秘密の会話
ロゴスとパトス
#3
大花月シリーズ3
a fission



 済まない。…済まない。
 お主を助けたかっただけなのだ。
 君を助けたかっただけなんだ。
 虚空の何処かで声がする。先程からずっとその声を、彼等の声を聞き続けている。寒くもなく暑くもない、明るいだけの空間をフワフワと浮遊しながら、時折現れる過去の映像を懐かしんでいる。
 私はこの世に生まれ、ひとりの人間として生きて来た。普通の家庭にの子供に比べれば、厳格な家で育ったかも知れないが、それは同時に恵まれた環境とも言えた。私はその中で努力し、それなりに成長して、迦雄須や仲間達に会うことができた。鎧戦士の一員として、最低限の成果を挙げる努力をして来たつもりだ。そこまでには何も疑う要素は無いのだが。
 何処で何を過ったのだろう?。或いは最初から、生まれる前から問題を抱えていたのかも知れない。人間は誰もが己の大半を知らないと言う。単純に、自分の頭に髪が何本生えているかも知らないように、心がどんな形をしているかも、遺伝子に何が刻まれているかも知らずに生きている。だから思いも拠らぬ己の別の面が現れ、それに驚かされる事は誰にもあるだろう。
 正に驚いたのだ。自分に自分の存在を傷付けられることがあるとは、考えてもみなかった。昨日の夜、否、ニューヨークの町中に在った時も同じ、何が原因で表に出て来たにせよ、好きに暴れていた心は妙な開放感を得ていた。心の何処かで高笑いする己を感じていた。それは即ち、理に適わぬ暴挙も己の意識から生まれたもの、と言う証拠だと思う。
 果たして、そのような私はこのままで良いのだろうか。世の正義を求める活動の中に、このまま身を置いていて良いのだろうか。信じていた物が片端から崩れて行く今…。
 信じる?。信じて?。何を、誰を?。
 悪い面を持つ物は全て信じられない?。
 欠点のある人は全て嫌い?。そんなこと、ないだろう…?。
 虚空の何処かで、誰かの声がそう繰り返していた。己はともかく、人間は皆根本的に優しいのだと感じる。どこまでも堕ちて行った筈の己の周囲が、身近な仲間達、遠くの同志達に守られ明るく保たれている、と今は解る。己の立場をあらゆる者の意識が支えているのだと。鎧と、それを介した特別な仲間が居る限り、どれ程惨めでも、己は常に幸福の中に居られるのかも知れないと。
 光。
 命の光、浄化の光、贖罪の希望の光。明るい空間、明るい心象世界の心地良い流れに身を任せ、今は一部の過去を切り離し、ただ運ばれ行く幸福に眠る。
 ただ誰かの声を聞いている…。

「もう大丈夫なの?」
 翌朝、一番にキッチンに立っていたナスティは、その窓から見える裏庭に、何事も無かったように朝の素振りをする征士を見付けた。
「ああ、何でもない。…みんなには迷惑したな」
 掛けられた声に気付いて彼がそう返すと、
「そんな事いいのよ、昨日はびっくりしたけど良かったわ」
 ナスティは逆に征士を気遣って、細かい事は何も言わずにおいた。勿論あれこれ詮索したい気持より、彼が問題なく復帰したことへの安堵感の方が、遥かに勝っていたこともある。今日の内に皆、それぞれの家に戻ることになっている為、気絶状態から回復したのは特に有難いことだった。否、これで元通りなのかどうかは判らないけれど。
 すると彼女の背後から、些かギョッとさせられる声が聞こえる。
「おはよう征士」
 と、過去いつもそうであったように、朝の窓から見える征士に、伸は極めて明るい調子で声を掛けていた。元に戻らない可能性があるのは、このふたりの間の事だと考えていたナスティが、途端に冷や汗をかき始めたのは言うまでもない。だが、
「ああ…おはよう」
 本人の言う通り、本当に元に戻っているのか、努めて平静にしているのかは判らないが、征士は特に変化を見せず答えていた。最初から多少表情が硬い以外は、これと言って心配な様子も無く、彼はすぐにまた素振りの続きに戻ってしまった。
 なのでナスティは、
「伸ももう問題なさそうね?」
 と、自分の後に現れた伸に、改めて同様の話題を振ることにした。
「うん、今日になって急に痛みが引いたよ。那唖挫の薬が効いたかな?」
 伸はキッチンに掛けてある、自分用のエプロンを身に着ける最中だったが、その返事を聞いて振り返ったナスティは、先程とはまた違う驚きを露にする。
「そう…、え?。やだ、見た目には全然判らなくなってるわ!」
 昨日彼の手当をした彼女自身が、前の状態をよく知っているだけに、これもまた嬉しい誤算と言うべき出来事だった。
「だろ?、もう腫れてるような感じも殆どしないんだ」
 そして答えた伸も、昨日一日に比べ随分元気そうに感じる。畳み掛けるように起こった、悪夢とも思える事件がまるで嘘だったかのように、今はその痕跡が急激に消え失せ、明るい朝の光の中に、普通にいつもの生活が始まったような不思議な感覚さえ味わう。
 故にナスティは思った。伸は元から本心を言わない人だから、多少は無理をしているかも知れない。でも彼はいつもそうだから問題にはならない。寧ろ今は、伸が何でもない態度でいるのと同時に、見た目にも前の出来事を思い出すことが難しくなった、その事が重要なのかも知れないと。
 昨日はくっきりとした青痣が、両の頬に現れ腫れ上がっていた。その上に目立つ湿布をしていた為、嫌でも気になってしまう状況だったけれど。時と共に思い出は美化されると言うが如く、征士にも、他の戦士達にも後々、「大した事ではなかった」と考えられるようであれば良い。伸も恐らくそう望むから、一言の文句も言わずにいるのだろうと思う…。
 見方に拠っては損な役回りの者も出てしまうが、それも彼等全体の為だとナスティは思い、伸に対して追及したい気持も今は押さえる。事の発端が何だったのかは依然判らないままだが、それより優先すべき事を彼女は考えていた。
 そんな一時を過ぎて暫くすると、また通常通り遼と白炎、それに付き合って散歩に出た秀が戻っ来た。彼等はダイニングルームに入るなり、そこに居た伸を見て一際明るい声を上げる。
「あっ!?、伸っ、何だよすっかり治ってんじゃねーか!」
「ホントだぜ!、昨日言ってた薬が効いたみたいだな」
 口々に言ってドタバタ駆け寄るふたりに、
「おはよう。うん、急に良くなってさ」
 伸が答えると、間近に近付いた遼はしげしげと伸の顔を眺めながら、
「大したもんだな…、意外に妖邪界には、地球に無い良い薬があるんだな」
 と、しきりに感心していた。否その理屈は伸や当麻、ナスティ辺りには容易に判ることだ。
「良い薬もある代わりに、こっちには無い恐ろしい毒もあるんだよ、向こうにはさ」
 続けて伸がそう解説すると、遼は即座に過去の魔将達との戦いを思い出し、何故か口許に笑いが込み上げて来るのだった。
「ああ!、成程」
 物事は全て表裏一体だ、毒も使いようで薬になる。悪の化身であった妖邪帝王も、多くを束ねる力のある存在だったことには違いない。恐らく遼はそんなことを思ったのだろう。そして彼のように、皆が昨日の事を笑えるようになるなら、彼等はその先も大丈夫だ。
「もう湿布とか貼る必要ねぇよ。なぁ?、征士?」
 秀がそう言って、丁度ダイニングにやって来た征士に話を振ると、振られた本人は穏やかな様子で歩み寄りながら言った。
「そうだな」
 そしてより近くまで来ると、普通に申し訳なさそうな顔をして、
「済まなかった」
 と、伸に頭を下げていた。予想以上にしおらしい様子を目の前にした遼と秀は、恐らくもうこれ以上、征士自身を疑うことはないだろう。そもそも全く征士らしくない行動を、自分の非だと認めて謝る彼の心境を想像すると、いたたまれない思いばかりをふたりに与えた。金輪際、こんなややこしい事件は勘弁してくれ、と。
 そして伸も、もう終わりにしようと言う調子で、
「そんなに気にしなくていいよ、君のせいって訳じゃなさそうだし。ああ、だから帰る前にさ、悪奴弥守に会いに行って来なよ。君が事情を聞いて来なきゃ駄目だ」
 と返していた。
「そうだったそうだった!。早く行って来てくれよ〜、このモヤモヤ感をどうにかしてくれ!」
 途端に秀が騒ぎ出して、懇願するように征士の腕を掴む。つい今し方まで忘れていたようだが、思い出してしまえば、事情を聞くまでは帰れないと言う状態になっていた。思えば最初から秀は、何より事の原因を知りたがっていたのだから。
 すると彼の熱意に押されるように、
「ああ…、そうしよう」
 と征士は答えた。別段気が乗らない訳ではないが、まあ、聞かなくとも悪奴弥守の行動は、いつも単純明快で想像がつき易いので、そこまで聞きたがられると妙な気がする征士だった。また遼は、
「うーん…、結局何だったんだろうな、何か起こったと思ったら急に元に戻って…」
 今はそんな穏やかな考えを巡らせている。こうして仲間達の状況が、見る見る好転して行くのは誰もが望んだ結果だから、なのだろう。
 無論「これで良いのか?」と考える者も居なくはなかったが。



 何事もなく朝食を終えた後、征士は勧められるまま、再び妖邪界へ行くルートを辿っていた。
 前の通り、征士本人は事の起こりを知ることに、それ程こだわりを感じていないのだが、仲間達を納得させるには仕方のない行動だった。勿論彼にも、真実が全て見えている訳ではないので、魔将達の詳細な話を聞きたい気持はあった。けれど「聞いてどうなる」と半ば諦めたような意識が、今の征士を強く支配していた。理由を知ったところで結果は変わらないと。
 伸が何も無かったように振舞うので、そうして欲しいと言う意思表示なのだと知って、今朝は何食わぬ顔で過ごしていたけれど。見た目にはさほど変化が無くとも、心理的にはまるで違う関わり方になってしまった、それを元通りの関係に修復することは不可能だ、と征士は痛切に感じていた。
 人の生死や殺伐とした諸処の問題、それらに頭を悩ませる日々の中で、ただ、心地良い揺らぎの波動を受けている時間を、大切にしたかっただけだ。欲しかったのはそれだけだったと言うのに、恐らくもう、自然に隣に存在することができなくなった、と征士は思う。伸は忘れないだろう、表面には出さなくとも忌み嫌うだろう、昨日の出来事と私のことを…。

 そして煩悩京の一角に辿り着き、悪奴弥守の仮の庵に通されるや否や、征士は怒濤のように謝り続けられるのだった。その場には迦遊羅と那唖挫も同席しており、謝罪の場がまともに機能するよう、立合い役をしているらしかった。
 先ず悪奴弥守は安易に術を使ったこと、征士の了解を取らなかったこと、そして柳生邸の面々に迷惑を掛けたことを平謝りした。それについてはもう、迦遊羅と他の魔将にさんざん責められた為、今は何を弁解する気も無いようだった。大体、掛けたと言う術の種類を聞けば、彼が何を目的にそうしたのかは、話さなくとも解ることだった。
 それから彼は、征士の抱える悩みに対し、善かれと思い行った事が結果的に、尚征士を混乱させてしまったと己を嘆く。何の気紛れか、珍しく己を訪ねて来た同胞に対して、喜ばしく思う気持はあれ、本題を適当にあしらうつもりなどなかった。己が判断を過ったが為に、結果大事に思う相手の立場を台無しにしてしまった。悔やんでも悔やみ切れない、と、悪奴弥守は切々と訴えていた。
 そんな彼の心情は容易に解る。
 その一部始終を黙って見ていた征士は、しかし始めから終わりまで穏やかな様子だった。恐らく悪奴弥守が何を陳述しようと、胸の内で答が決まっていたからなのだろう。
 畳の上に両手を着き、顔向けできぬと頭を垂れている悪奴弥守に向けて、
「そう必死に謝られても、正直ピンと来ないのだが」
 と、征士はここで初めて口を開いた。そしてこう続ける。
「何かをした、術を掛けたと言うが、今回の事は元々私の心の内から出た行動だ。実行するかしないかの違いだけで」
 だが、素直にそれに頷く者は居なかった。
「そうではない!。いや、そうだとしても行動したのは術の作用なのだ!。本来のお主なら有り得ぬ事だった筈だ」
 悪奴弥守は遣り場の無い気持を、畳にぶつけるようにして返す。彼が最も危惧して居たのは、こうして征士が自虐に走ることだった。それこそ征士の悩みを深くしてしまう、光輪が光を失ってしまうと思えるからだ。
 なので悪奴弥守は改めて、
「お主には関係無い、俺が馬鹿だったのだ。皆に叱られて目が覚めた」
 と念を押したのだが。そこまで聞き終えると征士は再び黙して、暫し考え、次には何とも答えようの無い話をしていた。
「何もしなければ、何を思っても良いのだろうか」
 それは征士に限らず、人と言う生物を苦しめる根本的な悩み。動物的感情と、人間の感情との葛藤なのだ。他を憎みつつ行いばかり善くしても、偽善と呼ばれるに落ちるだろう。或いは、純真な子供の好奇心から起こる惨事は、誰の罪をも問えないだろう。征士はそんな凡例を念頭に、初めて告白らしい内容を続ける。
「私は、暴力で捩じ伏せても状況を変えたいと、いやもしかしたら本当に殴りたかったのかも知れない。常に何処かで苛立っていた。自分が何を求めているのか、何を見ているのか判らなくなる程に」
 征士がこだわりたい何かが、その話の中に現れているようだった。無論征士の話の方向は全て、痛め付けられた伸に向いているのだが、魔将達にはその点が今ひとつ理解できない。何故彼は怒りの対象に伸を据えたのだろうか?。もし起こった事の通り、彼が伸に対して想いを寄せているとしたら、伸はそれに気付かない人間だろうか?。拒否されたとしたら、征士はいつまでもこだわる性格だろうか?。
 彼の苛立ちの原因がまるで解らない。
「そんな捉え方は感心しない、お主は事に動揺しているだけだ」
 引き続き諭すように悪奴弥守は言ったが、
「ああ、そうかも知れない」
 征士は肯定しながらも、既に結論は出ていると話すのだった。
「だがもう良い、もう終わった事なのだ。誰のせいでもない、自業自得だ」
 きっぱりと、これで終わりにしたいと言う意思を見せて、征士はそう言い切っていた。恐らく彼は、悩み迷う己が全ての元凶とすると、最も理屈に合うと考えたのだろう。悪奴弥守のした事も、伸が受けた被害も、確かにそんな面は無きにしもあらずだ。だから征士は納得して、終始穏やかにしているのだけれど。
「さぁて、それはどうであろう」
 ところがそこで、思わぬ異論を挟む声が聞かれた。
「…第三者から見た意見か?」
 立会人として座していた那唖挫に、征士がそう問い返すと、彼は手にしていた煙管を一度箱に戻して、比較的真面目な顔をして続けた。
「ああ。思うだけで罪になるとは俺は思わんな。良きにつけ悪しきにつけ、思いとは前進する為の力なり」
「まあ、そうだな」
 那唖挫の弁を聞くと、確かにそれも一理あると征士は答える。特にこうして迦遊羅や魔将達を前にすると、嘗て悪と呼んだものは本当に悪だったのか、と考えてしまうところもある。
 そして那唖挫は、それこそ悪らしからぬ事を言ってのけた。
「それで、前進した結果が悪い方に転んだとして、お主が既に悪奴弥守を許しているように、何故それを己に置き換えられぬ?」
 第三者からの素朴な疑問。
「何故?」
 と、征士はそれに対し多少力むように言って、その訳を簡潔に説明する。
「それは明白だ、私は悪奴弥守が何を思っていたか知っている。その場合は構わない。だが、」
 言葉に出さなくとも解るだろう、との勢いでそこまで話した征士に、
「そうですよ、恐らく御存知の筈です」
 それまで黙っていた迦遊羅が、極めて大人しい口調で語り掛けた。はた、と、三人の誰とも違った声質の響きを耳に、皆静まって彼女の話の続きを聞いた。
「昨日水滸殿は、私共にこんな話をされました。光輪殿の意識が無いことに気付いたのは、食卓に肘を付いていたからだそうですよ?」
「…?」
 まともに話を聞いた上で、征士には迦遊羅の示す意味が判らなかった。しかし魔将達には、伸がそう言った場面を見ていたこともあり、その時の伸の様子を知っていることもあり、充分に理解できる内容だったようだ。那唖挫は迦遊羅に続け、また違う話を征士に聞かせる。
「水滸は気の優しい奴だ、返せば気が弱いとも言う。お主は常に明から様で堂々としているが、水滸の表現は地味で小さいのだ。うっかり見落としていることも、あるやも知れぬな」
 そして迦遊羅もこう結んでいた。
「光輪殿が知られたくないだろうと、他の方には事情を知らせないように言われたのです。術の被害に遭っていると言うのに、この水滸殿の心境を何とします…?」
 そう、確かに彼等の知る状況からは、征士同様に伸も、己が受けた仕打ち以上に相手の心情を思い測っている、と受け取れる話だった。確かに似ている、否全く同じ状況かも知れない。己が許されないと鼻から考えるのは、寧ろ相手に失礼だったかも知れない。誰にも優しさや慈悲の心は存在するのだから、と征士は気付く。
 すると、長く頭を下げていた悪奴弥守が顔を上げて、
「誰かひとりが許してくれれば、人間は生きて行けるものさ」
 と、溜息混じりに笑って見せた。己の恥を覚りながら、けれども彼は絶望もしていない。そんな状況を作り出したのは他ならぬ征士自身であることを、悪奴弥守は伝えたかったのだろう。
 またこうして接してみると、地上の仲間達も頼もしい存在だが、天上の同志達も有難い存在だと征士は思った。たまには厄介事を持ち込んで来ることもあるが、彼等の思いは地上の戦士達と共通であると、改めて知ることになった。事の真相を聞くことよりも、それが今日の最大の収穫だと感じた。

 ただ征士にはひとつ、最後まで納得できなかった事がある。
『例えそうであっても、この件については許してくれるとしても、私達の時間を戻す方法は何も無い』
 鎧戦士の一員として認められることと、個人的な関係を戻すことは少し違うのではないか。
 それを伸はどう答えるだろう。
 征士は考えながら帰路に就いていた。

「…悪奴弥守は、私が様々な事に悩んでいるのを見て、ストレスを解放させる術を掛けたんだそうだ。それで大概は乱れた意識が統合され、思考や行動が活発化するようだが、これまで事故が起きたことはなかったそうだ。ただ薬と違い、術はその時々の条件に拠って、稀に思いもしない結果になることがあるらしい。今回は偶然こんな事になって、結果伸にも酷い迷惑を掛けたと、しつこいくらい謝っていたよ」
 征士は昼前に柳生邸に戻ると、全ての顔が揃ったダイニングルームで、淡々と聞き知った事情を説明していた。そして、
「私からも謝る」
 もう一度伸に頭を下げると、やはり朝から何も変わらない態度で、
「ああ、もういいんだよ。向こうに悪気が無いのは聞いてるしさ」
 と伸は軽妙な調子で返した。途端に場の雰囲気は和やかムードになり、征士は「まるで茶番だ」と感じる他に無かった。
 そう、伸はほぼ全てを知っていながら、仲間達と同程度に知らない振りをしている。隠している事を誰にも覚られぬよう、上手く振舞っているのには恐れ入る思いがした。それが誰の為か今は判るので、征士には咎めることもできなかった。例え全体の和を思う行為でも、嘘を吐き続けるのはどうかと征士は感じている。真面目過ぎる考えかも知れないが。
「おかしいと思ったら親切のつもりだったんだな、事の起こりは」
 話を聞き終えた遼が、胸の閊えが取れたように言って笑った。単なる悪戯にしては、魔将達の出方が変だと感じていた彼は、それも征士の事を考えての行動だったんだな、と納得したようだった。また秀は、
「確かに暴れれりゃストレス発散になるわな。暴れられた方は迷惑だが」
 と、半ば呆れ顔でそう呟いていた。聞いてみれば意外に単純な事件だったので、些か詰まらなそうでもあった。
「はぁ。一時はどうなるかと思ったけど、大した事じゃなくて本当に良かったわ」
 ひとつ大きく溜息を吐いて、ナスティがそう話すと、もうその場はほぼ普段の柳生邸の流れに戻っていた。これからいかにも昼食の用意をする、と言う雰囲気を匂わせて彼女が席を立つと、秀などはもう完全に意識がそっちへ向いていた。
 その中でひとり当麻だけは、
「そうだな」
 と、ナスティの言葉に簡単に相槌を打っただけで、まだ何かを気にしているようだった。



 柳生邸の、秋の数日の滞在もこれで終わろうとしていた。
 様々な事があったような、そうでもなかったような、今回の集いは妙な経験をすることになったけれど、まあ、終わり良ければ全て良しと言うところだった。今後当事者のふたりがわだかまりなく居られるのか、征士の悩みが解消されるかは判らないが、少なくとも、少年達の家族を心配させる事態でなくなっただけ、殊にナスティには安泰を感じられたようだ。
 考えてみれば、彼等は一般社会から孤立した集団で、支えてくれる人も物も常に僅かなのだ。各々家族にさえ活動の詳細は話せない身だ。その心細さを逆手に取り、だからこそ誰もが強くなれると信じるしかなかった。そうして出来上がった結束力だから、できる限りこのまま、調和した形が崩れないようにと誰もが願っている。別れの時ほど、逆に集団としての意識は強くなっていた。
 また会おう、必ずまた会える、と。
 昼食を終えた後、五人はそれぞれ手荷物を纏め、ナスティの車の前に集合するよう伝えられていた。遼だけは例に拠って、白炎を車代わりに使うことになるので、早々と家の外へと出て行った。
 食後の片付けに参加していた伸は、秀が出て行くのと入れ代わりに部屋に戻る。まあ伸なら、持ち物を散らかす癖がある訳でもないので、すぐに外に出ることができるだろう。
 だが、彼はなかなか姿を現さなかった。
 既に荷物を纏めてある鞄の中を覗き、その後ベッドの周囲を見回した伸は、開け放たれたドアの外に征士が居るのを見付けた。わざわざ立ち止まっているのを見ると、何か言いたい事があるんだろうと、伸にはすぐに察しがついた。無論彼も征士も、まだ事件は全て終わっていないと知っているので。
 すると征士はドア枠に寄り掛かるように姿勢を変え、伸の方を見ずに話し始めた。
「私が真実を言わなくとも、伸は黙っているのだな」
 それは昼食前の、仲間達に向けた説明についての話だ。全てが出鱈目ではないが、伏せている部分が多くある事を伸はどう思うのか、或いは伸が伏せるよう仕向けたのは何故なのか、を征士は聞きたいようだった。征士自身はこの際、己の情けない実態を皆に知られようが構わなかったのだ。寧ろその上で、仲間達が判断してくれれば良いと考えていた。けれど、
「そうだね、僕もみんなには言えない事があるからさ」
 珍しく伸は遠慮のない口調で、遠回しに征士を責めるように返した。事が公になってしまうと、自分のことも知れてしまうと言う保身なのか、プライドの高い伸の怒る理由は尤もだと、解るだけに征士は黙っていたけれど。だが、そんな意地悪さも一時の芝居だと征士は知る。伸は続けてこう言った。
「君に比べたら、僕の方がよっぽど性根の悪い存在かもね、人に気を遣って欺くことばかりだよ」
 それとも、己と同等の罪があると感じているのだろうか?、と征士は苦々しく思いながら聞いていた。
 ふと気付くと、伸の態度が前の自分に重なって見える。魔将達の前で、まるで自分は伸の真似をしていたようだ、とも思う。真実がどうあれ、自分が罪を被ってしまえば他が楽になると、自虐的に考えてしまう場面はあるものだ。征士は少しばかり伸の、そうした考え方を理解できたような気がした。
 けれどそれで済ませたくもなかった。
「いつも、伸のそう言う物言いは辛い」
 何故ならその立場に居る人を見ていると、己も苦しむからだ。
「どう考えるべきか悩む。結果は全て私が望んだ事だ、私の方が悪いと言っても認めないのだろう?」
「その通りだよ」
 そして伸は徹底して、そのポジションを譲らないのだ。
「僕らにはそれぞれの天分ってものがあるし、誰もそこから外れてほしくないんだ。みんながいつも正常に、与えられた役でいることが全体の調和だと思うし、僕はその為に立ち回ってる訳だけど」
 それが伸の気遣いであり、優しさだろうか?。
 否、そうではないと征士が思い直した時、伸はそこで少し矛先の違う事を言った。
「だから君が個人的に何を思ってるかなんて、考えてもみなかった」
 仲間達を支える為に己が在る、常に全体の為に働いている。伸はそう言うと同時に、仲間内での個人的な関わりを否定している、ようだった。無論そうでなければ辻褄が合わない、全体を考えるから個人は見ていない、誰もかも仲間のひとりとして認知している、と言う話だけれど。
 それを聞いて初めて、征士は話の主導権を握ることになった。
「それは嘘だ」
 元々楽しそうでもなかった伸の表情が、微妙に険しくなって行くのを、正面を向いた征士は見ていた。
「那唖挫が言っていた、伸の行動は地味で目立たないが、私は派手で判り易いと」
 そう、迦遊羅も言っていたように、伸が気付かない訳はないと征士も思っていた。最初はただ、殺伐とした景色ばかり見るのが嫌で、明るく心和ませるものを追っていただけだが、ある頃からは意識的に伸を見ていた。けれども何故、彼はその事実ごと無かった事にしようとしているのか。嫌なら何故止めてほしいと言わなかったのか、それが征士には解らなかった。
 解らないから、人に言われるまで確信も持てなかった。征士の感じていた苛立ちは恐らく、そんな袋小路の立場から生じていたのだろう。けれど今は違う。
「伸は知っていたのだ、だが否定する。一体何の為だ…」
 征士は話の調子に合わせて、詰め寄るように部屋を歩いて来る。そして伸から数歩手前まで来た時、突然征士の耳に悲痛な叫びのような声が響いた。
「そうだよ、だから言ったじゃないか!。僕は優しくなんかない、ただ臆病なだけさ。これまでの僕や、これまでみんなが続けて来た事を勝手に変えたりしたら、この先どうなるだろうとか、君は思いもしないんだろう!」
 それは周囲に気を配り続ける伸ならではの悩み、かも知れない。個より集団を優先する彼のことを、知らなかった訳ではないが、彼自身がその美点に苦しむこともあるのだと気付く。よく似た問題だった。戦闘時には優れた特性が、人間の日常の中では厄介な性質になってしまう。故に征士は物事に厳し過ぎる己を疎み、悩んでいるのだから。
 鎧戦士達は恐らく誰もが、同じような悩みを持っているに違いない。
 そんな新しい認識が征士に生まれた時、漸く、伸だけが持っていた真実を聞くことができた。
「君の気持は知ってたけど、知らない振りをするしかなかったんだ。殴られたって文句は言えないだろ、自業自得だ」
 自業自得、と自分も思っていたことを征士は思う。そして、
「だから怒らなかったのか…?」
 と、征士は胸の傷むあの朝を思い出していた。
 腫れ上がった顔や体の痛みを忘れ、居間のソファに眠っていた伸を揺り起こすと、彼は身の回りの惨状に気付いて、けれど征士には厭味ひとつ言わず、触れられるのを嫌うこともなかった。酷く落ち着いて、有りの侭の事を有りの侭受け止めている様子だった。
 無論、目の前の征士が蒼白な顔をしていたので、逆に気を遣ったこともあるが、それ以前に伸は彼に対し、済まないと思う気持を持っていたに違いない。前に進む勇気も無く、拒絶する気持にもなれず、ずっと曖昧な状態にしていたことを、負い目のように感じていたのだろう。
 だから伸は、傷付きながらも優しい態度で居られた。いつかこんな事になっても仕方がないと、何処かで覚悟していたのかも知れない。それこそ、伸が征士をよく知っていたからなのだろう。不正に対する怒りが誰よりも強い彼のことを。
 すると、伸は問い掛けに答えて、尚且つ征士の考えを補足する話をした。
「怒るとか、そう言う状況じゃなかっただろ。いや、そんな気持があったとしても、その時は表に出て来なかった。多分誰にでも、表の心と裏の心はあるよ、どれが表か裏か判らない時もあるけど」
 また、こんなに話を進めた後になってまで、彼は征士を気遣っていた。それを知って、やはり事件を起こしたのは己が最大の原因だと、征士は自嘲しながら思うのだった。
 伸が気付いてくれなかったのではなく、自分が気付かなかったのだと。彼の言葉を借りて言うなら、伸は私の裏の心、即ち利己的で攻撃的な根底の気質を知っていて、認めていたのに、私は伸の裏の心を知らないままでいた。即ち結果的に何でも受け入れる流動性について。
 ともすれば伸は、己の戦士としての個性を尊重して、迷わず行動しろと暗に示していたようなものだ。気付いた今となっては、感じていた苛立ちや閉塞感は何だったのかと思う。一方的なイメージで捉えるばかりで、本当の彼の姿を見ていなかったのかも知れない。
 自分が最も馬鹿だった、としか征士には思えなくなっていた。
 けれど、
「君の方が余程優しいと僕は思う」
 伸は伸で、今を以っても己の罪を感じているようだった。人にも自分にも嘘ばかりで済まなかった、と言う代わりに、彼の口からそんな言葉が出ると、征士はそれを受けて返した。
「誰にも優しくできる訳ではない」
 自己の欠陥を自慢し合うような、妙な言葉の遣り取り。但し人同士の理解はそうして出来上がって行くものだろう。彼等はそんな会話の内に、過去のどの時よりも相手を近くに感じている。集団の中では最も遠い立ち位置に居た人だからこそ、特にそう思えるのだろう。
「誰もそうは見てないと思うよ」
「誰にも良く見られたいとは思わない」
「ハハ。君は強いよね…」
 薄々気付いてはいたものの、直接聞けないでいた物事が見えて来る。そんな発見の過程は何と楽しいのだろう。そして、恥ずべき過去や隠したい性癖があっても、不思議と知識を共有する人間には、安心できるようになることを知っている。本能的に人間はそれを知っているのだ。
 本能なり根底にある意識なり、目に見えない獣の心に振り回され、自ら驚いてしまう事はしばしばある。しかし根本的な優しさや愛情の発露も、同時にその部分が制している。見えない心とは、意を持つ生物に取って最も大切なものだ。誰にも狩りたい欲求と、寄り添いたい欲求が備わっている、と言うだけのことが、同等の命を生きて同様に感じることに繋がるのだから。
 昨日は、それに苦しめられたけれど、これからはそれに助けられて行くかも知れない。
 だから征士も迷う事を止められた。人ふたり分くらいの距離を置いていた場所から、もう一歩前に出ると、今は元の状態が判らなくなった伸の頬を両手で掴み、確と自分の方に向かせるようにして言った。
「何故だろうな、私はいつも伸に認められたいと思ってばかりいる」
 黙って見詰め返している彼は、何を思っているだろうか?。征士の心境の変化に気付いただろうか。
「知ってるよ、そんなこと」
 と、伸は笑っていた。すると相手の気持を鏡に映すように、征士も口角を上げた。
 そう、たったそれだけで満足だったことに、随分余計な手順を踏んでしまったものだ。ただ、こんな事件も無ければ、心を開いて話し合う機会も無かったかも知れない。嫌な経験も全てが無駄とは言わない。だからこれ以上己について、気に病むことはしないでおこう、殊に伸にはそんな素振りを見せないようにしよう、と征士は思い改めた。
 それから、伸が心配していたように、彼等と仲間達の関わり方は確かに変わってしまうだろうが、それは考えようだ。未来が今以上に良い形にならぬとも限らない。それ位に思って太々しく生きなければ、戦場で恋などできないだろう。そんな事を伸も知って、殊に自然に、降りて来た唇を受け入れていた。
 全ての事が明らかになった部屋は、普段の昼間に増して明るく感じられていた。



 その頃、柳生邸の階段の中腹にて、脱力して座り込んでいる者がひとり。
『知らなきゃ良かった…』
 前の失敗を繰り返すまいと、今日は征士の行動から目を放さなかった当麻だが、今は這うようにして逃げて来たところだ。そして脱力しながら呆れ返ってもいた。結局、皆が踊らされた奇妙な事件は、悪奴弥守の介入はあったものの、
『最初から最後まで征士と伸の隠し事だったんじゃないかよ…』
 と言う訳だったので。真面目に付き合わされたのが馬鹿馬鹿しくて、今は怒る気にもなれないようだった。

 だが、今度会う時には文句のひとつも言ってやろう、と当麻は思った。彼はこの数日に起こった様々な変化を見て、恐らく征士の全ての悩みが解ける日はそう遠くない、と、何故だか確信できていた。
 伸のようではないにしろ、戦士達は無意識の内にも仲間の変化を気に掛けている。そうしながら、繰り返し最適な調和を築いて来たのだ。誰も皆、確たる自己と不確かな自己との間で揺れていると、思うともなく思いながら。









コメント)って言うか私が一番辛い…。この最終話だけ物凄く時間が掛かってしまった。数文字書いては詰まり、書いては消しの繰り返しで…。
そうなった訳は、元々あった基礎ネタを下地に書き始めたものの、色々アレンジを加えたら、話を纏めるのがえらい難しくなってしまったのです(T T)。元ネタのまま進めれば良かったのに、下手に色気を出すもんじゃありません…!。
はあ。でも、出来上がってみるとやっぱり、今の内容の方がいいから苦労してみるものです(苦笑)。外伝〜光輪伝の話は、もう何作も書いているので、同じような構成にならないようかなり考えたけど、結局征士より伸の方が新鮮な印象になっちゃいましたね(^ ^;。そこはすみませんでした。




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