幸せな征伸
21世紀のハレルヤ
#7
Nu Hallelujah



 ホテルの明るい壁の奥に、不思議な存在感を主張する四枚扉。
 その重厚なドアの向こうから幽かに、オルガンの音が漏れ聞こえていた。廊下を歩く途中でそれに気付いた当麻は、「おや?」と思う。世界各国、何処の国の教会もミサは日曜日に行うものだが、今日はまだ金曜日だった。
 何か特別な儀式があるのか、或いはコンサート等のリハーサル、或いは誰かのリクエストかも知れない。
 そうだ、ホテルのサービスをよく確認しなかったが、リクエストなんてことが可能なら、伸辺りは喜んで頼みそうだ。と、明るい思い付きに、当麻は足早になってドアの前へと進んだ。
 周囲は薄甘く埃臭いような、嗅ぎ慣れない香の香りが立ち篭めている。恐らく地中海からアラブ地域で重用される、乳香だと彼には判った。教会の儀式からミイラ作りまで、神聖な物事には必ずと言っていい程登場する香なので、流石に当麻には見当がついた。ただ判るからこそ妙な緊張感も生まれた。
 普通の空間と神聖な祈祷の場を隔てるドア。たった板一枚を開くことに、何となく気が引ける場面だった。何故なら自分は無宗教だし、模範的な生活をしているとも思えない人間だ。なんてことを突き詰め出すと、埒が開かないので、彼は音を立てないようほんの少しだけドアを動かしてみた。
 すると、既に聞こえているオルガンだけでなく、会堂に響く人の声もはっきり聞こえるようになった。
 何が聞こえたかと言うと、
「健やかなる時も悩める時も…」
 当麻は再び「おや??」と思った。フロントの女性は何も言わなかったが、結婚式のようではないか。
 しかし不思議なことに、人の気配が殆ど感じられない。教会なら当事者の他に、神父と楽器奏者と、合唱隊くらいは居るのが普通だろう。些か妙だと思い、当麻はもう少しドアを広げて中を覗いた。
 そして、
『な、何をやってるんだ!』
 荘厳な木彫の聖画の前に、神父と共に並んで立っているふたりを見付けた。
「汝はそれを誓いますか?」
「誓いまーす!」
 と、伸は元気過ぎる調子で答えていた。
 当麻の方は、正に開いた口が塞がらない状態だった。もしやこれが稀に見るホモの結婚式??、とか面白がっている場合ではない。
『もしかして俺が変な気を回したからなのか…?』
 と当麻は、奇行の原因となりそうな記憶を途端に思い出した。否、彼にしてみればとても親密そうだったふたりが、大学を離れた途端に滅多に会わなくなったと聞いて、当時、多少恋愛感情のようなものがあって、後で気まずくなっている状況を考えたのだ。心が若い時期の過ちは、誰でも気恥ずかしく思い返すものだが、会う度にそれではやり難いかも知れないと。
 実際はそれとは多少違う理由だが、事実がどうあれ、取り敢えずもう昔の事は笑い話で済ませたら、と征士には勧めたつもりだった。
 それがまさかこんな次元まで進化するとは…。
「指輪の交換を」
 そんな当麻の焦燥感など誰も気付かぬまま、式は滞りなく進行している。
「それでは誓いのキスを」
 と、親父が告げた時、ずっと向こうを向いていた体の角度を変え、ふと扉の方に視線を向けた伸が言った。
「あ、当麻」
『ギャーーー!』
 ただ目が合っただけだが、何故だか彼は内心叫んでいた。そして概ね冷静な彼らしからぬ様子で、ドタバタとその場を去って行く音が聞こえた。
「何だよ、逃げることないじゃないか?」
 まあ端から見れば、あまり気持の良い絵ではないかも知れないと、伸にも自覚があったけれど。仮にも自分達には最も親しい友人として、その態度はどうなんだ?と言う顔をしていた。
 当たり前だが、今はどちらも三十代半ばの姿をしている。本心では若々しい年代に戻したい筈だが、それは仕方がないと諦めたようだ。いつでも戻れると言っても、外部の知り合いの前で姿を変える訳には行かない。秘密を共有するごく親しい間で、ごく限られた場所でしか真の姿を見せられないのだから、ある意味それ程羨ましがられる体質ではないのかも知れない。
 突出した優位性は、人の社会には害にしかならないと考えるものだ。
 彼等の生への複雑な心境は変わらず、この時代に至っても理解を得られずにいる。
 だが少なくとも昨日からの彼等は幸福だった。同じ苦悩と時間的感覚を持ち得る人が、身近に存在していたことを喜ばない筈もない。
「エール・エール・ザイ、ゴッティン・デール・ホー・ヘー!…」
 神父が美しいテノールを響かせミサ曲を独唱している。
 残念ながらポルトガル語、ラテン語ではなくドイツ語の歌詞だった。一般的にミサ曲や賛美歌は、その作曲者の多くがドイツ、イタリアなどの音楽家で、更に古い時代の曲はラテン語の歌詞の為、ポルトガルでもイタリア語やラテン語で歌うことが多い。そしてここは、西洋文化をあまり区別しない日本だ。
 この際、曲がシューベルトのミサ曲ではドイツ語も仕方ない。考えようによっては、非常にこの町らしい選択と言えた。
 それを面白く耳にしながら、本当に神へと通じそうな天窓を眺めていた伸に、
「イゴー・カーリタース・トゥ・イン・エテルナム」
 突然征士はラテン語で言った。
 オルガンの調べと神父の独唱の中、それは伸の耳にしか届かない、呟きのような小さな声だったけれど。
「あ、何だ、やっぱり話せるんだね」
「唯一残った文化だからな」
 征士の言いたいことは、それだけで充分伸に伝わっていた。
 牙は退化して血を吸うこともない、そもそも血液そのものが必要なくなった。教会や魔除けにも慣れてしまった。具体的には何を以って、古き血統を示すこともできなくなった。
 残せたのは言葉だけ。ちなみに征士が言ったのは、英語ならI love you foreverと言った意味だが、それを受けると合言葉のように伸は返した。
「メー・クオクエ」
 Me too、の意味である。
 正しく結婚式らしい遣り取りを交え、彼等の「結婚式体験会」は一時間少々で終了した。

 そう実は、ふたりはなにも大真面目な意味で、結婚式を挙げたかった訳ではない。この素晴しい礼拝堂の見学を兼ね、ポルトガル式の教会の結婚式とはどう言うものか、是非体験させてほしいと頼んだのだ。殊に伸にはあくまで観光の一環だった。
 故に、本来は教会員が務める合唱隊も居なければ、パイプオルガンの音色を聞くこともなかった。聞こえていたのは電子オルガンで、指輪もホテルの見本を貸りただけだった。まあそれでも、マニュアルにない無理なお願いをした割に、充分サービスをしてもらったと言えるだろう。
 何よりも。
 例え真似事でかりそめの儀式だとしても、ふたりは乳香の煙に浄められ、御神体を戴き、今は人間の仲間に入れて貰えていることを実感し、満足したのでそれで良いのだろう。
 この町には偶然やって来たに過ぎないが、寛容なコンセプトの町と寛容な人々に感謝を。
 私は、僕は一生忘れないだろう、と思った。

 一方その頃。
「まだ開店してないん…、ああいらっしゃいませ博士」
 些か乱暴にドアの開く音がして、振り返った遼はそこに、何とも複雑な様子の当麻を見付けた。疲れている感じもあるし、困った様子でもあるし、腹が立っている風でもあった。遼には知りようのないことだが、恐らくその全てが正解なんだろう。
「よお、ひとりなのか?」
 と、開店準備に忙しい秀も声を掛ける。しかしいつものような反応がない。
「どうした?。あんま寝てねぇんだろうけど」
「昨日はお疲れさま」
 店のふたりは口々に、妙な態度の当麻を気遣って話すが、結局のところ彼の遭遇した事実を詳しく話すには至らなかった。
「お疲れさまも何も…、吸血鬼なんかより恐ろしいものを見たせいで、どっと疲れが出た…」
「はア?」
 それでも一応、親しい友人達の体面を考え、ここでは黙っておくことにしたようだ。何れ町の笑い話になっているかも知れないが。
 まあ、ここに来るまではそんな、驚きと嫌悪感と後悔の混じり合う、ひたすら混沌とした気分だった当麻。だがこの中華料理店の暖簾を潜った途端、不思議と安堵の溜息が漏れた。日頃複雑な話が飛び交う環境に身を置き、この仕事が己の天分だと判っていても、ふと、飾り気のない単純な人間味に触れた時に、ホッとさせられることがあるものだ。
 実験の為に一晩拘束された後でも、嫌味も言わず、変わらぬ様子で声を掛けてくれる人々が居る。
「ああ、おまえ、大丈夫だったのか?、昨日」
 と当麻が、顔やら腕やら絆創膏だらけの遼に聞くと、
「俺?、俺は別に。こんな傷くらいしょっ中だろ?」
「そうか…」
 やはり彼は、内心不安を抱えながらも、人には明るくそう答えていた。
 歪んだ思考を持たない健康さが心地良い。そんな人々に出会えて、否、研究対象となっていたのが彼等で良かった、と当麻は思った。この先、柳生博士が研究を続ける限り、また顔を合わせることがあるかも知れないが、今からその時を楽しみに思えるほどだった。
 また、すっかり気分が落ち着いた途端。
 彼の体は重大な用事を思い起こさせる。店は丁度昼時を前に、焼豚の煮汁や豚骨ベースのスープ、今さっき炊けたばかりの白米の香りなど、様々な食物が存在を主張し合っていた。そう、食べそびれた食事をする為にここに来たのだ。
 思い立ったら、もうすぐにでも注文を出して席に落ち着きたくなったが、まだ開店時間には五分早かった。けれどそれをどう察したのか、
「まあ炒飯でも食ってけよ!」
  秀が見透かしたように笑うと、当麻の口許にも自然に笑みが戻っていた。



 運命の車輪が回り始める、表向きは何事もなかったこの夏。



「あー楽しかった。やっぱり気の知れた友達と旅行っていいね」
 帰宅の途に着き、列車の席に落ち着くと、伸はこの四日間全く変わらぬ軽妙な調子で言った。まあ本当に彼だけは、「研究旅行」と言う名目を全く気にせず、自分のしたいことをし、隠していた目的も遂行したので、今回の旅を最も満喫した筈だった。
 当意即妙の言葉通り、何事も場に馴染んで楽しんだ者勝ちだ。否、自ら旅行代金を払っている分、他のふたりとは前向き度合が違っていたかも知れない。
 ただ往路では、そんな彼に合わせる者は居なかったけれど、今は少し状況が違っていた。
「また近い内に考えよう」
 と征士は返した。ほんの四日前には考えもしなかった言葉が、自ずと口に上って来るのを彼は、自ら爽快な状態に感じていた。如何ともし難い、胸に長く閊えていた物が消え落ちた。偶然そんな心境に到れた彼は幸せ者だと思う。
 しかし、
「俺はもう沢山だぞ」
 対照的に当麻は不機嫌そうだった。否、思えば最初からハイテンションの伸に遣り込められ、最後には妙な遊びに驚かされる始末(結婚式の真実は後に話を聞いた)。中の三日は落ち着いていただけに、始めも終わりも良くない旅行をどう考えて良いか、当麻は判断に困っているようだった。
 目的だった研究についても、予想外の結果に終わってしまった。こんなことならもっと肩の力を抜いて、リクエストの耶馬渓にでも行けば良かった。と、彼は今更なことを考え落ち込んでもいた。
 でも大丈夫、彼の心は頑なな訳じゃない。
 そう判っているので、伸もいつもの自分を崩さずに返した。
「何だよ?、そんなこと言っといて、興味のある事だと絶対来るくせに」
「うるせーな」
「さもあらん」
 仲間内の何気ない信用状態は、この十五年間の宝物だ。
「博士のお土産何だろうな?」
 そして、帰り際に渡された、まるで三人へのお祝いのような包みの、中身を気にしながらも大事そうに伸は抱き締めた。

 世の悩みも死も、いかで恐るべき
 互いに助くる心を賜いし、御神をたたえよ
 ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ…

 不惑まではあと四年。集まればまだ子供のようにはしゃぐこともできる、同じ年の友人達がこの先も尚、変わらず心安い存在でありますように。









コメント)あー。やっと終わりました…。
自ら書き始めたパラレルなら、もう少しハイペースでできただろうけど、リクエストを消化しながら面白い話にして行くのはなかなか大変でした。自分で二十周年の企画としてやったことだから、出来はともかく後悔はしないわ(^ ^;。

そんな訳で、「ラブコメ」「ファンタジー」「2009年」「架空の都市」「征伸」「現在の年令」「元友達」「円満な恋人になる」「やおい」「キス」「旅」「入浴」まで入れられました!。「当秀」がちょっと弱かったのは、ファンの方にはゴメンなさいm(_ _)m。

まあ、楽しく読めるものになっていれば今回はいいです。と思ったんですが、「現代」にこだわり過ぎて、ちょっと難しい話題も多かったかも。その辺は研究者三人の会話だから、故意にそうしたんですけどね…。

関係ないけど書き始めの頃に、吸血鬼をネタにしたドラマを放送してて、ちょっとイヤでした(笑)。別にそこから思い付いた訳じゃ…(第一回のupは放送前だったけど)。

最後に補足。外国語の表記が間違っていたらすみません。調べて書いてますが、発音をカタカナで表現し難い単語もあるので、一般的じゃない読み方のものがあるかも。流石にアルファベット表記は、英語以外は不親切だと思ってのことですが、かなり頭を痛めてしまった。
異国情緒はいいけどラテン語は難しいです…。




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