戸惑う体育館
21世紀のハレルヤ
#6
Nu Hallelujah



「サンタ」は聖なる、「フランシスコ」はかのフランシスコ=ザビエルのことだ。
 そんな名称を冠した広大な公園は、この町の北西の端に広がっている。他の公園が花壇や噴水を中心とした庭園であるのに対し、ここは公会堂やスポーツのグラウンドが集まる、市民のリクリエーションの為の場だ。週末は近隣の家族連れが多く集まると言う。
 なので、平日の夕方から夜にかけての時間、たまたま空いていた体育館を利用できる状況は、研究者達には幸運なことだった。
 否、今は研究者よりも盛り上がっている集団が居た。
「何の騒ぎかと思ったらテレビ局だ」
 伸がその、慌ただしく器材が運び込まれる様子を見て言った。当麻から詳細を聞かなかったが、撮影器材がまさかテレビ局のものだとは、と、想像との違いにかなり驚いていた。
「地元のローカル局のようだな」
 と続けた征士も、変わった学問に於ける地味な実験、としか認識していなかった為、マスコミ的なざわめきに囲まれるとは思いもしなかった。ざわめきに反して、些か不安を駆り立てられるような状況だった。
 それ程現場は、研究と言うよりショー的な賑わいを呈していた。
 実は、今朝当麻が連絡を取った時点では、テレビ局は何の関わりもなかったのだ。柳生博士は懇意にしている大学から、人員と撮影器材を借りる約束をしていたが、どうもそこから今夜の実験の話が漏れたらしい。午前十時には撮影許可の申し入れがあり、急遽決まったことだった。
 それだけに、誰も彼もが慌ただしく動き回っている状況だった。本来の予定とは違う行動を強いられる中、博士が忙しない口調で秀に話す様子が、ふと伸の目に映った。
「昨夜は特に何も変化はなかったのね?」
 テレビ局が関わった所為か、今日はきちんとスーツを着込んでいる彼女の、胸元に十字架のネックレスが光っていた。用心の為でもあるだろうが、当麻と同様、その効力に疑いを持っているのではないかと思う。いざと言う時の御守りなら、最初は隠しておくのが筋だからだ。
 そして、経過を尋ねられた秀の方だが、
「ああ。言われた通りビデオを回しておいたが、寝てる間は何にも。寝る前も全然普通だった」
 問題なく、ボロを出すとも思えない平常な態度に見えた。勿論彼は、今日の午前の出来事のお陰で、己の立場の危険については安心できた後だ。もうすっかりリラックスしていて、後は言動だけに注意を払えば良い状態だった。それには訪問したふたりも満足だっただろう。
 そんな変化を知り得ない博士は、引き続き秀と、今はまだその隣に座る遼に話を続ける。
「昨日の月を見せた?」
「店を閉めた後に、店のみんなで外に出たんだが、やっぱり何にもなかったぜ?」
 以前の議論にあったが、昨晩のように満月に近い月を見ても何も起こらない、つまり視覚で判断する訳じゃない、それは確かなことのようだった。また、
「そう。遼さんは?。気分の変化とか、何か気付いたことはないかしら?」
「…別に。疲れてたのか、眠くてしょうがなかっただけだな、夜は」
 遼の方は、これまでと特に変わったことはないと言った。ただ今になって、柳生博士には思い掛けない閃きが生まれていた。
「…もしかしたらそれが変化なのかしら…」
 そう、よく思い出してみれば、遼は満月を迎える頃はいつも眠そうだ。仕事が終わるとすぐ眠ると言っても、毎晩起きていられないほど眠いとは限らない。
 それが満月に呼応するサインなのかも知れない、と思った。彼の眠気がどんなサイクルで襲って来るのか、これまで着目していなかったことに、途端に焦りを感じ始める博士。まだ充分な下調べができていない状態で、こんな大掛かりな実験を行うとはタイミングが悪い…。
 しかし彼女の思惑など知り得ない人々は、
「すみません博士、段取りを説明しますんで」
「あ、はい」
 地域の一大ニュースの為にせっせと働き、彼女の関心の向く方向などお構いなしだった。後ろ髪を引かれる思いをしながら、柳生博士はふたりの前を離れて行った。
 そんな光景を暫し、体育館の隅のベンチから眺めていた伸は、
「確証に繋がるデータがある訳でもない、荒唐無稽な話に対してご苦労様だよね」
 などと、多少呆れ気味に溜息を吐く。すると当麻が、
「俺もこの状態はどうかと思う。史学的な発見にはしばしば勘違いがあるもんだ、下手に公表しない方がいいこともある」
 お土産として渡された『さびえる』を頬張りながら、彼にしてもこの状態は疑問だと話した。
 ちなみに伸と征士は別府の町に着くと、すぐに所定のお土産品を買い込み、残った僅かな時間を町の各所に見られる、足湯に浸かることで一応楽しんで来た。食事は駅中の食堂と車中で済ませたと言うから、彼等もまた御苦労様である。
 それはさておき、
「だよねぇ。時々あるよね、『世紀の大発見』とかテレビや新聞で騒いだ後に、よく調べたら間違ってたことが」
 伸は当麻の心配する先を読み、勇み足が不幸を生じて来た歴史を考える。
 勿論中には、注目を集めたいだけの捏造事件もあったが、真面目にその研究に携わって来た者なら、その目に遭う時は不幸極まりない。学問とは謎を解明することでもあり、誰もが未知の分野に取組んでいる訳だが、マスコミには学者のような慎重さは持てないものだ。
 誤っているかも知れない可能性、売名行為である可能性など考え得ることは多くあるが、伝える事の正確さより話題性が優先され、大衆の前で関わる個々の人権は蔑ろにされる。悪心を抱いて出て来た者ならともかく、現代社会にはそんな危険な面がある訳だ。
 だからどうか、この実験によって親しい博士が、世間から非難されることのないようにと、当麻が心配するのは判る話だった。
「どんな分野の研究家でも、それで権威を失墜することがあるんだ。伝奇学なんぞは増々危うい。周りが浮かれてるのが俺は恐ろしい」
 と、当麻が正直な気持を返すと、征士は簡潔にそれに答える。
「他に話題がないんだろう」
 無論そこが静かな田舎町の一番の問題点だ。
「そう、この町の事件は県内の注目を集めている。新しいプロジェクトを掲げたテーマパークでもあるし、それに関連した話題として興味を持たれている。困ったもんだ」
「この町の売りにしたい面もあるんじゃないの?」
「ホラーで話題作りか。ありそうな話だ」
 伸の意見も尤もだと受け入れ、当麻はここに来て最大レベルに悩んでいるようだった。まさか研究目的以外の事で、こんなに煩わしい事態になるとは予想しなかった。それも昨日の今日だ。昨日までは着々と落ち着いた進行だった筈なのに。
 事が不穏な方向に傾きそうで、何やら怖い。
「はい、じゃあここに座って下さい。お連れの方はこちらへ…」
 ふと、事態を語り合う三人の耳に、ひとりの撮影スタッフの声が聞こえた。彼は実験セットの中央の椅子に遼を、その三メートル四方の場の外に秀と柳生博士を誘導していた。
 実験セットと言っても、体育館の床をカラーテープで区切っただけのもので、檻などに入れられている訳ではない。椅子は全て一般的なパイプ椅子だ。ただ、遼はある時を境に暴れ出すと言う。それがどんな性質の行動か不明な為、安全対策として彼は腕に拘束具を着けられていた。当然本人の了解は得ているが、実験の為とは言え痛々しかった。
 それを見て、
「何やら不憫だな」
 と征士が呟くと、話を受けて伸も続けた。
「ホント、まるで逮捕者じゃないか。ちゃんとモザイク処理とかするんだろうね?。もし彼が本当に吸血鬼だったり、逆に全然関係なかったりしたら、彼等は立場をなくし兼ねないよ」
「そうだな…。その辺のことは聞いてなかった」
 伸の指摘したことは、テレビ局との充分な話し合いができているなら、普通に話題に上る懸案だろう。しかし今朝になって突然決まった事に対し、確認作業が足りていない現状は当麻も感じた。撮影後に口を出せるなら構わないが、編集についての取り決めも特に聞かされていない。そして征士が歴史学者らしく、
「都市に比べ地方はむら社会の伝統が残る地域も多い。テーマパークの主旨に反する問題が起こると、後々尾を引くことにもなりそうだ」
 そんな話をすると、ほぼ半分を食べ切った『ざびえる』の箱を置いて、当麻は厳しい顔で立ち上がった。
「ちょっと確認して来る」
「大丈夫なのかよ?、今頃そんなこと言ってて」
 足早に人の集団へと向かって行く、当麻の後ろ姿に向けて伸は呟く。まったく、征士と伸にも予想外の展開だったが、元々研究に関わっていた者達も皆、事態の急な流れに着いて行けないようだ。まあ、テレビ局は目に見えるものを撮影するだけで、作業が時間通りに進めばいい立場だが、研究チームは題材に対し、あらゆる変化に思考を巡らせねばならない。その違いだった。
 とにかく、盛り上がっている吸血鬼騒ぎとは関係のない、否、恐らく関係のない遼とその友人が、「狼男」ならぬ「狼少年」呼ばわりされることのないよう、ここは念を押しておくべきだった。何故なら地方社会はほぼ全員顔見知りが基本であり、人々は明け透けの状態に慣れている。その分ローカル局のプライバシー管理について、甘い点があることも推測できるからだ。
 当麻は打ち合わせをする集団から、一歩離れていた柳生博士を見付けて声を掛ける。そして、
「どんな風に編集するって言ってました?。モザイクや音声変換は?」
 前置きも無く唐突にそう言うと、彼女はやや狼狽えた様子で返した。
「えっ?、今頃どうしたの?。顔は判らないようにすると言ってたけど…」
 しかし、当麻の真面目な表情や緊張感が伝わったのか、その点に何らかの問題があることは、彼女も瞬時に理解した風だった。そこに続けて、
「単なる奇人変人じゃない、彼等が誰だか特定されるのは絶対に避けたい。全身をぼかすとか、高レベルの保護を約束しないと駄目だ。本人もそうだが、証人だって商売があるんだぜ?」
 と当麻は力説する。
「こんな小規模の町じゃ、顔が見えなくても体格や身なりで、何処の誰かを探し出せるかも知れない。元々話題が少ない地域なんだ、誰かが勘付けば噂はすぐ知れ渡る。そうなると本人は勿論だが、証人の方もどの場合も好奇の目で見られる。異常者を匿う変わり者か、或いは人騒がせだと」
 すると、そこまで一気に語られた話をきちんと受け止めた、博士は自ら盲点に驚くように言った。
「そう、だわ。確かにまずいわ」
 何しろ彼女はここの住人であり、この地方のことは、数日前に来たばかりの当麻より知っている筈だった。否、正確に言えばこの町の住人ではなく、県内に元々暮らしている人の地域性である。フォルテ・ポルトガルは外国人を含む新規住人が多く、その地域性にはあまり当て嵌まらないが、町の外からも施設を利用する者は多く来る。彼等の動向も予測しなくてはならなかった。
「個人情報の扱いは注意しなきゃならない時代だ、ユルそうなテレビ局にはしつこく言わないとな」
 と、当麻は最後を締め括ったが、まあこの場合、東京のような大都市に住んでいる者の方が、気付き易いことだったかも知れない。
 彼の前で自身の至らなさに落ち込む、柳生博士はしかしそれに奮起したのか、確と前を向いて歩き出していた。無論撮影スタッフに話を付けに行くのだろう。するとそれまでの、ふたりの遣り取りを遠目に見ていた秀が、
「おう博士。済まねぇな、色々考えてもらってよ」
 と当麻に声を掛けた。彼は今のところ何の不安も持たない様子で、呑気に手を振って見せているが、
「いや…、テレビカメラが来ると知った時点で、一番に話し合うべきだったんだ。今頃慌てて打診に行くようじゃ、こっちこそ済まない」
 下手をすると秀が巻き込まれる事態を思い、当麻は研究班の一員として自然に頭を下げていた。
 仮にも滞在中良くしてもらった相手に、とんだ災難を与えるところだったのだ。故に彼は、寧ろ胸を撫で下ろす心境だったのだが、その生真面目とも思える行動を見て秀は、
「あんた意外にいい奴だな」
 と言った。何が意外なのかは今のところ不明だ。
「ああ?」
「まあ帰る前にまた店に寄ってくれよ?。毎日顔合せてたせいか、あんたらは他人の気がしねぇ」
「はあ…、そりゃどうも」
 続けられた話も、当麻には今ひとつピンと来なかったが、二人組の吸血鬼の良き友人である彼は、秀に取っても安全な隣人と認められたのだろう。つまり騙されっ放しの情けない立場が、相手の優しさを引き出す理由になっている。当麻は知らずにその恩恵を受けるのみだった。
 ただ、その代わりと言う訳ではないが、実験については神経を集中しなくてはならない。
 もうあと三十分ほどで撮影開始時間だった。至って明るい態度の秀とは違い、セットの椅子に座る遼は終始硬い表情で、来るべき時を待っているようだった。恐らくその時が訪れることに、最も不安を抱いているのも本人だろう。今日を境に彼の不安が解消されるかどうかは、神のみぞ知るところだが。
 当麻は何らかの成果が上がることを願いつつ、その後ずっとふたりの様子を眺めていた。



 現在、時刻は深夜零時になろうと言うところ。
 実験の開始から一時間半が経過しようとしていた。体育館の周囲には人っこひとり見えない、疎らな外灯がポツリポツリとあるだけの、公園内は深い暗闇に包まれていた。
 体育館の中では、固唾を飲んで現場を見守る研究者、既に飽きてしまい退屈する照明スタッフ、睡魔と戦うカメラマンなど様々な者が居たが、何よりビデオカメラの前に座る遼が、案の定、十一時にもならない内から熟睡していた。
 左右からライトを当てられ、異常な場の緊張を最も感じていたと言うのに。本人もあれだけ不安そうにしていたのに、あっさり眠ってしまうのはやはりおかしいかも知れない。既に自分の分の収録を終えた秀も、その様子には些か違和感を感じていた。普段なら仕事の後だと納得できたが。
 そして柳生博士はこの、大事な前兆の時を見逃すまいと、今は注意深くメモを取りながら観察していた。
 夜の静寂。深い眠りの静寂。
 果たしてこの後に何が起こるのだろう?。
 真面目な関心を寄せる者は皆、壁の時計の針の動きに注目して待っていた。今十二時を回った。それから三十秒が経過した。一分経過。二分、三分…。
 そしてその時は、十二時六分頃になって訪れた。
 前に秀が話した通り、熟睡していた筈の遼が突然頭を上げ、何かに支配されたような鋭い眼光を見せた。
 一度眠りに就いた体を瞬時に活動状態へ戻すとは、どんなメカニズムなのか、否、もしかしたら単純な眠りではないのかも知れない。ある意味非人間的な、唐突な何かの始まる様を見て、周囲を囲む者達は俄に緊張感を走らせた。
 遼は暫しの間そのまま、じっと正面の空を見詰めて止まっていたけれど。
 二分も経たぬ内にハンドカメラを持つ男が動いた。遼はその場を立ち上がった。立ち上がって、一歩、二歩と前に進んで行く。何処へ向かうつもりなのか、何処かの鶏小屋か?。何をするのか、家畜の血を吸いに?。テレビ局のスタッフ達は今になって恐怖を感じたか、皆器材を構える腰が引けている。
 だが研究者達は冷静だった。
 そして本当の吸血鬼達はもっと楽観的だった。
 遼はそれから、撮影セットの正方形から出るか出ないかの所で、突然蹲り、ガタガタと体を震わせるようにして、次には…

『何だ、これは…』
 誰もが唖然としてその光景を見ていた。
 現実は常に予想外の驚きに溢れているものだが、テレビスタッフも、研究者も、共に生活している秀にさえ、遼の行動は異様なものに映っていた。それは、
「怖い発作だね…」
 と伸が小声で漏らしたように、酷く自虐的な暴走行動だった。一般に精神的ストレスを溜めると、外部に対して攻撃的になる者と、意欲を失くして内に篭る者が多い。しかし彼の心理はそのどちらでもないようだった。彼自身の意識ではないのかも知れないが。
 幾度も手足を床に叩き付けては藻掻いている。不安を拭い去ろうとしているのか、毒に冒されたかのようにのたうち回っている。その内床に頭を打ち付けるようになると、
「自傷行為と言うやつだろうか?」
 と征士が言った。対して、多少医学の知識も持ち合わせる伸の見解は、
「無意識にやってるんだから関係ないよ。人の気を引きたい訳じゃないだろうし」
 と言うことだった。最近しばしば耳にするリストカットなど、言動に表せない欲求をそうした行動に置き換える、根本的原因は周囲の無理解や無関心だと言う。だがそれについて、
「その可能性もないとは言えない…」
 当麻は慎重に考えていた。これと言った答が見付からないので、全ての可能性を否定してはいけない。現在の彼はそんな心境なのだろうが、
「注目してほしがってるように見えんの?。…あれが?」
「う?ん…」
 流石にそう念を押されると、その分野に明るくない当麻の思考は揺らいだ。少なくとも伸の言う通り、他者に対するデモンストレーションではないかも知れない。今の遼には誰の声も聞こえないと言うし、最初から他を排除しているとも言える。会話をしながら新たに当麻はそう考えた。
 また暫くして、
「何処かに行く様子もないようだが」
 征士がそう言うと、同じような行動を繰り返す遼に集中したまま、視線を外さない当麻は返した。
「まだこの状態になってから一時間も経たない」
「それはそうだが…」
「頑張るねぇ当麻」
 伸は多少茶化して言ったが、こんな時の彼の真面目さを誉めていた。何よりそれは当事者とその友人に、印象の良い態度だと思うからだ。
 結果的に遼は何なのか、彼に何が起こっているのか判らなかったとしても、それを理解しようと努力する者が居ることを、知っているだけ心は楽になると思う。古の吸血族の血を引く三人も、今はまだ言えないけれど、いずれ何もかも明かせる時代が来るかも知れないと、遠い夢を見ることがあった。それも皆、興味本位でない理解を示す人が現れて成立すること。
 まだ当麻は、三十五才と言えども若過ぎる。彼の思考がもっと円熟して来た頃には、本当のことを話せるかも知れないと、密かに伸と征士は思っているのだった。
 その日を楽しみにしながら、今は長い目で彼の仕事を見守る。
「でも月に反応してるのは確かみたいだね。何て言うか、原始的な感覚が反応してるみたいだ」
 実験開始から二時間半が経過。これまでの遼の状態を見て伸はそう話した。「原始」と言う言葉を耳にすると、征士はゾウリムシのような生物を思い浮かべたが、それもまた然りだ。サンゴやクラゲは満月の夜に産卵する、海に生息する古いタイプの生物が皆そうだったとしたら、今は人の体内に収まったミトコンドリアも、そんな記憶を秘めているかも知れない。
「原始の…、過去の何らかの血が騒ぐのかもな」
 と返すと、伸はもう少し補足を加えて続ける。
「うん、そう思う。吸血鬼に限らず過去には色んな種族がいただろうし、その遺伝子が巡り巡って、たまたま濃く出る現代人もいるんだろうね。超能力者みたいに」
 設計図もなしにピラミッドを作ったエジプトの祭相や、テレビショーを賑わす霊能力者など、一風変わった彼等の能力は何処から来たのか。それを考える時、あらゆる可能性を持つ遺伝子の組合せが存在し、その根本的物質は地球上に散らばっていることが判る。
 教科書で習うネアンデルタール人など、遺伝的には潰えたことになっている原人達。その他にも骨すら残せなかった、数多くの名も無き生物が存在した。今は誰もその姿形を知る術が無いけれど、より微細なレベルなら話は違う。進化の過程や掛け合わせなどで、他の生物の遺伝子に混じって、その存在の痕跡を現代に伝えているケースもある。
 伸はそんな、目では確認できない歴史に思いを馳せているようだ。
「ああ…。耳が動かせるのも古いタイプの遺伝だと言うな」
 端的な例だが、征士もそう思い付いて納得したようだった。
 遼と同じく古い遺伝を受け継ぐ者達は、そんな風に穏やかに話し合っていたが、それを聞いて当麻は、
「なかなか面白い説だが…」
 と、やはり疑問を口にしていた。そして「今更何を」と感じることを言い出す。
「俺にはシェルショックか何かに見える。見た目だけだが」
 人類学的新発見を期待する身でありながら。
 昔は『塹壕病』と言われた、戦争神経症の名を挙げるほど当麻の目には、伝説の種族のイメージから掛け離れた現状なんだな、と伸は思う。それをある面ではシメシメと思いながら、
「それもそうだねぇ。君の研究分野とは違うけど」
 と答えると、征士もそれに続けて言った。
「私には吸血鬼にも狼男にも見えない」
 勿論それが正解だと説くことはできないけれど。
「どうなんだろうな…?」
「相変わらず往生際の悪いこと」
 そして当麻の思考は、隣に存在する優しい人類の神秘と共に、数多の時空へと散じて行った。

 その後。
 午前一時を回った頃、遼はふらりと体育館を出て行った。何を始めるかと周囲は期待に沸いたが、引き続き彼は公園内の路地や樹木を相手に、自身を痛め付けるような行動をするばかりで、午前三時過ぎには例の茶畑を通り、中華料理店の裏庭へと辿り着いていた。
 その後はこれと言って何も起こらなかった。
 結局彼の行動には、怪し気な薬品も血液も関連がない。鶏小屋どころか野良猫にすら興味を示さなかった。無論人や家畜に噛み付くこともなかった。あくまでこの日一日だけの観察結果だが、本人の健康面の心配と、町中の植物、器物の損壊が気になるだけで、住民を恐怖に陥れる類の行動とは判断できなかった。
 撮影スタッフはそんな彼の後を着いて回って、さぞや疲労を感じたことだろう。研究者達にはこれも大切な記録であり、寧ろここから始まると言ったところだが、テレビ局の目的に沿う、大衆向けの衝撃映像は全く撮れなかった。

 そう、一時はどうなるのかと、慌ただしい撮影状況を不安視していたものの、この日の収録がテレビで放送されることはなかった。



「うわっ、何だ?」
 枕元の電話がけたたましく鳴り出した。
 カーテンを引いていても、既にもうすっかり明るくなった客室。他に誰も居ない部屋への電話となれば、自ら受話器を取らねばなるまい。
 当麻は半ば寝惚けたままその電話に出た。
『フロントです。柳生様からのお電話をお取次ぎします』
「あ、ああ…、はい」
 そして切り替えの間に、棚に内蔵された時計を何気なく見て、
「何だよ、もう十時近いのか」
 現在時刻を確認した。残念ながら今朝はもう、朝食のバイキングは終わってしまったようだ。
 昨晩、初めて行われた満月実験が終了したのは午前四時。空が白んで来た頃には、一連の遼の行動も形を潜め、話通りに大人しく眠るだけとなった。その後片付けなどを済ませ、三人がホテルに戻ったのは午前五時頃だった。つまりまだ五時間も眠れていない状態だった。
 だからと言って、先輩博士の連絡を無碍に断る訳にも行かない。するとスピーカーからは、
『おはよう。もしかしてまだ寝てた?』
「ええ、まあ…」
 同様のスケジュールで動いていた割には、すっきり明るい声が耳に聞こえて来た。いや全く、想像以上にタフな人らしいと、当麻は起き抜けから感服することとなる。そして彼女は本題の前に、協力してくれた彼への労いの話題を向けていた。
『フフフ、お気持ちお察ししますわよ?。明け方まで頑張ったのに、これまでの仮説が裏付けられることは何もないし、がっかりな結果だったものね。私も今朝は起きるのが辛かったわ』
「ああ…」
 がっかりだと言いながらも、変わらず前向きな姿勢が感じられる博士の口調。無論一介の研究者には、実験結果に落胆することなど日常茶飯事、誰もいちいち気にすることはないだろう。だがそうと判っていても、ゲストとしてやって来た者には配慮してくれていた。彼女のそんな話振りを聞く内に、徐々に頭の回転速度が上がって来た当麻は、
「でもまあ、予想とは違ってただけで、彼には確かに何かあると思う。博士も気を落とさず研究を続けて下さいよ」
 と、漸くまともに返事することができた。表面的には変わらない様子でも、人の個々の内面は簡単には測れない。また立場の弱い研究者である柳生博士が、この件を境に苦境に立たされるとも限らない。今回の実験は多少期待外れだったが、何も発見できなかった訳ではないと、同職者としてせめてものエールを伝えたかった。当麻は昨晩からそんなことを考えていたらしい。
 彼もまた、同期、同僚、同業者等の仲間を大切に考える人物だった。だから着いて来たふたりも、良き仲間として長く付き合って来たのだろう。
 そして博士は、彼の言葉を聞くと尚勢い付いたように、
『ええ勿論。伝奇を専攻した時から、風当たりが強い状況には慣れてます!』
「ハハハ」
 最も危惧される事を自ら明るく打ち明け、人の笑いを誘うほどに、逞しさ、否、しぶとさ、図太さのようなものを示してくれた。それなら彼女は恐らく大丈夫だろう。
 ただ彼女の明るさの裏にはひとつ、研究者に取って重要なニュースがあった。それは今朝、まだニュースとして公に報道される前に、柳生博士に直接知らされたことだった。
『それに遼さんは、鶏小屋荒らしとは関係ないことが判ったのよ。昨日の夜、小学校の生物舎が荒らされる事件が起こったのよ。前の三件と同じような手口なんですって』
 ほんの少し関わっただけの当麻にも、流石にそれは嬉しいニュースだった。
「ホント、ですか…?」
 勿論昨晩は、彼と友人のふたりに付きっきりで過ごしていた。夜と言える時間帯の彼の行動は全て知っている。証人も大勢居る。そんな時に、似たような事件が他で起こったと言うのは、実験そのもの以上の収穫だった。
 幸いかな、真面目に取組んでいれば良い事もある。知られた伝説のニュアンスを拝借し、猟奇的な事件を起こし続ける犯人には、多少の感謝も感じるほどだった。
『ええ。だから今後は安心して研究を続けられるわ。元々犯罪に関わる学問じゃないし、身の危険を考えることもなくなるし』
「確かに」
 現状が一気にクリアになったことを知ると、どちらの研究者も自然に希望的な気持になれた。今朝までは呆然とした心境だったが、今は清々しい一日の始まりに思えた。本当に、人の心も世間のあらゆる出来事も、何がどう転ぶかは判らない。だから社会の研究は面白いのだ。
「じゃあ今後も情報よろしくお願いします」
『分かりました。まず最初は精神科に相談してみるつもりです』
「ハハ。やっぱりそこからか…」
 尚、柳生博士は当麻と違い、心の病を疑っている訳ではない。逆に病気でないことを証明してもらうのが目的だ。少なくとも月に反応している、誰かがそう言った通り、遼と言う人は遠い昔の、人類と月との関わりを教えてくれるかも知れない。彼女はそう思っているようだ。
 そしてそれは伝奇学的にも、人類学的にも面白い発見となるだろう。
 拠って、ふたりは今後も友好的な遣り取りを続ける筈だが、その前に、
『ああそれで、今日は何時頃に発つ予定なの?。その前に一度寄ってほしいんだけど?』
「あ、えーと?、ちょっと待って下さい…」
 博士が漸く切り出した本題。当麻としては短い滞在期間を可能な限り、有効に使えるようギリギリの遅い電車に乗るつもりだ。その為指定席にはしなかった。帰りの日豊本線の出発時刻はメモしてある…。
 と、起きてから初めてベッドを降りた時、再び何気なく時計を見て彼はギョッとした。
「って、え?。チェックアウトまで二十分もないのかっ!?」
 後で連絡すると言って、慌ててその電話を切った。折角良い流れで話をしていたところだが、最悪な形で締め括ることになるとは、それも予想外の出来事だった。
 だから人生は面白い。電話口で博士は笑っていた。



「ったく、一緒に泊まってんだから起こしに来たっていいだろ?。いくら俺が寝起きが悪いからって…」
 急いで身支度を終え、乱雑に荷物を纏めて部屋を出た当麻は、エレベーターに乗り込むと一息吐いて呟いた。恐らく向こうの二人組は、チェックアウトまで寝過ごすなんてことはないだろう。余裕があるならこっちの事情を思い付きそうなものなのに、と、やや納得の行かない気持でいた。
 最初から宛てにしていた、と言う程でもないが、この面子なら大体行動の予想がつく。何があろうと規則正しく寝起きする征士、規律やマナーに反することをとにかく嫌う伸。彼等が居ながら、朝食を食いっ逸れる事態になるとは、予想していなかった当麻だ。
 否、夜を通しての実験に参加する予定は、事前にはなかったけれど。
『ロビーにも居ないな?、何処行ったんだ?』
 一階フロアに降りて、まずホールを見回したが彼等の姿は無かった。今日も引き続き天気が良い。朝食時間を過ぎたホテルは明るく静かで、見通しの良いロビーに宿泊客の姿は見られなかった。当麻はフロントに立つと、ついでに従業員に尋ねてみることにした。
「すいません、一緒にチェックインした他のふたりを知りませんか?、何処かに出掛けたらしいんですが…」
「どんな感じのお連れ様でしょうか?」
 そして聞かれるまま、ふたりの外見的特徴を説明すると、フロントの女性は少しばかり妙な表情を見せながら言った。
「ああ、その方々なら恐らく礼拝堂の方にいらっしゃると思います」
 困ったような、或いは含み笑いするような相手の態度は、礼拝堂と言う場所以上に不可解に感じる。
「???。そうですか」
「こちらの礼拝堂の場所は御存知ですか?」
「ああ、はい。どうもありがとう」
 謎掛けを与えられたような気分だったが、当麻は会話を切り上げると、レストランと反対方向の廊下を歩き出していた。まあ、昨日その礼拝堂の内部の様子を伸が、「ポルトガル様式に則った荘厳な感じ」と話していたので、見学しに行ったのかも知れない。と思った。
 その時ふと、
『そう言えば、十字架は博士が持っていたが、ニンニクは試してなかったな…』
 そんなことを当麻は思い出したが、勿論、中華料理店に住み込みで働く遼には、ニンニクなど大した意味もないだろう。



つづく





コメント)あとほんの少しなんだけど、ちょっと入り切らないので次へどうぞ。
このページは征伸と言うより当麻の話になっちゃってすみません(^ ^;。




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