とち狂う征伸
既成事実
#1
FAIT ACCOMPLI



 永劫の時の大河に、散じた星の瞬きは静かなり。
 最早何も語らじ。
 今この目に見ゆる彗星の悲しみよ。



 肌寒さが遠退いて来る春の盛りのことだった。
 一般的な大学生の日常とは、そう面白可笑しい出来事が続く訳でもなく、時期に拠っては淡々とした、地味な生活が繰り返されることもある。一年目なら何もかもを新しく感じるが、慣れてしまえばどうと言うこともない。高校までとは違い、個々が好きなように勉強する日々が続くだけだ。
 今は鎧戦士を降りた彼等にも、例外なく「普通」の日々が多くなっていた。イベントの多い季節の合間は、日記に取り上げるネタにも事欠くようになり、すべき事は多くある筈だが、心は退屈を感じている。
 否、生活が退屈なのではないし、不幸なアクシデントは勿論遠慮したいだろう。ただ何も起こらない、目新しい事が何もないと言うだけで、決して苦悩や苦痛を求めている訳ではなかった。もしこんな状況下で突然の災難に遭えば、誰もがそんな風に皮肉に考えると思う。
 事は、少し前から風邪気味の様子で、調子を崩していた伸の話から始まった。
「…はぁ」
 同居生活を始めて一年が過ぎたが、明らかに具合の悪い様子を遠慮なく見せる、伸の態度をそれまであまり見たことがなかった。聞こえるような溜息を吐いた彼に、
「どうしたのだ、最近食欲が落ちているようだが」
 征士はそう声を掛けていた。夕食後の片付けを終え、キッチンから続く居間へと戻って来た伸だが、やはりその顔色は冴えない。ここ数日の食事の支度は、ほぼ征士ひとりの為にしているようなものだった。が、家事を含め、特に働き過ぎている様子でもなかった。
 それにしても調子が悪そうなのは確かだ。病らしい病を持たず健康な伸ではあるが、風邪等を引き易い点は以前からの観察で判る。風邪の特徴的な症状は今のところ見られないが、何か感染性のある病気を患っているのでは?、と征士は疑っていた。
 疑いつつ見ている征士の座ったソファの、向かい側に俯いたまま伸は腰掛ける。既に病院へも出掛け、市販薬等も試してみたが、一向に状態が改善されないことに落ち込んでいる、ように見えた。伸は顔を上げずそのまま話し始める。
「うん…。ちょっと、話を聞いてくれない?」
 一言言い終わると、顔を上げた彼の視線が妙に真直ぐに感じられた。無論、真摯に受け取ってほしいと言う意思表示だろうが、伸にしては明瞭過ぎる態度かも知れない。
「征士、真面目に話すから真面目に聞いてほしい」
 だが、普段の様子との違いを考える前に、具合の悪そうな伸に対して、征士も心して聞こうと言う気持にはなった。万が一不治の病の宣告を受けたなど、予想しない災いを耳にするかも知れない。ソファからやや身を乗り出して、征士は大人しく伸の言葉を待っていた。
「それが…、どう言う訳か、僕は…、」
 言い難そうに言葉を詰まらせながら、伸は漸くその言葉を口にした。
「妊娠してるみたいなんだ」
「・・・・・・・・」
 この際、長い沈黙も許される内容だったと思う。
 伸は変わらず非常に真面目な顔をして、向かい合う相手の様子を眺めている。その征士はと言えば、息切れたように動作を止めて微動だにしない、瞬きさえ忘れている有り様だった。まあそれ程驚いたのだろう。
 だが、暫しの時間が経過した後、
「ハハハハハ…!」
「あはははは!」
 突然征士が破裂するように笑い出したので、伸も連られて笑い出していた。場の緊張感が一気に緩み、そのまま一頻り笑い続けた後、征士は落ち着いた様子でこう返す。
「冗談を言えるなら心配はなさそうだ」
 それで普通の応答と言うものだった。例え真面目に話しているとしても、凡そ現実味のある話とは思わないだろう。ところが伸は全く引き下がらなかった。
「冗談じゃないんだってば!」
「冗談でなくて何だと言うのだ!」
「何かなんて知らないよ!、知りたいのは僕の方だ!」
 半ば怒鳴るような口調での押問答。無論そんなことで相互理解が進む筈もなかった。ただ如何ともし難い、頑なに訴えようとする伸の態度を知ると、征士は姿勢を変えながら間を置いて、
「そんな話を俄に信じられる訳がない。なら、そう思う根拠を話してくれ」
 と尤もな言葉で返した。説明に拠っては、人類共通の理論が覆るかも知れないのだから。
 また征士は言いながら考えていた。伸が固く信じ込んでいる背景には、信じさせる事実が何かしら存在するだろうと。少なくとも「水滸の伸」と呼ばれた戦士が、幻想と現実を取り違えることもないだろう。彼はそこまで愚かではない。否、愚かではないと信じたがっている節もあるが…。
 それに対して伸は、充分な説明ができたかと言うと、
「いや、だって、最近一日中ムカムカしてろくに食事ができないし、」
「それは胃腸が悪いのだ、或いは精神的なものだ」
「何か食べ物の好みが変わった気がするし、」
「ただ変わっただけだろう」
「何となくお腹が出て来た気がするんだ」
「太ったのだ」
「違うんだってば!、何で鼻から否定するんだよ…!」
 まともに相手にしてもらえない状態だった。
「何が違う?、何故普通に考えないのだ?。いくら特殊な立場だったからと言って…」
 征士の言い分も間違ってはいない。伸が挙げた僅かな例では、他に説明の付けようが幾らでもあった。だが伸にもそれは判っていることだった。
「そうじゃない、普通の事態じゃないから困ってるんじゃないか!。でなきゃわざわざ真面目に聞けなんて言うもんか。いくら僕だって、元鎧戦士だから妊娠したとは思ってないよ!」
 そして事実がどうあれ、まず己の心情を理解してほしいと伸は訴えていた。場に飛び交う言葉自体は、あまり重要ではないのかも知れない。もし己がこんな不可解な立場になったとして、当事者は、またその周囲の者はどう考えるかと、伸は未知なる不安を感じているらしい。
「ああ…、何が何やら…」
 けれど、彼の言いたいことは理解できても、征士にはその不安が土台の無いもののような気がして、今ひとつ思考を進められないでいた。まあ、不確定の可能性を議論するより、既に見えている事実で考えたいと彼なら思う筈だ。その点では伸とは反対の性格である。
 しかしだからこそ思い付く事例もあった。既に見えている、今のふたりを取り巻く悩ましい状況。そこから考えられる周囲の圧力について、だ。
「…気にし過ぎなのではないか、人のことを」
「何言ってんの?」
 征士が故意に話題を変えたように感じて、伸は些か訝し気な様子で返す。勿論征士に取っては逃げなどではなかった。
「伸が私の家の事情を気にしているのは知っている」
 そして続けられた言葉を耳にすると、伸は取り敢えず口を噤んで思考し始めた。ある意味では図星だったからだ。
 彼等の抱える背景的問題は、誰もが想像できる通りのものだ。征士にしても伸にしても、先祖代々から続く家の一人息子である。日本の伝統に於いては、男子が家を継ぐのが普通なのだから、残る家族がそれを期待しているのは言うまでもない。
 だが征士には既にその意思がない。明瞭な答を出していない伸の方は、幼い自分達を常に支えてくれた家族に対する、非礼が許されるのかどうかと言うことだった。己が幸福である為に、己の意思を貫くことも大事とは思うが、周囲から与えられる幸福も多く存在するだろう。それを考える度に伸は、自分が女性に生まれていれば良かったのに、との結論に行き着いてしまっていた。
 それが伸の感じている圧力の正体だった。
「だがそんなことは、どうとでもなると言った筈だ。私が家を出る以前に何処かで死んでいたら、他の方法を選択するしかなかったのだ。家系を守ることが第一なら性別や本家、分家の区別はむしろ邪魔だ。だから構うことはない」
 征士はもう何度も話した内容を敢えて、もう一度丁寧に説明していた。自分が気にしない事を伸が気にする必要はない。征士の真摯な気遣いだった。
「それはそうだけど…」
「余計な心配でストレスを溜めるべきではない」
 ただ一言多かった。征士が後に続けた言葉は逆に、伸の不興を買ってしまうこととなる。
「それじゃ君は『想像妊娠』だと思ってる訳?」
 話の流れから言えばそれ以外にない、と覚った伸は増々不審気な視線を向けていた。征士は自分の話を全く信用していないのだと。
「想像…、と言うか、まず、そう考える方が可笑しいだろう。どうしたらそんな答に行き着くのか、思考経路が理解できんと言っている」
「ふ〜ん」
 すると、伸は征士の弁明を聞き終わるか終らない内に、その場を立ち上がって歩き出していた。居間の隅に置かれた飾り棚の引き出しから、掌ほどの大きさの箱を取り出して、また元のソファへと戻って来た。そして征士の目の前に差し出す。
「これを見てもそう思う?」
「何だ…?」
 一見すると売薬のパッケージのようだった。伸が開いた引き出しはそもそも、薬箱の代わりになっている場所だ。征士はそれを自分の方に向け、印刷されてある文字を読むと「妊娠検査薬」と書いてあった。まず自分には縁のない代物だった筈だが…。
「・・・・・・・・」
 無言のまま箱に書かれた説明書きを読み、その中身を改めると、説明書の記述を一字一句逃さず読み切った。そして充分に証拠品を理解した上で、
「先に出してくれないか…?」
 と、征士は酷く落胆した様子で答えていた。それだけ説得力のある物証だったようだ。
 別段伸は考えあって後出しした訳ではない。けれどここまで議論を尽した後だけに、征士には理論の抜け道が思い付かなくなっている。偶然とは言え、認めさせるには絶好のタイミングだった。
「だから普通じゃないって言ってるだろ、内科の医者に行ったけど、よく判らないって帰されたから話してるんだ!」
 こうなると、伸の口調は勢い付いて行くばかりだった。彼に取っては原因不明の不調も、疑わしい検査結果も皆事実なのだから、発言に自信が持てない筈もなかった。
「いや、だが…、確実な結果は出ないと書いてある、鵜呑みにするのは…」
「とにかく!。君にも責任の一端はあるんだからな?、真剣に考えてくれなきゃ困るよ」
 しかし圧倒的な勢いで「責任」などと言われると、何やら不当な悪事を咎められているようで、征士は多少居心地の悪さを感じる。
「…そうだろうか?」
 全く後ろめたい事情がないとも言えないので、返す言葉は皆逃げ腰な響きに聞こえた。
「僕はアメーバじゃないんだよ、ひとりで増えたりしない」
「異常事態ならそれも有り得るのでは…」
「それじゃもっと非現実的だよ!、そんなこと言って逃げる気か?」
 この期に及んでも、どうしても自分に関わる事とは考えられない征士だった。
「いや、そんなつもりはないが…」
 この期に、などと言う書き方は不適切だったかも知れない。思考が止まっているのには訳がある。征士には征士のごく良心的な感覚があり、そこから来る内なる声の主張を、自ら否定することができなかっただけだ。善いと思える己を否定すれば何も残らない、己が己でなくなっしてしまうのと同じだ。
 だから今一度、光輪の征士としての洞察を信じたのだ。

『どう考えても、変だと思う…』

 この世には、理解し難い現象もしばしば存在する。人の構築して来た理論や、人の頭では証明できない物事が、目立たないにしろ、割合多く存在しているものと思う。ただ、だからと言って伝え聞くことの全てを信じるのは、些か軽率だろう。それではまるで、幽霊も吸血鬼も火星人も居ると言っているのと同じだ。
 宇宙的な規模から全てを含む、弛まなく続く自然の法則が存在する限り、節操のない現実はそうそう生まれない、と考える。
「あーあ、大変だ、自分の心配だけじゃ済まない」
 深まって行く夜空を窓に見ながら、征士が考え事をしている横に、伸は歩み寄りながら言った。
 風呂場から軽装のまま歩いて来た伸は、冷え込み始めた部屋の空気に晒され、やや肌寒そうな仕種を見せながら寝室に現れた。だが、話し始めると途端に体温が上がるのか、僅かの内に普段通りの軽快な身振りに戻っていた。話し相手が居るのと居ないのとでは、体の機能状況も変わるらしい。
「君も自分のことと思って考えてくれないと。僕だけが苦労するなんて割に合わないよ」
 椅子に掛けてあった寝巻の上着を取ると、彼は続けてそんなことを言った。一般に言われる通りだが、出産の苦しみを負うのは女の側ばかりだ。今に至ってそんな理不尽さを感じているのだろう。
 否、伸の場合は通常の妊婦の悩みと比べられないが。
「あーこれからどうしよう、産婦人科なんて行けないし、その前に大学はどうしたらいいんだ?。誰かに相談できればいいのに…」
 しかし、伸が目一杯の悩みを口にしていると言うのに、
「考えられん…」
 征士は未だ現状を受け入れていない様子だった。ベッドに腰掛け、それとなく伸の様子を窺ってはいるが、身重の人間を気遣う態度ではまるでない。
「まだ言ってんの、君は当麻ほど理論主義じゃないと思ったけど?」
「うーん…、比較はともかく、突拍子もない事だからな…」
 まあ、伸には何日も前から予感されていた結果で、征士には突然降り掛かった出来事だ。そんな違いを考慮できない訳ではなかった。なので、
「そうだね、僕もさっぱりわからないから、君に理解しろとは言わないけどさ」
 伸は軽く笑いを交えながらそう話すと、
「ただ、本当に子供がいるとしたら、僕はちゃんと産みたいんだ」
 己の中に極自然に現れた感情を伝えた。別段誰であっても、新たに生まれる生命を無碍に、亡きものにしようとは考えないだろうが、伸の場合はそれが特別に、彼の土壌から沸き上がる心のように感じられた。地球と言う惑星には水が存在する。水は全ての生命の源である。彼の魂は太古の海の渾沌にも似た、あらゆる可能性を望める性なのだろう。
 そしてそれは、仲間達の誰もが自ずと得た知識なので、征士も間を置くことなく応えていた。
「伸の意思だけは聞かなくともわかる」
「ははは、そうだろ?」
 考えなければならない事は山程あるのに、伸の語り口調は明るかった。
「いやぁ、僕は自分に子供がいるといいなと思うし、もし君の子供だったら色々解決する事もあるし、何が起こったのか知らないけど、悩んでもどうせ分からないんだから、前向きに考えようと思って」
 だが征士は敢えてそれに水を差した。
「良いように聞こえるが、私は随分な話だと思う」
「え?」
「こうなって欲しいと願えば、その通りになるなら苦労も妥協も要らない。例え普通とは言えない私達でも、そこまで不条理な力を使えた訳ではない。天然の理を離れた物事をそう、安易に受け入れて良いのだろうか?」
 征士に取ってはこの事態が、酷く都合の良い出来事に感じられるようだ。何故なら彼にしても、己の抱える問題を打破できる事件であり、また子供嫌いでもないので、実際にふたりの間に子供が生まれたら、良い事づくめになると想像できた。それだけに悪魔の誘いのようにも感じた。
 良い事、幸福な事、人が何を望もうと構わないけれど、吉事は何かを引き換えにして与えられる、と考えれば喜んでばかりはいられない。
「不安じゃないってことはないよ、そりゃ」
 伸は特に気負いもなくそう返したが、征士は正常でない現実が何かを犠牲にする、そのことの方が恐ろしいと案じている。但し彼が何を思おうとも、土壇場になると肝を据えていられるのが伸だ。
「でも僕は…、変わって行くのが僕だと思ってるからさ。変だとは思っても、どうなるのか楽しみに思うとこもあるんだ」
 彼らしく答えた伸の無謀な程の勇気には、いつも頭が下がる征士だった。否、もし自分に伸と同じ事が起こったら、今すぐ首を吊りたくなると考えていたので。
「実際に…」
 寝仕度を済ませて、ベッドの端に座った伸は更に話を続けようとしたが、
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
 手の届く所に来た彼の、腹部を征士が色々と窺っているので、
「…わかる?」
 と伸は訊いた。勿論既に大きなお腹をしている訳ではない、冗談半分に言ったまでだ。
「わからん。大体何処から出て来ると言うのだ」
「知らない」
 体の構造的に言って無理がある。それすら超越する現実とは何だろう。
「う〜〜〜ん…」
 ただ伸の言った通り、考えたところで判らないのは確かだった。なので征士は、もう余計な頭を使うことは止めにした。
 何が起ころうと、地上の夜は穏やかな静けさを保っている。日々変わらず生物達をその懐に抱いて、密やかな営みの全てを黙認している。夜はいつも優しいと知っているので、征士は趣くままに彼の上に手を侍らせ、彼の肉を噛(は)んでいた。
 理性的な議論を展開する内は遠い体が、触れる程に近くに感じる。近付く度に鼓動は少しずつ速度を増して、上昇する熱の閉じ込められた皮下から、既に汗と吐息が零れ始めている。
「でも、面白い、だろ?」
「面白いかどうか、今は判断できんな」
 弱点を探られるような感覚に息を詰まらせながら、しかし伸はあくまで幸福そうな言葉を連ねていた。彼はもう決定された心の向きを変えない。
「僕は、予感する」
 どれ程、未来の平和な様子を信じたがっているかが解る。
「すごく、可愛い子が、産まれるよ」
「さて、私に似なければな」
「ハ…」
 笑おうとして、伸の声は現実に下された戯れに飲み込まれた。
 今はとても無防備な、素の自分を他人の前に晒している。この行為が、誰からも非難されないのであれば、己の立場に悩む必要もなかった。けれど、男として感じている感覚の全てが、別のものに成り代わることを考えると、伸にも流石にそれは不可解だった。
 人間そのものが変わってしまえば、今と同じ気持でいられるか?。
 変化を全て幸福と捉えるには、余程の度量が必要だと感じる他なかった。



『誰かに聞けるとしたら…』

 その翌朝、征士は朝食を終えた後、ふと思い立ってマンションの部屋を出た。そして地下鉄に乗り新宿へと向かっていた。
 何故今更新宿なのかと言えば。
 そこには嘗て、異世界へ繋がる境界が幾つもあっただろう。征士はそこへ行こうとしているのだ。恐らく妖邪界には、自分達より鎧との付き合いの長い連中が、今も残って暮らしている筈だ。彼等なら起こり得る超常現象について、何らかの見解を示してくれるかも知れない、と彼は考えていた。
 否、本来なら当麻辺りにまず話してみるところだが、伸の自尊心を思うと、迂闊に仲間達には話せない気がした。面白可笑しく茶化されて構わない物事もあるが、切に周囲の調和を願う伸の気持を知って、軽率な行動はできなかった。
 新宿東口に降り立つと、征士は迷わず靖国通りの方向へ歩き出す。過去の当時は囚われの身だった征士だが、後にその場所の知識は仲間達から得ていた。ただ、何処かへ通じているのは確実らしいが、思った場所に出られるかどうかは不明、とのことだ。さてこれから、広大な妖邪界のとんでもない僻地に飛ばされるなど、不運に見舞われなければ良いのだが。
 ビル街に囲まれた路地の一角。征士はその場所に立って、高いビルとビルの間から見える空を見上げた。力を発揮する媒体としての仕事は終えても、恐らく一生を終えるまでの間、己を構成する要素が消えてしまうことはない。だから征士はここに立って何かを感じている。
 何かが見えて来た。
 想像した通路のイメージとは違うが、光る六角形のそれは入口のように感じる。
 ではそこへ、と思った瞬間ふわりと体が宙に浮く感覚。と同時に細胞が飛散してバラバラになるような、存在自体への恐怖が襲い来る。視覚的には何も起こっていないが、己が粉々に崩れて行くのを感じていた。しかしその恐怖感だけを残して、征士自身は希望通り地上から移動していた。



 パキ、パキ、と、枝葉を踏み締める足音が聞こえる。

 誰かが近付いて来たのが判る。
 征士は今、視界が利かない上に非常に窮屈な、箱のようなものの中に閉じ込められていた。何がどうなってそこに入ったのか、どのくらいの時間が経過したのか、などと考えを巡らす前に、立ち上がることもできない狭い空間から、早く外に逃れたい一心で征士は叫んでいた。
 叫んでいたのだが、どうもその声は外には全く聞こえないらしい。近付く足音はその速度を変えることなく、また応答する声もしなかった。万一近付いて来る人物が、己の存在に気付かなかった場合はどうなる?。と、征士が一抹の不安に駆られた時だった。
「…愉快な事があるもんだ、金剛かと思ったが」
 今は酷く懐かしいと感じる、聞き覚えのある声が外から聞こえた。
 そして箱の何処かを弄っているのか、狭い空間にはその微弱な震動が伝わって来た。こちらから訴えることは何もできないが、向こうからは全てが見えているようだ。そして躙り口のような小さな扉が開かれると、漸く外からの弱い明かりが差し込んで来た。取り敢えず助かったらしいと征士は安堵した。
 それは、外から見ると三脚の上に乗せられた球状の物体で、最新型の潜水艇か、小動物の小屋を思わせる造りの箱だったが、征士が開けられた出入口から顔を出すと、以前と変わらない皮肉めいた声色の、緑の髪の男が状況を説明してくれた。
「それは魔物を集める罠だぞ?、螺呪羅が仕掛けたもんだが、人間が掴まったのは初めてだ」
 言いながら薄笑いを浮かべている彼に、征士は返す言葉がなかった。ただ異界へと渡る通路を探していただけだが、わざわざ罠に飛び込んでしまうようでは、彼の言う通り金剛並の短絡さかも知れない。全く間抜けなことだと征士は自嘲したが、
「存外『悪』が抜け切っていないようだ」
 と那唖挫が言うのを聞いて、それにも納得させられてしまった。
「まあな」
 単に鎧の要素の面で、金剛と光輪は危うい存在と見られていたのは確かだ。そして鎧とそれを着る人物は一体のものだった。己の中に悪の種が生まれ易い理由があることを、征士はもう随分前から意識して生きている。圧倒的な力は逆の意味にも発展して行くものだと、古きアフリカの大地にて知った通りだ。
 だが、どれ程注意を払っていても、ある一点に限り、冷静に己の状態を捕捉できなくなる征士だった。無論一点とは伸に関わる物事であり、正に今現在の状態を指していた。征士でなくともお解りだろう、だから彼は侵入経路を誤ったのかも知れない。
「余程の事があったと見えるが?」
 狭い空間から、更に狭い戸口を潜って漸く外に降り立った征士の、珍しく必死な様子を見て那唖挫は言った。それに対して征士は、
「他に聞く宛てがない。それより最初にあんたが来てくれて良かった」
 と正直に答えていた。那唖挫はその返事の意味をやや深読みして、彼が顔を会わせたくない人物を思い浮かべている。
「五月蝿い奴が来なくて幸いだったな」
「いや、あんたの専門分野に近いと思うからだ」
「俺の…?」
 と返して、己に向けられている瞳を暫し窺う。征士の態度からは全く、意思の曖昧さや反意は感じ取れなかった。魔将と呼ばれた者の分野を宛てにして来るとは、何か余程不可解な事件があったのだろう。那唖挫はそう理解して、踵を返すと今来た道を戻り始めていた。
 辺りは竹林が左右から迫っている、天然のトンネルのような一本道になっている。無言で引き返した那唖挫だが、言わずとも後を着いて来いとの指示だろう。征士は彼の親切に感謝しつつ、大人しくその後を追って行った。

 窓の外からは、懐かしい煩悩京の社殿がまだ健在であることが知れた。現在は祈祷をする時、来客時以外は立ち入らないのだと言う。那唖挫の住居はその北西の位置に在って、古来の日本家屋らしい趣のある庵だった。他の魔将達もまた、大体似たような環境で暮らしているようだ。
 さて征士がそこに通されて、広間の囲炉裏端にふたりが着いてから、まだ十五分程しか経過していないのだが…。
「フ〜〜〜ン?」
 征士の事情説明をすっかり聞いてしまうと、那唖挫は口の端だけで笑いながら、含みのある様子をありありと見せ付けていた。
「何か知っているようだな?」
 征士が尋ねるまでもなく、那唖挫は自ら何かを話したがっているように見える。しかし彼は、
「さあ、知っていると言えば知っている、知らぬと言えば知らぬ」
 と、敢えて不明瞭な言い方で返事した。結論を勿体振っているのか、或いは核心の部分は判らないと言う意味なのか、征士には判断のしようもなかった。
「どう言う意味だ」
 そして思い付くまま征士が言葉を発すると、那唖挫は片手に持っていた煙管を置き、腕組みして暫しの間目を閉じていた。答え方を考えていたのか、何かを見極めているようにも見えた。やがて片目だけを開けると、やや渋い表情に変えて話し出す。
「残念だが俺は専門外らしい。いつからだか…、妙だと思っていたこの気…」
 気、と言う言葉を耳にすれば、彼が黙って何かを感じ取っていたのが解る。無論征士には何も感じられなかったが、妙な気配がここに流れ着いていると言うのだろう。そして、
「おい、怪しい術を使うなよ貴様?」
 那唖挫は誰かに呼び掛けるように言った。否、実際に水晶球を通して呼び掛けていた。
『術…?』
 征士ははたと目を見開いた。まるで考えていなかった展開だが、確かにそれなら何が起ころうと合点が行くと。そして術と言えば、その巧みな使い手も容易に想像できた。ただ彼が何の為に、伸に術を掛けるのかさっぱり解らない。だから術とは思い付かなかったのだが。
「バレたか」
 まるでその場に居るような声が、広間の棚に置かれた水晶球から聞こえて来た。征士が想像したその人物に間違いないようだ。事に対して悪びれた風でもないその口振りは、以前の飄々とした彼に相違ない印象ではあるが、
「バレたではないぞ、奇妙な事を起こしやがるから、光輪が苦情を言いに来たではないか」
 那唖挫は募る厭味を色濃く伝えるように、陰に篭った声色でそう返していた。魔将達の間にも色々と、積もり積もった瑣末事から来る因縁があるらしい。
「そりゃまずいな…」
「そこでぼやく前に、貴様は早くここに来て釈明しろ。事と次第に拠っちゃ俺にも考えがある」
「いや待てよ、今行く」
 那唖挫が腰の物に手を掛けたのが見えたのかどうか。ともかく慌てた様子で答えた螺呪羅は、じきにこの部屋へやって来る運びとなった。
「よう久しいな」
 じきに、と思われたのだが、彼はものの数秒の内に姿を現していた。そう、こんな芸当が可能な者と知っていて、疑わなかったのは落ち度と言えるかも知れない。それから、場の流れにそぐわない笑顔を以って挨拶する、その無責任さを感じさせる態度も、征士の気分を害しただろう。
「術とは何だ」
 彼が即座に問い質す姿勢を見せると、
「あ、いや、」
「貴様が納得行く説明ができぬとあらば、我等全ての信用も地に堕ちるんだからな?。神妙にしてもらいたいもんだ」
 那唖挫もまた厳しい態度で螺呪羅に能っていた。何故黙って奇妙な術を掛けたのか、その理由は那唖挫にも解らないのだろう。そして理由に拠っては、罰と言えるくらいの沙汰を考えているようだった。どうも、螺呪羅の術の始末に手を焼いたような故事が、過去に繰り返された経過が窺える。
「あー、解っている…」
 すると観念したように彼は言って、多少弱りながらも話を始めた。
「いや実は…、城を囲む池に、四百年生きている魚がおってな…」
「はあ?」
 ほんの少しばかり話した所で、那唖挫はもう呆れた声を上げていた。音にはしなかったが、征士も全く同様の心境だった。だが話の腰を折ってしまわぬように、那唖挫は一言だけ付け足す。
「でかい鯉のような奴か?」
「ああ。俺が餌をやって大事にしていたんだが、最近すっかり衰えてな。卵を産まなくなってしまったのだ」
 老いた妖魚の状態については理解した。理解したけれども、
「関係のある話、なのだろうな…?」
 征士は最早そう言うしかない。螺呪羅は至極真面目に話しているようなので、下手に怒ることもできないでいる。魚に関する説明は更に続いた。
「その魚は雌だけ異様に体が大きく、雄は皆雑魚と言う感じだ。だがもう何年も雌は一匹しかいないのだ。その雌も老いている、雌の幼魚の姿は見ない。つまり近い内に皆姿を消すことになるだろう。…そう思うと忍びなくてな…」
 そこまで、征士は仕方なしに聞くだけだったが、那唖挫は螺呪羅の動機に気付いたようだった。
「それで?」
 と促すように彼が尋ねると、螺呪羅は簡単にネタを明かしてくれた。
「それでまあ…、転身術を使ったんだ」
「何だ?、それは」
 初めて聞く言葉を耳にして、漸く征士も関心を持つこととなった。
 転身術とは、以前螺呪羅が使った変わり身・写し身等と同系列の術らしい。但し根本的な性質は違う。表面を他のものに見せ掛けるのではなく、見掛けはそのままに中身を入れ替える荒技だった。伝承通りの単純な手法では、人格を入れ替える形で使用するが、その後螺呪羅がかなり手を加えて、より万能に使える術にしたと言う。
 進化した転身術は、形のない魂のようなものだけでなく、物質を入れ替えることができた。その原理は、双方の物体をリンクする「鏡」を作ることだと言うが、術の心得のない者には何のことやらだ。ただ、幻術のレベルで実体の移動を可能にするとは、驚くべき高度な技である。更に入れ替えるのではなく、一方的に取り上げたり、押し付けることもできると言うのだが…。
 それら、術についての基本的な説明を聞き、那唖挫は予想できた結果を言葉にしていた。
「成程、その雌は今卵を持っている訳だな」
「そうだ」
 そして彼等の話が理解できた征士も、事の成り行きを漸く飲み込めたところだった。螺呪羅は那唖挫に答えて、更に最終的な顛末の部分を語った。
「但し何もしなければ死んでいた。だから俺が環境を変えてやったのだ。もう僅かの内に卵は成熟する、その時に術も解けるようにしてある。まあ、ごく短い間のことだ、向こうには多少の不調で済むと考えたが、まさかそこまで調べるとは」
「つまり、実際伸に起こっている事ではない訳か…」
 事態を把握し安堵しながらも、征士は増々複雑な心境になってしまった。
 聞いてみれば、悪意より寧ろ善意が感じられる話だったからだ。嘗ては悪の権化と化していた魔将達が、今は慎ましく小さな生命を見詰めながら、淡々と日々を過ごしているらしきこと。また伸を始め地上の五人に対する、悪意なども全くありはしないこと。双方の事情に於いて妙に安心できたからだ。
 魔将達を微笑ましいと感じたことは、これまでの征士にはなかった。
 だがまだ疑問も残っている。
「ここまでの話は分かったが、何故伸に?」
 征士はより詳細な説明を螺呪羅に求める。元の世界に戻った後は、伸が快く理解できるよう、螺呪羅に代わって説明しなければならない。今は心安い魔将達への誤解を生まぬようにと、征士は注意深く聞こうと言う態度だが、螺呪羅は言葉少なにこう返した。
「単純な理由だ。水滸は水に由来するから、転身させ易いしな」
「ああ…。何だ…そうか」
 結局理由はそれだけで充分だったのだ。水滸については最早誰もが理解している、水棲動物ならば、彼の持つ要素と共生できる部分が多かろう。伸にも充分に納得できる理由になっている。なので、征士は諄く尋ねた自らの行為を、馬鹿馬鹿しく感じて笑いを零した。
「疑いが過ぎていたようだ」
 伸ではないが、信じようとする心が事を解決に導く、それもひとつの道だともう一段理解できた気がした。例え何の確証もなく、現実には有り得ないと思える事象でも、実現させる力とは時代を問わず、信じることから生まれて来たのではないか。
 まあ、今回の結果は伸の希望通りにはならないようだが、征士はそれなりの結論を得て満足だった。ところが、那唖挫は征士の言葉を聞いて、本人とはまた別のことを考えていた。
「ははは、誰ぞやの悪戯かと思ったか?」
 と、肩の力を抜いた様子で笑うと、
「その線も多少考えていた」
「俺もだ」
 征士の返事に更に同調するように鼻で笑う。
「あやつだったら、光輪の子を欲しがりそうなもんだしな」
 真に、那唖挫が始めに言った通り、五月蝿い人物がここに居なくて良かったと思う。何故なら全く関与しない者に、余計な疑いを掛けてしまうところだった。
 征士はここに住む者達について、残された時間をただ彼等自らの癒しとなるよう、穏やかに生きてほしいと願っているだけだ。個人的に多少迷惑な人物は居るとしても、他には害のない存在だと知っている。そして今は同じ記憶を共有する同胞として、ある意味大切な存在と思えるので、無闇に疑いを向けることはしたくなかった。
 そうなる前に、真実を伝えてくれたことには礼を。
 そして魔将達は、遠い後世にも歴史を伝える生き証人として、充分過ぎる時を永らえ続けなければならない。まるで人の業を背負った救世主の歩みのように、彼等の道程は人類に有り難いものとなったのだから、我々は常に死ぬまで忘れずにいるべきだと、改めて征士は思った。
 鎧に関わった全ての命に幸あれ。

 征士は事態を充分に納得すると、術を中断させることもなく、螺呪羅を咎めもしないまま帰路に着いた。恐らくここに来たのが伸でも、結果は同じだったと思われる。また、やって来る時には苦労したが、地上に戻る際には魔将達が力を貸してくれて、容易に降りて行くことができた。
 大して時間が経過していない地球は、まだ午前中の透き通った日射しに包まれていた。離れてからほんの二十分経過しただけの新宿は、特に何の変化もなく人が行き交っている。ところでそこからの帰り道、征士は只管に考え頭を悩ませていた。
『さて、どう慰めたら良いものか…』
 伸が大事に抱えていたのは、実は魚の卵だったと言う事実をどう切り出すか、征士は今迷いに迷っている。けれど案外、「幼魚が孵化したら見たい」などと、彼は平気で言い出すかも知れなかった。
 伸の強さは、如何様にも己を変えられることだから。



つづく





コメント)これで終わりのようでまだ少し続きがあります。
しかし「妊娠ネタ」って、同人誌にはよくあるものだけど、私が書いた話だから絶対外した内容だ!と、もう読者の皆さんも気付きながら読んでた筈(笑)。




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