み、他の何処にも無い偉大なエジプトを成立させたことが、ピラミッド建設の一番の功績だったのかも知れない。
 そしてその優れた技術や知識は、星を信仰するメソポタミアのものだと言う。今はもう忘れ去られたが、現在アメン・ラーの英知と讃えられる物には、実はエジプト発祥ではない物も含まれるのだ。
 それが何を意味するか。
「とても大事な事をありがとうございます。初めてお目にかかったこの場で、大変な朗報を得て幸運に存じます。どうかナスティ様の御身に幸あらんことを」
 トウマはその、最早エジプトの民も、メソポタミアの民も知らぬ貴重な話を知らせてくれた人に、深い敬意を示しながら思った。恐らく、全ての始まりはメソポタミアにあるのだと。



 ファラオの弟、セイジが無事婚礼の儀を済ませ、カオスの息子トウマが、王宮役人として仕えるようになってから、ひと月ほどが経った頃。
 まだ大司祭国との交渉が続く中、タニスの王朝には不穏な知らせが届いた。慌てた様子で王宮に飛び込んで来た、近衛軍の隊長の話を聞くと、ファラオは一瞬の衝撃の後に眉間を険しくさせ、王座の肘掛けを確と両手で掴んで溜息を吐く。
「そっちが来たか…。…本当なのか?」
「リビア国境の警備兵が早馬で知らせて来たことには、敵はシワ・オアシスを占領し、更に東へ攻め入るつもりのようです」
 懸念されていた三方の内、西のリビア軍がエジプトに侵攻して来たと言うのだ。但しその話の通りなら、まだ時間的な余裕はある。シワ・オアシスはエジプトの中心都市からは遠く、寧ろリビアに近い場所なので、その地点で気付けたなら充分な対応ができる。けれど、別の面では厄介な土地から侵入されたと、ファラオは少し頭を悩めていた。
「どちらへ攻め入るつもりか…。上エジプトか、下エジプトか」
 問題は、シワ・オアシスが上下エジプトの境、アマルナの西に位置している為、今の段階ではどちらに軍を進めるか判断できないことだ。それについては無論ファラオだけでなく、広間に集まる人々全てが悩むところであり、宰相が出て近衛隊長に詳細を尋ねた。
「リビアの動きを追わなければ。誰か様子を探っている者はいるのか?」
「はい、国境の兵の小部隊が、リビア軍を追っているそうです」
 すると意外に、警備兵の中に気転の利く部隊が居たようで、最悪の不安だけは解消されたことに皆安堵する。老宰相の嗄れ声には力が篭り、
「そうか!、守備は悪くないな。ひとまずタニス周辺の兵をメンフィスの西に集めよ!」
 国の一大事にきびきびと指示を出すと、近衛隊長もまた迅速に職務をこなす為、早い動作で一礼してその場を引き返して行った。そして宰相はファラオを振り返り、
「カオス様のご不在時に心許ないですが、必ず防衛致します、王」
 そう言って膝を折った。確かに王朝の精神的な要である司祭長の不在は、ファラオに取って不安要素だが、それは宰相にも、他の者に取っても同じことだ。ファラオはその点を弁え、宰相にはこう伝えて行かせた。
「余は王朝に働く全ての者を信じている。充分に落ち着いて行動されよ」
「は」
 宰相はそんなファラオの、気遣いある言葉にもう一度頭を下げ、事に当たる意欲的な表情を見せながら出て行った。その後を彼の部下の大臣達も追って行った。
 普段は落ち着いた王宮の広間が、途端にピリピリした緊張感に包まれる。ここに残されたのはファラオと、半月前から王宮の会議に参加するようになったセイジ、ファラオの後ろに控える三人のはした女と、神官のラジュラの五人だったが、その中ではラジュラが最も不安そうな顔色をしていた。
 何故なら、話の通りシワ・オアシスからアマルナはほぼ真直ぐであり、リビア軍はアマルナに向かう可能性もあるからだ。今そこに滞在する彼の上司、否、単なる上司でなく、歴代の司祭の中でも特に優れた人物が、戦火に巻き込まれたらどうしようと気が気でないのだ。王宮の神官達は誰もが司祭長カオスの、カリスマ性に頼っているところがあった。
 勿論彼を失ってしまえば、大司祭国との関係もより難しくなる。けれど今は信仰以前に、王朝の存亡を考えているファラオとセイジは、特に怯える様子でもなかった。
「…恐らくこちらでしょう」
 静かな広間にセイジの冷静な声が響くと、ファラオはその意見の裏付けとなるものを確かめる。
「何故そう思う?」
「ひと昔前ならヌビアも魅力があったでしょうが、今や繁栄する土地はパレスチナからアッシリアですから」
「そうだな…。上エジプトを攻めても今は大した利は無いか」
 ナイル上流にあるヌビアの地は、古くからエジプトが搾取する地域だった。幾度もエジプトの支配下となっては離れ、長く隷属的関係を続けて来た。そのクシュ族は比較的大人しい民族だった為、属国となってもエジプトから入る文化に、心を寄せてくれる人々だった。
 御し易い穏やかな民族。その上同じナイル流域の豊かな恵みがある土地だ。ひと昔前なら確かに、エジプトと共に占領すべき場所だが、今はその存在が霞むほどシナイ山の向こうが活気付いている。衰退を続けるエジプトに替わり、パレスチナとメソポタミアの新たな王国に向け、人が動いていることはファラオにも判っていた。なので、
「このタニスを落とせば、ネゲブまでは苦労なく支配を拡大できます。隆盛を極めるヘブライ王国と、肩を並べるにはそれが早道でしょう」
 そう続けられたセイジの予測も充分納得したのだが。その時ファラオは、現在最も輝かしい王国の名を耳に、戦争とは別の不安が頭を過るようだった。
「肩を並べるなら良いが、エジプトの友好国を更に侵略するつもりではあるまいな」
「最終的にはそうかも知れませんが、そうならぬようここでリビアを食い止めましょう」
「ああ、必ずそうしなければ…」
 と、上辺はリビア軍のことを語っていたが、ファラオは常に頭の隅に置いている、忘れられない出来事をここで話した。
「ルナはソロモン王の許で、幸福に暮らしているようであるし、兄である余が失態を見せる訳には行かぬ」
 今や地中海を囲む一帯で、知らぬ者は居ないソロモン王はヘブライ王国の王である。その国はシナイ山の向こうに広がる、ネゲブの野を越えた所にある。数十年前に建国されたばかりの国だが、非常に先進的な思想により人々の支持を集め、また現王は広く世に聞こえる天才的な人物で、各国の有力者が切りなく謁見を願い出る程、人気と実力を兼ね備えた存在だ。
 前王が崩御され、そのソロモン王が即位した時、最初に友好国となったのがエジプトだった。その時友好の証として、ファラオは自分の娘を王の妃に送り出した。ルナとはオソルコン王と侍女の間の娘で、現ファラオのひとつ違いの妹だった。王家の中心的家族が、外国に嫁ぐのは非常に珍しい事だった為、彼の地へ旅立つ妹の様子をファラオは今も克明に憶えていた。
 十五才だった妹は別れ際に涙し、見知らぬ土地にどれ程不安を抱えていただろうと、当時の締め付けられるような思いが込み上げて来る。なのでファラオはヘブライ王国と聞くと、些か気持が乱れることがあった。
 拠ってセイジがこれまで集めた情報から、
「ああ、そう言えば姉上に関する噂も、ヘブル人の商人から聞きましたが…」
 と話し出すと、ファラオは食い気味に尋ねて来た。
「どんな事か?、悪い話ではなかろうな?」
 ただそれは、セイジには判断し兼ねる内容だった為、これまで積極的に話そうとしなかった事だ。まさかこんな時、これ程心配そうなファラオを見るとは思わなかった、セイジは注意を払い言葉を選びながら言った。
「それが…良いとも悪いとも取れるような話でありまして…」
「ふむ。…良い面から話してくれ」
「はい。彼の地には多数の民族が住み、それぞれ異なる信仰を持っているのですが、ソロモン王はそれを許していると聞きました。姉上の為には、アメン・ラーを祀る祭壇を建てて下さったようです」
 するとそれは予想以上に良い事だったので、ファラオの表情が明るく一変した。
「何と心の広きお方だろうか。ヘブル人には彼等の神が居ると言うのに」
 この時代、各国に独自の神話があり、その理屈に準じ国を形成するのが当たり前だった中、ヘブライ王国のその様子は驚嘆するものだった。外国人と婚姻することはあるが、大概の場合妻は夫の信仰に合わせるか、元の信仰を続けても公にすることはない。無論違った理念を広められては、国の民の意識が乱れるからだ。
 神々は我等を創造し、我等の命は全て神々の物である。命は神である。誰もがそう意識しながら、この栄枯盛衰の大地の上に歴史を紡いでいる。神無くして人も無し、神と言う超越した強さが支えてくれなければ、国としての安心も得られないものだ。それ程の重大事であると言うのに、異教徒の祭壇まで建ててくれると言うのは、普通には考えられない事だ。その背景についてセイジは、
「噂に聞く通り、王は大変な知恵者ですから、友好国との絆を大事にし、外交の平和を保つことで新しい政治を確立したようです」
 とは言ったものの、やはり何処か納得できない様子だった。ただセイジの姉でもあるルナについては、特に心配はないとファラオに伝わっていた。
「そうか…。それが国の繁栄にも繋がっているのだろうか」
 彼もまたセイジ同様、あまり理解できていない状態だが、異国の妻と共に異国の神をも尊重してくれる、寛大な国だからこそ人気があるのだろう、とは考えられた。そしてそれが衰え行くエジプトとの違いだとも、落ち着いて分析できていた。
「して、悪い方の話は?」
 そう、ただ、この話には何らかの悪い面もあると、ファラオは忘れた訳ではない。殊に慎重な態度で話すセイジが、その反面の状況を続けて話すと、ファラオは更に仰天することとなった。
「ソロモン王には既に、百人を超える王妃が居るそうです」
「な…、百人…!?」
「それで、大半が異教徒の妻ですから、王宮があまりに雑多な状態になり、このまま王妃達を住わせておくのはどうかと、王妃達だけの別の王宮を建てたそうです」
 実は、エジプトまでは届いていないが、ソロモン王のお妃は既に三百人とも四百人とも言われている。また王宮の他に後宮もあり、そこにも二百人ほどの女達が集まっていると言う。寛容で富める王の傍に居れば良い暮らしができると、やって来る人が絶えない状態なのだ。確かにそこに入れれば、標準以上の暮らしが約束されているのだろう。しかしそれは…
「それは、どう言う事なのか!。王妃と言いつつ差別を受けているのか!?」
「いえ、王妃達は皆良い暮らしをされています。特に最初の王妃である姉上は、その中で一番の権限をお持ちのようです。残念なのはそれでは王は、ろくにお話もしないのではないか、と言うことです」
 手広い外交政策の裏に、そんな事情が生まれていたことを知ると、やはりそれが良いかどうかは首を捻らざるを得ない。最初に娘を嫁がせたエジプトとしても、やや面目を潰された感がある。そして何より、多数の中のひとりとなった妹の心情を思うと、ファラオは複雑な気持に唸るばかりだった。
「うーん…」
 恐らく実態を知れば、ファラオだけでなく多くの者が複雑な感情を抱くだろう。既に他国でもこのような話をしているかも知れない。だが過去から続く典型的な王国政治に、これと言って活路を見出せないとなれば、新たな方策を実施するしかない。それを難しいパレスチナの地でやってのけているソロモン王は、確かに知恵と実行力のある人物だとも感じる。
 少なくとも武力による侵略をせず、友好や平和を重んじるその国のことを、セイジは最後にこう纏めた。
「ソロモン王のお考えは、私には測り知れぬところがございますが、まあ決して姉上が蔑ろにされている訳ではありません。国内の女達は皆、王妃達に憧れ羨んでいるそうですから」
「そうか…」
 憧れ羨まれると言うことは、充分豊かに、また自由に暮らせていると言うことなのだろう。王妃達の頂点に立ち、ヘブライ王国の民にも受け入れられていると言うなら、エジプトに居るより良い生活を送っているかも知れない。それならそれで、友好国の絆としての扱いは充分だと、割り切って考えるべきかも知れない。ファラオもひとまず気持を落ち着けてセイジを労った。
「よく現地を調べて来たようだな、セイジ」
「…暇だったもので。少しでもファラオのお役に立てれば幸いです」
 ファラオが彼に対する信用を、迷いのない微笑みに表したので、セイジは今この場に居られることを心から喜んだ。勝手に結婚させられると、タニスに戻ること自体を拒絶する気持があったが、本当はいつもここに居て、ファラオを助ける立場で居たいと思っていたことを、今は実感しているようだ。
「アッシリアはどうなっているのか?」
 続けてファラオが、今最も動向が気になる国を挙げると、セイジはそれについても正しく伝えられた。
「噂に聞く通り、南のバビロニアを支配下に置き、大帝国を築こうとしているのは間違いありませぬ。ただ整わぬ面がまだ多くあり、今すぐ帝国が成立する段階ではありません。今のところこれまでのアッシリアと、特に変わった事は無いと思います」
「そうだったか…それなら良い」
 エジプトは過去から位置的に、早く正確な情報が伝わり難い国だった。大陸を繋ぐシナイ山は岩盤と砂の山で、人が定住できず、その先にはネゲブの荒れ野と砂漠が広がり、やはり定住する者は殆ど居ない。地中海に沿って海岸線を進む道は在るが、町が存在しない為情報が広がらないのだ。
 また、如何にも兵隊の格好をした者には、迂闊に話し掛けないのが普通である。セイジはエジプト豪族のひとりと身を偽り、商人に紛れていたので様々な話を聞けたが、先を思えばそうした諜報人を常に、彼の地に置いておくことも必要かも知れない、と、ファラオは考えつつ話を続けた。
「では今は東の国には、あまり気を向けずに居て良いのだな?」
「今のところは。海の民と見られる集団の動きがあるので、この先は楽観視できませぬが」
「うん、わかった」
 セイジの話から、充分な判断材料を得たファラオは、今はリビアにだけ集中すれば良いことに、安堵して気持を入れ替える。シワ・オアシスから侵入するとなれば、どの方向に進軍しても砂漠地帯を通ることになる。敵の動きはその分遅いので、充分防衛できるだろうと踏んだ。少しばかり状況に余裕を感じられると、ファラオの表情にも普段のゆとりが戻って来る。
 掴んでいた王座の肘掛けを放し、背凭れに身を預けると、今すぐ動き出しそうだった慌ただしさを忘れ、ファラオはもう一度、心に懸かる話題を思い出し呟いていた。
「しかし…、ヘブライ王国は色々と不思議な国だな…」
 エジプトに取ってお得意様でもあるその国には、これまで戦車や馬、金や象牙、小麦や塩など様々な物を輸出して来た。別段不公平な取引をさせられている訳ではないが、ただひとつ疑問に思っていたのは、ソロモン王の代から戦争らしい戦争は無いと言うのに、未だ大量に戦車を買い付けることだ。
 それについてある時調べさせると、ヘブライ王国は輸入した戦車を、更に高値で他国に売り捌いていると言う。驚くような商売上手の国だと、それを聞いた時には唖然としたものだったが…
 ファラオがそんな思索に耽っている時、王宮の広間に、既に見慣れたひとりの青年が現れた。
「サアメン王様、参上仕りました」
 そして彼を見るとすぐに、ファラオはその優れた知識から、自身の持つ複雑な心境を解明してもらおうと、背凭れから起きて積極的に問い掛けた。
「トウマか、丁度良い所に来た。何か知っているならそなたに話を聞きたい」
「ヘブライ王国についてですか?。今、入口にて聞こえましたが」
 広間の中央へと歩き進みながら、彼は察しの良い様子でそう応える。王座の前に来て一礼し終える前に、もうファラオは話し始めていた。
「セイジの話では、異教の信仰を許していると言うのだが、そんなことで国がまとまるものだろうか?」
 色々と不思議な面を持つ国ではあるが、ファラオは流石にエジプトの王らしく、ヘブライ王国の治世に最も関心を寄せているようだ。もし、統一された強力な信仰が、必ずしも必要ない物だと判断できるなら、エジプトの政治は根底から覆されることになるからだ。
 エジプト王朝は、アメン・ラー信仰とは切り離せぬものだと、多くの者が教えられ今も信じている。この世に生きる時間は短くとも、死後の長い幸福が約束されるからこそ、日々祈り、神殿に寄付をし、今感じる苦悩を乗り越えられると考えている。無論他国でも死後の幸福を説く信仰はあるが、その有り様はそう単純ではないとトウマは話した。
「それは、土地の違いとしか言えません。エジプトは幸いにして、ナイル流域に育まれた人々が、代々この土地と信仰を守って来ましたが、パレスチナはそうでなく、常に各地から流入する民族が混じって暮らし、各々の信仰も混じって来た歴史があるのです。隣人が違う神を信仰していても、ごく普通のことなのですよ」
「では何が民の心をひとつにするのか?」
「私が思うに、知恵であり、豊かさであり、何より平和であることではないでしょうか」
 ファラオにその発想が、なかなか理解し難いのは仕方ないとトウマは思う。敢えて話しはしないが、それらの情報が届き難いのも、他国の文化に汚染されなかったのも、エジプトが辺鄙な位置にあるからなのだ。つまり田舎だからこそ平和だった、と言う面があるが、近代になり地中海を渡る大型船や、強力な戦車軍などの発達で、平和な田舎を維持するのも難しくなったところだ。
 だから今は、より近代的な地域に学ぶことが重要なのだが、それをセイジがこう話すと、
「成程、パレスチナの周辺は古より、小国同士の戦が絶えなかったと聞いた。今は優れた王が支える平和に、人々が酷く喜んでいるのを私も肌で感じた」
「さすがセイジ様はよく見聞されておいでです」
 トウマはその実感は正しいと、彼の勉強の成果を褒めていた。結局のところ、死後の幸福より現世を幸福に生きることの方が、普通の人間は魅力的に感じるものだ。殊に紛争の多い地域では、信心深い人間も理不尽な目に遭うことは多い。そんな時人々は何を一番に求めるだろうか。
「平和か…」
 そしてファラオは、平和とは最も魅力的な事なのだと、改めてその価値を見い出していた。確かにエジプトは昔から、パレスチナやメソポタミアに比べ、平和な国だったので多くの移民が集まり、大所帯を抱える大国となった面がある。食物だけでなく労働者に恵まれたことが、嘗ての栄光の礎だったのは間違いない。だからこそ王家には、民の幸福を考えよと言う治世の教えが残されている。
 貧富の差が無い訳ではないし、奴隷労働者も存在する。真っ当なエジプト国民でも完全なミイラを作り、死者の書の通りに送り出してもらえる者は少ない。例えそれでも、平和で日々の暮らしが成り立つなら、人々は喜んでそこに暮らすのかも知れない。その為に、政治的に何をするかが要だと、ファラオは段々と考えを深めて行った。ただ、
「しかし…、外交手段として異教徒の妻を多く娶ると言うのは、真似したくないやり方だな」
 ヘブライ王国のその点にはどうしても共感できないようだ。それは当然、このファラオの性格から容易に想像できることだったが、トウマはそれについては、
「見習う必要はございません。それが正しいかはまだ判らないのですから」
 何故だか否定的な意見を述べた。彼にしては珍しい態度なので、
「何故だ?、実際妻を娶った先の国々から、多くの物資や情報が集まり潤っていると聞くが?」
 セイジがそう反論すると、意外にもトウマは納得させる話を後に続けた。
「今、ソロモン王の代では繁栄しておりますが、中心に居られる王が亡くなれば、繋ぎ目を失った人々はどうなるか判りません。元々パレスチナは雑居地帯なのです」
「…そうか、優れた後継者が後を継がなければ、混乱するかも知れぬな」
 セイジはその予測の信憑性を現地の様子に合わせ、成程、あり得る事だと頷いている。ヘブライ王国は代々の王が同じ神を信仰して来たが、もし今の外交政策の結果、異教の後継者が後を継ぐこととなれば、同じ理念で王国を続けるとは思えない。ヤハウェ神、ケモシュ神、ミルコム神、ダゴン神、バアル神、アシュタロテ女神など、彼の地には民族の最高神が多過ぎる、と思った。
 またファラオはトウマの言に、以前聞いたアメンヘテプ四世王の話を思い出していた。もし彼の後に立派な後継者が存在すれば、今はアメン信仰でなくアテン信仰だったかも知れぬ、と思うところがあるからだ。ファラオはその歴史について、後からラジュラにもう少し詳しい内容を聞き、アテン神とは決して悪いものではなかったと、今は確信を持って考えられていた。
 アメン信仰の土台は常に、エジプトを構成する様々な神の集合体だが、アテン神は太陽そのものの神だ。元よりこの国は太陽神ラーを崇めて来たのだから、原点回帰でもあり、長く続けば馴染まぬこともなかっただろう。新たな神の元で新たな王国の発想が生まれれば、現状はもう少し違っていたのではないか。少なくとも、大司祭国が分裂することはなかったのではないか、と思う。
 理由は違うにせよ、ひとつで居られぬことが常に問題なのだ。
「ふむ…。何処の国にも不安はあるものだ…」
 ファラオは軽い溜息を吐きながら、改めてその視野に広がるエジプトを考える。
「確かに平和であることが何より望ましい。王朝の安定にはとても大切な事だが…」
 すると、その言葉尻に秘められたファラオの意思を取り、セイジが続けると彼もまた応えた。
「エジプトが何をしなくとも、リビアは攻めて来るのだからどうしようもありません。今は迎え撃つしか」
「その通りだ。今は目下の敵を退ければな」
 そしてトウマがその防衛戦についても、彼の知識に拠る有用な助言ができたので、ファラオもセイジもその場で感心した。
「リビア人は、嘗てエジプトを占領したシリア人とは違います。知的戦略はほぼ無い代わりに、人数と物量で攻めて来ますから、過ぎるほどに厚く防御をお固めになられませ」
 彼の言う事にはひとつひとつ納得させられる。シリアには長い歴史があり、亡きヒッタイトやアッシリアとも長く付き合い、様々な情報や知恵を獲得して来た人々だ。しかしエジプトより更に西に位置するリビアは、エジプトより田舎の民族と言える。彼等に洗練された戦闘術などありはしない。と、戦況を予想するに充分な分析を得ると、ファラオは漸く重い腰を上げ、
「確と心得たぞトウマ。うん、余は退席する。宰相と共に軍の様子を見に行って来る」
 そう言って王座を立ち上がった。トウマとセイジと、取り巻く様々な状況を話す内に、何らかの良き判断が得られたのだろうか。ファラオは先程までの思案顔を皮膚の下に収め、今はひとつの確かな決断を持って歩み出した。外国との軋轢を強めたくはないが、国が荒れる元となる戦を、領内に持ち込まぬことがまず重要だ。そして彼がそう決めたなら、王朝を支える人々はそれに着いて行くまでだった。
「は。私も追ってメンフィスに出向こうと思います」
「頼んだぞ、弟よ」
 セイジが会釈するのを横に見て、ファラオは力強く信頼の声を掛けた。そして存在感のある足音が一歩ずつ広間を横切って行くのを、セイジもまた頼もしく見送った。今はまだ、この何事も熟考する公正なファラオが存在する。エジプトはこの代では大丈夫だと、人に感じさせる強さは大切なファラオの資質だ。サアメン王がそんな人であることに、エジプトは救われているとセイジは誇りにも思う。
 後は我々王族と臣民が、如何にファラオの為に働けるかだった。

 心強い兄の姿が消えた後、セイジは前に立つトウマに尋ねた。
「そなたは歴史に明るいと聞いていたが、軍略の知識もあるのか?」
「いえ、他民族の特徴を把握しているだけです」
 するとその返事を聞き、改めて成程と頷いたセイジは、
「他民族の特徴か…。そうだな、シナイ山より向こうに暮らす者達は、皆何処か余裕が無いと言うか、抜け目が無いと言うか、エジプトの民のような穏やかさに欠ける感じがしたな」
 現地に滞在した三年間に、しみじみ感じていた民族の差をそう語った。人種的にそれ程違いがある訳でもない、慣習にも共通性を持つ人々が、全くの異邦人に思える時があるのは何故だろうと。すると、
「セイジ様は、その理由を御存知でしょうか?」
 トウマがそう尋ねるので、
「恐らく、長く戦が続いたせいで、皆疑心暗鬼になっているのだろう。何故彼の地の人々は、そんなに戦をしたがるのか解らぬが」
 セイジはそう答えたが、それでは不完全な理解だとでも言うように、トウマは更に質問を続ける。
「戦が続く理由は何故でしょう?」
「…え…?」
 パレスチナの民に余裕が無いのは戦のせいだ。戦が多く起こることにも当然理由がある。戦には常に理由がある。と、トウマの言いたい事を察するとセイジは、そこまでの勉強はできなかったと素直に受け、
「何故だ?、知っているなら話してくれ」
 と返した。こんな時だからこそ他地域の、あらゆる成り立ちを知りたいと思った。そこには必ずエジプトを守るヒントもあるだろう。そしてトウマはこのように解説してくれた。
「シナイ山より東のパレスチナ、メソポタミア、アラビアなどは、多民族が暮らす割に耕作地が乏しく、長く食料の少ない土地だったからです。今は各地で灌漑農業をしていますが、我々のように大河の恵みを一人占めすることはできず、富を奪い合う歴史が続いた訳です」
「それは、不幸なことだな…」
「リビアにしても、他国にしても同じようなもの。皆豊かな土地を欲しがっているに過ぎません。我々はエジプトに生まれ、ナイルの富の上に穏やかなエジプトの精神を築いた。つまりナイルの精神を守ることが、エジプトと言う国を存続させることだと私は考えます」
 エジプトはナイルの賜物。その言葉はなにも、食料や資源ばかりを指して言う訳ではない。乾燥した広大な土地を流れる大河と、その流域にだけ生い茂る緑の植物。降り注ぐ強い光に包まれ、緩やかな命の流れは繰り返し実りを結ぶ。このナイルの光景が如何に人々の心に根付いているか。それこそが国を支える心であり、心はつまり国だとも言える。
 豊かであり、穏やかなナイルの精神は、我々が真にエジプト人だと示すものだ。
「そうだな…、納得した。この戦が終わったらまた話をしよう、トウマ」
 セイジはある種の感銘を受けながら、言葉通りトウマの話を飲み込むと、何処か吹っ切れたように清々しく広間を去って行った。トウマはそれを見送りながら頭を下げ、現ファラオと王子の誠実な態度を感じながら、出来得る限りこの王国の存続を願う。
「御武運を。アメン・ラーの御加護がありますように」
 何事にも限界と言うものはあるかも知れない。だが、生き延びる為に力を尽くすのもまた人の道だと。



 この度のリビアの軍の急襲は、結局アマルナの手前で敵を包囲し壊滅させた。リビア国境に配置されていた小隊長、ムカラの活躍でエジプトの作戦は大成功に終わった。



つづく





コメント)あら〜、このページ全然LOVEが無くなってしまった(苦笑)。そこはかとなく当ナスが漂うだけで。前の話が繰り下がったせいで、この後の征士と伸の話が入れられなかったです。こんな所でインターバルが入り、来年に続くとするのはすごく申し訳ないけどごめんなさいm(_ _)m。
容量がまたもギリギリなので、細かい解説がちっとも書けないわ…。



GO TO 「ナイルと緑の芦辺 5」
BACK TO 先頭