解除
ロゴスとパトス
#2
大花月シリーズ3
a fission



 翌朝、まだ誰も起き出して来ない早朝。
 未だ薄暗い洗面所を使い、征士が廊下に出ようとドアを開けると、目の前には悪奴弥守が立っていた。
「済まぬ!、光輪。俺が浅はかであった、この通りだ」
 姿を確認したと思うと、途端に彼は土下座をして謝り始める。
「…え?」
 何が何やら、と言う顔で立ち止まっている征士。しかし悪奴弥守は良い意味でそれに構わず、術を解く呪文を唱え始めていた。都合良く征士がひとりになったのを見て、今が最も、己にも他の者にも障りが無い時だと、急いで地上に降りて来たのだ。
 例え失態を演じた悪奴弥守にしても、基本的な考えは他の魔将達と同じ、できることなら地上の鎧戦士達には、怪し気な術を使う様子など見てほしくない。また、事件に関わらない者が降りて来ない内に、征士が一階に残る証拠を片付けられるように、今このタイミングでなければならかった。そんな配慮を以って彼は単独でやって来たのだが。
「この始末は必ず着ける!、待っていてくれ」
 と、術の解除を終えた途端に今度は、慌ただしく姿を消してしまった。征士に取っては本当に、何が何だか判らない出来事だった。
「悪奴弥守…?」
 忽然と消えてしまった跡の空間を、征士は暫しの間ぼんやり見詰めていた。そして、メトロノームの振り子が徐々に元の位置に戻るように、心拍や思考が整い始めると、彼は今の自分自身について思い返していた。
『今何をしていたんだ?』
 まだ霞が掛かったような頭の中の、記憶が少しずつ意思に導かれ巻き戻されて行く。今、私は洗面所で袖を洗っていた。何か落ち難い汚れを必死で落とそうとしていた。それまで何処で何をしていた?、こんな早朝に何をしていたのだろう…?
『何故こんな時間に起きたのだ?』
 否、そもそもまともに眠ったのかどうか、寝ていたと言う記憶が無い。薄暗い部屋の中で私は座っていた。居間のソファに座って伸を見ていた。
『私は…』
 と、そこまで思い返すと、征士の足は自ずと柳生邸の居間へと向かっていた。
 居間のドアは開けたままになっている筈、また戻るつもりだったからだ。これで全てが終わった訳ではない、この後何かをするつもりでいたのは確かだ。そこに立てば、己が何をしようとしていたのかも、何をしていたかも大体一望することができるだろう。
 そして、征士は部屋の様子を眺め、青褪めた。
『私は…、とんでもない事をしてしまった…』
 後に残る物体を綺麗に片付けたとしても、元に戻せないものが残ると知れば、心は自ずと絶望感に傾いて行った。
 恐らく己が働いた事、否、間違いなく己の手が動いた事を思い返すと、己の中の不安定な魂が恐ろしくなる。心の奥に押し込められた悪の種を引き出し、鎧を操る為に利用する者が居たのは確かだが、後々考えてみれば、何もかも自ら発した事件だと認めざるを得なかった。鎧とそれを着る者は一体だ、有りもしない意識で動き出すことはない。その意味で、利用し易い性質を持つ鎧であることが、敵の狙い目だったに違いない。
 以前、秀にもそんな試練が降り掛かった事があったが、あの時は妖邪のみを相手にしていたから良かった。今思えば何故そこで学習しなかったのだろう、何故気付かなかったのだろう、戦う能力の高い鎧は等しく邪悪に傾き易く、その持ち主にも同じ事が言えるのだと…。
 だから今は、己の存在に悩み続けている。何れを己の本心と見るか迷い、不安定になっているのが自分でも判る。だが同時に、その不安こそが悪だとも感じている。こんな現場を見てしまっては…。
 パジャマの上着だけを半端な状態で纏い、ソファに横たわる伸は静かな寝息を立てて眠っている、ようだった。目覚めた彼に何を話せば良いのか、言葉も何も思い付かなかったが、征士は恐る恐るそこに近付いて彼の肩を掴む。
 反応は無かった。上に向けられている伸の頬は腫れ上がり、切れた口の端が黒ずんでいる。彼は何も言わないが、現実は何かを訴え掛けるように、痛々しい様を征士に見せ付けているようだった。そう、つい先程までずっと伸を見ていた、妙に穏やかな気持でこの状態を眺めていたのだ、と思い出すと、胸が痛むより先に嗚咽が走った。
 唸り声すら出せなくなり、征士が掴んでいた肩を揺さぶると、暫くして伸は、普段とそう変わりない調子で煩さそうに言った。
「何…だ…?」
 まだ頭が覚め切っていない、薄目を開けたばかりの伸に、果たして今の征士はどう映っただろうか。そして彼を、自分の状況をどう捉えるだろうか?。
 征士の方はただ、失い行く物の行く末を見詰めているだけだった。



「どうしたんだよその顔っ!?」
 朝七時近くになって、その日初めて伸と顔を会わせた秀は頓狂な声を上げた。
「朝からそんな大声出さないで…」
「ちょっとね…。大した事じゃないから大丈夫」
 ナスティの手当を受けていた伸は、多少大人しく感じる態度ではあるが、それでもにこやかに答えていた。
「大した事じゃねぇぇ??、全然説得力ねぇっての!」
 と、勢い良く返したものの、そんな伸の態度が解らない秀でもない。仲間内の不和を心配しているか、誰かを庇っているか、とにかくそんな所だろうと気が付いている。今ここで、或いは詳細を話したくない理由がありそうだ、とダイニングに集まる面々の誰もが覚っていた。
 珍しくその朝は、既に当麻も階下に降りて来ていた。そして秀と共に朝の散歩から戻った遼が、ナスティと伸の傍に近寄って言った。
「酷いな、夜中にボクシングでもやったのか?」
 遼も既に心得た様子で、当たり障りのない会話を選択している。まあ何れ、話す気になれば話すこともあるだろうし、言葉通り大した事でないなら、知らなくてもどうでも良いと遼は考えていた。彼の器の大きさを表すような態度だ。
「って言うよりおたふく風邪みてぇだぜ、こんな両方に湿布貼ったらよ」
「ハハハ…」
 すると秀もすぐに追及姿勢を止めて、遼の話に乗るようにお茶らけて見せた。敢えて説明しなくとも、取り敢えず今答えないでいることを許してくれる彼等。本当に、良い仲間に恵まれたと伸は笑っていた。ともすれば一同騒然としそうな状況だったが、それを切り抜けられて安心したようだった。
 ところが、
「あらおはよう当麻、珍しく早いわね?」
 それまでドア口に立っていた当麻がダイニングに現れる。ナスティがそう声を掛けると、
「おい、雨が振んじゃねぇのか?」
「ハハハハ!」
 秀と遼はさも愉快そうな反応をしたけれど、
「…ああ」
「ああって何だよ??」
 本人は他の事に関心を奪われている様子で、ふたりには気の無い返事をするばかりだった。
 無論、彼の関心は昨日から征士に向いている。なまじ同室に寝起きする為に、征士の変化に早くから気付いていた当麻だ。そして一刻も早く元に戻ってほしいと、切に願うのも彼だった。調子の狂った者が常に近くに居る状態が、どうにも落ち着かないのだ。
 故に彼は、伸の方は置いておくとしても、征士には是非話を聞かせて貰おうと考えていた。即ち昨日の夜の事だ。
「なあ征士、昨日の夜下に降りてった後、朝まで戻って来なかったんだな?」
 既にダイニングの席に着いて、黙ったまま周囲の様子を見ていた、否、見ていたように見える征士はその声にも、大した反応は示さなかった。何も答えずに、その内ゆっくりと顔だけを当麻の方へ向けた。恐れているようにも、動揺しているようにも見えない、何を考えているか判らない不思議な表情で。
 するとその時、妙な疑問を発した当麻、静まり返った態度の征士双方を見て、
「お前がやったのか…?」
 と、秀が思い付くまま呟いた。
 部屋の空気が緊張に静まり、誰もが一瞬動作を止めて息を飲む。秀が言わなくとも、朝から石のように黙している征士を見て、皆その可能性を疑ってはいたのだ。そしてあまり想像したくない事実が、彼の返事に拠って証明された。
「ああ、そうだ」
 と、征士は多少疲れたような声を聞かせた。
「なっ!?、何だよ?、どう言うつもりなんだよっ!」
「早まるなよ秀」
 納得できない回答に、秀は当然の如く怒りを露にして見せたけれど。遼は意外に冷静に、秀の片腕を掴んで宥めていた。否、今起きている事の事情が全く判らなかったから、逆に冷静になれたと言う方が正しい。伸と征士の態度を見れば、これが単純な喧嘩などではないと誰でも気付く。真実の欠片も知らない現場で、誰かを責めることはできないと言う訳だ。
 遼がそんな風に良心的に考えているかと思えば、当麻はもっと理性的に思考している。仲間達、即ちひとつの目的を架せられた戦士の集団の、和を保つことも全員の責任である。個人的に明かしたくない事情はそれぞれあろうが、時には個人の問題も共に考え、解決して行かねばなるまいと考えている。
 まあ、嘗て自分が問題児だったこともあるので。
「説明してくれないか、みんな何が何だか判らなくて困ってる」
 と、当麻は比較的穏やかな調子で言って、征士の傍に歩み寄った。そして彼の顔を覗き込むように、当麻がテーブルに手を着いたのを見て、
「…それは…」
 促されるように征士は口を開いたが、数秒、十数秒経過しても結局その続きは聞かれなかった。些かの緊張と不安を以って、この遣り取りを見詰めていた者達は、再び征士が黙る経過を見ただけに終わる。この朝の只管重苦しい空気の中で。
 その内、痺れを切らせた秀が実力行使に出ようとするのを、遼が必死に止める事態になっていた。
「おいっ、秀っ!」
「黙ってちゃ分かんねぇんだよ!、俺は心配して言ってんだぞ!?」
 するとそんな揉み合いの最中、
「お待ち下さい金剛殿!」
 ふたりの前に突如、何処からか降って来たように迦遊羅が現れ、その場で深く頭を下げて見せた。途端にキョトンとして動作を止めるふたり、だけでなく、そこに居た全員が意表を突かれた様子で止まってしまう。
「…どうなってるの…?」
 と、ナスティが漸く疑問を声にしたが、どちらかと言うと『やっぱり』と、心の内で腑に落ちる者が多かったようだ。どう考えても征士と伸の間で、殴り合いになるような諍いが起こるとは思えなかった、他に何かがあったからだと誰もが思っていたので。
 そして迦遊羅は柳生邸の面々に、妙に納得の行く経過説明をしたのだった。
「実は、こうなった原因は悪奴弥守にあるのです。本人曰く、悪気があっての事ではないそうですが、ただ、何がどうなったと言う説明は、もう暫く穏便にしてお待ち願いたいのです。悪奴弥守は今姿を眩ませてしまって、皆で探しているところです。皆様に必ず事のあらましを説明させますので、どうかお願い致します」
 成程、何かをした結果がこんな事態になり、お咎めを受ける前に逃亡したか?、と、話を聞いた当麻は悪奴弥守の現状を想像していた。
「そうだったの…」
 まだ見えない点は残っているものの、闇雲な憶測に悩むことから解放され、ナスティは溜息を吐きながら答えていた。そして、何とも言えない心情を持て余す仲間を余所に、遼は誠実な態度を見せて迦遊羅に答える。
「ああ、了解した」
 その返事を耳にすると、迦遊羅はもう一度深々と礼をして、急ぎ約束を果たさんとするように、慌ただしく何処かへ消えてしまった。後に残るは、半端に放り出されたそれぞれの気持ばかり。真実を得る為に待てと言われれば、今は待つしかないところだが…。
 暫しの間、誰もが釈然としない様子で迦遊羅の現れた場所を眺めていた。しかし程なくして、
「もーっ!、朝っぱらから何だってんだよ!?」
 場の空気を壊すお得意の口調で、秀が騒ぎ出すと、途端に立ち篭めていた霧が晴れて行くようだった。こんな時は全く、一本調子の彼の存在は有難いものだった。
「ホントに、変な事になったわねぇ…。もう、ごちゃごちゃ言っててもしょうがないから、早く食事しちゃいましょ。みんな席に着いて?」
「ったく!、余計に腹が減ったじゃねぇか」
 秀の不満げな物言いに合わせてか、ナスティも多少迷惑そうな言葉を連ねている。確かに朝食に用意した一部のものが冷めてしまい、彼女と秀の機嫌を損ねた面はある。だが当事者以外で、当麻と遼のふたりはすっかり普段の様子に戻っていた。
「睨んだ通りだったな、やはり一昨日何かあったようだ」
「ろっくな事しねぇんだから、あいつら」
「まあまあ、今怒んなくってもいいだろ、詳しい話を聞いてから考えればいい」
 各々似たような立場であっても、何を念頭に考えるかに拠って、口から出る言葉に大きな差が生じている。そんな、本来のバラバラな五人らしい様子を見せながら、漸く柳生邸の面々は朝食を迎えたのだった。
「いっただっきまーす」
 取り敢えず、テーブルの上に食べ物が並ぶ絵面を見れば、秀の八つ当たり的な怒りなど簡単に引っ込むだろう。まあ彼は、元々食事前で苛ついていたのかも知れない。そして大半が楽しそうな様子であれば、ナスティもひとりで不満げな態度は示さない。今のところテーブルを囲む場の雰囲気は、普段とそれ程変わりないと言えた。
 見た目に辛そうな伸でさえも、大人しくはあるが、特に気になる表情や仕種は見せていない。一見すると本当に、これまで通りの柳生邸の朝、と言う感じだったのだが。
「…どうしたの?」
 と、伸が隣の席に座る征士に言った。まだ食事を始めたばかりだったが、皆が途端に手を止めて征士を見ると、彼は何も手を付けずに動作を止めていた。ので、伸はその肩に手を遣って、話し掛けていることに気付かせようとする。征士は何もかも上の空で、ずっと考え込んでいる風に見えた。
「征士?」
 伸は更に名前を呼んで、肩に掛けた手を揺り動かそうとした。すると、
「!!」
「ぶわっっ!!」
 予想外の事に、秀が口に含んでいた牛乳を吹いていた。
「おいっ!!」
 最も遠い席に居た遼には、声を上げる以外に何もできなかった。が、
「…間一髪だ、頭は打ってない」
 征士の向かいに座っていた当麻が、咄嗟に席を立ってフォローしていた。征士は伸が肩を動かしただけで、そのまま椅子から転がり落ちていた。
「っ、ちょっ、何だよ、どうなってんだよ一体…!?」
 ダイニングの床に横たえられた、意識の無い征士の姿を目にすると、秀は咳き込みながらも、そう言わずに居られない混乱を見せていた。だが、流石にこの事態に答えられる者も居なかった。悪奴弥守の所為なのか、本人の意識が堪えられなかったのか、それは誰にも判断できない。今判っているのは、征士は加害者でも被害者でもあると言うことだけ。秀がその双方を理解してくれれば良い、と言う場面だった。
「取り敢えず上に運んどこう」
 当麻が落ち着いた態度でそう言うと、
「ああ…」
 答える前に、遼は体を屈めてその作業を始めていた。とにかく迦遊羅の言うように、目先の事に感情を振り回されずに待つことだ、と、彼は努めてそうしているようにも見えた。
 ただ征士に取っても誰に取っても、嫌な結末にならぬよう願いながら。



 その後、柳生邸の時の流れは、大体普段通りのペースを取り戻していたけれど、言わずもがな誰の心にも、事の消化不良から来る複雑な感情が、いつまでも片付かずに残っている状態だった。
 実際何があったのか、を、それぞれが己の中で考え続けている。流石に秀も、意識の無い征士に怒る気持は萎えてしまった。遼は征士の方よりむしろ、何故伸は平静を装っているのかを考えていた。昨晩の征士の行動を窺っていた当麻は、不覚にも一時過ぎに眠ってしまったことを後悔している。正に部屋を出て行ったあの後、征士は何らかの行動を起こしたと言うのに。
 けれど、何があったとしても、起きてしまった事件を無かった事にはできない。遺影の中に微笑む柳生博士が、二度と帰って来ないのと同じだ。なのでナスティはもう、事件そのものを考えることより、この後征士は、五人はどう纏まって行けば良いか、鎧戦士の先行きの心配をし始めていた。決定的な亀裂を生む事態にならなければいいのだが、と。
 そして正午を迎えても結局、迦遊羅乃至事件に関わる者の来訪は無かった。

 昼食を終えると、伸は弱っている様子を見せながらも、ふらりと柳生邸の外へ出て行った。皆心配ではあったが、「気分転換に散歩に行く」と言った彼の表情を見て、信用して送り出すことにした。まあ恐らく自殺するとか、仇討に行くとか、これ以上の騒ぎを起こす伸ではないだろう。ひとりになりたいだけならそうさせてやろう、と仲間達は見守っていた。
 伸はその後、柳生邸から見えない場所まで来ると、仲間達には内緒で新宿に向かった。一昨日征士が妖邪界へ出掛けた時と同じように、アンダーギアに替えて移動すれば、乗り物を使うより格段に早く目的地に到着する。但し今は外が明るい為、周囲に気を使いながら移動することになるが。
 更に伸は本来の体の切れが無い。見た目に派手な顔の腫れなどより、拳で殴られた体幹部に響く痛みは切実に辛かった。だがそれについては誰にも明かさなかった。幾つかの真実を隠したまま、伸はひとり必死になって目的を果たそうとしていた。
 何故彼はそんなに必死なのか、何故誰にも話そうとしないのか、今のところ誰にも解らない彼の秘密。
 新宿の一角、異界へと繋がる唯一のポイントに降り立つと、傷む体に無理矢理鎧を纏い、伸は妖邪界へと昇って行った。まだ向こうの世界は、地球時間で二日半程も続く夜中の筈だが、こんな事態の最中なら誰も眠ってはいないだろう。
 すると予想外に、煩悩京の夜は多くの松明や篝火に照らされ明るかった。伸は知らなかったが、ここの住人は夜だからと言って、一斉に布団に入る訳ではないらしい。そもそも二日半も継続して眠るのは、人間の体に悪影響を及ぼすだろう。それぞれが寝起きするサイクルを適当に決めて、長い夜と更に長い昼間をやり過ごしている、それが妖邪界での生活だった。
 殊に煩悩京は現在修復中の建物が多く、休みなく作業をしている建設現場など、明かりと音とが賑やかだった。伸は記憶を辿りながら、嘗て阿羅醐城の聳えていた町の中央へと進んだ。魔将達は皆中心部に集まって、全体の纏め役をしているようだと聞いていた。
「水滸殿!、わざわざいらしたのですか?。他の皆様は?」
 伸が初めて目にした仮新殿の庭に立っていると、誰かが告げたのか、程なくして廊下の奥から迦遊羅が走り出て来た。反応が早い様子を見れば、約束を放ったらかして休んでいた風でもない。そして、
「いや、僕ひとりだよ」
 と伸が答えると、彼女は些か神妙な顔をしてこう続けた。
「もしやあれから、どうかなさったのですか?」
 恐らく現段階の少年達、魔将達双方の状態を最も把握しているのは迦遊羅だ。事の起こりから今朝の柳生邸の様子まで、全体を見通して伸の行動を考えたのだろう。ともすれば怒り心頭の態度で、苦情を言いに来てもおかしくない彼が、妙に大人しい様子で訪ねて来たのだ。申し訳なさを感じているが故に、充分に気を回しているのが窺えた。
 すると伸は、迦遊羅の促しを受けて、言葉を選ぶように話し始めた。
「うん…。その事で、お願いがあって来たんだ」
「お願いですか?」
 ところが話し始めた途端に、屋敷の奥からバタバタと複数の足音が聞こえ、そこに見慣れた集団が姿を現した。
「やっと見付けたぞ迦遊羅、奴は山に入っていたのだ…」
 先頭を歩いていた那唖挫は言うと、畏まる迦遊羅の前に珍しい来客が居るのを見付ける。
「来ておったのか水滸」
「やあ」
 しかし伸が何気ない様子で返すのを見て、那唖挫も迦遊羅同様、多分にいたたまれない気分になっていた。
「何と言う顔をして、可哀想になぁ…」
 別段自分が手を下した訳ではないが、一部始終を見ていたこともあり、魔将達の感じる罪悪の念は誰も似たようなものだった。元より伸には何も関係の無い事であり、本当ならこっぴどく叱られて仕方のない対面だ。ところが何故だか、そうなりそうな雰囲気を感じられないでいる。伸は不思議と静かな表情を見せている。その分、魔将達はより多くの心痛を負わされる形だった。
 迦遊羅と三魔将、事に関わる人物が揃ったところで、迦遊羅は再び問い返した。
「して、お願いとは何でございましょう?」
 やって来たばかりの三人は、初めて出た話題に耳をそば立てて聞いた。
「実は…、う〜ん。とにかく今はまだ来ない方がいい、まだみんなには知らせないでほしいんだ」
「何故ですか?」
「今来られても聞く人がいないから。あれから征士が倒れちゃってさ」
 すると伸の話に打たれるように反応したのは、言うまでもなく悪奴弥守だった。
「倒れたって!?」
 螺呪羅に掴まれていた腕を振り払い、愕然とした形相で身を乗り出した彼に、伸はその時の詳細を淡々と説明する。
「今朝迦遊羅が来て、帰って行ったすぐ後なんだ。食事を始めたら何か様子が変でさ。あ、征士の家はお行儀に厳しいから、普段テーブルに肘を付いたりしないのに、付いてたから妙だと思ってね。肩に手を掛けたらそのまま倒れちゃったんだ」
 その経過を聞いて、悪奴弥守が、或いは他の魔将達が何を思っただろう。
「まあ…、お怪我などはありませんでしたか?」
 迦遊羅は極当たり前の心配をしているようだが、三魔将の方は、現れた時より更に難しい顔になっていた。
「それは別に。どうも、倒れる前に意識が無かったみたいだけど」
 と、伸が迦遊羅に答えると、横から事実に対し信じ難いとする声が聞こえる。
「そんな馬鹿な…」
 掠れ声で絞り出されたその呟きは、彼の使った術にそんな効果は無い、と示しているようだった。悪奴弥守は前途の通り、高度な術は殆ど会得していない身だ。人間の世界の言葉で言えば、精神状態をコントロールすることや、動植物の成長を促進するなど、魔法と言うより技術的に解決できそうな事を、術として使えるレベルだった。だがそれだけに、術の及ぼす真の影響力に気付かなかったのだろう。
 単純な動植物は本能に沿って生きるだけだが、人間は本能に刃向かう心との葛藤で生きている。そのバランスを崩してはならない、同じ生物と言えど人と動物の精神構造は違う。安易に触れてはいけない部分が人にはある故、人に対する術は、如何なる術でも慎重を期さねばならない…。
 でないと、人格そのものが崩壊することもある。
「やれやれだな。低級な術でもこんな事はまま起こる、知らなかったで済む事ばかりではないのだ。俺がどれ程怒っているか分かっただろう?」
 螺呪羅が珍しく怒り口調を続けるのも、大それた事をする前に相談しろ、と言う思いからだった。そして悪奴弥守は何も言えなくなってしまった。己の愚かさから、助けようとした対象を逆に壊してしまうようでは。
「・・・・・・・・」
 刺々しい空気が漂う中、悪奴弥守だけでなく誰もが暫く口を噤んでいた。螺呪羅の意見を聞けば、掛けた術には含まれない効果や影響が出ることもあり、それに拠って征士は倒れたと解釈できる。果たしてその場合、何をすれば元に戻せるだろうか?、と、誰もが考え込んでいる。
 けれども、解決法はまだ見えないとしても、伸はここに来た目的だけは確と伝えねばならなかった。ここでもう一度、寸断された話を出して念を押しておこうと、頭を冷静に切り替えられていた。
「あの、こんな状況だから、今はみんなに話さないでほしいんだ。倒れる程の事だから、みんなには知られたくない事が原因かも知れないし」
 場の流れを考えて、始めは辿々しく話し始めた伸だが、言いたい事は明確に伝えられていた。
「征士が目を覚ましたら、彼にだけ説明してくれればいいと思う。僕らは征士から聞けば充分だから」
 そんな、自己犠牲的とも取れる訴えを聞き終えると、
「それで良ろしいのですか?」
 迦遊羅は言葉以上に心配そうな表情を返した。何が起こったか、伸がどんな被害に遭ったのかを知っている者には、何故そこまで己を主張しようとしないのか、理解に苦しむところだった。彼は自分より他者を優先する傾向がある、と言ってしまえばそれまでだが、所謂優しさとも違うその意思は不可解だった。
 無論伸にも知られたくない事、言いたくない事情はあるだろうけれど。
「そうか…、ならば心得た。しかしお主はよくよく気を遣う奴だのぅ」
 そして那唖挫が、伸のそんな態度を組んで答えると、
「え?、それ程でもないと思うけど」
 本心からそう言うのか、謙遜しているのかは判らないが、理解してくれた相手にはにこやかに返す伸だった。
 それにしても、上辺では別の話をしながら、触れられたくない領域に踏み込んでくれるな、と牽制している伸の意思は、術が及ぼす危険性を如実に現すようではないか。まあ、簡単に言えば「親しき仲にも礼儀あり」と言うことなのだ。望まれない親切は迷惑でしかないかも知れない。それに那唖挫は気付いたので、前の話を手早く切り替えていた。
「どれ、近くで顔を見せてみよ、良い薬を調合してやろう」
「ああ、それは有難い」
 そして一時は騒然となったこの場も、伸の態度に合わせるように、徐々に穏やかな流れに戻りつつあった。魔将達が最も申し訳なく思う対象が、そうしてくれと言うのだから聞くより仕方ない。螺呪羅も今は場の流れに合わせて、
「ま、手後れって訳でもないんじゃね?」
「・・・・・・・・」
 と、無言で一点を見詰めている悪奴弥守に言った。
 実際はあらゆる可能性を否定できない、発端が術の作用であろうと、未来を見通すことは誰にもできないのだ。ただ、征士本人には傷を残すことになっても、今の伸の態度を見れば少なくとも、地上の鎧戦士達が散り散りになるような事はないだろう。彼等の結束が固ければ尚、征士の自我が戻って来る可能性も高いだろう。仲間とは互いの存在を支え合うものなのだから。
 螺呪羅は悪奴弥守に、そんな事を伝えたいようだった。

 その日の夕方になると、伸はまたふらりと柳生邸に戻って来た。まるで本当に「散歩に行って来ました」と言う風情で、出掛けた時と何ら変わらない静かな様子。黙っていれば恐らく、妖邪界へ行って帰って来たとは誰も気付かなかっただろう。
 けれど伸は、それを隠す訳にも行かなくなっていた。
「何でひとりで黙って…!」
「無茶すんなよなっ!、こんな時余計心配になるじゃねぇか!」
 と、遼と秀には予想通り叱られてしまったが、伸は魔将達に託されたある物を携えている。偶然だがそれを持ち帰る役目を得られ、それだけでも出掛けた甲斐があったと満足していた。渡されたナスティがその紙包を開くと、中からは香木のような枯れた木片が姿を現した。何でも、眠る間に至上の幸福を得られると言う、冗談のような代物らしいのだが。
「…これを枕元で焚くの?」
「そ。今朝行方不明だとか言ってたけど、悪奴弥守が山から採って来たんだって。魔将達の感じじゃ、向こうにも予想外の事だったみたいだし、謝罪の気持は信用していいと思うよ」
 不思議そうな顔をしているナスティに、伸はそんな説明を続けた。東洋やアラブでは草木を焚くのは珍しくないが、西洋文化に慣れた彼女には、少しばかり奇妙な物体に映っているようだ。
 けれど今は藁にも縋りたい時だった。取り敢えず事情を知る者の言う通りにしてみよう、と、
「そう、わかったわ」
 彼女は納得して、早速香台になりそうな器を探しに行った。ナスティがその場を離れると、それまで遠巻きに見ていた秀は早速、興味津々の様子で包みの中を覗き込む。しかし、
「で?、薬はいいが結局何があったんだよォ?。人騒がせな連中だよなぁ、まったく…」
 それだけでは全面解決にならないと、結局不満を漏らしていた。まあ、当事者程の苦痛は受けていないにせよ、昨日から居心地の悪い思いをしていたのは確かだ。なので、何故魔将達は早く説明に来ないのか、伸がそれを聞き出して来ないのかと、秀は今朝からずっと苛立っている。
 すると当麻が、
「話は征士が戻った後でってことなんだろ」
 と、考え得る状況を助言した。すると伸も、
「そうだね。今朝の迦遊羅じゃないけど、みんな済まなく思ってるようだし、そんなに悪く考えなくていいんじゃないの」
 自分が提案した事ながら、如何にも魔将達の気遣いだと言う風に口添えしていた。勿論、彼等の様子を見て来たが故に言える嘘だった。
 しかし、当麻と伸が何をどう話そうと、秀の気持に強く響くのはいつもリーダーの一声だ。
「騒ぎなんか後回しでいい、征士と伸が元に戻ることが先決だ」
 遼がいつものように、大真面目に考え物を言うと、途端に部屋の空気が引き締まるから不思議だった。今はただ全員の願いが通じるように、できる限りの事をするだけだ、と、その場で秀も思いを新たにしたようだった。

 その夜、征士の為に枕元で焚かれた木片は、ミントのような清涼感とやや甘い匂いを、征士と当麻の眠る部屋に満たしていた。話では医療的な目的に使う香で、苦痛や幻覚を沈ませ、最も楽な状態から目を覚まさせる物だと言う。その時同時に、苦悩と入れ替わる幸福な夢を見るので、「至上の幸福を得られる」などと唱われているようだ。
 恐らく横で寝ている当麻も、人には言えないような幸せな夢を見ることだろう。



つづく





コメント)第二話、何とか上がりました。ちょっと構成が荒いかな〜と思うところもあるのですが、物語の中の日数が長い話なので、しょうがなくこうなった面もあります、はい。
とにかく征士のBDにupできて良かった!、のですが、今回の分では征士は殆ど活躍してませんね(苦笑)。最後まであまり良いとこナシな話ですけど、まあ続きも読んでやって下さい(^ ^;。




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