花嫁と侍女
ナイルと緑の芦辺
#2
The River Flow



 誰が次のファラオとなるか。エジプトには常に微妙な問題である。
 初期の王朝はほぼファラオの息子、親族を世襲していたが、ある頃には寛容な形となった。軍事的能力に優れた将軍などを取り立て、ファラオを継承させ、強いエジプトを維持する時代もあった。王朝の衰退期には、王家が新王朝を勃興できず、力のあった豪族などが新王朝を開くこともあり、豪族の王朝に王家が身を寄せる形のこともあった。別段それで非難を浴びることもなかった。
 結局エジプト王朝が滅びてしまえば、伝統ある王家も失われてしまう。その血脈の価値を認めるなら、時代に合う優れた人物を重用するのも、ひとつの生き延びる選択なのだ。古より続く王家を千年、二千年と先へ繋げるには、形式など構っていられない時もある。ただその中で、時が来ればまた王族がファラオとして立つ時が来ると、彼等は経験的に知っていた。
 アヌビスはそう、これまでの王家の大まかな流れを思い、セイジには注意深く言葉を選んで話す。
「全て歴史の繰り返しです。誰も明日は判りませんから、如何なる用意をしても、王宮の外からファラオが立つことはございます。逆にファラオ候補の王家の男子が、競争勢力に暗殺されたらしき話もございます。何が正解であるかはわかりません」
 だがそれは既に充分承知した話だった。セイジには何処か、その事実に飲み込めない点があるようだ。彼は真摯にアヌビスの話を受け止めた上で、敢えてこう話して聞かせた。
「私は常々考えている、エジプトの国力が下がる要因は何なのかと。確かに、政治力の弱いファラオでは問題だ、その時は外部の優れた者を連れて来ればいい。だが王家には伝統的に、その血にこだわる者も多く居る。王母様は何故ここまで必死なのだろうか。何故流れのまま考えられぬのだろうか」
 それはつまり、同族同士が争うことほど危険なものはない、との示唆だった。権力の奪い合いから国の分裂を招き、その結果王朝が衰退することになるからだ。幸い現在に於いては、弟のセイジを担ぎ出す勢力は現れなかった。前ファラオの贔屓も無く、力を持つ大司祭国が分裂していることもあり、その面では今は平和な状態が続いている。
 なのに何故、わざわざ問題になりそうな者を呼び寄せるのか。セイジは彼の抱える最大の不安をここで、側近のアヌビスだけに話した。
「だから私は怖い。私より直系の血の濃い妻と、その息子が王宮に入って来れば、周囲の人間の価値観が変わるかも知れぬ。その迷いが王朝の弱体化に繋がるのではないかと、また私は、死の王子ならぬ滅びの王子と化してしまうのではないかと、不安でたまらないのだ」
 これまで、荒唐無稽な噂話を気にしている風でもなかった、セイジが実は深く状況を考えていたことに、アヌビスは少なからず驚いた。そこにはふたつの配慮が見られたからだ。
 ひとつは現王朝とファラオに対し、これ以上迷惑を掛けたくないと言う思い。またもうひとつは、この側近のアヌビスが己を責めぬようにだ。前途のように、セイジがオシリス神と言われた理由の一端は、神の名を持つアヌビスの存在だった。だがセイジはその事には一切触れずに居た。神官として、従者として常に自分の為に働いてくれる彼を、有らぬ理由で遠ざけたくなかったのだ。
 そんなセイジの思いを知ると、アヌビスは寧ろ己が王子に迷惑な存在なばかりか、反対に気遣われていたことに胸を痛めた。同時に酷く感動もした。現ファラオのような人情家ではない弟は、一見何にも囚われず生きているようだが、表に出さないだけで、王族の一員としての自覚は充分お持ちなのだと。
 そして、そうであるなら、己はより一層王子の為に働かなくてはならぬ。王子の為になる助言、アメン・ラーより給わった英知の全てを、正しく伝え導かなければならぬと、アヌビスは今心に誓った。
 影ながら王朝を思うセイジの、願い通りにエジプトが平穏であるように。
「ならば、方法はあります。この先セイジ様に男子が生まれた際、その連れ子は殺してしまうことです」
 と、彼は今、最善策と思えることを忌憚なく言った。
「…殺すまでしなくとも…」
 流石にその提案には目を見開き、よくある話とは言えセイジは躊躇する。だがアヌビスは、
「当然この度は、大王母様がファラオの跡継ぎをご心配されての縁組み。後々王朝の不安となる存在なら、消してしまうのが一番ですよ」
 毅然とした態度でそう続けた。彼に神官としての迷いは無いようだった。
 それがエジプトの、アメン・ラーによる答なのだろう。実際王家は問題になりそうな男子を、何らかの方法で排除することがあった。産まれた順に王位を継承しても、能力の低いファラオでは国を守れない。齢を無視して継承すれば、年嵩の兄弟が不平を感じる。だから場合に拠り、黙って殺せと言うことになるのだが。
 まだ、婚礼の儀も行っていないセイジに、その決断はできなかった。
「私と妹の子なら、より一族の血は濃い。それで丸く収まってくれれば良いのだ」
「…その時になってみなければ何とも言えませんな」
 実はセイジ達兄弟には、オソルコン王の侍女が産んだもうひとりの兄が居る。但し盲だと判った時、母親である侍女共々生家に帰らせ、不幸な王子にはそれなりの財を与えた。その後特に問題は起きておらず、兄はシストルムの楽人として静かに暮らしている。事情は違うとは言え、そのように穏やかに事が済む例もある。どうかこの後もそうであるようにと、今は来るべき時に祈るだけだった。

 しかし、セイジの悩む所はそればかりではなかった。
「まったく…、こんな時に王母様は面倒事を押し付けてくれる。最早私は結婚など望んでいない、こうしてネゲブの様子を窺える地で、外の情勢を知ることに専念していたのに」
「ご心中お察しします」
「少し前にもベドウィンの商人から、気になる情報を聞いたばかりだ。亡きヒッタイトの辺りに寄り集っていた集団が、少しずつ南下し始めたようだと。それは恐らく海の民の一派だぞ」
 王家の中心を離れ、アラビアに近いペトラの地にやって来たのは、当時はただ嫌な目で見られるのが辛かったからだが、ここで三年暮らし、様々な民族の話を聞いて判ったことがある。
 エジプトはこれより五百年ほど前、ヒクソスと言うシリア人の王朝に支配された時代がある。元々シリア人は移民だったが、王朝の衰退に乗じ戦闘力で政権を勝ち取った。その時彼等が持ち込んだ、新型戦車などの武器がエジプトに定着し、後のラメセス王の時代には強大な軍を持つこととなった。
 五百年前、シリア人は既にエジプトを上回る軍事技術を持っていた。それは何故なのか、エジプトの外に出てみて初めて知ったのは、シナイ山を越えた先のネゲブからユダヤ、フェニキアからシリア、遠くはキリキアからガラティアの方まで、地中海を囲む地域は常に、小国同士の戦乱が絶えなかったことだ。
 ベドウィンの遊牧民達、アラビアの人々、稀に訪れるヘブル人やメソポタミアの人々の話を聞くと、彼等は驚く程防衛的な意識が高いことを知る。それは常に危険に晒され暮らしているからであり、日常的な経験の賜物であることが判る。
 つまり知恵や技術は、神から与えられるものもあれば、経験から育まれるものもあると言うこと。戦で幾度も郷里を追われた民族に比べ、エジプトは長く内地を守れていた為、その知恵は発達しなかったのだろう、と今は思う。そしてセイジはそうした外国の民から、今を生きる術を見付けようと、意欲的に勉強をしていたところだった。過去の栄光は在れ、現在は現在に於ける強いエジプトを実現しなければと。
「王家の事、治世の事、諸外国の事、エジプトは問題が山積みですな」
 とアヌビスが、セイジの愚痴に対し応えると、
「もうずっと…」
 彼はここ数十年の王朝の状態を振り返り、その詳細を話そうとして止めた。何故なら現代は王族も、実務的な事を考えねばならぬ世になったと言うだけだ。単純な構造だった王家と民と外国との関係が、複雑になった分、考える事が多くなったと言うだけだ。
 神と同列に語られたファラオの存在する過去はもう遠い。最早エジプト王家も、多々の種族のひとつに過ぎなくなったと、セイジは有りのままの思いを口走る。
「アメン・ラーはもう、エジプトを手放し何処かへ行ってしまうのかも知れんな」
 確かに彼にはそう感じられただろう。セイジの感覚は決して間違いではなかった。けれどアヌビスは神官の立場から、それを肯定することはできなかった。
「何と言うことを仰るか!。エジプトとアメン・ラーは一体のもの、アメン・ラーがナイルに富を齎し、我々はナイルにアメン・ラーの国を建国したのです。それ故、名立たる王族の魂と御霊は、皆アクとなってアメン・ラーの世界に住い、エジプトの全ての王となるのです。それは王家が続く限り変わりません」
 人の命と言える魂をカーと言い、命から生まれた人の精神をバーと言い、それらが死後合体することによりアクと言う完成型となり、アメン・ラーと共に天界の王となる。王族は皆そうして、死後もエジプトを見守る神となる、と伝えられている。
 しかし神となった王族は、エジプトの栄光を守ってくれているだろうか?。彼等は現状のエジプトに満足なのだろうか?、と思うと、滅多にアヌビスの弁に反発することのないセイジが、この時はこう返した。
「ならば問う、名立たるとは誰によって名立たるのか?」
「はあ、謎掛けですか?」
「ラメセス二世王ならば、誰もがその名声を口にしただろう。だが今王朝には他国に攻め入るほどの国力もなく、名立たる王族など現れそうもない。過去の栄光には到底及ばぬ今の王家が、アメン・ラーに歓迎されるとも思えん。兄上は立派にやっておられるとは思うがな」
 末期王朝の憂いは、そんな矛盾からも生み出されている。エジプトが上手く回っている時のファラオは、人気があり讃えられるが、苦しい時代のファラオの名など、後世に語り継がれることは無い。誰がよりエジプトの為に働いたかではなく、判り易い結果を残さなければ、名立たる王と呼ばれることはないのだ。
 ではこの難しい時代に生まれた我々は、始めからその資格が無いのだろうか?。古代的で単純な社会に君臨した王族より、我々は劣っているのだろうか?。
 否、神性に於いて劣っている、とは言えるかも知れないとセイジは考える。今もファラオはラーの息子を名乗るが、人々はファラオを神のようには崇めていない。政治家としてのファラオを敬っているだけだ。そんな国の状態が良くないのだろうか?。王家が神々しさを取り戻さなければ、何事も上手く行かぬのかも知れない、とも思えて来た。
 王族外のファラオを立てることは間違いだったのか?。だがそうしなければ、王朝を支えられぬ時代があったのは間違いないのだ…。
「…その状態から、過去のエジプトの繁栄を取り戻す為に、セイジ様は働かれているのでしょうが」
 と、アヌビスはセイジを気遣いそう返したが、
「そうだが…、もう昔とは違う。もう誰もピラミッドや葬祭殿を築いたりはしない」
 セイジは自身の、ちっぽけな情報収集活動などとは違う、大局的な何かを見い出そうとしている。
「そう言えば大司祭国が、葬祭殿で特別な祭をすると言っているようですが」
「好きにするがいいさ」
 そして、それについても最早ちっぽけな事だと、セイジは吐き捨てるように言った。
「神殿は大司祭国の管轄となったが、だからと言って大司祭国が繁栄している訳でもない。むしろ衰退しているではないか。祭など行っても盛り返せるものか」
 嘗てはテーベの神殿に巡礼に訪れる、エジプト全土と他国からの信者が、年中行列を成し道を埋め尽くしていたと聞く。しかし今はそんな光景は滅多に見なくなった。大司祭国の求心力が明らかに落ちて来ている。アメン・ラーの威光は在れど、国として何ら目立った功績を上げた訳でもなく、過去の遺産で安定しているだけでは、何れ人々の関心は薄れてしまう。そのことを、
「正統な血を引くエジプト王族の支えが無ければ、結局滅びると私は考える」
 セイジはそう解釈してみせた。血自体に何か秘密があると言う話ではなく、王家に生まれた者にしか解らない、エジプトに対する覚悟と責任があるのだと。それを持たざる者にはエジプトは治められぬと、セイジは言いたかったが、アヌビスは大体の意味を理解しこう返した。
「そうですな。過去にも神官団が力を持って台頭し、国が混乱し、十年も続かぬ王朝があったと聞きます。エジプトには何よりその血が必要なのでしょう。変わらず流れるナイルの血が」
 彼は恐らく、ファラオを通じ王家の血には神が宿り、王族はその神の力で動いていると言う、アメン・ラー信仰に合わせた解釈をしている。考え方は微妙にセイジとは違うが、現状の結果を語る上では、ほぼ同じことを思っているようだった。
 なのでそれを聞くと、同じ考えを持つ同志が存在することに安堵し、それまでやや固い態度だったセイジは漸く、肩の力を抜いて壁際に凭れ掛かった。
 今住むペトラの町は嘗て、エドムと言う国の北の都だったが、それももう三百年程前に散じてしまい、今はその名残りの断崖の神殿が、行き交う遊牧民達の休憩所となっている。セイジの建てた仮住まいの窓からは、その赤い山間の景色と、小さなバザールを開く商人達の様子がいつも見られた。
 強国として知られたエドムも、いつの間にか地上から姿を消した。その人々に崇められていた神は、彼等の国を永く守ってはくれなかった。彼等が強国となるまでの、知恵や技術は与えておきながら。
 神の御心は解らない。
 いつかそうして、エジプト王朝も終焉を迎える日が来るのだろうか、と思うと、セイジは赤い断崖の上に広がる、青々と澄んだ空を見詰めながら言った。
「アメン・ラーは太陽の神。太陽は変わらずあるのに、何故我が王朝には影が射しているのだろうな」
「それは…」
 アヌビスはセイジの殊に真面目な様子に、何か応えて差し上げようと言葉を探すが、その疑問には上手い返事を思い付けなかった。何故、現王朝の良心的なファラオとその家族が、日々悩み苦しまなければならないのか、それはこの世界に、何故光と影があるかを問うようなものだった。
 エジプト一国の歴史の中にも、隆盛を極めた時代と、そこから衰え混乱した時代が交互する。大ピラミッド時代の後には、財政難から国力が低下し、他民族に侵略される時代がやって来た。その後大遠征時代にはまた大いに栄えたが、その後は他国との戦いに明け暮れ、国が疲弊して行く時代が巡って来た。今は丁度その時なのだが。
 見よ、歴史とは寄せては返す波のようだ。満ちては欠ける月のようだ。そしてそれを操っているのは、太陽の神アメン・ラーなのだろう。
 考えているアヌビスを見て、セイジは彼の思い付きそうなことを想像しながら、
「全てはアメン・ラーの思し召しか。…我々は試されているのやも」
 と続けた。その言葉尻には痛々しささえ感じられた。
 偉大な神の存在を認めながら、充分な寵愛を受けることを鼻から諦めている、ファラオ一族の今の立場は無論アヌビスにも切なかった。しかしエジプトの神官としてはただ、王朝に平和と栄光が戻りますようにと、只管に祈るしかない。他にできる事と言えば、王家に誠実に尽くす事だけだった。
 なので、それだけは確かであるとの思いを、
「ひとつだけ、御安心下さい。私は常にセイジ様の味方です。セイジ様が望む王家の姿を再興できますよう、私も一層励みます」
 アヌビスは膝を折りそう伝えた。人々がアメン・ラーの前に跪くように、己は王家の人々に永久の忠誠を誓おうと。するとそんな、やや大袈裟に見えた彼の態度に、
「そう言ってくれるのは有難いが…」
 セイジは俄に笑って見せた。取り巻く様々な問題を話し合う内にも、こうして心の明るさが戻って来るなら幸いだと、アヌビスもまた安堵して息を吐く。そして、
「ここの気楽な暮らしは、もう続けられぬな」
「婚礼の儀の後は、タニスの御自宅で暮らすべきでしょう。ま、以前とはお立場も変わりますから、もう嫌な噂する者も居なくなると思います」
 セイジが半ば冗談で続けた話には、今度は適切に答えることができた。
「まあ、そうだな…」
 まだ詳細な予定は知らないが、大王母から出た話なら、数日の内にここにも連絡が来る筈だった。そして恐らく、慌ただしさの内にその日を迎えるだろうと、セイジはこの三年の落ち着いた日々を思い返した。エジプトの情勢が深刻な時なら、何と囁かれようと王家を離れられなかったが、幸いこの数年は大きな動きが無かった。悲しみに満ちた生活を離れ、誰も知らない土地で気兼ねなく過ごせていた。
 己に三年と言う勉強期間が与えられたことは、間違いなく幸運だったと思う。ささやかな恵みではあれど、アメン・ラーに感謝する他に無い。
 それから、もしそれ以上を望んでも良いのなら、新たに家族となる人が禍根を運んで来ぬように、とセイジは強く思う。

 やや風向きの変わった窓の外に、舞い散る砂の描く模様を彼は暫く眺めていた。



 王宮に久方ぶりの慶事が訪れる。
 王族達はこの縁組みを大変祝福していたが、意外にエジプトの民も華々しく沸いていた。否、過去の経緯を知っているからこそ、今後どうなるだろうと野次馬的な関心も集めた。ただ誰にしても、ファラオの弟が不幸になれば良いとは、流石に思っていないようだ。タニスの町に暮らす人々は自主的に町を掃除し、あちらこちらに草花が飾られていた。
 婚礼の儀を前に、王宮の前庭には多くの親族、同盟国の代表者などが集まっている。また彼等が持参したお祝いの品で、庭の一角が埋め尽くされていた。更に王宮を取り巻く人集りが、分厚い城壁のように取り囲んでしまい、最早馬も通れない状態だった。ファラオの即位式並の騒ぎに、本人もだが、王族達も些か困惑していた。それ程にセイジは注目されていたのかと。
 まあ、遠い町の人間は知らぬだろうが、タニスの住人は王家の人々に親しみを持っている。巨大王朝時代とは違い、今は統治者とその民の距離が比較的近くなった。身近な存在であるから誰もが噂し、誰もがその動向を窺っていたのだろう。そして今は誰もが話題に乗りたがっているようだ。
 ともあれ、歓迎される婚儀ならば誰もが喜ばしい。
「良き日を迎えられましたねセイジ。これを機にあなたに安楽が訪れますように」
 王宮では、広間に出る前の前室にて、ファラオと王妃が温かい言葉を掛けてくれた。
「ありがとうございます王妃様」
「余も大いに祝福する。離れていた妹を呼び寄せられたのは格別の縁、王家がより磐石となり、今王朝がより栄えるよう、貴殿の幸福を厚く願っている」
「ありがとうございます、サアメン王様」
 けれど、祝辞を戴いているセイジの様子が、場にそぐわぬ冷めた態度に見えたので、ファラオと王妃が広間へと出て行った後、大王母は少し意地の悪い話を聞かせた。
「腹に不満をお持ちのようですね。勝手に話を進めたと母を恨みますか?」
 しかし、今の段階では何とも言えぬことだ。後の結果に拠っては、恨むこともあるかも知れぬが、
「いえ…、王母様には大変感謝しております」
 セイジはそう答えるしかなかった。その言葉通りに、母の手腕に感謝する結果となれば良い。今感じている不安が、善事に転じるならそれ以上は無いと、彼は真摯に考えてもいるのだけれど。
 どうしても今は、表に華やかな表情を出すことはできずに居た。

 そしてもうひとり。広間へと続く別の前室に青い顔で佇む者が居た。
「震えていらっしゃいますね」
 と声を掛けたのは、この度侍女として王宮に上がることとなった、筋骨逞しく日焼けした女だ。婚儀を前に酷い緊張をしていたシンは、
「私が王宮に上がるとは、思いもしませんでしたから。どうか何かあったらお助け下さい、シュウ」
 蚊の鳴くような声に、舌も上手く回らぬ様子で辿々しく答えた。横で手を握っている母君と、侍女の快活で頼もしい様子に助けられ、どうにか倒れず立っているような状態だった。まだこの後六時間ほど儀式が続くことを思うと、傍に立つふたりにはあまりにも心配な様子だ。その為、
「お任せ下さい、姉上。この際兄のことはお忘れになるのが賢明です」
「・・・・・・・・」
 続けて繰り出されたその話には、とても考えが及ばずシンは何も答えなかった。この半年間に起きた出来事が混じり合い、頭をぐるぐる巡るばかりだった。
 呼び方で判るように、シュウと言う侍女はシンの夫であったナアザの妹であり、この兄妹はオソルコン王の弟と侍女との間の子だ。ファラオ兄弟の従兄弟であり、王妃付きの侍女ナスティの異母兄妹である。シンは結婚後この義理の妹とは、しばしば顔を合わせることがあり、親しいと言える間柄であった。
 王族達の子供は、特に王宮内に生まれた者は、それぞれ別の乳母や神官に教育されて育つ為、例え兄弟でもあまり顔を合わさぬものだ。大人と認められる年になり、初めて兄弟と対面することも珍しくない。特に女子は公の場に出ることも無い為、男の兄弟に会う機会はほぼ無いまま暮らしている。現ファラオと王妃が初めて対面したのも、婚儀が決まりふたりが王宮に入った時だった。
 正式な王家の一員でもそんな環境なので、不義によって産まれた娘など、他の兄弟に引き合わされる機会がある筈も無い。姉妹として育てられた家でも、すぐ上の病弱な姉は度々見舞ったものの、年長の姉ナスティにはあまり会うことがなかった。なのでシンは結婚後身近となった、豪族系のシュウの親類の方が気安い間柄となっていた。
 それで特に不満も無かった。生い立ちの秘密を知らされたのは、結婚の直前だったが、王家の中心で疎まれ暮らすより遥かに良いと、これまでずっと思っていた。その幸福な日々が短い期間に終わり、まだ喪が明けぬ内から、王宮へ呼び寄せられる話が舞い込んで来た。シンの心中の複雑さは想像に難くない。
 前ファラオの娘として、現王朝に尽くす義務は充分理解できるものの、これまでのような穏やかな幸福は望めぬだろうと、不安ばかりを抱え彼女はここにやって来た。その拉がれた様子を見ているシュウは、少しでも花嫁を勇気づけようと、努めて前向きに話をしているようだった。
「兄は運が悪うございましたが、これまでとても幸せそうでいらした。よって姉上が気に病むことはございませんよ。新たな夫は悪運の強そうなお方です、すぐに旅立たれることもないでしょう」
 もし王家の他の人間が聞けば、失礼と叱られる発言ではあったが、実際、仲の良い夫に先立たれたシンの悲しみに、希望の光を灯すのはそんな話題しか無い。もう二度と、若くして連れ合いを失うことはない、相手はあのオシリス神と言われた王子なのだから。二度殺され二度生き返ったと言う、不滅の命を感じられる人ではありませんか、と、シュウは神話になぞらえ話した。
 無論それがシンの幸福に繋がるかは判らない。けれどもう間もなく始まる婚礼の儀を前に、とにかく一度でも笑ってほしかった。恐らくそれで緊張の糸が解れるだろうと、シュウは深く思い遣る心で働き掛けていた。見た目は厳つく、振舞いも荒々しいが、シュウはとても性根の良い娘のようだ。
 もう少し、そんな身内だけで過ごせる時があれば良かった。心の整理を付けられる時が与えられれば良かった。今となっては叶わぬことだが、シュウの言葉を耳にシンは、こんなにも強く励ましてくれる人が、身近に存在することこそ幸福かも知れない、と感じた。
 これまで気付かなかったが、私は今この時も恵まれているのかも知れない。後は王家と王子の心配をするだけで良いのだと。
「本当に、これで良いと思いますか…?」
 とシンが口を開くと、シュウは少し様子の変わった姉を見て、更に心を砕いて戴こうとこんな話をした。
「大丈夫ですとも、王母様はこの数年セイジ様をどうにかしようと、じっくり最善をお考えだったようです。実は私の所にも先に話があったくらいで」
「え…?、…知りませんでした、そのお話はどうされたのです?」
「いやぁ、私はこの通り跳ねっ返りで、花を愛でるより男達に混じり、武術の稽古をする方が好きなのは御存知でしょう?。さすがに王母様も躊躇われたと思いますよ?」
「まあ…。あなたならセイジ王子の噂など、気にされなかったでしょうに。強く健康な女性であるのは間違いないのに…」
 シュウの狙い通り、シンはその話に目を見開き、凍り付いた表情は俄に動きを取り戻していた。まさか侍女として着いて来た妹が、先に王子と関わりがあったとは思わず、またこんな重要な話を事も無げに、カラカラ笑いながら語る彼女の態度が、よりシンの心を揺さぶっていた。
 生まれのせいなのか、性格や風貌のせいなのか、選ばれる運命の不思議を思わざるを得ない。そしてシュウの何事にも明るい様子が、シンには羨ましく映った。否、これから見習うべき点かも知れないと考えた。
 明るいと思えば世界は明るくなるかも知れない。それは恐らく誰にも備わった能力である。
「まあだからこの度は、母より王家の為にどうしても行けと言われ、姉上の侍女に付けられた訳です」
 その仕方ない選択さえ、楽しみな遊びのように笑って話すシュウは、確かにシンの感じた通り、全てを明るくして行こうとする気に満ちている。そしてポンと二の腕を打つと、
「私は腕には自信がありますから、姉上もジュン様も必ずお守り致しますよ!」
 そんな心強さもシンに伝えてくれた。
 ジュンは二才になるシンの息子だ。まだ幼な過ぎる為婚儀には参列せず、既に新たな乳母を付けられ王宮に入っている。自身も心許ないが、その息子の立場もまた不安が多い。王家が子供を望んでいる事情は知っているし、今のところは大切にされるだろうが、この後王宮の誰かに子供が産まれたら。その時、自分の産んだ子はどう扱われるだろうと、シンは先への不安も抱え続けなければならない。
 血統の良さで言えば、ファラオと王妃の子に勝る者は居ない。シュウとナアザの兄妹は母方が王族ではなく、それだけジュンの存在価値は低いのだ。
 けれどシュウが着いていてくれるなら、と、シンは今漸く踏ん切りを付けることができた。彼女の息子はシュウに取っても大事な甥である。必ず守ってくれるだろうと信じられた。
「ありがとう、シュウ…。私はファラオの妹ではあれど、王宮にはほとんど頼れる方がおりません。親しいのはあなただけですから、どうかよしなに…」
 そしてシンは、妹であるシュウに対し深々と膝を折った。心から信頼を願う気持がそこに表れていた。その心細い行動を哀れにも感じ、シンの母親は最後に一言、娘の良心的な優しさを思う言葉を贈った。
「王宮には何かと苦労もありましょうが、あなたの兄上が善き人であり、あなたの真心が通じますよう母は祈っています。同じオソルコン王の血を引くあなたに、どうか神々のお恵みがありますように」
「母上…。これまでも今も、いつも私をお助け下さってありがとうございます。この度も私なりに努力するつもりです…」
 既に大広間には、庭に集まっていた来客を全て通し、王宮以外に暮らす親族達、宰相や州候などの役人達、神への祈りを捧げる神官達が揃っていた。その後最後から三番目に、ファラオや大王母など王宮の人々が入場する。次に、司祭長であるカオスが入場し壇上に立ち、儀式の開始を告げる祝詞を唱え始める。それが終わると広間の左右の扉から、結婚するふたりがそれぞれ司祭を伴い入場する。
 ひとりのはした女が、シンの母親とシュウを呼びにやって来た。ふたりは王宮の親族と共に広間に入場しなければならず、シンは暫しひとりで前室に残される。けれど、今はもうそれ程心配な様子ではないと、出て行くふたりには見えていた。シンの中で、この短い間に何か、良い心の変化があったなら幸いだ。
 三人は静かな笑みを交わし別れた。いよいよ婚礼の儀の始まりだった。



 広間には割れんばかりの拍手が轟いていた。聖なる印、アンクを掲げる司祭長の前に並ぶ、ひと組の男女は会衆とアメン・ラーに祝福された。現王朝の力は外交的に衰えつつあり、国内的にも、落ち着きはあれど以前の活気は失われている。そんな中での王家の晴れやかな儀式は、親族のみならずエジプトに関わる、全ての人々に一服の清涼感を与えていた。
 ネメス(頭巾)の上に伝統的な、コブラの装飾を着けるのはセイジには久し振りだった。ウアジェト神と呼ばれるコブラは、死と再生、永遠の命を象徴するもの。この公の儀式を以って、永久にエジプトに寄り添い尽くす立場となったことを、彼は広く宣言することができた。これまではみ出し者のように言われて来た、情けない状況を変えられることには、セイジも素直に喜んでいた。
 そして願わくば、今横に並ぶ妻が先立つことのないように。決して彼のせいではなかったが、三度も続いた悲劇がまた巡って来るとも限らない。けれどこの度は、既に子を持つ妹との縁組みであり、その生命力が嫌な流れを浄化してくれることを、セイジは期待するばかりだった。
 無論そうであるようファラオも願っている。父であるオソルコン王は四年前に逝去し、その弟はそれより先に旅立った。大王母の弟、ファラオの伯父も昨年から病床に着いている。身近な親族として治世に働いてくれる男子は、もうセイジしか残っていないのだ。
 どうかこの兄弟でエジプトのひとつの歴史を紡ぎ、次の世代へ繋げて行けるようにと、弟の婚儀を厳粛な様子で見守っていたファラオは、只管に神々の慈悲を求めていた。

 多くの人々に囲まれ、それぞれの祝辞に答える作業が延々と続いた。その間ふたりは着席してはいたものの、婚礼の儀の全てを終える頃には、表情に疲労の色が浮き上がっていた。二十一才と十八才、若いふたりであるとは言え、五時間もの間賓客に付き合うのは重労働だ。まだエジプトの威光が完全に地に落ちた訳ではないと、良き方に考え受け入れるしかなかった。
 そして漸く儀式から解放されると、ふたりは司祭に伴われ、広間から離れた一室に案内された。そこは暫しの休憩と共に、まだろくに顔も見ていない相手と、初めてまともに言葉を交わせる場所だった。既に夕暮れの近付く窓から、薄赤い光が差し込む落ち着いた部屋に、一対の猫足の椅子が向かい合って置かれていた。
 とても疲れていた。婚儀の終わりには喉が枯れていた。この数時間に三日分は喋ったのではないかと、セイジは溜息を吐きながら椅子に腰掛けた。けれど、同様に疲れている筈の妻は立ったままで、案内の司祭が部屋を出て行くのを、丁寧な態度で見送っていた。そしてふたり切りになると、改めてセイジの前に姿勢を正して言った。
「初めてお目にかかります、兄上」
 そう言えば婚儀の前に挨拶も何も無かったと、セイジはシンの言葉を耳に思い出す。同時にシンのそんな様子から、疲れていても行儀良く振る舞える女性だと知り、彼は快く顔を上げた。
 向き合った椅子の横に立ち、こちらを見ている人はとても優しげな顔立ちをしていた。
「ああ…、…」
 疲れのせいではなく、何故か言葉が続かなかった。誰かに似ていると思った。
「妹のシンでございます。私はご兄弟の皆様を存じ上げない身の上、王宮に於いては何かと不作法な面もございましょうから、どうぞ宜しくお導き下さいませ」
「そう…か…」
 シンが淡々と話しながら、優雅に膝を折って見せるのをセイジは、ただぼんやり眺めるばかりだった。額にセルケト神を表すサソリを頂いた、金の冠が動く様を幻のように見ていた。
 しかしそれでは、極めて丁重な挨拶をしたシンの心情が怪しくもなる。セイジの様子が明らかに変なので、暫し嫌な間が空いた後、シンはもう一度セイジに話し掛けた。
「あの、何かお気に触る事がございましたか?。それともお疲れでしょうか…?」
 その時、シンが二歩ほど前に出たからなのか、ふとセイジの目の焦点がシンの顔に合い、
「あなたは…、姉君の面影があるな」
 と、漸く彼も自身の記憶を辿り、迎えた妻にそう話すことができた。
「姉…、先立った姉でございますか?」
「ああ、昔一度お会いした」
 そう、それはセイジの最初の許嫁である。十二才程でこの世を去ることは、古代世界では珍しくもない出来事だが、同じ年令だったセイジの、受けた衝撃は量り知れないものだった。しかも偶然一度会う機会があった為、その小さな許嫁の印象がいつまでも忘れられなかった。目の前のシンに比べ、その少女はもう少し儚げではあったが。
 否、彼女が健康な大人となって戻って来たようだ、とセイジには思えた。
 するとそれを耳にしたことにより、シンは彼が、姉に対し良い印象をお持ちのようだと感じ、それまで固かった表情をふわりと崩す。その人はシンに取っても好きな姉だった為、途端に喜ばしい気持が溢れ出て来たようだ。そしてシンの口は自然に動く。
「まだお小さい頃でしょうに、憶えていらしたのは私にも光栄です。確かに私は姉によく似ていると言われておりました。姿形だけですが」
 ただ、そう言って優しい笑顔を向けたシンを見る、セイジの瞳には今は、幻ではない確実な何かが映っていた。腹違いの妹であるシンは、穏やかな良い娘だとは聞いていたが、姿は妹と言うより従兄弟の一族に似ている。ファラオと王妃、そしてセイジは皆、どちらかと言うと愛想の無い顔立ちだが、オソルコン王の弟の娘達は皆、何処か女性らしい可愛げのある顔をしていた。
 過去のセイジは、許嫁のそんな姿も気に入っていたのだろう。シンは確実にその血を引きながら、同時に自身の妹でもある存在だと、今初めて実感として知ることとなり、そして、絵に描いたように理想的な人ではないかと思った。一分、一秒を共に過ごす内セイジには、予想だにしなかった現実が見えて来る。
 不安ばかりだったこの縁組みは、実は最良の転機かも知れぬと。
「姿形だけ、と言うこともなかろう」
 と、言葉の真意は判然としないが、返事したセイジの表情に自然な微笑みが現れた。恐らくそれは自然に状況を受け入れた、彼の無意識の意思表示なのだろう。それを目にしたシンの心はより穏やかになり、これから始まる王宮の生活に対する、未知の群雲が僅かに晴れたようだった。彼女はその時、本日一番の自然な表情を出せていた。
 そこで改めて、シンはこの結婚への偽りない気持をセイジに伝えた。
「最初の許嫁でした姉の代わりに、とは申しませんが、良き妻となるよう努めます、兄上」
 もし何事も起こらなければ、五、六年前に姉は王宮へ上がり、セイジの妻となっている筈だった。またもしシンが、純粋に従兄弟の家系の娘であったら、姉が夭逝した時点で、下の妹のシンを許嫁に替えた筈だった。アヌビスが話したように、如何なる用意をしても予定通りにはならず、遠回りする形で今、シンは本来居るべき場所に来たようなものだった。
 その奇妙が、シンには亡き姉のお導きのように感じられ、また不思議な安心感にも包まれた。きっと何があろうと、いつも天上から姉上が見守って下さるに違いない。姉上が迎えられなかった明日を迎える為に、私はここに遣わされたのだとシンは温かく納得した。
 エジプトの亡き魂と、今を生きる魂と共に、私達はエジプトの明日を見ている一族である。
 そしてセイジもまた、過去の悲しみを塗り替えて行ける希望を、シンの中に見て穏やかに返した。
「私のことは名で呼ぶように。もう婚礼の儀は終えたのだから」
「はい…、セイジ様」
 そこでセイジは椅子から立ち上がり、長く立ったままのシンを促し座らせる。疲れているだろうに、優しく芯の強い様子を見せる妻の手を取り、とても大事そうにセイジは相手を労っていた。



つづく





コメント)あーあ、ページ容量が足りず、切りたくない所で切れてしまった。どうしてもこの後の一場面を入れたかったけど、あちこち削っても入らなかったわ…(´ `;。
さて、既におわかりの方もいると思うけど、出て来るファラオ名は全て実在する人です。時代背景と宗教なども、その在位時代に大体合わせて書いてます。ただ!、それ以外は創作だから信じないで下さい(笑)。ファラオの家族がこんな構成だったとか絶対ないです。何しろ夢の話なので…



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