救急センターで
幻 の 人
#3
THE PHANTOM



ピピピピピ…
 共同エントランスの集合ロックから、セイジは部屋番号を選んでチャイムを鳴らした。オートカーを降りた場所からは、単身就労者用のレンガ色のアパート群が、公園のような敷地に疎らに散らばっているのが見えた。中心地では得られない贅沢な広がりを感じる、なかなか良い環境の住宅だった。
『出ないな…』
 しかし呼び出しに応答はなかった。赤十字と言う仕事先が消えた今では、他に出掛けそうな場所と言えば養護施設か病院、単純な買い物くらいだと考えられる。健常者ではないだけに、探し出すのはそう難しいことではない気がする。けれどまず、ここに居ることを疑ってみた方が良いだろう。
 セイジはエントランスの横に見える、レンガ作りのアーチの先の管理人室へと向かった。そしてその窓の中に見えた老人に向かって、控え目に手を拱いて見せる。程なくして彼はセイジの方へと歩いて来た。
「ああ、何かありましたか?」
 管理者の老人がのろのろと近付いて来る間に、セイジはコートの内ポケットから、ある物を探り出して待っていた。
「IPPOの者だが」
 それは特殊な身分を示すIDカード、つまり警察手帳のような権威を示すカードだった。それを目にすると大概の者は戦いてしまい、まず大人しく従いたくなると言う。無論本来は私用で使うべきものではないので、セイジは相手を必要以上に畏縮させないよう、努めて柔和な態度で話し続けた。
「ここの306号室の住人に会いたいのだが、集合ロックから呼んでも応答がない。自宅に居る筈だが、居留守を使っている可能性もあるので、開けてもらえないだろうか」
 それでもやはり、
「は、はい…、分かりました、少しお待ちを」
 と特に理由も聞かず了解してくれた管理人。IPPOの活動を理解する一般市民は皆、問答無用で協力する通例通りになっていた。組織が市民の信用を得ているのか、或いは恐れられているのか、その両方があってのことだろう。
 それから暫しの間、事務室の奥でパネルを操作しているのが見られた後、老人は鍵束を手に持ってセイジの待つ外へと出て来た。
「電子錠は解除しました。御案内しますんで」
 今日日住宅のドアは電子ロックと指紋照合、そして昔ながらの鍵、三種を組み合わせた形になっている。例え理想郷と言えども、市民ひとりひとりの動向について、又は外部から入って来る全ての者の動きを、完全に把握することは不可能だった。世界の最高機関や要人が集まるここではむしろ、防犯に関する意識が高くならざるを得ない現状だ。
 そして、どれだけコンピュータの性能が上がろうと、電力供給が止まれば電子機具は役に立たなくなる為、アナログも生き残っていると言う訳だ。拠って管理人はパネルから操作できる、306号室の電子ロックを解除し、指紋照合システムをオフにして、鍵を持って外に出て来た。
 案内されたアパートの内部は、普通の単身者用住居と言って間違いない様子だった。外壁のレンガ色と対照になっている、薄いエメラルドグリーンの壁が涼し気に、東西に続く廊下を取り囲んでいた。三階に昇ってすぐのドアには、305と記されたプレートが出ていた。
『次の部屋…』
 と、セイジが思いながらその部屋の方を向くと、ドアの前の様子には「おや」と、少々違和感のようなものを感じていた。
 並べられた幾つかのプランターには、皿の上で見るハーブの様な草が青々と、健康的な様子で育っている。町中では見ない野草が小さな花を付けて、それもまた丁寧に手入れが為されている。データからは本人の趣味までは見えないものだが、まめに手を入れ、随分ときれいに作っている感じから、正常さを失うような人間にはあまり思えなかった。
 つまりセイジは、事件報告書の『魔が差した行為』との記述は、間違っているような気がしたのだ。思わぬ迷惑行動、無意識の悪事を働く裏には必ず、心理的なストレスが加担していると心理学者は説く。そしてそれは必ず普段の生活の端々に、目に見える形で現れているそうだ。その理論で行けば、シン・モウリはそれ程のストレスを持たず、データの書き換えを行ったのは単なる故意だ、と言うことになるだろう。
 ならば故意とは何だろう。
「えーと、306号は…」
 老人が鍵束を改めている横で、セイジはドアの横の小窓から中の様子を窺っていた。摺ガラスの向こうは流石に見透せなかったが、その窓辺に並んだ日用小物が、きちんと一列に揃えられているのが判る。何に於いても几帳面そうな住人の性格が伺えた。
 そうしてセイジが窓に顔を近付けた時だった。
『何かの音が…』
 密閉性の高い近代の住宅では、内部の様子を外から窺うことは非常に困難だった。けれど、常に特殊な状況下での任務をこなして来たセイジには、微弱な音を聞き分けるのも仕事の内と言って良かった。そしてこの状況下で考えられる可能性は…
「爺さん!、早く開けるんだっ!」
 突然の大声に、思わずその場から飛び退きそうになった老人。
「ガス漏れの音がする!」
「えっ、はっはいっ!」
 言われてすぐに状況を理解した管理人は、既に選び出していた鍵を慌ててドアに差し込んだ。
『ふざけるなよ!』
 と、セイジは部屋の中の人物を憎々し気に、一心に見詰めていた。このまま死なれては理由どころか、犯罪だったのかどうかも判らなくなってしまう。組織はそれで良いかも知れないが、己の正義について、自己矛盾を抱える結果になるのだけは、どうしても避けたいことだったのだ。これからも一工作員として生きる為に、組織の在り方を疑わずに居られるように。
 それがセイジの唯一の拠り所であり、人生なのだから。
 そして問題なくドアは開いた。
バタンッ!
「うわっ、ゴホゴホッ…。せっ、栓を…」
 開け放たれたドアから、部屋に充満していたガスが一気に流れ出していた。管理人が咳き込みながら言った元栓は、洗濯乾燥機用に洗面所に設置されていた。しかしそんなことを知らないセイジは、ドアが開くと共に部屋の奥へと突っ込んでいた。
 短い廊下の先、目的の部屋はすぐに見付けられた。そしてその中央に置かれた簡易型のソファに、ぐったりと横たわっていた人物をセイジは、一瞬の迷いもなく、脇に抱えてベランダ側の窓へと駆け寄る。その時、
『死んでいない』
 抱える腕から感じられた体温、流れる体液の脈動、鼓動と呼吸、様々な様子からセイジはそう判断できていた。幸い時間の経過は短いようだった。否、だからと言ってそこで安心する訳にはいかない、窓に施された目貼りを急いで剥がすと、その窓を全開に開け放って、ベランダに飛び込むようにして外に出た。外の空気が何と澄み切って感じたことか。
「ゴホッ、コホッ…、救急車っ、呼んでくれ!、頼む」
「はいっ、今!」
 一刻も早く、との思いで何とか声を出せたセイジだが、幸い管理人の老人は手際良く元栓を締めて、ドアの外へと避難した後だった。連絡さえできれば間もなく救急車はやって来て、少なくとも命の危険からは脱する状態だと思えた。そう、間に合ったようだ。後は脳障害等が現れないことを祈るのみだった。
「ウェッ、グ…、ハア、ハア…。…冗談、も程々にしてくれ。こっちは解凍明けなんだ…」
 事後になって、力の抜けた体に酷い疲労を感じていた。一時は本人も忘れていたようだが、セイジは今、本来の体力の三十%程で何とか動いている状況だったのだ。しかし「火事場の馬鹿力」と言うように、こんな時は瞬間的に本来の動きが戻って来る。その不思議さには自分で驚く程だったが、後から襲って来た脱力感はたまらないものだった。僅かに残るエネルギーが根こそぎ奪われたような枯渇状態。
 まったく、こんな思いをしてまで。
 と皮肉に思いながらセイジはやっとそこで、自ら救助した悪戯者に目を向けた。未だ整わない息の中、彼の視界に捉えられた状況を見れば、更に言葉を失うことになってしまった。足の上に覆い被さった線の細い体、瞼を閉じた白い横顔は、セイジの想像した人物像とは激しく違っていた。
『子供だ…』

「失礼、あなたはIPPOの方とお見受けしますが、この少年は何か…」
 数分で到着した救急車から、降りて来た救急隊員のひとりがセイジに問い掛けていた。部屋のベランダにだらりとしていただけの、セイジを見てすぐにIPPOの人間だと判ったようなのだ。公的機関に勤める者の一部には、全世界の組織活動に詳しい者も存在する。IDカードなど求めなくとも、その身なりの特徴で大体見分けがつくものらしい。
「いや…。ターゲットではない、個人的な知り合いだ」
「そうですか」
 そして犯罪を追う者と追われる者、と言うお決まりのシチュエーションにしては、やや妙な雰囲気に疑問を抱いたようだった。
 僅かにガス臭の残る部屋に、ぐったりとしている少年と落ち着いた様子の男。
 そう、セイジはほんの数分前まで全身に感じていた、闇雲な怒りや掃き出し口の無い思いが、ただもやもやとした感情に変わったのを知っていた。解凍明けの疲労とガスの所為もあるだろう、集中して何かを考えようとしても、何も思うように纏まってはくれなかった。ただただ、少年の命が助かって良かったと微睡むばかりで。
 己の受けた被害と疑問だけを見ている分には、言いたい言葉が幾らでも、次々と口に昇って来るような勢いがあった。けれど今はもう枯れてしまったようだ、とセイジは溜息混じりに思っていた。冷凍倉庫の単純作業などは、他の職種に就けなくなった者が回されると聞いていた。だからこんな、子供と呼べるような年令の職員が犯人だとは、セイジは全く予想していなかったのだ。
 冒した行為は同じだとしても、実際のイメージ差がこんなに見方を変えてしまうか。
 反省しながら落ち込んでもいた。これでは毅然として当たることができそうもないと、セイジは見切りを付ける他になくなっていた。今になって冷凍倉庫の作業員達の気持が知れる。社会的に一人前の工作員と認められてはいても、己は未だ経験の浅いひとりかも知れないと思う。
 この、一点の汚れも見えない寝顔を見ていると。
「どうしましょう?、車に同乗されますか?」
 きれいに片付いているアパートの一室から、運び出されて行く担架を何とか、平静を装って見送ることができたセイジ。そして尋ねられた質問に対しても、瞬時に返答が思い付かなかったけれど、
「あ、ああ。そうしよう」
 何とか最善の判断を捻り出せていた。ここでこう言わなければ、「知り合い」とした意味が失われるところだった。もしそうなれば最悪は、自殺未遂の調査から全ての事件が発覚してしまっただろう。無論死亡していたら話はもっとややこしかったが、ちょっとした受け答えひとつが危ない時だった。
 こうなってしまった以上、とにかく彼の知り合いを装おうしかなかった。病院に着き、回復処置が済めば必ず事情質問がある筈だ。その前にどうにかして、何処かで彼の個人データを紹介してもらい、適当な作り話を考えるしかなかった。IPPOの一員が言うことを疑って掛かる警察は、この世にはまず存在しないのだから、何とか演技で凌げば切り抜けられるだろう。
 ここを通過しなければ、己にも彼にも、IPPOと赤十字にも余計な泥を塗ることになる。セイジは俄に緊張感を感じながら、再び玄関先のプランターの前を通り過ぎて行った。世話人が居なくなれば、遅かれ早かれ萎れてしまうだろう、と不憫にも思いながら。



 救急車が最寄りの救急治療センターに到着した後、シンの体はすぐに回復処置へと運ばれて行った。幸い他の急患は居らず、これならまず万全の処置を受けられると予想できた。
「本部に連絡を取って来ます、すぐ戻るので」
 セイジはそして、部屋の中にシンと医師団が消えたのを見て、早速自身に必要な行動を始める。
「はい分かりました、どうぞ」
 取り調べの警察官がここへ来る前に、公共データの情報を頭に叩き込んでおかなければならない。
 通常の場合、工作員は小型通信機を携帯している筈だが、仕事以外の連絡に使用することは、余程緊急の時でなければ認められない。だからセイジが言ったことに対して、答えた救急隊員も疑いを向けなかった。しかしそれより、『あくまでプライベートである』と印象付ける、効果的な言動にもなっていた。第一段階は上手く事を運べたと言うところだ。
 セイジは難無く各種通信端末の集まる一角へと移動して、通信ではなくデータ呼び出しに向かうことができた。IDカードをその挿入口に差し込むと、機械は自動的に判断して、どれだけの機密情報を引き出せる身分かを表示してくれる。そこで手形と網膜の照合を行うと、呼び出せる項目が画面に紹介されるようになっている。セイジは迷わず戸籍課の個人情報を探っていた。
 今知り得ているキーワードだけで、個人を特定するのは容易なことだった。名前、住所、幾つかの連絡番号、性別、過去の経歴。これらの情報を打ち込んでリターンキーを押すと、機密ロックが解除される画面が幾つか表示された後、詳細な情報が画面に呼び出されて来た。

『シン・モウリ、AD2937.3.14、地球・ユーラシア大陸所属・日本国…』
 冒頭に記されていた情報からは、彼が現在十七才であること、地球で生まれた日本国籍の者であること、家族の死亡後、血縁的保護者は存在しないこと、七才で月の病院に収容され、その時から月の居住権を得たこと等が判った。一見すると重要な情報ではなさそうに感じるが、そこまでで幸運にも、セイジに聞き覚えのある名称が登場していた。
 地球の日本国。セイジの記憶は日々朧げになりつつあるが、自身が同じ国の出身だったことを思い出していた。同じ景色を見ていた、とまでは行かないかも知れないが、共通事項が存在する事実は正に幸いだ。作り話に後々口裏を合わせる意味で、難しいこじつけをする必要がなくなるだろう。昔の知人に会いに行った先で知り合ったと言えば、そうそう疑われることはない筈だった。
 又その先には、シンが抱える病状と担当医師、彼の保護責任を持つ施設の名称等が次々に現れたが、それらは今特に必要のないものとセイジは流している。それより真実味のある仮設定を考えておかなければ、と画面を送りながら考えていた。
 ところが、
 適当にデータを読み進めて行く中、失語症の原因についての記述がふと目に止まった。その途端彼の手は、カーソルを操作する手を止めていた。
『戦時中の心理的ショックに拠る』
 この戦時とは、逆算すれば十年前の戦時と言うことになる。最近に起こった戦争ならば、セイジにも鮮明に思い出せる記憶があった。否、ほぼ十年眠って過ごした彼には、つい先日の出来事のような戦争でもある。
 そして彼は更に思い出す。
『…アルデバラン事件(第二次南三角戦争が始まった切っ掛けの事故。地球の観光船アルデバランが、敵戦艦と間違えられて撃墜され、船体の一部がS3コロニーに墜落したことを、緊張状態の最中、更に敵の攻撃と勘違いして戦闘が再開された)の生存者であり、平和救済機構より特別保護認定を申請、受諾される…』
 この事件のことは、当時一般向けのニュースでも大きく報道され、セイジの耳にも無論届いていた。確かS3のふたつのコロニーが発する妨害波に拠って、近場を通り過ぎる船の航行データが狂い、アルデバランが本来のルートから外れたのが原因だった。明らかに戦闘中なら誰も近寄りはしないが、コロニー側が条約に違反して、休戦中に妨害行為をした為に起こったことだ。
 戦後それについての裁判も行われ、S3−1、S3−3コロニー自治区双方に賠償が求められたと、他の記録からセイジは知っていたけれど。
 そしてアルデバランに乗っていた人々は、
『…その後S3−3コロニー内で、事故の生存者は戦火の中を彷徨うことになり、救助されたのは四名、その内重傷者二名。アルデバランの乗客、乗員合わせて584名。死亡確認41名、残りは不明…』
 その殆どが、撃墜時に宇宙の藻屑となって消え去り、コロニー内に落ちた者も、多くはその衝撃で間もなく息切れて、何とか立ち上がれた者も戦火に巻き込まれ、結局四名しか生き残れなかったのだ。長期休暇を利用して、家族見学を楽しんでいた二百組の親子が、突然奈落の底に突き落とされたと言う、痛ましい事故だと聞いていた通りだった。
 ただ話を聞くだけでも胸の痛むような過去の事実。そして事故後の最悪の顛末。
 その渦中に翻弄されていた当時七才の少年が、何を感じていたかを憶測するのは、難しい上に些か心苦しくもある。恐らく彼の家族は何れかの時点で命を落とし、それから彼はひとりで過ごしていたに違いない。理不尽な恐怖と孤独に怯える子供の、目に映る無関係な戦地の印象とは、一体どんなどんなものだったろう。とセイジは考えている。
『何故なら、私もこの戦争を思い出すのは辛い』
 既にいい大人だった彼でさえ、こんな戦場などもう沢山だと思ったのだ。憶えておいでだろうか、セイジはこのS3での任務を中断して、IPPOに帰還することになったからだ。
 始めからあまり気の進まない任務だった。無論誰も好き好んで、銃弾の飛び交う戦地に向かいはしないだろう。だからIPPOの一員としてのプライドだけが、己を支える唯一のものだったとセイジは回想する。そう、ただ確実に仕事をこなして帰ると言う、プロとしてのプライドだけだった。
 それなのに結果は、何も全うできずに終わってしまったのだ。負傷したパートナーは歩行不能になり、彼を置いてひとりで任務を続行するのは、この状況下では如何にも困難だった。それまでの数十年、セイジには任務をやり遂げられなかった経験はない。しかし優れた状況判断が求められるプロならば、無理をしても良い結果が得られないと知れば、撤退するより他になかった。この場合のプライドは、潔く撤退することに変わっていた訳だ。
 けれどそれでも。
 出血から意識を失ったアヌビスの横で、セイジは鬼神のように怒り、吠えていた。滅多なことで激しい感情を現さない彼が、戦争と言う特殊な状況下で初めて味わった挫折。本来なら間違いなく行える筈のことが、当たり前に通じる理屈が、何もかも思うように成立しない場所が存在する事実。それを知ったまでに、己のキャリアが殆ど否定されたような屈辱を感じていた。
 善意の活動さえ脆く挫ける。手練の調停人すら、明日は命がないことを常に意識する。その意味する重要性は誰もが理解できるだろう。だから戦争など起こしてはいけない。善き心を持つ者、優れた能力のある者を殺すことになるからだ。そんな人間の数が減ることは、後の世界にむしろ不利益を与えるだろう。
 そして人々の心と人間の歴史には、忌わしい記録ばかりが残される。これが人間の一面だと。人間社会は暴力以上の力を思い付けない、情けないものだと。捩じ伏せられた様々な立場の者、セイジもそのひとりであり、シンも又その最たる存在と言えるが、彼等なら何より強く感じただろう、個々の主張を強くし過ぎることは、それだけで罪なのだと。
 IPPOの社員は誰もが個を殺して、ある意味道具として働いている。無論絶大な権力を持つ公的機関に携わる人間は、基本的に皆そうでなくてはならない。力のある者は弱き者より慎まなくてはならない。その調和の理論を自ずと知っていたのか、シンはそれ以降話すことを止めてしまったけれど。
 まだ小さな子供であった彼と、セイジには同じ戦場の痛切な記憶が存在する。つまり似たような傷を負っているのかも知れない。常識が通じない混乱に傷付いたのかも知れない。同じ戦場で苦楽を共にした兵士には、家族的な固い結束が生まれるように、彼等にも何かしら、世代を超えた共通の言葉が生まれたかも知れない。そしてそれが想像できたセイジには、罪を咎めるより重要なことが、漸く見えて来たところだった。
『大した子供じゃないか』
 己でさえ身近に死の恐怖を感じていた、凡そ正気の沙汰とは思えない破壊行為の嵐。各地に燃え移って行く炎と、コロニー機能の一部が壊れた所為で乾燥が続き、人工河川の干上がりそうな岸辺には、何処にも出られず難民となった者が群れて、そのまま死体となって積み上がっていた。コロニーの住民でさえそんな有り様だった。
 目を覆いたくなる地獄絵図の世界。そんな中たったひとりで、家族の他に頼れる者の存在を知らない子供が、遂に救助の手に辿り着くことができたのだ。見知らぬ土地の惨たらしい戦場を彷徨いながら、他に大した怪我もなく、言葉を失う程度で済んだ事実は、一般には稀に見る幸運と解釈されるだろう。だがそれだけではない、とセイジは見抜いていた。
 少年の魂そのものが強かったからだと。彼は急転直下の状況にも望みを放棄せず、正気を失わずに居られたからなのだ。そうでなければこの事実は有り得ない、と思う。そしてこれまで、一労働者として平然と暮らしていた。普通と言われる水準よりも、より清潔で模範的な暮し振りで。
 咎めるより賞讃を贈るべきだとまで、セイジの意識が変わっていたとしても、何らおかしくはなかった。
『何故なら私も知っている』
 その戦場に在る苦悩を知っているから。



 その後通信端末から戻ったセイジの元には、案の定取り調べに来た警察官がふたり、セイジを見るやいなや軽く一礼をして見せた。早々のお出ましか、と思うも、救急治療センターの一室に案内される間の、彼等の雰囲気は特に嫌な印象を与えはしなかった。
 IPPOのルナシティ本部に身を置く者なら、地元警察は大方その名前や人相を記憶している。例え十年振りに復帰した人物だとしても、彼等が長く生きていることを加味して、そこまで不審には思わないものだった。勿論組織に対する信用あってのことだ。
 そんな相手の態度を知れば、セイジは自身が解凍明けである事実をそのまま話し、地球の知人伝いの知り合いで、ずっと心配していた少年に会いに来たと、平素に話すことができた。アルデバラン事件はセイジがS3に赴くより、二ヶ月前に起こったものだった。救出された少年の名前を聞いて心配していたが、自分が冷凍措置に送られ、長く連絡を取ることができなかった、とすれば不自然な話ではないだろうと。
 どの道それ以前の証明ができる、彼の家族はもう存在しないのだ。それら好都合な条件が揃っている以上、それ程の苦労もなく事後調査をやり過ごせると、今は希望が確信に変わっていた。これで大体計画通りに事が進み、関わる組織に迷惑が及ぶことはない。
 ただセイジ個人に関して言えば、当初の目的はどうでも良くなっていたけれど。

 今は慌ただしい人の行き来もなくなっていた。治療センターの殺風景な廊下を案内しながら、
「もう意識は戻っていますけど、負担を掛けないようにお願いします」
 看護婦は後に続くセイジにそう伝えた。まだ一時間程しか経過していない筈だが、もう治療を終えて意識を取り戻したと言うのは、幾ら最新の医療技術が素晴しいとしても、本人の状態が元々悪くなかったことを意味するだろう。早い内に見付けられたと言う証しでもあっただろう。
 まるで意図的に幸運が重なっているようだった。否何かの、誰かの意志に動かされているような気さえ、セイジには感じられていた。始めからそうなるように仕組まれていたように。
「モウリさん、起きてますか?」
 病室の引き戸のドアが静かに開かれると、看護婦はまずひと言声を掛けた。ベッドの脇へと移動して、並んでみると起き上がり掛けた少年の顔と、看護婦はまるで姉弟のようによく似ていた。まさか生き返って来たとも思えないが、他人の空似と言うことはあるものだ。面白い、とふたりを眺め見ていたセイジに、
「あ…」
 シンはすぐに気付いた、彼がLM73M−IP−001476Rであることを。そして、
「僕は、シンだよ」
 と毎日繰り替えしていた言葉を、今度は音にして話したのだった。
「どうして君がいるの?」
 その場に居る三人が目を見開いて、一瞬黙ってしまった。理由はそれぞれ微妙に違うとしても。
「まあ…、Cクラスの回復ってデータにあったけど、もっと良くなってるんじゃないの?、君」
 勿論看護婦はそれらのデータを確認済みだった。回復治療の段階指標は、Cクラスでは一般に、はい、いいえ等の意志を伝えることと、挨拶ができる程度とされていた筈だった。しかしその理由をシンは自ら、はっきり聞き取れる言葉で説明していた。
「彼にはいつも、話してたから」
 看護婦に対する状態説明としては、言葉足らずで簡潔すぎる内容かも知れないが、セイジには理由として充分過ぎる程だった。
『だからだ』
 と、もう全ての事情が理解できてしまっていた。
 彼は単に話し相手として、己を選んだに過ぎないのだと。悪意も何も感じられない筈だ。彼なりに自己の不具合を克服しようと努力する中、丁度良さそうな対象を見付けた程度のことだろう。或いは丁度良い対象に出会った為に、努力しようと思ったのかも知れない。その順序はともかく、彼としては折角できた話し相手の解凍期限を知って、どうにかして長く手許に残そうとしたに違いない。
 ただ、何故セイジがそれに選ばれたのかは。
「ちょっと、専門の先生に報告して来ます」
 看護婦はそう告げると、足早にその場から去って行った。これで漸く彼等は、初対面らしい会話ができるようになった訳だが、そんな状況は知らない筈のシンが、先に口を開いていた。
「名前を教えて下さい」
 恐れずに声を出せていた。言葉は短いが普通に話していた。つい先刻まで絶望の淵に居たと思える人物が、今は何らかの喜びに微笑んでいる。これまで何一つ答えてもらえなかったことが、今は何でも聞けると感じているのか、そんな至極小さな彼の幸福を思わせた。だからセイジも穏やかに答える。
「私はセイジと言う、IPPOの工作員だ」
 そして、もうあまり話題にしたくもなかったけれど、一応こう付け加えておいた。
「…あのな、君が赤十字のデータを弄ったらしきことは、もう誰も怒っていない。それについては安心してくれて良いんだ。だがひとつ私にも教えてほしい、君は何故私の冷凍タンクを選んだのだろう?」
 するとセイジの寛容な様子を察したのか、始めから彼には理由を話すつもりだったのか、シンの口からあっさりと語られたのは、
「S3から送られて来た、タンクだったから」
 やはりセイジが予想した通りの答だった。
「十年くらい前に、僕はS3コロニーに、居たことがあるんだ」
『燃え尽きた大地のカラカラに乾いた風に、死んだ者の血と肉と最後の叫びが、切り刻まれた断片となって運ばれて来る世界を、僕は知っている』
 全神経を圧倒する凄まじい記憶と言うものは、例え成人が経験したとしても、その人の人生、人格に大きく影響を及ぼすと知られている。誰でも衝撃的な事実を知る前と知った後では、考え方に多少の差が生じているものだ。シンはその記憶が他人に嫌われるのを恐れて、他者に影響するのを恐れて、自ら封じてしまったのだろうけれど。
 彼は偶然見付けたのだ、同じS3の戦場から送られて来た人間を。セイジになら何を話しても、新たに悪い影響はしないと思い付く筈だった。何を話しても、否、観光船の事故から戦地での辛い過去について、話したいことがシンには山程あったのだ。誰にも話せなかっただけで。
 それから、本来工作員が任務途中の事故で帰還する場合、社員はIPPO本部に直接戻ることになるが、S3が月からは遠く、又この時は戦時中だった為に、中立コロニーのS3−2に設置された、IPPO分局にセイジは帰還していた。そんな理由で冷凍タンクの搬送元にS3の表記が残され、シンには幸運なこととなったのだ。
 そう言えば誰かが言っていただろう。この世界には誰か、何か、全てを見ている者が存在して、個々の行いに対する酬いをきちんと考えている筈だと。
『舞い踊る憎しみの銃弾と、逃げ惑う流浪の民の悲しい肉片が、どす黒く淀んだ川の水に、灰や鉄錆と共に沈んで行く墓場を僕は知っている』
「それを話したかったのか」
「君はきっと、分かってくれると思ったんだ」
 シンは何度もそう伝えて来た通りに話した。冷凍されていたセイジが、それを聞いていた事実は全くないとしても、シンの思うことは既に、充分に汲み取れるようになっていた。それこそ共通の言葉を得たように。
「そうだな、知っている。だが今は話さなくていい」
 ところが彼は敢えてそう言った。
「どうして…?」
「今は体を治すことが第一だ。話は後で幾らでもできるだろう」
 そう言わなければ、シンは話を続けたがって無理をするような、そんな気がしたからだった。違法と知っていてデータを書き換えたように、また今度はここに引き止められてしまうかも知れない。スケジュール的には全く構わないことだが、いつも、今だけが重要なのではない。彼の未来にも己は存在すると、セイジは伝えたかったようだ。
「…また来てくれるの?」
 と、やや不安げな声色で返したシンに、
「ああ、私は解凍明けで、すぐに仕事には戻れないんだ。三、四ヶ月は暇な身でね」
 セイジは再度安心させるように念を押していた。そして、
「そうだ、何か要るものはあるか?。明日また来る時に持って来よう」
「え、と…。ケーキとか、チョコレート…」
 入院に必要な物と聞いたつもりだったのだが。
「クッ、クックッ…」
 先の明るそうなその答には苦笑するしかなかった。
 心の中にどんな思いが溜め込まれていようと、楽しむことを先に考えられるなら、君はこの後も逞しく生きて行けるだろうから。それはいつでも幸福を得られる証拠だ。

 君は生まれながらに強いのだ。だから生きている。自から気付いていないだけだ。
 そして私もずっと生き続けている。



「昨日は失礼致しました。これは、良ろしければ皆さんで」
 翌日セイジは、午前中の回復プログラムを終えた後、再び赤十字センターを訪れていた。
「ああ…。いや、わざわざありがとう。しかしまた随分すっきりされたようで」
 セイジから渡された箱を受取りながら、昨日とはまるで様子の違う彼に、目を丸くしながらシュテンは答える。因みに箱の中身はカットケーキが二十個ほど。シンのリクエストの為に、ケーキ屋に寄ったついでの買い物だった。
「良い結論に達したらしいな」
 続けられたシュテンの質問には、この場で詳細を説明するつもりはなかった。シンの行動がここに居る者達に、広く知られるのもどうかとセイジは思う。
「まあ、最悪には至らなかったと言うことです。私も気が済んだので」
 そんな感想だけを話すに留めていた。否、これだけの会話でも、情に厚いこの管理部長には通じるだろうとセイジは思っていた。彼等が庇おうとしていた小さく善き存在に、ただセイジの理解が及んだと言う話。結局何も起こらなかったのと同じだからだ。
 ところがそこで例に拠って、
「理由を聞きに行ったんだろ?、何だと言ってた?」
 奥の集会室からラジュラが顔を覗かせて言った。丁度また昼食の最中だったようだ。
「それは色々と。S3コロニーの話なども交え」
「はぁ…?」
 しかしセイジの返答から、その内容を推測できる者は居なかった。障害者の個人情報は、ある程度までは万人に開示されているが、現場の管理部長ですら知らされない情報も存在する。知れ渡った事件や特殊な事情に関わる者の場合、特に伏せられていることもあるのだ。無論本人の人権を守る為に。
 だから彼等は知らなくても良い。
「でもまぁ、君の様子を見れば、悪い結果じゃなくて良かったと思うよ」
 シュテンが落ち着いた調子でそう結ぶのを耳に、それで納得してくれれば有り難い、とセイジは申し訳なく感じながら安堵する。それとも、労働者の抱える条件を熟知している彼には、こんな場合の身の振り方も解っている、と言うことだろうか。だとしたら彼は管理者として有能な人物とも思う。シンもつくづく良い環境に恵まれて来たことを思う。
「そんなところです。では私はこれで」
 セイジは二度と見せないような、ややはにかんだ笑みを見せて立ち去ろうとした。が、ふと思い付いて、
「ああ…、そう言えば報告書の理由に、『魔が差した』としたのはあなたか?」
 と振り返りながらシュテンに尋ねた。セイジが最初に疑問を感じたのは、まずその事件報告書が原因だったのを思い出していた。IPPOが自ら乗り込んで行きながら、その原因を問い質せず、更に事件自体を伏せろとのお達し。セイジが陰謀めいた雰囲気を感じたとして、別段おかしい話ではなかったのだ。だからひとりで息巻いていたのだが。
「フフ、あんまり悲し気な様子だったものでね、聞けなかったんだ」
 シュテンが話した理由も今は、同情的に見られるようになっていた。自殺を考えたくらいだ、シンにはその行為を咎められること、それに拠って唯一の話し相手を取り上げられることが、酷い悲しみだったに違いない。そんな普通でない嘆き方を目にしては、自分だったとしても厳しく言えないような気がした。単なる悪戯でそこまで悲しむことはないだろうから。
『モウリ君は悪い奴じゃないんだ』
 と誰かが言っていた通り、彼はまだ純粋な部分を多く残した少年なのだ。過去に悲惨な体験を持つとしても、その後は社会に毒されることなく、施設の教育から理想的に育ったのだろう。それが誰の目からも判るから、ここの誰もがシンの味方をしようとした昨日。
「彼は、今事情があって救急治療センターにいますが、かなり言葉が回復しているのです。暇があれば様子を見に来てやって下さい」
 だから最後に、招待状を差し向けるように言って、セイジはその場を後にした。彼等を多少誤解していたことへの、せめてもの償いになれば良いと思った。



 さて、この後セイジの予定はと言えば、もう一軒花屋に立ち寄ってから、救急治療センターに向かうことになる。一週間を待たずに退院する予定になっていたが、玄関前やベランダに並んだ草花を思い出せば、殺風景な病室を退屈極まりなく感じることだろう。生物を見ているのは何かと心が和むものだ。
 と考えていた矢先、征士はまた思い立って、オートカーの行先をシンの住むアパートへと変更した。住人が戻らない間、鉢に水くらいはやっておこうと思ったのだ。花屋に向かっていた車は途端に迂回ルートへと曲がり、相当な時間と距離をロスしなから走り続ける。まあ、IPPOではオートカーの使用料を個人に請求しないので、幾ら乗っても構わなかったが。
 時間のロスと言えばもうひとつ、セイジは言った通り三、四ヶ月は仕事に復帰できない。解凍後は著しく体力が落ち込み、反射神経等の機能も鈍っているからだ。これは回復プログラムと自主的なトレーニングで、元の状態に戻して行く他にないのが現状だ。更にパートナー契約が切れてフリーとなった今は、半年以上仕事を干される覚悟も必要だった。
 老化の面で得をすれば、その分のツケもあると言うこと。
 けれどそれについて、彼の頭を悩ませる問題はなくなっていた。セイジもまた見付けていたのだ、シンには三親等以内の血縁者が残って居ないことを。
『どうせ十年も休んでいるんだ、あと半年伸びようが構うものか』
 IPPOには不定期に訓練生が入って来る。大体半年ほどで基本訓練が終了すると、もう他の社員同様に任務が下されるようになる。嘗ては自分もそうして組織に加わった故に、セイジはその経過を大体思い出せていた。そして恐らくシンのような資質を持った者なら、不適合者として刎ねられないと考えるから、それまで気長に待とうと考えていられた。

 しかし、二年足らずのことでカリカリしていた筈のセイジが。

 それもいつかはこうなる。
『彼は命の恩人であり、家族であり、指導者であり、同僚であり、パートナー』
 と、一部の意識だけでも言える程、シンは強く彼の運命に結び付いて行く。
 恋人になるのはまだ少し先だとして、今は来るべき未来を待っていれば良かった。

 幻が現実になったとしたら、現実の他に見るものはなくなってしまうけれど、それが最も幸福な状態ではないだろうか。









コメント)と言う訳で、IPPOの工作員セイジとシンの始まり、でした。全体的に軽やかな乗りで進んで来た筈なんですが…、やっぱり戦争の話なんかは重かったですね、すいません。でも魔将達と迦雄須なんかが書けて楽しかったです、今回。特に前の話でIPPOの印象が悪かった方に、良かった頃の話を読んでほしかったんですが、うーん、迦雄須がすっごくそれらしくハマってくれたので、自分で嬉しかったです(笑)。あの人は意外とヤリ手の社長役が似合うなぁ。
 あ、でも多くの読者の方には、征士と伸以外のメンバーが出て来なくてすいません、と一応書いておこう。「現の人」の方に三人を出しちゃってるので、時代が違うこっちの話では使えなかったです。だって450年後だし…。今後機会があれば、「現の人」の方の後日談話も書こうかなーと考えてます。




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