作業小屋
嘆きの翼
#1
My Little Kingdom



 地竜の怒りは地震と噴火を。
 水竜の怒りは津波となって、災いは広く民人へと返さるる。
 賢者クロマトデリウスは語りき。決して竜達の安き営みを害することなかれと。



 そこには、絶滅した飛竜が未だ大空を舞っていると言う。
 飛竜の姿を見たことのない世代、現在の地上の民には憧れの場所であり、可能なら一度訪れてみたいと夢見る水底の頂。天の向こうに星の大河があるように、最も深い海の底には無限の天界が存在し、悠然と渡る飛竜が今も普通に見られると言う。
 無論、伝承が真実か否かは行ってみなければ判らない。が、近代になって漸く機械文明が芽生えたばかりの、この地上では満足な海底探査を行うことさえできなかった。ただ過去にはここにも飛竜が存在したと言う、痕跡だけがひっそり残されているだけで、何もかもがまだ夢物語の域を脱していない。
 何も手段が無かった。
 それでも、どうしても彼の地に行かなければならない。と征士は思っていた。

 これまでは。

「これでほぼ完成だ」
 高等学舎の友人である当麻が、最後の鉄板カバーのボルトを絞めながら言った。工作機械など皆無に等しい中での工作は、まず作業道具作りから始めなければならず、むしろその為に頭を捻る時間の方が長かった。この鉄板一枚を作る為にどれだけ苦労したか、と、彼は苦笑交じりに思い返している。
「ふう。こんだけ手間暇掛けたんだ、予定通りに動いてくんなきゃな」
 史上初の機械学者を目指す当麻の助手、秀は額の汗を腕で拭いながらそう続けた。彼は主に部品となる金属の加工や溶接をしていたが、夢の一大プロジェクトの為に、特に顔の広さを買われて資金調達も任されていた。そんな意味では、どうにかして成功してほしいと考えるひとりだった。
「済まないな、個人的な研究に付き合わせて」
 征士も慣れない作業ながら、防水加工や樹脂塗装等を手伝っていた。
 そう、彼等はこの夏伝説の『飛竜の国』を探そうと、自前の潜水艇を制作していたのだ。否、未だ嘗て潜水する乗り物が登場しない世界では、自作するより他に入手方法がなかっただけだ。そしてその斬新なメカニズムも、使われた膨大な部品のひとつひとつに至るまで、全て当麻の計算から設計されたものだった。もしこの潜水艇実験が成功すれば、当然彼の名声が世界に広まることだろう。
 当代切っての天才学者羽柴当麻、と以後は唱われるに違いない。
「いやなに、誰も成功していない事は全て、新しい分野である機械学には魅力的な題材さ。おまえとは目的が違うにしろ、俺にも個人的に挑戦してみたい意志がある。偶然話を持ちかけられて幸いだ」
 当麻が笑いながらそう返すのを見て、征士は安心するように、ひとつ溜息を吐いて答に代えた。『海底に繋がる天』を探すなどと言う、無理難題を押し付けてしまった形の征士には、当麻や秀の昼夜を厭わない頑張りが、時には心苦しくも感じられていたのだ。又成功するにしろ失敗するにしろ、彼等に返せるものは何ひとつ無い。それでもひとつの目標に向けて協力してくれる、学友達にはいつも頭が下がる思いだった。
 だが、それらの苦労にも漸く終止符が打たれるところだった。幾度とないテストを繰り返して、欠陥や不具合を細かく修正し続けて来た。そして完成に漕ぎ着けた潜水艇に、残された課題はただ目的地を探し出せるかどうかだ。
 望めるならば、誰にも喜びが与えられる結果を願うところ。
「こんだけ必死になったのって久し振りだぜ。潜水艇を作るなんてこと自体面白いが、そんだけ飛竜は魅力的だってことか?」
 小高い丘に建つ、古いレンガ作りの重厚な学舎の一角、木工等をする為に設えられた作業場の、木戸を開け放って涼んでいた秀がそう言った。草を噛む家畜以外に何も見えない、辺りの草地を渡る風が心地良い午後だった。征士は秀の言葉に薄笑いをするように返した。
「まあそうだな」
 何故だかこの心を惹き付けて止まない、子供心の憧れから繋がっている現在の研究対象。自分が、その昔からまるで成長していないような、気恥ずかしさを征士は自嘲したらしい。この郊外の高等学舎に寄り付き、長く史学を学んでいる征士が、飛竜に関心を持ったのはもう随分昔のことだった。初等の学び舎に通い始める以前の幼い頃、既にぼんやりと彼の地へ趣く機会を願っていた。
 切り立つ岩山の頂に、雲の上に建つような城壁に囲まれた町。小さな王家を中心に閉ざされた人々が暮らす、封建時代の忘れ物と言った飛竜の里。書物ではそんな風に伝えられているけれど。
「でもよ、まともに調べようとする奴がいねぇって、何でだろうな」
 秀は単純な疑問を口にしていた。征士に限らず、空を飛ぶ竜と言う特殊な存在に憧れ、それを探そうとする試みは各地で行われているが、どれも宗教的行事か、人を集める為のイベント的なものに終始して、真剣に取り組んでいるようには見えなかった。又そんな彼等の言い分は一概に、
『飛竜を探すことは、神を探すことに等しい。必ず実体を捉えられる訳ではない』
 と言うものだった。
 しかしそれでは、実際に各地で出土する骨や体組織の化石に、彼等は何と説明を付けるつもりだろう。
 否、誰もがここに集う学生のように、学問に明るい訳ではないから仕方がない。国の最終学府である、この高等学舎に通う学生の人数は、一億の民の一万分の一にも満たないからだ。この若い世界ではまだまだ、学術的知識を基礎とする考えには及ばず、職業訓練の方に重きを置く時代が続いている。初等の学び舎で読み書きを習う程度で、十歳を過ぎる頃には稼業を継ぐ者が殆どなのだ。
 そしてそんな中では、まず学問を志すこと自体が一種の変わり者であり、彼等に対する理解などあってなきが如しだった。又知識を持たざる大半の民衆に取っては、何もかもが手の届かぬ神の領域に思えて然り。この国はそんな状況だと、まず先に説明しておかなければなるまい。
「みんなただの言い伝えだと思っているからな。飛竜が絶滅して久しい今となっては、単に見てくれを説明できる者すら残っていない。俺だって伝承の全てが真実かと聞かれれば、信憑性はないと答えるしかない。だが、伝承の一部は真実かも知れない。或いは、それを思わせる何かが海底にあるのかも知れない。だから調査が必要なんだ」
 当麻は作業の手を一時休めると、毅然として自身の考えを説明した。
「クックッ、当麻らしい答だが…。見付かるかどうかの問題だけで、飛竜の国は実際に存在する筈だ」
 そして征士は笑いながらも、すぐさまそれを否定するように続けていた。
「おまえにしちゃ珍しいことだ、過去の遺物にロマンを求めるような性格じゃない」
「だから夢想ではないと言っている」
 征士の言葉には、いつもそれを信じさせる響きがある。
 確かにこの世界にはまだ、僅かに残る水竜と、比較的多く野生に暮らす地竜、更にその亜種が広く身近に存在している。地竜の亜種は人に懐き易い性質で、力があるので馬車馬の代わりとなって、もう長く人々に親しまれている。しかし多くの竜達と共に暮らしながら、それらが何処からやって来たものかは誰も知らない。未だ全く解明されない謎だった。人間を含む多くの動物とは明らかに違う生物、と判っているだけだ。
 それなら確かに、別の世界から渡って来たと考えることもできる。天の向こうから、或いは海の底から、別の世界に繋がる道を辿って彼等は地上にやって来た。その後ふたつの世界は接点を失い、帰れなくなった竜達は地上に住み着いた。そう考えても別段おかしなことではない。
 けれど仮説は仮説でしかない。
「う〜む、その自信が何処から生まれて来るやら」
 征士のように「確かだ」と言い切ってしまうには、当麻は現実主義に過ぎたようだ。何事もまず己の目で見ないことには、或いはこの五感で感じられないことには、正確には何も存在しないに等しいと考えている。勿論征士を疑う訳ではないのだが。彼が希望を現実と混同するような人間ではないと、知っているのだが。
 人類は長く夢物語の中に生きていた、このひとつの哀れな過去を乗り越える為に己は夢を見ない、と当麻は誓いを立てていたので。

 アスールと呼ばれるこの星の大地に、人間と言う生物が現れてからの長い歴史。ただ天然の恵みを採取し、狩猟して暮らしていた原始時代を過ぎ、小規模な国家の成立と農業、牧畜等の発展、貨幣制度と流通の発達、そして地域毎に強国が支配する現代の、大規模な社会を形成して来た人間の歴史。それらは生物としての進化と、人間の能力を生かした弛まぬ努力が紡いでいるのだろう。
 しかしその中に『竜』と呼ばれる、計測不可能な存在も在り続けて来た。時には人間の親しい友であり、時には怒りのままに大災害を巻き起こす竜達。
 嘗て偉大な賢者達が、それを『神』のように扱っていた古の時代もあった。今、知的発達を得られた現代人には、『自然界の使者』と言った表現が適切だと言われている。種は違えど生物であることには変わりなく、ただ多くの生物とは違った、強大な能力を持ってこの世に生息している。神ならばわざわざ動物のような、不自由な肉体は持たないだろうと、前途の通り学者間では語られているけれど。
 そして最大の疑問。彼等は何故ここに居る、何処からやって来たのか。竜達の営みが何の意志に拠るのか、或いは自身の意志でここに君臨するのかも知れないが、確かに言えることは、彼等はただ己の趣くままに、自然にゆったりと暮らしていると言うこと。人間達の詰まらぬ争い、あらゆる無益な行動を傍目に眺めながら、しばしばそれに干渉して来る不思議な存在だった。
 恐らく、彼等は自然の流れを捉えて生きているのだろう。流れを乱すものを罰しているのだろう。だからこそ自然界の、否、神の使者とも呼ばれる生物なのだ。何故なら竜達の行動は常に、何よりこの星の為に為されているようなのだ。
 長い歴史の中で語られることには…。
 征士は学舎の中に与えられた自室のビューローに、置かれていた歴史書を閉じて本棚へと戻した。幾度読み返しても目新しいことはなく、飛竜の国に関する正確な記述などありはしない。長い間そんな文献を探し続けてはみたが、確かな証拠を裏付けるものは見付からないままだ。
 けれど征士には、異常者と見られるのを避ける為に、これまで全く言わないでいたことがある。
 朧げにその場所を憶えている気がするのだ。
 氷山の様に白く凍てつく山頂に吹く、塵ひとつなく澄み切った風の冷たさ。雲の上に突き出す山には城壁に守られた小さな町。そこだけは何故か年中温かく、小さな人々が寄り添い合って暮らす社会がある。まるでお伽話の王国のような風景。何処か懐かしい中世の町の風景。
 そんな幻想的なイメージを自ら作り出したとは、征士にはどうしても考えられなかった。何故なら当麻が指摘したように、どちらかと言えば、己は彼と同様の現実主義者だと思っている。だからこそ空想ではないと考えている征士。変わらぬイメージが幾度も頭を過る事実にしても。

 いずれにせよ、その真偽を確かめる為の道具は完成したのだ。まだ正確な日取りは決めていないが、季節の良くなるこの先、ひと月以内には未知の海中へと乗り出すことだろう。その為の準備はもう充分に、根回しを含めて為されて来たのだ。
 征士はその時が今は楽しみでならなかった。物心付いた頃から探し続けていた、飛竜の姿を漸く拝めるかも知れない。これきり豊かな地上を去り、二度とここには戻れなくなったとしても、家族には永遠の別れとなってしまうとしても、もし己が望む場所に辿り着けるなら全く構わなかった。それだけ彼に取っては重要な、強い思いだったことを心は素直に表す。
 その時ふと思い付いて、彼はビューローの小引き出しを開けると、中から革袋に納められた高額金貨を三枚取り出し、真新しい封筒に入れ替えて封をした。
 一般市民は滅多に目にすることのない高額金貨。彼の持つ財産のほぼ全額に当たるものだったが、場合によっては長旅になることを思い、それを両親に預けることにしたようだ。そうすれば万が一己が戻らなかった時には、確実に両親の元に残るだろうと。既に、そこまでを考える程に征士の頭はもう、無限の天へと行ってしまっているようだった。
 目指すは飛竜の舞う空の下の、ひっそりと平和に暮らす懐かしき昔。
 封建時代の忘れ物、モンハラード。



 その日はよく晴れた空が広がる夏の始まり。遠く続く海原の青さも透明に輝いて、彼等の出発に明るい花を添えている昼間だった。
 ここは学舎から最も近い港町。だらだらとした丘陵を越えて、ここまで潜水艇を運ぶだけでも大変な作業だった。運搬に使われた竜車の、四頭の地竜には特別な労いとして、征士が彼等の好物の猪肉をわざわざ用意した程だ。常に竜と名の付くものには、与えられる恩恵を忘れてはいけないと言う。そしてその高価な肉を喜んで食べる四頭の傍で、秀は羨ましそうにその様子を眺めていた。
 船出の時に水竜へ手向ける花束と、ふたりの学生、ひとりの乗員の名を称える横断幕が見える。その岩壁には今、近隣の各地から多くの見物人が集まって、がやがやと楽し気な談笑が続けれらている。高等学舎の知人や学者達、海上協力を頼んだ水兵の一団、潜水艇の制作に協力してくれた者、資金協力をしてくれた商店主等が、夢のある大実験の開始を今や遅しと待っている。
 しかしそんな彼等に気を持たせるように、当麻は落ち着き払った口調で乗り組員を集め、最後の確認を決め込むのだった。
「資料は?」
「揃っている、三度確認済みだ」
 征士はもう二週間も前には、己の担当分野について完璧に準備していた。今更聞かれるまでもないことだった。
「救命道具は?」
「人数分問題無し!」
 ボート、浮き輪、手旗等、秀が朝の内に確認を終えていた。
「食料は?」
「届いたやつは何とか全部詰め込んたぜ。まあ、節約すれば五日はもつ程度かな」
 無論巨大な潜水艦ではない、必要な備品を積んだ後、空いたスペースには入るだけの食料を入れたが、秀の計算が妥当かどうかは怪しいところだ。とにかく秀本人がどれだけ我慢できるかが鍵だ。せいぜい三、四日、どう考えても五日以上はもたないと当麻は踏んだ。
「そうか。機具は昨日の内に俺が点検して積んだ。燃料も充填を終えた。全て異常はなしだ。以上」
 最後に当麻がそう、自身の報告を入れて締め括る。これが必要な確認作業だったのかどうか、まあ、集まる観衆へのデモンストレーションでもあったようだ。
「さぁー、いよいよだな!。浸水して五分でスクラップ、なんてのだけはやめてほしいぜ」
 けれど秀には、愈々その時が来たと言う空気を感じられたようだ。確かにもう何も必要な作業は残していない。後は出発するのみ。
 ただ後ろに付け加えられた不穏な内容が、当麻は気に入らなかったらしいが。
「それはない。その為に何度も改善して来たんだからな」
 なので一抹の不安も一掃するように、彼は強い調子でそれを否定してみせた。するとそんな彼の堂々とした様子を見て、観衆からは小さくはないどよめきが起こる。やはり集まる多くの者が、設計者である彼に最も注目しているようだ。これで本当に実験が成功して、人々の目に見える何らかの報告ができれば、将来は天才学者としての地位を約束されたようなものだ。
 しかし、そんな未来のビジョンに暫し酔っている内に、
「では行こうか」
 簡単に言って征士が歩き出した。当麻は慌てて彼の肩を掴んで制止させる。
「おい、艇の指揮官は俺だ、勝手に乗り込むんじゃない」
「…はいはい」
 笑っている、征士の行動は故意のものだったようだ。彼はただ、このまま当麻を放置して楽しませておくと、前置きがどんどん長引くと考えたのだろう。ただでさえ余計な確認作業が入って、予定していた時間からはもう五分は過ぎていた。
 ただもうこの後は、待ちわびる程の時間はかからない筈だった。
「えー皆様、準備が整いました。それではこれより、羽柴当麻制作の潜水艇による、世界初の海底調査実験を行います。これから数日の内に朗報が届くことを、皆様どうか祈っていて下さい」
 当麻が仰々しくそんな挨拶をすれば、周囲からは弾けるような拍手が湧き起こり、それは潜水艇のドアが完全に閉められるまで続いていた。楽しみを提供する者への賞讃と、成功を願い送り出す些かの高揚感、そして二度と会えないかも知れない彼等に対する、別れの言葉でもあったかも知れない。否、是非とも別れの言葉にはしたくないものだが。
 そして苦心作の潜水艇は目標潜水地点へと、まず静かに前進を始めていた。
 このまま艇は港近くの沖へと出て、後は只管目標地点を目指して進むことになる。そこまでの数時間の道程を無事にこなせれば、その先への希望も窺えると言うものだった。叶うなら、否必ず成功してほしいと、艇の緩やかな振動の中で三人は願うばかり。

 手作りの小さな潜水艇は今最高速度に乗った。

「ああー、岸が遠くなっていくー」
 円形をした小さな乗員スペースの、窓に映る後方の景色が、日常生活から離れて行く僅かな淋しさをも見せている。常に旅とはそんな気持に駆られながら、それを振り切って出て行くものだろう。けれどそんな感傷に浸っていたのは、この面子の中では秀ひとりだったようだ。
「まず艇としては問題なさそうだ。あとは潜水だな」
 当麻は計器の数値を確かめながら、問題なく動いている様子を具に確認している。彼の理論で作られたこの潜水艇は、彼以外には扱えない複雑な構造をしているらしい。拠って操縦はほぼ当麻一人が行うので、彼には感傷に浸る余裕など有り得なかった。因みに潜水艇の動力は蒸気機関で、燃料には液化石炭を使用している。この世界にはまだ電気も原子力も存在しないからだ。
「潜水地点まではまだしばらくかかるな」
 そして征士も、最早行先にしか関心がないと言った様子だ。航路上の広大な景色を見ようともせず、早くも居眠りをしそうな風情だった。
 そんな、不粋なふたりに対抗していた訳ではないが、秀は尚も里心の付いたような言葉を口にする。
「あーあ、母ちゃんの揚げパンを食い損ねたぜ。これで死んだら悔いが残るなぁ…」
 そう、秀は今から四日前に実家を出て、潜水艇を港へ運び入れる運搬指揮を取っていたが、出掛ける当日の朝に、偶然彼の家に親類が訪ねて来た為に、旅のおやつに揚げパンを持たせてもらう予定が、作る時間を母は取れなくなってしまった。秀に取っては酷く不幸な偶然だった。
 だが、ものは考え様だ。その前日までは毎日のように食べていたのだから、そこまで執着せずとも良さそうなものだ。
「そう簡単に死んでたまるか」
 だから当麻もあっさりと、そんな返事に留めて取り合わなかった。又そんな風にあしらわれながらも、秀にはもう一押し言及したいことがあった。
「そんなの分かんねーじゃんよ、帰れなくなったら死んだも同じだ。聞けば『飛竜の国』ってのは、こことは全然違う世界だって言うじゃねーか。向こうに行ったら戻れなくなる可能性もあるって、征士は前から言ってんだぜ?」
 秀の心配するところは確かに否定できない。
「本当にそんな場所があるとしたら、だ」
「あるとしたらそれでいいのかよー?」
 ただ、学者の端くれとしての当麻の予測は、伝説の土地が存在する方に一割、残りの九割は過去に沈んだ国の遺跡か何か、在っても不思議でない物の発見だと見ている。そしてそんな思考の差があれば、危機的状況に対する当麻の余裕も、誰もがある程度頷けることだったろう。
「そうなったら、今度は向こうで飛行艇でも作るさ」
 そう返されて、瞬時に意味の取れなかった秀は目を丸くしたが、
「あ?。…ククッ、そりゃおもしれぇけどよ」
 すぐに調子を合わせて笑い出した、彼は本来思考より行動のタイプで、しかも楽天家だった。それこそ当麻が彼を選んだ基準でもある。
「そのくらいのことが考えられなければ、こんな実験は鼻からやらないさ。大体この世界に住む竜達も、皆そこから渡って来たと言われている。戻る方法は何かしらあると考えるね、俺は」
「そっか、なるほどなー」
 ただでは帰れないと言うなら、帰れる方法を考えて努力すれば良いだけだ。人間は揺られて流されるだけの微生物ではない。あらゆる状況を逞しく受け止めながら、目的を決して諦めないことに尽きる。それが未知への冒険者の志ではないか?。
 そして当麻の考え方さえ理解できれば、秀はそれ以上問い詰めることもしなかった。
「帰りたくなくなる程良い所、って可能性もあるしな」
 勿論あらゆる可能性が考えられるだろう。
「そうだな、前向きに行こう!」
 秀はすっかり乗せられたのか、先程まで愚痴を聞かせていた様子からは、まるで脱皮でもしたような陽気さを表していた。
「…って、どうした征士?」
 暫くそんな風に、当麻と秀の間で意見が交わされていたが、そう無口でもない筈の征士が石の様に黙っている。
「ん?、別に何も」
 征士は気付いてそう返したが、その声色は眠っていたとも思えない。少しばかり普段と違うような、妙な状態に見えたことは確かだった。当麻は妙な状態ついでに、小耳に挟んだ不快な疑問を彼に問い掛ける。
「そう言えば、おまえ家に財産を預けて来たって?。随分な話じゃないか」
 何故そんな話が彼の耳に入ったのか知らないが、それより咎められる理由が解らなかった。
「何がだ?」
「もう帰れないと思っているのか?。そんな行動だ」
 すると問い返した征士に、当麻は納得のいく回答をしてくれた。確かにそう見えても仕方がないと征士は思う。
 否、帰る、帰らないと言う意味について、征士と他のふたりには微妙な相違があったようだ。例えば、帰りたくない者に帰還の喜びは生まれない。帰る場所が無い者にはその意味さえ持ち得ない。人はそれぞれ生きた過程や環境に拠って、何を恋しく思うかも違うだろう。
「…いや。帰れないのではなくて、帰らないつもりなのだ」
 征士は穏やかな表情で答えていた。
「何でだ?、どーゆー意味だ?」
 何を言うのやら、まるで理解できない秀は矢継ぎ早にそう続ける。狭い船内ながら寛いでいた様子を変えずに、征士は淡々とその続きを話していた。
「さあ…、自分でも分からないが、区切りを付けようと思ったのだ。当麻には話したことがあるが、私の両親は本当の親ではない、本当の親の顔など私は知らない。だが、これまで特別嫌な思いをすることなく、この年になるまで面倒を見てもらえたのだ。もう充分だと思う、これでもう独立した方が良いと思った、のかも知れない。正確には分からない」
 聞いたところで不明瞭な内容だったが。
 しかし秀には解らなくとも、当麻には何となく理解できる部分があったようだ。征士は五、六才の頃に今の両親に拾われたそうだが、彼が生まれながらに持つ真面目さから、養父母との間には何の問題も起こさずに居られた。征士は常にそんな風に、周囲の人間の意向に合わせて、世話をしてくれる者を裏切らないよう努めて来たのだろう。
 だからなのだ。この実験が真の意味で成功した暁には、誰に遠慮をすることなく、己の為だけに生きられる場所に留まりたい、そう望んでいるように当麻には感じられた。実は以前から、彼のそんな意識には気付いていた当麻だ。
「…自分の意志を貫く為に、と言うところか」
 それなら尚、この探索の旅に協力して良かった、との意味を込めて彼は征士に返した。高等学舎では数少ない友人であり理解者である、征士の希望が叶う現実を当麻は改めて思う。
 それから、
「よく分かんねーけど、おまえって可哀想な境遇だったんだな…」
「え?、そんなことはないと思うが」
 単に親が不明と言う話を取ったらしいが、秀の励ましはかなり的外れだった。義父母は大規模な農場主で、ワイン工場を持ち、各地に直売所を持ち、自家用の竜車まで持ち、地域の病院や水道設備を寄贈した有名な資産家だった。望み通り高等学舎にも入れてもらえたように、拾われたにしては実際、贅沢過ぎる程の生活を送っていたのだから。
「フフフ…」
 それを知っている当麻は笑うばかりだった。
 それぞれに思うことも目的も違う三人。けれど共に必死になって完成させた潜水艇は、確かな手応えを感じさせて、着々と目的地へと進んでいるようだった。
 このままもし、本当に『飛竜の国』に到着することがあれば、そこは全ての者を満足させてくれる場所だろうか?。淡い期待ならばそれぞれが持ち得るものだけれど。

 そして潜水艇は、海と空以外に何も見出せないような、海上のある地点に浮かんだまま停止していた。
「切り換えは終わった。これより潜水に入る。いいか?」
 計器の並ぶパネルを眺めながら、珍しく緊張の色が見える様子で当麻は言った。
「こっちはOKだ」
 と答えた秀が担当するのは、潜水艇内部の気圧を調節するバルブだった。何しろこのローテクノロジーでは全てが手動で、己の五感を頼りに圧を計るしかない。つまり潜水深度が進む度に、彼は内耳等に感じる圧迫を調節して行くと言う、命に関わる重要な作業を任されていた。バルブに掛けられた掌には微量の汗を感じる、秀は己の緊張を大いに感じている。
「いいぞ、当麻」
 征士はこの時点では、特別な作業を与えられていなかった。艇の向きを確認する磁石を見ながら、調査地点に降りてから使うカメラや照明、記録機器の状態を確認していただけだ。つまりひとりは操縦、ひとりは艇内維持、ひとりは調査行動、との分担を予め決めていたようだ。
「では潜水開始」
 そして言葉と同時に、当麻は操縦桿の横のレバーを振り切るまで下に下げる。艇の底から機械類が動き始める音がすると、暫しの間の後、何かに引き寄せられるようにゆっくりと沈み始めた。窓から見える海上の景色が徐々に低いアングルへと変化して行く。やがて水が見えた。明るい色をした海水の、穏やかに波打つ水平線を通過して行く。そうして艇は遂に完全に水中へと没していた。
「成功だぜ!」
 秀が一番に奇声を上げると、
「まだ第二段階だ、これからどんどん深度が下がって行くぞ」
 当麻はあくまで慎重にそう言ったが、その声色から喜びの色は隠せないでいた。
 一度水中に入れば、その底へと進む速度は増して行くようだった。窓の外では自由に泳ぎ回る魚達が、物珍しそうに艇を掠めて過ぎて行く。注目しなければ塵にしか見えない、様々な形のプランクトンが白くさざめいている。発生する気体は皆丸い小さな泡となって、光る水面を目指して競うように昇って行く。
 ここは正に海の世界だ。
 どうかこのまま、予定通り二万キロの海底まで無事に潜り切ってほしい。と、誰もが息を飲んで深度計の数値を見守っていた。30メートル、40メートル、50メートル、海上の明るさは少しずつ失われて行くが、今のところこの艇はびくともしなかった。勿論当麻の計算通りに出来てさえいれば、必ず予定通りに潜水を終える筈、ただそう信じるしかない。

「450…、500…500メートルを越えた!」
 当麻が喚声に近い声を上げた頃、既に辺りは暗く閉ざされた視界へと変わっていた。艇内の照明が無ければ、窓に張り付く虫さえ見えない闇の中だった。今更怖じ気付く訳ではないが、些か心境の変化を感じて来たところだ。
「こっちは問題ねぇ」
 秀の一声が他の乗り組員の、締め付けられるような緊張を僅かに楽にしてくれた。新しい発見は必ずしも幸福ではない。恐らくまだ誰も知らないだろう、普段見ている海とはまるで印象の違う、それは内宇宙の深遠な広がりと閉鎖性を同時に見るような、どちらかと言えば不安を揺り起こす暗闇だった。海の深い懐に隠された暗黒は、踏み込まれることを嫌うアスールの聖域のように感じた。
 聖域を冒した者にはどんな罰が与えられるだろう。
 正直誰もが恐いのだ。ここを通過し切るまで続く闇への恐怖感…。
「600、…700…」
 その時征士が、見詰めていた磁石の異変に気付く。
「方向に若干ずれが生じている。海流に押されているのか…、修正できるか?」
 当麻はそれを受けてすぐに操舵を取った。
「座標は?」
「西にほぼ0.5度だ。それで様子を見て、まだ狂うようならもっと大幅に変更しよう」
 無言で了解するように、返事を聞き終わらない内に当麻は軌道修正を試みる。操縦系統に故障や不具合はないようだ、潜水艇は確かに操作通りの方向転換をした。
 ところが、ほんの一時の内にまた方角がずれ始めていた。しかも今度は比較的早い速度で、進行方向をねじ曲げられる感覚が確と体に伝わって来る。この潮の流れは思いの外強いようだ。
 限られた燃料を節約する為に、目的の海底に真直ぐ、最短距離で進めるルートを彼等は幾度も考えて来た。そして今最良と思える道程を進んで来たが、大海を巡る海流の動きまでは、まだ完全に把握できていないのが世界的な現状だ。そして彼等は不運にも未知の海流に当たってしまった。ここは素直に通過を諦めた方が良いのだろう。
「おい、一気に6度もずれたぞ。この海流は厄介だ、当麻。ルートを変えた方がいい」
 征士は驚きながらも落ち着いてそう言ったが、しかしこの時既に、当麻はそれどころではない事態に直面していた。
「うわぁ!」
「!!」
 まるで荒波に煽られる船の甲板に居るような、地面から掬われる感覚に立っていた秀が倒れ込む。そして四方から転がされるような揺れが続く中、当麻は自身の周囲に並ぶ計器やボタンを必死に見回した。
「まずい、どうしたんだ、水平蛇の故障か!?」
 流石の彼も穏やかでは居られなかった。確かに彼の前の計器にはひとつだけ、無秩序な振幅を繰り返す異常なものがあった。征士は椅子に掴まりながらそれを覗き見て、しかし他の機具には異常が出ていない不思議を思う。それはつまり、
「一概に言えない、艇ではなく外の異常かも知れん」
「お、俺もそう思う。船体異常のランプは灯いてねーぞ」
 この潜水艇の外で、予想範囲を越えた力が働いているらしいこと。艇の床に思い切り打ち付けられた、額を摩りながら秀も征士の意見に同意する。こんな時に自画自賛ではないが、潜水艇は計算通り頑丈に出来ていると当麻も覚る。
 けれど事実が判ったとして、決して喜べる展開にならないことも知っている。このまま乱気流のような潮に任せ、闇雲な方向に転がされていてはいずれ、何かに衝突してしまう可能性が高いからだ。そうでなくともあまり揺さぶられていると、元々そんな振動に耐性を持たせた機材ではない、ひとつでも故障すれば計画を遂行できなくなるかも知れない。
 しかしどうすることもできないのだ。
「うわっ、また」
 天地が逆さまになる程の捻れに、秀は慌てて征士の椅子の背にしがみ付いた。
「くそっ!、何で後退してる!?、完全に操縦不能だ!」
「流れに引っ張られているのだ!」
 それが決まった方向性を持つ流れならまだ良いが。
「やべーよやべーよ、何処に流されるか分かったもんじゃねーよぉ」
 秀が再び泣き言を出したその時、一瞬、背面の窓に白く巨大な柱が映った。正しく言えば『柱のようなもの』だ。光の届かない深海で、何故だか白く見えた奇妙なその姿。三人はもう一度それを確認しようと、息を殺すように窓の外を見詰めていた。
 確かに柱などではなかった。
「…竜巻きか?」
 否、本来は水中で起こるものを指さないだろう。けれどその性質は恐らく同じ、巻き込まれれば艇ごと巻き上げられ、ばらばらにされてしまうのが道理だろう。そして予想はできても、回避行動は何ひとつできない身だ。無抵抗に引き寄せられて行く船体、もう怒りや苛立ちのような感情は誰もが忘れていた。
 残された、出来得る行動とはただ、この頑丈な艇が堪えてくれることを祈るだけだ。その後にもうひとつ、発信器が使えれば確実に命も助かる筈…。

 何故こんな結末になってしまった?。
 この世界は広く、自然界は深く、未だ人間の知り得ない事が多く存在するからだ。
 我々の無知無謀が不運を呼び寄せた。そう考えるしかないだろう?。

 誰も悪くはなかった…。



 …寒い。凍えそうだ。このままでは本当に凍り付いてしまいそうだ…。
「ここは…何処だ」
 うつ伏せに寝ていた当麻の視界には、肌に感じる大気より尚寒々しい景色が映っていた。枯れかけたような黄を帯びた低木と、正に枯れるばかりの植物の残骸。手や顔に触れる草は刺のように硬く、風の吹き曝しに負けて成長できない高山植物のようだった。
 とにかく寒い場所だ。
 どうやら命は助かったようだと判るが、海を漂流したにしては妙な状態だった。本来なら浜辺等に辿り着くだろうが、ここは波の音も潮の香りも感じられない。衣服にも濡れた様子がない。敢えて今を表現すれば、何処かの山岳地帯に落とされたような…。
『他のふたりは?』
 そう思い立って体を起こした当麻の、顔の前に突然指し出された長剣の切っ先。レプリカなどではないその禍々しい剣身が、鋭利な造型を見せつけるように鼻先に存在する。無論好意とは受け取れない、当麻は慎重な態度で恐る恐る顔を上げると、前時代の装飾的な軍服に身を包んだ、黒い髪の青年がこちらに鋭い視線を向けていた。
 物音ひとつ聞こえない何処だかの庭。落ち着いてよく見てみれば、外見は自分等と同じ十六、七と言ったところだ。しかし彼の身なりや態度には、一般人とは違う「格」のようなものが感じられる。つまり何らかの権力を行使できる立場、なのではないか?。
「おまえ達、何処からここに入った?」
 ならば下手に逆わない方が身の為だ、まだ右も左も判らない状況では。更に当麻は、己の背後に他のふたりが居ることも知り、尚のこと上手くこの場を凌がなければ、と思う。
 予想外のアクシデントの後に突然の尋問が続く。しかし彼の頭は瞬時に策を考え始めていた。



つづく





コメント)「剣と竜のファンタジー、みたいな征伸」と言うどむさんのリクエストでしたが、竜が中心の話であんまり剣は出て来ないような…、すみません。ついでにまだ伸も出て来なくてすみません(笑)。次へ進んで下さい〜。



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