池の魚
既成事実
#2
FAIT ACCOMPLI



 地球上とは逆に、夕暮れ時を迎えていた妖邪界だった。
 季節感はないが朝夕の変化は存在する、この平穏で退屈な世界から征士を見送った後、那唖挫と螺呪羅のふたりは、那唖挫の庵には戻らず社殿へと向かっていた。確かそこには、祈祷の時と来客時しか行かない筈だったが、ふたりが庭先から来て社殿の正面に立つと、
「もう出て来ても良いぞ」
 と那唖挫は誰かに呼び掛けるように言った。
 今度は水晶球にではなかった。彼の号令と同時に、社殿の奥から次々と見知った顔が出揃って来る。その中から一目散に那唖挫の傍へ駆け寄り、開口一番に文句を垂れたのは、言わずもがな悪奴弥守だった。
「那唖挫!、貴様何を言うか!、俺がそんな馬鹿げた真似をするとでも…!」
 彼が憤慨しているのは勿論、先程までの征士との会話で、那唖挫が笑いながら指摘した冗談について。尚、前に登場した水晶球は、人の居る各所に置かれていて話は筒抜けだった。また実は那唖挫と螺呪羅も、征士が来るまではこの社殿に居たのだ。
 何故なら、
「うっせーなぁこいつ」
 頭に血が上っている悪奴弥守の様子に、秀は呆れた視線を向けながら言った。
「押さえておくのに苦労したぜ」
 那唖挫の庵へと出て行ってしまいそうな悪奴弥守を、秀と共に押さえていた遼が続けた。そう、征士が来る前に妖邪界には来客があったのだ。即ち「普通の人間でない方の」鎧戦士達だった。
「しかし、地上ではこんな愉快な事が起こってたとはね」
 皆から遅れてのんびり歩く当麻が、先程持ち込まれた話題を思い返して苦笑すると、征士の肩に手を掛けてその顔を覗き込む。しかし当の征士は特に、見聞きしたことに動じていない様子だった。事態の進む間終始変わらなかった。
 だが伸は穏やかではない。
「聞き捨てならないよ…」
 と吐き捨てるように言うと、つかつかと螺呪羅の前へ歩み寄って言った。
「貴様勝手に人の体を使うなよ!、いくら大した力を持たないコピーだからって」
 今にも、背中に背負った槍を抜きそうな剣幕で伸は捲し立てる。まあ別の生命として分かたれてはいるが、地上に残る方も己と言える同位体なのだ。兄弟、或いは双児と言っても差し支えない。故に勝手な都合で、道具として使われるのはたまらない。そんな彼の怒りに対し、螺呪羅は後ずさりしながら弁解した。
「いやいや、誰でも良いって訳ではない、この場合仕方なかったのだ」
「どう言う訳だい?」
 しかしあくまで悪びれた様子のない螺呪羅は、やはりそこまでの罪は冒していないのかも知れない。それとなくそう感じた伸は、続けられた螺呪羅の弁明を聞くと、決して喜べはしないが許してやろう、と言う気になっていた。
「水の気を持つ者は他には居らん。呼ぼうにも、お前達が何処に居たかは先刻まで知らなかった。水滸の力は我らの中では異色のものだ、他に宛てもない、物が魚の卵程度なら微力だろうと構わなかった。そんな訳で少々身代わりになってもらったまで…」
 恐らく、もしこの自分に直接掛け合って来たなら、弱った親の抱える卵を孵化させるくらいは、雑作もないことだったと伸は思う。今の自分はそんな存在になったのだから、確かに螺呪羅の宛てにする方向は間違っていない、とも思う。
 今は運悪く、何も知らない「元水滸」に災難が降り掛かってしまったが。
「…あ、そ」
 と、途端に興味を失ったように返すと、伸は些か疲れたように溜息を吐いて見せた。
 結局素質に拠る影響力は変わっても、己の立ち位置は変わっていないと気付かされる。嘗ての少年達は皆、戦う為に必要な破壊的エネルギーの他に、それぞれの個性から生じる、独特の能力を潜在的に持っていた。今はそれが解放され、より使える能力へ増幅した状態となっている。
 そして伸のように、生物に取って有益な能力を持っていたりすると、こんな風に利用されることがあるものだ、と知れてしまった。過去から便利屋的な性格でもあるが、それが能力の面でもそうなっていることに、彼は少しがっかりしたようだった。
 人間の枠を捨て超越した存在となっても、長所短所は変わらないらしいと。
「嫌にあっさり納得したな?」
 当麻が伸の様子を眺め、本来ならもっと言いたいことを言い切るまで楯突くのに、と疑問に感じたまま言うと、社殿の奥から、それまで姿を現さなかった迦遊羅が近付きながら、
「そうでしょう、天空殿」
 と話し掛けていた。そして彼女はこう続けた。
「皆様は以前とは違うのです、人としては比較にならない智恵と、力を得ていることが私には解ります」
 年若い戦士達より遥かに、人間離れした状態での暮しが長い迦遊羅には、単純な人の感覚では捉えられない何かが見えている。少しずつ五人にも、自身と似たような感性が現れて来ると、彼女は暗に説明しているのかも知れない。
 そしてそんな風に、常に理解を助けてくれる者が居てくれるのは、駆け出しの彼等には酷く幸いなことだった。
「そうだな。俺達は…」
 遼は応えるように何かを言いかけて、今は胸に収めてしまった。いつか、己に期待される通りの使役を充分に果たせる、そんな存在に成れた時に真の感謝の言葉を伝えよう、と思ったようだ。
 恐らくその時まで、ここに残る者達も永らえている筈だから。



 元々は城の内堀だった、社殿を囲む池には例の魚が群れて泳いでいた。
 大きな鯉のような、と那唖挫は形容したが、正確には鯰と金魚の中間のような魚で、大きく開く口とヒラヒラ舞う鰭に特徴がある。掛かる夕陽に染められ、光を反射しながら泳ぐ姿はそれなりに趣があるが、特に美しくはなく愛嬌のある顔をしていた。
 そして、目高程の小魚が波のようにさざめく中、一際大きな個体が悠然と泳いでいた。そう、それが唯一生き残った雌なのだろう。
 無論体は大きくとも、知能の低い彼等には絶滅の危機など知り得ない。それは別段悲しいことではない、種の存続など気にせずいられれば、生命はより幸福に暮らせる筈なのだ。そんな事例はこの世に多過ぎる程ある。例えば人間に於ける家督相続など。
 愚者には愚者の穢れなき幸福があり、知能に優れる者は無限の不幸を知ってしまう、それがこの世界のひとつの真理…。
 と、掛かる橋の上から池の様子を眺めていた伸に、征士は静かに近付いて一言、
「可哀想に」
 端からは、何について評した言葉か理解しかねるが、伸には何を指しているか解ったようだ。否、何だったとしても返事は同じだった。
「へえ、君がそんな感傷を持つとはね」
 つまり伸は、ひっそりと姿を消そうとしている魚も、跡を継ぐ人間が居ない家も、長く生き続ければそれだけ苦悩が増すことも、全て同じだと言うのだろう。例えどんな立場に生まれようと、誰もこの世界の法から逃れることはできない。嬉しい、悲しいと言う表現には意味がないと。
 今の彼のそんな見方は確かに、迦遊羅が指摘した通りの変化だと思う。ひとつの星の上にしか存在できない人間の、狭い視野とは違うものを見始めている。ただ、感傷的と言われた征士にしても、心からの言葉を口にした訳ではなかった。
「いや、期待させておいて酷い結末だと思っただけだ」
 地上に残る嘗ての伸の、がっかりする様子が手に取るように判るので。
 いつも、身の周りが押し並べて平和であるように、誰もが酷い悲しみを感じずに居られるようにと、伸は日々気配りばかりしていた。それこそ伸だと解釈する者も居た程だ。そして、新たな知識から悟りを得た今でも、結局個として完全になれた訳ではない。振舞いや話す内容は変われど、我々は誰も本来の自分を忘れていないと、それぞれ自覚があった。
 それ故、同じ物を見る時の、伸の感情は変わらないだろうと征士は考えている。頭の片方では達観を決め込み、一見何にも悩まされていない様子だが、彼の感情はその通りではないと思う。
 だから可哀想なのだ。
「いいじゃないか、あれは人間らしく生きてる僕らなんだし、それ以上の事があっちゃいけないよ」
 あっけらかんと言いながらも、伸の瞳に映るものは変わらず、儚い幸福と悲しみの入り混じる景色なのだろう、と征士は改めて思った。そうでなければ、うっとり眺める程の美観とは言えない、池の魚を愛おしく見詰めたりはしない。第三者としての切なさは、そんな様子を見るばかりで何もできないことだと、今の征士は嫌と言うほど解っていた。
「随分割り切れたものだ」
「フン、どうせ子供なんかいっぱいいるんだからな」
「…そうだが…」

 知識の増大から遥かな過去を知る。我々の子孫と言える者は既に、地上の星の如く散り散りになって存在している。もうひとりひとりを捕捉仕切れないとなれば、自ずと無関心にもなって行く。
 知覚の増大から行くべき未来を見る。時を重ねる毎に可能となる技は増えるが、時と共に不要な過去の記憶は消えて行く。記憶野には限界があり、人格は時の中に固定されて変わらないからだ。

 今はまだ、新たな知識を全て消化し切れていない、駆け出しの戦士の立場に戻っている。
 ただ、人の許容範囲を越える情報が、細かな出来事の記憶を押し出しつつあると知ると、後からはどうにもできない分、その時々の感情を大切にしようと征士は考えた。
 伸ならば、思うともなくそう思っているだろう。
 他の誰かには笑い話のような事件。本人達は何れ忘れてしまうかも知れない、これと言って意味を為さない出来事。だが、それを通して、同じ姿をした二者が共有できた感情は、忘れずにいてあげたいものだった。
『単なる人間のふたりに取っては、最大の夢だったろうに…』
 今は懐かしい過去の自分が、幼く愚かでとても愛おしく見えた。



 今この目に見ゆる彗星の悲しみよ、何れ数多の命の糧となれ。



終  





コメント)06年3月に発行した本を一部加筆・修正しました。
と言うか最終盤は加筆が多いです。元々PCの簡易ワープロソフト1p分くらい、の小説の筈だったのに収まらなくなり、本のページ数が増えて行くのが嫌で、終盤は適当に端折って書いてました(^ ^;。本のメインは人間の征士と伸の方だし。
だからちょっと、人間じゃない方のトルーパーズについて、いまいち訳がわからぬまま終わってました。この本の発行時点では故意に伏せた所もあって、今回は完全版としてのupです。
いや、まだこれでもわかりにくいかも知れないけど、この話単体では説明し切れないので。「鎧伝シリーズ」を読めば普通にわかると思います。

一応補足すると、この時妖邪界に居たトルーパーズは、時間的には「偉大なる哲学」の後に「未来史」と言うシリーズがあり、その更に後の時点のトルーパーズです(笑)。
勿論そんな説明でわかる訳ないけど、ただの人間の征士と伸に取って、「幸福でない王子」がファーストコンタクト、この話はセカンドコンタクトだった、と言う連作でした。



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