太陽系赤十字センター
幻 の 人
#1
THE PHANTOM



『おはよう』
 薄く霜の降りた小窓の中に見える、その死体の様な黒ずんだ顔に見覚えがあった訳ではない。けれど彼は毎日声にしない言葉を掛ける。
『今日はいい天気だよ』
『僕の名前はシン・モウリって言うんだ。シンって呼んでいいよ』
『君は何て言うんだろう…?』
 太陽系赤十字センターの分別コード、LM73M−IP−001476R。この生体保存用冷凍タンクに、何か特別な仕掛けがあった訳ではないのだけれど。



 月世界に憧れること数万年。
 地球人類が漸くこの衛星に足を踏み入れ、考え得る理想の環境を整えてからも、もう二百年以上が経過していた。月と言えば母なる地球から最も近い星、馴染みのある美しい姿を誰もが知っていることだろう。生を司る月の女神、伝説の月の動物達等、幻想的に輝く衛星は長きに渡り夜の主役だった。だからこそ今は、人類最初の開拓星として、あらゆる理想を実現した一等地となった。
 月に存在する町や自然環境は皆豊かで美しく、標準的に何処も清潔で広々としている。地球との距離、月上の移動距離共に交通も良く、気象条件も地球と殆ど変わらない環境。無論機能的な設備と無駄を出さない技術など、至れり尽せりの理想郷がここに築き上げられていた。
 誰もがそこに住みたいと思う場所になれと。
 しかし現在一般の地球外移住者、移民団の行先と言えば、火星か人工コロニーと相場が決まっている。火星は地球からかなり離れる上に、気象的にも地形的にも厳しい土地だと言う。まだ町らしい町も無い初期の開発段階で、そこへ向かう者は一生をその開墾に捧げる覚悟を持つ者、つまり地球史の過去に立ち戻って、未開の地に希望を持って開拓する精神が必要、と言うことだろうか。
 コロニーならば住み易い環境、快適な気候、移動距離等の利便性は保障があるが、完全な人工環境とは案外嫌われるものだった。当然コロニーとは星のように大きくはない為、巣箱か何かに閉じ込められた感じがしなくはない。居住区、道路などもコンパクトに設計されたものが多く、「宇宙に浮いた集合住宅」のような印象で受け取られていた。どちらにしても芳しいイメージではなかった。
 それでも、移住の選択肢は事実上そのふたつだけなのだ。
 つまり月とは一般人には縁のない高級市街であり、又世界を統率する団体、機構、各国の出張機関等の集まる、宇宙的な中核都市として発展して来た。ここに住む者は凡そVIP扱いの要人か、最高峰の施設、企業に所属するエリートのみだと言われている。一聞の限りでは『優性主義の嫌な場所』に思われるかも知れない。或いは時の大富豪が権威を示す場所のようにも。
 但し永住権は誰にも認められていなかった。誰もがここで活動する限りの居住資格しか持たず、従って土地物件を購入することもできない。その意味では平等が守られている場所でもあった。限られた定員を守り、常に時代の指導者、先駆者だけが活動する月の最先端都市。そうして月はこれまで、『誰もが目指す理想郷』の姿を維持して来た。楽園に永遠に住めるのは死者だけ、と言う概念を壊さなかったのが幸いしたようだ。
 けれど居住資格については例外もあった。それは障害を持つ者だ。
 無論都市の機能とは、優秀な者だけで全てが動いている訳ではない。雑用や退屈な単純作業をする者も必ず必要になって来る。月ではそれらの労働者を全体の六割まで、心身に障害を持つ者に任せていた。真のエリートとは利益追求に優れた者を指すのでなく、全てが上手く共存する道をも考えていると言う姿勢。それが又理想郷のイメージを良くした一因でもあるのだろう。

 だから彼はここに暮らしていた。
 地球で生まれた少年シン・モウリは、渡航中の事故が原因で七才の頃に失語症を患い、月の医療養護施設に収容されて以来十年ここに暮らしている。回復プログラムを受けながら学校にも通い、卒業した今は一企業の社員として働きながら、同じ施設に暮らす若年者の面倒をみていた。
 彼のような存在は、ここでは全く珍しいものではない。前途の通り世界的な医療機関も月には存在し、収容された障害児が後に月の住民として、企業に紹介され働くパターンは数え切れない。だから彼が特異な扱いを受けたり、労働者の中で引けを感じるようなことはない。親しい医師や理解者もすぐ近くに居るのだから、ストレスが溜まることもまずないだろう。しかし何故か、彼の病の治療には時間がかかっていた。
 ひと言ふた言、挨拶程度の言葉は話せるものの、未だ回復しない原因は彼の性格に因るところもあると、専門家は分析しているそうだ。表情は常に朗らかで印象良く、誰にでも分け隔てなく親切だが、常に負の感情を我慢してしまう癖がある。健常者なら良い教育を受けて来たと言えるが、彼に取ってはそれが足枷になっているのではないか、と。
 酷い悲しみや苦悩から生まれる感情を、彼は言葉にしたくないのではないか。
 シン・モウリはそんな人物だった。



「おはよう、ございます」
 シンは蚊の鳴くような声で管理部長に声を掛けると、その日も変わらぬ様子で記録機の前に向かっていた。長い治療を受けながら、未だ彼の声は自由に発せられずにいる。人を恐れている風でもないのに、と、彼のにこやかな表情から推察して、生真面目そうな管理部長はいつも穏やかに返した。
「おはようモウリ君」
 月の中心都市ルナポリスには、国際連合から変名した環地球連合の本部の他、世界銀行、国際警察、地球の各国の大使館等が集まり、正に世界的権威の集中する場所だった。そこには無論最高峰の学問施設、医療施設、要人を守る警備団体も存在し、この町で働く者は月上で最も多いと言われている。そしてシンもまたその中のひとりだった。
 彼が通う太陽系赤十字センターは、世界銀行に隣接した大通りに存在する。その敷地内にある巨大な冷凍倉庫が、目下の彼に与えられた仕事場だった。そこでは健常者である管理部長以外、全て何らかの障害を持つ者が働いている。病院の付属施設だけに自身も安心だろう、働く障害者は常に、月の重要な活動を妨げぬようにと必死に生きているからだ。
 赤十字本部からの連絡をチェックしていた部長は、その横で出勤記録を付け、防寒服に着替えに行こうとするシンにもうひと言、
「今日は新しいタンクが運び込まれるから、少し忙しくなるかも知れない。頑張ってくれ」
 と言って、振り向いて頷く彼を笑顔で見送った。
 代わり映えのない詰まらぬ作業を快く引き受け、日々笑顔で続けられている彼には、毎日何処となくホッとさせられていた。こうした労働者達が、健常者でないことに重い責任を感じて、誰もが必死な心理状態で暮らしているとすれば、この理想郷構想も成功とは言えなくなる。結局障害者、老人等は社会のゴミだと言う悪しき論調が、再びこの生命世界に蔓延るのは戴けなかった。
 無力にも、人間に取って「夢は見るだけのもの」とは、誰もが思いたくなかった。
 そしてもうひとり、必死の義務感を感じられない労働者が今、事務所のドアを開けて入って来たところだった。
「や!、おはようございます、シュテン部長殿」
 半ば茶化すような口調でそう声を掛けた彼は、ラジュラと言ってこの管理部長と同じ年の労働者だ。なのでかなりフランクな態度でも許される、ここでは目立った存在だった。
 彼の年令は現在二十八才だが、労働者としての年令では中間的な年と言える。但しシンのように医療施設から来た者とは違い、過去には別の職種に就いていた。七年前まではコロニー間の貨物船の乗員だったが、事故で片目を失い、もう片方の目も大幅に視力を失ってしまったそうだ。そんな場合は、改めて障害者として仕事を始めるケースもある。
 けれど経験的な悲愴感を微塵も感じさせないのは、
「相変わらず目立つ格好だな」
 彼の奇抜なファッションと共に、変幻自在の不思議な個性を持つ所為なのだろう。実のところ彼は、色の濃淡をあまり見分けられなくなっている。拠ってどうしても強い色を選択しがちなのだが、無論そんな言い訳はおくびにも出さずに居る。
「そうでもないんじゃないの?、今日は。そんな事を言われちゃ、普段の服装を見たら卒倒するだろうな」
 いつもそんな調子で話しながら、飄々として日々を過ごしているのだ。それはある意味で、シュテンが彼を買っている理由でもあった。何が起きても絶望しないと言うことは、それだけで大変優れた素質だと言えるからだ。惑星開拓時代とは、何事にも夢を抱いて忍耐する時代だ。
「ほう、モウリ君はもう来てるな。相変わらず早い早い」
 そして彼は出勤記録を確認すると、面白そうにそんな事を呟いていた。
「しかしモウリ君は変わった子だねぇ」
「…そうか?」
 ベテラン従業員の何気ない観察。思わぬことを口にした彼に、シュテンはふと関心を寄せて尋ねてみる。人間的に変わっているのはむしろ、そう言う本人の方だが、管理者は現場の様子はあまり知らないものだ。こんな時は、他の労働者の話は注意深く聞くべきだろう、とシュテンは思っている。
 すると、
「こんな仕事をニコニコしてやってんのは彼くらいのもんだ」
 との返事が返って来た。常に朗らかなのは良いことだと思われていたが。
 否しかし、とシュテンは思い直した。己の意志を思うように伝えられない者には、人知れず思い悩むこと、想像できない考えを持っていることも、充分に加味して考えなければならないだろう。彼は心因性の失語症を患っているが、精神に異常を来した者ではないと知っている。ただ、本当は退屈で面白くない作業と感じていて、それを顔や態度に全く出さないとしたら、人間の常としておかしいかも知れない。
 それが何を表しているのか?。
「うーん…、そうかも知れないが」
 机に肘を突きながら考えている、気に掛かる目標を見出せないシュテンに、ラジュラは続けて、凡そ的確と思われる説明を聞かせていた。
「冷凍保管用のタンクったって、棺桶と大して変わらんだろう?。タンクの中の干涸びたような顔なんざ、気味が悪くてまともに見たくないのが普通だよ。…モウリ君は死体趣味でもあんのかね?」
 言われてみればそれが普通の感覚かも知れない。
 冷凍保管とは病気や怪我等で、今は治療できない、或いは時間を置くことが有効とされる場合に、生きたまま冷凍、解凍する宇宙時代には必要不可欠の技術だ。但し御存知の通り、ある程度時間が経過すると『フリーズドライ』化するので、タンクの中では皆ミイラのような皮膚に変化してしまう。勿論解凍後処理で見た目はほぼ元に戻るけれど。
 そのような、あまり目にしたくもない人の一形態を見て、生理的な気持悪さを全く表現しないでいられるだろうか、とも思えた。もし笑顔が貼り付いているのだとしても、殊に気の優しそうなあの彼が?、とシュテンは更に考えていた。笑っている事実よりも、それが本当の感情なのかを知らなければ、憶測以外にできることはなかったが。
「…馬鹿な事を言ってないで、さっさと持ち場に行けよ」
「はいは〜い」
 言わなければいつまでも油を売っていそうなラジュラに、そう言って事務所を退散させた。赤十字の社員とは言え、医師ではない自分には難しい問題だと、シュテンは長い溜息を吐いている。一見理想的に見えるものがそうでないとしたら、何を基準に良し悪しを判断するのだろう?。
 答が出そうもない疑問に、ふっと一笑して彼はデスクワークに戻った。考えても時間の浪費だと気付いたからだった。

『おはよう』
 防寒服に着替え、自分の持ち場であるE5フロアに着くと、シンは最初に必ず例のタンクの前に行った。そしていつも始業の挨拶をする。それが彼の密かな習慣。
『僕だよ、シンだよ』
『今日は忙しいって言われたんだ』
『君と話す時間がなくなったら困るなぁ』
 彼等の仕事とは、新しいタンクと解凍に出すタンクの運搬を手伝うことと、倉庫に並んだタンクひとつひとつの状態を見て、異常が出ていないかチェックをすること。そして表面に付く霜を毎日拭き取ることだった。しかし運搬の手伝いとは形程度のものだ。又異常ならコンピュータで九割方感知できるので、中で最も重要な仕事は「拭き掃除」だった。
 否、拭き掃除と言って軽んじるなかれ、放っておけば内部を覗く窓が使えなくなる他、分別コード等の記述が読み取れなくなってしまう。最悪の場合タンクが変型して壊れることもある。寒冷な条件下ではロボットによる自動化より、人を使った方がまだコストが安いと試算された。拠ってせっせとタンクを磨く仕事が存在するのだけれど。
 シンは毎日、実際楽し気にそんな作業を続けていた。壁面沿いに並んだタンクの窓にはどれも、土気色に嗄(しわが)れた皮膚の人間の顔がある。気味が悪いと言った誰かの感想と同様に、彼が感じているかどうかは確かに疑わしいものだった。少なくともある特定のタンクに詰め込まれた人物に、異常な執着を持っているように見えただろう。事実は判らないけれど。
 見覚えのある人物、と言う訳ではなかったけれど。

『君はきっと解ってくれる』



「局長、お茶でもお入れしましょうか」
 ルナシティに建つビルの最上階、IPPOの誇る優秀な秘書嬢が、ふと仕事の手を休めて口を開いた。日射しが緩やかに傾き始める午後のひと時だった。
「…そうだな、少し休憩を入れるとしよう。済まないなカユラ君」
 そして局長と呼ばれた男は、素直にモニターから顔を起こして答えた。
 このカオス氏は、民間の警察機構IPPOが設立された当時からの幹部で、局長となった今は政界にも、財界にも知らぬ者は居ない実力者だった。事実上一代でこの磐石な組織を組み立て、星系規模での新しい権限を確立したのだから。一部では彼に権力を与える為に用意された組織、などと陰口を叩く者も居るが、それには多分に僻み根性が含まれている。
 何故なら彼自身は、あくまで世界警察との協力体制で成り立つ、下請企業のような存在に過ぎないと、対外的に常に低姿勢を貫いている。独自の活動もしているものの、警察に紹介を依頼されて隠さなければならないデータは、一切存在しないと自信を持って発言できていた。そんな風に完全無欠で清潔なイメージとは、引き摺り下ろそうとする者の恰好の対象にされてしまうだろう。
 なのでゴシップ誌等にしばしば並ぶ、『裏の権力者』、『影の暗殺者』的なイメージは皆誤りだと言って良かった。実際は普通の企業とそう変わらない組織運営と、社員としての諜報員、工作員は、警察に依頼された仕事を意欲的に遂行するだけだ。或いは独自の調査が必要ならそれもしている。或いは得意分野の情報を公正にリークする、と言ったことをしているだけで、特権的な首切り役人のようなものではなかった。
 まず、警察を食い物にするような思想は有り得なかった。何故なら警察機構の鈍さや弱体化と言った危機的状況を見て、それを支える団体を作ったのが始まりなのだ。カオス氏はもう千年を猶に超えて存在しているが、彼の行って来たことに対し、警察にはそれだけの恩も信用もあり続ける。つまり彼が居る限り初期の理念を忘れずに、正常に組織が運営されるとお墨付きを受けたようなもの。
 だから所属社員は皆彼に尊敬を払い、誇りに思って仕事をすることができる。誰も彼に反旗を翻そうとはしない。カオス本人が任務の現場に出向くことがなくなった今も、常に彼が偉大な先輩であることは、どの社員にも疑いのない事実だった。又決してその代わりに成れる者は居ないと。
「誰か?」
 カユラが局長室の隅の、小さなバーカウンターの方へ下がっている間にドアベルが鳴る。自動ドアの扉が些か勿体振るように開いて、
「失礼致します、ナアザにて。報告に上がりました」
 と言って、記録体の束を手にした工作員のひとりが、偉大な局長を見ながらもの怖じもせず、妙に落ち着いた様子で中へと歩いて来た。涼しい顔、と表現するのがぴたりと来る風貌。それもその筈、彼は設立当初から所属する工作員で、既に三百年越しの大ベテランだった。勝手知ったる我が家を何気なく歩くように、彼はゆったりと局長室の机に向かい、余裕で立ち姿勢を決め直して言った。
「N11コロニーの電力情報の漏洩の件、片付きました」
「そうか、御苦労だった。いつも卒なくこなしてくれるな、君は」
 カオスは差し出された調査記録を手にすると、過去より変わらない、慈愛に満ちた声でそう返した。彼等はもうずっと家族のようなものだった。否、このふたりに限定されることではなく、諜報員、工作員となる者は三親等以内の親族が居ないこと、又は不明なこと、と言う条件を持つからだった。それを盾に弱味を握られることを避ける意味だ。
 拠って、ここに集う者には皆近しい親族が居ない。自然にここが彼等の実家となり、誰もが家族のようなものになっていく。それこそカオスが最もよく知っているのだろう。常に労いの言葉を忘れない彼は、今や大家族のビッグファーザーと言った立場だ。
「ま、今回はそう危険な目に遭うこともなかったもので。いつもそうだと楽で良いですが」
 そしてナアザも又、自身の行いを実際以上に聞かせることも、所属年数を鼻に掛けることもない人物だった。己のプライドはそんな低次元にはない、とでも言いたそうな普段の彼だ。カオス同様に良いお手本となるベテランが、今ここには多く存在している。
「フッフッ、いつもこうでは、このIPPOの存在価値もなくなるな」
「それが真の願いと言うものですね」
 カユラが漸くそこにお茶を運んで来た。彼女の言うことは全く正論だとカオスは笑っていた。
「ありがとう。その時は坊主にでも転職するよ、私は」
 この組織が暇でしようがない、そんな時が来るならいつでも捨てて構わないのだ。平和とは一団体に比す程度の詰まらぬ概念でなく、何よりも価値があると彼は理解しているのだろう。そして真の平和が得られればIPPOどころか、警察も軍隊も廃業になることだろう。究極を考えれば、それが至上の理想郷の姿だと誰もが知っている。
 知っているけれど。
 平和とは幻ではない。が、長く存在できない。平等に存在できない。
 儚さは儚くさせるものが生み出す。どちらにせよ人の心の移ろいから生まれる。
 和となるか、不和となるか。
「局長ぉ〜〜〜〜〜っ!!」
 その時、続けて三度もドアベルを鳴らして、喚きながら部屋に入って来た男が居た。
「何です騒々しい」
 例え社員は家族扱いとしても、その様子には注意で返したカユラだった。カオスがビッグファーザーなら、彼女はリトルマザーと言ったところだ。
「失礼っ!。今日はっ、今日こそはどうしても嘆願させて戴きたい事がありますっ!」
「何だねアヌビス君」
 するとそう呼び掛けられた彼は、如何にも「耐えかねた」らしい苦渋の表情で、きれいに磨かれた机に両手を付いて言った。
「お願いします、パートナーを変えて下さいっ!。今すぐっ…!!」
 そして一歩下がった辺りに立つ人物を示しながら、更にこう続けるのだった。
「もう金輪際こいつと一緒に活動するのは嫌なんですっ!、こいつとは合いません!、どうにかして下さいぃ〜〜〜」
 彼の訴える内容を解説すると。このIPPOの任務遂行に当たっては、各社員がペアになって動くことを基本としている。フリーの者が行動し易い相手を選び、パートナーとして申請すると、以降はコンスタントに任務が与えられるようになる。フリーのままではなかなか仕事にあり着けない上、出掛ける度に違う者と組まされるので、速やかに無駄なく行動、とは行かないものだった。
 つまり彼等は食いっ逸れのないように、なるべくならパートナーを作りたいのだ。しかし勿論幾度か仕事をしてみた上で、ペアを解消することも許されている。先程ナアザが報告しに来た電力情報の件には、当然アヌビスも同行していた筈だった。だが遅れて部屋にやって来た彼には何かしら、相手が気に入らない以外の理由もあるように思われた。
「おまえなぁ、自分のヘマを人の所為にするなよ」
 案の定、褪めた声色でナアザが言うと、
「何があったのです?」
 カユラは局長に代わってその理由を尋ねた。否、どちらかと言うとパートナー制に関しては、局長より彼女の方が事情に詳しかったので。そしてそれに答えたのは、やはり本人に代わったナアザの方だった。
「まあ、発電ブロックの冷却用の貯水池に落ちたんですよ。動揺して溺れかけていてね。だが尾行中だったもので、彼には構わず自分ひとりで任務を遂行しました。腐ってもプロの工作員だし、落ち着けば溺れ死にはしないだろうと。俺としてはまあ、ヘボいパートナーを何とかサポートしているつもりですが」
 ナアザはそんな風に、包み隠さず任務中の出来事を説明した。
 又彼は優れた工作員には違いないが、些か口が悪いのも確かなようだった。恐らくあんまり馬鹿にされる機会が多いので、アヌビスはすっかりめげている風情に見えた。その前に、本人に原因があるからナアザは言うのだろうが。
 このアヌビスと言う工作員は、百年少々のキャリアを持つ中堅の部類だが、訓練での成績は優れているものの、実地の行動に難があると言われ続けている。機転が利かないのか、緊張性なのか、内弁慶なのか、恐らくそんな性質を持っているのだろう。故に彼と組む者は、それを助けることも頭に置かなければならず、平均以上の社員に限られるところだった。
 無論IPPOにしても、平均以上に出来る人間は多くはない。そして、
「…残念ながら、フリーの工作員は今は居ない状況だ」
 局長の口からは、余っている人員は無いとのお達しがあった。
「今すぐ変えることは不可能ですから、我慢して頑張って下さいアヌビスさん」
 続けてカユラも慰めるようにそう言った。別段意地悪ではなく、事実フリーの者は居ないから仕方がなかった。ただ局長以下の運営者から見れば、できる限り今のまま続けてほしく思っているだろう。何しろアヌビスのパートナーは人選が難しい。今回は失敗だったようだが、ナアザはこれまでの七年程の間、随分上手く相手をコントロールして来たのだ。
 ところが、その本人が奇妙な事を言い始めた。
「違うんですっ。俺が言いたいのはそう言う事じゃないんですっ!。こいつとは一時的なペアだった筈で、元々俺には他のパートナーがいるんですってば!。なのにいつまで経っても戻って来ない。一体どうなってるんですかっ!!」
 その台詞を聞いた時、彼を取り巻く三人の頭には確かに、ぼんやりと思い出される顔があった。
「元のパートナー…」
 カユラは呟きながら、立ったまま自分の席のキーボードを打ち始めた。そう言えばアヌビスにはナアザの前に、五十年以上ペアを組んでいた者が居た、と誰もが記憶を掘り起こし始めていた。名前はセイジ・ダテと言って、大学在学中にアヌビス自らスカウトして来た人物だ。そして若手の中では優秀な工作員のひとりだった、筈だが。
「仰る通りです、確かに。データにはマッキノン型外性ウィルスに感染して、八年の冷凍措置を受けていることになっています…」
 彼等はある時、地球の管理下であるS3コロニーの戦争に関し、各戦闘勢力を探る任務を引き受けたが、現地で銃撃に遭いアヌビスは行動不能に、又擦り傷程度で帰還できたセイジも、そこに流行していた伝染病に冒されていた。彼等はそれぞれ一般病院、冷凍保管庫へと送られ、その時点でペアは不能解消にされている。
「でしょうっ!?、俺はずっと待ってんですよ!?。それなのに十年近く経っても出て来ないのは、どう言う訳なんですかっ!!」
 アヌビスはカユラの読み上げたデータに、些か興奮気味に捲し立てる。
「…本当か?、カユラ君」
 そして煽られなくとも、証言とデータの明らかな食い違いには、カオスも大いに疑問を感じていた。コンピュータによるデータ管理は、殊にデータを重要視するIPPOでは徹底管理されている。それらが無闇な嘘を吐くとは思えない。しかし、
「ええ…、ええ確かに。データ通りなら去年の内に解凍されている筈ですが、おかしいですね、そんな連絡を受けた記録がありません」
 カユラの手早いカーソル操作により、瞬時にあらゆる情報が引き出されても、やはり納得の行く記録は見当たらなかった。解凍期日をとうに過ぎているのに、未だ解凍されずにいるらしい一社員。それについて連絡がないとすれば、幾つかのケースが考えられるところだが。
「事故か!?、忘れられてんのか!?」
 アヌビスが指した目標は、セイジが保管されている太陽系赤十字センターだ。つまり信用を持てる自社データに対して、期日前後に連絡を入れない赤十字に問題がある、と言う意味だ。通常解凍に際しては、専門家でない依頼者が催促するものではなく、実際の状態から判断して、専門の医師が決定することになっている。が、期日に遅れるなら当然その連絡がある筈だった。
 忘れられている、などと言うことが最大を誇る医療機関に、もしあったなら大問題だ。連絡忘れにしても、返事がなければ再度連絡を入れるだろう。又それぞれの保管者について、度重なるチェックもしている筈なのだが…。
 何が起こっているのか見当が付かなかった。
「妙だな…」
 カオスのひと言を聞く前に、
「赤十字のデータベースにアクセスしてみます」
 カユラはもう次の操作を始めていた。尚、カオスが妙だと感じたのは、キャリアもそう長くはない、特に知られていない工作員を陥れても、誰かの得になるとは思えないからだった。一斉に何人も同じ例があるならともかく、だ。
 又赤十字の凡ミスとも、カオスには今ひとつ考え難かった。警察的組織と言う性質上、IPPOと赤十字の付き合いは幅広く長い。怪我や病気に因って冷凍措置に送られた社員も、これまで幾人も出ている記録がある。但し社員は誰もが訓練と改造を受けた、一般人より遥かに強健な者ばかりなのだ。長期間保管されるものは滅多にないことを、赤十字側でも把握している筈だった。
 なのに何故気付かなかったのか?、と。
「もっと早く言えばいいのに、馬鹿な奴だ」
 落ち着かない様子のアヌビスに、水を掛けるようにナアザは言った。
「あのなぁ!、出て来ても病み上がりなんだ、すぐに現役復帰できないかも知れねーって、普通考えるだろうが!?」
 すると意外にもアヌビスは、粗野な風貌の割には、良識的な気遣いができる様を披露していた。否、相手を思い遣る気持が足りないと、ただナアザに対して言いたかったのかも知れない。彼は根の曲った人間ではなさそうだ、と誰もが思う微笑ましい様子ではあったけれど。やはりナアザは、もうそんなことは既に知っている風だった。敢えて厳しい指摘を続けていた。
「普通と言うなら、普通は調べりゃ判ることだ」
「・・・・・・・・」
 病気と冷凍に関する情報は、階級、資格を問わず、誰でも公共のデータバンクから調べられる。それを怠って心配し続けていたなら、愚の骨頂と笑われても仕方がなかった。真の意味で頭が悪い訳ではない、恐らくアヌビスの思考は、パートナーが帰って来ると信じ切っていた、彼の素直さに由来するのだろう。
 ただ、それで詰めが甘くなるのは困りものだ、と今回も印象付けてしまったアヌビスだった。人間的に悪い奴では決してないのだけれど。
「あっ!」
 暫しの後、紹介された赤十字のデータに目を通して、カユラは思わず声を発していた。
「どうした?」
「そんな、日付けがこちらのものとは違っています。本来の解凍期日の二年後になっています」
 思い掛けないことだった。否、このようなデータ照合は、疑問が生じて初めて行うものだから仕方がない。社内ならともかく、IPPOと赤十字と言う、違う業種団体のデータを常に同期することも有り得なかった。又、データが変わってしまうことを毎日心配する程、現在のデータ保護技術は劣っていない。ましてや最も権威のある医療機関のコンピュータだ。
「何か手違いがあったのか?」
「その可能性は薄い」
 アヌビスの声にカオスは即答していた。続けてナアザもこう話した。
「重ね重ね馬鹿だな。マッキノン型の除去なら、七、八年で解凍するのは常識だろうが」
 現在宇宙を渡る病原体が多く確認されているが、このマッキノン型は宇宙時代の初期に発見されたウィルスの為、その性質や情報は良く知れ渡っていた。対抗薬やワクチン等は全く無いが、一定温度以下で七、八年放置すると完全に死滅するウィルスだった。冷凍保管技術が確立している現在では、そう恐ろしくはない伝染病となっている。
 つまり、保管者のデータに『マッキノン型』の表記がありながら、八年を超える例を作るのはそもそも異常なのだ。専門家でなくとも、入力者がおかしいと感じる類いのことだ。最初から間違えていたとはまず思えない、とナアザは指摘していた。
「じゃあ…」
 赤十字の入力ミスでないとしたら、とアヌビスが考えている横で、
「何者かに改竄されたようです、目的は解りませんが」
 カユラは明確な結論を出していた。又それはカオスの考え通り、誰がどんな理由で解凍期日を変更したのか、理解に苦しむ結論でもあった。
 ただ、IPPOとしては無事に社員が戻って来れば、ひとりの工作員の二年足らずのロスだけなら、公の大事件にしたいものではなかった。改竄がこれ一件のみと判れば、個人的な恨みか、単なる悪戯程度の事だと予想に堅いだろう。カオスは冷静にそこまでを読んでいた。
 団体の信頼関係を損ねるアプローチは得策ではない。
「…仕事上がりで済まないが、君達今すぐ調べてくれるか?」
 いつもきれいに磨かれている天然木の高級机。その天板に映る人の影が動いた。暫く考えていた局長の意志が動いたことを、部下達はあらゆるものから感じ取っていた。掛けられた言葉が例え疑問型であっても、それは関係のないことだった。
「了解」
 ナアザは間を置かずに答えて、すぐに歩き出していた。
「り、了解っ!!」
 アヌビスにも判っていたのだが、ナアザの返答が余りに早く、それに躊躇させられてしまったようだ。
 とにかく、そうして彼等が直接先方に出掛けて行けば、まず素早くデータ異常を認めてもらえるだろう。そして原因究明に協力してもらえれば、最小限の行動で戻って来る筈だ。電力情報の漏洩を探るよりずっと安全且つ容易い任務だった。
 後は結果が出るまで何とも言えない。



 その日の夕暮れ、午後七時を過ぎた頃だった。
「はい、シュテンですが」
 もう一般労働者は皆帰宅の途に着き、静まり返った事務室で帰り支度をする彼の元に、直接回線の連絡が入って来た。
「はい、…え?、期日を過ぎたタンクがある?」
 そう、赤十字の本部ビルを堂々と尋ねたナアザとアヌビスは、例のデータ改竄を究明することを約束させ、又今はデータ管理の仕組みを調査していた。無論赤十字側でもすぐに疑問点は理解され、平謝りするべき立場上、IPPOの調査を断る訳にはいかなかった。
 手違いにしろ故意の改竄にしろ、これですぐセイジの解凍も行われるだろう。
「そうですね、言われてみれば…。はい、そうですか。分かりました、今こちらでも調べてみます。はい、それでは後程」
 漸く一日の労働を終えて帰ろうとした矢先、管理部長として断れない依頼が入ってしまった。今日は新規タンクの運び込みで疲れている上に、何と運の悪いことだろう。
 だが、そう思いながらもシュテンは、これが重大な信用問題であることも知っている。一度手にした上着をもう一度ロッカーに掛け直すと、彼はすぐに机に着いて、細かく見ることは滅多にない保管者データを改め始めた。
『言われてみれば、データのチェックはみんな現場任せだった。現場の労働者を疑いたくはないが…、全てのコンピューターは相互に繋がっている…』
 考えたくないことを考えなければならない、彼に取っては心苦しい時間が過ぎて行った。



つづく





コメント)はい、他でも書いてますが、これは「現の人」の舞台よりずっと前の話です。そして「現の人」では敢えて書かなかったことを説明する話になっている、と言うか、こっちで説明する為に外して書いたと言うか。まあ、時間的に飛び飛びで繋がる話だったので、前作では、セイジを助けに行くぞー!、革命を起こすぞー!、と言う血気盛んなイメージと、その一員として動くシンが書けただけで良かったんです。でもあくまでこっちが後に来る話です。
今回は同じSFにしては、かなりコメディタッチになっちゃってますね。故意にそうした訳じゃなくて、集団の怒りは恐ろしいけど、個人の怒りは端から見ると笑える、と言った違いが表現上に出たようです。いやホントにアヌビスって笑えるわ。殊にセイジが絡むと(笑)。
そんな訳で、どう前作に繋がって行くのかお楽しみに。




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