迫る伸
21世紀のハレルヤ
#4
Nu Hallelujah



「いらっしゃいませ、博士」
 ドアに現れた人物を見て、食事を終えていた遼はすぐに立ち上がっていた。店の従業員として身に着いたものなのか、彼はてきぱきと茶碗を取りに動く。その他の者はただ、明るい顔をした柳生博士を注視するだけだったが、
「早かったですね、もう調査は済んだんですか?」
 と当麻が声を掛けると、彼女の上機嫌の理由も知れることとなった。
「ええ、町役場と近くの大学に人手を頼んだから、予定よりずっと早く終わってくれたわ」
「流石に人脈が広い。いや人徳か?」
 成程、町役場の協力を取り付けたなら、この手の調査は早かっただろう。本来なら警察以外が、事件に関する調査を依頼しても断られる筈だが、多少なりとも町のイメージを左右する事件であり、その住人でもある知られた研究者の依頼と言うことで、調査協力の許可が下りたようだった。
 当麻が人脈を人徳と言い換えたのは、単に社交辞令だったけれど、実際柳生博士はこの町に於いて、『変わった研究をする一方、社交的で世話好きな人』として名物博士になりつつある。住民に人徳あって当然かも知れなかった。
 そして肝心の用件、
「結果はどうでした?」
 と、皆が集まる丸テーブルの、当麻と秀の間に着いた博士に尋ねると、
「ええ。長期間お留守のお宅は見送った結果として、最後の一軒以外は誰も見覚えがない、見当も付かないって結果でした。特にお医者様は首を傾げていたわ」
 予想通りと言う明瞭な口調で、彼女はその結果を話し聞かせた。すると初めて出て来た言葉に対し、
「医者って何のことだ?」
 隣に座る秀も尋ねる。既にその隣の席に戻っていた遼も、俄な関心を持って耳を傾けていた。博士はいよいよ、と言う期待感を匂わせた動作で、『最後の一軒』の住人であるふたりの前に、例の薬瓶を取り出して見せた。
「オーナー、遼さん、おふたりにも見てほしい物があるの」
 ハンカチに包まれた、見た目は特に印象を残すでもない茶色の小瓶。
「・・・・・・・・」
「…何ですか?、コレ?」
 しかし疑われている本人は、その物体が何なのか皆目判らない様子だった。
「何かの薬が入っていた瓶よ、バイアルって言うんだけど?」
 と博士が続けると、秀の方はそれに強く反応して言った。
「ああそっか!、病院で見たことあるぜ」
 これで医者と言う言葉に繋がった。すっきりした、とでも言いたげな秀の態度は、少なくとも過去にこの手の瓶を見たことがある、と示している。ただそれだけではどうにもならない。
「そうなんだけど、これに見覚えがないかしら?。お店のすぐ近くで拾った物なのよ」
 博士はそう続けて、遼にはとにかくこの瓶の記憶を、秀にはどんな物を見たのかを聞き出そうとしていた。
 否、勿論記憶にない可能性もある。遼はトランス時の記憶は持たないのだから、その時出掛けて行って薬を入手するのかも知れない。或いは盗んだ血から、この正体不明の薬剤を作っているとも考えられる。普段の彼はとても、そんな裏活動に従事する人間には思えないが、何が起こっているかは今のところ、あらゆる可能性を考えておくしかない。
 そして、
「俺、歯医者以外滅多に病院なんか行かないし、」
 博士からハンカチごと受け取った、それを間近で具に眺めた遼は結局、
「知らないなぁ…」
 と漏らすばかりだった。まあそれも予想の内ではあった。
「英語も苦手だし…」
「英語じゃないんだけど、外国の言葉には違いないわ」
 アルファベット的な文字全般を英語と思ってしまう、彼のセンスを考えても、この瓶の持ち主とは考え難いと博士も思ったけれど。
「ああ、この町は外国人が多いから、お客さんが落としてったのかなァ?」
「じゃあ誰かが持っていたって記憶はない?」
「う?ん…、分からないな」
 そして、
「昔の歯医者には、椅子の前とかにこんな薬が並んでたような…?」
 一度歯医者と思うと、遼にはそれ以外の映像が浮かんで来なくなったらしい。すると秀も続けて、
「そーゆーの医者が使うモンなんじゃねぇの?。俺も怪我して整形外科に通ってた時、痛み止めの注射がそんなのだった気がするぜ?」
 歯科ではないが、やはり病院のイメージに収束すると伝えていた。勿論それは間違いではないが、そんな当たり前のことを知りたい訳でもない。博士は根気よく質問を続けていた。
「その通りよ、多くは病院に置いてあるものね。飲み薬のこともあるし、自分で注射する病気の人が用いることもあるわ」
 と彼女が説明すると、物珍しそうに目を見開いて秀が言う。
「自分で注射?、覚醒剤みてぇだな」
「そのイメージが先に来るとは嫌な世の中だ」
 思わず当麻が口を挟んだ。否、もう少し社会の事情を知っているなら、とある生活習慣病を真っ先に思い出す人が多い筈だ。恐らくこの店のオーナー、従業員共至って健康な人間が多いのだろう、と彼は思う。
 世の中が覚醒剤騒ぎに沸いている時ならともかく、だ。無論八月上旬のこの時点では、このすぐ後に有名人の薬物騒ぎが起こるとは想像できなかった。
 しかしそこで、当麻と柳生博士は思わぬ情報を得ることとなる。実は秀のイメージは意外に正しいと、伸が現在の医療事情を話し始める。
「でも最近は、自分で打つ人が吸い上げタイプの注射器を使うことは、あんまりないですよ」
「え…?、そうなの?」
「先進国の話だけど、ペン型の自己注射って物が増えてるんです。子供が一人で扱えるくらい安全だし、携帯面でも優れてるから。カートリッジ式と使い捨てがあります」
 因みに、最も使用患者の多いインシュリンと、血友病患者が使う血液凝固剤がポピュラーだ。他に鎮痛剤なども存在する。日本の町工場の技術で、極細の針を開発したことにより生まれた発明品だと、そう言えば新聞で読んだ気がする、と当麻は思い出していた。
 そうなると今時、旧式の注射器で痛い思いを続けているのは、病院に通っている者ではないと言えるかも知れない。それなら博士の仮説が正しいとも、言えるかも知れなかった。
 また、
「それじゃあ、個人でこんな物を持ってること自体稀なのかしら…」
「いや、市販の薬にもたまにこの瓶は見られる。飲み薬だが」
「ああ…、固定観念で何となく注射薬に見えてたけど、経口薬の確率の方が高いのね」
 と、博士は当麻と遣り取りをしながら、注射薬である可能性も捨てようとしていた。まあ吸血鬼なら、元々自らの口で血を吸うのだから、経口薬の方が理に適っているのではないか。と彼は思い、
「そう思う」
 と強く同意を示す。こうしてふたりの博士が、新たな見解に於いて同じ結論に辿り着いた為、以後この瓶は何らかの内服液と考えることが決定した。全くほんのちょっとした状況の変化だが、人類史の研究なんてものは、大体がこんな小事の積み重ねなので、彼等にはそれでも大きな喜びだっただろう。
 求める答に向かって、正にひとつひとつ階段を昇っている感覚だ。
 しかし、それを理解できる筈の征士は、
「単なる風邪薬かも知れない。そんな瓶の葛根湯を飲んだことがある」
 この期に及んでまだ冗談のような発言をしていた。昔から空気を読まない、否、読もうとしない性格だとは思っていたが、こんな時に良い流れを壊すな、と当麻は憎々し気な口調で返す。
「そんな訳があるかよ!、血と何も関係ないだろ?」
 すると今度は、また聞き慣れない語句を拾って、
「血って何ですか?。俺達に関係あることですか?」
 今度は遼が質問を口にした。薬瓶に関する話は、彼等には今ここで初めて話したのだから仕方ない。
「いや実は…」
 血と言う単語を聞いて、何を連想するかは人それぞれだと思う。ただこの瓶には血に関係する記述があり、町の事件を吸血鬼だと噂する声があり、この店には満月に反応する人間が居る。それらの関連性を疑っていることが、彼等に嫌な印象を与えはしないだろうか…。
 当麻はそんなことを考えつつ、問題の薬瓶と血と、この店の住人との関係を丁寧に説明した。真面目な態度で話せば少なくとも、根拠のない推理とは受け取られない筈だと思った。
 そして店のふたりが、これまでの発見と推理の経過を聞き終えると、
「ああ、だから吸血鬼騒ぎと繋がってるのか」
 当麻の意志が通じたのか、遼は穏やかな態度で状況を理解してくれた。と言うか、自分自身に当て嵌まる話なのかどうか、まだ実感が持てていない様子でもある。続けて博士がもう少し突っ込んで、
「偶然この店先で拾った物だから、あなた方に関係があるんじゃないかと思ったのよ」
 と説明すると、ふたりはそれぞれ考え込みながら返した。
「そうか…。でもなぁ…、俺には全然憶えがないなぁ…」
「う?ん、俺も遼も他の店員も、薬自体滅多に飲まねぇんだよなァ…」
 実際秀の言う通り、この店の厨房奥に置いてある薬箱には、傷をケアする薬と用具以外は、市販の一般的な解熱鎮痛剤と胃腸薬、虫刺されを兼ねた痒み止め軟膏しか入っていない。風邪薬すら無いのだから、内服系の薬には殆ど縁がないことが窺える。ふたりが何かしら思い出そうとして、困り果てるのは解る状況だった。
 だがその時ふと秀が言った。
「おい、そんじゃ、遼は薬を飲むと何かの怪物に変わったりすんのか?」
 素人考えならではの、新しい発想にふたりの研究者は目を丸くする。
「えっ、それは分からないわ。…伝説に関係のある事件として研究してるだけよ?」
 まさかそんなB級ホラーみたいなこと、と思いつつ柳生博士は真面目に返している。恐らく事件、吸血鬼、薬瓶と来て、秀が感じたイメージを纏めるとそうなるのだろうが、万にひとつ、その可能性がないとも言えない状況なので、彼女は慎重に考えていた。
 その横で当麻も、
「面白い意見だ、怪物になる薬とは考えなかった」
 単に話を合わせているようで、これまで予想しなかった方向が存在することを意識し、頭を回転させながら続けた。
 場合に拠っては、史学ではなく化学なのかも知れない。否、薬品を飲んだだけで怪物になるなんて例は、世界中の何処にも存在しないが、要は見た目でなく本質の部分だ。体の形状に変化はなくとも、中身が人間的でなくなると言う意味なら、あり得ない話ではないと思う。
 所謂神秘学の領域では、神や悪魔との契約の儀式などと言うものがある。それに使われる怪し気な薬品等が、実際数々文献に残っているのだ。科学的な根拠は否定された物ばかりだが、全て科学で説明が着くとも限らない世の中だ。と当麻は思って、
「満月を見て変化するんじゃなく、満月になると無意識に薬を飲むのかも知れないな。それなら、とにかく明日の実験が重要だ」
 この場での推理をそう纏めた。すると秀は、
「ああ、実験は構わねぇんだけど…。俺としちゃなるたけ早く治してやってほしいんだ。もしホントに鶏小屋荒らしなんかしてたらヤバいだろ?」
 と、何より心配な事情をここで打ち明けていた。研究者達の目的とは違い、彼に取っては遼が何者であっても、恐ろしい出来事に関わっていないことを願う、ただそれだけのようだった。当然それが第一にあって、柳生博士に相談を持ち掛けたのだから。
「ヤバいとも、色んな意味で」
 仕方のないことだが、ふたりの博士と秀の意識には多少のズレがある。だが配慮を怠っている訳ではないと、当麻は注意深く話しているつもりだった。もし事件の犯人が遼ならば刑事罰を受ける上、意識がない時の犯行だとしたら、重度の精神病を疑われるだろう。どの道世間的に聞こえが悪くなること必須だ。
 親しい友人のそんな窮地を見ている、身近な誰かも同時に苦しむことは理解できる。例えばこの旅行に同行するふたりの友人が、遼の立ち場だったらと想像するのは難くない…。
 するとその時、当麻には思わぬ発言が伸の口から飛び出していた。
「ねぇねぇ、君は彼のこと怖くないの?。犯罪者かも知れないんだよ?」
「それは言い過ぎだ!」
 最大限の配慮を、と考えていた矢先にぶち壊しとなった。何だって伸は、こんな時に限って無神経な言い方をするんだ?。お祭り気分で頭が無礼講になってるのか?、と当麻は慌てていたが。
 意外にも、問われた秀の方は、特に嫌な顔をせず答えていた。
「別に…、おかしくなってる時はどう出るか怖えぇけど、元々友達だし、こんなこと今までなかったからな。どっちかっつーと心配なんだ」
 何と言うか、彼もまた遼と変わらない程度に、犯罪と言う言葉がまだ実感できていない様子だった。確かな状況証拠も無い状況だから、それで当たり前かも知れない。名誉棄損だ何だと思う前に、心配や不安が先に立っているのだろうか。
 ところが伸は、そんな秀の態度を見ると、
「すごいね、君は立派だと思うよ」
 と何故だか微笑み掛けて、彼の動じない態度を誉めていた。
「えっ??、そ、そうかなァ…?」
 相手の出方に多少戸惑いながら秀が答えると、
「怖い物知らずだとしても勇敢だと思う、観察したと言う話にしても」
 続けて征士も突然そんなことを言った。確かに、冷静に状況を考えればそうかも知れないが、話の流れの急展開に着いて行けない当麻は、
『鈍感なだけなんじゃ…?』
 などと感じている。征士の方はともかく、伸の意識の向かう先がさっぱり読めなかった。昔から情緒に斑のある人間だと知ってはいるが、突然無神経になったり大袈裟に褒めちぎったり、何を考えているのか解らない。彼流の「飴と鞭」的な言い回しと言えば、それに当たるかも知れないが。
 そして更に伸が、
「友達や仲間の為に無償で働くのは尊いことだよ」
 と、大仰にも感じる言葉を続けると、意外なことに柳生博士も、
「そうね、私もそう思うわ」
 至って普通の様子で同意していた。
 わざとらしいとは思わないのだろうか?。それともこんな場合は多少芝居っ気を交え、判り易く訴えるのが有効だろうか?。順調な聴き取り作業の最後で当麻は悩んでしまった。
 まあ人付き合いの上手さは、博士や伸の方が上手だと認めていたけれど。



 結局薬瓶と事件との関係を現す、決定的な事実は何も拾えない一日だった。ただそれを取り巻く環境については、多少推理が進んだので、当麻も柳生博士もそれなりに満足そうだった。
 その日の夕方は、博士の家に寄って集められた調査報告に目を通し、満月の夜に行われる実験のポイントを纏めた後、午後八時頃、博士の紹介で出掛けた郷土居酒屋でやや遅い夕食となった。
「う?ん美味しかった!」
 そこで漸く、イメージ通りの現地の関アジにありつけた伸は、ふたりの博士の心情とは比べ物にならないレベルの、満足感に達している筈だった。何しろ最初の新幹線に乗った時から、関アジの名称は彼の口に上っていた。ホテルの朝食には見られなかった、タタキとお茶漬けを堪能した伸は、今日はねぐらの心配もなく上機嫌にホテルへ戻る。
 旅の楽しみ方は人それぞれだ。最近では世界遺産を見られるだけ見るとか、御当地物のキャラクターグッズを集めるのが目的、と言う旅の仕方もあるにはある。だが、いつの時代も最も多いのは、各地の名所を巡り名物を食べることだ。伸の行動原理は至って普通と言えるだろう。
 なので、
「食うことばっかりだな、おまえは」
 と言われても、それが何か悪いか?と言わんばかりに伸は答える。
「そう。旅行中は量や味より話題性優先だからね。それに最近、関アジと関サバは偽物が出回ってるって言うだろ?。現地で食べるのが間違いないんだよ」
「…成程」
 聞けば理屈は通っていると知り、文句を付けた当麻も納得するしかなかった。こうした状況に応じた切り換えが、どんな分野でも楽しめる性格の彼らしい、と改めて思ったに違いない。
 否、研究旅行のついでと言う形では、今朝話題に出た耶馬渓など、ここから遠出することは不可能なので、現地の食を堪能する程度しかできないのも確かだが。
 すると、どうと言うことはない帰り際の会話の中、
「ああ、今日は私は…」
 町の外灯に綺麗に浮かび上がる、ホテルの外観が見えて来ると征士は言った。
 私は、と言って、後には何も言わずにホテルのエントランスを見ている。それでも彼の言おうとしている、言い出し難い事情は他のふたりに伝わっていた。
「おや?、今日はこっちに泊まるつもりかな?」
 と伸が顔を向けると、征士は昨晩の当麻への言い訳と同じに答える。
「一身上の都合に拠り」
「何だい…?、まあいいけど」
 妙な理由に伸が笑い出すと、横で当麻も苦笑していた。
「好きにしろよ」
 否、当麻にしてみれば、昨日自分が勧めたことを考えての結論だろうと、状況を喜ばしく感じたに過ぎない。決して征士の様子を笑った訳ではない。ただ、学生の身分を離れて久しい今となっても、親しく付き合える仲間達だからこそ、それぞれが良い関係であってほしいと思うからだった。
 学生時代、当麻の目には、彼等ふたりは異常に仲の良い間柄に映っていた。間に割って入れない何かを感じることもあった。しかし大学を離れると同時に、ふたりは寧ろ自分より疎遠になって行った。専攻分野の違いもあるだろうが、誰かが誘わなければ彼等は会おうともしない。
 ふたりの間に何があったのかは知らない。
 けれど時が過ぎて、また形を変えて付き合えることもあるだろう。と当麻は思いながら、横を歩く征士の心境を窺っていた。
 たった二日で随分様子も変わって来たのだから。

 部屋の落ち着いた雰囲気はそれ程差がないけれど、窓辺の眺めは流石にスイートルームが勝る。遮る物の無い視界は遠くの町の明かりまで見渡せる。バルコニーの一角に設けられた、水の流れる壁面に夜景の明かりがキラキラと反射して、変哲もない町の景色を幻想的に見せている。そんなことまで計算されて作られた部屋のようだった。
 ここは普通の日本の町ではないが、夜となってはその違いを目で知ることはできない。クラスの高いサービスにはそれなりの価値があるものだ。
 と、窓辺に近いソファを陣取って、征士は先程から物思いに耽っている。ホテルに戻ったのは夜十時近く、今日はもう何もできないだろうし、夕食時に飲んだアルコールが心地良いだるさを運んで来た。後は眠りに就く前に、少しばかり頭と口が働いてくれれば良い。ぼんやりそんなことを考えていた。
 何を言いたかったのか、を昨日の晩からずっと探していた。記憶として、映像として思い出せた事ならば多くある。
 普通四回生ともなると、大学にはあまり顔を出さなくなるものだが、何故だか私達はその頃も頻繁に会っていた。家も離れていれば、就職の方向もまるで違う、先行きについて情報交換をしていた訳でもない。何ら重要なことは話していなかったと思う。なのに、暇を見付けては足しげく会い行った。共に過ごした時間は、気楽な教養過程の頃より寧ろ長かっただろう。
 そして不思議なことに、私達は何処までも他人であり友人だった。私も踏み込もうとはしなかったが、彼も常に周囲に一線を置く態度だった。小中学生ではない、大学の仲間とはそんな風であるのも確かだが、私達は距離を感じながらも会いたがっていた。否、それは自分だけの感情だったかも知れないが、言葉にしない何らかの気持を共有していたからこそ、いつも傍に居たのだと思う…。
 ただ当時のことは、未だ明確な言葉で表せない。
 それをどう伝えようか迷っている征士だった。
「どう言う心境の変化かな?」
 その時、バスルームから出て来た伸が彼の方を見ながら言った。ワインレッドに緑の縁かがり、金のアクセントが入ったバスローブは如何にもポルトガルカラーだ。サッカーや五輪大会などの、ポルトガル応援団になった気分が味わえそうな、そしてそのイメージ通り彼は楽し気な様子だった。
「別に、昨日も言ったが、広い部屋の方が寛げるからだ」
「それは分かってるよ」
 無論、伸の異常とも言える陽気さには理由がある。「別に」と言った征士が逃げ出した昨日のこと。
「また僕に訊問されるかも知れないよ?」
 今日こそは本当のことを聞けるかも知れないと、期待に心踊らせるように、伸は満面の笑顔を見せて続けた。昨晩のような怪し気な顔をされるよりマシだが、興味本位の勘繰りはなしにしてもらいたい。相手の態度にそんなことを感じつつ口を開く征士。
「聞かれても何も出ない。だから困ることはない。昨日は疲れていたから退散したが…」
 と彼は答えたが、伸は昨夜と同じ調子で全く取り合わなかった。
「あ、そうか。もう素性がバレたと思って観念したんだ?」
「…何の話だか」
「アハハハハ、この期に及んで誤魔化さなくていいんだよ」
 何故、何処からその自信が生まれて来るのか謎だった。
 伸は征士が吸血鬼であると疑っている。例の薬瓶を見た時の反応を疑っている。まだ何に関わる物か、断定されていない状況にも関わらず、ここまで頑にそれを信じているのは何故だろう?。
 もしかしたら、と征士は気付いた。伸は敢えて明かさないが、あの薬瓶が何かを知っているのかも知れないと。薬品に触れる機会の多い彼だからこそ、それに関する秘密も持っていて当然だ。公にできない事情があると知って、黙っているのかも知れなかった。
 すると、
「君には秘密があるね」
 寧ろ秘密めいて見える伸が言った。そして征士も、
「あるとも。私は話があって来たのだ」
「話…」
 今は伝えたいことがあると返した。訳も判らず逃げ出した昨日。それまでは遠く霞んでいた過去の、断片が蘇りつつあることを聞いてもらいたかった。嘗て私達はとても近くに居たのだと。
 その事実が示す意味は何だったのだろうか?。
 けれど伸は、何故だか征士の意図することを無視して、自分が話したい方に話題を進めるのだった。
「話と言えば、今日は色々フォローしてたね。話題が核心に触れないように、僕に話を合わせたりしてさ?」
「・・・・・・・・」
 彼の態度が解らない。さして真剣味を感じない様子でありながら、しつこくそれについて問い質そうとするのは、野次馬的な性質の為せる業だろうか。彼はそんな性格だっただろうか?、と征士は思う。
 続けて伸は思い掛けないことを話した。
「何の偶然か知らないけど、当麻には絶対言えないね。いや誰に対しても言えないから、君は今も昔もそう言う態度を取って来たんだろうけど」
「何の話をしている?」
「全部ひっくるめてさ。君達に無理矢理着いて来たのもちゃんと訳がある」
 何かがおかしいと思えば。
 伸はただ遊びに来たような振りをして、始めから何らかの目的を持っていたのだ。
 ならばそれは何だ?。博士達と同様の伝説探しか?。それなら何故当麻の行動を笑うのだろう?。これまでの調査や議論にも積極的な様子はなく、聞かれたことに答える他は、時折思い付きのような茶々を入れる程度に終わっている。或いは何もかも知っていて、当麻達の見当違いな行動を笑いに来たのだろうか?。
 彼は何者なんだ?。征士は最早自分の用事など忘れ、この場の異様な状況に固唾を呑んでいた。すると伸は緊迫した空気を躱すように、体の向きを変えてさらりと言った。
「まあすぐに分かると思うよ」
 そしてそのままベッドルームの方へと行ってしまった。
「分かる?、何が?」
 視界から消えてしまった人を追うように、征士は椅子から立ち上がって返す。振り返ると相手は、ベッドの端に浅く座ってこちらを見ていた。
 落ち着いた壁に囲まれた美しい部屋。白熱灯の柔らかな光が彼と、欄間で区切られただけのスペースを独立した空間にしている。そこへ行かなければこれ以上触れられない、言葉が届かないような錯覚をさせている。あまり気乗りはしなかったが、征士は一歩、また一歩と言う風にそこへ寄って行った。場合に拠っては何か、恐ろしい現実を突き付けられるかも知れない、と思った。
 伸のすぐ前まで来て、何気なく隣のベッドに腰を下ろすと、当たり前だが話し易い目線の高さになった。と征士が思った瞬間、それまで身動きひとつ見せなかった伸の、両腕が狙い澄ましたように彼の首周りへと伸び、絡み付いていた。
『殺される』
 咄嗟に感じたまま、征士は身を倒して逃れようとしたが、ふと気付くと伸は首には触れていなかった。両手を顔の横に据え、頭を捉えた格好で間近に見下ろしている。
「…何の真似だ」
 取り敢えず征士はそんなことを言ってみた。悪ふざけでもなさそうだが、何を考えているのか全く判らなかった。襲撃とでも言えそうな突然の行動の後、こんなに身を寄せ、顔を近付けさせる理由は何なのか…。
 そして伸は、征士にしか聞こえない呟くようなトーンで、言葉をひとつひとつ大事そうに言った。
「僕も知らなかった。学部も専攻も違う、出身地も離れてるのに、何故だかしょっ中一緒に居たね。どうしてなのか、当時は気が付かなかったけど…」
 今は無神経に明るい様子でもない。攻撃的な態度でもない。この伸が征士の知っている本当の彼だと、記憶を呼び覚まされる不思議な状態の中、
「君は、仲間だったんだねぇ」
 と伸は続けた。
 そしてニコリと笑った、その顔を見てもまだ征士の思考は止まったままだったけれど、
「秘密を明かすタイミングは難しいね、随分時間が経ったもんだ」
 そう話している伸の顔が、征士の目の前で僅かずつ変化して行った。年相応の風格を身に付け始めた、多少角の丸くなった三十代半ばの顔立ちが、潜る水のように肌の下に後退して行く。後に現れたのは征士の記憶に最も一致する、二十歳前後の彼の姿だった。
 伸は己の中の時間を動かして見せた。それが何を意味するかは考えるまでもない。吸血鬼は不老不死だと、彼自身が議論の中で言った通りだ。
 科学では説明し切れない事実が存在する。そして人の心もまたその範疇だ。
「時間を戻したら、話なんて必要ないんじゃないのか?」
 と伸が問い掛けると、征士は考えるより前に、覆い被さる相手の半身を抱き寄せていた。
 そうだ、本当は話したかったのではない、可能な限り傍に居たかった。可能な限り君に触れていたかった。その感情が何なのかを知らなかったが、今は解る。古の昔からの血脈を守る者として、何処となく自分と同じ気質を感じたからだ。と、今腕の中に居る人を征士は確かめる。
 同時に自らも十五年前へと戻って行った。明かせなかった本当のことを伝える為に。
「もっと、君に触れてもいいだろうか?」
「…いいと思うよ」
 どちらともなく唇が重なった。

 吸血鬼だからと言って、現代は生物的に人間と違う特徴がある訳ではない。満月を見ると目が光るとか、こんな場面に接し合う口の中で牙が邪魔だとか、そんなことは最早あり得ない。何故なら人間同様に犬歯は退化してしまった。
 征士にその記憶はないけれど、彼はエナメル質の硬い感触を与えることなく、自分とは別の個体を確かめて行った。唇から頬へ、頬から瞼へ、そして薄く開いた眼孔に覗くペリドットの透明な輝きを見て、決して自分のものにはならないと思っていた、昔の切ない気持が蘇って来た。
 伸が女性だったなら、難しく考えることもなかっただろうに。
 だが今となってはどうでも良いことだ。どうでも良いと考えられるようになっただけ、この十五年間は無駄ではなかったかも知れない、と征士は思う。
 瞼から額へ、額から顳かみを伝って耳へ、耳の凹凸の形をなぞるように舌が触れると、くすぐったそうに笑い声を立てる、お喋りな唇を征士はもう一度塞いだ。今度はもっと深く、喉の奥に潜められた心からの欲求を探すように、空白の期間を無心に引き寄せ合うように、幾度も絡み合う口の端からは、いつしか唾液が筋となって零れた。
 それを伝って口の端から顎へ、そして首元から首筋へと触れた。征士がその肩口に顔を埋めた時、彼はふと、吸血鬼としてではないが、何かを思い出したように呟いた。
「私が言いたかったのは、」
「ん…?」
 言葉を繋ぎながら征士は、伸の肩から厚手のバスローブを引き下ろして行く。
「当麻が、何か伸に言いたいことがあるんじゃないか、と言って、だが私はなかなか思い出さなかった」
 現れた肩から胸の、滑らかな皮膚の上に右手を漂わせると、徐々に高まり行く体の熱と共に、征士はその鼓動の音を感じていた。
「忘れようと努めていたからだ」
 だが心臓には恋しさが残っていた。
 記憶の大半は脳に存在するものだが、近年は心臓にも記憶が宿ることが知られている。考えても思い出せなかった昔を、あの音楽が、呼び覚ましたとすればそれは事実なのだろう。心の琴線に触れる、と言う表現は正にそのことではないか。
 すると、
「そう、だね」
 軽く息を途切れさせながら伸は言った。
 彼の心臓のニューロンにも同じ記憶がある。彼にも同じ感情があったと知ると、征士には今触れている体がより愛おしく思えただろう。
「だが思い出した。今朝、『雨だれ』を聞いて」
「ああ…、僕も思い出したよ」
 ショパンのピアノ、がいつも聞こえていた喫茶店。学生の溜まり場だった食堂の二階にあって、私達は日を空けずそこで過ごしていた。これと言った用もないのに、否、他の用が無い日はいつもふたりでそこに居た。そのせいか雨の日の記憶が多い。雨が降ると人の行動は大人しくなり、私達は誰にも邪魔されない時間を過ごせることが、嬉しかった。
 『雨だれ』はそんな幸福な時間の記憶。自身の秘密が暴かれることを恐れ、誰からも身を引いて暮らす中で見付けた、最も慰められる時間だった。
「その時の気持も、思い出した」
「うん…」
 そして征士は、より強く訴えたがるように、伸の耳元に唇を寄せて続けた。
「広く浅くしか人と関れないことを、他の友人に対して苦に思うことはなかった。だが伸だけは違ったのだ」
 語調の強さと相まって、脇腹から脚の付け根へと複雑な曲線を辿る彼の手に、多少力が篭るのを伸は感じている。だからそれは本当のことだと思う。
「違うだけに苦しんだ」
「ん…」
「無かったことにしようと思った」
 今は解るお互いの苦悩と、今与えられている感覚への刺激が混じり合い、小刻みに震え、身悶えしながらも伸は正しく答えた。
「ホントは、違うんじゃなくて、同じだったのにね」
 そう、本当に。
 その通りだと今は腑に落ちたので、征士はそこで会話を止めていた。話を止めた代わりに、やや姿勢を変えてもう片方の肩から布を外し、伸のそこに頭を落ち着けた。

 胸の上を啄む戯れの切なさ、腿の内側へと伸びた手は、核心に触れそうで触れない微妙な煽動を繰り返し、じわじわと追い詰められる感覚のみを伸に残す。既に震えが止まらない手足に力を込め、身を捩って堪えようとするも、切りなく昇り来る甘やかな痺れは、戦慄く声も吐息も皆露にさせている。
 もう気付いているだろう、昂る己に、近付いては遠ざかる征士の右手の行方ばかりが、伸の感覚的な意識を埋め尽していた。思考より体の訴えに心が振られる、正に追い詰められ乱れている。溜め込まれていた何もかもをこんなにも、吐き出したがっている自分を知る。代わりに堪え切れず滲み出た涙が、視界と共に意識をも混濁させていた。
 正気ではなくなったのかも知れない。恥じらう気持は何処にも無くなった。否、無意識の内に堪らない、もう待てないと感じた体が勝手に動く。この身を苦しめる脈動の猛りを止めようと、伸は自らの手で体の中心を掴んだ。
 すると、行き詰まった彼の手に優しく、宥めるように手を重ね、征士はそれを解きほぐして行った。偶然なのか予定行動なのかは知らないが、相手の逼迫した状態を察すると、征士は伏せていた身を起こして再度、伸の顔の上に唇を落とす。他の誰も聞いたことのない、彼の欲求の極まる声がよく聞こえるように。
 そして征士は緩やかに解放した。
 絞り出すような喘ぎ声、喉を詰めるような呻きと共に、飛び散った伸の遣る瀬ない感情は、空調の中で上気する肌の上を白く濡らした。
 
 過去にこんな場面に出会ったことはない。こんな彼を見たことはなかった。
 だが彼を見ている自分の、今の気持なら過去にも知っている。
『君が好きだ』
 誰だろうと何だろうと構わず感じていたことが、理に適った心の動きだったと知れば、これ以上の幸福はないと征士は思った。

 息を整えつつある伸の体を抱き締め、もう孤独に苦しまずに居られると言う充足感、八月の飛躍的な幸運をもっと、忘れぬ程に分かち合いたいと思った。



つづく





コメント)いつカップルっぽくなるのこの話!?、と思っていた方も多いでしょうが、そんなことを思ってる内に急展開してやおいです(^ ^;。いやだから、三十六になって元々友達だった人が、普通の恋愛的に恋人らしくなる訳ないし(苦笑)。
リクエストに応える為には、ちょっとファンタジーも交え、こんな形にするしかなかったんですよぅ…。
そしてこの後は、人生を謳歌する征伸になるのです(笑)。
あ、そう言えば、昔仲良くしていた征伸の書き手さんが、キスシーンの唾液が糸引いてるような描写が苦手だと言ってたのを思い出した(^ ^;。他にそういう方もいるかも知れないので、一応ごめんなさいませ…。




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