IPPOで
幻 の 人
#2
THE PHANTOM



 誰が、何の為に?

 昨日の夕方から夜分を通り過ぎると、太陽系赤十字センターに降って沸いた騒ぎは、一応平常通りに落ち着きを取り戻していた。事実はどんなものだったのか、事件を解決する為に誰がどんな努力をしたか等々、情報らしい情報は外部には何も伝えられずにいた。それこそカオスが意図した通りに。
 そして変わらない顔をしてやって来た翌朝、
「おはよう、ございます」
 シンもいつも通り、九時からの始業に合わせ、二十分も前には冷凍倉庫に到着していた。変わらない真面目な出勤状況。変わらない事務所の扉の音、置かれたロッカーや事務机の変わらぬ配置、朝方の淡い光が差し込む窓の景色さえ、何ら変わったものは見当たらなかった。
 ただ、いつもにこやかに声を掛けてくれる筈の、その人の態度だけが微妙に違っていた。シンは様子の変化にふと歩く足を止める。病を抱えた者は、健常者に比べ何処かしらに鋭敏な感覚を持つと言うが、彼は正にこの場の不穏な空気を感じたようだ。
 恐らく自分に取って有り難いことではないと。
「ああ…、モウリ君…」
 シュテンは、気乗りのしないような動作で顔を向けると、彼にしては珍しい篭った声で言った。
「君に話があるんだ」
 それまで眺めていたコンピュータ画面を切り替え、自身も頭を切り替えたような、或いは意を決したような面持ちでシュテンは席を立つ。真直ぐにシンを見据えているその鋭い目には、多分の困惑と些かの悲しみが感じられた。
「言い難いことだが、…君は今朝、解雇されることになったから」
「・・・・・・・・」
 そして彼の口から切り出された言葉をシンは、暫くの沈黙の間、全く理解できずに相手を見ることしかできなかった。
 昨日何かがあったのだろうか?、これまでに何か問題があっただろうか?、この職場に何が起こったのだろうか?。と、何の情報も得られていないシンには無論、事態を把握しようもなかったけれど。
「あ…」
 何故ですか?、と問いたくても、こんな時には簡単な言葉すら出て来なかった。戸惑うシンの様子を悲しく見詰める上司がそこに居るだけだ。充分な言葉がなくとも、シュテンは彼の表情や仕種から大体、言いたいことを読み取れるようになっていた。それはこれまでシン・モウリと言う人を観察して来て、彼の性質の良さを信頼して来た結果だっただろう。
 なのにその信頼は裏切られた、のだろうか。「何故」と聞きたいのは己の方だと、シュテン自身も混沌としながら話を続ける。
「昨日、君達が帰ってから連絡があってね。この倉庫に解凍期日の過ぎたタンクがあると言うんだ。それで調べてみたら、元のデータより期日を伸ばされたものが、確かにE5フロアにあったんだ…」
 すると、その内容を耳にしたシンには明らかな、瞳孔の揺らぎを見て取ることができた。
 言うまでもなくそのフロアはシンの持ち場だった。シンが通勤を始めて二年弱の間、E5フロアの細かな管理は殆ど彼に任されていた。何らかの事情を知っているのは間違いないだろう。
「データ管理は君達に任せていたから、私は全然気付かないでいたが、」
「えっ…、えっ…」
 再び何かを言おうと狼狽するシンの目には、言葉より饒舌に涙が溢れ始めていた。
「どうしてなんだろうな?」
 そして結局何の弁解も反論もできず、目を見開いたまま涙を流す彼は、酷く可哀想な様子に映るばかりだった。
 否始めから、頭ごなしに咎めるつもりはなく、無理な尋問をする気にもなれなかったのだ。シュテンは彼の、既に何かに傷付けられている心を今も気遣い、声を荒げることは全くしないでいる。シンに対して怒りの感情が沸かないことも気付いていた。理由が解らないことだけでなく、彼が故意に犯罪を起こす人間とは思わない、思いたくない気持からのことだ。
 そう、彼は自らの不遇と戦いながらも、限られた範囲の中で幸せに生きていた筈だった。シンの健気で大人しい普段の様子を見る度に、不満ばかり列ねることの醜さを考えさせられた。ある意味天使か聖人かのように捉えられた、そんな存在を突然悪人扱いにできはしない。
 恐らく彼なりに仕方のない理由があったのではないか、とシュテンは思っていた。その「仕方のない理由」とは、常人に理解できる事かどうか解らない意味で、心がそうさせている場合も考えられた。何か特定の物事に、無意識に動かされてしまうような衝動が、本人の意志とは関係なく存在するかも知れない。実際そんな事例はよく耳にするからだ。
 なのでシュテンは彼に対し、元々罪を問えない存在のようにも感じている。障害を持つ者に日々身近に接していて、彼等に対する理解が進んで来れば、そんな風に彼等の心理を思い遣ることもできた。ただそんなシュテンの良心的解釈は、管理者としては失格なのかも知れないが。
 又それでも彼は問わなければならなかった。
「君は理由を知ってるんじゃないか?。他の作業員の話では、君は何だか、特定のタンクを気に入っている様子だったと聞いたが」
 立場上、一通りの説明をする義務はこれで果たされたけれど。
 その答を聞くことは恐らく不可能だと、シュテンは始めから諦めていたようなものだ。案の定、啜り泣くばかりで何の言葉もない、悲痛な様子に暮れているシンには、これ以上追い詰める話を向けられなくなっている。この事件によって更に、彼の回復を妨げる傷を残すかも知れない、などと考え始めると。
「・・・・・・・・」
 LM73M−IP−001476Rに何があるのかも知らない。シュテンが昨日の夜に確認したタンクの中身は、他と何ら変わらない、干涸びたような人間の顔が見えただけで、出生年代、職種等のデータから言っても、血縁や面識のある人物とは思えなかった。シンが何に関心を持ったのかはまるで解らなかった。
 彼が何をどう捉えているのか、外的な証拠からは何も探れないままだ。事実関係は何も判らないまま、この事件は無かったことにされるかも知れないけれど。
「いや…。いいんだ」
 シュテンには、それでも構わないと結論する他になかった。
「理由は無理に聞かない。私はモウリ君が、社会に悪事を企む人間とは思っていない。…ただ間違いを起こした以上、もうここで働くことはできない。それは分かってくれるな?」
 又続けて、穏やかな調子で言い聞かせるように話した。そんなシュテンの独断的な親切だけは、シンにも確と感じ取れるものだったようだ。それが救いだった。
「・・・・・・・・」
 変わらず言葉は出ないけれど、シンは俯き加減に小さく二度頷いて見せた。
「そうか」
 人の気持が解らない訳ではない、シンの変わらない素直な態度を見て、漸くホッと溜息を吐いたシュテンだった。
 提出する事件報告の記載などは、適当な理由を記しておけば済むことだった。それより彼の状態が悪化する危険の方が、シュテンには余程気掛かりなことだった。ここに働く者達は皆、家族的な気遣いで支え合う仲間だったのだ。今は離れて行く立場になったとしても、その後のシンのことを気にせずには居られない、管理者兼保護者の切なる心境。
 己が敵でないことさえ伝えられれば、それで良かったのかも知れない。
「それから、この件に関しては口外無用を守ってくれるか?。赤十字とIPPOの間で、なるべく穏便に済ませたいんだそうだ。期日が過ぎたタンクもそれ以外の問題はなかった、今日にも解凍処理を始めて、先方には慰謝料で納得してもらうそうだから。…君には何のお咎めもない」
 更に安心させるようにシュテンは話した。勿論その内容は嘘ではない。内輪で片付けると決定した誰かに拠って、シンには極めて異例の恩赦が与えられた事実なのだ。それもまた、この世界の何処かに全てを見ている存在があり、彼には罪がないことを示しているように、捉えられなくはないだろうか?。私は間違っているか?、とシュテンは見えない何かに向けて問い続けている。
「私としては、君を解雇したくはないんだけどな」
 改めて、普段と変わらない態度に戻したシュテンは、やや淋し気に笑ってそう付け足していた。変わらない事務所の扉の音、置かれたロッカーや事務机の変わらぬ配置、いつもにこやかに声を掛けてくれた管理部長も含め、特に変わらない普段の様子に全てが戻って行く今。するとそれまで、何も語りそうになかったシンの口から、消え入りそうに掠れた声が聞こえた。
「ありがとう、ございました」
 決まり切った文句ではあるが、彼の精一杯の気持が伝えられていた。
「ああ…、済まなかったな」
 己が悪い訳ではないのに、シュテンは思わず謝っていた。否、シンに悪意はないと感じながら、声を大にして弁護することもできない、立場上の弱味を済まなく思ったのかも知れない。敵ではないが、強力な味方にもなれない情けなさを感じる、そんな場面は誰にも一度くらい経験があるだろう。複雑な思いで彼はシンの帰り際を見送る。
「あーあー」
 シュテンの耳に、聞き慣れた別の声が又、好ましくない現況を嘆くように響いていた。入れ代わりに事務所へと入って来たラジュラは、
「かーわいそうに。と言ってもしょうがないだろうが」
 続けて誰に聞かせるでもなく呟きながら、忙しい足運びで出勤記録機の前に歩み寄っていた。今ここで重大な話が為されているのを知って、ラジュラは一段落するまで外で待っていたようだ。目が悪くなった代わりに、聴力が拡大して来たと言う彼だ、大方その内容は聞き取れてしまったのだろう。そして黙っているシュテンと同様の、曇った表情を見せながら呟き続ける。
「増々病気が悪くなっちまうかもなー、あの子」
 言われるまでもなく、誰もがそう感じている不安な予言。
「…そうかも知れない」
 シュテンが遅れて答えた頃には、ラジュラの姿はもう事務所には無くなっていた。作業の開始まであと五分弱と言う時間になっていた。

 巨大なミラーが日照をコントロールする月の、今日の天気は抜けるような快晴だった。
 まだ朝と言えるこんな時間は、ルナシティの何処を見渡しても、通勤、通学に急ぐ人々しか見当たらないものだ。未曾有の理想都市では、便利さや娯楽を追求し過ぎることも止めている為、深夜に働く者は極一部に限られている。人間が人間らしい生活から離れれば、それだけ社会にも悪影響があるだろうと、実験的に試みられている規範のひとつだった。
 拠ってこんな時間に自宅へ戻った記憶は、勿論シンにはひとつも有り得なかった。その所為か、或いは茫然としているのか、この後何をして良いのか彼には全く思い付けない。
 シンは今赤十字センターの正門を再び潜った。まだ通行許可が解除されていないのか、一般労働者用の通行証は問題なくセキュリティボックスを通り、また彼の手許へと戻って来た。戻ったところでもう意味は失われているけれど。
 例え解雇されなかったとしても、彼に取って意味がなくなったのは同じだった。
『君はきっと解ってくれる』
 シンは毎日、暇さえあればそのタンクに語り掛けていた。見覚えのある顔だった訳でもなく、見た目は生きているとも思えない状態だが、彼は確かにその人物を選んでいた。話したいことが自ずと沸き上がって来る、そんな対象に出会ったのは幸運だったのか、不運だったのか、今はどちらとも言えなくなってしまった。
 何故その人なのだろう。
『燃え尽きた大地のカラカラに乾いた風に、死んだ者の血と肉と最後の叫びが、切り刻まれた断片となって運ばれて来る世界を、僕は知っている』
 誰にも話せないでいる、脳裏に広がる殺伐とした風景が彼を呼ぶ。
『舞い踊る憎しみの銃弾と、逃げ惑う流浪の民の悲しい肉片が、どす黒く淀んだ川の水に、灰や鉄錆と共に沈んで行く墓場を僕は知っている』
 シンが傍に置きたがったLM73M−IP−001476R。

『でももう会えない』



 その事件は結局、発覚してから一日の内に全ての処理を終え、赤十字とIPPOそれぞれに後腐れを残すことなく、上手く内輪に収められてしまった。平和的解決の意志を通した者、守備良くその任務を遂行した者、それを素直に受け入れた者、様々な働き掛けに拠って小事に済ませられたことは、社会団体として活動する双方の利益に必ず繋がるのだろう。
 拠って三日も経過する頃には、事件に関する些細な情報など、誰の頭からもすっかり霞んでいたと言って良い。口外無用、秘密厳守とされた所為でもあるが、経過した過去の出来事をいつまでも考えていられる程、IPPOも赤十字も暇ではなかったからだ。否、直接事件に関わっていない人間には、取り沙汰する程の情報ではなかったのも確か。
 言ってみれば、他人にはどうでも良い事だった。何かを盗み取られた訳でもなく、命の危険に晒された訳でもなく、それだから局長の判断は正しいと理解もできる。しかも保管されていた当事者には、超過保管分を全日働いた計算で慰謝料が出ると言う。彼はまだ若いが、既に上から二番目の格付けを貰っていて、相当な金額になることが想像できる話だった。
 無論ウィルス治療の為の保管期間は、IPPOの保険で賄われる為支払い義務はない。そして本来、二年近く休まず任務に就くのは不可能だが、その計算で代価が支払われると言うのだ。事故だったにしろ、悪戯だったにしろ、むしろラッキーだったんじゃないか?、とIPPO内では軽く囁かれていた程だ。

 そんな無関心な様子の本部内で、ナアザは一階の喫茶室へとのんびり足を運んでいた。急を要した赤十字の任務を無難にこなして、今は約二ヶ月振りの休日を過ごしていた。N11コロニーの件で長く潜伏先に居たが、久し振りのIPPO本部は、ベテランの彼にさえ心休まる場所のようだ。
 ここは所属社員全ての家であり、常に彼等が戻って来る所だった。だからいつも彼等が安らげるように、本部の施設には充分な配慮が為されている。ジムや学習設備は無論のこと、レクリエーション施設、リラクゼーション設備等、高級ホテルにも叶わない総合的な環境が存在し、その中で自然公園を一望しながら、静かに過ごせる喫茶室で読書をするのが、専らのナアザの休日だった。
 尚、アヌビスの方はと言えば、朝から買い物に出ていて姿が見えなかった。ナアザとしては、パートナーではあるが煩いのが居なくて幸い、と言う心境だったようだ。
 が、
 個人室の集まる高層階からのエレベーター扉が開き、彼が一階のフロアに降り立った時、他に通る人の姿も無い廊下の奥から、女性が声高に何かを訴える声が聞こえて来た。その声の方向、本部の一階西奥には応急的な救護室と薬局、リハビリ施設等が存在する。騒いでいるのは恐らく看護婦か何かだろうが、どうにも穏やかな様子とは思えない。
 ナアザは一応それを確かめようと、喫茶室とは反対の廊下へ足を進めた。すると、程なくして奥から現れたのは見覚えのある男。手摺に掴まりながら、病み上がりのような覚束ない足取りで歩いて来る、その男の目にはしかし、動作とは別に鋭く強い意志が感じられた。看護婦と何かを争っていたのは彼だ、とすぐに見て取れる只ならぬ雰囲気。
 暫く、その男が自分の前に来るまで、ナアザは廊下の中程に立ち止まっていたが、
「おやおや。そんな体で何処にお出掛けかな?」
 と、それとなく探りを入れてみた。
「…赤十字センターだ」
 すると予想通りの言葉が返って来た。見方は色々あるが、誰も彼もが単純にラッキーな事件だったとは、考えないだろうとナアザも判っていたけれど。
 そう、恐らくセイジは、今日から解凍後の回復プログラムに入る予定を、振り切ってそこへ出掛けることにしたのだろう。彼の気持は解らなくもなかった、時が経てば経つ程真実は掴み難くなると、情報屋でもあるIPPOの社員なら誰もが感じることだろう。だから彼は急いでいるのだ。誰もが内側に隠そうとしている事実が、見付けられなくなってしまう前に動こうと。
 しかし、気持は解るとしてもナアザには、
「まさか抗議にでも行くつもりか?、非公式だと聞かなかったのか?」
 こう言わざるを得なかった。現状通りで事を納めるのが最も重要だったからだ。又セイジに対して、その程度のことが解らない人物ではない、とも思っているのだが。
「ここに迷惑を掛けるつもりはない」
 彼の様子はその程度では変わらなかった。言われなくとも重々解っていると、暗に示すばかりの鉄壁の態度を現している。そこまでこだわる程の事だろうか?、たかが一年や二年遅れたくらいで、と、ナアザなら考えるところだったが、
「口では何とでも言えるが、素っ破抜かれたら元も子もないんだぞ」
「これが黙っていられるかっ!」
 セイジは尚激しい抵抗をして見せた。解凍明けの儘ならない体の不快さが相まって、精神的にも苛立っているのだろう。何しろこの程度のことで怒鳴るようなら、エリート工作員とも思えぬ態度に相違ない。そして、彼は愚痴を零すように更に怒鳴り続けた。
「忌々しいこと、私の貴重な二年間を何だと思っているのだ!!。人の命をこんなに軽々しく扱うなら、納得の行く説明を聞くまで、地獄の果てまでも追求するべきだ!。誰にも文句は言わせん!!」
 まあ、社会活動とは別に、個人のレベルでならそう言う話になるだろうが。
 但しIPPOに所属する者は皆、ある意味では組織に命を捧げた道具でもある。充分過ぎる保護を受けている代わりに、己を殺して働く義務を誰もが負っている。つまり個人である前に、IPPOの一構成員なのだ。我を通して良い時と悪い時が存在する。そしてそれぞれが判断しなければならない。
「ヘマをすれば首どころじゃないんだぞ」
「私はヘマはしない!。…もう構わないでくれ」
 一頻り言いたい事を吐き出した後、漸くセイジの口調だけは落ち着いて来たが、やはり状況は何も変わっていなかった。これだけ言っても変化が見られなくては、もう何を言っても駄目だろうと、ナアザも諦めムードになって返すしかなくなる。
「あー、そー。まったく、俺が事を丸く治めて来たってのに」
 するとふと視線を相手に向けたセイジ。この赤十字の一件を一日掛からずに、手際良く処理したと言うナアザの手腕は、無論セイジにも充分に認められるものだった。そして彼からすれば大先輩であるその人の、忠告を聞かずに行くならそれなりの覚悟も必要だと知る。偉大な局長と、その他全ての同僚を裏切る真似は決してできないと。
「あんたの仕事を無駄にはしない」
 最後にナアザにはそう告げて、ガラスドアからの光が差すエントランスホールへと、セイジは廊下を抜けて歩いて行った。そのひた向きな姿勢を示す後ろ姿を最早、ナアザは追おうとはしなかった。代わりに、
「まあ、おまえはアヌビスとは違うよ」
 聞こえるかどうか判らない程度の声で、そんなことを呟いていた。それはつまり、不安の多い者なら決して行かせないとの意味だった。工作員としての実力と信用がなければ、リスクの高い個人行動など任せられはしないのだ。ナアザは経験上の判断から可、不可を見て止めないでおいたけれど、
「クックッ、しかし意外と若いなぁ」
 ついでに苦笑もしていた。IPPOで工作員、諜報員として働く者の多くは、強靱な体力と長い活動期間を得る為に、繰り返し生体改造を受ける義務がある。それにより局長は千年以上、このナアザですら四百年近く生存しているのだ。危険を伴う団体では、当然命を落とす者も度々現れる。特に優秀な人材は数も少なく、一度失えばそれきり穴を埋められないこともある。優れた者をより多く残す為には必要なシステムだった。
 又それだから、二年程度の時間のロスなど、後に続く数百年に比べればほんの僅かだ、とナアザは思う。現在セイジは冷凍期間を合わせても、九十年に満たない年令なので仕方がないかも知れない。彼の意識とナアザの意識は、時間的な観念の点で少しばかり違いがあるようだ。
 いつの時代も若さとは時に、愚直で微笑ましく映るものだけれど、この場合若いと言っても一般人とは尺度が違う。「若気の至り」などと言う事態には成り得ないと、誰もが承知している上での話だった。



「…え?、解凍後の処理に問題があると言われて?。何なんですかそれは?、こっちは専門外だと分かっている筈です。え、来られても困りますよ!、私は何も知りま…、あ、ちょっと待って下さい!」
 その後、赤十字センターの冷凍倉庫事務所には、再び困った直接連絡が入っていた。
「一方的な…。押し付けられたのか?」
 シュテンは眉間に皺を寄せながら、如何にも当惑した様子でマイクを置いた。これまで何の問題もなく、退屈を感じる程に平穏な部署であった筈が、先日から立続けに問題が襲って来るからだ。まさか今年は厄年か?、などと疑いたくもなっただろう。
 そして難しい顔が戻らないまま、シュテンは事務所の隣の集会室へと戻って来た。丁度午前の作業時間が終わり、全員分の昼食が配膳されたところだった。
「…何かあったようだな、っと」
 ラジュラがすぐにその様子を問うと、しつこく聞こうとしなくとも、シュテンは自ら口を開いていた。それだけ不愉快に感じているらしい。
「訳が分からん、本部は何を考えているんだ。厄介なクレーマーを回すなら、本部に専門の相談員がいるだろうに…」
 連絡の内容はこうだった。ここに保管されていた者が解凍処理を受け、後に何らかの問題が生じたことを訴えに来たと言う。そして相談窓口で本人が、冷凍倉庫の管理者に会いたいと申し出たそうだ。本来見当違いなクレームを付ける者には、窓口での説明が続けられる筈だが、何故か管轄外のシュテンに相手をするよう命じて来た。勿論快く引き受けられる訳もなかった。
「こっちでどうしろと言うんだ。解凍後の不具合など知らないぞ、私は」
 シュテンにしては珍しく血が昇っている様子。否、こんな不可解な用事が回されて来たことは、これまで一度もなかったからだ。少なからず怒りが感じられる上司の口調を耳に、ラジュラは冗談めいた一言で彼なりに気遣っていたけれど。
「中間管理職は何処の世界でも辛いなぁ?」
「まったく嫌になるな、雑用処理までさせられては落ち着いて昼飯も…」
 と、言いながらシュテンが漸く席に着いたその時、本部の連絡から考えれば、妙に早いタイミングで事務所のドアが音を立てた。
「食事中失礼する」
 続けて聞き覚えのない男の声が聞こえた。
 さて、いちゃもんを付けに来たにしては、案内人を必要としない早さでやって来た人物。恐らく赤十字を良く知る誰かだと予想は付いた。単なるクレーマーではないのかも知れない。それなら尚問題のように感じる。しかし、廊下続きの部屋に集まる労働者達の前に、考える暇を与えぬ内に彼は姿を現していた。
『あれま…、こないだの奴か』
 ラジュラの箸を持つ手が思わず止まり、又瞬時に事情を理解したようだった。何故赤十字の内部に詳しいのか、それは親しいIPPOの人間だからだ。本部の相談員も言い分を聞かざるを得なかった筈だ。そして何故彼はここに来たのか、その理由は先日の事件に関する何かを聞きに。彼のピリピリした様子からして間違いないだろう。
「あんたが管理部長か?」
 セイジはさっと部屋を見回した後、手前の席に着く事務服の人物に声を掛けていた。行動に添えられた表情は無論、タンクに眠る死体同然の顔ではなく、今は明らかな意志で憤りに歪んでいるのが判る。臆面もなく己の怒りを表現している。彼が何に憤慨しているかと言えば、シュテンに想像できない筈もない。
 ところが、そんなセイジの不躾な態度を前にして、却って落ち着きを取り戻せたシュテンだった。人の振り見て我が振り直せ、ではないが、先程までの自身の怒りがすっと後退し、ここは威厳を保って切り返すように答えられた。
「そうだが、本部から連絡は受けている。解凍処理はここではやっていないんだ、ここに来ても何も分かりはしないぞ」
 まあ、今更セイジにそんな説明をしても、意味のない言動だとシュテンにも思えたけれど。
「いいや。私が聞きたい事は分かっている筈だ」
 そして間を置かずに、誰もが予想する通りに、セイジは明確な目的を彼等に示すまでだった。
「誰が!、何故!、私のデータを改竄したのか!。納得の行く説明を聞かせてもらいたい」
「・・・・・・・・」
 威嚇するような怒鳴り声が部屋に響いていた。昼食の席に着いていた一部の気弱な者が、些か怯えたように体を竦めてしまっていた。以前から恐い顔だと思っていたが、怒っていると尚恐ろしい形相になると、ラジュラなら平常心で観察できていたが。
「それは誰にも分からないんだ」
 ただ、シュテンが返す言葉はそれしか無かった。疑われようとそれが事実だから仕方がない。そして尚相手の怒りを増幅させてしまうことも、シュテンには予想できていた。
「情けない!、この期に及んで、まだそんな誤魔化しで通すつもりか!!。私は被害者だぞ!?、これが太陽系赤十字のやり方なのか!」
「そうではない!、当人はもう四日前に解雇されて、何も聞いていないのだ」
 容赦なくぶつけられる嘆きと怒号を耳にして。
 シュテンは決して言い包めようとした訳ではなかった。団体間に於いては重要視せずに置かれることも、個人に取っては軽視できない話だと、問われたシュテンにも訴えの正当性は認められた。自分だけには本当の事情を話してほしいと、詰め寄るセイジの心情も又理解できる。もし自分が彼の立場なら、やはり納得できないと言って怒鳴り込んだかも知れない。公にされないと判る範囲で、ひとりで動き回って真実を探したかも知れない。
 被害者の苦悩を無下に退けようとは思っていないのだ。
 けれど。
 シュテンの中にはそれとは別に、理由を問われず済んで良かったと安堵した記憶もある。何故なら無理矢理聞き出そうとすることが、ある少年の人生を変えてしまうかも知れなかった。既に苦しむ者を更に追い詰めた後には、酬いのような絶望感を味わうだけだと思えた。全ての事情を知った上で、それでも怒れる客人は、問い質すことに意味を置くだろうか?。
 ただそれだけが恐ろしい。
「…ならば、解雇された者の名前、連絡先、所在を教えてくれ。それも分からないとは言わせない」
 シュテンはその申し出を聞くと、どうしてもシンの抱える事情を理解してもらおう、と思った。
「直接会うつもりか?」
「そうだ」
「それは無理だ、彼は心理的な病気で殆ど言葉が話せない。殊にこんな調子で怒鳴られたりすれば、増々何も話せなくなってしまうだろう。周知の通りここの作業員は、何処かに障害を持ちながら慎ましく暮らす者ばかりだ。彼も本来は気の優しい人間で…」
 ところがそうして、善かれと思って人物情報を並べ始めたシュテンに対し、
「私の知ったことか!!」
 セイジは癇癪を起こすように一際声を張り上げていた。
「私的に事情を聞きに行って何が悪い!?、話せないなら筆談でも何でもできる筈だ!。それともあんたは、社員を庇って犯罪の片棒を担ぐつもりか!!」
「・・・・・・・・」
 思いも拠らなかった。
 シュテンが黙らされてしまったのは、確かにそれも筋が通っていると感じたからだ。敵は怒っている割に冷静さを失っていない。公私混同になっていると指摘されれば、反論できない自分をシュテンは認めるしかなかった。見かけは若造だが、流石にIPPOの工作員だけはあると思った。
 そして、確かに元社員を庇っていると認めるなら、セイジを懐柔しようとしてはいけなかったのだ。取り上げるべきでないとされた事件の処理は、既に済んでいて決して覆ることはない。関わった者の心情的に割り切れない部分は、個々が解決して行くしかない問題となった。事実が判らない以上、それぞれが信じることを曲げないのは当然、特に被害者本人には、誰もが嘘を吐いているように感じて然りだった。
 庇おうとすればする程余計な怒りを買ってしまう。
「モウリ君は悪い奴じゃないんだ」
 すると、睨み合っていたふたりの耳に、緊張感を削ぐようなラジュラの声が聞こえた。彼はいつの間にか元の席を立って、怯えている他の労働者の中に紛れて座っていた。そして、
「俺等はみんな知ってるからさ」
 続けて彼がそう言うと、示し合わせた訳でもなく、多くの者達が賛同するように首を振るのだ。まるで波に揺られる海草の如く。
「呆れたな…!」
 セイジにはそんな感想しか得られなかったようだが。
 シュテンはその光景を見て、本当に肩の力が抜けたような思いがした。自分は贔屓した見方をしていた訳ではない。自分だけが憐憫を感じていた訳ではない。ここに居たシン・モウリと言う者は、誰もが共通に「悪くない」と感じる存在だったことに、安堵していた。
 そしてそれならば、今は怒りしか感じていないような相手でも、本人に会えば考えを変えるかも知れない。そんな可能性さえ望めるとシュテンは思った。目に見えない内は憎しみの対象と成り得ても、会えば無理に追求することを辛くさせる、彼はいつもそんな笑顔をして生きていたのだ。ここに居る誰もがそれを知っていたのだから、他の者にも理解できる筈だと考えなければ。
 シンの心を信じるように、IPPOの正義をも信じなければならないだろう。
「…言い分は分かった」
 漸くシュテンは、これで議論を止められることにも安堵していた。
「確かに君にはそうする権利があると思う。手荒な真似をしないと約束するなら、必要な情報は出してやろう」
 恐らく何処まで話しても、今の状況では平行線を辿ると思えた会話。主張し合うばかりで何も進展しない議論も、よくあることと言えばそうかも知れない。幸いそうならずに済んだのは、偏にここに集まる労働者達の気持が見えた、そのお陰だった。多くの者に信用されているなら、彼は大丈夫だと。
 そして真摯な様子に変わって振られれば、セイジも、
「そうしてくれなければ困る、事件のあらましを公にできない以上、己の問題はひとりで解決するしかない。要望には努めるつもりだ」
 曲がりなりにもIPPOの一員であると、その忠誠心を言葉に表現してみせた。
 無論納得できる説明をしてもらえれば、言葉を含めて暴力的になる必要もない、とセイジは冷静に考えられている。又ここまで労働者を庇う意図を考えても、赤十字側の心象を損ねる行動は、即ちIPPOの為にならないと理解していた。けれどもし、釈然としない話だった場合はどうなるのか。悪意がなくとも理解に苦しむ時には?。
 それは、その時になってみなければ判らないとしても。
 ふたりは合意に達したのを確認して、データ端末のある事務所へと向かおうとしていた。その矢先、食事を続けられる状態に戻ったことを告げるように、ラジュラがまた突拍子もなく声を発した。
「やれやれ、珍しい場面が見られたはいいが、短時間で飯を掻っ込むのは体に悪いんだぞ。…なぁ?」
 ふと、集会室に漂っていた息苦しい雰囲気が散じて行く。縮こまってた者達が弛緩し始める。彼に声を掛けられた隣の男が、耳を塞いでいた手を下ろして溜息を吐いている。意外とこのラジュラと言う人は、奇異な道化師を装いながら常に周囲を見ている、とセイジにも窺い知れたようだった。
 勿論見掛けだけで判断するのは下等な行為だと知っている。
 見えない内から疑って掛かるつもりもなかったのだが。



『ルナシティ東12区の2番、ランドピアアパートC棟』
 赤十字センターで教えてもらえた住所。それに当たる建物までは、IPPOが所有するオートカーで移動した。
 月では車両の所有台数、燃料車種等に規制が設けられている為、個人で車を所有することがとても難しい。例え高給を得ている工作員だとしても、特に条件が緩和される措置などはない。代わりに地域や企業が所有するオートカーは、自動運転の為資格免許も要らず、トレイルの他で最も利用されている移動手段だった。それで誰も不便は感じないで居られた。
 特に今のセイジのように、体が思わしくない状態で移動する際には、大変便利な乗り物だと言えるだろう。行先の住所か、駅名、店名、通信番号等を打ち込めば、車は自動的にそこへのルートを辿ってくれる。又警察署等へはボタンひとつで、最寄りの場所へと運んでくれるようになっていた。車の台数が押さえられている社会では、交通事故の数も非常に少ないものだった。
 ルナシティの中心地を離れて、緑の多い閑静な地区へとオートカーは向かっていた。この辺りには仕事でもあまり出向くことがなく、セイジは初めて目にする、極平均的な住宅地の様子を珍しそうに眺めていた。もう随分昔になるが、彼も地球の住宅地の何処かに生まれ、そこで家族と共に暮らしていた筈だった。今は朧げになってしまった幼少時代の記憶が、ふと思い起こされるような長閑な町並み。
 一般に、故郷のイメージは死の間際まで忘れないと言うが、彼に取っては既にそうではなくなっていた。故郷から離れた後、工作員となってから得られた新しい環境、新しい家族的な繋がりと、鮮烈な任地での活動が彼の意識を占め始めた頃から、意味を持たなくなった記憶は徐々に薄れて行った。既に存在しない家族を思い出す機会は、任務中の緊張感の中ではまず殆どないことだった。
 警察的な責任を負っている立場で、他に憶えておかねばならない事はあり過ぎる程あった。そうなって当然だろうと、セイジは深い感慨もなく思っている。
 言える事はただ、幼少期の無垢な幸福に勝る現在があるなら、彼は今本当に充実していると判るだけだ。又誰もが彼のように生きられるなら、過去の記憶に苦しむ者はひとりも居なくなる。そんな状態を得る為には、普通の人間の寿命では短か過ぎると言うことも。
 選ばれた者だけに与えられる、一部の記憶を切り離せるだけの長い時間。それを得られた者が必ず幸せかどうかは、又別の話だけれど。過去を懐かしむ気持と現在の苦楽を秤に掛けて、後者を取れる者はそう多くはないのが現実。少なくとも、IPPOに所属する者達は家族もなければ、制限的な自由しか認められないのだから。どちらが良い選択かは人に拠りけり、と言ったところなのだろう。
 セイジはそれで満足できているだけなのだ。



つづく





コメント)あー、変な所で切れてしまいましたが、ここで切らないと全体が納まらなくなっちゃいました。なので迷わず続きに進んで下さいっ。



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