討論する大学風景
Brand-New Flower
#2
ブランニュー・フラワー



 翌日の大学構内は、春を目前にした木々や草地の所々に雪が残り、些か季節を引き戻された感のある景色だった。大寒を過ぎ、僅かずつ薄着に替え始めた学生の多くが、今日ばかりはひとつ前の服装に戻すしかない、急な冷え込みを感じた春先の朝。もうすぐ年度末と言う時期の大学は、学生より職員の方が忙しなく移動していた。
 学校行事は様々あれど、今は大学の一年の内で最も忙しい時期だろう。入試と入学、卒業、或いは留年に関与しない者には、本来は気にならない行事が続く訳だが、多くの者が慌ただしく動いていると、関係のない者にまで伝染することもある。
 そして、春めいた陽気はまだ遠いと思わせるこんな朝、千石大学文学部の二回生、悪奴弥守は普段に増して陽気だった。
「お早うっ!、螺呪羅先輩」
 大学の正門を潜ると、彼は丁度視界に見付けた、サークル仲間の肩をポンと叩いて言った。
「何だ?、朝から景気がいいな」
「はあ、別に何もねぇけど」
 見た目は多少派手だが、多種多様な人間の集まる大学では、特にこれと言って目立つ存在ではない彼等の、極普通のやり取りが展開されていた。
「もうすぐ春だしな〜」
 そして案の定、悪奴弥守は周囲の雰囲気に乗せられたような、単純な心情を表現していた。まあ、誰もが厳しい冬を過ごし、温かい春の到来を待っているのだから、自主的に乗せられたい気持になってもおかしくはない。
 ただ、彼より一年先輩である螺呪羅は、その浮つき振りに釘を差すようにこう言った。
「落ち着かない奴だ。こっちはおまえが落ち込むニュースがあるぞ」
「あ、何だよ?」
 ちなみにこの螺呪羅と言う学生は、学業の上では目立たないが、大学では知られた情報屋である。このふたりが知り合った大学サークルも、ずばり『ジャーナリズム研究会』と言った。経済学部の学生が中心となって創設された、ジャーナリスト志望者の集まるサークルだ。悪奴弥守などは「何となく」の興味で参加したが、大概の者はこのサークルに魅力を感じて受験するくらいの、伝統と権威のある存在だった。
 但し扱う話題は様々。世界情勢から大学の学食のメニューまで、あらゆる対象が取り上げられ、自由な議論と論評を公平に展開することが、最大のモットーとされている。それでも真面目な組織だけに、どんな話題に於いても、彼等の持つ情報の信憑性は高いと言えた。
 その上で螺呪羅が話すことには、
「伊達君が昨日、かわいい高校生と一緒に居たって話」
「・・・・・・・・」
 それで何故悪奴弥守が黙ったかと言えば、お察しの通りだ。
 尚、彼等と『伊達君』には特別な繋がりはなかった。通っている学部も違う、校舎も違う、そんな状況で伊達征士と言う存在を知ったのは、サークルの情報収集のお陰も多少はある。しかしそれ以上に本人が目立っていたからだ。ただでさえ人目を引く容姿をしていながら、誰にでも友好的で交遊範囲の広い華やかな人物。また高校から学生剣道の優勝を続けている、特殊技能も彼の良い性質を裏付ける要素だった。
 つまり性別を問わず、人の憧れや嫉妬を集める魅力的な存在だった故、大学内で彼を知らない者は居ない程だった。そして他にも幾つか、彼を周囲から際立たせる理由があるのだが…。
 と、悪奴弥守が無言の内に考えていると、丁度彼等ふたりの前、各校舎へと道が分かれる広場を横切って行く、話題の人物その人が現れていた。彼の隣を歩くのは去年のミス千石、三回生の鈴木凪子さんと言う。英文学を専攻する学生で、年齢より大人びた容姿は入学時から評判だった。このふたりは住んでいる家の方向が同じで、征士の車に彼女が同乗することも多く、今日も恐らく通例通りの登校と思われた。
 そう、彼自身が目立つだけではない。彼の周囲には目立つ人間が集まり易いこともあった。勿論彼女の他にも、美女も野獣も、様々なタイプが彼を取り巻いている。それを特に煩さがらない彼なので、この状態がいつまでも続いていると言う訳だった。
 今日もまた、周囲で何が語られていようと変わらない、凛とした様子で大学に現れた彼には、昨日何があったとか、それを誰がどう思うかなど、大して気にしていない風情だった。そのような態度がまた格好良く映るものだった。見ている内に歩いて来たふたりは、校舎毎に分かれて行く道に差しかかり、去年のミス千石は思い付いたように、
「じゃあね、明後日付き合ってよ?」
 と言って目配せをして見せた。
「ああ」
 簡単に返した征士だが、いい加減な約束をする性格とは聞かないので、確認するだけで彼女は安心したように歩いて行った。まあ、そんな誠実さもなければ、学校中が注目する程の人気には繋がらないだろう。
 そして彼がひとりになった後、自分の通う学部へと進むこと約十秒。
「おはよ!、今日は午後の講議も出るんでしょ?」
 声を掛けて来たのは今年のミス千石。同じく学部は違うが、校舎が同じ方向にある柳生ナスティさんは、工学部の奥にある法学部の二回生だ。明るく聡明な彼女は白人系のハーフだけあって、背も高くやはり目立つ人物だった。偶然通り掛かったのか、他の女が去るのを待っていたのか定かでないが、都合良く入れ替わるように現れた彼女にも、
「ああ、そのつもり」
 征士は特に表情を変えることもなく、簡潔にそう返すばかりだった。誤解のないように付け加えれば、彼はいつも誰にもそうであって、決して相手を軽んじている訳ではなかった。そんな情報もまた、大学内ではよくよく知られたことなので、今更彼の態度に傷付く者は無い。言い替えれば征士も、彼に近付く者も、そこまでの執着を持たない人種なのかも知れない。
 目の前を通り過ぎて行った、一通りの光景が建物の陰に隠れてしまった後、
「…マジ?」
「俺の知り合いのバイト先だぜ?」
 悪奴弥守が比較的軽い調子で尋ね返せたのも、征士に関して、くっついたの離れたのと言う話題が、あまりに多く流れる現実からだった。情報提供者は大概がこの先輩、螺呪羅にはもう飽き飽きするゴシップだったが、アイドルを追い掛ける者には、細かな話も全て聞き流せないのが常だと、ご親切にも逐一後輩に報告する習慣になっていた。
 否、単なる後輩への配慮だけではなかった。伊達征士と言う学生が入学してより、二年近くの間の観察から螺呪羅の得たことは、何らかの執着がある者程声を掛けられず、遠巻きになって、端で一喜一憂する立場に追い遣られる現実だった。それはつまり、彼が偶像化され易いのではないかと言うこと、身近な隣人ではなく、本の中のキャラクターのように捉えられていることだ。
 拠って彼を取り巻く環境とは、悪奴弥守の類にも可哀想だが、彼本人にもあまり望ましくないと感じられていた。何故なら彼の味方は何処に居る。嘗てナポレオンが、十の軍隊より新聞を恐れろと言ったように、公に批判を受ける立場となった時、彼の傍に残る者は居なくなるのではないか、と心配に思えるからだ。
 別段螺呪羅は、彼に義理も好意も持ち合わせない立場だった。しかし、後輩の様子を見るにつけ複雑な心境にもなった。だからその行方を観察し続けるのも、学生ジャーナリストの大事な仕事だと今は考えている。凡庸な集団の中に存在する、特殊な人間の扱い方について。

「おいおい、さっきから飛び交ってる話ホントかよ?」
 征士とナスティが、その分かれ場所である理工学部前に差し掛かると、同じ専攻の見知った男子が、早速そんな質問を征士にぶつけていた。前途の通り何しろよくある話題なので、彼の態度は特に嫌味もなく軽いものだった。そしてやはり征士の方も、
「飛び交っている話?」
「昨日おまえ、どっかの高校生と一緒に居たって目撃されてっぞ?」
「ああ…。勘繰られても、今のところ何とも言えないが」
 焦るでもなく淡々と状況を話して聞かせる、その態度からは特に普段と変わらない、つまりそれ程執着する意識のない様子が、誰からも見て取れるようだった。
「微妙な返事ー」
「ナスティ、黙ってていいの?」
 そう、この場合可哀想なのは横に居たナスティだろう。一応千石大学では今、彼女は一番手の公認の存在になっている。その前でしゃあしゃあと他の存在を語られては、幾ら大らかな今年のミス千石とは言え、個人の沽券に関わる問題だと女友達は言う。しかしナスティは仕方なさそうに答えた。
「いいのって、噂話だけじゃ何も言いようがないでしょ」
「そうだけどさー」
 事が起こってからでは遅いのでは?、との言葉を誰も続けなかったのは、柳生女史も馬鹿ではないと、誰もが知っているからに過ぎない。万一酷く裏切られるようなことがあれば、昨今のアメリカ社会に習って法廷に持ち込むなど、彼女の才覚からすれば不可能ではない筈だった。
 まあそれは単なる例え話。
「未成年はマズイっしょ、あんたの場合犯罪っしょ?」
 それもまた飛躍し過ぎな話。こんな冗談も度々聞かれるものだから、征士も真面目に取り合おうとはしないけれど。
「あのなぁ」
「それ言ったら羽柴はどうなる?」
 他の男子がふと別の対象を口にした時、丁度その当人がそこへやって来て、途端に何やら楽しそうに近寄って来た。
「何、何、俺がどうした?」
「いやぁ、伊達君にもうすぐ三人目が復活する話ぃ〜」
 ところが、さも面白い話題を嗅ぎ付けた風にやって来た、当麻はスッと関心の色が褪せた様子を見せる。
「ふーん…」
 自分のことを噂されていると思ったのか、或いはその前のやり取りが気になったのか、とにかく彼は詰まらなそうな返事だけで、他には何も言い出さなかった。大学内で羽柴当麻と言えば、情報屋に匹敵する情報収集力のある男として、ある意味畏怖の目で見られる存在だったが、この反応は一体何だろう?。
「あれ、興味なさそう」
 すぐ横に居た女子が不思議そうに声を掛けると、
「フン。征士には三人だろうが十人だろうが同じだろ」
「羽柴君…」
 何故だか不機嫌そうに当麻は答えた。ナスティに気を遣う女子の心情など、これっぽっちも考えていない風だった。そして征士にはこう続けていた。
「いいかね君、恋人とはアクセサリーじゃないんだよ?、無節操は身を滅ぼすと思うな、俺は」
「…御忠告痛み入るよ」
 何故当麻がそう突っかかる態度なのかは、事情を知る者と知らない者が居るようだった。周囲を囲むそれぞれの表情から判断できる。実は、彼等は入学当時は大変仲の良い友達だったのだが、一年時の終わり頃、今から丁度一年前になるが、意見の違いから友達とは呼べない間柄になってしまった。その切っ掛けがつまり、征士が野放し状態で、周囲に人を侍らせている事にあった。
 恐らく彼等は気質の面で、波調の合う者同士だったに違いない。見ず知らずの者ばかりの大学で、数日の内には友達らしい付き合いができていた。また当麻の場合は特に、相手が自分の話し相手として不十分と思えば、長く付き合おうとも思わなかっただろう。それだけ、征士が何らかの面で優れていることを認めていた、認めていたからこそ怒っているのだろう。
 馬鹿な人間ではない筈なのに、事実起こっている事は筋が通らないと。己のプラスになる相手を見付けるだけの事を、必ず不協和音を生む集団にして来た過去。
 当麻はそれが理解できなかった為に、征士とは一線を置くようになった。どちらかと言えば静かな環境を好む当麻には、征士の所に入れ替わりやって来る、外野の存在が煩かったのも確かだ。
「フヘヘ、羽柴先生、自分が幸せだからってまぁ」
 しかし、当麻もまた周囲にからかわれる通り、一から十まで模範的とは言えない人物だった。
『おまえだってなぁ、恋人はお母さんではないと言うのだ』
 征士は敢えて言葉にはしなかったが、集まる同学部の者には知られたことだ。
「今日も豪華三段重ね弁当だー」
 そして話が振られれば、気前良く自慢の弁当包みを見せてもくれる、彼は確かに今とても幸福な状態なのだろう。望むことが満たされている状態なのだろう。誰もがそう思えたから、これ以上突っ込みを入れる者は現れなかった。何れ時が経てば、嫌でも波風が立つ時はあるのだから、今わざわざ彼の気分を害することもないと。
「いい彼女ね〜」
「だろだろ?」
 また、どちらかと言えば当麻と彼女のことより、当麻と征士の雰囲気が悪いことを案ずる者の方が、ここには多かったようだ。とにもかくにも、工学部の二枚看板と言えるふたりなのだから。



「…だからこの時間に抜けてるんだ」
 一時限目と二時限目の間の、十分程の休憩時間になると、昨日から秀は必死の形相で外に飛び出して行った。昨日は朝から下校後まで、色々あり過ぎて理由を聞きそびれた伸だが、今日は秀が教室に戻った直後に会話できる余裕があった。
「そ、あいつ痩せてんのにすっげー食うんだぜ?。まあ俺も食いモン好きだし、自分の弁当のついでだからいいけどよ」
 と締め括った秀の話からは、登校時間の合わない当麻がこのタイミングで、車で寄って弁当を受取っていることが判明した。成程、相手が大学生だからこそ生じるタイムラグがある。けれど大学生だからこそ、今の自分には考えられない手段が使えるものだと、伸は少なからず感心もしていた。
 何故ならただ弁当を渡すと言うだけで、スリリングなスパイ映画を想像させたようだ。人目を気にして、時間を気にして、多少の苦労をしながら日々渡りを付ける。後々心に楽しい経験として残るような、素敵な日常だと伸は素直に思う。多くが経験することではないから、尚羨ましく楽し気に見えるのかも知れない。
 間もなく二次限目の始業のベルが鳴った。それ以上秀とは話せなくなってしまったが、伸はひとり、
「お弁当か…」
 と呟いていた。考えてみれば、恋愛話にはよくよく登場する名称だった。食べる事、眠る事、他人を求める事は、本能的欲求の同一線上にあると聞いた。だからそれが効果的なのかも知れない、同位の欲求を満たすことで、他がカバーされることがあるのかも知れない。大した人生経験は持たない、単なる高校生の伸ではあるが、彼なりに精一杯の考えを進めていた。
『料理は割と得意なんだ。でも食べ物には好みがあるから…』
 無論昨日出会ったばかりの、二時間にも満たない会話だけの相手では、判ることなど極僅かなものだった。食べ物の好み以前に、何処に住んでいるかさえ伸は聞かなかった。大学へは何で通っているのか、何時出掛けるのか、休日は家に居るのか。こんなにも基本情報の足りない内から、思案することではないようにも思えて来た。
『食べ物…』
 昨日、お洒落な喫茶店のテーブルに並んでいたのは、ミントンの鮮やかな花のコーヒーカップ、水の入ったゴブレット、砂糖の入ったポットとスプーン、使われなかった金の灰皿、メニューと伝票スタンド。凡そ食べ物のビジョンは見えて来ない。
 丸テーブルの向こうに、慣れた様子で寛いで座る人の、シャツの襟や袖口が綺麗に整っていたのを思い出す。単にきちんとしているだけではない、安物は洗濯すると途端に糸が出て来たり、形が崩れてしまうものだが、良い物を選んで着ていることも見て取れた。そう言えば履いていた黒のショートブーツが、雪を弾く程綺麗な光沢を見せていた。車の中にあった鞄は、タケオキクチの新しくはないモデルだったが、丁寧に使われている様子がありありと伝わって来た。
 とにかくあらゆる部分に真面目さを印象付けていた。
 物凄くお洒落とは言わない。否、彼のような人物は何を着せても様になるだろうが、服装から見える生活態度、人への気遣い、話した内容、物腰、どれを取っても文句の付けようがなかった。何と言うか、人間を見ている気がしなかった。人間臭さと完璧さとは相反するからだ。
 そして、
『似合わない…』
 と伸はひとつ溜息を吐く。「弁当」と「伊達征士」は今のところ、伸には結び付かないイメージだった。都市部の大学周辺には普通、学生目当ての小奇麗なレストランが、軒を連ねていたりするものだ。そんな場所で優雅にランチでも摂っている、そんな絵なら想像することもできたが。
『もうちょっと何か聞いておけば良かった…』
 求められた返事をする前に、何か自分らしいアプローチをしてみようと、折角思い付いたお弁当案だったのに…。

 二時限目が終っても、伸は暫くぼうっとして在らぬ所を見ていた。すると背後から突然秀が、その首を無理矢理前に向かせてこう言った。
「おいっ!、伸っ!、もう過ぎた事なんだからなっ!」
 彼が何を言い出したのか、暫しの間理解できなかった伸だが、ふと耳に聞き覚えのある声が掠めた。目だけを動かして見れば、教室の前の廊下にあの真田君が居るではないか。クラスの学級委員に何かを渡して話す様子は、普段と何ら変わらない彼だった。秀はそれを見付けて、少々乱暴に気遣ってくれたのだった。
 しかし伸の答は、
「…僕はもう気にしてないよ?」
 それで偽りはなかった。否、全く思い出さないと言えば嘘になる。
『同じ失敗を繰り返しちゃ駄目だ』
 事ある毎に、そんな考えが頭に浮かぶ度にいつも、彼のことを思い出すのは確かだった。勿論昨日の今日である。簡単に忘れてしまえる程度の思いなら、今がむしゃらに藻掻く伸も存在しなかった。真面目な思いだったからこそ、良い思い出に変えなければならないと思う、必死に道を模索している。どうしたら物事は上手く行くのだろうか、と。
 何もないまま時間を進めるのは駄目だと知った。
 でも突然始まるのが良いとは、決して言えない。
 もう少し知りたい、何かを知りたい、何か、最も大切に思える事。
 ほんの少しだけでいい、大切な何かを垣間見る事ができたら…。
「…あっ、そうだ、秀」
 その時、伸の頭にはふとした名案が閃いていた。
「ね、近い内にさ、大学見学に行ってみようよ?」
「ん?、見学…?」
 すると突然明るい顔をした伸を見て、一旦は目を丸くした秀だったが、言われてみれば興味を持ちながら、足を踏み入れたことのない未知の領域だと、伸の提案にはすぐ合点が行ったようだ。
「そ、そう言や」
「僕ら来年は受験だろ。志望校とか言って、学力と学部だけで一応決めてるけど、大学がどんな所かはあんまり知らないんだよね」
「そうなんだよなぁ〜」
 秀に取っては、あまり耳にしたくない言葉のオンパレード。しかし避けては通れない、高校最後の年はもう目の前に迫っていた。どの道誰もが同じ不安を抱えながら、大人しく過ごす一年になるだろう。ならば確かに伸の言う通り、何らかの明確なイメージを掴んで、目標にするのは得策かも知れない。それが楽し気で明るいイメージなら尚更、この先の励みになることだろう。
 そうだ、前向きに考えれば良いだけの事だ。
「よっし、じゃあ当麻に頼んで案内してもらうか!」
「うんうん、僕からもお願いするよ」
 そして秀の意識が瞬時に変わったように、伸もまた彼の笑顔を見て勇気付けられていた。何事も前向きに考えようと。
『今度はまず自分が動かなければ』



 東京の某私立大学は、会社社屋等ビジネスビルが連なる外堀沿いの、桜並木が臨める景観の良い場所に在った。まだ東京の開花宣言は出ていないが、もう間もなくそれを予感させる花の蕾が、薄曇りの都会の空に揺れていた。
 伸の提案した大学見学が実現したのは、話が出てから一週間後のことだった。
「えーと…、君、名前何だっけ?」
 大学の門の前で待つふたりの所に、約束より数分遅れて姿を現した当麻。特にそれを謝りはしなかったが、やって来た彼の陽気な態度からは、案内役自体を快く引き受けてくれたことが窺えた。
「毛利伸です…」
「いつも『シン』って呼んでるだろが」
「ああ!、名前は憶えてた、姿が一致しなかっただけだ」
 それにしても、三回会っているのにまだ憶えてもらえないとは。自分はどうも印象が薄いところがあるようだ、と、伸は出会い頭にまずがっかりしていた。否、秀の彼氏なのだから、自分に関心を持たれても困るけれど、彼が憶えられないなら他の誰でもそうだろう。誰に対しても、記憶に残り難い存在だとしたらあまりに淋しい。
 そして伸は大学のキャンパスに一歩踏み入れて、愕然としてしまった。
「大学生って、大人っぽいね…」
 行き交う学生達は、町中を歩く社会人とそう変わらなく見えた。化粧をしてハイヒールで歩く女性達、海外ブランドのバックやアクセサリーが、構内のあちらこちらで目に付いた。服装はそれぞれ、中には自分と大して変わらない身なりの者も居るが、中身の人間はあまりに掛け離れていた。高校生のふたりからすれば「おじさん」と称して、特に違和感のない風貌の男子学生。
 ひとつ、ふたつしか違わない年令の生徒も居る筈なのに。
 こんな人々に比べたら、自分など全く子供の部類だと。
「ホントだなー!」
 同様に目を見開いていた秀が言うと、
「確かに高校とは随分違うな。決まった年の学生ばかりじゃないし、色んな奴が出入りしてるからな」
 当麻は自分が大学に来た頃を思いながら、そんな説明をしてくれた。誰でも高校から大学に上がった当初とは、その目新しい雰囲気に圧倒されるものだった。
『考えられない…』
 伸はすっかりその雰囲気に呑まれてしまっていた。まあ、飾り気のない制服に統一されて、同年代の集団で過ごす中学、高校の生活の中では、己を表現して歩く機会も少ないだろう。大人であることの定義として、学ぶ分野も、着る物も皆自身が選択する意味に他ならない。慣れてしまえばどうと言うこともないのだが、今の伸には、人間として張り合えないような不安ばかりを与えていた。
 ここは独立した大人の世界である。或いは独立しかけた学生の場所である。そんな場に身を置く立派な人々が居る。何れ自分のその仲間入りをするだろう、けれど、問題は未来にあるのではなかった。今の自分とそれらを比較した時、どちらが彼に吊り合うかは明らかに思えた。今の自分に何か、大学生達より優れた部分があるかと言えば、思い付くことは何も無かった。
 何度か会っているのに憶えてもらえない程度の存在。
 事が起こる前に結論が見えてしまったようで、伸は落胆するばかりだった。

 正門から真直ぐに続く、キャンパス内の表通りは午後になって、暖かな日射しに照らされ始めた。今朝方は小雨の予報に溜息した筈が、見学ついでにハイキング気分の散歩の趣になったのは、予定外の楽しいシチュエーションだった。秀などは早速歩き食いを始めていたが、カトリック系の大学の建造物は、一見するだけでも興味深いディテールに溢れている。伸にはちょっとした旅行のように感じられた。
 当麻の案内で広い大学構内の構造が判ると、大学とはどんな機能をし、どんな活動をしているのかが、少なくとも伸には大体理解できて来た。中央の講堂には礼拝堂も存在する。各学部の巨大な校舎群と、実験施設や図書館、資料館、食堂と購買部、事務員専用のビル、運動部の施設と広大なグラウンド。高校に存在するものとそうでないものを見るにつけ、ここは学校と一般社会が入り混じった、中間的な場所のように思えた。
 歩く人も学生ばかりではない。教授や講師の他に、何処の何ともつかない者がしばしば見られた。そもそも学生も、ここの学生なのか友達が遊びに来たのか、判別しにくい集団が多く居るようだ。閉鎖的な高校に比べあまりにも開放的で、同じ学校とは考え難い雑多な人の行き来。
 そんな様子を横目にしながら、三人は大講堂の丁度裏に当たる、中庭の広場へと出て来たところだった。
「騒がしいな?」
 最初に異変に気付いたのは当麻だった。勿論普段の様子を知っているからだが、後を付いて歩いていたふたりにも、その人集りの異様さには気付いていた。しばしば耳に聞こえて来る、悲鳴に近い女性の怒鳴り声と、それを囲む人々の神妙な様子。すると彼等の方へと歩いて来た、ひとりの学生らしき男を呼び止めて当麻は尋ねた。
「何かあったのか?、あれは」
 それは情報屋と名高い経済学部の螺呪羅だった。運良く信用ある相手に会えたものだ。大学では有名人の類である当麻には、誰もが知り合いのように話してくれるけれど。
「ああ羽柴、いつものやつ、千石大学名物でしょ」
「名物?」
 螺呪羅はやや含みのある言い方で笑ったが、当麻にはすぐに思い付けなかったようだ。何故思い付けなかったか。それはあまり考えたくない事だったからだ。無意識に頭から排除しようとしている、大学で起こるある現象のこと。螺呪羅は恐らく、当麻の反応も予想していて、故意に遠巻きな言い方をしたようだ。
 ある時から離れてしまった大学のアイドルについては、色々知っていることがあるからだ。
「名物だよ、伊達君の彼女のバトルロイヤル〜」
 と、彼は冗談のように返しながらも、暫し当麻の表情を窺ってからその場を退散して行った。しつこく問い質そうとしないのは、特にそれ以上の関心はないと示しているようだった。ジャーナリズムとは出歯亀ではない。無論他人の世話を焼く行為でもない。その辺りを勘違いされたくないと言う、研究会員のプライドがあるのだろうか。
「なあ、伊達って当麻の友達だろ?、金髪の」
 長髪ウェーヴに些か変わったファッションの、妙な学生が去ってしまうと早速秀が問い掛けていた。当麻の口からその名前はしばしば耳にしていた。勿論先週の雪の日に、当麻を追い掛けて来たのが彼だとも憶えていた。それなりに親しい人間だと認識している。しかし、
「友達と言うか…、言ってみれば好敵手だよ。友達として付き合うには、ちょっと折り合いの付かない所があってな」
「何だそりゃ?、何かあったのか?」
 当麻の答には引っ掛かりを感じた。秀の理解の上では、当麻と言う人は基本的に誰をも嫌わず、誰を贔屓にもしない、損得を計算した上での中庸を貫くような、立ち回りの頭の良さはあると思われていた。けれどどうしたことか、今の発言からは自ら敬遠する意思が見える。普通に『友達』と言えないのは、過去に何かのトラブルがあったことを思わせた。
 だが、秀に問われたからと言って、それをすんなり話す訳でもなかった。むしろ当麻は尚不機嫌そうな口調でこう続けた。
「別にぃ。俺には何もない。つまり奴は常にこうなんだ、いっつも複数の彼女が居るから、こんな騒ぎもよく起こってなぁ。非合理的だろ、楽しい筈の付き合いをわざわざ災難にして。俺は呆れてるんだ」
「ふーん…、信じらんねーヤツだな」
「・・・・・・・・」
 秀は今ひとつ理解が及ばないまま返すが、伸は当惑したまま黙っている。否、心の中では考えていた。
『何か変な話し方…』
 既に、聞かされた様々な事実関係にはもう、仕方がないと諦める以外になかったけれど、伸の耳には征士が非難される内容より、当麻が何を思っているのか、その方が気掛かりに感じていた。秀同様、それなりに親しいと思われた間柄のふたりには、割り切れない何らかの事情が存在しているらしい。そんな状態は別に珍しいことではないけれど。
 ただ、相手のことをかなりよく知っていながら、敢えて非難するのは何故だろう?。それでも心底憎む感情や、全く相手にしない態度は見せない。最後にはどうしても突き放せないような、その理由は何だろうと考えていた。
 そんなすっきりしない状態で、暫し立ち話をしていた三人が聞いた声。
「引率遠足か?、当麻」
 振り返ればそこには渦中の人が立っている。騒ぎにはまだ気付いていないのか、至って普通の様子で彼は話し掛けると、そこに見覚えのある顔を見付けて、
「やあ」
 と言った。しかしこんな状況では、どう返して良いか困ってしまう伸。そして秀もまた、何故征士が伸に声を掛けるのかと、不思議そうな表情に変えて黙り込んだ。この場に於いて、気にせず話が出来たのは当麻だけだった。
「呑気に冗談言ってる場合じゃないな。また始まってるぞ」
 そう、まずそれを伝えなければならなかった。騒ぎの周囲を取り囲む者達は、自身とは関係のない喧嘩を笑い話のように、いい加減に捉えている野次馬ばかりだろう。或いは、華やかな人物を妬む気持のある者には、格好の憂さ晴らし的エンターテイメントだろう。目立つ人間には彼等なりの苦悩がある。当事者の持つ真実は無視されて、話題提供者としてだけ「伊達征士」が存在するこの中庭。
 幾ら慣れっこになっている征士でも、無視して通り過ぎはしないだろうと当麻は思う。
 そして当麻が指差した先の騒ぎを見ると、途端に征士はその傍へと駆け寄って行った。
 駆け寄って、人垣の隙間から見えたのは、案の定去年と今年のミス千石。案の定と言うのは、彼女等がやり合うのはこれが初めてではないからだ。しかもつい最近に、怪我だの器物破損だのと、不穏な騒ぎに発展した喧嘩があったばかりだった。
 ふたり共、公私共に優秀な人物だけにプライドも高いのだと思う。自ら引くに引けないからぶつかり合う。そして征士はどちらとも選べないでいた。双方の立場を考えての配慮だったが。
「いい加減にしてくれ!、私に恥をかかせたいのか!?」
 けれどこう度々注目を浴びる騒ぎになっては、流石に征士の堪忍袋も緒が切れた。
「そういう話じゃないわ!、口を出さないで!」
「元はと言えばあなたが原因でしょう!?、人事みたいに言わないでよ!!」
 当然のように抗議の怒号を返す女達。辺りからは冷やかしの口笛まで聞こえる。
「聞いた?、この人はいつもこういう態度なのよ!、自分を正当化することばっかり!」
「何良い子ぶってんのよ!、あんたさっきまで何て言ってた!?」
「彼に文句があるなら身を引くのが筋だと言ったのよ!」
「あんたに何が分かるの?、世間知らずのお嬢のくせに!」
 贔屓目に解釈しても醜い女の争いだった。こんな様子を見たことのない高校生達は、嫌が応にも畏縮させられてしまう。
「恐ええなぁ…」
「・・・・・・・・」
 こんな気の強そうな女性達の、相手をするだけでも疲れそうに思えたが、こんなに激しい感情の飛び交う様を、果たして征士はどう片付けるつもりなのか。と、伸が固唾を呑んで見ている中、結局征士は最悪な選択をするしかなくなっていた。本当は、もう前から考えていた答だったかも知れないけれど。
「…もういい、もうどちらとも付き合わない。こんな騒ぎばかり起こされては迷惑だ」
 こんな形で終わりにしたい訳ではなかったけれど。
「ちょっと…」
「何よ、何よそれ…!」
 途端に動揺の声色が聞こえた。
 当事者のふたりだけでなく、周囲の者にも密かなざわめきが起こる。面白がって騒いでいる場合ではない、と誰もが突然気付かされたようだった。元々どちらの女性にしても、征士が自主的に付き合い始めた訳ではなく、彼の意向に拠ってはどうにでも処理される、弱味を持って過ごしていた筈なのだ。彼女等の必死さを煽って面白がっていた、野次馬達は言わば最大の戦犯だった。
 しかし気付いたところでもう遅い。
「君達にはもう関心がないと言う意味だ」
 征士は酷く冷たい言葉を吐いた。それが真意なのか、綺麗に決別する為にそう言ったのかは判らないが、誰の耳にも残酷な響きを与えたのは確かだ。
「そんな、」
「勝手なこと言わないでよ…!」
 既に踵を返してしまった征士に、追い縋るような声を発した主の気持は、誰にも容易に想像できるものだった。顔色ひとつ変えずに悪役を演じ切れば、後腐れなく別れられるのは確かだろうが、実際そうできる者は少ない。だから征士と言う人は特殊な存在だった。
 決して悪人ではない筈なのに、容赦のない冷徹さも人を惹き付けて輝く。
「…ひっでー奴ぅ…」
 秀はやや感情的な言葉で、その遣り切れない感覚を表現していたが、伸にはそれもまた、捉え切れない全体の内のほんの一部に思えて、増々解らなくなって行くばかりだった。
『酷いとか、端的なことじゃなくて、何か変だと思わないのかな?。それとも…』
 征士に取ってそもそも付き合いとは何なのか、解らないから狼狽えていた。
 やって来た時とは違う気を漂わせながら、征士は三人が居る中庭の入口へと戻って来た。恐らく征士に取っても、すっきりしたと言う心境ではないのだろう。怒っている風でもないが、強張った難しい表情が遠目にも判る。声が聞こえる程度の距離に近付いたところで、
「おい。一言言わしてもらっていいか?」
 当麻は先にそう声を掛けたが、
「私は悪くない!」
 たたみ掛けるように返して、征士はその後を続けさせなかった。
『学生同士の恋愛なんて、ただの遊びだと思ってるとしても…』
 頑にも思える態度の彼を見て、伸がそんな淋しいことを考えていると、不安気な顔で見詰めるふたつの瞳に気付いて、征士は伸の方へと歩く向きを修正する。今、晴天の霹靂と言える災難に見舞われたばかりだが、嫌な気分をすぐに断ち切れるなら征士には幸いだった。偶然ここに伸が居合わせたのは、正に天の恵みのように征士には感じられている。
 即ち、主張が強過ぎる環境から離れられそうだ、と言う予感。否、これまでは来る者拒まずで、主張する者は皆自分の仲間のように考え、それぞれの独立した個性を尊敬もしていたけれど。結局いつの時も、似た者同士が張り合うような緊張感が出来上がって、心は安らげないで居たのだ。人には華やかで楽し気な交友関係に見えても、事実は単純明解な状態ではなかったと言うこと。
 人に関して、受動に徹したことでの失敗だった。
 だから征士は、今度は自ら主張しない方を選択したのかも知れない。それが誤りの後の正しい答だと考えて。
 ところが、伸は彼に取られた手を怯えるように解いて言った。
「悪いと思う…僕は。だって可哀想だよ、彼女達…」
 思わぬ答が返って来た。又は、ふたりが何故こんな会話をするのか解らない。
 それぞれの思いで征士、当麻、秀は固まってしまった。そして何に傷付けられたのか、伸は自分でも杳として知れない気持を抱え、泣きながら、逃げるようにその場を駆け出していた。ここに何をしに来たのか、その目的は充分過ぎる程に達したのだから、それで構わなかったかも知れない。否、冷静にそう考えられた訳はないけれど。



つづく





コメント)何か女性キャラが可哀想な感じですが、続きを読むとそうでもないと思います(笑)。取り敢えず次へ。


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