謁見
ナイルと緑の芦辺
#3
The River Flow



 首都タニスの町中では、まだ人々の賑わいが依然として続いている。これから夕食時を迎える為、一時より寧ろ活気が出て来たほどだった。エジプトの民は皆、その晩餐を飲めや歌えで楽しむつもりだろう。王宮の中でも晩餐会は行われるが、しきたりに乗っ取った極めて厳かなものだ。羽目を外して喜び騒ぐ特権は、民だけに与えられたアメン・ラーの贈り物である。
 そんな、王宮の外から聞こえ来る騒々しさを、少し羨ましそうに窺っていたシュウは、今さっきセイジとシンの居る部屋から離れた所だ。実は、ふたりだけの遣り取りの一部始終を、窓の隅に隠れ覗き見ていたのだ。
 侍女であれファラオであれ、他人の私生活の場を覗き見するなど、厳禁であり品の無い行為である。殊に王宮では位の高い王族への敬意から、誰もこんな行動はしないものだが、何しろシュウは型破りな娘。礼儀がどうと言う前に、自らの誓いを確と実行しようと働いているつもりだった。
 即ち、シンとその息子を守ることだ。
「…意外にいい雰囲気だった。姉上の心配が杞憂で済むならなら幸い」
 ふたりの大体の様子が判ったところで、シュウが窓辺のテラスから去ろうとした時、そこに偶然もうひとりの人間が通り掛かった。彼は相手を見るなり、噂には聞いていたが何と逞しい女だと驚き、
「あなたがシュウ様か??」
 と尋ねた。婚礼の儀の大広間では、大会衆に紛れよく見えなかったようだが、想像していたよりその姿が、侍女とも思えぬ雄々しさを感じさせたので、彼は目をパチクリさせていた。すると、相手の驚く姿を面白そうに眺め、
「ああ、ファラオご兄弟の従兄弟のひとり、シュウでございます。今後宜しくお見知り置きを、神官殿」
 シュウは普段と変わらぬ態度で自己紹介した。その動じない様子も頼もしい軍人のようで、ある意味王宮の住人には心強い存在かも知れない。ただ、相手を確認したアヌビスは、この人に是非聞いてみたいと思う事があった。挨拶の後にすぐ行ってしまいそうだった、シュウを引き止め彼は話し出した。
「我が名はアヌビスと申して、セイジ様付きの神官であります。その、私は日頃から、神の名を与えられたことで多少困ることもございまして。大気の神の名を持つあなた様にも、これまで何かご面倒がおありかと思うのですが…」
 初の挨拶としては唐突な話だったが、前途のようにアヌビスは己の名が、セイジのイメージを悪くしていると自責を感じることもあり、同条件を持つ彼女に意見を聞いてみたかったようだ。神の名を持つのはかなり特殊なことで、シュウもまた何故そんな名が与えられたのか知らない。けれど、相手の生真面目な様子を笑い飛ばすように、シュウはその名との気楽な付き合いを話した。
「ははは!、いやそうですね、シュウ神は男神ゆえ、私がこんな風体になったのは名のせいだろうと、皆口を揃えて言うくらいですよ。困ると言えば、神のように崇められても困るってだけで」
「はあ…」
 エジプト神話の創始の部分に、重要な神として登場するシュウ神は、正に太陽神ラーの息子である。シュウ神は妹と結婚し、シュウ神から産まれた兄妹もまた結婚した。兄は大地の神ゲブ、妹は天空の神ヌウト、ふたりがあまりに愛し合い離れようとしなかったので、大気の神シュウが間に入りふたりを引き離した。天と地が大気により分けられ、それが地上世界の始まりとされている。
 シュウの名付け親は父、オソルコン王の弟だったが、まあ単にシュウ神の立場にあやかり、人の間で力を発揮する娘になってほしいと言う、普遍的な願いからであったろうと窺える。ファラオと王朝を支える存在となれるよう、人の世界の基礎を支える神に願う、弟の一族の気持が表われた名だ。それだけオソルコン王と弟は良好な関係だったのだろう。
 現ファラオとセイジもまた穏やかな関係だ。そして今、名に込めた願い通りに、シュウは弟一族を支える立場として王宮に入った。そんな必然の流れを感じた時、シュウは神話の話に思いを巡らせ、
「ああ!、今思い付いた。私はなるべくはした女に紛れ下がっておきましょう。私がシュウ神なら、セイジ様と姉上はゲブとヌウトのように、仲睦まじくあっていただきたい。そう思わぬかい?」
 と、一層明るくアヌビスに語った。侍女としての自覚があるのかないのか、聞く方としては些か拍子抜けな話だが、シュウの王子夫妻を思う率直な気持が、爽やかに感じられたのは好印象だった。
「シュウ様は、面白い方のようですな」
 思わず、自身の根深い悩みも忘れ、アヌビスはつられるように笑っていた。ともすれば王族、豪族の娘は鼻持ちならぬ、お高く取り澄ましたような性質に育ち易いが、こんな姫君も居たものだと、可笑しさと共に安堵も感じた。難しい舵取りに悩む、王宮の重い雰囲気を和らげてくれそうな、気質の明るさは彼にも有難く思えたようだった。
 これより王宮にはセイジの家族も加わり、より力強く前進できるのではないかと思った。

 その夜は一晩、タニスの町に明かりが灯り続けた。王宮の門前に構える兵隊の、手に持つ篝火も一際輝いて見え、空に広がる星々の瞬きが霞むほどだった。現王朝の治世による平和の輝き、エジプトの民の健やかな暮らしの輝き、即ちナイルより生まれた命の輝きが、まだこんなに活気を帯びて感じられるのは、王家の者達にも嬉しい夜だった。
 ただ、祭に浮かれ騒ぐ民人はともかく、エジプトの神々までもが、果たしてこの婚儀を祝福してくれているだろうか、と、特に大王母は深く心に留め置いている。前ファラオの意思を大切に、自ら進んでこの縁組みを取り纏めたが、息子は乗り気でなかったことを知っている。厳かな晩餐の席にて、決して表には出さないものの、大王母は常に新たな家族の一員となるシンと、セイジの態度を気に掛けているようだった。
 その時は特に気になる事は無く、和やかな会話と笑い声に包まれていただけだが。
 晩餐会が終わると、大王母は部屋にひとりのはした女を呼び、翌日からのふたりの生活をこっそり監視し、毎日自分に報告するよう指示した。セイジの自宅は王宮からは少し離れている為、その家に仕えている他の使用人らに、事情を話し置いてもらうようにと言った。
 元より大王母付きのはした女は、良くしてもらっている恩から忠実にその命を遂行する。
 翌日の午後、彼女が王宮に戻ると、大王母は早速その報告を聞いた。
「セイジの様子はどうでしたか」
「はい、セイジ様は今日は、シン様に神官方や有力な家臣方を御紹介になり、午後からは王宮の中を自ら御案内するなど、一日お傍に着いていらっしゃいます」
「そうですか、今この王宮に来ているのですね」
「はい、先程ナスティ様とお話しになっているのを見ました」
 そこまでを聞くと、一日目の行動としては、するべき事をしているセイジのまともな様子が窺えた。度重なる不幸から捻くれてしまったのではないか、と考えていたが、案外真面目に王朝の一員となろうと、意欲的に動いているようだった。まずはそれだけで大王母のひとつの不安が消えた。本人の不満な形で呼び寄せたことが、セイジにどう働くかと思っていたのだが。また、
「他の方のお話でも、終始にこやかなご様子だと聞きました。侍女のシュウ様が大変賑やかなお方で、おふたりもよく笑っておいでですと」
 かなり問題のある娘と見ていたシュウが、今のところは良い方に働いているとも知り、侍女に認めたことも悪くなかったと安堵した。シュウについては王宮の要請ではなく、シンの母親が是非にと勧めた話だった為、大王母の心配事のひとつとなっていた。だが蓋を開けてみれば、それ程心配する必要はなさそうだと見えて来た。それだけ判れば、一日目としては充分な収穫だった。
 引き続きはした女の偵察行動は続く。翌日の午後にまた彼女が現れると、
「今日の様子はどうでしたか」
 大王母は昨日に比べ、少しばかり穏やかな表情を向け尋ねた。ところが、
「はい、神官のアヌビス様のお話では、セイジ様は昨晩シン様と共に床に入られたようです。大変仲のよろしいご様子です」
 事態は予想より遥か先を行っているようで、大王母は暫し唖然としてしまった。
「あら…、まあ…、そうですか…」
 当然大王母が最も懸念しているのは、王家に子供が居ないことだ。その為に今回はやや強引な形で、死別したばかりのシンを連れて来てしまったが、セイジがそれをどう捉えるかが最大の不安だった。少し時間は掛かるかも知れないが、何れ打ち解けた夫婦となるように、大王母は自ら、間を取り持ってあげようとさえ考えていたのだ。
 それがまさか、全く無駄な心労に帰すとは大王母も驚く筈だ。何があったのか、何処をどう感じたかは知りようもないが、セイジは余程シンが気に入ったようだと、その話は納得させるものがあった。恐らくアヌビスが是非伝えるようにと、はした女にわざわざ話したのだろうから。
 つまりそれは、遠からぬ未来に良き知らせがあるだろう、と言うことだ。
「今日の午後から明日にかけては、御一緒にティムサ湖で過ごされるようです」
 はした女は続けてそんな報告もしたが、多くの障害と思えた事が、尽く砕かれて行ったので、大王母は最早己の手を離れた事とし、
「そうですか。…もう偵察は終わりにしてよろしい」
 と、ひとりのはした女の任務を解いた。思考の上では上手く行かぬかもと感じる事も、実際どうなるかは判らぬと大王母は溜息を吐く。思えばシンが産まれた時、夫と義妹の不貞による娘など、王宮に入れることは絶対に許さぬと訴えたが、結局自ら呼び寄せることとなった。定められた宿命的な流れは、どう足掻いても変えられぬ代わりに、何をせずとも実を結ぶ現実が存在する。
 大王母はそんな、神々の悪戯のようなエジプト王家の中に在る。しかし結局は、これからも胆を据えて王家を守って行こうと、セイジの顛末については喜んでいるようだった。何事も良き方へ転ぶなら、流れのままに身を委ねた方が、アメン・ラーのご意向にも適うのだろうから。

 タニスから南へ千ケト程南下した辺りにその湖は在る。
 セイジはシンを連れ、また護衛や供の者、侍女のシュウも連れてラクダの隊列を組み、一夜だけのささやかなバカンスに出た。ティムサ湖はナイル川の支流と紅海の交わる汽水の泉で、遠い過去から独特の生物が棲み着き、湖岸は常に芦原に被われている。その美しく雄大な風景を是非とも、新たな家族に見せてあげようとセイジは考えたようだ。
 到着した頃は既に、日暮れの迫った夕方遅い時間だった。既に赤く染められた湖に、落ち行く太陽が映り込み、溶けた鉄を流したように尾を引き輝いていた。その幻想的な夕時のイベントは、アメン・ラーが昼間の仕事を終え、夜を司るオシリス神と一体化すると言う、壮大な終わり、否、始まりの儀式として相応しい華やかさを感じさせた。
 アメン・ラーは生であり死である。太陽は毎日新たな命として生まれ、夜には死して穏やかな冥界の法座に着く。そうして永遠の命を紡いでいる。このナイル流域の世界もまた、アメン・ラーの命の活動と共に、永遠に存在するエジプトの生命力を感じさせる。
 供として着いて来た兵士や家臣が、運んで来たテントを張り、薪と草とを集め、湖の畔の一夜を準備していた。下男達は定番の野外料理、蝗豆のスープを作りながら、湖面に跳ねる魚を捕えて夕食に供えようとしていた。誰の顔にも苦悩は無く明るかった。今宵は家族達と働く者達、皆がその原始的な命の輝きに包まれ、英気を養い、同じエジプトの心を通わせることができるだろう。
 何故なら彼等は仕事や階級の前に、同じナイルを母とする民族だ。

 朝、まだ皆が起き揃う前に、セイジはシンを連れ出しその湖岸に立った。夕暮れの幻想的な美しさとはまた違う、ティムサ湖の明るい景色は、清々しく美しい未来を見ているようだった。後ろから抱きかかえられたシンは、その情景にセイジの内なる気持を思う。
 エジプトは全てがひとつ。除け物にされかけていた王子は、ずっとお淋しかったのだと。
 青白い空と湖面とを分ける、緑の草木の生い茂る水辺。これが私達の根源的な世界観であり、私達を繋いで来た愛である。セイジはその真理を空に見るように言った。
「エジプトの全ての歩みは、この緑の芦原から始まった」
「はい」
「幾度刈れども、幾度腐り落ちようとも、芦は絶えずナイルの岸に寄り添い生い茂る。この地に続く王朝も、我々も永遠にそうでなくてはと思う」
 そして、妻を抱く腕に一際力が入り、彼は心からの言葉をこう伝えた。
「どうか私と共に生きて下さい。川の始まりから海へと続く長い旅をしよう」
 既に婚礼の儀を終え、形としての夫婦にはなっているが、それだけでは足りぬ物があると彼は感じているのだろうか。エジプト王家の一員として、より強い結び付きを彼は欲しているのだろうか。以前の結婚生活には感じなかった、何らかの強い意思が、セイジの腕を通しシンに伝わって行く。
 変わらぬナイルの流れのように私達は生きたい。その気持を察すると、シンは元来の優しさを持って相手を受け止めた。
「そのお言葉、大切に心に刻んでおきます」
 アメン・ラーが朝に甦るように、己もまた新たな人生に甦る。今度は、抱き締めてくれる人を失うことがないようにと、シンは明けて行く空の高みを見て思った。ふたりは暫くそうして芦辺に佇んでいた。

 期せずして訪れた幸福なふたりの結婚。ただひとつ、シンの息子の事だけは気掛かりだったが。



 弟の婚礼の儀を終え数日、町の様子も漸く平常に戻ったある日、
「カオスはもう発ったか?」
 いつものように王座に着いたファラオが尋ねると、
「はい、先程アマルナへ向け出発されました。司祭長不在の間は、このラジュラが代理を務めます」
 日頃カオスを助ける立場の、よく知る神官がそう伝えた。彼はカオスと同じ、代々王家の神官を務める家系の者だけに、ファラオの信頼も厚い神官のひとりだった。ただ、
「そうか、判った。上手く話を纏めてくれるといいが」
 と、ファラオが了承する言葉を告げた後、彼は何やらもじもじとした仕種を見せた。司祭長のカオスは例えファラオであっても、教えを乞う対象であり人徳もあり、誰からも尊敬される人物だが、なかなか彼のように立派に育つ神官は居ないものだ。こうしてファラオと直接遣り取りすることも、慣れない様子で落ち着かないラジュラは、もうすぐ齢四十にもなろうと言うのに、堂々と表に出るのが苦手のようだった。
 今、ラジュラが伝えたのは例の大司祭国の、特別な祭への予算請求の件で、カオスが息子に代わりアマルナへ交渉に行った、と言う話である。あれから幾度話し合いを持ち掛けても、位の低い役人では取り合ってくれそうもないと、アマルナから連絡がありカオスがそこへ向かった。王朝としては切り札を派遣したことになる為、どうあってもこの件は最小限に留めてほしいところだ。
 まあ、カオスなら上手くやってくれるだろう。屈強な軍の護衛も付けたので、無闇な事も起きないだろう。と、ファラオは概ね安心しているが、何故だかラジュラの視線は広間の天井を泳いでいる。その様子に気付くとさすがにファラオも、何か不安材料があるのだろうかと、徐々に迷いが気持に乗り移って来るようだった。否、実はラジュラは、少し言い出し難い陳情を頼まれていたのだ。
「あの…、申し上げ難いのですが、実はお願いしたき事が…」
 彼が頼りなげな調子で話の口火を切ると、
「ん…、何だ?」
 どうにも不穏な空気を感じファラオは身を乗り出す。しかし聞いてみればこんな話で、緊張の糸は途端に解けて行った。
「ファラオに是非面会したいと申す者が居りまして…。カオス様の御子息なのですが…」
「ああ、まだ戻ったばかりだと聞いたが」
「はい。それが、どうしてもファラオにお伝えしたい事があると、昨日タニスに到着したその足で、私に直訴しに参ったのです。お若いとは言え道中の疲れも見せず、何ともはや…」
 確かに何ら不穏な話ではなかった。だがカオスの息子トウマが、ラジュラに面会の申し出を頼むのは些か不自然だった。トウマはラジュラとは、幼少の頃から顔馴染みであるとは言え、王家で最高位の司祭であるカオスに、話を通せば事は簡単だった筈だ。何故ラジュラを選んだのか、その点に何か問題が隠されているようだとファラオは感じ取った。
 また、一介の若い役人が、直接ファラオに話したいと言うのだから、
「それ程までに、何か重要な話があるのだろうか…」
 と思い付いて当然だ。アマルナに滞在中、大司祭国の悪い噂でも聞いたのだろうか。ヌビアに怪しい動きがあったのだろうか。否、その程度ならラジュラに伝えるだけで済むだろう。ファラオは暫し考えた後、その若者に会ってみることにした。素性の判らぬ民間人ではないのだし、特に警戒する必要もないと思えた。
「良い、今日は午後の会議や来客の予定は無い、正午すぐ参上するよう伝えよ。カオスの倅は比類なき天賦の才を持つと聞く、今王朝に有用な話なら是非聞きたい」
 ファラオがそう話すと、ラジュラはほっと胸を撫で下ろす様子で膝を折った。
「は、仰せの通りに」
 その姿を見るに、彼には余程困った申し出だったらしいと、ファラオにも少しばかり面白く映った。嘗てトウマはこのラジュラに教わる身だったと言うのに、その頭脳が立場を逆転させたようだと。

 そして、トウマは正午を待たず王宮にやって来た。
「サアメン王様、お目通りをお許しいただけましたことを感謝致します」
 その若者はどうだろう、ラジュラとは対照的に物おじせず、ファラオとその身を守る厳めしい側近達、同席した老宰相の前に出ても、張りのある声で挨拶し、膝を折って深く頭を下げて見せた。一見痩せて弱々しくも見える風貌だが、その目には知性の炎が黒々と灯っているようだ。成程この耳に聞こえる人物だと、ファラオはトウマから強い印象を受けていた。
「うん。堅苦しい挨拶はいい。タニスに戻るなり、このラジュラに強く要望したと言うのは、何かこれと言う話があるのだろう?。カオスの倅のそなたであるから、余も充分に信用を持って迎える」
「ありがとうございます」
 そう言葉を交わすふたりは、立場としては遠く離れているものの、年はたった四才しか違わない。その事実について、ファラオは年の近い世代に、見所ある人間が居ることを確かめたい気持もあった。なので、
「話を聞く前に、ひとつ尋ねたいことがある」
「何でございましょう?」
「そなたは位ある司祭の倅だと言うのに、何故神官とならなかったのだ?。五年程前まで見習いをしていたと聞くが、一役人となることを何故カオスも認めたのだろう?」
 ファラオはその点をまず明らかにしたいようだった。何故ならそれがカオスでなく、ラジュラに事を頼んだ理由だろうと、少しばかり察しの付くところがあった。本来進むべき道を外れたトウマを、カオスは「神官には向かない性格」だと話すが、実際何があったかはラジュラ以外知らない事だった。
 すると、特に気にする風でもなく、
「父よりお聞きになりませんでしたか?」
 トウマは淡々とそう返した。壇上に見上げるファラオの様子を真直ぐに見て、確かに事情を御存知ないようだと覚ると、そこからは声のトーンを落として話し始めた。恐らくこの場がざわめくことを想像し、あまり強気な態度を見せるのも良くないと彼は考えた。
「実は…、ファラオの御前では大変申し上げ難いのですが、私めはアメン・ラー信仰に疑心を抱いているが故です」
 案の定、広間に集まる人々から細波のような、小言の応酬が聞こえて来る。エジプト王朝をこれ程長く支えて来た神に、信心を失うとはあまりに外道だと。ただ、知っていて許しているラジュラの沈黙と、何よりファラオが、殊に真剣な態度で聞いてくれているのを知り、トウマはより落ち着いて真相を続けることができた。確と王宮の人々に伝わるよう噛み砕いて話した。
「疑心と申しましても、神々の英知やご威光を疑う訳ではございません。ですが…、私はエジプト神官の歴史の中に、神々に対する身勝手な解釈や、時事を捩じ曲げる操作を見付けてしまったのです。それについて父、カオスとも幾度も話し合いましたが、私はその事実の上で、神官として働ける心境にはなれなかったのです」
 その勇気ある発言を、ラジュラは内心恐れ戦いていたが、意外にファラオや宰相は黙して耳を傾けていた。広く深く世を知らぬ者には判らずとも、頂点に立つ者達は理解している。神々の威勢と神官の権力は全く別の物だ。神への愛敬を我が物とするのは愚かなことだと。
 故に深長な面持ちで、ファラオはトウマにその子細を尋ねる。
「時事を捩じ曲げるとはどう言う事か?」
「例えば、私が数日前まで滞在していたアマルナですが、王はその町の別の名も御存知でしょう」
「アケト・アテンか…」
 その古い地名は現在、歴史を学んだ神官や王族、博学な家臣の一部しか知らないものだが、その誰もがエジプトの苦々しい記憶として認識している。地名に含まれる「アテン」とは、アメン・ラーを排除する為に創造された神であり、それはエジプトの根幹を揺るがす大事件だった。
「そうです、アメンヘテプ四世王の遷都された都。血迷ったうつけの王が、偽の神を奉り上げ王朝を穢したので、その歴史は一代限りで終わったと」
 そもそも「アメンヘテプ」と言う名は、「アメン神は満足する」と言う意味である。ナイル流域から生まれたエジプトの全ては、アメン・ラーの庇護を受け、ファラオもまたその神と共に歩む、当たり前の道徳感が今現在も続いている。それを何故、長く平和だったテーベの都を捨て、突如アマルナに遷都し、あまつさえ神を冒涜する行為に出たのかは謎のままだった。
 またそれにより、当時支配していたパレスチナの情勢が悪化した為、王朝崩壊の切っ掛けとなった。確かにうつけと呼ばれても仕方ない面がある。しかし、
「しかしサアメン王様、果たしてアメンヘテプ四世王は、本当にうつけであったと思われますか?」
 トウマはその疑問に対し、毅然とした態度でそう続けた。王宮のこのような場で、過去のファラオや神々のことを語るとなれば、無闇に名を呼ぶのも烏滸がましく、怖じ気付きながら話すのが普通の態度と言うものだ。けれどトウマの曇り無い、明瞭な意識や話し方に触れると、ファラオも素直に己の感じることを伝えた。
「…いや」
 と、ほんの一言だが、その意を確認できればトウマには充分だった。
「そうでございましょう、言い伝えはどうあれ、王は一代で各主要都市にアテン神殿を建造し、その時代は確かにアテン神が崇められていたようです。その手腕はとてもうつけとは思えません」
「余もそう思う。…何か事情があったのだと思うが」
 ファラオが考える事情とは、例えばその頃役人に汚職などが流行り、民のアメン・ラーへの信仰に不信感が生まれ、急な改革を余儀無くされたのでは、と言うものだった。実はアメン・ラー信仰に対し、アテン信仰は厳しく世を律するものだった為、誰にもそんな想像が成り立ち易い。少なくとも王家より選ばれ、王朝の存続を任されたファラオならば、真の意味でエジプトを裏切ることはしないだろうと。
 そして事実は、出来事は違うにせよ、当時のファラオの誠意が感じられる過程だった。トウマはその発見をファラオに伝えるべくやって来たのだ。
「私はその証拠を、先日アマルナ、即ちアケト・アテンにて見付けて参りました」
「証拠を見付けた…?。それは何だ?」
「既に砂に埋もれた王宮跡の壁の一部に、刻まれた文書が残っておりました。『アメン神官団がファラオの継承や、政治などに口を出す為エジプトは混乱した。よってアメン神を捨て、アテン神を信仰する新たなエジプトを作る。余はアクエンアテンと改名する』と」
 トウマがそう話した時、先程聞こえたざわめきより遥かに大きな声で、動揺或いは驚愕の言葉が次々挙がっていた。
「何と言うこと…」
「それでは話があべこべでは…」
 宰相も神官達も、教えられて来たエジプトの歴史が覆される、異常な事態に直面し狼狽えているようだ。それはそうなるだろう、後の世に不利益な事実と考え隠された、三百年以上昔の出来事を語り継ぐ人が、現代に居る筈もないからだ。特にアメン・ラー信仰を揺るがす話は、エジプトの民にどれ程の衝撃を与えるか判らない。だが驚きながらも、ファラオは意欲的にトウマの話を聞こうとした。
「それは…、まことの話なのか?」
 すると、そこでトウマは司祭長の息子ならではの経過を語った。
「はい。実は私は、十四の頃から長く謎に思うことがありました。カルナク神殿に刻まれた歴代ファラオの名の内、アメンヘテプ四世王の後の数人分を、削り取った跡があるのを御存知でしょうか?」
「ああ…、知っている。歴代のファラオのことは無論教えられて来たが、確かにそこには空白がある」
 神殿には民人も祈りを捧げに訪れるが、刻まれた多くの碑文をひとつひとつ、細かに見ているのは神官と王族くらいのものだ。ファラオとトウマにはそんな共通点もあり、後の話は理解し易かったに違いない。
「その空白を私はずっと探しておりましたが、この度漸く確信を得ました。アメンヘテプ、いや、アクエンアテン王のご逝去後、トゥタンクアテンと言うファラオが即位されたが、幼い王だった為、アメン神官団が実権をもぎ取りアメン信仰へと戻したのです。そして王が早逝されると、神官の息の掛かった宰相のアイと言う者がファラオになり、神官の支配する王朝となっていたのです」
 トウマが八年をかけて探し出したあらゆる記述。石に刻まれた碑文、パピルス、粘土板などから、彼はそれだけの事実を掴むことができた。そんな探求心ある人物も居なければ、学べる筈の過去もぼんやり見過ごすところだった。
「それらの名は聞いたことがない…。お主は知っていたか?」
 ファラオが横に立つラジュラに振ると、彼は顳かみに冷や汗を流しながら応える。
「いいえ…。その時代のファラオは悪政を行い、歴史から抹消されたと教えられましたが」
「余も同じだ」
 そして、無知とは何と恐ろしい事かと、ファラオは痛感することになる。トウマはその、名を削り取られたファラオの背景について、誰をも納得させる指摘をしてみせた。
「そうですとも、例え一神官がファラオになろうと、善き治世を行えていたなら、名を抹消されることはない筈です。アテン神の名を持つファラオは、都合の悪さから消されるとしても、神官団の推したファラオが何故抹消されたのでしょう?」
 その問い掛けには、最早ファラオも迷うことなく答えられていた。
「それだけ、神官団の力が強大になり、評判が悪かったと言うことだろうな」
「恐らくそんなことだと私も思います」
 そこまでの、真に迫るファラオとトウマの会話を聞いて来ると、広間に集う他の知識人達からも、様々な意見の声が挙がるようになる。滅多に取り乱すことのない老宰相も、酷い憤りに顔を赤くして言った。
「国を混乱させる神官団とは嘆かわしい!。人心を束ねてこそ信仰だと言うのに、歴史から消し去られて当然でありましょう。巻き込まれたファラオがあまりにお労しいことです!」
 彼の言う事も尤もだった。実務的主導者である宰相の立場からは、その時代の異様さが際立って見えるのだろう。神官団が王朝を操り、エジプトを牛耳る状態は如何にも危うい。神官達は外交の知識は持つが、内政に関しては疎い者が多く、まして軍事政策など理解できる筈もないと。
 だがファラオの見方は違っていた。彼には常に見えているこのエジプトの現状が、それに重なることをすぐに気付けたからだ。
「いや、今も同じかも知れぬ」
 と、正しい洞察力を持ってファラオが言うと、この王は信頼に値する人物だと喜び、トウマは一連の話の結論をこう続けた。
「つまり私が申し上げたかった事は、その通りでございます。神々への信仰は、エジプトの心として大切なものではあれど、神々が労働者に賃金を払う訳でも、家を与える訳でもございません。大司祭国への援助は最低限にされた方が、後のエジプトの為になると、是非ファラオに進言させていただきたく思いました」
「…この、ラジュラやカオスのように働いてくれる神官も居るが、思い上がらせてはいけない神官も居る、と言うことだな?」
「ええ、既にエジプトは分かたれております。他民族ならいざ知らず、エジプト国内の集団が不和の元となっているのは、今王朝の不利に他ならないでしょう」
 すると、一際身を乗り出すようにしてファラオは、
「そう思う。その通りだトウマ」
 そこで初めて相手の名を呼んだ。それはトウマの語ることが理に適っており、充分に納得できるとの意思を表す行為だった。過去に起きた事件が、トウマの話す通りだったかは定かでないが、それはこれから調査させるとして、彼の示したエジプトの課題は、正に現実に則したものだと感じられたのだろう。
 国の存続の為に、民の平和の為に、今何らかの英断を下さなければならぬと、強い決意を促してくれたひとりの若者。神官の修行をしながら役人の道を選んだ彼の、熱意に応えるようにファラオは言った。
「エジプト全てが一枚岩とならなければ、最早外敵から国を守り通せぬ所まで来ている。八十年もの分離状態は正に無駄な時間だった。今、なるべく早くこの問題を解決したいと思う。何か良い知恵はないだろうか?」
「今はまだ、少し考えが纏まっておりませんが、必ず良い策を見い出そうと思います」
「カオスからひとつ聞いたのは、そなたはとても頭の優れた倅だと言うことだ。それだけに古き因習を疑う気持も判る。何故なら今のエジプトには新たな政治が必要なのだ。余は若いそなたに期待している」
 優れた知恵を持つ者は常に先を見る。伝統ばかり重んじる過去には生きられない。何故なら当然人は進歩するものであり、技術は発達するものであり、二千年も前の理屈に従っていては、前進し続ける世界から取り残されてしまう。拠ってある面では、エジプトを被い尽くすアメン・ラー信仰に、距離を置く必要もあるのだ。何もかも神のご威光で片付けてしまえば、それ以上を考えなくなるからだ。
 カオスは息子について、神官には向かないと言った。確かに神官達の古来からの活動は、トウマには魅力の無いものだっただろうと、ファラオはよく理解した上で伝えた。
「そなたを王宮役人に取り立てよう。今後王宮の出入りを許す、是非とも今王朝の為に働いてほしい。特に大司祭国をどう扱うが最善か、共に考えて行こうではないか」
 するとその素晴しい栄誉に、トウマは再び深く頭を下げ、
「確と、心得ました。ファラオの命に背くことのないよう努めます」
 己を信用してくれるファラオとエジプトの為に、必ず何らかの改革を成し遂げようと心に誓った。また自分の働きを見せることで、今はまだ半信半疑の宰相や神官達にも、理解してもらえるよう促さなければと思う。新たな企ては全て、古きエジプトの栄光を繋げる為のものだと。
 都は幾度も変われどナイルの流れは変わらない。王家の在り方は変われど人の姿も変わらない。だから全てを壊すのではなく、大切な物を残す為に、エジプトは新たな思想と世界観を得なくてはならない。
 と、トウマが内に考えた時、ふと彼の口からこんな話も転がり出た。
「ああ、そうです、ひとつだけ今、申し上げられる事がございました」
「早速だが何だ?、申してみよ」
「お気に触る事とは思いますが、どうか平素にお耳をお貸し下さい。…王妃様はともかく、侍女を遠ざけるのは得策ではございません。後の世代を支える主要な王族が、僅かしか居られないとなれば、また神官団が盛り返して来るとも限りませんから」
 流石にそれは、ファラオの私的な生活に関わる事なので、
「こ、こら、控えよ!。そのようなこと、公の場で発言すべきでない」
 慌てたように宰相が口を出したが、怒っているようで今一つ気概を感じないのは、それもまた現王朝とファラオの悩みであると、重々承知しているからだった。サアメン王は人格に優れ、善き王として慕われてはいるが、それだけに物事の正しさ、潔白さを貫く意思に於いて頑固な面を持つ。周囲の人間がこれまで、様々に懐柔し説得を試みて来たが、その、妻と侍女の扱いにだけは未だ頭を縦に振らなかった。
 けれど今、ファラオは静かな面差しで考えている。
「・・・・・・・・」
 もしかしたらそれも、新たなエジプトを実現する為に必要だと、若き知恵者の声を信ずるなら、受け入れることができるのかも知れない。広間に集う人々はそんなファラオの様子を見て、何かが変わり行く予感を僅かながら感じていた。
「無礼であるぞ、トウマ」
 一応ファラオの手前、ラジュラはトウマをそう嗜めたが、昔その教育役を務めていた彼には、トウマの次の言葉も判っていた。
「ええ、まあ、無礼は承知の上で敢えて申し上げました。どうか御容赦下さいますよう」
 話の内容とは裏腹に、礼儀正しく膝を折り、もう一度深く頭を下げたトウマの、意欲に満ちた表情と落ち着いた態度がファラオの瞳に映る。その背後にはまるで、知恵の神トトが着いているようだと思った。それ程に彼の知識と雄弁さは目を見張るものがあったようだ。



 ファラオとの会見を終えたトウマは、清々しい気分で王宮から立ち去ろうとしていた。父と同じ道を外れ、王家の中心から離れた立場となったことに、多少後悔もしたが、こうして自力で地位を勝ち得た事実は素晴しい。また、優れた働きをすれば誰でも拾い上げてくれる、エジプトの寛容さが健在であることも知り、そこに生まれた民族としての誇りも感じた。彼にはとても満足で有意義な会見だった。
 ただ、初めての会見にしては充分に、伝えたい事を伝えたようで、トウマにはもうひとつ言い足りない気分が残った。エジプト史に関しては、これから話せる機会が幾らでもあるだろうが、侍女の件については、自分がそう推す理由を是非話したかった。何故なら、現在は本来のエジプト王家の体を為せていない面があり、それも王朝の継続に支障があると彼は考えているからだ。
 それは後宮の有無である。後宮とは言わばファラオの為のハレムで、身分的にはそこそこのエジプト女性、外国人でもそこそこの家系の女性、などが集められていたが、この前の王朝までは存在していた。今王朝を開いたスメンデス一世王が、経済的理由か、或いは前ファラオの娘婿と言う立場からか、後宮を廃止したことで、近代のファラオは基本的に妻とその侍女にしか子を残せなくなった。
 無論シン王女のような例も、王宮で働くはした女が子を宿す例もあるが、本来ファラオと言う存在は、大勢の女達に囲まれているべきであり、多くの子の中から後継者を選べなければ、後の世に対し心許ない状態だ。人には持つ者と持たざる者が居るのだから、数少ない中に優れた後継者が出るとも限らない。
 そのことを、どうかファラオにはよくご理解戴きたい。現状に於いて最善を尽くすとは、そんな面でも言えることだとトウマは伝えたかった。まあ、無理に面会を申し出た若者が言うには、あまりにも不躾な話と一蹴されただろう。より親しくなってからならば、偏に王家と王朝の繁栄を考える己の意識を、自然に受け入れてもらえるかも知れないが。
 そんな事を頭に巡らせながら、王宮の門へと続く長い通路を歩いていると、ふと彼は、その脇の庭で花を摘むひとりの女に目を留めた。出で立ちからして位の高い女性のようだが、以前見たことのある王妃ではない。そして振り返った、非常に知性を感じる顔立ちを見て、
「あ、貴女はナスティ様では」
 と、考える前に思わず声が出ていた。丁度その人のことを考えていたからだ。



つづく





コメント)また変な所で切れてしまった。いや最後の場面、やっぱりどうしてもこのページに収まらず、こんな風にほんのちょっとだけ書くなら、全部次に送ろうかとも考えたけど、時間的な繋がりが欲しくて敢えて入れました。
で、ようやく当麻が出て来て、当麻や遼の場面は結構サラサラ書けるのに対し、征士と伸の場面になると考え倦ねて進まないと言う、私としてはかなり困った状態です(^ ^;。この話にはどっちの出来事も大事なんだけど、何だかな…。
書いてなかったですが、大王母はすずなぎ、宰相は柳生博士です。敢えて名前は出さないからどうでもいいんだけどね。



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